ちょういずる

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平成へいせい24ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけひょう。「ちょういずる」はつくられず5にん大関おおぜきはすべてらんないされている。

ちょういずる(はりだし)とは大相撲おおずもう用語ようご[1]で、番付ばんづけ欄外らんがい四股しこめいること。

概要がいよう[編集へんしゅう]

もともとさんやく大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすび現在げんざい横綱よこづなふくまれている)陣営じんえいは、かつて東西とうざいに1めいずつでけい2めいまっていたが、近代きんだいになってその地位ちいにふさわしい成績せいせきげた力士りきしがいた場合ばあいは、東西とうざい1めいずつにこだわらないようになった。しかし、番付ばんづけひょう作成さくせいたっては慣例かんれいとして、通常つうじょう部分ぶぶんには東西とうざい1めいずつしかせなかったため、おな地位ちいに3にん以上いじょう力士りきし場合ばあい通常つうじょう長方形ちょうほうけいである番付ばんづけひょうわく欄外らんがいらせ、3にん以降いこうはその部分ぶぶん四股しこめいせるようになった。それが番付ばんづけひょうから「して」えるため、その部分ぶぶんった力士りきしのことをそれぞれ「ちょういずる横綱よこづな」「ちょういずる大関おおぜき」などとぶようになった。それにたいして、通常つうじょう部分ぶぶんった力士りきしは「せい横綱よこづな」「せい大関おおぜき」などとばれており、おな地位ちいなかでは「せい~」が上位じょうい、「ちょういずる~」が下位かいである。

なお、「横綱よこづな」の文字もじ番付ばんづけるようになったのも、1890ねん明治めいじ23ねん)3がつちょういずる大関おおぜきまわされることを不服ふふくとした初代しょだい西にしうみ嘉治よしはるろうをなだめるためのものだったとされている。大正たいしょう時代じだいごろまで、興行こうぎょうじょう都合つごうから、人気にんき力士りきし有力ゆうりょく後援こうえんしゃ力士りきしせいにおき、実際じっさい実力じつりょく上位じょういしゃちょういずるにされることもしばしばあった。このようなときは、ちょういずる実力じつりょくしゃ四股しこめいをややふとおおきめにすこと(前例ぜんれいとして1924ねん大正たいしょう13ねん)5がつ場所ばしょ横綱よこづなとち木山きやま守也もりや)で、「別格べっかく」の意味合いみあいをたせてバランスをったともわれている。

また、公傷こうしょう制度せいど適用てきようされていたころの一時期いちじきには休場きゅうじょうした力士りきしおな地位ちいちょういずるとする規定きていがあったため前頭まえがしら以下いか番付ばんづけひょうからされたこともあった。戦時せんじちゅうにも、兵役へいえきについたために本場所ほんばしょ出場しゅつじょう不可能ふかのう場合ばあい欄外らんがいしたことがあったが、これはぐん機密きみつにふれるということで、1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ場所ばしょから記載きさいされなくなった。

横綱よこづな大関おおぜき[編集へんしゅう]

せい大関おおぜきが0にんまたは1人ひとりのみの場合ばあい横綱よこづな地位ちい力士りきしが「横綱よこづな大関おおぜき」として番付ばんづけじょう大関おおぜき地位ちいねることとなる[1]が、このとき横綱よこづな大関おおぜき」となるのはせい横綱よこづなである。たとえば、大関おおぜき力士りきし不在ふざいだった1981ねん昭和しょうわ56ねん)9がつ場所ばしょでは、ひがし横綱よこづな大関おおぜききたうみ西にし横綱よこづな大関おおぜき千代ちよ富士ふじひがしちょういずる横綱よこづな若乃花わかのはなという番付ばんづけだった。せい横綱よこづな大関おおぜき地位ちいねるのに、下位かいであるはずのちょういずる横綱よこづながそうではないのはおかしいのではないかというこえもしばしばあがり[だれによって?]横綱よこづな大関おおぜき経験けいけんしゃなかにもちなかったという言葉ことばのこ[よう出典しゅってん]。また、1955ねん昭和しょうわ30ねん)1がつと3がつには、4横綱よこづな1大関おおぜきという時期じきがあり、そのとき順位じゅんいは、あずまただし横綱よこづな西にしただし横綱よこづな(「横綱よこづな大関おおぜき」ではなかった)、西にし横綱よこづな2番手ばんてちょういずるではなく正規せいきらんないかれた)、ひがしちょういずる横綱よこづなという順位じゅんいだった。後述こうじゅつのように、現在げんざい制度せいどとしてはちょういずる存在そんざいしないので、今後こんご横綱よこづなが3にん以上いじょうでかつ大関おおぜきが0にんまたは1人ひとりのみとなった場合ばあい、どのように番付ばんづけ記載きさいされるのかは不明ふめい

