池田いけだ雅雄まさお

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池田いけだ 雅雄まさお(いけだ まさお、1915ねん1がつ19にち - 1988ねん11月27にち)は、日本にっぽんジャーナリスト相撲すもう評論ひょうろんである。

長年ながねんにわたり、スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ雑誌ざっし相撲すもう』の編集へんしゅうしゃ顧問こもんとして幅広はばひろ相撲すもう研究けんきゅうみ、おおくの記事きじやエッセイをあらわした。本名ほんみょうでの執筆しっぴつとともに、〈国立こくりつなみ〉〈葛飾かつしか太郎たろう〉のペンネームもしばしば使用しようした。奈良ならけん桜井さくらい出雲いずも名誉めいよ区民くみん実兄じっけいスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ創設そうせつしゃ池田いけだ恒雄つねお息子むすこ早稲田大学わせだだいがく教授きょうじゅ池田いけだ雅之まさゆきめいはエッセイストの工藤くどう美代子みよこめい池田いけだ晶子あきこしたがえまご産経新聞さんけいしんぶん記者きしゃいのたに千香ちか

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東京とうきょう本所ほんじょみなみ二葉ふたばまち現在げんざい墨田すみだ亀沢かめざわ出身しゅっしん。「相撲すもう神様かみさま」として有名ゆうめい野見のみ宿禰すくね神社じんじゃちかくでそだち、少年しょうねん時代じだい本場所ほんばしょまえ相撲すもう部屋へや親方おやかたれられて必勝ひっしょう祈願きがん参詣さんけいするのをたのしみにしていたという。近所きんじょには江戸えど時代じだいよしみひさし年間ねんかんまれの老人ろうじんがいて、間接かんせつてきにだが伝説でんせつ強豪きょうごう力士りきし雷電らいでんためみぎ衛門えもん」の相撲すもう実見じっけんだんかされたこともある(老人ろうじん雷電らいでん相撲すもう実見じっけんしていた祖父そふからかされた)。日本にっぽん大学だいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ中退ちゅうたい1937ねん博文ひろぶみかん入社にゅうしゃ。『野球やきゅうかい相撲すもうごう編集へんしゅうしゃ1942ねん東亜とうあ新報しんぽう』の新聞しんぶん記者きしゃとして中国ちゅうごく河北かほくしょう石門せきもん支社ししゃ赴任ふにん1946ねん帰国きこく

1949ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ入社にゅうしゃだい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいげん日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい機関きかん相撲すもう』の編集へんしゅう従事じゅうじし、1955ねんから1966ねんまで相撲すもう博物館はくぶつかん館員かんいんとして『日本にっぽん相撲すもう編纂へんさん委員いいんつとめた。その月刊げっかん相撲すもう』の編集へんしゅうちょう顧問こもん歴任れきにんした。講談こうだん物語ものがたりいろどられていた相撲すもう歴史れきしや、荒唐無稽こうとうむけいなまでに流布るふされている相撲すもう故実こじつ科学かがくてき客観きゃっかんてき視点してんから解説かいせつし、丹念たんねん資料しりょう収集しゅうしゅうもとづもの数多かずおお執筆しっぴつした。『相撲すもう』でも「歴代れきだい横綱よこづな正伝せいでん」(1971ねん1981ねん初代しょだい明石あかしから53だいきんさくらまで)、「物知ものしじょう」(1974ねん1986ねん、のちに、『大相撲おおずもうものしりじょう』として単行本たんこうぼん)などを連載れんさいしている。またどう誌上しじょうにおいてくなる直前ちょくぜんまで、読者どくしゃからの質問しつもんコーナーである「質疑しつぎ応答おうとうらん担当たんとうした。相撲すもう基礎きそ知識ちしきから専門せんもんてき領域りょういきいたるまで懇切こんせつ丁寧ていねい回答かいとうぶりで、読者どくしゃ好評こうひょうだった。

1988ねん11月27にち214ふんのう梗塞こうそくのため死去しきょ。73さいぼつ [1]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ このは11月場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくで、ひがし横綱よこづな千代ちよ富士ふじ西にし横綱よこづなだい乃国やぶれ、連勝れんしょう記録きろくが53でストップしたであった。またこの11月場所ばしょは、昭和しょうわ時代じだいおこなわれた最後さいご本場所ほんばしょであり、連勝れんしょうストップの取組とりくみ昭和しょうわ最後さいご一番いちばんでもある。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 池田いけだ雅雄まさお大相撲おおずもうものしりじょうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1990ねん
  • 吉村よしむらあきらへん日本にっぽんめい随筆ずいひつ別巻べっかん2 相撲すもう作品社さくひんしゃ、1991ねん