羽黒山はぐろさん政司せいじ

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羽黒山はぐろさん 政司せいじ
羽黒山はぐろさん政司せいじ(1943ねんごろ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 羽黒山はぐろさん 政司せいじ
本名ほんみょう 小林こばやし 正治しょうじ
愛称あいしょう 立浪たつなみ三羽烏さんばがらす
ジャングイ
生年月日せいねんがっぴ 1914ねん11月18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1969-10-14) 1969ねん10月14にち(54さいぼつ
出身しゅっしん 新潟にいがたけん西蒲原にしかんばらぐん松長まつながむら
げん新潟にいがたけん新潟にいがた西にしかばの
身長しんちょう 179cm
体重たいじゅう 130kg
BMI 40.57
所属しょぞく部屋へや 立浪たつなみ部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、り、り、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい36だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 359しょう99はい1ふん117きゅう(46場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 321しょう94はい1ふん117きゅう(39場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう7かい
十両じゅうりょう優勝ゆうしょう1かい
幕下まくした優勝ゆうしょう1かい
さんだん優勝ゆうしょう1かい
じょだん優勝ゆうしょう1かい
序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1934ねん1がつ場所ばしょ[1]
入幕にゅうまく 1937ねん5月場所ばしょ[1]
引退いんたい 1953ねん9月場所ばしょ[1]
備考びこう
2013ねん7がつ5にち現在げんざい

羽黒山はぐろさん 政司せいじ(はぐろやま まさじ、1914ねん11月18にち - 1969ねん10月14にち)は、新潟にいがたけん西蒲原にしかんばらぐん松長まつながむら大字だいじ羽黒はぐろげん新潟にいがたけん新潟にいがた西にしかばの出身しゅっしん立浪たつなみ部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい36だい横綱よこづな本名ほんみょう小林こばやし 正治しょうじ(こばやし まさじ)[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

入門にゅうもん~スピード出世しゅっせ横綱よこづな[編集へんしゅう]

1914ねん11月18にち新潟にいがたけん西蒲原にしかんばらぐん松長まつながむらげん新潟にいがたけん新潟にいがた西にしかばの)で農家のうかいとないえ三男さんなんとしてまれる。地元じもと新潟にいがたけん土地とち相撲すもう活躍かつやくした父親ちちおやいたのか、幼少ようしょうから大兵だいひょうだった。当時とうじ新潟にいがたでは風習ふうしゅう風呂ふろ主人しゅじんこころざすことがあり、平成へいせい時代じだいはいってからも東京とうきょう都内とない銭湯せんとう経営けいえいしゃ新潟にいがた出身しゅっしんしゃめられている。正治しょうじ少年しょうねん1929ねん上京じょうきょうして、伯母おば両国りょうこく経営けいえいしていた銭湯せんとう朝日あさひ」へ奉公ほうこう三助さんすけをやっていた[2][3]

正治しょうじ少年しょうねん三助さんすけとして奉公ほうこうてからしばらくしたある、「銭湯せんとう三助さんすけ怪童かいどう」とのうわさきつけた、朝日あさひとなりにあったにしきしま部屋へやから熱心ねっしんにスカウトされたが、三助さんすけべていくために丁寧ていねいことわつづけた。しかし今度こんど正治しょうじ少年しょうねんうわさきつけた立浪たつなみから連日れんじつのようにスカウトをけたが、度重たびかさなる攻勢こうせい正治しょうじ少年しょうねん次第しだいしんざし、伯父おじ経営けいえいする世田谷せたがや風呂ふろんだ。しかし立浪たつなみは、んだ世田谷せたがや風呂ふろにまであしはこんで正治しょうじ少年しょうねんをスカウトしつづけ、「横綱よこづなになればもっと親孝行おやこうこう出来できるぞ」「相撲取すもうとりはいいぞ。全国ぜんこく見物けんぶつしてあるけるし、出世しゅっせすれば田畑たはたっておやよろこばすこともできる」との言葉ことばしんうごき、ついに立浪たつなみ部屋へや入門にゅうもん決意けついした[2][3]

