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浅野あさの

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浅野あさの
家紋
浅野あさのちがたかあさの ちがい たかのは
本姓ほんせい しょう清和せいわはじめ土岐ときりゅう
いえ しょう土岐ときひかりとき
種別しゅべつ 武家ぶけ
華族かぞく侯爵こうしゃく
出身しゅっしん 美濃みのこく土岐ときぐん浅野あさのむら?
尾張おわりこく丹羽たんばぐん浅野あさのむら?
おも根拠地こんきょち 美濃みのこく
尾張おわりこく
紀伊きいこく
安芸あきこく
東京とうきょう本郷ほんごう
著名ちょめい人物じんぶつ 浅野あさの長政ながまさ
浅野あさの長矩ながのり浅野内匠頭あさのたくみのかみ
支流しりゅう分家ぶんけ 浅野あさの別家べっけ長重ながしげりゅう赤穂あこうはん藩主はんしゅのち旗本はたもと[1]
浅野あさの分家ぶんけ長治ながはるりゅうさん藩主はんしゅ[2]
ちょうけんりゅう広島ひろしま新田にった藩主はんしゅ
ちょうただしりゅう武家ぶけ華族かぞく男爵だんしゃく))
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

浅野あさの(あさのし、きゅう字体じたい淺野あさの)は、武家ぶけ華族かぞくだった日本にっぽん氏族しぞく関白かんぱく豊臣とよとみ秀吉ひでよし正室せいしつ北政所きたのまんどころ養家ようかだったいえ浅野あさの長吉ちょうきち長政ながまさ秀吉ひでよしした大名だいみょうとして台頭たいとう宗家そうけ江戸えど時代じだい安芸あき広島ひろしまはん(はじめ紀伊きい和歌山わかやまはんおもとなり、分家ぶんけさんはん広島ひろしま新田にったはんおも別家べっけ[3]播磨はりま赤穂あこうはんおも(はじめ常陸ひたち笠間かさまはんおも)があった。赤穂あこう浅野あさの忠臣蔵ちゅうしんぐら有名ゆうめいである。明治維新めいじいしん宗家そうけ華族かぞく侯爵こうしゃくいえれっする[4]つうは「なが」(広島ひろしまはんは「あきら」も使用しよう)。家紋かもんは「ちがたか」であるが、宗家そうけのみ、はね渦巻うずまきがはいった「げいしゅうたか」という家紋かもん使つかう。

出自しゅつじ血統けっとう

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によれば、清和せいわはじめ源頼光みなもとのよりみつまご光信みつのぶは、美濃みのこく土岐ときぐんんで土岐ときしょうした。

その曾孫そうそん土岐とき光行みつゆきどうぐん浅野あさのむら居住きょじゅうして浅野あさの判官ほうがんしょうし、その子孫しそんおとうとひかり浅野あさのしょうするようになったという[5]

寛永かんえいおさむ諸家しょか系図けいずでん』では、広島ひろしま藩主はんしゅ浅野あさのひかり子孫しそんであるとしているが、信憑しんぴょうせい不明ふめい[5]

宗家そうけ

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戦国せんごくから安土あづち桃山ももやま

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寛永かんえいおさむ諸家しょか系図けいずでん』によれば、浅野あさの尾張おわりこく丹羽たんばぐん浅野あさのそう本拠ほんきょとしており、浅野あさのちょうかち織田おだ信長のぶながつかえ、はやくから秀吉ひでよしぞくしていたという[6]

尾張おわりこく春日井かすがいぐん北野きたの[7]宮後みやうしろじょうおも安井やすいしげるつぎとしてまれた浅野あさの長吉ちょうきち長政ながまさは、ちょうかち婿養子むこようしとなり[6]おなじく杉原すぎはらじょうから浅野あさの養子ようしされたおねとのちに関白かんぱくとなる木下きのした藤吉郎とうきちろう秀吉ひでよし)との婚姻こんいんによって、浅野あさの長政ながまさ秀吉ひでよし義理ぎり兄弟きょうだいとなった[6]長政ながまさ秀吉ひでよし信任しんにん大名だいみょう出世しゅっせし、豊臣とよとみ政権せいけんしたにおいて奉行ぶぎょう一員いちいんにんぜられた[6]

