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平城京へいじょうきょう

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平城京へいじょうきょう復元ふくげん模型もけい奈良なら市役所しやくしょ展示てんじぶつ)。南側みなみがわから

平城京へいじょうきょう(へいじょうきょう/へいぜいきょう/ならのみやこ)は、奈良なら時代じだい日本にっぽん首都しゅと710ねん藤原ふじわらきょうから遷都せんとするにあたり、とう長安ながやすじょう模倣もほうして大和やまとこく建造けんぞうされた都城みやこのじょう現在げんざい奈良ならけん奈良なら大和郡山やまとこおりやま存在そんざいする。

中央ちゅうおうきたいき宮城みやぎ平城ひらじろみや大内裏だいだいり)をき、東西とうざい8ぼう (やく 4.3 km) の面積めんせきをもち、中央ちゅうおう南北なんぼくはし朱雀すざく大路おおじによって左京さきょう右京うきょう二分にぶんされ、さらに南北なんぼく東西とうざい大路おおじ小路こうじによって碁盤ごばんのように整然せいぜん区画くかくされ、全域ぜんいきが72ぼう区画くかく設定せっていされていた。

大阪おおさかわん淡路島あわじしま八島やじまのひとつ)にもちか奈良盆地ならぼんち奈良ならけん奈良なら西部せいぶ一部いちぶ中心ちゅうしんおよ大和郡山やまとこおりやま北部ほくぶ)には、5世紀せいき中頃なかごろにはすでに天皇陵てんのうりょうである佐紀さきたてれつ古墳こふんぐんつくられ、またのちには大神神社おおみわじんじゃ、7世紀せいきには興福寺こうふくじ建立こんりゅうされているが、きょうとなった8世紀せいきには、東大寺とうだいじ巨大きょだい仏像ぶつぞうである東大寺とうだいじ盧舎那仏るしゃなぶつぞう法華寺ほっけじなどが建立こんりゅうされた。本州ほんしゅう政治せいじ文化ぶんか中心ちゅうしんとなるにいたってそときょう(げきょう)に位置いちした門前もんぜまちが、いまつづ奈良ならまち形成けいせいする中心ちゅうしんとなった。

歴史れきし

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藤原ふじわらきょうから平城京へいじょうきょうへの遷都せんと文武ぶんぶ天皇てんのう在世ざいせいちゅうけいくも4ねん707ねん)に審議しんぎはじまり、和銅わどう元年がんねん708ねん)には元明もとあき天皇てんのうにより遷都せんとみことのりされた。しかし、和銅わどう3ねん710ねん3がつ10日とおか (旧暦きゅうれき)遷都せんとされたときには、内裏だいり大極殿たいきょくでん、その官舎かんしゃ整備せいびされた程度ていどかんがえられており[注釈ちゅうしゃく 1]寺院じいん邸宅ていたくは、山城やましろこく長岡京ながおかきょう遷都せんとするまでのあいだに、段階だんかいてき造営ぞうえいされていったとかんがえられている。きょうひとしきょう難波なんばきょうへの遷都せんとによって平城京へいじょうきょう一時いちじてき放棄ほうきされるが、745ねん天平てんぴょう17ねん)には、ふたた平城京へいじょうきょう遷都せんとされ、その784ねんのべれき3ねん)、長岡京ながおかきょう遷都せんとされるまで政治せいじ中心ちゅうしんであった。山城やましろこく遷都せんとしたのちは南都なんと(なんと)ともばれた。

ひろしひとし元年がんねん810ねん9月6にち平城ひらじろ上皇じょうこうによって平安京へいあんきょうはい平城京へいじょうきょうふたた遷都せんとするみことのりされた。これにたい嵯峨天皇さがてんのう迅速じんそくへいうごかし、9月12にち平城ひらじろ上皇じょうこう剃髪ていはつした(くすりへん)。これによって平城京へいじょうきょうへのさい遷都せんと実現じつげんすることはなかった。