最初さいしょから出身しゅっしんちなんだ「羽黒山はぐろさん」の四股しこめいで(大字だいじ羽黒はぐろだった)、1934ねん1がつ場所ばしょはつ土俵どひょうむ。はつ土俵どひょうかんしては、1がつ場所ばしょ直前ちょくぜんそう葉山はやま定次さだじとの稽古けいこ右足みぎあし捻挫ねんざしたため同年どうねん6がつ場所ばしょまでったというせつもある[3]。これ以降いこう双葉ふたばさんむねりながら徐々じょじょちからけ、序ノ口じょのくちから幕下まくしたまで4場所ばしょ通過つうかし、さらに関取せきとり増員ぞういん影響えいきょうもあってわずか3ねん1937ねん1がつ場所ばしょにはじゅうりょう昇進しょうしんした。その十両じゅうりょうわずか1場所ばしょ通過つうかし、はつ土俵どひょうから所要しょよう7場所ばしょという最速さいそくで、1937ねん5月場所ばしょにはしん入幕にゅうまくたした[2][3]入幕にゅうまくまで連続れんぞく優勝ゆうしょうたした力士りきしはつであり、2022ねん時点じてんでもていない[3]

入幕にゅうまく羽黒山はぐろさんのスピード出世しゅっせまらず、平幕ひらまく2場所ばしょ小結こむすび2場所ばしょ関脇せきわけ1場所ばしょ1939ねん5月場所ばしょには大関おおぜき昇進しょうしんする。大関おおぜきいち場所ばしょだけ途中とちゅう休場きゅうじょう1940ねん5月場所ばしょ)があったが、1941ねん1がつ場所ばしょ前田山まえだやま戦法せんぽうくっした黒星くろぼしだけの14しょう1はい双葉ふたばさん優勝ゆうしょう同点どうてん[ちゅう 1]、5月場所ばしょもやはり14しょう1はいで2はい双葉ふたばさんをおさえてはつ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうたし[4]場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしん大関おおぜきも4場所ばしょでの通過つうかとなった[3]

ケガ・悲劇ひげきなやまされる[編集へんしゅう]

横綱よこづな昇進しょうしん皆勤かいきんさえすればかなら優勝ゆうしょうあらそいにから安定あんていしたつよさをしめしたものの、ちょうど双葉ふたばさん円熟えんじゅくむかえており(羽黒山はぐろさんしん横綱よこづな場所ばしょから4連覇れんぱ)、しばらくはそのかげかくれた存在そんざいあまんじた。横綱よこづな6場所ばしょ後楽園こうらくえん球場きゅうじょうでの開催かいさいとなった1944ねん5月場所ばしょで10せん全勝ぜんしょう、1はい双葉ふたばさんをおさえてようやく横綱よこづなとしてはつ通算つうさん2度目どめ優勝ゆうしょうたす。

双葉ふたばさん現役げんえきでいたあいだ双葉ふたばさんと1しょう優勝ゆうしょうのがすこと2優勝ゆうしょう同点どうてん1ぎゃくに2優勝ゆうしょうはともに双葉ふたばさんを1しょうでおさえてのものだった。2度目どめ優勝ゆうしょうころからは「もう双葉ふたばさんよりつよいのではないか」というこえかれるようになった。

だい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんとともに双葉ふたばさん引退いんたいすると、名実めいじつともに第一人者だいいちにんしゃとして戦後せんご復興ふっこう只中ただなか相撲すもうかいささえた。1945ねん11月場所ばしょから4連覇れんぱ・32連勝れんしょう記録きろくしたが、そのあいだ立浪たつなみむすめだったつま長男ちょうなん相次あいついでくす悲劇ひげき見舞みまわれ、そのかなしみをえて全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうたした(1946ねん11月場所ばしょ[2][3][1][ちゅう 2][5]。それ以外いがいにも、戦時せんじちゅう食糧難しょくりょうなんにより体重たいじゅうが90kgだい前半ぜんはんまでちたことがあるなど苦難くなん経験けいけんしている[6]

その羽黒山はぐろさんにはアクシデントがつづく。1948ねん4がつ23にち五條ごじょう巡業じゅんぎょう照國てるくにみをおこなったさいみぎアキレス腱あきれすけんだんきれ当時とうじ日本にっぽん外科げか権威けんいによって手術しゅじゅつおこなわれたが、半月はんつきほど下駄げたいてあるくのにも難儀なんぎした[ちゅう 3]。さらに同年どうねん7がつ北海道ほっかいどう巡業じゅんぎょう横綱よこづな土俵入どひょういおこなったさい四股しこんだ途端とたんおな箇所かしょふたただんきれしてしまった。すでに羽黒山はぐろさんは30だいはいっており、その後遺症こういしょう休場きゅうじょうするなど再起さいき絶望ぜつぼうされた[2]が、周囲しゅうい引退いんたい反対はんたいしていたため続投ぞくとう[6]1949ねん5月場所ばしょ復帰ふっきし、11しょう4はいなにとかみとどまったが、すで羽黒山はぐろさんのかつてのいきおいはうしなわれたとおもわれた。しかし、1952ねん1がつ場所ばしょ最後さいご優勝ゆうしょう全勝ぜんしょうかざり、このとき37さい2ヶ月かげつさい高齢こうれいでの全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう記録きろくとなっている[ちゅう 4]。この場所ばしょ千秋楽せんしゅうらく千代ちよやませんは、千代ちよやまはげしいきに羽黒山はぐろさん応戦おうせんみぎのどてて左下ひだりした手廻てまわしをくや、おおきく下手へたげをはな快勝かいしょう、という内容ないようであった[7]

