(Translated by https://www.hiragana.jp/)
大正 - Wikipedia コンテンツにスキップ

大正たいしょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大正たいしょう時代じだいから転送てんそう

大正たいしょう(たいしょう)は、日本にっぽん元号げんごうひとつ。

明治めいじのち昭和しょうわまえ大化たいか以降いこう229番目ばんめ、245[ちゅう 1]元号げんごうである。大正天皇たいしょうてんのう在位ざいい期間きかんである1912ねん大正たいしょう元年がんねん7がつ30にちから1926ねん大正たいしょう15ねん12月25にちまで。

日本にっぽん元号げんごうとしてはじめて、元年がんねんから最終さいしゅうねんである15ねんまでのぜん期間きかんグレゴリオれきもちいられた。日本にっぽん時代じだい区分くぶんうえでは、元号げんごう大正たいしょうであった期間きかん大正たいしょう時代じだいたいしょうじだいという[1]ほんこうではこの時代じだいについても記述きじゅつする。

改元かいげん

[編集へんしゅう]
大正たいしょう改元かいげん詔書しょうしょ(1912ねん明治めいじ45ねん)7がつ30にち
ちん󠄂菲德ヲ以テだいみつるうけたまわ󠄁そうれいニ誥ケテまんせいくだりフ茲ニ先帝せんてい󠄁ノじょうせいニ遵󠄁ヒあきら󠄁よんじゅうねんなながつさんじゅうにち以後いごあらためメテ大正たいしょう元年がんねんためぬししゃ󠄁施行しこうセヨ以下いかりゃく[2]
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん12月25にち - 大正天皇たいしょうてんのうが47さい崩御ほうぎょし、その長男ちょうなんである皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)が25さい践祚せんそしたため昭和しょうわ改元かいげん同日どうじつは「昭和しょうわ元年がんねん12がつ25にち」となった。なお、皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう1921ねん大正たいしょう10ねん11月25にち以降いこう持病じびょうあつくなった大正天皇たいしょうてんのう摂政せっしょうつとめている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]

大正たいしょう由来ゆらいは『えきけい』彖伝・臨卦の「だいとおるただしてん道也みちやだいおほいにとおるとほりてもっただしただしきは、てんてんみちみちなり)」から。「大正たいしょう」は過去かこに4かい(「元弘もとひろ」「うけたまわおう」「万治まんじ」「貞享ていきょう改元かいげん[3]候補こうほがったが、5かい採用さいようされた。

なお、「大正天皇たいしょうてんのう実録じつろく」によれば、明治めいじわるしん元号げんごうあんとして「大正たいしょう」「てんきょう」「きょう」「永安えいあん」「乾徳けんとく」「昭徳あきのり」のあんがあったが、最終さいしゅうあんで「大正たいしょう」「てんきょう」「きょう」にしぼられ、枢密すうみつ顧問こもん審議しんぎにより大正たいしょう決定けっていした。

もり鴎外おうがいが『元号げんごうこう』の執筆しっぴつにあたり、賀古かこ鶴所つるどてた書簡しょかんで「『大正たいしょう』はベトナム使用しようがあり、御幣ごへいかつぐわけではないが中国ちゅうごくでは『ただし』の元号げんごうきらう。『ただし』のは『いち而ニシテとめル』とめるので、『ただし』のけてほろびたれい調しらべるべきなのに確認かくにんである」と不満ふまんべている[4]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

大正たいしょう時代じだい(1912ねん-1926ねん)は、大正天皇たいしょうてんのう在位ざいいした期間きかんしている。

日本にっぽん時代じだい区分くぶん通常つうじょう一世一元いっせいいちげんせい以前いぜん)、古墳こふん飛鳥あすか奈良なら平安へいあん鎌倉かまくら室町むろまち安土あづち桃山ももやま江戸えど政権せいけん中心ちゅうしんによる呼称こしょうである。大正たいしょう時代じだいは(年数ねんすう大正たいしょう元年がんねん大正たいしょう15ねんの15年間ねんかんで、期間きかん1912ねん1926ねんの14年間ねんかん日本にっぽん一番いちばんみじか時代じだい区分くぶんである。

大正たいしょう年間ねんかんには、2[5]およ護憲ごけん運動うんどう憲政けんせい擁護ようご運動うんどう)がこり、明治めいじ以来いらい超然ちょうぜんないかく政治せいじ体制たいせいらいで、政党せいとう勢力せいりょく進出しんしゅつすることになった。それらは大正たいしょうデモクラシーばれて、尾崎おざき行雄ゆきおいぬやしなえあつし[6]がその指導しどうそうとなった。

大正たいしょうデモクラシー時代じだい1918ねん大正たいしょう7ねん)のべい騒動そうどうまえあと区別くべつされることがおおいが、べい騒動そうどう同年どうねんはじめて爵位しゃくいたない華族かぞく階級かいきゅうであり、衆議院しゅうぎいん議席ぎせきゆうするはらたかし(「平民へいみん宰相さいしょう」とあだされた)が本格ほんかくてき政党せいとうないかく(=原内はらうちかく)を組織そしきした。

はら卓越たくえつした政治せいじ感覚かんかく指導しどうりょくゆうする政治せいじであり、「教育きょういく制度せいど改善かいぜん」、「交通こうつう機関きかん整備せいび」、「産業さんぎょうおよび通商つうしょう貿易ぼうえき振興しんこう」、「国防こくぼう充実じゅうじつ」の4だい政綱せいこう推進すいしんしたが、普通ふつう選挙せんきょほう反対はんたいするなどその登場とうじょう平民へいみんたち期待きたいされたほど改革かいかくもなさないままにわり、1921ねん大正たいしょう10ねん大塚おおつかえきいんだった中岡なかおかうしとらいちにより東京とうきょうえき構内こうない暗殺あんさつされた(はらたかし暗殺あんさつ事件じけん)。

この前後ぜんご時期じきせん運動うんどう活発かっぱつして、平塚ひらつか雷鳥らいちょう市川いちかわ房枝ふさえらの婦人ふじん参政さんせいけん運動うんどう活発かっぱつだった。

1925ねん大正たいしょう14ねん)には加藤かとう高明こうめい内閣ないかくした普通ふつう選挙せんきょほう成立せいりつしたが、同時どうじロシア革命かくめい勃発ぼっぱつによる国内こくないでの社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう台頭たいとうへの警戒けいかいかんから治安ちあん維持いじほう制定せいていされた。言論げんろんかい活況かっきょうていして、皇室こうしつゆうする君主くんしゅせい民主みんしゅ主義しゅぎ折衷せっちゅうしようとした吉野よしの作造さくぞう民本主義みんぽんしゅぎ[7]美濃部みのべ達吉たつきち天皇てんのう機関きかんせつなどがあらわれた。

1921ねん大正たいしょう10ねん11月25にち皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう大正天皇たいしょうてんのう病状びょうじょう悪化あっかによって摂政せっしょうみやとなった。明治めいじ時代じだい見直みなお機運きうんから明治天皇めいじてんのう昭憲皇太后しょうけんこうたいごうまつ明治めいじ神宮じんぐう大正たいしょう9ねん(1920ねん)11月1にち創建そうけんされた[8]

1923ねん大正たいしょう12ねん)に加藤かとう友三郎ともさぶろう首相しゅしょう在任ざいにんちゅう死去しきょして8にち関東大震災かんとうだいしんさいこり、首都しゅと東京とうきょう壊滅かいめつてき打撃だげきけた。放火ほうかデマや鮮人差別さべつ意識いしき自警じけいだん結成けっせいおよ組織そしきされて関東大震災かんとうだいしんさい朝鮮ちょうせんじん虐殺ぎゃくさつ事件じけんきた。後藤ごとう新平しんぺいによる帝都ていと東京とうきょう復興ふっこう計画けいかく実施じっしされた関東大震災かんとうだいしんさい山本やまもと権兵衛ごんべえもと首相しゅしょう再度さいど政権せいけんかえき、だい2山本やまもと内閣ないかく成立せいりつした。そのだい護憲ごけん運動うんどう憲政けんせい擁護ようご運動うんどう)がこり、護憲ごけんさん内閣ないかくとして加藤かとう高明こうめい内閣ないかく成立せいりつした。

日本にっぽん連合れんごうこくとして勝者しょうしゃがわにつき、列強れっきょう大国たいこく」の一員いちいんとなっただいいち世界せかい大戦たいせんのちには、ベルサイユワシントン体制たいせい順応じゅんのうてきぬさはら喜重郎きじゅうろう外相がいしょうによるぬさげん外交がいこう加藤かとう高明こうめい内閣ないかく)が展開てんかいされ、中華民国ちゅうかみんこくへの内政ないせい不干渉ふかんしょうソビエト連邦れんぽうとの国交こっこう樹立じゅりつなど、一定いっていハト国際こくさい協調きょうちょうてき色彩しきさいしめした。

大正たいしょう時代じだい藩閥はんばつてき超然ちょうぜんないかく主導しゅどうしていた江戸えど時代じだいまれの元勲げんくんたちが政界せいかいから引退いんたいしたり他界たかいして、高等こうとう教育きょういく機関きかん養成ようせいされた世代せだい人々ひとびと社会しゃかい中枢ちゅうすうになうようになっていった[9]

国外こくがいではだいいち世界せかい大戦たいせん結果けっかとして、王政おうせい打倒だとう革命かくめいきた。敗戦はいせんこくドイツオーストリア連合れんごうこくからドイツと和解わかいして戦線せんせんから離脱りだつしたロシアなどで君主くんしゅせい廃止はいしされた。ロシア革命かくめいでは世界せかいはつ社会しゃかい主義しゅぎこくソビエト連邦れんぽう成立せいりつした。ドイツではワイマール憲法けんぽうのもとドイツ共和きょうわこくヴァイマル共和きょうわせい)が誕生たんじょうした。共和きょうわせい国家こっか成立せいりつは、デモクラシー勝利しょうりとされた。