1583ねん近江おうみこくにおいて2まんせきあたえられてはじめて大名だいみょうとなり[5]、1587ねん九州きゅうしゅう征伐せいばつのち若狭わかさいちこくあたえられる[8]ぶんろくやくでは長政ながまさぐんかんとして朝鮮ちょうせんわたっており、その戦功せんこうで1593ねん長政ながまさ幸長よしなが父子ふし甲斐かいいちこく21まんせきあまり長政ながまさ5まん5000せき幸長よしなが16まんせき)があたえられた[8][9]

江戸えど時代じだい

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関ヶ原せきがはらたたかさい幸長よしなが徳川とくがわ家康いえやすこうげたことによって37まん6560せき紀伊きいこく和歌山わかやまうつりふうとなった[5][9]幸長よしながあと嫡男ちゃくなん長晟ながあきらいだ。1619ねん元和がんわ5ねん)に安芸あきこく広島ひろしまはんあるじ福島ふくしま正則まさのり無断むだん石垣いしがき修復しゅうふく工事こうじをしたとして改易かいえきになったのちわって長晟ながあきらが42まん6せんせき安芸あきこくにゅうふうした[10]以降いこう浅野あさの宗家そうけ安芸あきこくにおける領国りょうごく支配しはい明治維新めいじいしんまでつづいた[11]

幕末ばくまつ薩長さっちょう同盟どうめい成立せいりつすると浅野あさの広島ひろしまはんもこれにくわわって薩長さっちょうげいさんはん同盟どうめい締結ていけつ[12]倒幕とうばくった。その一方いっぽう徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかん建白けんぱくしょ提出ていしゅつするなどしたため、日和見ひよりみはん不信ふしんい、浅野あさのはその中枢ちゅうすうからは除外じょがいされるかたちとなった[13]

しかし戊辰戦争ぼしんせんそうでは官軍かんぐんとして奮戦ふんせんし、広島ひろしま藩士はんしから応変おうへんたい足軽あしがるじゅうたい庶民しょみん主力しゅりょくかみたいなどの広島ひろしまはんぐん会津あいづはんぐん仙台せんだいはんぐんとの交戦こうせん激戦げきせんひろげた。広島ひろしまはん戊辰戦争ぼしんせんそう出兵しゅっぺいすう2272にんのうち戦死せんし78にん戦傷せんしょう118にんした。戦死せんししゃなかには広島ひろしま護国ごこく神社じんじゃ祭神さいじんとなっているかみたいたい高間たかま省三しょうぞうもいる[14]はん所有しょゆうする汽船きせん出動しゅつどうし、まんねんごう達観たっかんごう奥州おうしゅう方面ほうめんへ、豊安とよやすごう蝦夷えぞ派遣はけんされた[14]

明治めいじ以降いこう

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浅野あさの官軍かんぐんへの貢献こうけんにより維新いしん1869ねん明治めいじ2ねん)には1まん5000せきしょうてんろく下賜かしされた。同年どうねん2がつちょういさお最後さいご藩主はんしゅ就任しゅうにんした[15]同年どうねん薩長さっちょう土肥どいよん藩主はんしゅ版籍はんせき奉還ほうかん建白けんぱくするとちょういさおつづいた。版籍はんせき奉還ほうかんにより6がつちょういさお広島ひろしまはんごと任命にんめいされ、1871ねん明治めいじ4ねん)の廃藩置県はいはんちけんまでつとめた[16][5]

