横綱よこづな土俵入どひょうい

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横綱よこづな土俵入どひょうい(よこづなどひょういり)は、大相撲おおずもう最高さいこうである横綱よこづな本場所ほんばしょ幕内まくうち取組とりくみぜん巡業じゅんぎょうさきなどでおこな土俵入どひょういである。片屋かたやり(かたやいり)ともばれる[注釈ちゅうしゃく 1]

あさあおりゅう明徳あきのり横綱よこづな土俵入どひょういり(ひだり太刀持たちもみぎ露払つゆはら

概説がいせつ[編集へんしゅう]

関取せきとり土俵入どひょういは、じゅうりょうおよび幕内まくうち東方とうほう西方せいほうがそれぞれ全員ぜんいんおこなうが、横綱よこづな幕内まくうち土俵入どひょういりの最後さいご単独たんどく土俵入どひょういりをおこなう。

動作どうさ[編集へんしゅう]

幕内まくうち土俵入どひょういり(大関おおぜき以下いか)が東西とうざい両方りょうほうわったのち呼出よびだし土俵どひょうきよめる。たて呼出よびだしおよびたて行司ぎょうじ先導せんどうされ、純白じゅんぱくつなこしめた横綱よこづなが、露払つゆはら(つゆはらい)と太刀持たちも(たちもち)をしたがえて入場にゅうじょうする。

土俵どひょうひだりからじゅん太刀持たちもち、横綱よこづな露払つゆはらいのじゅんならんで同時どうじ土俵どひょうがり[注釈ちゅうしゃく 2]横綱よこづな柏手かしわでつ。横綱よこづな土俵どひょう中央ちゅうおうすすて、正面しょうめんいてふたた柏手かしわでち、右足みぎあし右足みぎあし左足ひだりあしじゅん四股しこむ。このとき観客かんきゃくから「よいしょ!」とごえぶ。土俵どひょうあがぐちふたた柏手かしわでち、全員ぜんいん一礼いちれいのち退場たいじょうする。

以上いじょう一連いちれん動作どうさをその出場しゅつじょうしている横綱よこづな全員ぜんいん順番じゅんばんおこない、場内じょうない中入なかいはいる。

露払つゆはらいと太刀持たちも

関脇せきわけ以下いか幕内まくうち力士りきしなかから2めいえら[注釈ちゅうしゃく 3]通常つうじょう横綱よこづなおな相撲すもう部屋へや力士りきし優先ゆうせんされ、どう部屋へやでそろわない場合ばあいは、おな一門いちもんまれいち門外もんがいから選出せんしゅつする[注釈ちゅうしゃく 4]

だい銀杏いちょうゆわえない場合ばあい露払つゆはらい・太刀持たちもちもつとめることが出来できない[注釈ちゅうしゃく 5]。ただし本場所ほんばしょ以外いがいでは2013ねん6がつ徳島とくしまけん徳島とくしま忌部いむべ神社じんじゃおこなわれたはくほう奉納ほうのう土俵入どひょういりにおいて、当時とうじだい銀杏いちょうゆわえなかった大喜だいぎおおとりしょうだい露払つゆはらいをつとめている[1]

横綱よこづな露払つゆはらい、太刀持たちもちのさんしゃあいだ当日とうじつ対戦たいせんがある場合ばあい昭和しょうわまではとく意識いしきされることなくそのままつとめていたが、平成へいせい以降いこうつとめることができず、必然ひつぜんてき露払つゆはらい、太刀持たちもちのいずれかを力士りきし担当たんとうすることになる。

行司ぎょうじ呼出よびだし

行司ぎょうじたて行司ぎょうじである木村きむらしょうすけしきもり伊之助いのすけつとめるが、しょうじょ伊之助いのすけ不在ふざい場合ばあいにはさんやくかく行司ぎょうじつとめる[注釈ちゅうしゃく 6]呼出よびだしではたて呼出よびだしおよびふくたて呼出よびだしつとめるが、これについても不在ふざい場合ばあいさんやく呼出よびだしつとめる[注釈ちゅうしゃく 7]

順番じゅんばん
  • 本場所ほんばしょ横綱よこづな2人ふたり出場しゅつじょうりつ行司ぎょうじしょうじょ伊之助いのすけともいる場合ばあいは、数日すうじつひがし横綱よこづなから、偶数ぐうすう西にし横綱よこづなからさき登場とうじょうし、行司ぎょうじはいずれの場合ばあいしょうじょ伊之助いのすけじゅん登場とうじょうする。
  • 3横綱よこづな在位ざいい出場しゅつじょうし、たて行司ぎょうじたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしそろっている場合ばあいは、2人ふたりまでとことなり、以下いかのように順序じゅんじょ複雑ふくざつとなる(6にち一巡いちじゅん)。場所ばしょ終盤しゅうばんではひがし横綱よこづな同士どうし対戦たいせんがあるため、それにともな変更へんこうしょうじる。
    • 初日しょにち横綱よこづなひがしせい横綱よこづな西にし横綱よこづなひがし2番目ばんめ横綱よこづな以前いぜんちょういずる横綱よこづな)、行司ぎょうじしょうじょ伊之助いのすけしょうじょ呼出よびだしさんにちまでたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしたて呼出よびだし
    • 二日ふつか横綱よこづな西にし横綱よこづなひがし2番目ばんめ横綱よこづなあずまただし横綱よこづな行司ぎょうじしょうじょ伊之助いのすけ伊之助いのすけ
    • 三日みっか横綱よこづなひがし2番目ばんめ横綱よこづなあずまただし横綱よこづな西にし横綱よこづな行司ぎょうじしょうじょしょうじょ伊之助いのすけ
    • 四日よっか横綱よこづな初日しょにちおな順序じゅんじょ行司ぎょうじ伊之助いのすけしょうじょ伊之助いのすけ呼出よびだし五日いつかまでふくたて呼出よびだしたて呼出よびだしふくたて呼出よびだし
    • 五日いつか横綱よこづなにちおな順序じゅんじょ行司ぎょうじ伊之助いのすけしょうじょしょうすけ
    • ろくにち横綱よこづなさんにちおな順序じゅんじょ行司ぎょうじ伊之助いのすけ伊之助いのすけしょうじょ呼出よびだしふくたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしたて呼出よびだし
    • ななにちじゅういちにち初日しょにちにちおなじ。
    • じゅうにち横綱よこづなさんにち六日むいかおな順序じゅんじょ行司ぎょうじろくにちおな順序じゅんじょ呼出よびだしたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしたて呼出よびだし
    • じゅうさんにち初日しょにちおなじ。
    • じゅうよんにち[注釈ちゅうしゃく 8]横綱よこづな西にし横綱よこづなひがし2番目ばんめ横綱よこづな西にしから登場とうじょうあずまただし横綱よこづな行司ぎょうじしょうじょしょうじょ伊之助いのすけ呼出よびだしたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしたて呼出よびだし
    • 千秋楽せんしゅうらく横綱よこづな行司ぎょうじ呼出よびだしとも初日しょにちおなじ。

雲龍うんりゅうがた不知火しらぬいがた[編集へんしゅう]