しかし、日本にっぽんにおいて共和きょうわせい誕生たんじょう天皇てんのうせい皇室こうしつ廃止はいし意味いみがあり、労働ろうどう運動うんどうたかまりを利用りようして共産きょうさん主義しゅぎひろまることを警戒けいかいして治安ちあん維持いじほう制定せいていされた。おおくのくに君主くんしゅせい廃止はいしされたことが口実こうじつとなった。共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう日本にっぽんインテリそう影響えいきょうあたえ、大正たいしょう知識ちしきじんは、改造かいぞう革新かくしん革命かくめい維新いしんの4種類しゅるい政治せいじ運動うんどうスローガンかかげた。

文化ぶんか風俗ふうぞくめん特徴とくちょうとしては、近代きんだい都市とし発達はったつ経済けいざい拡大かくだいともな都市とし文化ぶんか大衆たいしゅう文化ぶんか花開はなひらき、「大正たいしょうモダン」とばれるはなやかな時代じだいむかえた[10]女性じょせい就労しゅうろうえ、それまでの女工じょこうなどにわって、電話でんわ交換こうかんしゅ女子じょし事務じむいんなど「職業しょくぎょう婦人ふじん」とばれるそうあらわれ、カフェの女給じょきゅう、バスガール、デパート店員てんいん女医じょい映画えいが女優じょゆうといったあたらしい職業しょくぎょう人気にんきとなり、東京とうきょう横浜よこはま大阪おおさか神戸こうべなどではだい企業きぎょう外資がいしけい企業きぎょうつとめる大学だいがくそつこう収入しゅうにゅうホワイトカラー登場とうじょうし、断髪だんぱつ洋装ようそうモガ(モダンガールのりゃく男性だんせいはモボ)が登場とうじょうした[10]

大正たいしょう年間ねんかんつうじて、都市としにこうした享楽きょうらくてき文化ぶんかまれる反面はんめんスラム形成けいせい民衆みんしゅう騒擾そうじょう発生はっせい労働ろうどう組合くみあい小作こさくじん組合くみあい結成けっせいされて、労働ろうどう争議そうぎ激化げきかするなど社会しゃかいてき矛盾むじゅんふかまっていった。

護憲ごけん運動うんどう政治せいじ

[編集へんしゅう]
1913ねん大正たいしょう2ねん)2がつ5にち尾崎おざき行雄ゆきおかつら内閣ないかく弾劾だんがい演説えんぜつ大正たいしょう政変せいへん
1913ねん大正たいしょう2ねん)2がつ5にちかつら太郎たろう首相しゅしょう施政しせい方針ほうしん演説えんぜつたいする質問しつもんった尾崎おざき行雄ゆきおかつら首相しゅしょうはげしく糾弾きゅうだんした。
1920ねん大正たいしょう9ねん)、赤軍せきぐん攻撃こうげきによりちた日本にっぽん領事館りょうじかんあまみなと事件じけん
ニコラエフスク住民じゅうみんすうせんにんともに、日本人にっぽんじん700にんあまりが殺害さつがいされた。

1911ねん明治めいじ44ねん)にだい2西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつしたころ日本にっぽん国家こっか財政ざいせい非常ひじょう悪化あっかしていたが、中国ちゅうごくからし革命かくめい刺激しげきされた陸軍りくぐんは、抗日こうにち運動うんどう対策たいさくねて、前年ぜんねん併合へいごうした朝鮮ちょうせん駐屯ちゅうとんさせる2師団しだん増設ぞうせつつよ政府せいふせまった。緊縮きんしゅく財政ざいせい方針ほうしん西園寺さいおんじ公望きんもちがこれを拒否きょひし、政府せいふ与党よとう立憲りっけん政友せいゆうかい)と陸軍りくぐん対立たいりつすると、おおくの国民こくみん陸軍りくぐん横暴おうぼういきどおり、政治せいじ改革かいかく機運きうんたかまった。また1912ねん明治めいじ45ねん大正たいしょう元年がんねん7がつ30にち明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょして大正天皇たいしょうてんのう即位そくいしたり、美濃部みのべ達吉たつきちが『憲法けんぽう講話こうわ』を刊行かんこうして、天皇てんのう機関きかんせつ政党せいとうないかくろんとなえたことも国民こくみんあたらしい政治せいじ期待きたいさせた。

1912ねん大正たいしょう元年がんねん)のすえ、2師団しだん増設ぞうせつ閣議かくぎ承認しょうにんされなかったことに抗議こうぎして、上原うえはら勇作ゆうさく陸相りくしょう単独たんどく辞表じひょう大正天皇たいしょうてんのう提出ていしゅつし、陸軍りくぐん軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいだてにそのにん推薦すいせんしなかったため、西園寺さいおんじ内閣ないかくそう辞職じしょくまれた。わって長州ちょうしゅうばつ陸軍りくぐん長老ちょうろうであるかつら太郎たろうが、就任しゅうにんしたばかりの内大臣ないだいじん侍従じじゅうちょうしてだい3かつら内閣ないかく組織そしきすると、「宮中きゅうちゅう府中ふちゅうべつ」の原則げんそく無視むしして宮中きゅうちゅうしょくから首相しゅしょうてんじたことが、藩閥はんばつ勢力せいりょくしん天皇てんのうようして政権せいけん独占どくせんくわだてているとの非難ひなんこえがった[11]

立憲りっけん国民党こくみんとういぬやしなえあつし立憲りっけん政友せいゆうかい尾崎おざき行雄ゆきお先頭せんとうとする野党やとう勢力せいりょく新聞しんぶんに、商工しょうこう業者ぎょうしゃ都市とし知識ちしきじん階級かいきゅうくわわり、「閥族ばつぞく打破だは憲政けんせい擁護ようご」をかかげる運動うんどう全国ぜんこくひろがった(だいいち護憲ごけん運動うんどう)。かつら立憲りっけん同志どうしかいみずか組織そしきしてこれに対抗たいこうしようとしたが、護憲ごけん運動うんどうつよまる一方いっぽうだったので1913ねん大正たいしょう2ねん)、民衆みんしゅう議会ぎかい包囲ほういするなか在職ざいしょくわずか50にちあまり退陣たいじんした(大正たいしょう政変せいへん)。

かつらのあとは、薩摩さつま出身しゅっしん海軍かいぐん大将たいしょうである山本やまもと権兵衛ごんべえ立憲りっけん政友せいゆうかい与党よとう内閣ないかく組織そしきした。山本やまもと内閣ないかく行政整理ぎょうせいせいりおこなうとともに、文官ぶんかん任用にんようれい改正かいせいして政党せいとういんにも高級こうきゅう官僚かんりょうへのみちひらき、また軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいあらためて、予備よび後備こうびやく将官しょうかんにまで資格しかくひろげ、官僚かんりょう軍部ぐんぶたいする政党せいとう影響えいきょうりょく拡大かくだいつとめたが1914ねん大正たいしょう3ねん)、外国がいこくせい軍艦ぐんかん兵器へいき輸入ゆにゅうめぐ海軍かいぐん高官こうかん汚職おしょく事件じけんシーメンス事件じけん)が発覚はっかくすると、都市とし民衆みんしゅう抗議こうぎ行動こうどうふたたたかまり、やむなく退陣たいじんした[12]

これを山縣やまがた有朋ありとも元老げんろう庶民しょみんあいだ人気にんきのある大隈おおくま重信しげのぶ急遽きゅうきょ後継こうけい首相しゅしょう推薦すいせんし、だい2大隈おおくま内閣ないかく成立せいりつした。大隈おおくま立憲りっけん同志どうしかい少数しょうすう与党よとうとして出発しゅっぱつしたが、1915ねん大正たいしょう4ねん)のそう選挙せんきょ立憲りっけん同志どうしかいなどの与党よとう立憲りっけん政友せいゆうかい圧勝あっしょうした。この結果けっか懸案けんあん2師団しだん増設ぞうせつあん議会ぎかい通過つうかした。またどう内閣ないかくだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつしており、同盟どうめいこくイギリスドイツ帝国ていこく宣戦せんせんすると、日本にっぽんにちえい同盟どうめい理由りゆうにドイツに宣戦せんせんし、中国ちゅうごくにおけるドイツの植民しょくみん青島ちんたお山東さんとうしょう南洋なんよう諸島しょとう一部いちぶ占領せんりょうした[13]。ついで大戦たいせんのためヨーロッパ諸国しょこく中国ちゅうごく問題もんだい介入かいにゅうする余力よりょくのないのを利用りようして、1915ねん大正たいしょう4ねん)に袁世凱政府せいふに、加藤かとう高明こうめい外相がいしょうじゅういちじょう要求ようきゅう提出ていしゅつした(たいはな21ヶ条かじょう要求ようきゅう)。

つづ寺内てらうち政権せいけんでは、袁政けん後継こうけいとなった北方ほっぽう軍閥ぐんばつだん祺瑞内閣ないかく巨額きょがく借款しゃっかんあたえて(西原にしはら借款しゃっかん)、政治せいじ経済けいざい軍事ぐんじにわたる中国ちゅうごくにおける日本にっぽん権限けんげん拡大かくだいしようとつとめた。極東きょくとう権益けんえき保持ほじするためだい4にち協約きょうやく、イギリスとの覚書おぼえがき特派とくは大使たいし石井いしい菊次郎きくじろう石井いしい・ランシング協定きょうてい締結ていけつした。1917ねん大正たいしょう6ねん)のロシア革命かくめい好機こうきとみた寺内てらうち内閣ないかくきた満州まんしゅう沿海州えんかいしゅうまで勢力せいりょくひろげようとした(シベリア出兵しゅっぺい)。

