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だいにしきだいろう

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だいにしき だいろう
横綱よこづな土俵入どひょういりをおこなだいにしきだいろう
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい だいにしき だいろう
本名ほんみょう 鳥井とりい だい五郎ごろう旧姓きゅうせい山田やまだ
生年月日せいねんがっぴ 1883ねん3月22にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1943-05-16) 1943ねん5月16にち(60さいぼつ
出身しゅっしん 愛知あいちけん海部かいふぐん鍋田なべたむら稲元いなもと
げん愛知あいちけん弥富やとみ稲元いなもと
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 113kg
BMI 36.07
所属しょぞく部屋へや 伊呂波いろは部屋へや京都きょうと
じんまく部屋へや大坂おおさか
朝日山あさひやま部屋へや大坂おおさか
得意とくいわざ ひだりよっ
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい28だい横綱よこづな
幕内まくうち戦歴せんれき 162しょう50はい15ふん10あずか73きゅう
優勝ゆうしょう 優勝ゆうしょう相当そうとう成績せいせき6かい大坂おおさか
データ
はつ土俵どひょう 1898ねん京都きょうと
入幕にゅうまく 1906ねん2がつ場所ばしょじゅうりょう筆頭ひっとうかく
引退いんたい 1922ねん1がつ場所ばしょ
備考びこう
2019ねん6がつ15にち現在げんざい

だいにしき だいろう(おおにしき だいごろう、1883ねん3月22にち - 1943ねん5月16にち)は、愛知あいちけん海部かいふぐん鍋田なべたむら稲元いなもとげん愛知あいちけん弥富やとみ稲元いなもと出身しゅっしん大相撲おおずもう力士りきし京都きょうと相撲すもう大坂おおさか相撲すもう)。だい28だい横綱よこづな本名ほんみょう鳥井とりい だい五郎ごろう(とりい だいごろう)。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1883ねん3月22にち愛知あいちけん海部かいふぐん鍋田なべたむら稲元いなもとげん愛知あいちけん弥富やとみ稲元いなもと)で大工だいくだった山田やまだ松次郎まつじろう次男じなんとしてまれた。誕生たんじょうは3がつ22にちとされているが、3がつ20日はつか7がつ22にちなど諸説しょせつある。幼少ようしょうから怪力かいりきで、地元じもと子供こども相撲すもうでも年上としうえ子供こども相手あいてにしてもけなかったため、「稲元いなもと金太郎きんたろう」という異名いみょうった。ちちもと修業しゅうぎょうのち京都きょうとくるま大工だいく職人しょくにんとなったが、体格たいかく怪力かいりき見込みこまれ、その評判ひょうばんきつけた力士りきしすすめで、1898ねん伊呂波いろは部屋へや京都きょうと相撲すもう)へ入門にゅうもんした[1]

1903ねん1がつじんまく部屋へや大坂おおさか相撲すもう)へ移籍いせきするとすぐ頭角とうかくあらわしたが、じんまく急死きゅうしによって朝日山あさひやま部屋へや移籍いせきした[1]破竹はちくいきおいでじゅうりょうわずか1場所ばしょ通過つうかし、1906ねん2がつ場所ばしょしん入幕にゅうまくたす。ところが、だいにしきのあまりにもはや出世しゅっせ部屋へやから苦情くじょう相次あいついだため、どう場所ばしょ前頭まえがしらではなく「じゅうりょう筆頭ひっとうかく」として出場しゅつじょうさせた。それでもかい進撃しんげきまらず、1907ねん6がつ場所ばしょ小結こむすび1908ねん1がつ場所ばしょ関脇せきわけ1910ねん6がつ場所ばしょには大関おおぜき昇進しょうしん、これ以降いこう在位ざいい9ねん・14場所ばしょつとめた。ちょうどこのころ常陸ひたち山谷さんやみぎもんから東京とうきょう相撲すもう勧誘かんゆうされたが、朝日山あさひやまいわだに岩松いわまつ)にふか恩義おんぎかんじていたためにことわったという。その朝日山あさひやま1916ねんくなると、遺言ゆいごんどおりに同年どうねん6がつ場所ばしょから1917ねん6がつ場所ばしょまでのいち年間ねんかん・3場所ばしょを「朝日山あさひやま」の四股しこめい出場しゅつじょうし、まい鑑札かんさつ襲名しゅうめいしたが、先代せんだいいち周忌しゅうきぎた1918ねん1がつに、どう部屋へや所属しょぞくしていた二瀬川ふたせがわに「朝日山あさひやま」の四股しこめいゆずり、「小錦こにしきよりスケールをおおきく」という意味いみで「だいにしき」にふくめいした[1]