1876ねん明治めいじ9ねん)にいえろくしょうてんろくえられたきむろく公債こうさいがく浅野本あさのほんは63まん5433えんで8だった(1島津しまつ公爵こうしゃく132まん2845えん、2前田まえだ侯爵こうしゃく119まん4077えん、3毛利もうり公爵こうしゃく110まん7755えん、4細川ほそかわ侯爵こうしゃく78まん280えん、5尾張おわり徳川とくがわ侯爵こうしゃく73まん8326えん、6紀州きしゅう徳川とくがわ侯爵こうしゃく70まん6110えん、7山内やまうち侯爵こうしゃく66まん8200えんぐ)[17]

1884ねん明治めいじ17ねん)の華族かぞくれい発布はっぷとともにきゅう大藩たいはん知事ちじきゅう広島ひろしまはんげんべいは25まん8370せきげんこめ15まんせき以上いじょう大藩たいはん該当がいとう)として侯爵こうしゃくれつした[18]。さらに1888ねん明治めいじ21ねん)には分家ぶんけ浅野あさのようちょう1900ねん明治めいじ33ねん)には一門いちもん家老がろうだった三原みはら浅野あさの浅野あさのただしじゅん東城とうじょう浅野あさの浅野あさの守夫もりお男爵だんしゃくれつした[19]

浅野あさのちょうくん侯爵こうしゃく華族かぞく銀行ぎんこうばれたじゅう銀行ぎんこう頭取とうどりつとめ、1896ねんには日本にっぽん鉄道てつどうかぶを10まん8318かぶ保有ほゆうして最大さいだい株主かぶぬしになっている(2三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ岩崎いわさき久弥ひさやの2まん5796かぶおおきくはなしている)[20]1898ねん明治めいじ31ねん)の高額こうがく所得しょとくしゃランキングで浅野あさの侯爵こうしゃくは11でランクインしている(きゅう武家ぶけ華族かぞくでは3前田まえだ侯爵こうしゃく、5島津しまつ公爵こうしゃく、7毛利もうり公爵こうしゃく、9紀州きしゅう徳川とくがわ侯爵こうしゃく、10高松たかまつ松平まつへい伯爵はくしゃくぐ)[21]

大正たいしょう12ねんにはちょういさお幕末ばくまつ維新いしん功績こうせきおよ公共こうきょう事業じぎょうへの功績こうせきから浅野あさの公爵こうしゃくに陞爵させるよう内閣ないかく総理そうり大臣だいじん山本やまもと権兵衛ごんべえ請願せいがんおこなわれているが、許可きょかとなっている[22]

浅野あさの侯爵こうしゃく邸宅ていたく昭和しょうわ前期ぜんきには東京とうきょう本郷ほんごう向ヶ丘むこうがおか弥生やよいにあった[23]

分家ぶんけ

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さん浅野あさの備後びんごさんはん) ※ 1720ねんとおる5ねん絶家ぜっけ
浅野あさの長晟ながあきら長子ちょうし浅野あさの長治ながはるとする。1632ねん寛永かんえい9ねん)、三次みつぎぐんめぐみぐんない5まんせきぶんされ、三次みつぎぐん居館きょかんてて支配しはいした。
3だいちょうけい1719ねんとおる4ねん)に死去しきょし、嗣のため所領しょりょう宗家そうけ返還へんかんされたが、ちょうけいおとうとちょうまことあらためて5まんせきぶんされた。しかし、翌年よくねんちょうまこと死去しきょしたため、絶家ぜっけとなった[12]
なお、赤穂あこう3だい藩主はんしゅ浅野内匠頭あさのたくみのかみ正室せいしつ阿久あくさと初代しょだい長治ながはるむすめである[12]
青山あおやま浅野あさの広島ひろしま新田にったはん
宗家そうけ5だい浅野あさのつなちょう三男さんなんちょうけんが、1730ねんとおる15ねん)にあに宗家そうけ6だい吉長よしながから3まんせきぶんされ分家ぶんけした。定府じょうふ江戸えど常駐じょうちゅう)の大名だいみょうとしてれっせられ[12]藩主はんしゅ江戸えど屋敷やしき所在地しょざいちから青山あおやま浅野あさの青山あおやま内証ないしょう分家ぶんけ)とばれた。
1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)6だいちょうきょう(のちの宗家そうけ13だいちょうくん)が宗家そうけいだため、翌年よくねん1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)にちょうあつし家督かとくぎ、翌年よくねん安芸あきこく帰郷ききょうして吉田よしだぐん吉田よしだぐん山城やましろあと山麓さんろくに「本館ほんかん」(吉田よしだ陣屋じんや)をてて居住きょじゅうした。1869ねん明治めいじ2ねん)に新田しんでんはん宗家そうけ併合へいごうした。[12]なお、そのさい当主とうしゅ華族かぞく地位ちい返上へんじょうしたため1884ねん明治めいじ17ねん)に華族かぞくれいさいには華族かぞくでなくなっていたのできゅう広島ひろしま新田にった藩主はんしゅ浅野あさのには叙爵じょしゃくがなかった[24]