寺内てらうち正毅まさき超然ちょうぜんないかく対抗たいこうして憲政けんせいかい結成けっせいされると、寺内てらうち首相しゅしょう1917ねん大正たいしょう6ねん)に衆議院しゅうぎいん解散かいさんそう選挙せんきょ結果けっか立憲りっけん政友せいゆうかい憲政けんせいかいわって衆議院しゅうぎいんだいいちとうとなった。大戦たいせんによる急激きゅうげきインフレーションシベリア出兵しゅっぺい見越みこしたべいめによって国内こくないでは米価べいか暴騰ぼうとうして、1918ねん大正たいしょう7ねん)8がつには富山とやまけん漁村ぎょそん主婦しゅふたちべい安売やすうりを要求ようきゅうしたことが新聞しんぶん報道ほうどうされるとべい騒動そうどう全国ぜんこくひろがった。さらに労働ろうどうしゃ待遇たいぐう改善かいぜん小作こさくじん小作こさくりょうげの運動うんどうこった[14]

政府せいふはようやくそれを鎮圧ちんあつしたが、シベリア出兵しゅっぺい推進すいしんした寺内てらうち正毅まさき首相しゅしょう1918ねん大正たいしょう7ねん9月21にち退陣たいじんした。

はらたかし

民衆みんしゅう運動うんどうちからたりにした元老げんろうたちはついに政党せいとうないかくみとめ、立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさいはらたかし首相しゅしょう推薦すいせんし、1918ねん大正たいしょう7ねん9月29にちにははつ本格ほんかくてき政党せいとうないかくである原内はらうちかく成立せいりつした。華族かぞくでなかったはらは「平民へいみん宰相さいしょう」とばれて国民こくみんしたしまれた。普通ふつう選挙せんきょ要求ようきゅうたかまった情勢じょうせい背景はいけいに、はら政党せいとう地位ちいたかめながら自党じとう党勢とうせい拡大かくだいおこない、だい資本しほん地主じぬしなどとのあいだふか関係かんけいきずいた。また元老げんろうとの衝突しょうとつけながらも、元老げんろう政治せいじりょく縮小しゅくしょう努力どりょくした。

しかし、はら普通ふつう選挙せんきょせい導入どうにゅうについては国民こくみん期待きたいはんして「現在げんざい社会しゃかい組織そしきかって脅迫きょうはくあたえるもの」としてこばつづ[15]選挙せんきょけん納税のうぜい資格しかくを3えん以上いじょうげ、しょう選挙せんきょせい導入どうにゅうする選挙せんきょ改革かいかくにとどめた。これらは「党利とうり党略とうりゃく」として世論せろん不信ふしんまねいた。また外交がいこうめんでは1919ねん大正たいしょう8ねん)に満州まんしゅうにちちゅうりょうぐん衝突しょうとつするひろししろ事件じけんきる。1920ねん大正たいしょう9ねん)のあまみなと事件じけんでは在留ざいりゅう邦人ほうじん駐留ちゅうりゅう日本にっぽんぐん赤軍せきぐん中国ちゅうごくぐん皆殺みなごろしにされ内閣ないかく責任せきにん追及ついきゅうされた。1921ねん大正たいしょう10ねん)11月4にちにははら東京とうきょう駅頭えきとう鉄道てつどう労働ろうどうしゃ中岡なかおかうしとらいち暗殺あんさつされた(はらたかし暗殺あんさつ事件じけん)。

つづいて政友せいゆうかい総裁そうさいとなった高橋たかはし是清これきよ首相しゅしょうとなり、高橋たかはし内閣ないかく経済けいざいきょう対応たいおうして積極せっきょく政策せいさくこころみたがそのことで内紛ないふんこったため、緊縮きんしゅく財政ざいせい普通ふつう選挙せんきょうったえる憲政けんせいかいへの期待きたいたかまっていった。外交がいこうめんでは1922ねん大正たいしょう11ねん初頭しょとうワシントン会議かいぎがあり、アジアにワシントン体制たいせい構築こうちくされた。その結果けっか日本にっぽん国内こくないでも国際こくさい協調きょうちょう主義しゅぎつよまった。高橋たかはし内閣ないかく内紛ないふんによりたおれ、わってワシントン会議かいぎ全権ぜんけんだった海軍かいぐん大将たいしょう加藤かとう友三郎ともさぶろう政友せいゆうかい事実じじつじょう与党よとうとして内閣ないかく組織そしきした。加藤かとうはワシントン会議かいぎ協定きょうていしたがって海軍かいぐん軍縮ぐんしゅくおこない、さらに山梨やまなしはんづくり陸軍りくぐん大臣だいじんによって山梨やまなし軍縮ぐんしゅくばれる陸軍りくぐん軍縮ぐんしゅく断行だんこうして選挙せんきょけん拡大かくだい検討けんとうはいった[16]

加藤かとう病死びょうし関東大震災かんとうだいしんさい危機ききなかだい2山本やまもと内閣ないかくてられ、再度さいど政権せいけんかえいた山本やまもと挙国一致きょこくいっちないかく必要ひつようせい普通ふつう選挙せんきょ採用さいよううったえたが政友せいゆうかい協力きょうりょくられず、とらもん事件じけん責任せきにんそう辞職じしょくまれた[16]つづいて貴族きぞくいん母体ぼたいとした清浦きようら内閣ないかく成立せいりつし、はん政党せいとう政治せいじてき態度たいどしめしたが、それに対抗たいこうして衆議院しゅうぎいん憲政けんせいかい革新かくしん倶楽部くらぶ政友せいゆうかいさんは、だい護憲ごけん運動うんどうこした。1924ねん大正たいしょう13ねん)のそう選挙せんきょでは護憲ごけんさん憲政けんせいかい政友せいゆうかい革新かくしん倶楽部くらぶ)が大勝たいしょうおさめ、護憲ごけんさん内閣ないかくとして加藤かとう高明こうめい内閣ないかく成立せいりつした。これ以降いこう衆議院しゅうぎいんだいいちとう党首とうしゅ首相しゅしょうつとめるのが風習ふうしゅうした(憲政けんせい常道じょうどう[16]

加藤かとう内閣ないかくは、宇垣うがき軍縮ぐんしゅくばれる高田たかだ陸軍りくぐん師団しだん豊橋とよはし陸軍りくぐん師団しだん岡山おかやま陸軍りくぐん師団しだん久留くるべい陸軍りくぐん師団しだんの4陸軍りくぐん師団しだん削減さくげんして大量たいりょう将校しょうこう人員じんいん削減さくげんなど陸軍りくぐん軍縮ぐんしゅくおこない、兵力へいりょく削減さくげんした経費けいひ戦車せんしゃ自動車じどうしゃ航空機こうくうきなど20世紀せいき導入どうにゅうされた軍事ぐんじ装備そうび大量たいりょう配置はいちして陸軍りくぐん近代きんだいおこない、中等ちゅうとう学校がっこう現在げんざい高等こうとう学校がっこう課程かていにほぼ相当そうとう以上いじょう男子だんし学校がっこうのカリキュラムに軍事ぐんじ教練きょうれんもうけて過剰かじょうとなった将校しょうこう教官きょうかんにした[17]

1925ねん大正たいしょう14ねん)、普通ふつう選挙せんきょほう成立せいりつさせ、納税のうぜいがくによらず25さい以上いじょう成人せいじん男子だんし全員ぜんいん選挙せんきょけんあたえる男子だんし普通ふつう選挙せんきょ実現じつげんすることになる。しかし、婦人ふじん参政さんせいけんみとめず、生活せいかつ貧困ひんこんしゃ選挙せんきょけんみとめないなどの制約せいやくがあった[18]せんには「革命かくめい」の安全弁あんぜんべんとしての役割やくわり期待きたいされていたが、同時どうじに8ねんまえロシア革命かくめいのように「革命かくめい発火はっかてん」になるおそれもかんがえられたため、ひろしせんほう同時どうじ治安ちあん維持いじほう成立せいりつさせ、「国体こくたい変革へんかく」「私有しゆう財産ざいさん否定ひてい」を目的もくてきとした活動かつどう禁止きんしと、そうした結社けっしゃ加入かにゅうすることを厳重げんじゅうまった[19]。また、みことのりれい175ごう1925ねん大正たいしょう14ねん5月8にちにより、朝鮮ちょうせん台湾たいわん樺太からふとにも治安ちあん維持いじほう施行しこうされる。しかしせん実現じつげんにより、無産むさん政党せいとうにも議会ぎかい進出しんしゅつみちひらかれ、1926ねん大正たいしょう15ねん)には労働ろうどう農民のうみんとう発足ほっそくした。また同年どうねん治安ちあん警察けいさつほうだい17じょう廃止はいしされた。外交がいこうめんでは、にち基本きほん条約じょうやくむすんで世界せかい史上しじょうはつ社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかソビエト連邦れんぽうとの国交こっこう樹立じゅりつした[16]

同年どうねん12がつ25にち大正天皇たいしょうてんのうが47さい崩御ほうぎょし、その長男ちょうなん摂政せっしょうつとめていた皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのうが25さい践祚せんそし、15ねんほどつづいた大正たいしょう時代じだいわり、63年間ねんかんおよ昭和しょうわ時代じだいへと突入とつにゅうした。

だいいち世界せかい大戦たいせん景気けいき

[編集へんしゅう]
新渡戸にとべ稲造いなぞう

1914ねん大正たいしょう3ねん)には、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。元老げんろう井上いのうえかおるはその機会きかいを「天佑てんゆう」とい、にちえい同盟どうめい理由りゆう参戦さんせんした。本土ほんど植民しょくみん被害ひがいこうむることこそなかったものの、連合れんごうこく要請ようせいけてヨーロッパにも派兵はへい多数たすう戦死せんししゃした結果けっか戦勝せんしょうこく一員いちいんとなった。

