(Translated by https://www.hiragana.jp/)
枡席 - Wikipedia コンテンツにスキップ

枡席ますせき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
両国りょうこく国技こくぎかん枡席ますせき

枡席ますせき(ますせき、桝席升席ますせきとも)とは、日本にっぽん伝統でんとうてき観客かんきゃくせき土間どま板敷いたじきのあいだ木組きぐみによって人数にんずうじんすわれるほどの四角形しかっけい仕切しきり、これを「いちます」として観客かんきゃく提供ていきょうしたことからこうばれるようになった。おなじく日本にっぽん伝統でんとうてき観客かんきゃくせきである桟敷さじき(さじき)についてもほんこうあつかう。

劇場げきじょう枡席ますせき

[編集へんしゅう]

歴史れきし背景はいけい

[編集へんしゅう]

芸能げいのう領域りょういきでは、古事記こじき日本書紀にほんしょきあらわれる、かみだいとなるかりもうけられたたなじょうである「かり庪(さずき)」を、桟敷さじき語源ごげんとするせつ有力ゆうりょくである[1]池田いけだ彌三郎やさぶろうかみまね目的もくてきによっては、かみ招ぎの場所ばしょであるさずきは観客かんきゃくせきとなりたとべている。芸能げいのう神事しんじから娯楽ごらくへと変容へんようした中世ちゅうせいには、猿楽さるがくのう正面しょうめんからられる位置いち桟敷さじきもうけられ、高貴こうき階級かいきゅう人々ひとびと観客かんきゃくせきとなっていった[1]太平たいへいまきじゅうななには、観客かんきゃく興奮こうふんによって240あいだ桟敷さじき崩壊ほうかい多数たすう死傷ししょうしゃ記述きじゅつがある。

安政あんせい5ねん (1858) の江戸えど市村いちむら

枡席ますせき江戸えど時代じだいはじごろから歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり芝居しばい小屋こや普及ふきゅうしはじめた。

芝居しばい小屋こや枡席ますせき一般いっぱんに「土間どま」(どま)とばれ、料金りょうきんもっとやす設定せっていされていた。これは初期しょき芝居しばい小屋こやには屋根やねけることがゆるされておらず、あめはじめると土間どま水浸みずびたしになって芝居しばい見物けんぶつどころではなくなってしまったからである。したがってこのころ土間どまにはまだ仕切しきりがなかった。

瓦葺かわらぶき屋根やねそなえた芝居しばい小屋こやはじめててられたのはとおる9ねん (1724) のことで、あめ天下でんか上演じょうえん可能かのうになった結果けっか、このころから土間どま板敷いたじきとなる。すると座席ざせき恒常こうじょうてき仕切しきることができるようになり、明和めいわのはじめごろ(1760年代ねんだい後半こうはん)から次第しだい枡席ますせきあらわれるようになった。当時とうじ芝居しばい小屋こや枡席ますせき一般いっぱんに「ななにんつめ」で、料金りょうきんいち桝あたり25もんめだった[2]。これを家族かぞく友人ゆうじんなどとげて芝居しばい見物けんぶつしたが、一人ひとりみで見物けんぶつする場合ばあいには「わり土間どま」といって、いち桝の料金りょうきんのおよそなな等分とうぶんにあたる1しゅはらって「他所よそさま(よそさま)相席あいせき(ごあいせき)」ということになった[2]

土間どまりょうわきには一段いちだんたかなかかいづくりにしたたたみきの桟敷さじきがあり、さらにそのうえ場内じょうないをコのかこむようにしてさんかいづくりにしたたたみきの「うえ桟敷さじき」(かみさじき)があった[3]料金りょうきん現在げんざいとはぎゃくで、うえへいくほどたかくなった。ただし舞台ぶたい正面しょうめんしたさんかい最奥さいおううえ桟敷さじきは、舞台ぶたいからもっととお科白せりふきづらかったので、ここだけは料金りょうきんとくやす設定せっていされて「むか桟敷さじき」とばれていた。これが「大向おおむこ」の語源ごげんである。芝居しばい小屋こや屋根やねいたのちにも桟敷さじきうえには屋根やねやその名残なごりのこされ、芝居しばい小屋こや伝統でんとう様式ようしきとなっている[1]

