清水しみずがわ元吉もとよし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
清水しみずがわ 元吉もとよし
清水しみずがわ元吉もとよし(1934ねんごろ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 清水しみずがわ 元吉もとよし
本名ほんみょう 長尾ながお 米作べいさく
愛称あいしょう 上手じょうず大関おおぜき
五大ごだい力士りきし
次郎じろうちょう
昭和しょうわめい大関おおぜき
今様いまようはたずいいん長兵衛ちょうべえ
生年月日せいねんがっぴ 1900ねん1がつ13にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1967-07-05) 1967ねん7がつ5にち(67さいぼつ
出身しゅっしん 青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん三好みよしむら
げん青森あおもりけん五所川原ごしょがわら
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 97kg
BMI 30.96
所属しょぞく部屋へや じゅうやま部屋へや
得意とくいわざ みぎよっつ、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし大関おおぜき
生涯しょうがい戦歴せんれき 272しょう157はい1ふん8あずか48きゅう(53場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 193しょう130はい1ふん2あずか44きゅう(34場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう3かい
十両じゅうりょう優勝ゆうしょう2かい
データ
はつ土俵どひょう 1917ねん1がつ場所ばしょぜん相撲すもう
入幕にゅうまく 1923ねん1がつ場所ばしょ
引退いんたい 1937ねん5月場所ばしょ
備考びこう
金星かなぼし1個いっこつねはな1個いっこ
2013ねん7がつ7にち現在げんざい

清水しみずがわ 元吉もとよし(しみずがわ もときち、1900ねん1がつ13にち - 1967ねん7がつ5にち)は、青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん三好みよしむらげん青森あおもりけん五所川原ごしょがわら出身しゅっしんじゅうやま部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょう長尾ながお 米作べいさく(ながお よねさく)。最高さいこうひがし大関おおぜき

来歴らいれき[編集へんしゅう]

入門にゅうもん破門はもん宣告せんこく[編集へんしゅう]

1900ねん1がつ13にちに、青森あおもりけん北津軽きたつがるぐん三好みよしむらげん青森あおもりけん五所川原ごしょがわら)で農家のうかいとないえ長男ちょうなんとしてまれる。隣家りんか江戸えど相撲すもうめい大関おおぜきだった柏戸かしわど利助としすけ生家せいかで、米作べいさく少年しょうねん父親ちちおや地方ちほう相撲すもう強豪きょうごうだったことから、米作べいさく自身じしんみや相撲すもう活躍かつやく1916ねんなつじゅうやまいちぎょう巡業じゅんぎょうへやってきたさい父親ちちおやともなわれて入門にゅうもん1917ねん上京じょうきょうして同年どうねん1がつ場所ばしょはつ土俵どひょうんだ。「清水しみずがわ」の四股しこめいは、故郷こきょうながれるかわみや相撲すもう大関おおぜきつとめていたとき名乗なのっていた名前なまえからけた[1]

幕下まくした時代じだいから、ひだりしてるか、みや相撲すもうきたげたねばづよ足腰あしこしかしてみぎ上手じょうずってからけてくちだったが、1921ねん巡業じゅんぎょう小松山こまつやまから「ひだりつよいからみぎよっつにんでり、相手あいてこたえるはし左上ひだりうえしゅからげをつように」との指導しどうけ、あじするど上手じょうず完成かんせいさせた。このあらたなくちと、観客かんきゃくをも緊張きんちょうさせるほどの土俵どひょう度胸どきょうさを武器ぶきに、1923ねん1がつ場所ばしょにおいてしん入幕にゅうまくたした。いちじゅうりょう陥落かんらくしたもののすぐにもどるなど、将来しょうらい花形はながた力士りきし期待きたいされたが、人気にんきおぼれて遊興ゆうきょうげんかすようになった。さらにヤクザから事件じけん[2]こして本場所ほんばしょつづけて放棄ほうきしたため、だい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい看過かんかできず、師匠ししょうじゅうやま破門はもん宣告せんこくした。さら1928ねんには番付ばんづけからも名前なまえ削除さくじょされ、廃業はいぎょうとなった。