発生はっせい直後ちょくごこそは世界せかいてき規模きぼへの拡大かくだいたいする混乱こんらんから一時いちじ恐慌きょうこう寸前すんぜんにまでおちいったが、やがて戦火せんかれたヨーロッパの列強れっきょう各国かっこくわり日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくりょう新興しんこう国家こっか物資ぶっし生産せいさん拠点きょてんとして貿易ぼうえき加速かそくさせ、日本にっぽん経済けいざい空前くうぜん好景気こうけいきとなり、おおきく経済けいざい発展はってんさせた。とく世界せかいてきしな不足ふそくとなった影響えいきょう繊維せんい紡績ぼうせき産業さんぎょう漁網ぎょもう製造せいぞう産業さんぎょう)などの軽工業けいこうぎょう造船ぞうせんぎょう製鉄せいてつぎょうなど重工業じゅうこうぎょう飛躍ひやくてき発展はってんして、後進こうしんてき発達はったつ産業さんぎょうであった化学かがく工業こうぎょう最大さいだい輸入ゆにゅうさきであるドイツ帝国ていこくおよオーストリア=ハンガリー帝国ていこくとの交戦こうせんによって自国じこくによる生産せいさん必要ひつようとされて、一気いっき近代きんだいすすんだ。こうしたなか多数たすうの「成金なりきん」が出現しゅつげんする。また、政府せいふ財政ざいせいにち戦争せんそう以来いらいつづいた財政難ざいせいなん克服こくふくすることに成功せいこうする[20]

しかし、1918ねん大正たいしょう7ねん)に戦争せんそう終結しゅうけつすると過剰かじょう設備せつび投資とうし在庫ざいこ滞留たいりゅう原因げんいんとなって反動はんどうきょう発生はっせいした。さらに戦時せんじちゅう停止ていししていたきむ輸出ゆしゅつ禁止きんし解除かいじょ(いわゆる「きむ解禁かいきん」)の時期じきいっしたために、日本銀行にっぽんぎんこう大量たいりょうきむ滞留たいりゅうして金本位きんほんいせいによる通貨つうか調整ちょうせい機能きのううしなった。さらに関東大震災かんとうだいしんさいによる京浜けいひん工業こうぎょう地帯ちたい壊滅かいめつ緊急きんきゅう輸入ゆにゅうによる在庫ざいこさらなる膨張ぼうちょう震災しんさい手形てがたとその不良ふりょう債権さいけん問題もんだい発生はっせいなどによって、景気けいき回復かいふく見通みとおしがまったたないままに昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこう世界せかい恐慌きょうこうむかえることになる。

パリ講和こうわ会議かいぎでは、「人種じんしゅ差別さべつ撤廃てっぱいあん」を主張しゅちょうし、だい多数たすうくに支持しじたがアメリカ、イギリスオーストラリアなどの反対はんたいによって否決ひけつされた。当時とうじアジアなか数少かずすくない独立どくりつこくであった日本にっぽんは、国際こくさい連盟れんめい加盟かめいし、アメリカ・イギリス・フランスイタリアの5カ国かこくなら世界せかいの1とうこくとして国際こくさい連盟れんめい常任じょうにん理事りじこくとなる。国際こくさい連盟れんめい事務じむ次長じちょうには新渡戸にとべ稲造いなぞう就任しゅうにんしている。しかしドイツ植民しょくみんであったマーシャル諸島しょとう日本にっぽん南洋なんよう諸島しょとう南洋なんようちょう設置せっちした)が日本にっぽん委任いにん統治とうちされた結果けっか日本にっぽん太平洋たいへいよう地域ちいきへの進出しんしゅつすすみ、フィリピンハワイ諸島しょとう領有りょうゆうするアメリカと直接的ちょくせつてき領土りょうど領海りょうかい境域きょういきせっするようにもなり、日米にちべい対立たいりつ関係かんけいふかまり、アメリカの圧力あつりょくにちえい同盟どうめい解消かいしょうされるなど、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)への伏線ふくせん芽生めばえることにもなった。

震災しんさい復興ふっこう

[編集へんしゅう]
後藤ごとう新平しんぺい

1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にちには関東大震災かんとうだいしんさいしょうじた[21]。この未曾有みぞうだい災害さいがい首都しゅと東京とうきょう甚大じんだい損害そんがいける[21]震災しんさいもと首相しゅしょう山本やまもと権兵衛ごんべえふたた政権せいけんにない、だい2山本やまもと内閣ないかく成立せいりつした。新内しんないかく内務ないむ大臣だいじんとなった後藤ごとう新平しんぺい震災しんさい復興ふっこうだい規模きぼ都市とし計画けいかく構想こうそうして手腕しゅわんるった。震災しんさいでの壊滅かいめつ機会きかい江戸えど時代じだい以来いらい東京とうきょうまち大幅おおはば改良かいりょうし、道路どうろ拡張かくちょう区画くかく整理せいりなどをおこなインフラ整備せいびされ、だい変革へんかくげた。

江戸えど伝統でんとう町並まちなみが一部いちぶのこして破壊はかいされ、東京とうきょう下水道げすいどう整備せいびラジオ放送ほうそう本格ほんかくてきはじまるなど近代きんだい都市としへとおおきな進化しんかげた。しかし、一部いちぶ計画けいかくされたパリロンドン参考さんこうにした環状かんじょう道路どうろ放射状ほうしゃじょう道路どうろとう建設けんせつしょ事情じじょうによりおこなわれなかった。これによってつちかわれた経験けいけん戦後せんご首都高しゅとこうそく道路どうろ建設けんせつつながる。

文化ぶんか

[編集へんしゅう]

芸能げいのう文化ぶんか

[編集へんしゅう]

日本にっぽんはつレコードでヒットした歌謡かようきょくとされる松井まつい須磨子すまこの「カチューシャのうた」をはじめとする数々かずかず歌謡かようきょく誕生たんじょうした。ジャズもこの時代じだい日本にっぽんつたわり、それなりに発展はってんする。落語らくご講談こうだんのう文楽ぶんらく歌舞伎かぶき新派しんぱげき新国劇しんこくげきなどの日本にっぽんてき伝統でんとう演劇えんげきたいして西洋せいようげき導入どうにゅうする新劇しんげき運動うんどう芸術座げいじゅつざ築地つきじしょう劇場げきじょう)がさかんになり[22]昭和しょうわ時代じだい発展はってんする芸能げいのうかい基礎きそとなる俳優はいゆう女優じょゆう歌手かしゅなどの職業しょくぎょうあたらしく誕生たんじょうして、その大衆たいしゅう文化ぶんか原型げんけいまれた。活動かつどう写真しゃしん現在げんざい映画えいが)や少女しょうじょ歌劇かげき現在げんざい宝塚歌劇団たからづかかげきだん)が登場とうじょうした[23]

都市とし文化ぶんか

[編集へんしゅう]
小林こばやし一三かずみ
大正たいしょう時代じだい洋風ようふう住宅じゅうたく兵庫ひょうごけん芦屋あしやきゅうやま邑家住宅じゅうたく

にち戦争せんそうころから、経済けいざい文化ぶんか中心ちゅうしんであった大阪おおさか神戸こうべにおいて都市とし背景はいけいにした大衆たいしゅう文化ぶんか成立せいりつし(阪神はんしんあいだモダニズム)、全国ぜんこく波及はきゅうした。今日きょうつづ日本人にっぽんじん生活せいかつ様式ようしきもこの時代じだいにルーツがもとめられるものがおおい。一方いっぽう東京とうきょうでは1915ねん大正たいしょう4ねん)に浮世絵うきよえ版画はんが復刻ふっこくをしつつ、あたらしい伝統でんとう木版もくはん創造そうぞうしようとしていた渡辺わたなべ庄三郎しょうざぶろう主導しゅどうによってフリッツ・カペラリ水彩すいさい錦絵にしきえふう木版もくはんにしたのを橋口はしぐち五葉ごよう伊東いとう深水しんすい川瀬かわせともみすい吉田よしだひろし名取なとり春仙しゅんせんらによるしん版画はんが活動かつどう開始かいしされた。このうごきは1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさいのちには新興しんこう版元はんもとおおんで全国ぜんこくてきひろまり、昭和しょうわ時代じだいまでつづいていった。

道路どうろ交通こうつう機関きかん整備せいびされた。路面ろめん電車でんしゃあおバス(東京とうきょう乗合のりあい自動車じどうしゃまどか太郎たろうバス[24]などの乗合のりあいバス市内しない走行そうこうした。大正たいしょう後期こうきから昭和しょうわ初期しょきまでのだい大阪おおさか時代じだい大阪おおさかでは、東京とうきょうよりもさきにおびただしい私鉄してつもう完成かんせいし、とりわけ小林こばやし一三かずみ主導しゅどうした阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつたくみな経営けいえいじゅつにより、阪神はんしんあいだおおくの住宅じゅうたく衛星えいせい都市としぐん出現しゅつげんした。

一方いっぽうにちしん戦争せんそう1894ねん1895ねん明治めいじ27ねん明治めいじ28ねん〕)を東洋とうよういち貿易ぼうえきこうとなっていた神戸こうべこうおびただしく流入りゅうにゅうする最新さいしん欧米おうべい文化ぶんか衛星えいせい都市とし富裕ふゆうそうれられひろまり、モダンな芸術げいじゅつ文化ぶんか生活せいかつ様式ようしき誕生たんじょうした。大阪おおさか神戸こうべ関東大震災かんとうだいしんさい東京とうきょうから文化ぶんかじん移住いじゅうとうもあって、文化ぶんかてきさらなる隆盛りゅうせいをみた。大正たいしょう中期ちゅうき都市とし洋風ようふう生活せいかつれた「文化ぶんか住宅じゅうたく」が一般いっぱん住宅じゅうたくとして流行りゅうこうをした。

東京とうきょう東京とうきょう)では、関東大震災かんとうだいしんさい火災かさいによる被害ひがい甚大じんだいだった影響えいきょう下町したまち江戸えど時代じだい街並まちなみをうしな一方いっぽう震災しんさい影響えいきょうそうじてすくなかったまるうち大手町おおてまち地区ちくにエレベーターのいたビルディングの建設けんせつ相次あいつぎ、だい企業きぎょう外資がいしけい企業きぎょう一大いちだいオフィスがい成立せいりつした。下町したまちされた人々ひとびと世田谷せたがや杉並すぎなみとうそれまで純然じゅんぜんたる農村のうそんであった地域ちいき移住いじゅうして、新宿しんじゅく渋谷しぶやたんなるさかから「ふく都心としん」へと成長せいちょうさせた。