羽黒山はぐろさん断髪だんぱつしき双葉ふたばさん時津風ときつかぜやっとこれる(1954ねん

1952ねん12月16にち師匠ししょう立浪たつなみくなると、現役げんえきのまままい鑑札かんさつ立浪たつなみ部屋へや継承けいしょうした[3]1953ねん1がつ場所ばしょ4にち瀬山せやままさるとの取組とりくみちゅう右手みぎて親指おやゆび二瀬ふたせさんくちはいり、そのままつよまれて骨折こっせつした。このまま休場きゅうじょうかとおもわれたが、この場所ばしょ照國てるくに萬藏まんぞう千代ちよやま前日ぜんじつから休場きゅうじょう照國てるくにはそのまま引退いんたい千代ちよやま終盤しゅうばんせんさい出場しゅつじょう)、ひがし富士ふじ欽壹連敗れんぱいきっ不振ふしんだったためやすむにやすめず、れたゆび包帯ほうたいいためをちながら土俵どひょうがる(土俵どひょうがるさいはずした)など、悲愴ひそう土俵どひょうつとめた。この場所ばしょ新鋭しんえいとちにしき清隆きよたか対戦たいせんしたが、このみがおこなわれた再婚さいこんしたつま長男ちょうなん誕生たんじょうしたでもある[2]1953ねん9月場所ばしょ全休ぜんきゅうのまま、この場所ばしょかぎりで現役げんえき引退いんたいした。

引退いんたい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

引退いんたい年寄としより専任せんにんとなったが現役げんえき時代じだいから後進こうしん育成いくせい熱心ねっしんで、わか羽黒はぐろともあきら大関おおぜき昇進しょうしんさせたほか、立浪たつなみ襲名しゅうめいちゅうには時津とぎつさん仁一ひとかずやすねん山治やまじ若浪わかのなみじゅんわか羽黒はぐろをそれぞれ幕内まくうち優勝ゆうしょうしゃそだてた。時津とぎつさんやすねんやまわか羽黒はぐろきたようのぼるくわえた4にんは「立浪たつなみ四天王してんのう」とうたわれたほどであるほか、よし葉山はやまじゅんはじめとした部屋へや内外ないがいわず若手わかて力士りきしむねし、成長せいちょう貢献こうけんしたてん特筆とくひつされる。日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい取締とりしまり理事りじつとめた[1]部屋へや師匠ししょうとしてはおおくの親方おやかたしゅふくめ、かく力士りきし素質そしつかしびとその個性こせい土俵どひょうじょう発揮はっきさせる指導しどうおこない、それが立浪たつなみ部屋へや伝統でんとうとなった。弟子でし勧誘かんゆうについては「相撲すもういヤツが一人ひとりてどんどんつと、やっぱり地方ちほうからたずねてるもの。『この部屋へやにはいのがいるから入門にゅうもんしたい』って地方ちほうから手紙てがみますよ。それから(ぎゃくに)地方ちほうっているひとにはほうぼう手紙てがみしておいて、しん弟子でし世話せわしてもらったりしてね。そうでなければ、わかものえませんわ」とはなしていた[8]

1969ねん10月14にち東京とうきょう新宿しんじゅくにある慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういんにて尿毒症にょうどくしょうによりぼっした。54さいぼつ[3]立浪たつなみ部屋へやは、羽黒山はぐろさん長女ちょうじょ結婚けっこんしたやすねんやまいだ。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

羽黒山はぐろさん土俵入どひょうい姿すがた(1941ねん

通算つうさんで7かい優勝ゆうしょうたしているが、以下いかてん存在そんざいしたことで、実力じつりょくのみではさらに優勝ゆうしょう回数かいすうかせげたともられている。

