つるぎ山谷さんやみぎもん (2だい)

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相撲すもう大鑑たいかん」、常陸山ひたちやま谷右衛門たにえもんちょ、1909ねん発行はっこうより

つるぎさん たにみぎもん(つるぎざん たにえもん、1852ねん2がつ9にちよしみひさし5ねん1がつ20日はつか) - 1910ねん明治めいじ43ねん11月21にち)は、阿波あわこく麻植おえぐん鴨島かもじまむらげん徳島とくしまけん吉野川よしのがわ出身しゅっしん大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょう吉原よしはら くまじゅうろう最高さいこう大関おおぜき所属しょぞく部屋へや猪名川いながわ部屋へや大阪おおさか)→うめだにのちかみなり部屋へや東京とうきょう)。身長しんちょう177cm、体重たいじゅう120kg。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

大阪おおさか相撲すもう時代じだい[編集へんしゅう]

1870ねん明治めいじ3ねん)、大坂おおさか相撲すもうづるはまという力士りきしであったちちえんでの猪名川いながわもんはいひびき 熊吉くまきちはつ土俵どひょう1875ねん明治めいじ8ねん)6がつ入幕にゅうまく西前にしまえあたま12)。よく1876ねん明治めいじ9ねん大坂おおさか相撲すもう脱走だっそう事件じけんき、脱走だっそうぐみは「開化かいかぐみ」を名乗なのった。ひびき開化かいかぐみくわわり大関おおぜきつとめた。1878ねん明治めいじ11ねん)9がつ帰参きさん。この場所ばしょ残留ざんりゅうぐみ開化かいかぐみとで別々べつべつ番付ばんづけつく開化かいかぐみ西にし大関おおぜき(この時下じかくまじゅうろうあらためる)。よく1879ねん明治めいじ12ねん)9がつ正式せいしき東大とうだいせきとなった。1882ねん明治めいじ15ねん)8がつ郷里きょうりめいみねにちなんでつるぎさん くま十郎じゅうろう改名かいめいするが、この場所ばしょかぎりで大阪おおさか脱走だっそうして東京とうきょう相撲すもうてんじる。

東京とうきょう相撲すもう時代じだい[編集へんしゅう]

1883ねん明治めいじ16ねんうめだに門下もんかとなり5がつ場所ばしょひがし客席きゃくせき」(さんやくかく)で出場しゅつじょう1884ねん明治めいじ17ねん)1がつひがし小結こむすびとなり江戸えどめい大関おおぜきおなだにみぎもん改名かいめい1885ねん明治めいじ18ねん)5がつ関脇せきわけ1886ねん明治めいじ19ねん)1がつ引退いんたいしたうめだにわり大関おおぜき昇進しょうしんした。1890ねん明治めいじ23ねん)5がつ西にしうみはじめて番付ばんづけ横綱よこづなかれた場所ばしょつるぎさん西にしされ「ちょういずる大関おおぜき」となった。1891ねん明治めいじ24ねん)1がつからは地位ちい表示ひょうじなしの「ちょういずる」となり、これについては「大関おおぜきかく」「さんやくかく」のせつがある。1892ねん明治めいじ25ねん)6がつかぎ引退いんたい年寄としより武蔵川むさしがわとなった。勝負しょうぶ検査けんさやくなどをつとめ、1910ねん11月、58さい死去しきょかた幅広はばひろ胸板むないたあつひだりしてのりは大関おおぜき相撲すもうたたえられた。

成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 出場しゅつじょう19場所ばしょ 70しょう26はい79きゅう14ふん1あずか東京とうきょうのみ)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大相撲おおずもう人物じんぶつだい事典じてん」、2001ねん ISBN 9784583036403