こうして場内じょうないそう板張いたばりになったことで、客席きゃくせき構成こうせいにも柔軟じゅうなんせいがでてきた。とおる2ねん (1802) 中村なかむら改築かいちくされたさいに、桟敷さじき前方ぜんぽう土間どまよりも一段いちだんたか板敷いたじきの土間どまもうけられたのを嚆矢こうしとし、以後いご芝居しばい小屋こやでは土間どまにもさまざまな段差だんさをつけるようになった。こうして格差かくさがついた後方こうほう土間どまのことを「高土間たかどま」(たかどま)といい、舞台ぶたいちかくの「平土間ひらどま」(ひらどま)と区別くべつした。

明治めいじ35ねん (1902) の大坂おおさか御霊みたま文楽ぶんらく

やがてそれぞれの枡席ますせきには座布団ざぶとんかれ、煙草たばこぼんなかみずのはいったばこ灰皿はいざら)がかれるようになった。枡席ますせき茶屋ちゃやから出方でかた弁当べんとう飲物のみものはこんでくるようになったのもこのころからである。当時とうじ芝居しばい見物けんぶつ早朝そうちょうから日没にちぼつまでのいちにちがかりの娯楽ごらくだったので、枡席ますせきにもいくらかの「居住きょじゅうせい改善かいぜん」がもとめられたのである。

明治めいじになると東京とうきょうをはじめかく都市としあたらしい劇場げきじょうてられたが、そのほぼすべてが枡席ますせき採用さいようしていた。文明開化ぶんめいかいかうたったこの時代じだいにあっても、日本人にっぽんじん座布団ざぶとんうえに「すわる」かた居心地いごこちかったのである。全席ぜんせき椅子いすせきにして観客かんきゃくが「腰掛こしかける」ようにしたのは、演劇えんげき改良かいりょう運動うんどう一環いっかんとして明治めいじ22ねん (1889) に落成らくせいした歌舞伎座かぶきざ最初さいしょだった。これをさかい以後いご劇場げきじょうではもっぱ椅子いすせき採用さいようされるようになり、昭和しょうわ戦前せんぜんころまでには、地方ちほう伝統でんとうてきしょう劇場げきじょうのぞいて、枡席ますせき日本にっぽん劇場げきじょうからほとんどその姿すがたしてしまった。

相撲すもう興行こうぎょう枡席ますせき

[編集へんしゅう]

歴史れきし背景はいけい

[編集へんしゅう]

一方いっぽう勧進かんじん相撲すもうとして発達はったつした大相撲おおずもうは、その歴史れきしてき背景はいけいから各地かくち寺社じしゃ境内けいだい不定期ふていき興行こうぎょうされるのが常態じょうたいで、ながらく専用せんよう競技きょうぎじょうたなかった。江戸えどでは天保てんぽう4ねん (1833) 以降いこうにようやく本所ほんじょ回向えこういんでの相撲すもう興行こうぎょう定着ていちゃくする。

明治めいじ43ねん (1910) のきゅう両国りょうこく国技こくぎかん場内じょうない現在げんざいしん国技こくぎかんかく本場所ほんばしょ開催かいさい施設しせつ場内じょうないとほぼわらない様子ようすれる。

劇場げきじょう場合ばあいとは対照たいしょうてきに、相撲すもう興行こうぎょうから枡席ますせきいちもその姿すがたすことがなかった。明治めいじ以後いご大相撲おおずもう開催かいさいでは、土俵どひょう観客かんきゃくせきすう日間にちかん興行こうぎょうえられるだけのかり仕立したてでつくればよかったため、木組きぐみで簡単かんたん客席きゃくせき仕切しきることができる枡席ますせきはかえって好都合こうつごうだったのである。

回向えこういん境内けいだいはじめて常設じょうせつ競技きょうぎじょう國技こくぎだて」(きゅう両国りょうこく国技こくぎかん)がてられたのはじつ明治めいじ42ねん (1909) になってのことだった。この常設じょうせつ國技こくぎだてにも枡席ますせき導入どうにゅうされ、しかもその相次あいつ失火しっか震災しんさいによる焼失しょうしつ再建さいけんさいにもそれを存続そんぞくさせたことが、枡席ますせき大相撲おおずもう会場かいじょうとは不可分ふかぶん伝統でんとうとして定着ていちゃくする契機けいきとなった。

昭和しょうわ時代じだい初期しょき相撲すもう人気にんきたかまりがあったが、升席ますせき購入こうにゅう相撲すもう茶屋ちゃやなどのりや契約けいやくしゃ優先ゆうせんされ一般人いっぱんじんすわることはむずかしい状態じょうたいとなっていた。こうした不満ふまん解消かいしょうするため、1939ねん昭和しょうわ14ねん夏場所なつばしょ開催かいさい日数にっすうを13にちから15にちあらためたさいに、初日しょにちかぎり「大衆たいしゅうデー」として升席ますせき一般いっぱん販売はんばいおこなわれるようになった[4]