1918ねん5月場所ばしょにて、35さいにして吉田よしだつかさから横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよまり、だい28だい横綱よこづな昇進しょうしんした。大坂おおさか相撲すもうではさんにん横綱よこづなとして5ねん・8場所ばしょわたって土俵どひょうつとめ、1922ねん1がつ場所ばしょ最後さいご現役げんえき引退いんたいした。引退いんたいいちだい頭取とうどり年寄としより)・だいにしき襲名しゅうめいしたのち廃業はいぎょうし、曾根崎新地そねざきしんち茶屋ちゃやきょういと」を経営けいえいした。1943ねんくなる直前ちょくぜん還暦かんれきむかえたが還暦かんれき土俵入どひょういおこなわれず、還暦かんれき横綱よこづな象徴しょうちょうであるあかつなつくられたかも不明ふめいである。

弥富やとみ歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんに、だいにしき肖像しょうぞう実際じっさい使用しようしていただいうちわ展示てんじされている。また、出身しゅっしんである弥富やとみ稲元いなもと彦九田神たがみしゃには、だいにしき寄進きしんした燈籠とうろう現在げんざいのこっている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ひだりよっつを得意とくいかたげやりを得意とくいとしたがしゅはやさにとぼしく、東京とうきょう相撲すもうとの合併がっぺい興行こうぎょうでは東京とうきょう横綱よこづな大関おおぜきまったたなかったといい、さんやくクラスにもぶんわるかった。これにより、識者しきしゃあいだでは歴代れきだい横綱よこづななかさいじゃくとの評価ひょうかがされることもある。ただし、吉田よしだつかさ吉田よしだ追風おいかぜをして「かた土俵どひょう)にがってった瞬間しゅんかん品位ひんい満点まんてん」とわしめたとされ、実力じつりょく以上いじょう人格じんかく品格ひんかくめん見込みこまれて横綱よこづな免許めんきょされたとおもわれる。当時とうじ風紀ふうきみだれていた大阪おおさか力士りきしではめずらしく、博打ばくちもやらず品行ひんこう方正ほうせいであったという[1]

大正たいしょう時代じだいのあるときハワイ海外かいがい公演こうえんかけ、相撲すもう普及ふきゅうおこなっていた[2]

横綱よこづな昇進しょうしん不調ふちょう山陰さんいん地方ちほうでの巡業じゅんぎょうさいなまイカをべ、食中毒しょくちゅうどくにかかりこしねばりをうしなったというせつがある。

だいにしき同士どうし対戦たいせん[編集へんしゅう]

本場所ほんばしょではいち機会きかいかったが、東京とうきょう相撲すもうとの合併がっぺい興行こうぎょうではおなじ「だいにしき」を名乗なのだいにしき一郎いちろう対戦たいせんしている。1916ねん10月31にちから大阪おおさかしん世界せかいおこなわれた晴天せいてん10日間にちかんの「東西とうざい合併がっぺい大相撲おおずもう」の6にち対戦たいせんしたが、だいろうほう当時とうじ朝日山あさひやま」を名乗なのっていた。取組とりくみは、だいにしき土俵際どひょうぎわ朝日山あさひやまひだり下手へたげをこらえてからのみぎ小手こてげで勝利しょうりした。1919ねん9月12にちから10日間にちかん開催かいさいされた大阪おおさか国技こくぎかん落成らくせい記念きねん東西とうざい合併がっぺい大相撲おおずもう」でも千秋楽せんしゅうらく対戦たいせんまれたが、このとき朝日山あさひやまが「だいにしき」にもどっていたため、だいにしきだいろう東方とうほうだいにしき一郎いちろう、それぞれが「だいにしき」を名乗なのもの同士どうしでの対戦たいせんとなった。このときいちろうしで勝利しょうりした[3]

だいにしき」の四股しこめい襲名しゅうめいしたのはだいろうほうさきであるが、いちろうほうは「故郷こきょうであるだいばんにしきかざれ」との意味いみめて「だいにしき」としたが、この時点じてんすでだいにしきだいろう存在そんざいしているのを承知しょうち名付なづけたため、だいろう不快ふかいかんっていたとつたわる。

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 幕内まくうち通算つうさん成績せいせき大坂おおさか):162しょう50はい15ふん10あずか73きゅう 勝率しょうりつ.764(30場所ばしょ
  • 優勝ゆうしょう相当そうとう成績せいせき大坂おおさか):6かい