1918ねん大正たいしょう7ねん)に専門せんもん学校がっこうから昇格しょうかくするかたち私立しりつ大学だいがく中心ちゅうしん旧制きゅうせい大学だいがく認可にんかする大学だいがくれい高等こうとう学校がっこうれい公布こうふされて高等こうとう教育きょういく機関きかん整備せいびされ、東京帝大とうきょうていだい卒業生そつぎょうせい半数はんすう民間みんかん企業きぎょう就職しゅうしょくするようになり、だい企業きぎょう外資がいしけい企業きぎょうつとめる大卒だいそつの「サラリーマン」が大衆たいしゅう主人公しゅじんこうとなった。

明治めいじ時代じだいまで呉服ごふくであった老舗しにせ次々つぎつぎに「百貨店ひゃっかてん」に変身へんしんげ、銀座ぎんざデパートまちへと変貌へんぼうした。井戸いどやまきによるかまどの使用しよう明治めいじ時代じだい石油せきゆランプすたれて、上水道じょうすいどうガス電気でんき普及ふきゅうする。神前かみまえ結婚けっこん大本おおもときょう霊友会れいゆうかいなどしん宗教しゅうきょうさかんになる。家庭かてい電気でんき器具きぐでは扇風機せんぷうき電気でんきストーブ電気でんきアイロン・電気でんきコンロ普及ふきゅうした[25]ブリキセルロイドせいおもちゃなどしん素材そざいのおもちゃが登場とうじょうした。

スポーツの開始かいし

[編集へんしゅう]

箱根はこね駅伝えきでん大会たいかいきむぐりよんさん尽力じんりょく開始かいしされて、オリンピック競技きょうぎさかんになった。1920ねん大正たいしょう9ねん)のアントワープオリンピックでは、日本人にっぽんじんはつのメダルとしてテニスでぎんメダル獲得かくとくした。朝日新聞社あさひしんぶんしゃ毎日新聞社まいにちしんぶんしゃによる中等ちゅうとう学校がっこう野球やきゅうなどのスポーツが開始かいしされた。明治めいじ神宮じんぐう外苑がいえんに「神宮じんぐう外苑がいえん野球やきゅうじょう」ができたのが1926ねん大正たいしょう15ねん)で、その前年ぜんねん出発しゅっぱつした「東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅう」が愈々いよいよ隆盛りゅうせいきわめるようなる。

マスコミの発達はったつ

[編集へんしゅう]

東京とうきょう拠点きょてんいていた『時事新報じじしんぽう』、『國民こくみん新聞しんぶん』、『まんあさほう』の主要しゅよう関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさい凋落ちょうらくし、ってかわって大阪おおさか本社ほんしゃいていた『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』、『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』が100まん突破とっぱして東京とうきょう進出しんしゅつ、それに対抗たいこうした『讀賣新聞よみうりしんぶん』も成長せいちょうたして、いまの「さんだい」といわれるようになる新聞しんぶん業界ぎょうかい基礎きそきずかれた。

1925ねん大正たいしょう14ねん)3がつには、東京とうきょう大阪おおさか名古屋なごや主要しゅようさん大都市だいとしラジオ放送ほうそうはじまり、あたらしいマスメディアが社会しゃかい刺激しげきあたえるようになる。

大正たいしょう前期ぜんき新聞しんぶんについてかれた記事きじによると、『風俗ふうぞくしょほうだいよんろくななごういちきゅういちろく大正たいしょうねんいちがつ)の「新聞紙しんぶんし」にてかしわけんせいは「新聞紙しんぶんし重宝ちょうほうなるものとしてたっとばるゝとともに、群衆ぐんしゅう心理しんり左右さゆうするおそるべき魔力まりょくゆうす。」とべている。また、光本みつもと悦三郎えつさぶろうくらじょう机上きじょうぞく東京とうきょうまいきゅうさと』(いちきゅういちよん大正たいしょうさんねんいちがつ ほししん叢書そうしょ)の「新聞しんぶん裏面りめん」にて「群盲ぐんもう新聞しんぶん裏面りめんらないで、表面ひょうめんあらわれた文字もじだけよりかはなにらない。」とあるように、大正たいしょう新聞しんぶん人々ひとびと多大ただい影響えいきょうあたえた。

自動車じどうしゃ登場とうじょう

[編集へんしゅう]

震災しんさい鉄道てつどう被害ひがいけたこともあって、「自動車じどうしゃ」が都市とし交通こうつう桧舞台ひのきぶたいにのしがり、「えんタク」などタクシー登場とうじょうもあって、旅客りょかく貨物かもつかをわず陸運りくうん手段しゅだんとしておおきな地位ちいめるようになる。また、これまでのような上流じょうりゅう階級かいきゅう富裕ふゆうそうのみならず、中流ちゅうりゅう階級かいきゅう中心ちゅうしんオースチンなどの輸入ゆにゅうしゃ中心ちゅうしんとした自家用車じかようしゃ普及ふきゅうはじまった。

しょく文化ぶんか

[編集へんしゅう]

都市としではあらたに登場とうじょうした中産ちゅうさん階級かいきゅう中心ちゅうしんに“洋食ようしょく”がひろまり「カフェ」「レストラン」が成長せいちょうして、飲食いんしょくてんのありかた変革へんかくをもたらした。カレーライスとんかつコロッケ大正たいしょうさんだい洋食ようしょくばれた[26][27][28][29][30][31][32]とくにコロッケは益田太郎冠者ますだたろうかじゃ[33]作詞さくし楽曲がっきょくコロッケのうた1917ねん大正たいしょう6ねん)にヒット)の登場とうじょうにより、洋食ようしょくとはえんのなかった庶民しょみん食卓しょくたくにまで影響えいきょうおよぶこととなった。べい騒動そうどうによる米価べいか高騰こうとう対策たいさくとしてはらたかし内閣ないかく積極せっきょくてきパン代用だいようしょく運動うんどう展開てんかいした。パンは昭和しょうわ戦後せんごになって普及ふきゅうするが、和製わせい洋食ようしょくべい御飯ごはんう、戦後せんご日本人にっぽんじん食事しょくじ主流しゅりゅう大正たいしょう時代じだい定着ていちゃくして、中華ちゅうか料理りょうり中華ちゅうかそば普及ふきゅう和食わしょく復権ふっけん運動うんどうがあった[34]ロシアパンロシア革命かくめい日本にっぽん亡命ぼうめいしてしろけいロシアじんによって紹介しょうかいされてひろまった[35]1919ねん大正たいしょう8ねん7がつ7にち日本にっぽんはじめての乳酸菌にゅうさんきん飲料いんりょうカルピス発売はつばいされる。人造じんぞうごおり発達はったつした。アイスクリーム・パン・チキンライスコーヒーラムネ紅茶こうちゃサイダービールキャラメルチョコレートなどよう食品しょくひん普及ふきゅうした[36]喫茶店きっさてんレストラン増加ぞうかした。昭和しょうわいちけたにかけて、麺類めんるい缶詰かんづめるいなど簡易かんい食品しょくひん発達はったつした[37]

ファッション

[編集へんしゅう]
モガ(1923ねん

女性じょせいあいだ洋髪ようはつ流行りゅうこうして、ななさんけ・かみ耳隠みみかくしなどがおこなわれた。女学生じょがくせい制服せいふく使用しようされた。男子だんしはセルのはかま使用しようされた。明治めいじ時代じだいまで庶民しょみんにはえんのなかった「欧米おうべいしき美容びようしつ」、「ダンスホール」が都市としではめずらしい存在そんざいではなくなり、モダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)の男女だんじょなど、男性だんせい洋装ようそうたりまえになったのもこの時代じだいである[38]一方いっぽう地方ちほうとくのう漁村ぎょそん)の労働ろうどうしゃ階級かいきゅうではそういった近代きんだいてき文化ぶんか恩恵おんけいけることはまれで、都市とし地方ちほう格差かくさちぢまらなかった[39]

学術がくじゅつ研究けんきゅう

[編集へんしゅう]

西田にしだ幾多郎きたろうなどの京都きょうと学派がくは学問がくもん主流しゅりゅうだった。東洋とうようでは内藤ないとう湖南こなんとなえたからそう変革へんかくろんさかんに論議ろんぎされた。 1915ねん大正たいしょう4ねん)に北里きたさとしば三郎さぶろう設立せつりつ北里きたさと研究所けんきゅうじょ設立せつりつされた。1917ねん大正たいしょう6ねん)に財界ざいかいからの寄付きふきん国庫こっこ補助ほじょきん皇室こうしつ下賜かしきんなどのを財源ざいげんに、半官半民はんかんはんみん財団ざいだん法人ほうじんとして理化学研究所りかがくけんきゅうしょ設立せつりつされた。その航空こうくう研究所けんきゅうじょ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく付属ふぞく研究所けんきゅうじょ航空こうくう科学かがく研究けんきゅう)・金属きんぞく材料ざいりょう研究所けんきゅうじょ本多ほんだ光太郎こうたろう提案ていあん東北とうほく帝国ていこく大学だいがく設立せつりつ)・地震じしん研究所けんきゅうじょ関東大震災かんとうだいしんさい教訓きょうくんから地震じしん地震じしん予知よち研究けんきゅう)が大正たいしょう時代じだい設立せつりつされる。

大正たいしょう文学ぶんがく

[編集へんしゅう]

文学ぶんがくかいにはしん現実げんじつ主義しゅぎ芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ耽美たんび谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう、さらに武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ志賀しが直哉なおや人道じんどう主義しゅぎ(ヒューマニズム)を理想りそうとした白樺しらかんば台頭たいとうした。このころまでに近代きんだい日本語にほんごおおくの文筆ぶんぴつらの努力どりょく形成けいせいされた。和歌わかでは萩原はぎはら朔太郎さくたろうあたらしい口語こうご自由じゆうのリズムを完成かんせいさせ、今日きょうつづ文章ぶんしょう日本語にほんごのスタイルが完成かんせいし、上記じょうきほかに、中里なかさと介山かいざんの『大菩薩峠だいぼさつとうげ』や『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』の経営けいえいにもたった菊池きくちひろしなどの文芸ぶんげい作品さくひん登場とうじょうした[40]

