瑤泉院ようせんいん

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瑤泉院ようせんいん(ようぜんいん、のべたから2ねん1674ねん) - 正徳まさのり4ねん6月3にち1714ねん7がつ14にち)、生年せいねんについては異説いせつも)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき女性じょせい赤穂あこう事件じけんられる赤穂あこうはんあるじ浅野あさの長矩ながのり正室せいしつ阿久あくさと(あぐり/おくり)、阿久あくさとし阿久あくとしとも。

おっと死後しご落飾らくしょくして瑤泉院ようせんいんしょうした。「ようぜいいん」とまれることがおおいが、これは冷泉れいせんの「いずみ」を「ぜい」とむことにつられたくせ誤読ごどく)で、まさしくは「ようぜんいん」とむ。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

生誕せいたん現在げんざい氷川神社ひかわじんじゃ)。当時とうじ神社じんじゃがまだ建造けんぞうされてない。

初代しょだい備後びんごこくさんはんおも浅野あさの長治ながはるさんじょちち死後しご、そのあといだ浅野あさのちょうあきら養女ようじょとなった。はは俗説ぞくせつでは浅野あさの長重ながしげ浅野あさの長矩ながのり祖父そふ)のむすめつたわるが年齢ねんれいてき無理むりがある(銅像どうぞうのあるおおとりはじめてらでは長治ながはる側室そくしつ・おいしほうとしている)。はじめなおひめづけられたが、のちにぐりひめ阿久あくさとひめ改名かいめいした。さん藩士はんし落合おちあい勝信かつのぶがおきの用人ようにんとしてけられ、彼女かのじょ養育よういくたった。

まれてすぐに播磨はりまこく赤穂あこう藩主はんしゅ浅野あさの長矩ながのりとの縁組えんぐみすすめられ、のべたから5ねん9がつ(1677ねん10がつ)に婚約こんやく成立せいりつのべたから6ねん4がつ9にち(1678ねん5がつ29にち)には婚儀こんぎそなえて長矩ながのり屋敷やしきうつった。天和てんわ3ねん正月しょうがつ(1683ねん2がつ)に婚儀こんぎおこなわれて同年どうねん4がつ9にち(5がつ5にち)に正式せいしき長矩ながのりしつとなった。にはめぐまれず元禄げんろく8ねん12月(1696ねん1がつ)に長矩ながのりおとうと浅野あさの長広ながひろ養子ようしとしていた。

しかし元禄げんろく14ねん3がつ14にち(1701ねん4がつ21にち)、長矩ながのり江戸城えどじょう殿中でんちゅう高家こうか肝煎きもいり吉良きら義央よしなか上野うえのかい刃傷にんじょうおよぶと、殿中でんちゅう抜刀ばっとうつみにより即日そくじつ切腹せっぷく赤穂あこうはん改易かいえきとなる。阿久あくさとは16にちには赤坂あかさかにある実家じっかさん浅野あさの下屋敷しもやしきられた。泉岳寺せんがくじにおける長矩ながのり葬儀そうぎには参列さんれつしていないが、落飾らくしょくして寿ことぶきあきらいんしょうした[1]。これはかつらあきらいんはばかるべしと、広島ひろしま宗家そうけ浅野あさのつなちょうから叱責しっせきされ瑤泉院ようせんいんあらためた[2]

瑤泉院ようせんいん化粧けしょうりょう持参じさんきんせんりょう赤穂あこう浜方はまかた塩田しおだ業者ぎょうしゃ)にけていたが(塩田えんでんからがった運上うんじょうぎんから利息りそく)、長矩ながのりったぬし大半たいはん元金がんきんたおしたため、うちろくひゃくきゅうじゅうりょうのみ回収かいしゅうした[3]

もと赤穂あこうはん家老がろう大石おおいし良雄よしおらが吉良きらていりを決定けっていすると、瑤泉院ようせんいんはこのろくひゃくきゅうじゅうりょう大石おおいしたくした。武林たけばやし隆重たかしげ吉良きら斬殺ざんさつ赤穂あこう義士ぎし切腹せっぷくとなったのちは、義士ぎし葬儀そうぎにも参列さんれつせず、泉岳寺せんがくじにももうでていない。のち日蓮宗にちれんしゅう改宗かいしゅうし、四谷よつやさめかわきょう妙行寺みょうこうじ度々どど参拝さんぱいした。どうてら高光たかみついんよし祖母そぼ丹羽にわ長重ながしげむすめ)のはか永代えいたい供養くようもしている[4]浅草あさくさけいしるしてらでも題目だいもくじゅうまんへんとなえて[5]