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

大坂おおさか相撲すもう本場所ほんばしょにおけるじゅうりょう昇進しょうしん以降いこう成績せいせきしめす。

場所ばしょ 地位ちい 成績せいせき 備考びこう
明治めいじ38ねん(1905ねん)6がつ場所ばしょ ひがしじゅうりょう10 7しょう0はい1ふん2あずか
明治めいじ39ねん(1906ねん)2がつ場所ばしょ ひがし前頭まえがしら8 5しょう2はい1ふん1あずか1きゅう
明治めいじ39ねん(1906ねん)5がつ場所ばしょ ひがし前頭まえがしら5 4しょう1はい5きゅう
明治めいじ40ねん(1907ねん)1がつ場所ばしょ 西前にしまえあたま1 5しょう2はい2あずか1きゅう
明治めいじ40ねん(1907ねん)6がつ場所ばしょ 西にし小結こむすび 6しょう3はい1きゅう
明治めいじ41ねん(1908ねん)1がつ場所ばしょ 西にし関脇せきわけ 6しょう3はい1きゅう
明治めいじ41ねん(1908ねん)6がつ場所ばしょ 西にし関脇せきわけ 7しょう1はい1あずか1きゅう
明治めいじ42ねん(1909ねん)1がつ場所ばしょ 西にし関脇せきわけ 5しょう3はい2きゅう
明治めいじ42ねん(1909ねん)5がつ場所ばしょ 西にし関脇せきわけ 7しょう1はい2きゅう
明治めいじ43ねん(1910ねん)1がつ場所ばしょ 西にし関脇せきわけ 3しょう1はい1ふん2あずか3きゅう
明治めいじ43ねん(1910ねん)5がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 5しょう3はい1ふん1きゅう
明治めいじ44ねん(1911ねん)2がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 2しょう3はい1ふん4きゅう
明治めいじ44ねん(1911ねん)9がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 8しょう1はい1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう
明治めいじ45ねん(1912ねん)5がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 7しょう1はい1ふん1きゅう
大正たいしょう2ねん(1913ねん)1がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 7しょう2はい1きゅう
大正たいしょう2ねん(1913ねん)5がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 7しょう2はい1ふん 優勝ゆうしょう相当そうとう(2)
大正たいしょう3ねん(1914ねん)1がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 6しょう1はい3きゅう
大正たいしょう3ねん(1914ねん)5がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 8しょう0はい1ふん1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(3)
大正たいしょう4ねん(1915ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 6しょう2はい2きゅう
大正たいしょう5ねん(1916ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう0はい2きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(4)
大正たいしょう5ねん(1916ねん)6がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 5しょう3はい2きゅう
大正たいしょう6ねん(1917ねん)1がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう0はい2あずか 優勝ゆうしょう相当そうとう(5)
大正たいしょう6ねん(1917ねん)5がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 7しょう1はい1ふん1あずか
大正たいしょう7ねん(1918ねん)1がつ場所ばしょ 西にし大関おおぜき 8しょう1はい1あずか 優勝ゆうしょう相当そうとう(6)
大正たいしょう7ねん(1918ねん)5がつ場所ばしょ ひがし横綱よこづな 2しょう4はい1ふん3きゅう
大正たいしょう8ねん(1919ねん)1がつ場所ばしょ 西にし横綱よこづな 1しょう2はい8きゅう
大正たいしょう8ねん(1919ねん)5がつ場所ばしょ 西にし横綱よこづな 6しょう2はい2ふん
大正たいしょう9ねん(1920ねん)1がつ場所ばしょ 西にし横綱よこづな 1しょう1はい8きゅう
大正たいしょう9ねん(1920ねん)5がつ場所ばしょ ひがし横綱よこづな 4しょう3はい2ふん1あずか
大正たいしょう10ねん(1921ねん)1がつ場所ばしょ ひがし横綱よこづな 10きゅう
大正たいしょう10ねん(1921ねん)6がつ場所ばしょ ひがし横綱よこづな 4しょう0はい1ふん5きゅう
大正たいしょう11ねん(1922ねん)1がつ場所ばしょ 西にし横綱よこづな 3しょう2はい1ふん4きゅう 引退いんたい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 大相撲おおずもうジャーナル』2019ねん3がつごう p.58.
  2. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2018ねん3がつごう p.107
  3. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん6がつごう96-97ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • NHK G-media「大相撲おおずもうジャーナル」2017ねん4がつごう25ページ
  • 秋田あきた書店しょてん、「大相撲おおずもうめい力士りきし100せん」1972ねん発行はっこう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]