佐渡さどだけ部屋へやフグ中毒ちゅうどく事件じけん

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佐渡さどだけ部屋へやフグ中毒ちゅうどく事件じけん(さどがたけべやフグちゅうどくじけん)は、1963ねん11月11にち大相撲おおずもう佐渡さどだけ部屋へや発生はっせいした死亡しぼう事件じけんである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1963ねん昭和しょうわ38ねん11月11にち2110ふんごろ現在げんざい福岡ふくおかひがしにあった佐渡さどだけ部屋へや宿舎しゅくしゃで、よる食事しょくじちゃんこ)としてフグべたところ、力士りきし養成ようせいいん6めいさんだん2めいじょだん3めい番付ばんづけがい1めい)がフグ中毒ちゅうどく発症はっしょう[注釈ちゅうしゃく 1]、6めい全員ぜんいん救急きゅうきゅう搬送はんそうされ、さんだん佐渡さどはな同月どうげつ12にち[1]じょだん斎藤山さいとうやま同月どうげつ14にち死亡しぼうした[2]のこる4めいさんだん太田おおたじょだん崎村さきむら[注釈ちゅうしゃく 2]どう橋田はしだ番付ばんづけがい田中たなか)は生還せいかんした[3]

6めい福岡ふくおかでの大相撲おおずもう昭和しょうわ38ねん11月場所ばしょ2にちえたのち、ちゃんこばんとしてほか関取せきとりがフグなべわったのちに、当時とうじ食用しょくよう禁止きんしされていなかったフグのきも追加ついかしてべていた。4めいは11月場所ばしょ途中とちゅう休場きゅうじょうし、また師匠ししょうである11だい佐渡さどだけ勝負しょうぶ検査けんさやく担当たんとうしていたが、事件じけん責任せきにんって検査けんさやく退しりぞいた[2]

当時とうじ十両じゅうりょうから幕下まくした陥落かんらくしていた長谷川はせがわ勝敏かつとし同日どうじつのちゃんこばんだったが、食事しょくじまえからはら調子ちょうしわるかったことからちゃんこわりとしてうどんしょくべに外出がいしゅつしていた。このため長谷川はせがわ奇跡きせきてきなんのがれ、のち入幕にゅうまくして関脇せきわけまで昇進しょうしんした[注釈ちゅうしゃく 3]。また当時とうじひがし前頭まえがしら筆頭ひっとうだったきんさくらすぐるしょう関取せきとりしゅは、関取せきとりようべつ用意よういされたたいのちゃんこなべべたためなんのがれた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1963ねん11月12にちごう夕刊ゆうかん太田おおた斎藤山さいとうやま重体じゅうたい毎日新聞まいにちしんぶん1963ねん11月12にちごう夕刊ゆうかん太田おおた(22さい)、斎藤山さいとうやま(20さい)、さきむら(16さい)が意識いしき不明ふめいほうじている。
  2. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1963ねん11月12にちごう夕刊ゆうかん崎村さきむらではなく佐藤さとうがわ誤報ごほう
  3. ^ 長谷川はせがわは3ねん全日空ぜんにっくう羽田はたおき墜落ついらく事故じこでも、さっぽろゆきまつり見物けんぶつちゅう旧友きゅうゆう出会であったことから搭乗とうじょう予定よていだった事故じこへの搭乗とうじょうりやめたために奇跡きせきてきなんのがれている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1963ねん11月12にちごう 夕刊ゆうかん
  2. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん 1963ねん11月15にちごう 朝刊ちょうかん
  3. ^ 九州きゅうしゅう場所ばしょのとりてきエレジー フグ中毒ちゅうどく事件じけん背後はいごにある角界かくかいの”真空しんくう地帯ちたい”」週刊文春しゅうかんぶんしゅん 5かん48ごう通巻つうかん240ごう (1963ねん12月2にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]