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錦絵にしきえ

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錦絵にしきえ(にしきえ)とは、日本にっぽん江戸えど時代じだい中期ちゅうき確立かくりつした、版元はんもと絵師えしすりよんしゃ分業ぶんぎょうによる、木版もくはん浮世絵うきよえ形態けいたいである。本論ほんろんでは、いちまいりもしくは連作れんさくし、版本はんぽんふくめない。

歴史れきし

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色摺いろずり開発かいはつ

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明和めいわ2ねん1765ねん)ごろ、裕福ゆうふく俳諧はいかいひとたちのあいだで、当時とうじ大小だいしょうといわれていた絵暦えごよみ交換こうかんするかい流行りゅうこうした。そのなかに大久保おおくぼきょかわ阿部あべ莎鶏薬種やくしゅしょう小松こまつひゃくかめらがおり、かれらはかね糸目いとめをつけずにりの技術ぎじゅつ開発かいはつしていった。このころは太陰暦たいいんれき使用しようしており、そのとしのうち、30にちあるつきだいつきとし、29にちしかないつきしょうつきとして、はんのようにあらわした摺物すりもの制作せいさくし、仲間なかま同士どうしでその趣向しゅこうたのしみ、交換こうかんしあうかいひらかれていた。なお、およそ3ねんいち閏月じゅんげつがあり、このわせは一定いっていではなかったため、そのとし大小だいしょうがつあらわしたこよみくばられたのであった。そのうち、より贅沢ぜいたく華美かび摺物すりものもとめてゆくなかで、版元はんもと鈴木すずき春信はるのぶ礒田いそだ湖龍斎こりゅうさい本職ほんしょく浮世絵うきよえたちにその作画さくが依頼いらいすりもそれにおうじるように飛躍ひやくてき技術ぎじゅつ向上こうじょう色摺いろずり木版もくはん発展はってんしていった。明和めいわ3ねん1766ねん)の前半ぜんはんにはこの絵暦えごよみ交換こうかんかい流行りゅうこうおさまっていったが、美麗びれい摺物すりもの着眼ちゃくがんした版元はんもとは、注文ちゅうもんしゃ名前なまえなどを削除さくじょ、これらを「ひがし錦絵にしきえ」または「吾妻あづま錦絵にしきえ」としょうしてしたのが、錦絵にしきえはじまりであった。この錦絵にしきえという名称めいしょうは、従来じゅうらいべにすりなどの浮世絵うきよえ版画はんがくらべて、まさににしき織物おりもののようなうつくしさをほこっていたことによる。使用しようするかみも、より上質じょうしつ奉書ほうしょになり、顔料がんりょう胡粉ごふんれた中間色ちゅうかんしょくもちいられ、微妙びみょう色調しきちょう表現ひょうげんできるようになり、これ以降いこう錦絵にしきえ全盛期ぜんせいきむかえることとなった。また、版木はんぎには良質りょうしつさくらほおもちいられるようになった。

春信はるのぶから歌麿うたまろ

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春信はるのぶ明和めいわ7ねん1770ねん)に急死きゅうしするが、その美人びじんでは北尾きたお重政しげまさのよりリアルな表現ひょうげんこう浮世絵うきよえたちにおおくの影響えいきょうあたえ、役者やくしゃでは、勝川かちがわはるあきら一筆斎文調いっぴつさいぶんちょうらが、従来じゅうらい鳥居とりいのものとはことなる独自どくじ作品さくひんえがいていった。安永やすなが後期こうきから天明てんめいのころには役者やくしゃ勝川かちがわ独占どくせんはるしょうはじめ、かれ門人もんじん勝川かちがわはるえい勝川かちがわはるこのみらが活躍かつやくしている。また、寛政かんせいになると、美人びじんにおいては喜多川きたがわ歌麿うたまろ輩出はいしゅつ世間せけん歌麿うたまろふう美人びじん全盛期ぜんせいきとなるが、寛政かんせい2ねん1790ねん)に浮世絵うきよえ表現ひょうげん内容ないよう検閲けんえつする改印かいいん制度せいどができてその出版しゅっぱん様々さまざま禁令きんれいた。おな時期じき旗本はたもと出身しゅっしんとりぶんときさかえこれ高雅こうが気品きひんあふれる清楚せいそ美人びじんをえがいて歌麿うたまろ拮抗きっこう門人もんじんさかえあきら栄里えりさかえすいさかえふからは歌麿うたまろ影響えいきょうけた美人びじんで、また栄松えいまつとき長喜ながき独自どくじ個性こせいによって時代じだい謳歌おうかした。役者やくしゃにおいては東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくらを輩出はいしゅつだいくび流行りゅうこうしている。この写楽しゃらくしんせま役者やくしゃ歌川うたがわ豊国ほうこく歌川うたがわ国政くにまさらに影響えいきょうをおよぼしている。

