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勝川かちがわはるえい

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さん代目だいめ澤村さわむら宗十郎そうじゅうろう加古川かこがわほんぞう寛政かんせい7ねん(1797ねん)4がつ江戸えど仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』より、はるえいアムステルダム国立こくりつ美術館びじゅつかんぞう

勝川かちがわ はるえい(かつかわ しゅんえい、たかられき12ねん1762ねん〉- 文政ぶんせい2ねん10月26にち1819ねん12月13にち〉)とは、江戸えど時代じだい浮世絵うきよえ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

勝川かちがわはるあきら門人もんじん本姓ほんせい磯田いそだ久次郎きゅうじろうきゅうとくときあさひいさおときごうす。江戸えどまれしん和泉いずみまち家主やぬしをしていた。家系かけいなどはしょうはやくにはるしょう門人もんじんとなり、安永やすなが7ねん(1778ねん)に17さいはつさくえがく。ほそばん間判あいばん作品さくひんおおられ、雲母うんもすりだいくびさん代目だいめ市川いちかわはちひゃくぞう」など写楽しゃらくあい前後ぜんごして役者やくしゃした。寛政かんせい4ねん(1792ねん)に江戸えどこうしょどうから「大坂おおさかちゅう芝居しばい」とだいされたよんまいつづけ(あるいはまいつづけ)を版行はんこうしており、同年どうねん正月しょうがつ上方かみがたがったとされる[1]。やはりこうしょどうからは写楽しゃらく先駆さきがけて、雲母うんもすり役者やくしゃだいくび複数ふくすう刊行かんこうしている。寛政かんせい7ねん(1795ねん)に江戸えどきり河原崎かわらざきさんで『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』が競演きょうえんされたときには、はるえいきり芝居しばいえがき、岩戸いわとから「さん代目だいめ澤村さわむら村宗むらむね十郎じゅうろう加古川かこがわほんぞう」を版行はんこうしている。ほかに歌舞伎かぶき所作事しょさごと見立みたててえがいた美人びじん錦絵にしきえ「おしがた」がある。享年きょうねん58。墓所はかしょ台東たいとう西浅草にしあさくさ善照寺ぜんしょうじ法名ほうみょうしゃくはるえい男女だんじょをもうけ長女ちょうじょ夭折ようせつし、長男ちょうなんおの画業がぎょうかなかったという。門人もんじん代目だいめ勝川かちがわはるあきら代目だいめ勝川かちがわはるこのみ勝川かちがわはるとく勝川かちがわはるていがいる。なお勝川かちがわはるえいおんなという絵師えしもいるがはるえいとの関係かんけい不明ふめい

はるえい役者やくしゃはるしょうあといで寛政かんせいまえ中期ちゅうき絶頂ぜっちょうせており、その画業がぎょう歌川うたがわ豊国ほうこく東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくにも影響えいきょうおよぼしている。また武者むしゃ相撲すもう得意とくいとし、さらに美人びじんがけ狂歌きょうかほん肉筆にくひつえがいた。肉筆にくひつでは美人びじんおおく、ながあごあたりにふくらみのある「り」と、愛嬌あいきょうある容貌ようぼうそなえているてんはるえい美人びじん特色とくしょくである。はるあきら門下もんかなか同門どうもん勝川かちがわはるこのみきそ活躍かつやくした逸材いつざいであった。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

文政ぶんせい8ねん(1825ねん)、はるえいなな回忌かいきいとなまれ、このときはるえい門人もんじんたちによって向島むこうじま長命寺ちょうめいじ勝川かちがわはるえいおう略伝りゃくでんいしぶみてられた。その碑文ひぶんにははるえいひととなりをつたえるふたつのはなししるされており、以下いか要約ようやくしてそれらを紹介しょうかいする。

  • はるえい姿すがたかたちをかざることがきらいな性格せいかくで、るものはどこへくにも普段着ふだんぎのままでかまうことがなかった。それをあるにんが、「そのなりでは見苦みぐるしいから、つぎときはもっといい着物きものでおいでなさい」とはるえいった。後日ごじつ、その人物じんぶついえはるえいおとずれると、はるえい姿すがた大笑おおわらいしないものはなかった。それというのも、はるえいおんなのう装束しょうぞくことにきらびやかなものをてやってきたのである。そしてはるえい本人ほんにん真面目まじめかおで、おかしいともおもわぬ様子ようすでいたという。
  • あるときはるえい数日すうじつ自宅じたくけることがあった。かえってきて自宅じたくくちまえつと「はるえいすまいはここか」とさけんだ。いえなかでこのこえいたはるえい女房にょうぼうはびっくりし、はるえいうちれ「どうしてあんなことをいったんです」とたずねると、「数日すうじつこのいえけていたから、もしかしていえ他人たにんものになっているかもしれないとおもったのさ」とこたえたという。