  1. どう時期じき兄弟子あにでしでもある双葉ふたばさん君臨くんりんしていたこと
  2. その双葉ふたばさんどう部屋へやのために直接ちょくせつ対決たいけつまれなかったこと
  3. 優勝ゆうしょう決定けっていせんく、番付ばんづけ上位じょうい優勝ゆうしょう制度せいど優勝ゆうしょう大半たいはん双葉ふたばさんだったこと
  4. 現在げんざいのようなとし6場所ばしょせいではく、終戦しゅうせん直後ちょくご混乱こんらん場所ばしょ開催かいさいすらあやうい状況じょうきょうだったこと
  5. 2アキレス腱あきれすけんだんきれ右手みぎて親指おやゆび骨折こっせつなどのケガとのたたかいがつづいたこと

しかし、32連勝れんしょう記録きろくする(双葉ふたばさんの69連勝れんしょうと36連勝れんしょういで昭和しょうわ以降いこう3現在げんざいは11タイ))など、終戦しゅうせん直後ちょくごとし6場所ばしょせいでない取組とりくみすうすくない時期じき達成たっせいした記録きろくであり、実質じっしつてき歴代れきだい横綱よこづななかでもAきゅう強豪きょうごうとして評価ひょうかするこえすくなくない[3]幕内まくうち勝率しょうりつ勝率しょうりつ.773は昭和しょうわでは大鵬たいほう双葉ふたばさんいでだい3だが、アキレス腱あきれすけんだんきれ以前いぜんかぎると.803となり、双葉ふたばさん上回うわまわる。

さらに、太平洋戦争たいへいようせんそう双葉ふたば山道さんどうじょうげの影響えいきょうによって最大さいだい70にんちかくいた所属しょぞく力士りきしすう一時期いちじき20にん前後ぜんこうにまでった立浪たつなみ部屋へやいきおいを、名寄岩なよろいわ静男しずおとももどした力士りきしでもある[8]

アキレス腱あきれすけんだんきれから奇跡きせきてき復活ふっかつし、豪快ごうかい横綱よこづな土俵入どひょういり(不知火しらぬいがた)で人気にんきはくした羽黒山はぐろさんは、土俵入どひょういりにかんしてはてのひら前面ぜんめんけてしながらすくいあげるようせりげていることから『おもたいいわをもささえるうでかたち』をあらわしているとして、やくみつる不知火しらぬいがたの(さらにえばせりがりそのものの)本質ほんしつしたがった見本みほんとして評価ひょうかした[9]

さらにやくは、輪島わじままさる以降いこう横綱よこづな土俵入どひょういりが、せりがりの本質ほんしつ顕著けんちょうしなわれていったと批判ひはんし、はくほうしょう日馬くさま富士ふじ公平こうへいといった不知火しらぬいがた継承けいしょうしゃをその典型てんけいれいとして提示ていじし、「てのひら真下ましたけている」と指摘してきした。土俵入どひょういりのかたは、明治めいじ後期こうきから大正たいしょう時代じだい活躍かつやくした太刀たちさんみねみぎもん同郷どうきょうのため、昵懇じっこんでよくっていた立浪たつなみが「もし羽黒山はぐろさん横綱よこづなになったら、不知火しらぬいがたをやらせてくれ」とたのんだという[10]

横綱よこづな在位ざいい30場所ばしょは、うめ谷藤たにふじ太郎たろう (2だい)の24場所ばしょしの当時とうじ最長さいちょう記録きろくであり、とし6場所ばしょせい以前いぜん引退いんたいした横綱よこづなとしての最長さいちょう記録きろくでもある[ちゅう 5]

エピソード[編集へんしゅう]