雲龍うんりゅうがた土俵入どひょういり(あさあおりゅう明徳あきのり
不知火しらぬいがた土俵入どひょういり(はくほうしょう

横綱よこづな土俵入どひょういりのかたは「雲龍うんりゅうがた(うんりゅうがた)」と「不知火しらぬいがた(しらぬいがた)」の2種類しゅるい存在そんざいし、それぞれくもりゅう久吉ひさよし不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもんおこなっていた土俵入どひょういりのかた起源きげんとしてつたえられたものとされ、つなかたやせりがりのかた差異さいがあるのが特徴とくちょうである。しかし実際じっさいには、四股しこまえてのひらかえときかまえなどの細部さいぶで、指導しどうする親方おやかた横綱よこづな自身じしんのアレンジなどによって動作どうさことなっており、完全かんぜんには2つのかた集約しゅうやくできないのが実状じつじょうである[注釈ちゅうしゃく 9]10代二子山ふたごやま初代しょだい若乃花わかのはな)がだい国康くにやす土俵入どひょういり(どちらも雲龍うんりゅうがた)の所作しょさ確認かくにんちゅうに「きにやれ。横綱よこづながやれば、それが横綱よこづな土俵入どひょういりだ」と助言じょげんしたことがある[2]。また現在げんざいの「雲龍うんりゅうがた」と「不知火しらぬいがた」は、その呼称こしょうぎゃくであるという指摘してきもある(後述こうじゅつ参照さんしょう)。

おおまかなかたちがいとしては1かい四股しこんだのち、せりがりのとき右手みぎてのみをばすのが雲龍うんりゅうがた両手りょうてばすのが不知火しらぬいがたである。雲龍うんりゅうがたうめ谷藤たにふじ太郎たろう(2だいが、不知火しらぬいがた太刀たちさんみねみぎもんがそれぞれ完成かんせいさせたとされる[3]。また、つなかた雲龍うんりゅうがたを1つ、不知火しらぬいがたを2つでめており、不知火しらぬいがたようつなおもい。

かた選択せんたくは、横綱よこづな本人ほんにん希望きぼうよりも、所属しょぞくする一門いちもんべつ左右さゆうされることがおおい。出羽海でわのうみ一門いちもん高砂たかさご一門いちもん時津風ときつかぜ一門いちもん全員ぜんいん雲龍うんりゅうがた伊勢いせはま一門いちもん全員ぜんいん不知火しらぬいがた選択せんたく[注釈ちゅうしゃく 10]しょせき一門いちもん混在こんざいしているが雲龍うんりゅうがたれいおお[注釈ちゅうしゃく 11]横綱よこづな全体ぜんたいでの選択せんたくりつ雲龍うんりゅうがたたかい(歴代れきだい横綱よこづな土俵入どひょういりのかたは「横綱よこづな一覧いちらん」を参照さんしょう)。なお不知火しらぬいがた13だい鳴戸なると死後しごはくほうしょうが21だいあいだかき襲名しゅうめいまで10ねんわたりこのかた選択せんたくした横綱よこづな親方おやかた9だい伊勢いせはましかおらず、かた断絶だんぜつ危惧きぐされていた。

不知火しらぬいがた短命たんめい」というジンクス[編集へんしゅう]

ながらく、「不知火しらぬいがた横綱よこづな短命たんめい」というジンクスがあった。昭和しょうわから平成へいせい中期ちゅうきまで、一般いっぱんに「だい横綱よこづな」といわれるとち木山きやま守也もりやそう葉山はやま定次さだじ大鵬たいほう幸喜ゆきよしきたうみさとしみつる千代ちよ富士ふじみつぐ貴乃花たかのはな光司こうじあさあおりゅう明徳あきのりはいずれも雲龍うんりゅうがた横綱よこづなである。

一方いっぽう不知火しらぬいがたかた完成かんせいさせた太刀たちやま大正たいしょうだい横綱よこづなで、いで不知火しらぬいがた選択せんたくした羽黒山はぐろさん政司せいじ戦前せんぜんから戦後せんごにかけて長期間ちょうきかん活躍かつやくしていた。しかし、これにつづよし葉山はやまじゅんは、横綱よこづな昇進しょうしん33さい高齢こうれい休場きゅうじょうがちとなり「悲運ひうん横綱よこづな」とひょうされ、さらにつづたまうみ正洋まさひろ昇進しょうしんにある相撲すもう記者きしゃが「不知火しらぬいがた短命たんめいというジンクス」と表現ひょうげん[4]し、そのたまうみ在位ざいい10場所ばしょ現役げんえきしたことで、以後いご不吉ふきつとされることがおおくなってしまった。

そのも、きんさくらすぐるしょう不知火しらぬいがた保存ほぞん意味いみめて選択せんたくしたとされるが、昇進しょうしんすでに33さい在位ざいい9場所ばしょ引退いんたい場所ばしょのぞくと8場所ばしょ)、いで不知火しらぬいがた選択せんたくしたりゅうさと俊英しゅんえい昇進しょうしん31さい在位ざいい15場所ばしょわった。そう羽黒はぐろ光司こうじは23さい昇進しょうしんしたがトラブルによりいち幕内まくうち優勝ゆうしょうたせず廃業はいぎょう在位ざいい9場所ばしょ引退いんたい場所ばしょのぞくと8場所ばしょ)したため、不知火しらぬいがたのマイナスめんをさらにつよめてしまった。平成へいせいはいってからもあさひ富士ふじ正也まさや在位ざいい9場所ばしょ)と若乃花わかのはなかち在位ざいい11場所ばしょ)が不知火しらぬいがた継承けいしょうするも、りょう力士りきしそろって横綱よこづな昇進しょうしん2ねんらずで引退いんたいするなど短命たんめいであった。

しかし、2007ねん横綱よこづな昇進しょうしんたしたはくほうしょうきゅう立浪たつなみ一門いちもんとして不知火しらぬいがた選択せんたくし、横綱よこづな在位ざいいは84場所ばしょ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうは45かい連勝れんしょう双葉ふたばさんの69連勝れんしょうぐ63連勝れんしょう記録きろくするなど横綱よこづなとして数多すうた大相撲おおずもうのこ記録きろく更新こうしんするだい横綱よこづなとなった。いで昇進しょうしんした日馬くさま富士ふじ公平こうへい在位ざいい31場所ばしょ)も優勝ゆうしょう9かい実績じっせきのこすなど、不知火しらぬいがた短命たんめいわるというながれを払拭ふっしょくした。

ただし、短命たんめいジンクスには諸説しょせつある(明治めいじ時代じだい初期しょき活躍かつやくした大坂おおさか相撲すもう横綱よこづな不知火しらぬひひかり五郎ごろうがあまりのつよさからねたまれて毒殺どくさつされ、その怨念おんねんがあるというせつなど)。また、短命たんめいジンクスに関係かんけいなく、たまうみ昇進しょうしんするまでのあいだに「攻撃こうげきのみの不知火しらぬいがた横綱よこづな土俵入どひょういりは邪道じゃどうだ」という彦山ひこさん光三みつぞうかんがえ(後述こうじゅつ)がひろまったこともあって、正統せいとうでないというレッテルをられた不知火しらぬいがた選択せんたくする横綱よこづなたんあらわれなかったとするせつもある[3]