その[編集へんしゅう]

1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)7がつ場所ばしょしん関脇せきわけ昇進しょうしんしたじんまく久五郎きゅうごろう番付ばんづけじょうではちょういずる関脇せきわけとなり、関脇せきわけちょういずるはこれが最初さいしょとなった。ちなみにちょういずる横綱よこづな1人ひとり横綱よこづなちょういずるのぞく)は1904ねん明治めいじ37ねん)1がつ場所ばしょ大砲たいほうまんみぎもんちょういずる大関おおぜきは1890ねん5がつ場所ばしょ2だいけん山谷さんやみぎもんちょういずる小結こむすび1888ねん明治めいじ21ねん)5がつ場所ばしょ嵐山あらしやま捨吉すてきちちょういずる前頭まえがしら1793ねん寛政かんせい5ねん)3がつ場所ばしょせきはちろうがそれぞれちょういずる最初さいしょである。

1918ねん大正たいしょう7ねん)1がつ場所ばしょ史上しじょうはじめて横綱よこづな大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすび前頭まえがしらちょういずる横綱よこづな2だい西にしうみ嘉治よしはるろうおおとりたに五郎ごろう大関おおぜき伊勢いせはま慶太郎けいたろう関脇せきわけ両國りょうこく勇治郎ゆうじろう小結こむすび黒瀬くろせ川浪かわなみすけ前頭まえがしらつるわたるせい治郎じろう)がもうけられた番付ばんづけ発行はっこうされた。

1994ねん平成へいせい6ねん)7がつ場所ばしょより、さんやくじんおな地位ちいに3にん以上いじょう力士りきしても欄外らんがいさず、らんない連記れんきされることになった。これはそのまえの5がつ場所ばしょにおいてじょだん史上しじょう最多さいた東西とうざい210まい(420にん)となり、力士りきしおおすぎて番付ばんづけ記入きにゅうしづらかったためとわれる。現在げんざい制度せいどとしては「ちょういずる」は存在そんざいせず、れいとして「関脇せきわけ・2」「大関おおぜき・3」や「関脇せきわけ2まい」「大関おおぜき3まい」などとばれている。ただし、一部いちぶ大相撲おおずもう解説かいせつしゃ好角家こうかくか大相撲おおずもうファン)などのあいだでは、いまおな地位ちいさい上位じょうい力士りきしを「せい~」、次位じい以降いこう力士りきしを「ちょういずる~」と場合ばあい存在そんざいしている。げんに、きた富士ふじ勝昭かつあきは2022ねん時点じてんでも自身じしんのコラムでさんやく2まいを「ちょういずる」と表現ひょうげんしている[2]

また、かつて一人ひとり横綱よこづな場合ばあいは、さんやくおよび平幕ひらまくちょういずる有無うむかかわらず、東方とうほう欄外らんがいして記載きさいされていたが、1994ねん11月場所ばしょあけぼの[2]最後さいごらんない記載きさいされるようになった。 のちにあさあおりゅうはくほう1人ひとりのみ横綱よこづな期間きかんはいずれもされず、らんない記載きさいされた。

なお大相撲おおずもう番付ばんづけ史上しじょう最多さいたちょう出力しゅつりょくは、1961ねん昭和しょうわ36ねん)9がつ場所ばしょの7にん内訳うちわけ東方とうほう大関おおぜき2、関脇せきわけ小結こむすびかく1。西方せいほう大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすびかく1)で、さんやく以上いじょう史上しじょう最多さいたの15にん。このうちやく半数はんすうちょういずるという豪華ごうか番付ばんづけとなった。

1994ねん番付ばんづけじょうちょういずる廃止はいし以後いごふくめて、横綱よこづな大関おおぜきが3にん以上いじょう在籍ざいせきした場所ばしょめずらしくないが、関脇せきわけが3にん以上いじょうになることは横綱よこづな大関おおぜきくらべるとすくなく、小結こむすびが3にん以上いじょうになることはさらすくない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ に、将棋しょうぎ順位じゅんいせん前年度ぜんねんど休場きゅうじょうものをクラス定員ていいん枠外わくがいとしてあつかうこと、という用例ようれいもある。
  2. ^ きた富士ふじコラム秋場所あきばしょ展望てんぼう】V候補こうほだれあきら富士ふじうよりはないが わたしまいうみよりみなさんのほうがある 中日ちゅうにちスポーツ・東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ 2022ねん9がつ10日とおか 0500ふん (2022ねん9がつ12にち閲覧えつらん)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]