  • 横綱よこづなとしてつよいだけでなく、力士りきし危機ききすくった人格じんかくしゃとしてもられる。大関おおぜき時代じだい幕下まくした福住ふくずみ太三郎たさぶろう関脇せきわけだま乃海)がったいきおいでタクシー運転うんてんしゅ喧嘩けんかし、憲兵けんぺい仲裁ちゅうさいはいったがこれをんでの暴力ぼうりょく事件じけん発展はってんしたところ、銃殺じゅうさつ直前ちょくぜん必死ひっしびをれてゆるしてもらった。戦後せんごしんじゅうりょう若ノ花わかのはなみき飲酒いんしゅちゅう所持しょじきん不足ふそくしてびと使つかい、ひがし富士ふじもとへところへりにかせて除名じょめいされそうになったときめた。両者りょうしゃとものち幕内まくうち上位じょうい進出しんしゅつし、羽黒山はぐろさんから金星かなぼしうばっておんむくいている。なかでも玉乃たまのうみおんむくいた一番いちばんは、羽黒山はぐろさん最後さいご土俵どひょうだった。
1941ねん1がつ場所ばしょ12にち前田まえだやまからその場所ばしょちゅう連日れんじつのようにつづけていたはげしいらって完敗かんぱいしたさいに「あれは相撲すもうじゃなくて喧嘩けんかだ」と激怒げきどした。一方いっぽうで、立浪たつなみ部屋へや時代じだいにはその取組とりくみおものこった1ばんとしてげており、あそこでけなければ全勝ぜんしょうできたとくやしがっている[11]
  • 1ねんさき入門にゅうもんしたどう部屋へや兄弟子あにでしである名寄岩なよろいわ静男しずおとは入門にゅうもんから死去しきょいたるまでいち切口きりくちかなかったという異様いよう不仲ふなかにあった[3]。これは、上述じょうじゅつのように相撲すもうきびしい羽黒山はぐろさん相手あいてはらにくつかほど荒々あらあらしいくちおよ極端きょくたん直情ちょくじょうけずぎらいの性格せいかくらした名寄岩なよろいわが「みずあぶら」の相性あいしょうであったためという。それでいて双葉ふたばさん横綱よこづな在位ざいい初期しょきには、横綱よこづな土俵入どひょういりには両者りょうしゃ太刀持たちもち・露払つゆはらいとしてしたがえられていたため、両者りょうしゃにとっては始末しまつわるかったとえる。
  • 入門にゅうもんまえ経緯けいいから先輩せんぱい前田山まえだやまには「三助さんすけ」と仇名あだなされ、これにはとう羽黒山はぐろさん苦笑くしょうしていた[12]
  • しんさんやくがるころまではひだり右前みぎまえミツになってあたまける相撲すもうっていたが、大関おおぜきになるころから新聞しんぶんなどでくち上位じょうい力士りきしらしくないという批判ひはんけ、けて相撲すもうわった。怪力かいりき印象いんしょうつよいが、本人ほんにん実際じっさいおもものげて周囲しゅういおどろかせたことなどなかったと1956ねん小島こじま貞二ていじとの対談たいだんかたっている[13]
  • はらよわいためにあぶらおおもの大嫌だいきらいで、べるとすぐにはらこわしたために中華ちゅうか料理りょうりけていた。またねつよわく、37程度ていど発熱はつねつ大騒おおさわぎしたという。
  • 戦前せんぜん戦後せんご優勝ゆうしょうがくあわ唯一ゆいいつ力士りきしで、序ノ口じょのくちから幕内まくうちまでかくだん優勝ゆうしょう経験けいけんつ(かくだん優勝ゆうしょうとち東大とうだいひろし達成たっせいしている)。
  • ただいち16しゃく土俵どひょう開催かいさいされた1945ねん11月場所ばしょ優勝ゆうしょうしており、15しゃく土俵どひょうと16しゃく土俵どひょうの2つで幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう経験けいけん唯一ゆいいつ力士りきしということになる[ちゅう 6]
  • 1941ねん1がつ場所ばしょ1943ねん1がつ場所ばしょの2かい、14しょう1はい優勝ゆうしょうのがしている。これは平成へいせい時代じだいになってはくほうしょうが4かい記録きろくするまで最多さいた記録きろくだった[ちゅう 7]優勝ゆうしょうをさらわれた相手あいてはどちらも双葉ふたばさんだった。
  • 双葉ふたばさんがいなければ、羽黒山はぐろさんいち時代じだいきずいていた」という見方みかたもあるが、かれつよさは双葉ふたばさんとの稽古けいこによるものがおおきく、この見方みかた真否しんぴ議論ぎろんかれる。本人ほんにん双葉ふたばさんとの稽古けいこのおかげでつよくなったことをみとめている[11]。また、アキレス腱あきれすけんだんきれがなければ双葉ふたばさん遜色そんしょくのない記録きろくのこしていたという意見いけんもある。
  • 戦時せんじちゅうまつるために立浪たつなみ一門いちもん力士りきし30にん山形やまがたやまこもりにき、羽黒山はぐろさん1人ひとりで1100kgから1500kgったという。
  • 終身しゅうしんわた新潟にいがたべん顕著けんちょであったことでられ、これを完全かんぜん理解りかいできる人間にんげん相撲すもうかいだれ一人ひとりといなかったとつたわる。普通ふつうひとには4わりから5わり程度ていどしかわからなかったが、弟子でし黒姫山くろひめさん秀男ひでおは7わりから8わりかるので、新潟にいがたべん通訳つうやくおこなっていた。その黒姫山くろひめさん地方ちほう場所ばしょけばびとでもないのにかならばれ、給仕きゅうじおこなっていた[14]
    • きたよう戦時せんじちゅう角界かくかい苦楽くらくともにした間柄あいだがらであるため、羽黒山はぐろさんを「ジャングイ」("大将たいしょう"の日本にっぽんぐん将校しょうこうになぞらえたかた)とんでいたが、一方いっぽうで「ケチ」とていた。黒姫山くろひめさんが「ずっとおな部屋へやちかくにせっしてきているから、『ケチ』などという見方みかたてくる」「そう葉山はやまさんだって間近まぢかせっすれば、"崇高すうこうな"なんていう言葉ことばてこないかもしれませんよ」とうときたようは「この野郎やろう!」とおこった。実際じっさい黒姫山くろひめさんかたるところによると、羽黒山はぐろさん立浪たつなみ部屋へやっていたころ当時とうじ立浪たつなみ部屋へやではしん関取せきとり自身じしんが1週間しゅうかんやすみをもらって帰京ききょうして地元じもと後援こうえんかいつくるということがあった[14]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