両方りょうほうかた経験けいけんした横綱よこづな[編集へんしゅう]

1人ひとり横綱よこづな雲龍うんりゅうがた不知火しらぬいがた両方りょうほう使つかけたれいはないが、例外れいがい措置そちとしてもう一方いっぽうかた選択せんたくしたれいが2れいある。

雲龍うんりゅうがた土俵入どひょういりをしていたきた富士ふじ勝昭かつあき1971ねん8がつ、Aはん・Bはんの2はん体制たいせいおこなわれていた巡業じゅんぎょうにおいてAはん班長はんちょうとして参加さんかしていたが、Bはん班長はんちょうとして巡業じゅんぎょうまわっていたたまうみ正洋まさひろ虫垂炎ちゅうすいえんによる急病きゅうびょうとのほうけて急遽きゅうきょBはん巡業じゅんぎょうさきであった秋田あきたけん合流ごうりゅうし、土俵入どひょういりをすることになった。しかし、きゅうはなしだったためにみずからの雲龍うんりゅうがたつなはいったあきらわず、巡業じゅんぎょうさきかれたままであったたまうみ不知火しらぬいがたつなめて異例いれいかたち不知火しらぬいがた土俵入どひょういりをおこなった。きた富士ふじ不知火しらぬいがた選択せんたくしない高砂たかさご一門いちもん横綱よこづなであり、一門いちもんとしても唯一ゆいいつ不知火しらぬいがた経験けいけんしゃである。

不知火しらぬいがた土俵入どひょういりをしていたはくほうは、2011ねん12月に双葉ふたばさん生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねんして双葉ふたばさん出身しゅっしんである大分おおいたけん宇佐うさ宇佐うさ神宮じんぐうおこなわれた奉納ほうのう土俵入どひょういりで、双葉ふたばさん敬意けいいひょうするために、自分じぶん不知火しらぬいがたようつな[注釈ちゅうしゃく 12]雲龍うんりゅうがたようながさに調節ちょうせつした横綱よこづなめて双葉ふたばさんおな雲龍うんりゅうがた横綱よこづな土俵入どひょういりをおこなった[5][注釈ちゅうしゃく 13]

そのかた[編集へんしゅう]

現在げんざいでは「雲龍うんりゅうがた」「不知火しらぬいがた」とばれる2種類しゅるいしか土俵入どひょういりのかたもちいられていないが、ふるくはそれらとはことなるかた存在そんざいした。現在げんざいかた明治めいじ後期こうき(2だいうめたに太刀たちさん)に確立かくりつしたものとされているため、そのまえにはふるかた土俵入どひょういりが存在そんざいしたことは確実かくじつである。たとえば、不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもん大砲たいほうまんみぎ衛門えもん雲龍うんりゅうがたちかいせりがりをおこなったのちりょううでひろげ、常陸山ひたちやま拍手はくしゅ直後ちょくご両手りょうてひろげていた。

また、それ以前いぜん映像えいぞうがない時代じだい横綱よこづなについては、実見じっけんすることは不可能ふかのうだが、現在げんざいられるものとはまったことなるものとおもわれるものもすくなくない。ただし、後継こうけいしゃ存在そんざいせず現在げんざいつたわっていないため、推測すいそくいきない。なかでも不知火しらぬいだくみぎ衛門えもんについては、つな姿すがたりょううでひろげた錦絵にしきえ常陸山ひたちやまがた土俵入どひょういり(柏手かしわで直後ちょくご両手りょうてひろげるかた)をみとめる根拠こんきょにされたともいわれ、いまでいう不知火しらぬいがた元祖がんそだといわれたこともあったが、土俵入どひょういりのどの部分ぶぶんえがいたのか判明はんめいしておらず、錦絵にしきえのための特殊とくしゅかまえの可能かのうせいもある(現在げんざいでも優勝ゆうしょうがく銅像どうぞうにおいて、本来ほんらいつなめておこなわないかまえをもちいることがある)ため、結論けつろんていない。

横綱よこづな番付ばんづけ記載きさいされない名誉めいよ称号しょうごうとされていた時代じだいには、つなかたいまとはことなっており、みぎつくつなりょうはしひだりす(あるいはその左右さゆうぎゃく)「かたむすび」となっていた。現在げんざいのこ錦絵にしきえによれば、江戸えど時代じだい横綱よこづな全員ぜんいんこのかたで、現在げんざいのように正面しょうめん部分ぶぶんふとくしたつなではなく、正面しょうめんむすでさほどふとさのわらないつなもちいていた。のち現在げんざいられるかた登場とうじょうすると、かたむすびはもちいられなくなり、大正たいしょうすえ横綱よこづな免許めんきょ獲得かくとくした3だい西にしうみ嘉治よしはるろうがこのかた復活ふっかつさせているが、これを最後さいごにこのかためた横綱よこづなはいない。

谷風たにかぜ小野川おのがわ横綱よこづな土俵入どひょういりは、じゅうりょう以上いじょう集団しゅうだん土俵入どひょういりの四股しこみを原型げんけいに、吉田よしだつかさ見栄みばえよくアレンジしたものとわれている。四股しこまえ右手みぎてばすのは、バランスをるための自然しぜん動作どうさであったとられている。まった作法さほうはなかったようであり、せりがりもなかったと推測すいそくされる。しきもり蝸牛かぎゅうあらわした「相撲すもうかくれくもかい」(寛政かんせい5ねん)には横綱よこづな土俵入どひょういりについて「土俵どひょうふたつ。これは乾坤けんこん陰陽いんようじゅん意味いみである。つぎあしみっむ。これは天地人てんちじんさんさい、如仁いさみさんとくするもので、わせていつつは、きんすい仁義じんぎれい知勇ちゆう五常ごじょうそなえる(後略こうりゃく)」と記述きじゅつされており、当時とうじ横綱よこづな土俵入どひょういりの基本きほん四股しこみと柏手かしわでにあったことがれる[6]

横綱よこづな土俵入どひょういりの虚説きょせつ[編集へんしゅう]

横綱よこづな土俵入どひょういりにかんする説明せつめいについて、報道ほうどうあるいは花相撲はなずもうにおけるつな実演じつえん解説かいせつなどにおいてげられる内容ないようが、実際じっさい歴史れきしてきただしくないことがしばしば指摘してきされている。これらの虚説きょせつ流布るふ影響えいきょうおよぼしたのが、戦前せんぜんから戦後せんごにかけて相撲すもう故実こじつ権威けんいだった彦山ひこさんこうさんである。

雲龍うんりゅうがた不知火しらぬいがた呼称こしょう逆転ぎゃくてん[編集へんしゅう]

雲龍うんりゅうがたは「せりがりで左手ひだりてむね右手みぎてばす」、不知火しらぬいがたは「せりがりで両手りょうてばす」、という区別くべつ戦前せんぜんから定着ていちゃくしているが、この呼称こしょうがあべこべと指摘してきされることがある。