別家べっけ

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赤穂あこう浅野あさの播磨はりまこく赤穂あこうはん) ※ 1701ねん元禄げんろく14ねん絶家ぜっけ
関ヶ原せきがはらたたか戦功せんこうげた浅野あさの長政ながまさは、隠居いんきょりょうとして常陸ひたち真壁まかべ筑波つくば5まんせき領地りょうちたが、1611ねん慶長けいちょう16ねん)9がつ7にち死去しきょし、三男さんなん長重ながしげ当時とうじ真岡もおかはんおも)がその隠居いんきょりょういだ。おおやけおさむによって真岡もおか真壁まかべわせてりょうしたが、1622ねん元和がんわ8ねん)に常陸ひたちこく笠間かさまうつりふう[12]ちょうただしだい播磨はりまこく赤穂あこう加西かさい加東かとう作用さようの4ぐん、53,500せきうつりふうされた。しかし3だい長矩ながのり内匠たくみあたま)のだいのとき、江戸城えどじょうないでの長矩ながのり吉良きら義央よしなかへの殿中でんちゅう刃傷にんじょう事件じけん改易かいえきとなり、『忠臣蔵ちゅうしんぐら』でられる赤穂あこう事件じけんきるきっかけとなった[12]
浅野あさの大学だいがく再興さいこう赤穂あこう浅野あさの) ※ 1986ねん昭和しょうわ61ねん絶家ぜっけ
その広島ひろしま浅野あさの宗家そうけにおあづけとなっていた浅野あさの長矩ながのりおとうと浅野あさの長広ながひろ宝永ほうえい6ねん(1709ねん)8がつ20日はつか将軍しょうぐん綱吉つなよし死去しきょともな大赦たいしゃゆるされ、宝永ほうえい7ねん(1710ねん)9がつ16にちあらためて安房あわこくあさえびすぐんたいらぐんに500せき所領しょりょうあたえられ、旗本はたもとふくした。またこれとはべつに、浅野あさの宗家そうけからも300せき支給しきゅうされつづけた。これにより、赤穂あこう浅野あさの旗本はたもとながら御家おいえ再興さいこうたした。
以降いこう旗本はたもととして存続そんぞくし、明治維新めいじいしんむかえた。維新いしん明治めいじ元年がんねん(1868ねん)9がつ23にちからは徳川とくがわ幕府ばくふ推挙すいきょにより、明治天皇めいじてんのうよりあらためてろくだか300ひょうたまわ[25]浅野あさの長栄ちょうえいわきまえかん支配しはいとされた。赤穂あこう浅野あさのは、長栄ちょうえいまごである長楽ながらだいまで存続そんぞくしたが、浅野あさの長楽ながら妻帯さいたいせぬまま、1986ねん昭和しょうわ61ねん)に病死びょうししたため、赤穂あこう浅野あさの断絶だんぜつした[26]
若狭野わかさの浅野あさの赤穂あこうぐん相生あいおいむら
赤穂あこう浅野あさの分家ぶんけ旗本はたもと浅野あさのちょうひさしが1671ねんあに長友ながともからさんせんせき分与ぶんよされて成立せいりつ
家原いえはら浅野あさの加東かとうぐん[27]家原いえはら
赤穂あこう浅野あさの分家ぶんけ旗本はたもと浅野あさのちょうけん同年どうねんおなじくさんせんひゃくせき分与ぶんよされて成立せいりつ