戦時せんじしょくつよくなった1941ねん昭和しょうわ16ねん)の初場所はつばしょまえには、警視庁けいしちょう相撲すもう協会きょうかい相撲すもう茶屋ちゃや関係かんけいしゃまねき、茶屋ちゃや升席ますせきをプレミアム価格かかく販売はんばいすることの禁止きんし芸妓げいぎ女給じょきゅう同伴どうはん禁止きんし飲酒いんしゅ禁止きんしなどの自粛じしゅくもとめた[5]。ただし、女性じょせい同伴どうはん飲酒いんしゅ徹底てっていされなかったようで、警視庁けいしちょう同年どうねんまつあらためてもうれをおこなっている[6]

國技こくぎたて戦時せんじちゅう陸軍りくぐんによって接収せっしゅうされ、以後いご大相撲おおずもう後楽園こうらくえん球場きゅうじょう神宮じんぐう外苑がいえん相撲すもうじょう日本橋にほんばし浜町はまちょう公園こうえん仮設かせつ国技こくぎかんて、1950ねん昭和しょうわ25ねん) からは蔵前くらまえ国技こくぎかんで、1985ねん昭和しょうわ60ねん) 以後いごしん両国りょうこく国技こくぎかん興行こうぎょうされるようになるが、これらすべての会場かいじょう枡席ますせきもうけられたのである。

このあいだかわったことといえば、土俵どひょうじょう屋根やね屋根やねわりそのため屋根やねささえていた四隅よすみはしら青白あおじろあかむらさきぼうわったこと、2かいせき椅子いすせきあらためられたこと、枡席ますせき土台どだい木組きぐみから鉄骨てっこつみになったこと、そしてそれまで枡席ますせきではみとめられていた喫煙きつえんが2005ねん平成へいせい17ねん) から全面ぜんめん禁止きんしとなり、枡席ますせきにあった煙草たばこぼん姿すがたしたことぐらいなもので、今日きょうにする大相撲おおずもう本場所ほんばしょ模様もようは、往時おうじのそれとほとんどわらないものとなっている。

現状げんじょう課題かだい

[編集へんしゅう]
本場所ほんばしょ開催かいさいちゅう愛知あいちけん体育館たいいくかん館内たてうち平成へいせい21ねん (2009)。 鉄骨てっこつ高土間たかどましき枡席ますせき様子ようすがよくかる。

今日きょう大相撲おおずもう本場所ほんばしょおこなわれる両国りょうこく国技こくぎかん大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかん愛知あいちけん体育館たいいくかん福岡ふくおか国際こくさいセンターでは、いずれもいちかいせきのほぼ全席ぜんせき高土間たかどましき枡席ますせきとなっている。国技こくぎかん耐火たいか建材けんざい土台どだいにのった恒常こうじょうゆかさん会場かいじょう鉄骨てっこつみの仮設かせつゆかが、それぞれやく1.5メートル四方しほう両国りょうこく国技こくぎかん:W1,300×D1,250)のます仕切しきられ、そこに所定しょていすう座布団ざぶとんかれている。

国技こくぎかんでは「よんにんます」「にんます」「ろくにんます」のさん種類しゅるい枡席ますせきがあるが、そのだい多数たすう伝統でんとうてきな「よんにんます」で、ますなかには4まい座布団ざぶとんところせましとかれている。「よんにんます」とは、「そのますには4にんまですわることができる」という意味いみである。したがって一人ひとり二人ふたりでこれを使つかってもかまわないのだが、料金りょうきんはあくまでもますごとの料金りょうきんなので、頭数とうすうすくないと一人ひとりたりの負担ふたん増加ぞうかする。たとえば3まん6800えん枡席ますせきCを、4にん使つかえば一人ひとりたり9200えん、3にん一人ひとりたり1まん2267えん2人ふたりだと一人ひとりたり1まん8400えんという高額こうがく負担ふたんとなる。このため少々しょうしょう窮屈きゅうくつでも「よんにんます」はやはりよんにん使つかっているのがほとんどである。