角界かくかい復帰ふっき大関おおぜき昇進しょうしん[編集へんしゅう]

しばらくのあいだ鹿児島かごしまけん兵庫ひょうごけん神戸こうべ、さらに満州まんしゅうなど各地かくち転々てんてんとしていたが、翌年よくねん白川しらかわ義則よしのり陸軍りくぐん大将たいしょうしょ持参じさんしてだい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい復帰ふっき要請ようせいした。当初とうしょ門前払もんぜんばらいをけたが、父親ちちおやが「大関おおぜきになってくれ」との遺書いしょのこして自殺じさつしたことや、師匠ししょうじゅうやましたしいあらしおくわえて、右翼うよく幹部かんぶである頭山とうやまみつる杉山すぎやましげるまるなどの有力ゆうりょくしゃ清水しみずがわ角界かくかい復帰ふっき後押あとおしするうごきをせたことで、協会きょうかいもようやく清水しみずがわ復帰ふっき是非ぜひ評議ひょうぎかい開催かいさいした。当初とうしょ評議ひょうぎかい出席しゅっせきしゃ大半たいはん清水しみずがわ復帰ふっき否定ひていてきだったが、出羽海でわのうみの「ころして嘆願たんがんするれい将来しょうらいにもるのか」の発言はつげんによって大勢おおぜいわり、1928ねん10がつ場所ばしょにおいて幕下まくした筆頭ひっとうかく復帰ふっきみとめることが満場一致まんじょういっち承認しょうにんされた。復帰ふっきさいしてした本名ほんみょうの「米作べいさく」からちちである「元吉もとよし」にあらためた。 復帰ふっきしばらくった1932ねん春秋しゅんじゅうえん事件じけん勃発ぼっぱつしている。この事件じけんでは首謀しゅぼうしゃ天竜てんりゅう三郎さぶろうらの主張しゅちょう同調どうちょうし、鏡岩かがみいわ善四郎ぜんしろうあさしおきょうさんろうなどおおくの力士りきし相撲すもう協会きょうかい脱退だったいし、清水川しみずかわ自身じしん一時いちじ革新かくしん力士りきしだん同調どうちょうしたが、最終さいしゅうてきには、4ねんまえみずからの角界かくかい復帰ふっきゆるしてくれた相撲すもう協会きょうかい師匠ししょうじゅうやまおんむくいるかたちで、協会きょうかい残留ざんりゅうえらんだ。事件じけん直後ちょくごの1932ねん2がつ場所ばしょは8日間にちかん興行こうぎょうとなったものの、清水しみずがわ関脇せきわけとして8せん全勝ぜんしょう幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう[3]たした。この活躍かつやくにより、同年どうねん3がつ場所ばしょ終了しゅうりょう大関おおぜき昇進しょうしん決定けっていした。かくして父親ちちおや大関おおぜき昇進しょうしんねがいはかなえられた。

現役げんえき引退いんたい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

大関おおぜき昇進しょうしんは、1932ねん10がつ場所ばしょに9しょう2はい好成績こうせいせきで2度目どめ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうげた。このころ清水しみずがわは、のち横綱よこづな昇進しょうしんするたまにしきさんみぎもんとほぼ互角ごかくわたっており、この場所ばしょ優勝ゆうしょうたまにしきってのものだった。1934ねん5月場所ばしょで3度目どめ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうを11せん全勝ぜんしょうかざり、清水しみずがわ横綱よこづな昇進しょうしん間近まぢかおおいに期待きたいされたが、同年どうねん9がつ島根しまねでの巡業じゅんぎょうちゅうみぎ大腿だいたいこつ脱臼だっきゅうする重傷じゅうしょうった。本人ほんにん復帰ふっき絶望ぜつぼう現役げんえき引退いんたいかんがえたものの、人気にんきたかさから相撲すもう協会きょうかい懇願こんがんされて翻意ほんいした。ただ、脱臼だっきゅう影響えいきょう上手じょうずげが満足まんぞくてなくなるなど以前いぜんのようなくちとは程遠ほどとおく、おぼえておとろえをおぎなおうとするこころみも裏目うらめ1936ねん1がつ場所ばしょでは4しょう7はい皆勤かいきんしを記録きろくしたことすらあった。結局けっきょく1937ねん5月場所ばしょ最後さいご現役げんえき引退いんたいしたが、ぜん場所ばしょを10しょう3はいおおきくしていたため、引退いんたい表明ひょうめい協会きょうかいから「もういち場所ばしょ勤務きんむしてしい」と再度さいど慰留いりゅうされて今度こんど固辞こじした。横綱よこづな昇進しょうしんたせなかったものの、人気にんき実力じつりょくそなえて相撲すもう協会きょうかい多大ただい貢献こうけんをした清水しみずがわめい大関おおぜきとなえられた。