くすりへん以後いご平城京へいじょうきょう跡地あとち往時おうじ姿すがた維持いじすることは出来できず、9世紀せいきまつ宇多うた上皇じょうこう南都なんと逍遥しょうようさいにはきゅうきょういきはすでに農村のうそんしていたとされるが[2][3]大和やまとこく江戸えど時代じだいまで存続そんぞくしている。

名称めいしょう

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平城ひらじろを「へいじょう」とむか、「へいぜい」とむかについては議論ぎろんがある。

戦後せんご学校がっこう教科書きょうかしょにおいて、平城京へいじょうきょうには「へいじょうきょう」と仮名がなられていた[4]。そのすくなくとも1980年代ねんだいには「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記へいきが、一部いちぶ出版しゅっぱんしゃられるようになる[4]。これは平城ひらじろ天皇てんのうが「へいぜい」とむことや、漢字かんじおとで「たいら」が漢音かんおんの“へい”と呉音ごおんの“ひょう”、「しろ」が漢音かんおんの“せい”と呉音ごおんの“じょう”があり、このおと漢音かんおん統一とういつすると“へいぜい”になることによるものとられている[4]。ただし「きょう」を“きょう”とむのは呉音ごおんである[4]

研究けんきゅうしゃ中心ちゅうしんに「へいぜい」のみが見受みうけられ[注釈ちゅうしゃく 2][4]、『国史こくしだい辞典じてん』の見出みだしも「へいぜいきょう」であるが[6]一般いっぱんには「へいじょう」が普及ふきゅうしており、奈良ならけんすすめる平城ひらじろ遷都せんと1300ねん記念きねん事業じぎょうも「へいじょう」と発音はつおんされている。

このように、平城京へいじょうきょう現代げんだいにおいては音読おんよで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」とむが、かつては奈良ならきょう寧楽ねいらくきょう、ならのみやこ)とばれた。762ねんせいくらいん文書ぶんしょ記述きじゅつくわえ、平城京へいじょうきょうへの遷都せんと当時とうじ造成ぞうせいから「奈良ならきょう」とかれた木簡もっかん発掘はっくつされている[7]

都市とし計画けいかく

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都市とし計画けいかく概要がいよう

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平城京 条坊図。
平城京へいじょうきょう じょうぼう

平城京へいじょうきょう南北なんぼくなが長方形ちょうほうけいで、中央ちゅうおう朱雀すざく大路おおじじくとして右京うきょう左京さきょうかれ、さらに左京さきょう傾斜地けいしゃちそときょうもうけられている[8]

東西とうざいじくにはいちじょうからきゅうじょう大路おおじじゅうじょうについては後述こうじゅつ)、南北なんぼくじくには朱雀すざく大路おおじ左京さきょういちぼうから四坊しぼう右京うきょういちぼうから四坊しぼう大通おおどおりが設置せっちされたじょうぼうせい都市とし計画けいかくである。かく大通おおどおりの間隔かんかくやく532メートル、大通おおどおりでかこまれた部分ぶぶんぼう)は、ほり築地つきじ(ついじ)によって区画くかくされ、さらにそのなかを、東西とうざい南北なんぼくに3つのみち区切くぎってまちとした。きょういき東西とうざいやく4.3キロメートル(そときょうふくめて6.3キロメートル)、南北なんぼくやく4.7キロメートル(北辺ほくへんぼうのぞく)におよぶ。

平城京へいじょうきょう市街しがい区域くいきは、大和やまと盆地ぼんち中央ちゅうおう南北なんぼく縦断じゅうだんする大和やまと古道ふるみちしもどうちゅうどう基準きじゅんとしている。したどう朱雀すざく大路おおじたり、ちゅうどう左京さきょうひがしかぎひがし四坊しぼう大路おおじ(ただしすこしずれる)にたる。二条にじょう大路おおじから五条ごじょう大路おおじにかけては、さんぼうぶんじょうぼう区画くかくひがし四坊しぼう大路おおじよりひがししており、これをそときょうぶ。また、右京うきょう北辺ほくへんまちぶんきたしており、これを北辺ほくへんぼうしょうする。