出版しゅっぱん業界ぎょうかいにおいては1さつ1えんの「円本えんもと」が爆発ばくはつてきれた[41]1921ねん大正たいしょう10ねん)には、小牧こまき近江おうみらによって雑誌ざっしたねひと』が創刊そうかんされ、昭和しょうわ初期しょきにかけてプロレタリア文学ぶんがく運動うんどう発展はってんした。また1924ねん大正たいしょう13ねん)には、小山内おさないかおる築地つきじしょう劇場げきじょう創立そうりつし、新劇しんげき確立かくりつさせた。新聞しんぶん同人どうじんとう次第しだい普及ふきゅうし、あたらしい絵画かいが音楽おんがく写真しゃしんや「活動かつどう写真しゃしん」とばれた映画えいがなどの娯楽ごらく徐々じょじょ充実じゅうじつした。俳壇はいだんでは『ホトトギス』が一大いちだい勢力せいりょくきずき、保守ほしゅ俳壇はいだんさい有力ゆうりょくとして隆盛りゅうせいほこった。やなぎ宗悦むねよし朝鮮ちょうせん美術びじゅつすすめて民藝みんげい運動うんどう提唱ていしょうした[42]

大正たいしょう時代じだい末期まっきには鏑木かぶらき清方きよかたが「展覧てんらんかい芸術げいじゅつ」などにたいして、版画はんがひとしのことを「卓上たくじょう芸術げいじゅつ」として提唱ていしょうした。

社会しゃかい問題もんだい

[編集へんしゅう]

社会しゃかい事業じぎょう

[編集へんしゅう]

社会しゃかい事業じぎょうめぐ議論ぎろんさかんとなり、国家こっか経営けいえい政策せいさくとしてだい1かい国勢調査こくせいちょうさ1920ねん大正たいしょう9ねん)に実施じっしされた。べい騒動そうどうには政府せいふ地方ちほう社会しゃかいきょくおよび方面ほうめん委員いいん制度せいど創設そうせつ相次あいついでおこなわれ、それらの機関きかんによって都市とし貧民ひんみん調査ちょうさ公設こうせつ市場いちば設置せっちなどがすすめられていった。

医療いりょう衛生えいせい問題もんだい

[編集へんしゅう]

東京とうきょう大阪おおさかなどの都市とし上水道じょうすいどう普及ふきゅうした。明治めいじまで非常ひじょうおおかった乳児にゅうじ死亡しぼうりつ大正たいしょう減少げんしょうした。世界中せかいじゅうパンデミックこしたスペイン風邪かぜ日本にっぽん国内こくないで2380まんにん当時とうじたい人口じんこうやく43%)が感染かんせんし、島村しまむら抱月ほうげつ大山おおやま捨松すてまつ皇族こうぞくでは竹田たけだみや恒久こうきゅうおう死去しきょするなどやく39まんにん日本人にっぽんじん死亡しぼうした[43]

教化きょうか総動員そうどういん運動うんどう

[編集へんしゅう]

また、1919ねん大正たいしょう8ねん)にはだいいち世界せかい大戦たいせん契機けいきとした国民こくみん思想しそう生活せいかつ変動へんどう対処たいしょするという目的もくてき内務省ないむしょう主導しゅどうによる民力みんりょく涵養かんよう運動うんどう開始かいしされており、教化きょうか総動員そうどういん運動うんどう先駆さきがけともなる、国家こっか国民こくみん生活せいかつ隅々すみずみまで統制とうせいおこなおうとする傾向けいこうがこの時期じきからられるようになる。

労働ろうどう運動うんどう

[編集へんしゅう]

こうして大正たいしょう年間ねんかんにおいて社会しゃかい事業じぎょう活発かっぱつとなった原因げんいんとして、小作こさく争議そうぎ頻発ひんぱつ労働ろうどう運動うんどうだい規模きぼなど、地方ちほう改良かいりょう運動うんどうられるような従来じゅうらい生産せいさん拡大かくだい方針ほうしんでは解決かいけつ不可能ふかのう問題もんだい深刻しんこくしたことが指摘してきされている。

鈴木すずき文治ぶんじによって友愛会ゆうあいかい設立せつりつされて、だいいち世界せかい大戦たいせん期間きかんちゅうインフレ進行しんこうしたことによってべい騒動そうどう発生はっせいした。成金なりきん誕生たんじょうする一方いっぽう貧富ひんぷ拡大かくだいしたことで急増きゅうぞうした労働ろうどう争議そうぎ友愛ゆうあいかいなどの労働ろうどう組合くみあいふか関係かんけいした[44]

部落ぶらく解放かいほう運動うんどう

[編集へんしゅう]

大正たいしょうデモクラシーによって様々さまざま社会しゃかい運動うんどうおこなわれた。

明治めいじ四民しみん平等びょうどうとなったのちも、差別さべつ部落ぶらく出身しゅっしんしゃたいする差別さべつのこった。明治めいじ政府せいふ貧困ひんこん対策たいさく身分みぶん解放かいほう政策せいさく不備ふび、また賎民せんみん専用せんよう皮革ひかく産業さんぎょうなどの生業せいぎょううしな貧困ひんこんそうとなったことや、きゅう百姓ひゃくしょう身分みぶん農民のうみんそうからの偏見へんけんがあった。西光さいこう万吉まんきち阪本さかもと清一郎せいいちろうらが中心ちゅうしんとなり1922ねん大正たいしょう11ねん)に全国ぜんこく水平すいへいしゃ結成けっせいされた[45]

女性じょせい解放かいほう運動うんどう

[編集へんしゅう]
大正たいしょう時代じだい女学生じょがくせい

女性じょせい解放かいほうさけばれ、ウェートレスデパート店員てんいんバスガール・電話でんわ交換こうかんしゅ劇場げきじょう案内あんないじん美容びよう事務じむいん和文わぶん英文えいぶんタイピスト通訳つうやく保母ほぼ看護かんご医師いしなど社会しゃかい進出しんしゅつしてはたら職業しょくぎょう婦人ふじん増加ぞうかした。

普通ふつう選挙せんきょ運動うんどう対象たいしょう男性だんせいのみであったことから、女性じょせい地位ちい向上こうじょう目指めざ女性じょせい運動うんどう出現しゅつげん[46]しん婦人ふじん協会きょうかい設立せつりつされた。また、高等こうとう女学校じょがっこう大学だいがく進学しんがくする女子じょし生徒せいとえた[10]

朝鮮ちょうせん併合へいごう問題もんだい

[編集へんしゅう]

さんいち運動うんどうによって朝鮮ちょうせん総督そうとくがこれまでの憲兵けんぺい警察けいさつ制度せいどによる武断ぶだん統治とうち見直みなおし、うちいちたい朝鮮半島ちょうせんはんとう近代きんだい目的もくてきとする文化ぶんか政治せいじあらためた。貧困ひんこんからのがれるため朝鮮ちょうせんじん外地がいちから内地ないちへの密航みっこう多発たはつして、在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん増加ぞうかともな内地ないちじんとの軋轢あつれき社会しゃかい不安ふあん社会しゃかい問題もんだいとなった。

大正たいしょう仏教ぶっきょう運動うんどう

[編集へんしゅう]

西洋せいよう思想しそう影響えいきょうけて仏教ぶっきょう近代きんだいし、仏教ぶっきょう思想しそう西洋せいよう哲学てつがく統合とうごうする仏教ぶっきょう近代きんだい政策せいさく実施じっしされた。僧侶そうりょ参政さんせいけん運動うんどう明治めいじ末期まっきから大正たいしょうかけてあった。僧侶そうりょ政治せいじ活動かつどうさかんで妹尾せのお義郎よしお新興しんこう仏教ぶっきょう青年せいねん同盟どうめい結成けっせいした。仏教ぶっきょう関係かんけい政治せいじ団体だんたいさかんに社会しゃかい運動うんどうおこなうが昭和しょうわせん前期ぜんき軍部ぐんぶによって弾圧だんあつされた。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくインド哲学てつがく専門せんもん学科がっか1917ねん大正たいしょう6ねん)に開設かいせつされた。井上いのうえ円了えんりょう中心ちゅうしん仏教ぶっきょう迷信めいしん否定ひていする妖怪ようかい研究けんきゅうがあった。1924ねん大正たいしょう13ねん)に大正たいしょうしんおさむ大蔵経だいぞうきょう編纂へんさん開始かいしされた。 [47]