実際じっさいやく1.5メートル四方しほうに4にんすわるというのは、今日きょう日本人にっぽんじん体格たいかくからみるとかなり窮屈きゅうくつ状態じょうたいで、そこに出方でかた弁当べんとう飲物のみものはこんでくると、もうあしじょうもないほどになってしまう。国技こくぎかんでは昨今さっこん観客かんきゃくすう減少げんしょう歯止はどめをかける改革かいかく一環いっかんとして、特別とくべつ限定げんていチケット「二人ふたります」を試験しけんてき導入どうにゅうしたが、そのかずはまだきわめて少数しょうすうまっている。一方いっぽう大阪おおさか名古屋なごや福岡ふくおかかく会場かいじょうでも観客かんきゃく要望ようぼうこたえるかたちで「二人ふたります」や「さんにんます」をあらたに導入どうにゅうはじめている。

大相撲おおずもう枡席ますせきをめぐるもうひとつの課題かだいとして、その購入こうにゅう方法ほうほう問題もんだいがあげられる。一概いちがい枡席ますせきといっても、そこには土俵どひょうちかいものからとおいもの、土俵どひょうやすいものからにくいものなど、さまざまな条件じょうけんがある。ところが国技こくぎかんでは、一般いっぱんに「枡席ますせき」とかんがえられている枡席ますせきのほぼすべてを「相撲すもう案内あんないしょ」とばれる20けん相撲すもう茶屋ちゃや(お茶屋ちゃや占有せんゆうしており、これらをとおしてでなければ枡席ますせきのチケットは購入こうにゅうすることができない。各種かくしゅプレイガイドインターネットでも枡席ますせきのチケットを購入こうにゅうすることはできるが、それではにくい枡席ますせきしかれない。

交通こうつう機関きかん

[編集へんしゅう]
青函せいかん連絡れんらくせん檜山ひやままる普通ふつう座席ざせき

交通こうつう機関きかん、とりわけ鉄道てつどう車両しゃりょう船舶せんぱくにおいて座席ざせきのうち、区画くかく区切くぎり、その区切くぎられた区画くかく定員ていいんさだめてカーペット座布団ざぶとん布団ふとんまくらなどを設置せっち使用しようする座席ざせきす。なお、名称めいしょうじょうカーペットせき( - せき)などとしょうされるが、「(車両しゃりょう船室せんしつの)区画くかく区切くぎり、椅子いすきょうしないで横臥おうがすわることが可能かのう座席ざせき」という形態けいたいであてはめられるものをす。

船舶せんぱく場合ばあい長距離ちょうきょり大量たいりょう輸送ゆそうえうるなど成立せいりつ事情じじょうから運賃うんちんもっと安価あんか座席ざせき設定せっていされる場合ばあいおおいが、鉄道てつどう車両しゃりょう場合ばあい夜行やこう列車れっしゃのうち、寝台しんだいしゃ代替だいたいとして、あるいはジョイフルトレインの1形態けいたいであるたたみきの「お座敷ざしき列車れっしゃ」のたたみや、カーペットにえたものもし、この場合ばあい列車れっしゃ設定せっていによるため[7]かならずしも乗車じょうしゃ必要ひつよう最低さいてい運賃うんちん料金りょうきんではなく、べつ料金りょうきん場合ばあいおおい。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c 服部はっとり幸雄ゆきお歌舞伎かぶきことばじょう岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉1999ねんISBN 4004306116 pp.183-192.
  2. ^ a b 物価ぶっか経済けいざい事情じじょうことなる江戸えど時代じだい現在げんざい単純たんじゅん比較ひかくはできないが、かり米価べいかをもとに当時とうじの1りょう今日きょうやく10まんえんほどの価値かちだったと推定すいていすると、当時とうじの25もんめ今日きょうやく4まん5000えん当時とうじの1しゅ今日きょうやく6500えんぐらいだったことになる。
  3. ^ この伝統でんとうてき桟敷さじき伝統でんとう現在げんざい歌舞伎座かぶきざにも「桟敷さじきせき」としてのこっている。→歌舞伎座かぶきざ座席ざせきひょう
  4. ^ 本場所ほんばしょじゅうにちせい実施じっしきまる『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ14ねん3がつ23にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp299 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ 芸妓げいぎ同伴どうはんひるさけ禁止きんし朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ15ねん12月15にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp300)
  6. ^ 幕内まくうち仕切しき制限せいげん時間じかんななふん短縮たんしゅく東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ16ねん12月27にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp300)
  7. ^ このような設備せつびつジョイフルトレインは、カラオケなど団体だんたい輸送ゆそうけの特別とくべつ設備せつびそなえ、グリーンしゃとなっている場合ばあいがある。2014ねん現在げんざい現役げんえき車輌しゃりょういちれいとしてJR西日本にしにほんあすか (鉄道てつどう車両しゃりょう)げられる。

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]