モチーフである不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもん土俵入どひょういりには好角家こうかくかまるじょう老人ろうじん証言しょうげんがあり、それによると「こしとして左手ひだりてをワキにてて右手みぎてばしてせりがる」という動作どうさ現在げんざい雲龍うんりゅうがた[注釈ちゅうしゃく 14][7]をしている。ただし、そのに「ったところで両手りょうてひろげた」というかたちしめしており、わりの場面ばめんだけをれば現在げんざいの「不知火しらぬいがた」ともなるため、全体ぜんたいながれとしては現在げんざいのこる2つのかたのどちらにもてはまるものではなく、むしろこのほかかた存在そんざいしていたことを裏付うらづけている(前述ぜんじゅつ参照さんしょう)。

ひだり不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもんかまえは現在げんざい雲龍うんりゅうがたみぎ鬼面きめん山谷やまたに五郎ごろうかまえは不知火しらぬいがた

しかし、1869ねん撮影さつえい推定すいていされる不知火しらぬい鬼面きめん山谷やまたに五郎ごろうならんで土俵入どひょういりのポーズをっている写真しゃしんでは、不知火しらぬい左手ひだりてむね右手みぎてばしており(雲龍うんりゅうがた)、鬼面山きめんざん両手りょうてひろげている(不知火しらぬいがた)。鬼面山きめんざん実際じっさいに、最初さいしょから両手りょうてひろげてせりがったかは不明ふめいだが、すくなくとも不知火しらぬいほう前述ぜんじゅつ証言しょうげんと、この写真しゃしんからしても現在げんざいの「雲龍うんりゅうがた」にちかかたであったことがわかる。さらに、太刀たちさん不知火しらぬいがた)が横綱よこづなとなったさいに、16だい木村きむらしょうすけから土俵入どひょういりをすすめられ、「横綱よこづな雲龍うんりゅうすなわ追手おってふうになったひとかたです」と発言はつげんしている[8][9][10]。また当時とうじ相撲すもう雑誌ざっしで、おおとりたに五郎ごろう雲龍うんりゅうがた)については「うめだに同様どうよう不知火しらぬいかたのっとって」とほうじられている。太刀たちやま横綱よこづな昇進しょうしんたした直後ちょくご新聞しんぶん雑誌ざっし報道ほうどうではほとんどが雲龍うんりゅうがたほうじていたが、東京とうきょう日日ひにち、やまとの2だけは、ある行司ぎょうじ適当てきとう口走くちばしったことを真偽しんぎたしかめずに「不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもんかた」と掲載けいさいした[8][11]

このように、太刀たちやま本人ほんにんが「雲龍うんりゅうがた」とする発言はつげんとは関係かんけいのないところで「不知火しらぬいがた」という報道ほうどうされ、認識にんしき一定いっていしない事態じたいまねくことになった。ところが彦山ひこさんこうさん戦前せんぜんから戦後せんごにかけて、太刀たちやまおながた継承けいしょうした羽黒山はぐろさん1941ねん)とよし葉山はやま1954ねん)について「不知火しらぬいがた」と断定だんていし、新聞しんぶん雑誌ざっしひろめたのをきっかけとして、この呼称こしょう定着ていちゃくしていった[注釈ちゅうしゃく 15]

この過程かていでは相撲すもう博物館はくぶつかん初代しょだい館長かんちょう酒井さかい忠正ただまさがあべこべせつ提唱ていしょうし、論争ろんそう発展はってんした。彦山ひこさんは、不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもん師匠ししょうである不知火しらぬひだくみぎ衛門えもん錦絵にしきええがかれた、両手りょうてひろげている姿すがたが「せりがり」であるから、これが「不知火しらぬいがた」であると主張しゅちょう。これにたい酒井さかいは(前述ぜんじゅつのように)「せりがってったのち両手りょうてひろげる」れいもあり、ゆえに錦絵にしきえいち場面ばめんのみでせりがりのかたち断定だんていすることはできない[注釈ちゅうしゃく 16]反論はんろんしたが、彦山ひこさん緻密ちみつ論証ろんしょうさぬままに、不知火しらぬひだくみぎ衛門えもんはじめから両手りょうてでせりがったとする自説じせつとおした。あらそいをこのまない酒井さかい論争ろんそうから退しりぞいたために、そのまま彦山ひこさんせつ一般いっぱんしてしまった[8]

このように、彦山ひこさんせつ一般いっぱん流布るふされた結果けっか、「雲龍うんりゅうがた」と「不知火しらぬいがた」は戦前せんぜんまでの証言しょうげん報道ほうどうとは呼称こしょうぎゃくのものとなり、今日きょう定着ていちゃくしている。そのもたびたびこの2つのかたが「逆転ぎゃくてん」していると指摘してきされることはあるが、マスコミや日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいにも修正しゅうせいするうごきはられない。

しかし、不知火しらぬいのように右手みぎてひろげてせりがり、ってから両手りょうてひろげるという動作どうさ大正たいしょう時代じだい以降いこう横綱よこづな土俵入どひょういりにはないものであり、また雲龍うんりゅう太刀たちやままった同様どうようはじめから両手りょうてひろげてせりがったという確証かくしょうられていない。さらには太刀たちやま時代じだいにメディアを二分にぶんするほど混乱こんらんしていることや、羽黒山はぐろさん以降いこう呼称こしょう逆転ぎゃくてん論争ろんそう不十分ふじゅうぶんであることなどもあり、現在げんざいのこっている2つのかたを「雲龍うんりゅうがた」「不知火しらぬいがた」とぶこと自体じたいがしばしば疑問ぎもんされている[12]。ゆえに、現在げんざいつたわるかた確立かくりつした2人ふたり横綱よこづなから、「うめたにがた」(=「雲龍うんりゅうがた」)、「太刀たちやまがた」(=「不知火しらぬいがた」)とぶのが正確せいかくではないかという指摘してきもある。

せりがりの意味いみづけのあやま[編集へんしゅう]

雲龍うんりゅうがた攻守こうしゅ兼備けんび不知火しらぬいがたはげしい攻撃こうげきあらわすというせつ巷間こうかんしんじられているが、このせつ明確めいかく根拠こんきょはない。これは10代しげるやまもと関脇せきわけ笠置山かさぎやま勝一かついち)が、昭和しょうわ初期しょき北京ぺきんでの皇軍こうぐん慰問いもん巡業じゅんぎょうちゅうそう葉山はやま定次さだじ羽黒山はぐろさん政司せいじかたちがいについて説明せつめいもとめられたとき、戦時せんじちゅう相応ふさわしい返答へんとうをしたものが、のち彦山ひこさんこうさんによってもっともらしくひろめられたものである[13]池田いけだ雅雄まさおは、こうして流布るふされた経緯けいいから「不知火しらぬい=攻撃こうげきがた」という虚説きょせつみにしてメディアにくのはナンセンスだと指摘してきしている。また池田いけだは、現役げんえき時代じだいよし葉山はやまに「ワシの不知火しらぬいがたは、攻撃こうげきばかりで邪道じゃどうだと彦山ひこさん光三みつぞううが、本当ほんとうか?」と心配しんぱいげに質問しつもんされたことがあり、そのいわれはまったくタワイのないことからたのだと、しげるやまはなしつたえて「邪道じゃどうでない」と説明せつめいし、安心あんしんさせたことをかしている[3]