正徳しょうとく4ねん(1714ねん)、さん浅野あさの下屋敷しもやしき死去しきょ享年きょうねん41。おっとおな江戸えど高輪たかなわ泉岳寺せんがくじほうむられた。戒名かいみょう瑤泉院ようせんいん殿どのりょう瑩正きよし大姉だいしまれ故郷こきょうさんおおとりはじめてらに、瑤泉院ようせんいん供養くようした五輪ごりん遺髪いはつとうがある[6]

創作そうさくにおける「南部なんぶざかゆきわかれ」[編集へんしゅう]

今日きょう南部なんぶざか

瑤泉院ようせんいん浅野あさの長矩ながのり切腹せっぷく以降いこう実家じっか備後びんごさんはんさん浅野あさの藩邸はんていられていたが、 直前ちょくぜん赤穂あこうはん家老がろう大石おおいし良雄よしお赤坂あかさか南部なんぶざか瑤泉院ようせんいんのもとにおもむくという「南部なんぶざかゆきわか」は、講談こうだん人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶきなどの元禄げんろく赤穂あこう事件じけん題材だいざいにした創作そうさく作品さくひんによくえがかれるシーンだが、事実じじつではない。

浅野あさの改易かいえき大石おおいし南部なんぶざか麻布まふ今井いまいまち)で瑤泉院ようせんいん拝謁はいえつしたのは、りからだいぶまえ元禄げんろく14ねん11月14にち(1701ねん12月13にち)であるとするせつもある。これは『忠誠ちゅうせいかんろく』にあるはなしだが、後述こうじゅつのように当日とうじつ時点じてんでは当地とうち大名だいみょう屋敷やしき撤去てっきょされ、更地さらちになっており瑤泉院ようせんいんうのは不可能ふかのうである。

史実しじつでは、大石おおいし瑤泉院ようせんいん結婚けっこん持参じさんきん前項ぜんこうの「化粧けしょうりょう」のこと)を、浅野あさの家名かめい再興さいこう討入うちいりの運動うんどう資金しきんとして使用しようし、11月29にちけの書状しょじょうえてその収支しゅうし決算けっさんしょ瑤泉院ようせんいん用人ようにん落合おちあい勝信かつのぶ提出ていしゅつしている。

前夜ぜんやにこれらの書類しょるい大石おおいし良雄よしおいのちとどけたのは、後世こうせいに「義僕ぎぼく」とばれた近松ちかまつ行重ゆきしげ家僕かぼくの甚さんろうである。

また、赤穂あこう浪士ろうし遺児いじたちのうち、伊豆いず大島おおしまながされた吉田よしだつたえない間瀬ませ定八さだはち中村なかむら忠三郎ちゅうざぶろう村松むらまつまさしみぎ衛門えもん赦免しゃめん運動うんどうにも尽力じんりょくし、宝永ほうえい3ねん8がつ(1706ねん9がつ将軍しょうぐん家綱いえつなじゅうなな回忌かいき前年ぜんねん病死びょうしした間瀬ませのぞく3めい恩赦おんしゃ実現じつげんさせたとするはなしがドラマや小説しょうせつにある。しかし、浅野あさのさんはんまくかく泉岳寺せんがくじなどの史料しりょうでは瑶泉院ようせんいん運動うんどうしたという痕跡こんせき確認かくにんできない。うちでんない赦免しゃめん出家しゅっけして、めぐみがくのちたちげん名乗なの各地かくち放浪ほうろうした。

歌舞伎かぶきじゅうよん忠臣蔵ちゅうしんぐら」では、瑤泉院ようせんいん長矩ながのり位牌いはい大石おおいし良雄よしおをさんざんなぐる。「尾上おがみ松之助まつのすけ忠臣蔵ちゅうしんぐら」でも扇子せんす大石おおいしなんたたいている。

史実しじつでのさん藩邸はんてい場所ばしょ[編集へんしゅう]

  • さんはん藩邸はんてい南部なんぶざかにはい。当時とうじ笠間かさまはん(そのまえ盛岡もりおかはん南部なんぶざか由来ゆらい以来いらいあった南部なんぶざか大名だいみょう屋敷やしき更地さらちになっている[7]
  • 瑤泉院ようせんいんさんはん浅野あさの藩邸はんてい赤坂あかさかほん氷川ひかわざか現在げんざい南部なんぶざか頂上ちょうじょう付近ふきん左折させつしてふたさかのぼったほん氷川ひかわざか東側ひがしがわひがしから「南部なんぶざか」「氷川ひかわざか」「ほん氷川ひかわざか」。現在げんざい氷川神社ひかわじんじゃ[8]うら相当そうとうする)[9]

人物じんぶつ性格せいかくなど[編集へんしゅう]