歴代れきだい当主とうしゅ

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浅野あさの宗家そうけ

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代数だいすう 肖像しょうぞう 名前なまえ
(なま没年ぼつねん)
続柄つづきがら 位階いかい 備考びこう 息子むすこ
浅野あさのちょうかちよりまえ伝説でんせつちか信憑しんぴょうせいがないため省略しょうりゃく
13 浅野あさのちょうかち
(?-1575ねん?)
14 浅野あさの長政ながまさ
(1547ねん-1611ねん)
先代せんだい養子ようし
(安井やすいしげるつぎ)
したがえよん
(1910ねんしたがえさん追贈ついぞう)
はつ浅野あさの長吉ちょうきち
豊臣とよとみ政権せいけん奉行ぶぎょう
常陸ひたち真壁まかべはんあるじ
浅野あさの幸長よしなが長男ちょうなん紀州きしゅう藩主はんしゅ
浅野あさの長晟ながあきら次男じなん広島ひろしま藩主はんしゅ
浅野あさの長重ながしげ三男さんなん真壁まかべ藩主はんしゅ笠間かさま藩主はんしゅ
15 浅野あさの幸長よしなが
(1576ねん-1613ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん
(1915ねんしたがえさん追贈ついぞう)
はつ浅野あさの長慶ちょうけい
紀伊きい和歌山わかやまはんあるじ
16 浅野あさの長晟ながあきら
(1586ねん-1632ねん)
先代せんだいおとうと
(浅野あさの長政ながまさ次男じなん)
したがえよん 紀伊きい和歌山わかやまはんあるじ
安芸あき広島ひろしまはんあるじ
浅野あさの長治ながはる(庶長子ちょうしさんはんおも
浅野あさのひかりあきら次男じなん広島ひろしま藩主はんしゅ
17 浅野あさのひかりあきら
(1617ねん-1693ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのつなあきら長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
浅野あさのちょうあきら三男さんなんさん藩主はんしゅ
18 浅野あさのつなあきら
(1637ねん-1673ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのつなちょう長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
浅野あさのちょうきよし次男じなんさん藩主はんしゅ
19 浅野あさのつなちょう
(1659ねん-1708ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさの吉長よしなが長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
浅野あさのちょうけん三男さんなん広島ひろしま新田にったはんおも
中川なかがわひさけい四男よつおおかはんおも
20 浅野あさの吉長よしなが
(1681ねん-1752ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのそうひさし長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
21 浅野あさのそうひさし
(1717ねん-1788ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのしげるあきら長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
水野みずのただしかなえ次男じなん唐津からつはんおも
浅野あさのちょういん三男さんなん広島ひろしま新田にった藩主はんしゅ
22 浅野あさのしげるあきら
(1743ねん-1814ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのひとしけん次男じなん広島ひろしま藩主はんしゅ
もりかいあつし三男さんなん三日月みかづきはんおも
浅野あさの忠順ただまさなななん三原みはら浅野あさの養子ようし
23 浅野あさのひとしけん
(1773ねん-1831ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのひとし長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
24 浅野あさのひとし
(1817ねん-1868ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ 浅野あさのけいおき長男ちょうなん広島ひろしま藩主はんしゅ
25 浅野あさのけいおき
(1836ねん-1858ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえよん 安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ
26 浅野あさのちょうさとし
(1812ねん-1872ねん)
先代せんだい養子ようし
(浅野あさのちょうなん)
したがえよん 名前なまえちょうさとししげちょうちょうさとし
広島ひろしま新田にった藩主はんしゅ安芸あき広島ひろしま藩主はんしゅ
浅野あさのちょういさお長男ちょうなん侯爵こうしゃく
27 浅野あさのちょういさお
(1842ねん-1937ねん)
先代せんだい養子ようし
(浅野あさの懋昭長男ちょうなん)
したがえいち 名前なまえちょうきょうしげくんちょういさお
広島ひろしま新田にった藩主はんしゅ広島ひろしま藩主はんしゅどうはんごと
ちゅうイタリア公使こうし
貴族きぞくいん議員ぎいん
侯爵こうしゃく
28 浅野あさのちょう
(1864ねん-1947ねん)
先代せんだい養子ようし
(浅野あさの懋績きゅうなん)
せいさん[23] みや内省ないせい官僚かんりょう
じゅう銀行ぎんこう取締とりしまり
貴族きぞくいん議員ぎいん
侯爵こうしゃく
浅野あさの長武ながたけ長男ちょうなん侯爵こうしゃく
大河内おおこうち輝信てるのぶ次男じなん
浅野あさのてつ三男さんなん男爵だんしゃく
29 浅野あさの長武ながたけ
(1895ねん-1964ねん)
先代せんだい長男ちょうなん 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんちょう
貴族きぞくいん議員ぎいん
侯爵こうしゃく
浅野あさのちょうあい長男ちょうなん
山階やましな芳正よしまさ次男じなん
30 浅野あさのちょうあい
(1927ねん-2007ねん)
先代せんだい長男ちょうなん 学習がくしゅういん高等こうとうちょうおよ中等ちゅうとうちょう
山階やましな鳥類ちょうるい研究所けんきゅうじょ理事りじちょう
浅野あさのちょうたかし長男ちょうなん
31 浅野あさのちょうたかし
(1956ねん-存命ぞんめいちゅう)
先代せんだい長男ちょうなん