通算つうさん成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:359しょう99はい1ふん117きゅう 勝率しょうりつ.784
  • 幕内まくうち成績せいせき:321しょう94はい1ふん117きゅう 勝率しょうりつ.773
  • 横綱よこづな成績せいせき:230しょう62はい114きゅう 勝率しょうりつ.788
  • 現役げんえき在位ざいい:46場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:39場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:30場所ばしょ当時とうじ歴代れきだい1現在げんざい歴代れきだい13
  • 大関おおぜき在位ざいい:4場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:3場所ばしょ関脇せきわけ1場所ばしょ小結こむすび2場所ばしょ
  • 金星かなぼし:なし

連勝れんしょう記録きろく[編集へんしゅう]

羽黒山はぐろさん最多さいた連勝れんしょう記録きろくは、32連勝れんしょうである。(1945ねん6がつ場所ばしょ6にち安藝あきうみ節男せつおせん - 1947ねん6がつ場所ばしょ7にちしお海運かいうんみぎもんせんまで) ※不戦勝ふせんしょう制度せいど導入どうにゅう5タイ

その羽黒山はぐろさん連勝れんしょう記録きろくについてしるす(20連勝れんしょう以上いじょう対象たいしょう)。

回数かいすう 連勝れんしょうすう 期間きかん めた力士りきし 備考びこう
1 32 1945ねん6がつ場所ばしょ6にち[ちゅう 8] - 1947ねん6がつ場所ばしょ7にち[ちゅう 9] 前田山まえだやま 1945ねん11月場所ばしょ - 1946ねん11月場所ばしょ2場所ばしょ連続れんぞく全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう[ちゅう 10]
2 22 1951ねん9がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらく - 1952ねん5がつ場所ばしょ6にち 鳴門なるとかい不戦敗ふせんぱい 1952ねん1がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう
  • 上記じょうきとおり、20連勝れんしょう以上いじょうを2かい、30連勝れんしょう以上いじょうを1かい記録きろくしている。

かくだん優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

  • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:7かい(1941ねん5がつ場所ばしょ1944ねん5がつ場所ばしょ1945ねん11月場所ばしょ1946ねん11月場所ばしょ・1947ねん6がつ場所ばしょ・1947ねん11月場所ばしょ1952ねん1がつ場所ばしょ太字ふとじ全勝ぜんしょう
    • 全勝ぜんしょう:4かい
    • 連覇れんぱ:4連覇れんぱ(1945ねん11月場所ばしょ - 1947ねん11月場所ばしょ
    • 同点どうてん:1かい
  • 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう:1かい(1937ねん1がつ場所ばしょ
  • 幕下まくした優勝ゆうしょう:1かい(1936ねん5がつ場所ばしょ
  • さんだん優勝ゆうしょう:1かい(1936ねん1がつ場所ばしょ
  • じょだん優勝ゆうしょう:1かい(1935ねん5がつ場所ばしょ
  • 序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう:1かい(1935ねん1がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