  • 気性きしょうがかなりはげしく、刃傷にんじょう事件じけん狼狽ろうばいしている浅野あさの長広ながひろきびしくとがめている[10]。また、長広ながひろ正室せいしつ折伏しゃくぶくして法華ほっけ帰依きえさせている。このためはちすこういん長広ながひろ夫人ふじん)のはかおっと長広ながひろとはわかれて妙行寺みょうこうじにある[11]

生年せいねん母親ははおやかんする異説いせつ[編集へんしゅう]

瑤泉院ようせんいん生年せいねん享年きょうねんについては『赤穂あこう義士ぎし事典じてん』の「浅野あさの長矩ながのり年譜ねんぷ」、平尾ひらお孤城こじょう人間にんげん赤穂あこう浪士ろうし』、また瑤泉院ようせんいん墓所はかしょ泉岳寺せんがくじ享年きょうねん41せつで、のべたから2ねんまれということが定説ていせつとなっている。

これにたいし、赤穂あこう大石おおいし神社じんじゃ宮司ぐうじつとめ、 赤穂あこう義士ぎし研究けんきゅうしゃでもあった飯尾いいおきよし異説いせつ紹介しょうかいしている。飯尾いいおによると、ぜん浅野あさの記録きろくで、浅野あさの宗家そうけつたわる「さん分家ぶんけずみろく」では瑤泉院ようせんいん寛文ひろふみ9ねん(1669ねんまれであるという[12]

これがただしいとすれば、瑤泉院ようせんいん享年きょうねんは46で、おっと長矩ながのりとは2さいちがいである。義士ぎし研究けんきゅう団体だんたい中央ちゅうおう義士ぎしかい』もこのせつ踏襲とうしゅうしている[13]

また、浅野あさの長重ながしげ寛永かんえい9ねん(1632ねん)にぼっしており、かり長重ながしげむすめ没年ぼつねんまれたとしても、彼女かのじょのべたから2ねん(1674ねんまれの瑤泉院ようせんいんははとするなら、わかくても42さい以上いじょう瑤泉院ようせんいんんだことになる。のべたから3ねん(1675ねん)にくなるちち長治ながはるは60さい。そのためおおとりはじめてらでは長重ながしげむすめ母親ははおやではない(母親ははおや側室そくしつ・おいしほう)とする。

瑤泉院ようせんいん登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

ドラマ[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 赤穂あこうだい2かん昭和しょうわ58ねん赤穂あこうかん
  2. ^ 赤穂あこう大石おおいし神社じんじゃ宮司ぐうじ飯尾いいおきよし忠臣蔵ちゅうしんぐら真相しんそう』177p
  3. ^ 中島なかじま康夫やすお大石おおいし内蔵助くらのすけ生涯しょうがい しんせつ忠臣蔵ちゅうしんぐら』60p(中央ちゅうおう義士ぎしかい
  4. ^ 伊藤いとうさかえひろし堀切ほりきり康司こうじ ちょ豊島としま区史くしあと散歩さんぽ (東京とうきょう史跡しせきガイド16)』学生がくせいしゃ、1994ねん、54-56p
  5. ^ 三田村鳶魚みたむらえんぎょよこから赤穂あこう義士ぎし』320p「後室こうしつ瑤泉院ようせんいん
  6. ^ 赤穂あこうみんほう瑤泉院ようせんいんのふるさとで義士ぎしさい」2013ねん12月09にち
  7. ^ 宝永ほうえいよんねん江戸えどぜん』(国会図書館こっかいとしょかんぞう)でも空白くうはくなにえがかれていない。
  8. ^ 氷川神社ひかわじんじゃ造営ぞうえいとおる15ねん(1730ねん)で、さんはんはいはんとおる5ねん(1720ねん)5がつ)よりのちであり当時とうじ存在そんざいしていない。
  9. ^ 元禄げんろくじゅうねんぶんあいだ江戸えど』に「アサノしきブ(浅野あさのちょうあきら)」とある
  10. ^ 山本やまもと敦司あつし中野元なかのもと教科書きょうかしょおしえない忠臣蔵ちゅうしんぐら』202p
  11. ^ 伊藤いとうさかえひろし堀切ほりきり康司こうじ豊島としま区史くしあと散歩さんぽ (東京とうきょう史跡しせきガイド16)』学生がくせいしゃ、1994ねん、54-56p
  12. ^ 忠臣蔵ちゅうしんぐら真相しんそう飯尾いいおきよし ちょ、1988ねん
  13. ^ 忠臣蔵ちゅうしんぐらよんじゅうなな義士ぎしぜん名鑑めいかん完全かんぜんばん)』 財団ざいだんほう 中央ちゅうおう義士ぎしかい 特別とくべつ監修かんしゅう、2007ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]