作品さくひん[編集へんしゅう]

「おしがた はるこま」 はるえい

版本はんぽん挿絵さしえ[編集へんしゅう]

錦絵にしきえ[編集へんしゅう]

  • さん代目だいめ市川いちかわはちひゃくぞう菊池きくち兵庫ひょうご」 ほそばん 城西大学じょうさいだいがく水田すいでん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
  • 人形にんぎょうつか浅尾あさおためじゅうろう」 ほそばん 城西大学じょうさいだいがく水田すいでん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
  • 中山なかやましょうじゅうろうみなもと為朝ためとも」 ほそばん ※天明てんめい5ねん
  • よんせい岩井いわい半四郎はんしろうなな変化へんか大判おおばん ※天明てんめい7ねん
  • さんせい市川いちかわ高麗蔵こまぞうおのてい九郎くろう大判おおばん ※寛政かんせい2ねん
  • 「おしがた」 大判おおばん錦絵にしきえそろいぶつ ※寛政かんせい4ねん - 6ねんごろ
  • さん代目だいめ澤村さわむら宗十郎そうじゅうろう加古川かこがわほんぞう」 大判おおばん ※寛政かんせい7ねん4がつ江戸えど仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』より
  • よんせい岩井いわい半四郎はんしろう」 ほそばん

肉筆にくひつ[編集へんしゅう]

作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
湯上ゆあがり美人びじんねこ かみほん着色ちゃくしょく 1ぶく 94.9×26.1 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 款記「はるえい花押かおう)」
八朔はっさく花魁おいらん かみほん着色ちゃくしょく 1ぶく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん
さんせい瀬川せかわ菊之丞きくのじょう相生あいおい獅子しし 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 日本にっぽん浮世絵うきよえ博物館はくぶつかん
鍾馗しょうき 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 78.2x34.7 こころとおかん(プライスコレクション) 款記「勝春かつはるえい」(花押かおう[2]
交合こうごうじゅう かみほん着色ちゃくしょく 絵巻えまき だいえい博物館はくぶつかん 1792-95ねん寛政かんせい4-7ねんごろ
春画しゅんが幽霊ゆうれい 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 双幅そうふく ミカエル・フォーニツコレクション 寛政かんせいまつ文化ぶんか

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ アンドリュー・ガーストル英語えいごばん矢野やの明子あきこへんりゅうこうとき図録ずろく 上方かみがた役者やくしゃ似顔絵にがおえ黎明れいめい武庫川女子大学むこがわじょしだいがく関西かんさい文化ぶんか研究けんきゅうセンター、2009ねん3がつ、p.42
  2. ^ つじおもんみゆう監修かんしゅう 『ザ・プライスコレクション』 小学館しょうがくかん、2006ねん9がつ1にち、No.198、ISBN 978-4-09-681881-7

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 藤懸ふじかけ静也しずや 『ぞうてい浮世絵うきよえ』 雄山閣ゆうざんかく、1946ねん ※国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション本文ほんぶんあり。135 - 136ぺーじ、103 - 104コマ
  • 日本にっぽん浮世絵うきよえ協会きょうかいへん 『原色げんしょく浮世絵うきよえだい百科ひゃっか事典じてん』(だい2かん) 大修館書店たいしゅうかんしょてん、1982ねん ※52ぺーじ
  • 墨田すみだ文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょⅤ -仮名がなじりぶん石碑せきひ(1)-』 墨田すみだ教育きょういく委員いいんかい、1985ねん ※93 - 95ぺーじ
  • 吉田よしだ 『浮世絵うきよえ見方みかた事典じてん』 北辰ほくしんどう、1987ねん
  • 稲垣いながき進一しんいちへん 『図説ずせつ浮世絵うきよえ入門にゅうもん』〈『ふくろうのほん』〉 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1990ねん
  • 小林こばやしただし監修かんしゅう 『浮世絵うきよえ列伝れつでん』<別冊べっさつ太陽たいよう> 平凡社へいぼんしゃ、2006ねん1がつ ISBN 978-4-5829-4493-8

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]