実際じっさい、こうした流布るふ戦後せんごそのまま定着ていちゃくしており、マスコミにおいてもとく不知火しらぬいがた横綱よこづな誕生たんじょうするたび、雲龍うんりゅうがたとの差異さい解説かいせつする意味いみでこうした報道ほうどうがされる傾向けいこうにある。「せりがりのちがいで、雲龍うんりゅうがたひだりワキはらててまもりを、右手みぎてひろげることでめをあらわし、不知火しらぬいがた両手りょうてひろげることではげしい攻撃こうげきあらわす」といったもんがた説明せつめいがなされることがおおい。たびたび専門せんもんではこのあやまりを指摘してきすることがある[3]ものの、2017ねん雲龍うんりゅうがたであるまれぜいさと昇進しょうしんしたさいにも報道ほうどうにおいてこのたね説明せつめいがされており、虚説きょせつ流布るふ一役ひとやくっているのが実態じったいである[14]

奉納ほうのう土俵入どひょうい[編集へんしゅう]

雲龍うんりゅうがたによる奉納ほうのう土俵入どひょういり(まれぜいさとひろし

横綱よこづな推挙すいきょされたのちその土俵入どひょういりをはじめて披露ひろうするのが横綱よこづな推挙すいきょしきとも明治めいじ神宮じんぐうおこなわれる奉納ほうのう土俵入どひょういである。奉納ほうのう土俵入どひょういりは毎年まいとし正月しょうがつおなじく明治めいじ神宮じんぐうおこなわれるほか例年れいねんはる巡業じゅんぎょうまれている伊勢神宮いせじんぐう神宮じんぐう奉納ほうのう大相撲おおずもう出雲いずも大社たいしゃ靖国神社やすくにじんじゃ[注釈ちゅうしゃく 17]など神社じんじゃ施設しせつあるいは国家こっか関連かんれん行事ぎょうじ・イベントなどでもおこなわれる[注釈ちゅうしゃく 18]

しん横綱よこづな誕生たんじょうさいには、横綱よこづな力士りきしのある富岡八幡宮とみおかはちまんぐう野見のみ宿禰すくね神社じんじゃへの奉納ほうのう土俵入どひょういりと、横綱よこづなへのこくめいしきおこなわれる。

土俵どひょうびら[編集へんしゅう]

相撲すもう部屋へや新設しんせつされる、あるいは既存きそん部屋へやでも移転いてんなどにより新築しんちくされると、稽古けいこ土俵どひょう完成かんせいわせて現役げんえき横綱よこづなばれて土俵入どひょういりを披露ひろうして土俵どひょうびらきをいわ慣習かんしゅうがある。一門いちもんない横綱よこづながいればもちろんそちらがばれるが、いない場合ばあい門外もんがい横綱よこづなでもかまわない。たとえば立浪たつなみ部屋へや当時とうじ立浪たつなみ一門いちもん本家ほんけ)が移転いてん完成かんせいしたさいには当時とうじ現役げんえきだったあさあおりゅう高砂たかさご一門いちもん)がばれ土俵入どひょういりを披露ひろうしている。幕内まくうち力士りきしのいない部屋へやであれば露払つゆはらいと太刀持たちもちも当然とうぜんばれるが、いる部屋へやであれば自分じぶん部屋へや力士りきし1人ひとりしか幕内まくうちがいない部屋へやでは片方かたがた)を使つかうので、普段ふだんとはちがかおぶれの土俵入どひょういりとなる。

ただし、土俵どひょうひらきした部屋へや師匠ししょうふくしている期間きかんかさなった場合ばあい土俵入どひょういりをしないこととなっているので横綱よこづなばれることもい。

引退いんたい相撲すもうにおける横綱よこづな土俵入どひょうい[編集へんしゅう]

もと横綱よこづな引退いんたい相撲すもうおこなさいに、断髪だんぱつしきまえ最後さいご横綱よこづな土俵入どひょういりをおこなう。このとき露払つゆはらいと太刀持たちもちも現役げんえき横綱よこづなつとめ、ともにつなめることが原則げんそくである。開催かいさい横綱よこづなが2にんいない、もしくはぜん場所ばしょ休場きゅうじょうという場合ばあいには、大関おおぜきや、おな部屋へやおな一門いちもん力士りきしてることもある。