赤穂あこう浅野あさの

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代数だいすう 肖像しょうぞう 名前なまえ
(なま没年ぼつねん)
続柄つづきがら 位階いかい 備考びこう 息子むすこ
1 浅野あさの長重ながしげ
(1588ねん-1632ねん)
浅野あさの長政ながまさ三男さんなん したがえ 常陸ひたち真壁まかべはんおも笠間かさまはんあるじ 浅野あさのちょうただし長男ちょうなん笠間かさま藩主はんしゅ赤穂あこう藩主はんしゅ
2 浅野あさのちょうただし
(1610ねん-1672ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえ 常陸ひたち笠間かさま藩主はんしゅ播磨はりま赤穂あこうはんあるじ 浅野あさの長友ながとも長男ちょうなん赤穂あこう藩主はんしゅ
浅野あさのちょうけん養子ようこ旗本はたもと
浅野あさのちょうひさし養子ようこ旗本はたもと
3 浅野あさの長友ながとも
(1643ねん-1675ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえ 播磨はりま赤穂あこう藩主はんしゅ 浅野あさの長矩ながのり長男ちょうなん赤穂あこう藩主はんしゅ
浅野あさの長広ながひろ次男じなん旗本はたもと
4 浅野あさの長矩ながのり
(1667ねん-1701ねん)
先代せんだい長男ちょうなん したがえ 播磨はりま赤穂あこう藩主はんしゅ
浅野あさの内匠たくみあたま
忠臣蔵ちゅうしんぐら著名ちょめい
5 浅野あさの長広ながひろ
(1670ねん-1734ねん)
先代せんだいおとうと
(浅野あさの長友ながとも次男じなん)
浅野あさの大学だいがく
旗本はたもと
浅野あさのちょうじゅん長男ちょうなん
6 浅野あさのちょうじゅん
(1707ねん-1754ねん)
先代せんだい長男ちょうなん[28] 旗本はたもと 浅野あさの長延ちょうえん長男ちょうなん
7 浅野あさの長延ちょうえん
(1736ねん-1792ねん)
先代せんだい長男ちょうなん[28] 旗本はたもと 浅野あさの長貞ながさだ長男ちょうなん
8 浅野あさの長貞ながさだ
(1747ねん-1808ねん)
先代せんだい長男ちょうなん[28] 旗本はたもと 浅野あさのちょうくに長男ちょうなん
9 浅野あさのちょうくに
(1776ねん-1852ねん)
先代せんだい長男ちょうなん[28] 旗本はたもと 浅野あさの長年ながとし長男ちょうなん
10 浅野あさの長年ながとし
(?-1863ねん)
先代せんだい長男ちょうなん[28] 旗本はたもと 浅野あさの長栄ちょうえい長男ちょうなん
11 浅野あさの長栄ちょうえい
(1839ねん-1889ねん)
先代せんだい長男ちょうなん[28] 旗本はたもと朝臣あそん 浅野あさの静子しずこむすめ
12 浅野あさの静子しずこ 先代せんだいむすめ[28] 浅野あさのただしげん息子むすこ
13 浅野あさのただしげん 先代せんだい息子むすこ[28] 浅野あさの長和おさわ息子むすこ
14 浅野あさの長和おさわ 先代せんだい息子むすこ[28] 浅野あさの長楽ながら息子むすこ
15 浅野あさの長楽ながら 先代せんだい息子むすこ[28]