市街地しがいち宅地たくちは、位階いかいによっておおきさがめられ、貴族きぞくめる12まちもの筆頭ひっとうとして、2まち・1まち・1/2まち・1/4まち・1/8まち・1/16まち・1/32まちなどの宅地たくちあたえられた。平城ひらじろみや東側ひがしがわいちぼう大路おおじぼう大路おおじあいだには、8まち宅地たくち占有せんゆうした藤原不比等ふじわらのふひと、4まち占有せんゆうした長屋王ながやおう藤原仲麻呂ふじわらのなかまろやしきあつまっていた[9]土地とち公有こうゆうせいであるため、原則げんそくてきには天皇てんのうからあたえられたものであった。

とう長安ながやす模倣もほうしてつくられたというのが一般いっぱんてき定説ていせつである。しかし、先行せんこうする藤原ふじわらきょう場合ばあい大内裏だいだいりたる部分ぶぶん中心ちゅうしん位置いちしており、北端ほくたんいたのはきた洛陽らくようじょうなどをモデルとした、日本にっぽん独自どくじ発展形はってんけいではないかという見方みかたもある。しかし、中国ちゅうごく辺境へんきょう民族みんぞく侵略しんりゃくおも軍事ぐんじてき色彩しきさいいものでなく、きわめて政治せいじてき都市としであった。

平城京へいじょうきょう建築けんちくぶつ

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大極殿たいきょくでん再建さいけん

平城ひらじろみや内裏だいり)は朱雀すざく大路おおじ北端ほくたん位置いちし、そこに朱雀すざくもん設置せっちされた。平城ひらじろみや平城京へいじょうきょう造営ぞうえい当初とうしょからおな位置いち存在そんざいした。その中心ちゅうしん建物たてもので、朱雀すざくもんきたにあった大極殿たいきょくでん740ねんきょうひとしきょう遷都せんとさいこわされ、745ねん平城京へいじょうきょう遷都せんときゅう位置いち東側ひがしがわ壬生みぶもんきた)に再建さいけんされた。朱雀すざく大路おおじ南端なんたんには城門じょうもんがあり、九条くじょう大路おおじみなみにはきょうかこしろ都城みやこのじょう周囲しゅういつくられた城壁じょうへき[10])があった。ただし、実際じっさいにはじょう城門じょうもん接続せつぞくするきょく一部いちぶしかきずかれなかったのではないかとするせつ有力ゆうりょくである。

寺院じいん建築けんちく非常ひじょうおおい。きょうない寺院じいん主要しゅようなものは、大安寺だいあんじ薬師寺やくしじ興福寺こうふくじ元興寺がんこうじ以上いじょうよん大寺おおてらしょうした)で、これらは藤原ふじわらきょうから遷都せんとさいして移転いてんされたものである。東大寺とうだいじ東京とうきょう極大きょくだいせっしたきょういき東外ひがしそとにあり、聖武天皇しょうむてんのうによって天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん)に創建そうけん西大寺さいだいじ右京うきょう北方ほっぽう位置いちし、しょうとく天皇てんのうにより天平てんぺい神護かんご元年がんねん(765ねん)に創建そうけんされた。これらに法隆寺ほうりゅうじくわえてなな大寺おおてら南都七大寺なんとしちだいじ)としょうする。このほか海龍かいりゅう王寺おうじ法華寺ほっけじ唐招提寺とうしょうだいじ菅原寺すがわらじ喜光よしみつてら)、しん薬師寺やくしじ紀寺きでらいんのこる)、西隆寺さいりゅうじ廃寺はいじ)などがあった。