下記かきに、引退いんたい相撲すもうにおける横綱よこづな土俵入どひょういりにおける露払つゆはらいと太刀持たちもちの一覧いちらんしるす。

四股しこめい 年寄としより名跡みょうせき 開催かいさい 露払つゆはら 太刀持たちも 備考びこう
だい19だい常陸ひたち山谷さんやみぎもん 5だい出羽海でわのうみ 1914ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづなうめだに 横綱よこづな太刀たちやま
だい20だいうめ谷藤たにふじ太郎たろう 11だいかみなり 1915ねん6がつ場所ばしょ 横綱よこづなおおとり 横綱よこづな太刀たちやま
だい21だい太刀たちさんみねみぎもん 7だい東関ひがしせき 1918ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづなおおとり 横綱よこづなだいにしき
だい27だいとち木山きやま守也もりや 8だい春日野かすがの 1926ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづな西にしうみ 横綱よこづなつねはな
だい34だい男女だんじょ川登かわのぼりさん いちだい男女だんじょかわ 1942ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづな羽黒山はぐろさん 横綱よこづな双葉ふたばさん
だい35だいそう葉山はやま定次さだじ 12だい時津風ときつかぜ 1946ねん11月場所ばしょ 横綱よこづな照國てるくに 横綱よこづな羽黒山はぐろさん
だい37だい安藝あきうみ節男せつお 8だい不知火しらぬひ 1947ねん6がつ場所ばしょ 横綱よこづな照國てるくに 横綱よこづな羽黒山はぐろさん
だい39だいぜん田山たやま英五郎えいごろう 4だい高砂たかさご 1950ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづなひがし富士ふじ 横綱よこづな羽黒山はぐろさん
だい38だい照國てるくに万藏まんぞう 10代荒磯あらいそ 1953ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづなかがみさと 横綱よこづなひがし富士ふじ
だい36だい羽黒山はぐろさん政司せいじ 5だい立浪たつなみ 1954ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづなかがみさと 横綱よこづな千代ちよやま
だい42だいかがみさと喜代治きよじ 一代いちだいきょうさと 1958ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづなとちにしき 横綱よこづな千代ちよやま
だい43だいよし葉山はやまじゅん いちだいよし葉山はやま 1958ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづなとちにしき 横綱よこづな千代ちよやま
だい41だい千代ちよやま雅信まさのぶ 11だい九重ここのえ 1959ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづな若乃花わかのはな 横綱よこづなとちにしき
だい44だいとちにしき清隆きよたか 9だい春日野かすがの 1960ねん9がつ場所ばしょ 横綱よこづなあさしお 横綱よこづな若乃花わかのはな
だい46だいあさうしお太郎たろう 13だい振分ふりわけ 1961ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづな柏戸かしわど 横綱よこづな大鵬たいほう
だい45だい若乃花わかのはなみき 10代二子山ふたごやま 1961ねん9がつ場所ばしょ 横綱よこづな柏戸かしわど 横綱よこづな大鵬たいほう
だい49だいとちうみあきらよしみ 9だい中立ちゅうりつ 1967ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづな柏戸かしわど 横綱よこづな大鵬たいほう
だい50だい佐田さだやますすむまつ 9だい出羽海でわのうみ 1968ねん5がつ場所ばしょ 前頭まえがしら7・ぶくはな 前頭まえがしら11・うみ乃山 横綱よこづな柏戸かしわど大鵬たいほうともに休場きゅうじょうのため、ぶくはなうみ乃山(佐田さだやまどう部屋へや)が担当たんとう
だい47だい柏戸かしわどつよし 7だい鏡山かがみやま 1970ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづなたまうみ[注釈ちゅうしゃく 19] 横綱よこづなきた富士ふじ[注釈ちゅうしゃく 19]
だい48だい大鵬たいほう幸喜ゆきよし いちだい大鵬たいほう 1971ねん9がつ場所ばしょ 横綱よこづなきた富士ふじ 横綱よこづなたまうみ
だい53だいきんさくらすぐるしょう 12だい佐渡さどだけ 1975ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづな輪島わじま 横綱よこづなきたうみ
だい52だいきた富士ふじ勝昭かつあき 12だい井筒いづつ 1975ねん1がつ場所ばしょ 横綱よこづな輪島わじま 横綱よこづなきたうみ
だい57だい三重みえうみ剛司たけし 14だい武蔵川むさしがわ 1981ねん5がつ場所ばしょ 大関おおぜき千代ちよ富士ふじ 横綱よこづなきたうみ 横綱よこづな若乃花わかのはな休場きゅうじょうのため、大関おおぜき千代ちよ富士ふじ担当たんとう
だい54だい輪島わじままさる 13だいはなかご 1981ねん9がつ場所ばしょ 横綱よこづな若乃花わかのはな 横綱よこづなきたうみ
だい56だい若乃花わかのはなみき 18だいあいだかき 1983ねん5がつ場所ばしょ 横綱よこづなきたうみ 横綱よこづな千代ちよ富士ふじ
だい55だいきたうみさとしみつる いちだいきたうみ 1985ねん9がつ場所ばしょ 大関おおぜききた天佑てんゆう 横綱よこづな千代ちよ富士ふじ 横綱よこづなたかしさと休場きゅうじょうのため、大関おおぜききた天佑てんゆうきたうみどう部屋へや)が担当たんとう
だい59だいりゅうさと俊英しゅんえい 13だい鳴戸なると 1986ねん5がつ場所ばしょ 大関おおぜきわか嶋津しまづ 横綱よこづな千代ちよ富士ふじ 千代ちよ富士ふじ一人ひとり横綱よこづなのため、大関おおぜきわか嶋津しまづたかしさとどう部屋へや)が担当たんとう
だい58だい千代ちよ富士ふじみつぐ 17だいじんまく 1992ねん1がつ場所ばしょ 一代いちだいあさひ富士ふじ
横綱よこづなあさひ富士ふじ[注釈ちゅうしゃく 20]
横綱よこづな北勝海ほくとうみ 場所ばしょ休場きゅうじょう引退いんたいした2横綱よこづながそのままつとめた。
だい62だいだい国康くにやす 一代いちだいだい乃国 1992ねん5がつ場所ばしょ ぜん8・隆三りゅうぞうすぎ ぜん1・三杉里みすぎさと 横綱よこづな空位くういのため、隆三りゅうぞうすぎ三杉里みすぎさとだい乃国と同門どうもん)が担当たんとう
だい63だいあさひ富士ふじ正也まさや 一代いちだいあさひ富士ふじ 1992ねん9がつ場所ばしょ ぜん16・あさひさと 小結こむすび旭道山きょくどうざん 横綱よこづな空位くういのため、あさひさと旭道山きょくどうざんあさひ富士ふじどう部屋へや)が担当たんとう
だい61だい北勝海ほくとうみ信芳のぶよし いちだい北勝海ほくとうみ 1993ねん1がつ場所ばしょ 大関おおぜき小錦こにしき 横綱よこづなあけぼの[注釈ちゅうしゃく 21] あけぼの一人ひとり横綱よこづなのため、大関おおぜき小錦こにしき担当たんとう
だい66だい若乃花わかのはなかち 16だい藤島ふじしま 2000ねん9がつ場所ばしょ 横綱よこづな貴乃花たかのはな 横綱よこづなあけぼの
だい64だいあけぼの太郎たろう いちだいあけぼの 2001ねん9がつ場所ばしょ 大関おおぜき武双山むそうやま 横綱よこづな武蔵丸むさしまる 横綱よこづな貴乃花たかのはな休場きゅうじょうのため、大関おおぜき武双山むそうやま担当たんとう
だい65だい貴乃花たかのはな光司こうじ いちだい貴乃花たかのはな 2003ねん5がつ場所ばしょ ぜん2・貴ノ浪たかのなみ 17だい藤島ふじしま
ぜん15・安芸乃島あきのしま[注釈ちゅうしゃく 22]
横綱よこづな武蔵丸むさしまるあさあおりゅう在位ざいいも、貴ノ浪たかのなみ安芸乃島あきのしま貴乃花たかのはなどう部屋へや)が担当たんとう[注釈ちゅうしゃく 23]
だい67だい武蔵丸むさしまる光洋みつひろ いちだい武蔵丸むさしまる 2004ねん9がつ場所ばしょ 関脇せきわけまさやま 大関おおぜき武双山むそうやま あさあおりゅう一人ひとり横綱よこづなのため、まさやま武双山むそうやま武蔵丸むさしまるどう部屋へや)が担当たんとう
だい68だいあさあおりゅう明徳あきのり 退職たいしょく 2010ねん9がつ場所ばしょ ぜん6・あさあかりゅう 大関おおぜき日馬くさま富士ふじ はくほう一人ひとり横綱よこづなのため、あさあかりゅう日馬くさま富士ふじあさあかりゅうあさあおりゅうどう部屋へや)が担当たんとう
だい70だい日馬くさま富士ふじ公平こうへい 退職たいしょく 2018ねん9がつ場所ばしょ 横綱よこづなつるりゅう 横綱よこづなはくほう
だい72だいまれぜいさとひろし 16だい荒磯あらいそ 2019ねん9がつ場所ばしょ ぜん12・まつおおとりさん 大関おおぜき髙安 横綱よこづなはくほうつるりゅう在位ざいいも、まつおおとりさん・髙安(髙安はまれぜいさとどう部屋へや)が担当たんとう[注釈ちゅうしゃく 24]
だい69だいはくほうしょう 13だい宮城野みやぎの 2023ねん1がつ場所ばしょ 関脇せきわけ豊昇ほうしょうりゅう 大関おおぜき景勝けいしょう あきら富士ふじ一人ひとり横綱よこづなのため、豊昇ほうしょうりゅう景勝けいしょう担当たんとう[注釈ちゅうしゃく 25]
だい71だいつるりゅうりょく三郎さぶろう いちだいつるりゅう 2023ねん5がつ場所ばしょ 小結こむすび正代しょうだい 大関おおぜき霧島きりしま[注釈ちゅうしゃく 26] あきら富士ふじ一人ひとり横綱よこづなのため、正代しょうだい霧島きりしま霧島きりしまつるりゅうどう部屋へや)が担当たんとう

