上覧じょうらん相撲すもう

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上覧じょうらん相撲すもう(じょうらんずもう)は、将軍しょうぐん観戦かんせんする大相撲おおずもうのこと。

概要がいよう[編集へんしゅう]

広義こうぎには、鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち時代ときよにも上覧じょうらん相撲すもうおこなわれていた。これは武芸ぶげいとしての相撲すもうわざを、武士ぶし主君しゅくんである将軍しょうぐん披露ひろうきそいあったものである。また戦国せんごく大名だいみょうもしばしば相撲すもう大会たいかいもよおし、優秀ゆうしゅうもの家臣かしんてることもあった。

鎌倉かまくら時代じだいには『吾妻あづまきょう』に相撲すもう奉行ぶぎょうという役名やくめいてくるが、これは上覧じょうらん相撲すもう進行しんこう事務じむ監督かんとくなどったものであり、勝負しょうぶさばいたものではない[1]

狭義きょうぎ上覧じょうらん相撲すもうは、興行こうぎょうとしての勧進かんじん相撲すもう成立せいりつした江戸えど時代じだい、11だい徳川とくがわ家斉いえなりと12だい徳川とくがわ家慶いえよし時代じだいに、いずれも江戸城えどじょう吹上ふきあげけい7かいもよおされたものをしてう。

力士りきしかかしょ大名だいみょうにすると、「上様うえさまおぼえめでたき」をられるかどうかがかかっていた。かく力士りきし主君しゅくんからそのむねきびしくもうけられ、場合ばあいによってはかかえをかれることさえあった。そのため、上覧じょうらん相撲すもう本場所ほんばしょ以上いじょう真剣しんけん勝負しょうぶとなり、当時とうじよくあったあずか勝負しょうぶも、上覧じょうらんにかぎっては適用てきようされなかった。

幕府ばくふがわおもわくとしては上覧じょうらん相撲すもうによって「寛政かんせい改革かいかく」で娯楽ごらく制限せいげんされた庶民しょみん不満ふまんをかわしつつ、江戸えど相撲すもうがわたいして相撲すもう興行こうぎょう地位ちいかくたるものにする絶好ぜっこう機会きかいあたえるというものがあったとされる[2]

上覧じょうらん相撲すもう一覧いちらん[編集へんしゅう]

吉田よしだつかさ吉田よしだ追風おいかぜ町奉行まちぶぎょう池田いけだ筑後ちくごまもるからみとめられず、6がつ10日とおか7がつ10日とおか)になって老中ろうじゅう戸田とだ采女うねめせいから行司ぎょうじめいじられた。
谷風たにかぜ小野川おのがわ横綱よこづな土俵入どひょうい披露ひろう公式こうしき横綱よこづな土俵入どひょういりはこれがはじめて)。
雷電らいでんじんまく公式こうしき土俵どひょうはつ黒星くろぼし
谷風たにかぜ - 小野川おのがわむすびの一番いちばん小野川おのがわが「った」、行司ぎょうじ吉田よしだ追風おいかぜは「呼吸こきゅうっていた、これをきらった小野川おのがわ気合きあいですでにけている」として谷風たにかぜ軍配ぐんばいをあげる。まくかく説得せっとくにもついにおうじず、公式こうしき勝負しょうぶづけにも「キマケ」(け)の表記ひょうきのこ[2]
むすびの一番いちばん阿武あぶまつが「った」、寛政かんせい3ねん(1791ねん)の小野川おのがわの「け」をおぼえていた将軍しょうぐん家斉いえなりは、「なぜ稲妻いなづまちにならない?」と側用人そばようにんただしたという。

備考びこう[編集へんしゅう]

寛政かんせい3ねん(1791ねん)の最初さいしょ上覧じょうらん相撲すもうは、大坂おおさか相撲すもう京都きょうと相撲すもうおくれをとっていた江戸えど相撲すもうがこれを挽回ばんかいするために企図きとした側面そくめんつよい。興行こうぎょう政策せいさくじょうのものだった横綱よこづな制度せいども、上覧じょうらん権威けんいづけがなされることになった。小野川おのがわの「け」の逸話いつわにしても、上覧じょうらん相撲すもう家元いえもと地位ちい確固かっことしたかった追風おいかぜのパフォーマンスだったというせつもある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大空おおぞら出版しゅっぱん相撲すもうファン』vol.06 p103
  2. ^ a b 相撲すもう』2014ねん3がつごう 95ぺーじ