2006ねん3がつ10日とおか大和郡山やまとこおりやま教育きょういく委員いいんかいらが、平城京へいじょうきょうじゅうじょう大路おおじまでつくられていたのは確実かくじつであると発表はっぴょうした。下三橋しもみつはし遺跡いせき発見はっけんされた道路どうろ遺構いこうくわえ、しろ城壁じょうへきあと一部いちぶ発見はっけんされたことにる。このじょう中国ちゅうごく都城みやこのじょうようかべではなく、南面なんめんだけはたか築地つきじへいがあったが簡単かんたん瓦葺かわらぶきのいたへいではないかと推定すいていされている。じょうからじゅうじょう大路おおじ推定すいていいきまでが、あらたに平城京へいじょうきょう南方なんぽう遺跡いせきとして周知しゅうち遺跡いせき指定していされている。

発掘はっくつ調査ちょうさ

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北浦きたうらじょうせいが、自力じりき平城京へいじょうきょう推定すいてい調査ちょうさし、水田すいでんあぜ道路どうろまち痕跡こんせきのこることをつけ、1852ねんよしみなが5)『平城ひらじろみやだい內裏あとつぼわり[11]にまとめた。

1897ねん明治めいじ30ねん)には地理ちり学者がくしゃ河田かわたひぐま中心ちゅうしんとなって編集へんしゅうされた『沿革えんかく考証こうしょう日本にっぽん読史どくし地図ちず』にも掲載けいさいされた[12]

さらに関野せきのさだは、大極殿たいきょくでん基壇きだんつけ、平城ひらじろみや復元ふくげん研究けんきゅうふかめて、その成果せいかを『平城ひらじろみや大内裏だいだいりこう』として1907ねん明治めいじ40ねん)に発表はっぴょうした[13]棚田たなだよしみ十郎じゅうろうによって「奈良なら大極殿たいきょくでん保存ほぞんかい」が設立せつりつされ、1924ねんから平城ひらじろみや発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた。 1959ねん以降いこうは、奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ発掘はっくつ継続けいぞくしており、2004ねん現在げんざいでは、やく30%が発掘はっくつされている。

大内裏だいだいり相当そうとうするあたりは現在げんざい近鉄きんてつ奈良ならせん大和やまと西大寺さいだいじえき新大宮しんおおみやえき中間ちゅうかんにあり、1922ねんには史跡しせき指定してい1952ねんには特別とくべつ史跡しせき平城ひらじろみやあと(へいじょうきゅうせき))として保存ほぞんされている。

1961ねんはじめて木簡もっかん出土しゅつど[14]し、1967ねんには、平城ひらじろ宮東みやひがし部分ぶぶん奈良なら時代じだい庭園ていえん発見はっけんされた。東西とうざい70メートル、南北なんぼく100メートルにわたるもので、そのなかに、いけり、はしをかけ、建物たてものてていた。「ぞく日本にっぽん」にある「東院とういんたま殿どのくに瑠璃るりかわらもってす」という記事きじのとおり、釉薬をかけたかわらがまとまって出土しゅつどした。このことから、発見はっけんされた庭園ていえんは、平城ひらじろ宮東みやひがしいん庭園ていえんばれこく特別とくべつ名勝めいしょう指定していけている[15]

さらに1978ねんみや域外いきがいではあるが平城京へいじょうきょう左京さきょう三条さんじょうぼうみやあと庭園ていえんが1978ねんくに特別とくべつ史跡しせき、および1992ねん特別とくべつ名勝めいしょう[15][16]、また朱雀すざく大路おおじ一部いちぶじょう-三条さんじょうあたり)は1984ねん史跡しせき指定していされている[15]

