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浅野 長訓(あさの ながみち)は、江戸時代後期の大名。安芸国広島新田藩5代藩主、のち広島藩11代藩主。官位は従四位下・侍従、安芸守、左少将。浅野家26代当主。
浅野家分家・浅野長懋の5男として誕生した[1]。幼名は千之助、為五郎。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野 茂長(もちなが)を名乗った。号は節山。
文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下・美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩主・浅野慶熾の死去に伴い、その跡を継ぐ(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。翌年2月7日、従四位下・侍従に任官し、14代将軍徳川家茂の偏諱を与えられて茂長と改名する。万延元年(1860年)12月16日、左少将に任官した。
第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征討が勃発した際は停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。
明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗家の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所は広島県広島市の神田山墓地。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
- ^ 『官報』第5717号「叙任及辞令」1902年7月25日。
浅野氏青山浅野家5 代当主(1824 年 - 1858 年)/ 宗家26 代当主(1858 年 - 1869 年) |
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