引退いんたい相撲すもうにおける横綱よこづな土俵入どひょういりを実施じっししなかった横綱よこづな[編集へんしゅう]

四股しこめい 年寄としより名跡みょうせき 開催かいさい 露払つゆはら 太刀持たちも 備考びこう
だい32だいたまにしきさんみぎもん 6だいしょせきまい鑑札かんさつ 死去しきょ - 1938ねん12月に現役げんえき実施じっしせず。
だい40だいひがし富士ふじ欽壹 廃業はいぎょう - 1954ねん10がつ引退いんたい・7だい錦戸にしきど襲名しゅうめい同年どうねん12がつ廃業はいぎょう実施じっしせず。
だい51だいたまうみ正洋まさひろ 死去しきょ - 1971ねん10がつ現役げんえき実施じっしせず。
だい60だいそう羽黒はぐろ光司こうじ 廃業はいぎょう - 1987ねん12月に廃業はいぎょう実施じっしせず。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい監修かんしゅう へん『ハッキヨイ!せきトリくん わくわく大相撲おおずもうガイド へん』、90ぺーじ 

脚註きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 彦山ひこさん光三みつぞう横綱よこづな土俵入どひょういりを「手数てかずり」(でずいり)としょうしており、読売新聞社よみうりしんぶんしゃ相撲すもう雑誌ざっし大相撲おおずもう』では「手数てかずり」の表記ひょうき統一とういつされていた。
  2. ^ この原則げんそく昭和しょうわ以降いこうでは画一かくいつしているが、3だい西にしうみ嘉治よしはるろう以前いぜんにはぎゃくのパターンがられた。加藤かとう健治けんじによれば、そのころ入場にゅうじょうじゅんのまま土俵どひょうならんでいたので、東方とうほうでは自然しぜん左側ひだりがわ露払つゆはらいになったという。現在げんざいでは、東方とうほうからの入場にゅうじょうでは土俵どひょうちかくまでると、露払つゆはらいと横綱よこづなこう正面しょうめんがわはぐれて太刀持たちもちが正面しょうめんがわすすむようになり、東西とうざいわず左側ひだりがわ太刀持たちもち、右側みぎがわ露払つゆはらいがなら原則げんそくつらぬかれている。
  3. ^ 大関おおぜきつとめないことは明示めいじされていないが、本場所ほんばしょ大関おおぜきつとめた事例じれい大鵬たいほう太刀持たちもちをだい麒麟きりんはたのうつとめたくらいで、あまりられない。ただし、しん横綱よこづなとして明治めいじ神宮じんぐう土俵入どひょういりを奉納ほうのうするさいどう部屋へや大関おおぜきつとめることがある(れい:1978ねん5がつの2だい若乃花わかのはな太刀持たちも貴乃花たかのはなけん、1983ねん7がつたかしさと太刀持たちもわか島津しまつ六男むつお、1994ねん11月の貴乃花たかのはな露払つゆはら貴ノ浪たかのなみ太刀持たちも若乃花わかのはなかち)。
  4. ^ 男女だんじょかわ佐渡さどだけ部屋へや)が旭川あさひかわこう立浪たつなみ部屋へや)を、双葉ふたばさん立浪たつなみ部屋へや双葉ふたば山道さんどうじょう)が露払つゆはらひがし富士ふじ太刀持たちも前田まえださん両者りょうしゃとも高砂たかさご部屋へや)を、きた富士ふじ九重ここのえ部屋へや)がこう鐵山てつざん孝之たかゆきすすむ朝日山あさひやま部屋へや)を、千代ちよ富士ふじ九重ここのえ部屋へや)がこうのぞむ山大やまだいづくりくまたに部屋へや)を、北勝海ほくとうみ九重ここのえ部屋へや)が旭道山きょくどうざんかずやすし大島おおしま部屋へや)を、あけぼの東関ひがしせき部屋へや)が魁皇かいおう博之ひろゆきともつな部屋へや)を、あさあおりゅう高砂たかさご部屋へや)がやす公平こうへい安治川あじがわ部屋へや)を、はくほう宮城野みやぎの部屋へや)がしょうてんおおかみだい藤島ふじしま部屋へや)、ゆたかしま大樹だいき時津風ときつかぜ部屋へや)、きばまるまさる木瀬きせ部屋へや)、里山さとやまひろしさく尾上おがみ部屋へや)、どき天空てんくうけいあきら時津風ときつかぜ部屋へや)、たまわしいちろう片男波かたおなみ部屋へや)、大栄おおえしょう勇人はやと追手おってふう部屋へや)、千代ちよしょううま富士雄ふじお九重ここのえ部屋へや)を、日馬くさま富士ふじ伊勢いせはま部屋へや)がとき天空てんくう先述せんじゅつ)、だいしょうまるしょう追手おってふう部屋へや)、たかいわ義司よしじ貴乃花たかのはな部屋へや)を、つるりゅう井筒いづつ部屋へや)があきら富士ふじ春雄はるお伊勢いせはま部屋へや)をそれぞれ起用きようしたケースがある。
  5. ^ このけんについてだい61だい横綱よこづな北勝海ほくとうみ信芳のぶよし取材しゅざい当時とうじ八角はっかく広報こうほう部長ぶちょう)は「だい銀杏いちょうでなければ駄目だめというルールはないが、見栄みばえの問題もんだい」とかたっている(日刊にっかんスポーツ 2014ねん1がつ25にちづけ紙面しめんより。当時とうじまだまげゆわえなかった遠藤えんどうきよしだい活躍かつやくけ、おな一門いちもんであるはくほう土俵入どひょういりで露払つゆはらい・太刀持たちもちをつとめないのかといういにたいして)。
  6. ^ 本場所ほんばしょではないが、2023ねん9月場所ばしょまえおこなわれただい61だい横綱よこづな北勝海ほくとうみ八角はっかく理事りじちょう)の還暦かんれき土俵入どひょういりでは八角はっかく部屋へやづけ行司ぎょうじ2だい木村きむら要之助ようのすけ幕内まくうちかく土俵入どひょういりをつとめた。
  7. ^ 2023ねん9がつ場所ばしょまえもと北勝海ほくとうみ還暦かんれき土俵入どひょういりでは八角はっかく部屋へやづけ幕内まくうち呼出よびだし大吉だいきち土俵入どひょういりをつとめた。
  8. ^ 2014ねん5がつ場所ばしょれい。このひがしせい横綱よこづなはくほうひがし2番目ばんめ横綱よこづなつるりゅう対戦たいせんむすまえまれた。
  9. ^ 2013ねん9がつ場所ばしょはくほう横綱よこづな土俵入どひょういりについて、3かい四股しこまえひだりあしげるさいに、右腕うわんげる動作どうさ省略しょうりゃくしていたと、相撲すもうファンからクレームがいたことがある。これについてはくほうは「(みずからが尊敬そんけいするだい横綱よこづなである)双葉ふたばさん土俵入どひょういりにならい、5ねんまえから所作しょさえた」と発言はつげん最終さいしゅうてきには黙認もくにんするかたちとなった。
    はくほう土俵入どひょういりに異論いろん、「所作しょさ省略しょうりゃく」との指摘してき 読売新聞よみうりしんぶん 2013ねん10がつ5にち
  10. ^ 現在げんざい一門いちもんきゅう立浪たつなみ一門いちもん)は羽黒山はぐろさん政司せいじ系統けいとうであるため。
  11. ^ しょせき一門いちもん不知火しらぬいがたたまうみ正洋まさひろきんさくらすぐるしょうりゅうさと俊英しゅんえい若乃花わかのはなかちの4めいであるが、いずれも横綱よこづな昇進しょうしん横綱よこづな全員ぜんいん雲龍うんりゅうがたという事情じじょうがあった。なおたかしさと師匠ししょう二子山ふたごやま初代しょだい若乃花わかのはな)が雲龍うんりゅうがたでありながら不知火しらぬいがた選択せんたくしていて、一方いっぽうたかしさと弟子でしであるまれぜいさとひろし横綱よこづな昇進しょうしん不知火しらぬいがた横綱よこづながいたため雲龍うんりゅうがた選択せんたくした。