年表ねんぴょう

[編集へんしゅう]
1912ねん大正たいしょう元年がんねん
7がつ30にち明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょ皇太子こうたいしよしみじん親王しんのうだい123だい天皇てんのう践祚せんそ明治めいじから大正たいしょう改元かいげんされる。明治天皇めいじてんのう大喪たいそうれい乃木のぎ希典まれすけ陸軍りくぐん大将たいしょう夫妻ふさい殉死じゅんしする。かつら太郎たろうだい3かつら内閣ないかく成立せいりつ憲政けんせい擁護ようごかい結成けっせい火力かりょく発電はつでんいて水力すいりょく発電はつでんりょうだい1になる。友愛会ゆうあいかい結成けっせい[48]
1913ねん大正たいしょう2ねん
大正たいしょう政変せいへんだい3かつら太郎たろう内閣ないかくそう辞職じしょく)、だい1山本やまもと権兵衛ごんべえ内閣ないかく成立せいりつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅう排日はいにち土地とちほう成立せいりつ宝塚たからづかうたうたたい宝塚歌劇団たからづかかげきだん誕生たんじょう
1914ねん大正たいしょう3ねん
鹿児島かごしまけん桜島さくらじまだい噴火ふんかして大隅半島おおすみはんとう陸続りくつづきになる(さくらとう大正大たいしょうだい噴火ふんか)。外電がいでんによりシーメンス事件じけん発覚はっかく大正天皇たいしょうてんのう即位そくい奉祝ほうしゅく東京とうきょう大正たいしょう博覧はくらんかいはじまる。「カチューシャのうた」の流行りゅうこう日本にっぽんはつ国産こくさんしゃ登場とうじょうだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにちえい同盟どうめい理由りゆうドイツ帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこく連合れんごうこく一員いちいんくわわる。東京とうきょうえき開業かいぎょう三越みつこし呉服ごふくてん日本にっぽんはつデパートメントストア宣言せんげんおこない、エレベーター・エスカレーターきの近代きんだいてき店舗てんぽ建築けんちく
1915ねん大正たいしょう4ねん
日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこく袁世凱政権せいけんたいはな21ヶ条かじょう要求ようきゅうだい12かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ与党よとう圧勝あっしょう[49]選挙せんきょ干渉かんしょうなどがきる。だい1かい全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう優勝ゆうしょう野球やきゅう大会たいかい開催かいさい大正天皇たいしょうてんのう即位そくいれい東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ空前くうぜん出来高できだか
1916ねん大正たいしょう5ねん
吉野よしの作造さくぞうが「中央公論ちゅうおうこうろん」で「民本主義みんぽんしゅぎ」を提案ていあん夏目なつめ漱石そうせき死去しきょ
1917ねん大正たいしょう6ねん
4がつ20日はつかだい13かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ政友せいゆうかい165議席ぎせき憲政けんせいかい121議席ぎせき国民党こくみんとう35議席ぎせき無所属むしょぞく60議席ぎせき)。ロシア革命かくめい中国ちゅうごくでの日本にっぽん権益けんえきかんする米国べいこくとの石井いしい・ランシング協定きょうてい締結ていけつ
東京とうきょう海上かいじょうビル(日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてき高層こうそうオフィスビル)
1918ねん大正たいしょう7ねん
シベリア出兵しゅっぺい1918ねんまい騒動そうどう松下まつした幸之助こうのすけ二股ふたまたソケットす。鈴木すずき三重吉みえきちが「あかとり創刊そうかんだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつスペインかぜ流行りゅうこう拡大かくだいだい1)。武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ宮崎みやざきけんに「あたらしきむら」を建設けんせつ大学だいがくれい公布こうふ東京とうきょう海上かいじょうビル完成かんせい
1919ねん大正たいしょう8ねん
パリ講和こうわ会議かいぎ開催かいさい3月1にち朝鮮半島ちょうせんはんとうさんいち運動うんどう
モスクワコミンテルン創立そうりつ大会たいかい7がつ13にちひろししろ事件じけんカルピス発売はつばい選挙せんきょほう改正かいせい全国ぜんこくせん期成きせい大会たいかい開催かいさい。「パイノパイノパイ東京とうきょうぶし)」の流行りゅうこう
1920ねん大正たいしょう9ねん
国際こくさい連盟れんめい設立せつりつあまみなと事件じけんしん婦人ふじん協会きょうかい設立せつりつ大正天皇たいしょうてんのうだい1かい病状びょうじょう発表はっぴょうがされる。上野公園うえのこうえん日本にっぽんはつメーデー5がつ10日とおかだい14かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ政友せいゆうかい278議席ぎせき憲政けんせいかい110議席ぎせき国民党こくみんとう29議席ぎせき、,無所属むしょぞく47議席ぎせき)、だい1かい国勢調査こくせいちょうさそう人口じんこう7698まん8379にん内地ないち5596まん3053にん)。明治めいじ神宮じんぐう造営ぞうえい工事こうじ施工しこう11月4にち尾崎おざき行雄ゆきおいぬやしなえあつし島田しまだ三郎さぶろうら、政界せいかい革新かくしんせん同盟どうめいかい結成けっせい
1921ねん大正たいしょう10ねん
安田やすだ善次郎ぜんじろう暗殺あんさつはらたかし暗殺あんさつ事件じけん皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう欧州おうしゅう訪問ほうもん実施じっし摂政せっしょうへの就任しゅうにん羽仁はにもと自由学園じゆうがくえん創立そうりつスペインかぜ感染かんせん終焉しゅうえん
1922ねん大正たいしょう11ねん
ワシントン会議かいぎ開催かいさい、(よんカ国かこく条約じょうやくきゅうカ国かこく条約じょうやくワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく)。
山縣やまがた有朋ありとももり鷗外死去しきょ大阪おおさか名古屋なごや八幡やはた官業かんぎょう労働ろうどうしゃデモ
ソビエト連邦れんぽう成立せいりつする。
コミンテルン日本にっぽん支部しぶとしてさかい利彦としひこ山川やまかわひとし日本にっぽん共産党きょうさんとう結成けっせい
アインシュタイン来日らいにち
1923ねん大正たいしょう12ねん
関東大震災かんとうだいしんさい、『国民こくみん精神せいしん作興さっこうせきスル詔書しょうしょ』が発布はっぷされる。「船頭せんどう小唄こうた」の流行りゅうこうまるうちビルヂング完成かんせい亀戸かめいど事件じけん甘粕あまかす事件じけんとらもん事件じけん
1924ねん大正たいしょう13ねん
排日はいにち移民いみんほう米国べいこく連邦れんぽう議会ぎかい成立せいりつ皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう久邇くにみや良子りょうこ女王じょおう(のちこうじゅん皇后こうごう)と成婚せいこん良子りょうこ女王じょおう皇太子こうたいしとなる。だい15かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ護憲ごけんさん大勝たいしょう憲政けんせいかい151議席ぎせき政友せいゆうかい105議席ぎせき革新かくしん倶楽部くらぶ30議席ぎせき政友せいゆうほんとう109議席ぎせき無所属むしょぞく69議席ぎせき)、トル法とるほう実施じっし甲子園こうしえん球場きゅうじょう完成かんせい婦人ふじん参政さんせいけん獲得かくとく期成きせい同盟どうめいかい結成けっせいだい護憲ごけん運動うんどう
1925ねん大正たいしょう14ねん
治安ちあん維持いじほう制定せいてい
普通ふつう選挙せんきょほう制定せいてい
にち基本きほん条約じょうやく締結ていけつ
日本にっぽん政府せいふソビエト連邦れんぽう国家こっか承認しょうにんする。
日本にっぽんはつのラジオ放送ほうそう
1926ねん大正たいしょう15ねん/昭和しょうわ元年がんねん
1がつ30にちだい1若槻わかつき内閣ないかく若槻わかつき禮次郎れいじろう首相しゅしょう憲政けんせいかい内閣ないかく成立せいりつ労働ろうどう農民のうみんとう結成けっせい朝鮮ちょうせん6・10まんさい運動うんどう日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい設立せつりつ12月25にち大正天皇たいしょうてんのう崩御ほうぎょ、それにともな皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのうだい124だい天皇てんのう践祚せんそひかりぶん事件じけん同日どうじつ昭和しょうわ改元かいげん

西暦せいれきとの対照たいしょうひょう

[編集へんしゅう]
大正たいしょう 元年がんねん 2ねん 3ねん 4ねん 5ねん 6ねん 7ねん 8ねん 9ねん 10ねん
西暦せいれき 1912ねん 1913ねん 1914ねん 1915ねん 1916ねん 1917ねん 1918ねん 1919ねん 1920ねん 1921ねん
干支えと みずのえ みずのとうし きのえとら おつ へいたつ ちょう つちのえうま おのれ 庚申こうしん からしとり
大正たいしょう 11ねん 12ねん 13ねん 14ねん 15ねん
西暦せいれき 1922ねん 1923ねん 1924ねん 1925ねん 1926ねん
干支えと みずのえいぬ みずのと 甲子きのえね おつうし へいとら
元年がんねん最終さいしゅうねん期間きかん
大正たいしょう元年がんねん(1912ねん): 7がつ30にち〜12月31にち〈155日間にちかん
大正たいしょう15ねん(1926ねん): 1がつ1にち〜12月25にち〈359日間にちかん

大正たいしょう時代じだい評価ひょうか

[編集へんしゅう]

現代げんだいにおける大正たいしょう

[編集へんしゅう]

2019ねんれい元年がんねん10月1にち時点じてんでは、日本にっぽんにおける明治めいじ大正たいしょうまれの人口じんこうは114まん1せんにんそう人口じんこうの0.9%[52]

2020ねんごろより都道府県とどうふけんさい高齢こうれいしゃ大正たいしょうまれとなるケースがてきている。男性だんせいさい高齢こうれいしゃ過半数かはんすう都道府県とどうふけん大正たいしょうまれがさい高齢こうれい大正たいしょう5ねんさい高齢こうれいとなるけんてきている[53]大正たいしょう元年がんねんまれは2022ねんで110さいむかえた。

大正たいしょうかんするもの

[編集へんしゅう]

企業きぎょう

[編集へんしゅう]

地名ちめい公共こうきょう施設しせつ

[編集へんしゅう]

テーマパーク

[編集へんしゅう]

文化ぶんか作品さくひんめい

[編集へんしゅう]

商品しょうひん

[編集へんしゅう]