歌麿うたまろから幕末ばくまつ

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文化ぶんか3ねん1806ねん)、歌麿うたまろ急死きゅうししたが、大衆たいしゅういま歌麿うたまろ美人びじんもとめており、そこに菊川きくかわえいさん歌麿うたまろ晩年ばんねんふう美人びじん登場とうじょう若干じゃっかんよわくはかなげな女性じょせいえがいて人気にんきたが、文政ぶんせいになると、大衆たいしゅう歌川うたがわ国貞くにさだけいときえいいずみえがいき婀娜あだっぽい美人びじん[よう検証けんしょう]このむようになっていった。一方いっぽう文政ぶんせい末期まっきには歌川うたがわ国芳くによしが『みず滸伝』の登場とうじょう人物じんぶつをシリーズでえがき、空前くうぜんみず滸伝ブームをこしたほか、武者むしゃ美人びじん戯画ぎがなど多方面たほうめん活躍かつやくしたほか、葛飾かつしか北斎ほくさい歌川うたがわ広重ひろしげらによって従来じゅうらい浮絵とはことなる風景ふうけいえがかれるようになった。また、安政あんせい6ねん1859ねん)に横浜よこはま開港かいこうされると、歌川うたがわ貞秀さだひでらは横浜よこはま制作せいさく明治めいじ初期しょきにかけて一大いちだいブームとなった。

明治めいじ

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明治めいじになると、文明開化ぶんめいかいかおうじて楊洲周延しゅうえん落合おちあいかおるいく3代目だいめ歌川うたがわ広重ひろしげ2代目だいめ歌川うたがわこくてるらがあか強調きょうちょうした開化かいかえがいたほか、具足ぐそく版元はんもととし、よしいくえがいた明治めいじ7ねん1874ねん発刊はっかんの『東京とうきょう新聞しんぶん』やよく明治めいじ8ねん1875ねん)、月岡つきおか芳年よしとしえがいたにしきのぼりどうによる『郵便ゆうびん報知ほうち新聞しんぶん』などにおいて新聞しんぶん錦絵にしきえふでをとったが、すうねん衰退すいたいした。また、明治めいじ9ねん1876ねん)、小林こばやし清親きよちか光線こうせん発表はっぴょうすると、井上いのうえ安治やすじ小倉こくら柳村やなぎむら大阪おおさか野村のむらかおる影響えいきょうあたえた。明治めいじ10ねん1877ねん)には、山崎やまざきみのるしん西南せいなん戦争せんそうものおおえがいていた。明治めいじ27ねん1894ねん)に勃発ぼっぱつしたにちしん戦争せんそう明治めいじ37ねん1904ねん)にこったにち戦争せんそうおうじて、清親きよちかのほか、水野みずの年方としかた右田みぎた年英としひでらが報道ほうどうとしての戦争せんそうのこしているが、このころが錦絵にしきえ最後さいごのブームとなった。

明治めいじ33ねん1900ねん)10がつ私製しせい絵葉書えはがき発行はっこう許可きょかされると、雑誌ざっし付録ふろくとして石版せきばん絵葉書えはがき制作せいさくされるようになり、にち戦争せんそうのころには彩色さいしき木版もくはんによる絵葉書えはがき多数たすう発行はっこうされるようになり、山本やまもとのぼるくも小原おはら花鳥かちょう坂巻さかまきこうりょう風景ふうけいなどが制作せいさくされた。当時とうじ流行りゅうこう石版せきばんいえとしてられていた山本やまもとのぼるくも明治めいじ39ねん1906ねん)から明治めいじ42ねん1909ねん)にかけて歌川うたがわのものとことなる美人びじんこんすがた」シリーズを発表はっぴょうしても、時勢じせいながれにさからえず、錦絵にしきえ衰退すいたいしていった。このようななかしょくうしないつつあったすり職人しょくにん生活せいかつ維持いじのためにあたらしい仕事しごと開拓かいたく急務きゅうむとなっており[よう検証けんしょう]、そこで活路かつろ見出みいだしたのが文芸ぶんげいしょ雑誌ざっし単行本たんこうぼん出版しゅっぱんとの提携ていけいであり、活字かつじ文化ぶんかとの提携ていけいであった。具体ぐたいてきには口絵くちえ挿絵さしえ表紙ひょうし伝統でんとう木版もくはん使用しようすることがとく活発かっぱつしていった。

大正たいしょう

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大正たいしょう初期しょきには山本やまもとのぼるくも従来じゅうらいどお美人びじん子供こどもえがき、月岡つきおかこうりょう能楽のうがくなどをえがいていたほか歌川うたがわ国松くにまつらが千社札せんじゃふだえがいたり、笠井かさいおおとりひとし大正たいしょう大礼たいれい錦絵にしきええがいている。また、大正たいしょう10ねん1921ねん)には右田みぎた年英としひで年英としひで随筆ずいひつ刊行かんこうかい結成けっせいし、『年英としひで随筆ずいひつ』という画集がしゅう出版しゅっぱんしている。大正たいしょう12ねん1923ねん9月1にちこった関東大震災かんとうだいしんさいによって被害ひがいこうむり、そのまま廃業はいぎょうまれる版元はんもとおおかった。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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