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相撲すもう

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相撲すもう(すもうえ)とは、江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだい末期まっきにかけてえがかれた浮世絵うきよえ様式ようしきのひとつ。

概要がいよう

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人気にんき力士りきし土俵どひょうじょうでの取組とりくみ、またその日常にちじょう生活せいかつなどをえがいたものをす。のちには力士りきしたちの宴会えんかい稽古けいこじょう風景ふうけいなどがえがかれるようになった。寛永かんえい年間ねんかん1624ねん-1644ねん)からすみすりによる相撲すもうえがかれ、明和めいわ安永やすながのころには勧進かんじん相撲すもうさかんとなり、力士りきし事業じぎょうすすんだ。また、勧進かんじん名目めいもく形骸けいがいされてゆくにしたがい、興行こうぎょう場所ばしょ時期じき次第しだい固定こてい天明てんめいごろには本所ほんじょ回向えこういん開催かいさいされることがおおくなり、安永やすながから幕末ばくまつまでははるふゆの2かいに、晴天せいてん10にちということが固定こていされていった。初期しょき浮世絵うきよえかいでは鳥居とりい中心ちゅうしん役者やくしゃ同様どうよう瓢箪ひょうたんあし蚯蚓みみずえがきと手法しゅほうもちいて力強ちからづよ筋肉きんにく強調きょうちょうした描写びょうしゃ相撲すもう多数たすうえがかれている。しかし、体型たいけい容貌ようぼう個人こじんえがけはされておらず、その姿態したい両手りょうてうえげ、両足りょうあしった状態じょうたいという類型るいけいてきなものが大半たいはんであった。

錦絵にしきえ創始そうしされて以降いこう釈迦嶽しゃかだけ雲右衛門くもえもんえがいた一筆斎文調いっぴつさいぶんちょう礒田いそだ湖龍斎こりゅうさい作品さくひん最初さいしょのものとされている[1]天明てんめいから寛政かんせい1781ねん-1801ねん)にかけては勝川かちがわはるあきら勝川かちがわはるえい勝川かちがわおよ写楽しゃらく十返舎一九じっぺんしゃいっく文化ぶんか年間ねんかん以降いこうには勝川かちがわはるていら、そして幕末ばくまつには歌川うたがわ国貞くにさださん代目だいめ歌川うたがわ豊国ほうこく)、歌川うたがわ国芳くによし歌川うたがわかおるとららといった歌川うたがわ人気にんき絵師えしたちが、相撲すもうおおえがいている。江戸えど時代じだいにおける相撲すもう黄金おうごんである天明てんめい-寛政かんせいには、横綱よこづな免許めんきょしょう野川のがわ喜三郎きさぶろう谷風たにかぜ梶之助かじのすけといっただい力士りきし輩出はいしゅつし、それら力士りきしたちの姿すがたえがかれた。また、写楽しゃらくによる怪童かいどう大童おおわらさん文五郎ぶんごろう土俵入どひょういりをえがいた作品さくひん注目ちゅうもくされる。この大童おおわらさん寛政かんせい6ねん時点じてんわずか7さいにして、身長しんちょう3しゃく7すん5ふん体重たいじゅう19かんあまりという巨体きょたいゆうしており、その取組とりくみよりも土俵入どひょういりの姿すがた見世物みせものてき人気にんきんでいた。相撲すもう明治めいじ30年代ねんだい、40年代ねんだいたまらがえがいており、浮世絵うきよえ最終さいしゅうまでにかなりの作品さくひんることができるが、これも江戸えど最後さいご版元はんもとひとつといえる5代目だいめ松木まつき平吉へいきち自身じしんだい相撲すもうきであったことと無縁むえんではなかったといわれる。

相撲すもう数多かずおおえがかれるうちにその描写びょうしゃ自体じたいにはあたらしいあじくわわるわけでもなく、今日きょうふうればきょううす作品さくひんおおいが、錦絵にしきえ3まいつづけうち土俵どひょうじょうでの力士りきし取組とりくみの最中さいちゅうとらえ、行司ぎょうじまで似顔絵にがおええがいた形式けいしきのものは土俵際どひょうぎわ臨場りんじょうかんがそのままつたわってくるようである。

ギャラリー

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 浮世絵うきよえ鑑賞かんしょう基礎きそ知識ちしき』107ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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