羽黒山はぐろさん政司せいじ
春場所はるばしょ さんがつ場所ばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1934ねん
昭和しょうわ9ねん
ぜん相撲すもう x しんじょ
2–1 
x
1935ねん
昭和しょうわ10ねん
ひがし序ノ口じょのくち筆頭ひっとう
優勝ゆうしょう
5–1
x 西にしじょだん10まい
優勝ゆうしょう
6–0
x
1936ねん
昭和しょうわ11ねん
ひがしさんだん8まい
優勝ゆうしょう
6–0
x 西にし幕下まくした12まい
優勝ゆうしょう
10–1
x
1937ねん
昭和しょうわ12ねん
ひがしじゅうりょう8まい
優勝ゆうしょう
9–2
x 西前にしまえあたま16まい
9–4 
x
1938ねん
昭和しょうわ13ねん
ひがし前頭まえがしら5まい
10–3 
x ひがし小結こむすび
7–6 
x
1939ねん
昭和しょうわ14ねん
ひがし小結こむすび
8–4
1ふん
 
x ひがし関脇せきわけ
11–4 
x
1940ねん
昭和しょうわ15ねん
東大とうだいせき
11–4 
x 東大とうだいせき
7–5–3[ちゅう 11] 
x
1941ねん
昭和しょうわ16ねん
西にし大関おおぜき
14–1 
x 西にし大関おおぜき
14–1 
x
1942ねん
昭和しょうわ17ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
13–2 
x ひがしちょういずる横綱よこづな
2–4–9[ちゅう 12] 
x
1943ねん
昭和しょうわ18ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
13–2 
x ひがしちょういずる横綱よこづな
14–1 
x
1944ねん
昭和しょうわ19ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
12–3 
x ひがし横綱よこづな
10–0 
ひがし横綱よこづな
7–3 
1945ねん
昭和しょうわ20ねん
x x 西にし横綱よこづな
5–2 
西にし横綱よこづな
10–0 
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x x 国技こくぎかん修理しゅうり
のため中止ちゅうし
西にし横綱よこづな
13–0 
1947ねん
昭和しょうわ22ねん
x x ひがし横綱よこづな
9–1 
ひがし横綱よこづな
10–1 
1948ねん
昭和しょうわ23ねん
x x ひがし横綱よこづな
0–0–11[15] 
西にし横綱よこづな
0–0–11[15] 
1949ねん
昭和しょうわ24ねん
西にし横綱よこづな
0–0–13[15] 
x 西にしちょういずる横綱よこづな
11–4 
西にし横綱よこづな
12–3 
1950ねん
昭和しょうわ25ねん
ひがし横綱よこづな
6–4–5[ちゅう 13] 
x ひがし横綱よこづな
12–3 
西にし横綱よこづな
4–1–10[ちゅう 14] 
1951ねん
昭和しょうわ26ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
12–3 
x 西にし横綱よこづな
10–5 
ひがしちょういずる横綱よこづな
10–5 
1952ねん
昭和しょうわ27ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
15–0 
x ひがし横綱よこづな
7–3–5[ちゅう 15] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
4–3–8[ちゅう 16] 
1953ねん
昭和しょうわ28ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
9–6 
ひがし横綱よこづな
休場きゅうじょう[ちゅう 17]
0–0–15
西にしちょういずる横綱よこづな
0–3–12[ちゅう 18] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
0–0–15
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

おも力士りきしとの幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
安藝あきうみ節男せつお 7 5 あさうしお太郎たろう 0 2 ひがし富士ふじ欽壹 8 7
しま奈良ならおとこ 6 0 鏡岩かがみいわ善四郎ぜんしろう 3 1 きんはま貞雄さだお 1 1
佐賀さがはな勝巳かつみ 5 2 しお海運かいうんみぎもん 13 0 たまにしきさんみぎもん 0 1
千代ちよやま雅信まさのぶ 6 6 照國てるくに万藏まんぞう 8 6 とちにしき清隆きよたか 8 1
ぜん田山たやま英五郎えいごろう 8 6 ぞう山大やまだい志郎しろう 7 2 まつのぼりあきらろう 1 1
三根みつねさん隆司たかし 6 3 男女だんじょ川登かわのぼりさん 5 1 武藏むさし山武さんぶ 1 1
よし葉山はやまじゅん 6 1 若乃花わかのはなみき 4 2