さん浅野あさの

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代数だいすう 肖像しょうぞう 名前なまえ
(なま没年ぼつねん)
続柄つづきがら 位階いかい 備考びこう 息子むすこ
1 浅野あさの長治ながはる
(1614ねん-1675ねん)
浅野あさの長晟ながあきらの庶長子ちょうし したがえ 初代しょだいさん藩主はんしゅ
浅野あさのちょうなお
(1644ねん-1666ねん)
先代せんだいおい
浅野あさのひかりあきら次男じなん
したがえ さん藩主はんしゅ世嗣せいし相続そうぞく
2 浅野あさのちょうあきら
(1652ねん-1705ねん)
先代せんだいおい
浅野あさのひかりあきら三男さんなん
したがえ 2だいさん藩主はんしゅ
3 浅野あさのちょうきよし
(1671ねん-1718ねん)
先代せんだいおい
浅野あさのつなあきら次男じなん
したがえ 3だいさん藩主はんしゅ
4 浅野あさのちょうけい
(1709ねん-1719ねん)
先代せんだい三男さんなん 4だいさん藩主はんしゅ じょふう

系譜けいふ

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実線じっせん実子じっし点線てんせんたて)は養子ようし当主とうしゅ太字ふとじ点線てんせんよこ)は婚姻こんいん関係かんけいちょうまさる」までの系図けいず伝説でんせつちかきわめて信用しんようならない。
 
杉原すぎはら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かちぶくいん[29]
 
 
 
浅野あさのちょうかち
 
 
 
ななきょく殿どの家次いえつぐ朝日あさひ殿どの
 
 
 
てい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸説しょせつ3と4]
長生ちょうせいいん
 
 
 
長政ながまさ1通説つうせつ
長生ちょうせいいん
高台院こうだいいん木下きのした家定いえさだ高台院こうだいいん
 
 
 
豊臣とよとみ秀吉ひでよし長慶ちょうけいいん通説つうせつ
長生ちょうせいいん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幸長よしなが長晟ながあきら長重ながしげ
 
 
 
 
 