学校がっこう

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 南北なんぼくあさ時代じだい北朝ほくちょう元号げんごうのぞくかふくめるかによる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん大正たいしょう時代じだい
  2. ^ 明治めいじ45ねん(1912)7がつ大正たいしょう改元かいげん日本にっぽんのあゆみ”. 2020ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ 明治めいじ」は11度目どめ正直しょうじきせんかられた元号げんごうあん最多さいたは40かい時事じじドットコム、2019ねん02がつ02にち1519ふん
  4. ^ 昭和しょうわ」を考案こうあんしたおとこと「れい」にまで影響えいきょうしたもり鷗外の執念しゅうねん”. 現代げんだいビジネス. 講談社こうだんしゃ (2019ねん5がつ2にち). 2021ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  5. ^ だいいち1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月から翌年よくねんにかけてだい3かつら内閣ないかく打倒だとう運動うんどう東京とうきょう中心ちゅうしんにして各地かくち憲政けんせい擁護ようご大会たいかいひらかれた。だい1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ清浦きようら内閣ないかく打倒だとう運動うんどうこし、政党せいとうないかく普通ふつう選挙せんきょ貴族きぞくいん改革かいかく要求ようきゅうした。
  6. ^ 政党せいとうがわ闘志とうしであるこの二人ふたりは、中華民国ちゅうかみんこくたいする「21かじょう要求ようきゅう」には日本にっぽん特権とっけん肯定こうていしていた。(遠山とおやま茂樹しげき今井いまい清一せいいち藤原ふじわらあきら昭和しょうわ』[新版しんぱん] 岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ355〉 1959ねん 15ページ)
  7. ^ デモクラシーの訳語やくご遠山とおやま茂樹しげき今井いまい清一せいいち藤原ふじわらあきら昭和しょうわ』[新版しんぱん] 岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ355〉 1959ねん 14ページ)
  8. ^ 明治めいじ神宮じんぐう鎮座ちんざ戦後せんご復興ふっこう”. 明治めいじ神宮じんぐう崇敬すうけいかい. 2020ねん10がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん11月29にち閲覧えつらん
  9. ^ 皿木さらぎ喜久よしひさ大正たいしょう時代じだいたずねてみた 平成へいせい日本にっぽんげんけい』「大正たいしょう世代せだい」 (産経新聞さんけいしんぶんしゃ、2002ねんの178ページから〜181ページの明治めいじじんたりくの項目こうもく
  10. ^ a b c 化粧けしょう文化ぶんか』8ごう大正たいしょうモダン」ポーラ文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、2015
  11. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)190ぺーじ
  12. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)193ぺーじ
  13. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)196ぺーじ
  14. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)202ぺーじ
  15. ^ 遠山とおやま茂樹しげき今井いまい清一せいいち藤原ふじわらあきら昭和しょうわ』[新版しんぱん] 岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ355〉 1959ねん 16ページ
  16. ^ a b c d 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』(平凡社へいぼんしゃ)「大正たいしょう」の項目こうもく
  17. ^ 図説ずせつ日本にっぽん通覧つうらん』253ぺーじ
  18. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)225ぺーじ
  19. ^ 1925ねん大正たいしょう14ねん)の新聞しんぶん治安ちあん維持いじほう批判ひはんてき論評ろんぴょう掲載けいさいするとともに、社説しゃせつでも正面しょうめんから反対はんたいした。「社説しゃせつ」ではどうほうは「人権じんけん蹂躙じゅうりん人権じんけん抑圧よくあつ」であり、国民こくみん生活せいかつ思想しそうまでまりの対象たいしょうになり、集会しゅうかい結社けっしゃ自由じゆうはなきにいたるとろんじた。どうほう成立せいりつ背景はいけいとして、だいいち世界せかい大戦たいせんとロシア革命かくめい以後いご社会しゃかい運動うんどう社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうがりを抑制よくせいする政策せいさくとしてかんがえられてきたものであったが、また、アメリカ政府せいふ主義しゅぎ取締とりしまりほうはじめとする世界せかいてき治安ちあん立法りっぽううごきが影響えいきょうしたとかんがえられる。(成田なりた)龍一りゅういち大正たいしょうデモクラシー』シリーズ日本にっぽん近代きんだい岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ1045〉 2007ねん 210-211ページ
  20. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)200ぺーじ
  21. ^ a b 人的じんてき被害ひがいの9わり東京とうきょう横浜よこはま集中しゅうちゅう : 関東大震災かんとうだいしんさいかえ”. ニッポンドットコム (2019ねん8がつ30にち). 2020ねん11月29にち閲覧えつらん
  22. ^ 大正たいしょうから昭和しょうわ少年しょうねん少女しょうじょ日本にっぽん歴史れきし202ぺーじ〜207ぺーじ
  23. ^ 日本にっぽん歴史れきし角川かどかわまんが学習がくしゅうシリーズ)大正たいしょう71ぺーじ
  24. ^ 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわのくらし②大正たいしょうのくらしと文化ぶんか」14ページ、しおぶんしゃ
  25. ^ 集英社しゅうえいしゃ学習がくしゅう漫画まんが日本にっぽん歴史れきし大正たいしょう時代じだい大正たいしょうデモクラシー125ぺーじ
  26. ^ 江原えばら絢子あやこ石川いしかわ寛子ひろこ家事かじ教科書きょうかしょからみた調理ちょうり教育きょういくの営的研究けんきゅう(その2)―大正たいしょう―」『家政学かせいがく雑誌ざっしだい37かんだい1ごう日本にっぽん家政かせい学会がっかい、1986ねん、67-75ぺーじ (72ページより)
  27. ^ 進藤しんどう健一けんいち"どんなものにはまってますか? おもわずパクつく「背徳はいとくのグルメ」"朝日新聞あさひしんぶん2014ねん8がつ30にちづけ朝刊ちょうかん週末しゅうまつbe2ページ
  28. ^ 橋本はしもと直樹なおき (2016ねん4がつ14にち). “わり日本食にほんしょく 6 「洋食ようしょく物語ものがたり”. 大人おとなのためのしょくそだて しょくそだて博士はかせ辛口からくちレクチャー. 2017ねん3がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  29. ^ 長友ながとも麻希まき. “洋食ようしょく”. 京都きょうと観光かんこう協会きょうかい. 2020ねん8がつ9にち閲覧えつらん
  30. ^ だい5しょう 近代きんだい明治めいじから昭和しょうわ戦前せんぜん)―洋食ようしょく和食わしょく”. 2013ねん経済学部けいざいがくぶゼミナール大会たいかい報告ほうこく論文ろんぶん 日本にっぽんしょく文化ぶんか歴史れきし. 松山大学まつやまだいがく. 2016ねん8がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  31. ^ 木村きむら智彦ともひこ (2011ねん5がつ24にち). “本校ほんこう歴史れきしその8 大正たいしょう時代じだい旧制きゅうせい中学ちゅうがく”. 浪速なにわ高等こうとう学校がっこう中学校ちゅうがっこう. 2016ねん8がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  32. ^ コロッケ検定けんてい”. 日本にっぽんコロッケ協会きょうかい. 2016ねん6がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  33. ^ [1]
  34. ^ 皿木さらぎ喜久よしひさ大正たいしょう時代じだいたずねてみた 平成へいせい日本にっぽんげんけい』「大正たいしょう世代せだい」 (産経新聞さんけいしんぶんしゃ、2002ねん148ページから〜151ページの大正たいしょう時代じだいの3だい洋食ようしょく-『明日あしたもコロッケ』だった時代じだい項目こうもく
  35. ^ 教科書きょうかしょっていない戦前せんぜん日本にっぽん」55ぺーじ
  36. ^ 日本にっぽん歴史れきし角川かどかわまんが学習がくしゅうシリーズ)大正たいしょう74ぺーじ
  37. ^ 少年しょうねん少女しょうじょ日本にっぽん歴史れきし大正たいしょうから昭和しょうわへ224ぺーじ
  38. ^ 日本にっぽん歴史れきし角川かどかわまんが学習がくしゅうシリーズ)大正たいしょう152ぺーじ
  39. ^ 大正たいしょうから昭和しょうわ少年しょうねん少女しょうじょ日本にっぽん歴史れきし224ぺーじ〜225ぺーじ
  40. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)228ぺーじ
  41. ^ 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわのくらし②大正たいしょうのくらしと文化ぶんかの37ページ。しおぶんしゃ出版しゅっぱんしゃである
  42. ^ 日本にっぽん歴史れきし角川かどかわまんが学習がくしゅうシリーズ)大正たいしょう153ぺーじ
  43. ^ 『「スペイン風邪かぜだい流行りゅうこう記録きろく平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ、2008ねん、p.104。国会こっかいデジタルライブラリー『流行りゅうこうせい感冒かんぼう
  44. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)212ぺーじ
  45. ^ 世界せかい日本にっぽん新版しんぱん ジュニアばん日本にっぽん歴史れきし)215ぺーじ
  46. ^ 松尾まつおたかし兊『日本にっぽん歴史れきしだい17かん大正たいしょう時代じだい大正たいしょうデモクラシー』118ページ〜120ページの復興ふっこうする都市とし女性じょせい進出しんしゅつ項目こうもく
  47. ^ いちさつでわかるイラストでわかる図解ずかい仏教ぶっきょう成美せいびどう発行はっこうの73ぺーじ
  48. ^ マンガ日本にっぽん歴史れきし現代げんだいへん大戦たいせんとデモクラシー。石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう執筆しっぴつの200ぺーじ
  49. ^ 同志どうしかい153議席ぎせき,政友せいゆうかい108議席ぎせき,中正ちゅうせいかい33議席ぎせき国民党こくみんとう27議席ぎせき大隈おおくまはく後援こうえんかい12議席ぎせき無所属むしょぞく48議席ぎせき
  50. ^ 松尾まつおたかし兊『日本にっぽん歴史れきしだい17かん大正たいしょう時代じだい大正たいしょうデモクラシー』15ページの上段じょうだんの2コマ 集英社しゅうえいしゃ
  51. ^ 皿木さらぎ喜久よしひさ平成へいせい日本にっぽんげんけい大正たいしょう時代じだいたずねてみた』216ページ10ぎょうから〜17ぎょう
  52. ^ https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2019np/index.html
  53. ^ けん男性だんせいさい高齢こうれいしゃ死亡しぼう/みなみ日本にっぽん新聞しんぶん 2022.2.1 社会しゃかい 1ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 皿木さらぎ喜久よしひさ平成へいせい日本にっぽんげんけい大正たいしょう時代じだいたずねてみた』
  • 松尾まつおたかし日本にっぽん歴史れきしだい17かん大正たいしょう時代じだい大正たいしょうデモクラシー』
  • 成田なりた龍一りゅういち大正たいしょうデモクラシー』
  • 学習院大学がくしゅういんだいがく史料しりょうかん絵葉書えはがき大正たいしょう時代じだい
  • 肥後ひご和男かずお少年しょうねん少女しょうじょ日本にっぽん歴史れきし大正たいしょうから昭和しょうわへ』

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]