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』(2017ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 優勝ゆうしょう決定けっていせん制度せいどはなく双葉ふたばさん上位じょういしゃ優勝ゆうしょう
  2. ^ つま死去しきょしたことにかんしては「昭和しょうわ21ねんの4がつ23にち女房にょうぼうくなって、5月13にち子供こどもんだんだ。21にち長男ちょうなんられたんですが、そのとき巡業じゅんぎょうてたが、自分じぶん横綱よこづなだったから部屋へやから電報でんぽうてもやすませてくれなかったね。女房にょうぼうくなったときは、わしらが岩国いわくにほう巡業じゅんぎょうってたときだったけど、そこでよる電報でんぽうったんです。けどそのばんあらし汽車きしゃ不通ふつうなんだ。仕方しかたがないからつぎ昼間ひるま急行きゅうこうったんですが、それも勧進元かんじんもとが『土俵入どひょういりだけはしてくれ』ってうもんだから土俵どひょうりしてったんです。だから東京とうきょうかえったのは、女房にょうぼうんだつぎつぎ。わしが部屋へやはいったらちょうどお葬式そうしき最中さいちゅう。おけいはじまっていたところでした。女房にょうぼう葬式そうしきませてすぐ三重みえけん桑名くわな巡業じゅんぎょうたんですが、そこからずっと東海道とうかいどうちながら、御殿場ごてんばまでときに、今度こんどは『コドモキトク』の電報でんぽうったんです。んでかえってきたらこん手術しゅじゅつをしたというところで、まだいきをしてました。わしが子供こどもをつかんでやるとフッとひらいて『とうちゃん、とうちゃん』って、はなさなかったな。にぎったままんでったです」とかたっている。
  3. ^ 小島こじま貞二ていじによると、あしわるかったころ右足みぎあし左足ひだりあし半分はんぶんほどのほそさになっていたという。
  4. ^ さい高齢こうれいでの幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうたまわしいちろうの37さい10ヵ月かげつ(2022ねん9がつ場所ばしょひがし前頭まえがしら3まいで13しょう2はい
  5. ^ 1959ねん初場所はつばしょ引退いんたい千代ちよやまが32場所ばしょ記録きろく更新こうしんするが、千代ちよやまは1ねんだけとし6場所ばしょせい横綱よこづな在位ざいいしている。
  6. ^ 千代ちよやま雅信まさのぶが16しゃく土俵どひょうでの優勝ゆうしょう同点どうてんと、15しゃく土俵どひょうでの優勝ゆうしょう記録きろくしている。
  7. ^ とちにしき清隆きよたか大鵬たいほう幸喜ゆきよし貴乃花たかのはな光司こうじも2かいタイ記録たいきろくをつくっている。
  8. ^ 戦時せんじちゅうよって7にちせいだった。
  9. ^ 戦後せんご直後ちょくごのため、10日とおかせいだった。
  10. ^ 1945ねん11月場所ばしょ10日とおかせい、1946ねん11月場所ばしょは13にちせい
  11. ^ 虫垂炎ちゅうすいえんにより12にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  12. ^ 急性きゅうせい腎臓炎じんぞうえんカタルにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  13. ^ みぎアキレス腱あきれすけんだんきれ後遺症こういしょうにより5にちから途中とちゅう休場きゅうじょう、11にちからさい出場しゅつじょう
  14. ^ ひだりひざ関節かんせつ打撲だぼくにより5にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  15. ^ 左足ひだりあし親指おやゆびひょうにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう、13にちからさい出場しゅつじょう
  16. ^ 発作ほっさがた慢性まんせい虫垂炎ちゅうすいえんにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  17. ^ 右手みぎて親指おやゆび骨折こっせつにより全休ぜんきゅう
  18. ^ ひだりひざ関節かんせつ捻挫ねんざにより3にちから途中とちゅう休場きゅうじょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p22
  2. ^ a b c d e f 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)20ページから22ページ
  3. ^ a b c d e f g h i j k 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p19-21
  4. ^ ニュース映像えいぞう だい51ごう|ニュース映像えいぞうNHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス(「羽黒山はぐろさんはつ優勝ゆうしょう日本にっぽんニュース<週間しゅうかん話題わだい>1941ねん(昭和しょうわ16ねん)5がつ27にち公開こうかい、2ふん13びょう
  5. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p52
  6. ^ a b ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p54
  7. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p43
  8. ^ a b ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p10-12
  9. ^ 相撲すもう』2013ねん11がつごう90ぺーじ
  10. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p55
  11. ^ a b ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p53
  12. ^ 浅坂あさざかさんの「ニックネーム力士りきし列伝れつでん」〜その5〜 おすもうさん 2021ねん8がつ10日とおか (2023ねん2がつ27にち閲覧えつらん)
  13. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p53-54
  14. ^ a b ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p50
  15. ^ a b c みぎアキレス腱あきれすけんだんきれにより全休ぜんきゅう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]