長晟ながあきらちょうただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひかりあきら長治ながはる長友ながともちょうけん[30]ちょうひさし[31]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ながなおちょうあきら長矩ながのり長広ながひろ長武ながたけ[32]ちょうゆたか大久保おおくぼただしだか富沢とみざわとし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つなあきらちょうあきらながなおちょうきよし長広ながひろながとき長根ながねちょう長寿ちょうじゅ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つなちょうちょうきよしちょうけいちょうまことちょうじゅんちょうたかし[33]ちょう[34]ちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉長よしなが中川なかがわひさけいちょうけんちょうまこと長延ちょうえん長貞ながさだ小川おがわ義長よしなが長谷川はせがわちょう長富ながとみ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そうひさしちょうたかし長貞ながさだ三枝さえぐさまもるはる依田よだ長房ながふさ松前まさきこうはいちょうやすし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
じゅうあきら水野みずのただしかなえ[35]ちょういんちょういんちょうひろしちょうくに長光ちょうこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとしけんもりかいあつしちょうちょうひろし長年ながねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとし懋昭懋績ちょうさとし長栄ちょうえい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
けいおき
 
 
ながこれちょうあつしちょういさお静子しずこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょうさとしちょういさお阿部あべただしやしなえちょうちょうあつしせいげん
 
 
 
 
 
ちょういさお[36]長和ながわ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ながこれ長道ながみち長楽ながら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長武ながたけ大河内おおこうち輝信てるのぶ
 
 
 
ちょうあい
 
 
 
ちょうたかし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1986ねん昭和しょうわ61ねん絶家ぜっけ
  2. ^ 1720ねんとおる5ねん絶家ぜっけ
  3. ^ 本家ほんけ知行ちぎょう分与ぶんよしたわけでないため別家べっけたる。宇和島うわじまたち鳥取とっとり池田いけだおなあつかい。
  4. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 322.
  5. ^ a b c d e 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『浅野あさの』 - コトバンク
  6. ^ a b c d 久下くげみのる 2021, p. 38.
  7. ^ 現在げんざい愛知あいちけんきた名古屋なごや
  8. ^ a b 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん浅野あさの』 - コトバンク
  9. ^ a b 新田にったかんさん 1984, p. 703.
  10. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『広島ひろしまはん』 - コトバンク
  11. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 704-707.
  12. ^ a b c d e f g 二木ふたき謙一けんいち監修かんしゅう工藤くどうひろしただしへんくにべつ はん城下町じょうかまち辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん2004ねんISBN 4-490-10651-3
  13. ^ はんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん広島ひろしまはん』 - コトバンク
  14. ^ a b 久下くげみのる 2021, p. 196.
  15. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 707.
  16. ^ 久下くげみのる 2021, p. 197.
  17. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 62.
  18. ^ 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 110.
  19. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 344/351.
  20. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 97.
  21. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 64.
  22. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 52.
  23. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 36.
  24. ^ 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 66.
  25. ^ ひやこうくん伝記でんき 播磨はりま赤穂あこう浅野あさの
  26. ^ 泉岳寺せんがくじ浅野あさの墓碑ぼひ
  27. ^ 古代こだい賀茂かもぐん加茂かもぐん)が加東かとうぐん加西かさいぐん分割ぶんかつして発足ほっそく
  28. ^ a b c d e f g h i j 斎藤さいとうしげる 1975, pp. 110.
  29. ^ 樋口ひぐち美濃みのまもるむすめ
  30. ^ 交代こうたい寄合よりあい竹谷たけたに松平まつへい当主とうしゅ松平まつだいらきよしあきら末子まっし
  31. ^ 赤穂あこうはん重臣じゅうしん大石おおいし良重よしえ長男ちょうなん
  32. ^ 赤穂あこうはん重臣じゅうしん大石おおいし良重よしえ次男じなん浅野あさのちょうひさし実弟じってい
  33. ^ やぶただしどおり三男さんなん
  34. ^ ほりただし堯の三男さんなん
  35. ^ 水野みずの忠邦ただくに祖父そふ
  36. ^ 広島ひろしま新田にったはん家督かとく相続そうぞく宗家そうけ相続そうぞく

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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