浅野あさのしげるあきら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
浅野あさの しげるあきら
浅野あさのしげるあきらぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん ひろし3ねん10月13にち1743ねん12月2にち
死没しぼつ 文化ぶんか10ねんうるう11月13にち1814ねん1がつ4にち
戒名かいみょう きょうあきらいん殿どの鸞臺しゅとくだい居士こじ
官位かんい したがえよんひだり近衛このえけん少将しょうしょう安芸あきまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家治いえはる家斉いえなり
はん 安芸あき広島ひろしまはんあるじ
氏族しぞく 浅野あさの
父母ちちはは ちち浅野あさのそうひさしはは和泉いずみ
兄弟きょうだい じゅうあきら水野みずのただしかなえちょういんちょうつつみ松平まつだいらじょういさお正室せいしつ
つま 正室せいしつ徳川とくがわ宗勝むねかつの5じょくにひめ
継室けいしつ徳川とくがわ宗勝むねかつの9じょひめ
ひとしけんもりかいあつしちょう忠順ただまさ光樹こうきいん伊東いとうゆうみんしつ浅野あさのちょうひろししつ秋元あきもとともあさ正室せいしつ勝子かつこ小笠原おがさわらちょうよう正室せいしつ
テンプレートを表示ひょうじ

浅野あさの しげるあきら(あさの しげあきら)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうきから後期こうき大名だいみょう安芸あきこく広島ひろしまはんだい7だい藩主はんしゅ浅野あさの22だい当主とうしゅだい6だい藩主はんしゅ浅野あさのそうひさし長男ちょうなん将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげからのへんいみな(「じゅう」の)と、初代しょだい長晟ながあきら・2だいひかりあきら・3だいつなあきらの3めいもちいたつうの「あきら」により、じゅうあきら名乗なのる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

たかられき7ねん1757ねん)2がつ15にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげ拝謁はいえつする。たかられき8ねん1758ねん)11月28にち元服げんぷく将軍しょうぐん家重いえしげからへんいみなさずかる。したがえよん上総かずさまもる任官にんかんする。たかられき13ねん1763ねん)2がつ21にち家督かとく相続そうぞくする。同年どうねん3がつ1にち通称つうしょう安芸あきまもるあらためる。同年どうねん4がつ15にち、おくにりの許可きょかる。明和めいわ元年がんねん12がつ18にち1765ねん)、侍従じじゅう任官にんかんする。寛政かんせい2ねん1790ねん)11月27にちひだり少将しょうしょう任官にんかんする。寛政かんせい11ねん1799ねん)8がつ21にち隠居いんきょして次男じなんひとしけん家督かとくゆずり、通称つうしょう備後びんごもりあらためた。

事績じせき[編集へんしゅう]

  • はん財政ざいせいなおすとともに、しゃくらほうによる救荒きゅうこうさくきぬあぶらなどの国産こくさん振興しんこうさくをすすめた。
  • 学問がくもんちかられており[1]経費けいひ削減さくげんのため休止きゅうししていた藩校はんこう再興さいこうするため、「学問がくもんしょ」を開設かいせつし、よりゆき春水しゅんすいらを教授きょうじゅとして登用とうようした。またみずからも毎月まいつき3かいここで論語ろんごなどをこうじた[2]。この学問がくもんしょ明治めいじに「修道しゅうどうかん」となり、現在げんざい修道しゅうどう中学校ちゅうがっこう修道しゅうどう高等こうとう学校がっこうとしてつづいている[3]
  • 京都きょうとから庭師にわし招聘しょうへいし、庭園ていえん泉水せんすい屋敷やしき」(現在げんざいちぢみけいえん)のだい規模きぼ改修かいしゅうおこなった。この改修かいしゅうにより庭園ていえんはほぼ現状げんじょうちかいものとなった。
  • 水主みずしまちあらたに中屋敷なかやしき水主みずしまち屋敷やしき)を造営ぞうえいし、藩政はんせい拠点きょてんとした。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 25ぺーじ
  2. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181266 しょう鷹狩たかがりもと凱「もと凱十ちょ」19ぺーじ
  3. ^ 修道しゅうどう中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう沿革えんかく