平城ひらじろみやのすぐ東南とうなんみやあと庭園ていえんきた隣接りんせつする左京さきょう三条さんじょうぼうに、敷地しきち4まち長屋王ながやおう邸宅ていたくがあった。「奈良ならそごう」(当時とうじ建設けんせつさいした発掘はっくつ調査ちょうさで1988ねん出土しゅつどした木簡もっかん[17][18][19]は3まんてんえるかずであり、その解読かいどく結果けっか長屋王ながやおう生活せいかつあきらかになった。こめ管理かんりする大炊おおいこおり貯蔵ちょぞうする氷室ひむろ管理かんりをする水取みずとりなどの家政かせい機関きかん使用人しようにん居住きょじゅう倉庫そうこなどがあった。倉庫そうこには、べいむぎあわびなど、さまざまな物資ぶっしはこまれていた。また、木簡もっかんから、当時とうじ皇族こうぞく貴族きぞくべたという乳製品にゅうせいひんである(そ)も長屋王ながやおう食卓しょくたくにあがっていたことがかっている。

近鉄きんてつ奈良ならせん

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平城ひらじろみやあとない横切よこぎ近鉄きんてつ奈良ならせん(2010ねん12がつ

大阪おおさか電気でんき軌道きどう1914ねん現在げんざい近鉄きんてつ奈良ならせん開業かいぎょうしたさいには平城京へいじょうきょう正確せいかく範囲はんいあきらかとなっていたが[12]世間せけん注目ちゅうもくうすく(新聞紙しんぶんしほうなどの言論げんろん検閲けんえつもあり)、結果けっかてき平城ひらじろみやなか走行そうこうするようになった。

その

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  • 遷都せんと年号ねんごう語呂合ごろあわせは「奈(7)りょうとう(10)にならって平城京へいじょうきょう」、「奈良ならの710(納豆なっとう平城京へいじょうきょう」。もしくは「710(なんと)○○平城京へいじょうきょう」(「なんと」は感嘆かんたんの“なんと”または“南都なんと”、○○には“きれいな”“おおきな”“素敵すてきな”“立派りっぱな”“うつくしい”などの言葉ことばはいる)などがある。
  • 平城京へいじょうきょうはシルクロードの終着しゅうちゃくてんでもあることから、国際こくさいてき都市としであった。きょうないにはとうしんとおくはインド周辺しゅうへん人々ひとびとまでみられたという。その時代じだいをうかがわせるのが東大寺とうだいじせいくらいん宝物ほうもつなどである。
  • 桓武かんむ天皇てんのうが、平城京へいじょうきょうから長岡京ながおかきょう遷都せんとめた理由りゆうとして、平城京へいじょうきょう地理ちりてき条件じょうけん用水ようすいインフラストラクチャーの不便ふべんさがあった。平城京へいじょうきょうおおきなかわからはなれているため、大量たいりょう輸送ゆそうできるおおきなふね使つかえず、食料しょくりょうなどを効率こうりつてきはこぶことが困難こんなんであった。比較的ひかくてきちいさなかわながれていたが、人口じんこう10まんにんかかえていた当時とうじつねみず不足ふそくしていた。生活せいかつ排水はいすい排泄はいせつぶつは、道路どうろわきつくられたみぞてられ、かわからのみずながされる仕組しくみになっていた。しかし、みずがほとんどながれないため汚物おぶつまり、衛生えいせい状態じょうたい限界げんかいたっしていた。なお、平城京へいじょうきょう模範もはんとした長安ながやすも、だい運河うんがからはなれていることによる水運すいうん不便ふべんさが一因いちいんとなってだい以降いこう洛陽らくよう開封かいふうなどに首都しゅと地位ちいうばわれている。
  • 近年きんねんせつとしては平城京へいじょうきょう外港がいこうであった難波なんばにおける土砂どしゃ堆積たいせき三国川さくりがわ現在げんざい神崎川かんざきがわ)の工事こうじによる淀川よどがわとの接続せつぞく首都しゅと所在地しょざいち大和やまとこく飛鳥あすかきょう藤原ふじわらきょう平城京へいじょうきょう)から山城やましろこく長岡京ながおかきょう平安京へいあんきょう)にえたとするせつがある。古代こだい日本にっぽん東西とうざいあいだ交通こうつう西国さいこくより水路すいろ難波なんば上陸じょうりくし、奈良盆地ならぼんち横断おうだんして鈴鹿すずかせきとおって伊勢湾いせわん横断おうだんして東国とうごくかう経路けいろ採用さいようされており、大和やまとこくはその中継ちゅうけい地点ちてんであった。ところが、8世紀せいきはいると、土砂どしゃ堆積たいせき難波なんばふねけることが困難こんなんになったことで西国さいこくとの交通こうつう支障ししょうしょうじ、東国とうごくとの交通こうつうにおいてもうま同伴どうはん困難こんなん伊勢湾いせわん横断おうだん敬遠けいえんされ、尾張おわりこくから美濃みのこく不破ふわせき目指めざ不正規ふせいき迂回うかいルートがもちいられるようになっていった。こうしたなか難波なんば大和やまとこく鈴鹿すずかせき東海道とうかいどう)ルートの優位ゆういせいうしなわれ、わりに淀川よどがわ山城やましろこく不破ふわせき東山ひがしやまみち)ルートが採用さいようされるようになると、首都しゅともそのルートの中継ちゅうけい地点ちてんである山城やましろこくうつったとするものである。これは三国川さくりがわ工事こうじわせるかのように長岡京ながおかきょうへの遷都せんと平城京へいじょうきょう難波なんばみや廃止はいしおこなわれていることから指摘してきされている[20]