  12. ^ 横綱よこづな東京とうきょう場所ばしょごとつなちをおこなって新調しんちょうするので以降いこう不知火しらぬいがた土俵入どひょういりに支障ししょうしょうじない。
  13. ^ おおやけでの雲龍うんりゅうがた土俵入どひょういりは、2010ねん10月3にちあさあおりゅう引退いんたい相撲すもう披露ひろうして以来いらい、1ねん2かげつぶりのことだった。
  14. ^ このせりがるという動作どうさは、土俵入どひょういりのさいに2かい四股しこあいだでいったんこしげてからだてる、この漠然ばくぜんとした動作どうさ原形げんけいとするせつがある。
    横綱よこづなじゅうなな)せりがりの起源きげん 相撲すもう評論ひょうろんぺーじ
  15. ^ 羽黒山はぐろさん横綱よこづな昇進しょうしんまった1941ねん5がつ場所ばしょ直前ちょくぜん、4がつ3にち太刀たちやまくなっており、雲龍うんりゅうがた証言しょうげんする本人ほんにんがいなくなったことも「不知火しらぬいがたとしての」定着ていちゃく要因よういんおもわれる。
  16. ^ 不知火しらぬひだくみぎ衛門えもんのみならず、雲龍うんりゅうにも両手りょうてひろげての土俵入どひょうい姿すがたえがかれた錦絵にしきえ現存げんそんする。この両者りょうしゃとも、「ってから両手りょうてひろげる」がた記録きろくされる不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもんちがって、せりがりの詳細しょうさいしめ証言しょうげんなどがないので、錦絵にしきえ場面ばめんがせりがりとはかならずしも断定だんていできない。
  17. ^ 毎年まいとし4がつ開催かいさいされている『靖国神社やすくにじんじゃ奉納ほうのう大相撲おおずもう』にておこなわれている。
  18. ^ 過去かこには1998ねん長野ながのオリンピック開会かいかいしきいて、あけぼの太郎たろう横綱よこづな土俵入どひょういりをおこなったれいや、1995ねん硫黄いおうとう戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしきける貴乃花たかのはな光司こうじあけぼの太郎たろう日米にちべい出身しゅっしんりょう横綱よこづなによる土俵入どひょういりがおこなわれたれい存在そんざいする。
  19. ^ a b 直前ちょくぜんの1970ねん1がつ場所ばしょ横綱よこづな同時どうじ昇進しょうしん
  20. ^ 直前ちょくぜんの1992ねん1がつ場所ばしょちゅう引退いんたい
  21. ^ 直前ちょくぜんの1993ねん1がつ場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしん
  22. ^ 直前ちょくぜんの2003ねん5がつ場所ばしょちゅう引退いんたい。この場所ばしょ地位ちい西にし前頭まえがしら15まい
  23. ^ 2003ねん5がつ場所ばしょでは武蔵丸むさしまる全休ぜんきゅう
  24. ^ 2019ねん9がつ場所ばしょでははくほうつるりゅう途中とちゅう休場きゅうじょう。髙安が全休ぜんきゅう
  25. ^ 2023ねん1がつ場所ばしょではあきら富士ふじ全休ぜんきゅう
  26. ^ 直前ちょくぜんの2023ねん5がつ場所ばしょ大関おおぜき昇進しょうしん。「きり馬山まやま」より改名かいめい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 徳島とくしま新聞しんぶん (2013ねん6がつ16にち). “はくほうしん化粧けしょうまわし披露ひろう 徳島とくしま奉納ほうのう土俵入どひょうい”. 47NEWS. 2017ねん2がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 2014ねん5がつ10日とおか土俵入どひょうい所作しょさなぞ
  3. ^ a b c d 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん6がつごう59ぺーじ
  4. ^ した義久よしひさ (2007ねん). “平成へいせい19ねんがつ場所ばしょ 支度じたく部屋へやより その2”. goo大相撲おおずもう. 大相撲おおずもうコラムしゅう. 2007ねん10がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2008ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  5. ^ はくほう 双葉ふたばさん生誕せいたん雲竜うんりゅうがたはつ披露ひろう「これが最後さいご - スポーツニッポン・2011ねん12月5にち閲覧えつらん
  6. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん6がつごう56-57ぺーじ
  7. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん6がつごう57ぺーじ
  8. ^ a b c 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん6がつごう58ぺーじ
  9. ^ 1911ねん5がつ5にち日本にっぽん新聞しんぶん
  10. ^ 一方いっぽう伝記でんき太刀たちさん』(1917ねん、p52)には、引退いんたい相撲すもうにおける横綱よこづな土俵入どひょういりについて、「太刀たちやま鬼面山きめんざんしきよりどころれる土俵入どひょういりし」と記述きじゅつされている。
  11. ^ これにくわえて、1911ねん5がつ5にち時事新報じじしんぽうにも「もっと土俵入どひょういりがたくみいと評判ひょうばん不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもんかたった」とほうじられている。
  12. ^ 古今ここん横綱よこづなだい事典じてん』(1986ねん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ)における小坂こさか秀二しゅうじ、『横綱よこづな歴代れきだい69にん』(2011ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ)における小池こいけ謙一けんいち指摘してきなど。
  13. ^ 相撲すもう1981ねん2がつごうの「しつぎおうとう」における池田いけだ雅雄まさお解答かいとうによる。
  14. ^ 雲竜うんりゅうがたは「攻防こうぼう兼備けんびかた」/横綱よこづな土俵入どひょういりメモ 日刊にっかんスポーツ 2017ねん1がつ27にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]