ギャラリー

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アクセス

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近鉄きんてつ奈良ならせん大和やまと西大寺さいだいじえきまたは新大宮しんおおみやえきより徒歩とほ30ふんまたくるまで5ふん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 平城ひらじろみや施設しせつ遷都せんと時点じてんでどの程度ていど整備せいびされたかについては、その直前ちょくぜん和銅わどう3ねん元旦がんたん儀式ぎしき工事こうじちゅう平城ひらじろみや大極殿たいきょくでんひらかれたか、現時点げんじてん宮殿きゅうでんである藤原宮ふじわらぐうひらかれたかの論争ろんそうがある[1]
  2. ^ 歴史れきし学者がくしゃ坂本さかもと太郎たろうも「ヘイゼイ」が古来こらいかたであることを強調きょうちょうしている[5]
  3. ^ 1992ねん時点じてんでの回復かいふくりつは61.8% [23]

出典しゅってん

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  1. ^ 大樹たいじゅ平安へいあん遷都せんと直前ちょくぜん元旦がんたん朝賀ちょうがたまものえん吉村よしむら武彦たけひこ へん日本にっぽん古代こだい国家こっか王権おうけん社会しゃかいはなわ書房しょぼう、2014ねん ISBN 978-4-8273-1268-3
  2. ^ 坂上さかがみかんしゅんちょ、『平城京へいじょうきょう時代じだい』、岩波書店いわなみしょてん、2011ねん
  3. ^ コトバンク - 平城京へいじょうきょう”. 2019ねん9がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e 平城京へいじょうきょうかたって「へいぜいきょう」だったっけ?」東京書籍とうきょうしょせき株式会社かぶしきがいしゃはなし) Excite Bit コネタ 2010ねん1がつ22にち(ただし小学校しょうがっこうでは、学習がくしゅうじょう混乱こんらんけ、「へいじょうきょう」だけになっているものもある)。
  5. ^ 史書ししょむ』中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1987ねん、15ぺーじ
  6. ^ 国史こくしだい辞典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかんだい12かん、1991)。
  7. ^ 遷都せんと当初とうしょから「奈良なら」でした 平城京へいじょうきょうあと記載きさい木簡もっかん. 47NEWS (共同通信社きょうどうつうしんしゃ). (2015ねん4がつ30にち). オリジナルの2015ねん4がつ30にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150430145636/http://www.47news.jp/CN/201504/CN2015043001001595.html 
  8. ^ そときょう現在げんざい奈良なら県庁けんちょう周辺しゅうへん相当そうとうする。
  9. ^ 奈良なら平城京へいじょうきょうあと邸宅ていたく 有力ゆうりょく貴族きぞく屋敷やしきか 敷地しきち6まん1000平方へいほうメートル”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2019ねん7がつ19にち). 2019ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  10. ^ 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんない言及げんきゅう, 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん,デジタル大辞泉だいじせん,山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん,デジタルばん. “じょう(らじょう)とは? 意味いみ使つかかた”. コトバンク. 2023ねん9がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ 北浦きたうらじょうせい平城ひらじろみや大内裏だいだいりあとつぼわり (うつし)よしみなが5ねんこうせいうつしhttps://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_01175/index.html2017ねん10がつ13にち閲覧えつらん 黒川くろかわきゅうぞう黒川くろかわ真道まみち蔵書ぞうしょ表装ひょうそう黒川くろかわ真前まんまえしるしじくそう彩色さいしき一部いちぶしゅきあり。101.0×68.8cm (外装がいそう150.0×74.0cm)。
  12. ^ a b 河田かわたひぐま 1897.
  13. ^ 関野せきのさだ平城ひらじろみや大内裏だいだいりこう」『東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく紀要きよう ; 工科こうかだい3さつ』、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1907ねん2017ねん10がつ13にち閲覧えつらん 
  14. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ編著へんちょ、『木簡もっかん 古代こだいからの便たより』、岩波書店いわなみしょてん、2020ねん、27ぺーじ
  15. ^ a b c くに指定してい 史跡しせき名勝めいしょう天然記念物てんねんきねんぶつ一覧いちらん”. 奈良なら. 2017ねん10がつ13にち閲覧えつらん
  16. ^ 平城京へいじょうきょう左京さきょう三条さんじょうぼうみやあと庭園ていえん”. 奈良なら. 2017ねん10がつ13にち閲覧えつらん
  17. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょへん)「平城京へいじょうきょう左京さきょうじょうぼう三条さんじょうぼう発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこく長屋王ながやおうてい藤原ふじわら麻呂まろてい調査ちょうさ本文ほんぶんへん)(図版ずはんへん)」『奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょがくほうだい54ごう、1995ねん 
  18. ^ 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょへん)「平城京へいじょうきょう木簡もっかんいち長屋王ながやおう木簡もっかんいち」『奈良なら国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ史料しりょうだい41ごう、1995ねん 
  19. ^ 木簡もっかんひろば・遺構いこう”. 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ. 2017ねん10がつ13にち閲覧えつらん
  20. ^ 北村きたむらゆう長岡ながおか平城ひらじろ遷都せんと史的してき背景はいけい」(初出しょしゅつ:『国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこく』134しゅう(2007ねん)/所収しょしゅう:北村きたむら平城京へいじょうきょう成立せいりつろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2013ねんISBN 978-4-642-04610-7
  21. ^ 砂防さぼうのれきし |みずのめぐみかん「アクア琵琶びわ 2017ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  22. ^ 大戸川おおとがわダム工事こうじ事務所じむしょ大戸川おおとがわ歴史れきし 2017ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  23. ^ 安田やすだ勇次ゆうじ 田上たのえさんにおける山腹さんぷくこう施工しこうによる植生しょくせい復元ふくげん土砂どしゃ流出りゅうしゅつ抑制よくせい 砂防さぼう学会がっかい, Vol.63, No.4 pp.44-50 (2010ねん

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
藤原ふじわらきょう
日本にっぽん首都しゅと
710ねん - 740ねん
次代じだい
きょうひとしきょう
先代せんだい
むらさきかおりらくみや
日本にっぽん首都しゅと
745ねん - 784ねん
次代じだい
長岡京ながおかきょう