現役げんえき引退いんたい年寄としより追手おってふう襲名しゅうめいすると同時どうじに、じゅうやま部屋へやから分家ぶんけ独立どくりつして追手おってふう部屋へや創立そうりつきよし水川みずかわあきらなどを育成いくせいした。1964ねん11月場所ばしょ最後さいご部屋へや閉鎖へいさして立浪たつなみ部屋へやもと横綱よこづな羽黒山はぐろさん政司せいじ)に合流ごうりゅうし、1965ねん1がつ12にちをもって日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい停年ていねん退職たいしょくした。1967ねん7がつ5にち死去しきょ、67さいぼつ

人物じんぶつ・エピソード[編集へんしゅう]

  • 放蕩ほうとうによって一時期いちじき破門はもん廃業はいぎょうとなったが、復帰ふっき精進しょうじんつとめ、みぎよっつのかたから豪快ごうかいあじ上手じょうずげをめる力士りきしとして人気にんきはくした。独特どくとく仕切しきりスタイルでも人気にんきあつめ、ラジオ実況じっきょう中継ちゅうけいでは「清水しみずがわ鎌首かまくびをもたげました」と形容けいようされて話題わだいとなった。
  • 生来せいらい親分おやぶんはだくわえて古武士こぶし風格ふうかくそなえ、人情味にんじょうみあふれる人格じんかくしゃとしてしたわれた。ある外出がいしゅつさき火事かじ遭遇そうぐうした清水しみずがわは、まえ侠気おとこぎ発揮はっきして消火しょうか活動かつどう尽力じんりょくした。
  • 場所ばしょりするあいだ信号しんごうまるとける」とって、国技こくぎかんかうさい信号しんごうまる可能かのうせいのあるみち極力きょくりょくけてかよっていた。
  • 四股しこめい清水しみずがわ」は現在げんざい追手おってふう部屋へや[4]でも部屋へや伝統でんとう四股しこめいとしてあつかわれており、所属しょぞく力士りきしである幕内まくうち遠藤えんどうさんやく昇進しょうしんたしたさい襲名しゅうめいする予定よていであるという報道ほうどう存在そんざいした[5]が、師匠ししょう本人ほんにんくちからは明言めいげんされておらず[6]実際じっさいさんやく昇進しょうしんたしたさい襲名しゅうめいしなかった。
  • 小説しょうせつ尾崎おざき士郎しろう清水しみずがわ贔屓ひいきすじつとめていた。清水しみずがわ帰参きさんするさい保証人ほしょうにん尾崎おざきつとめた[7]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:272しょう157はい1ふん8あずか48きゅう 勝率しょうりつ.634
  • 幕内まくうち成績せいせき:193しょう130はい1ふん2あずか44きゅう 勝率しょうりつ.598
  • 大関おおぜき成績せいせき:87しょう47はい 勝率しょうりつ.649
  • 通算つうさん在位ざいい:53場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:34場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:12場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:5場所ばしょ関脇せきわけ2場所ばしょ小結こむすび3場所ばしょ
  • 金星かなぼし1個いっこつねはな1個いっこ
  • 優勝ゆうしょう旗手きしゅ:1かい(1931ねん5がつ場所ばしょ
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:3かい(1932ねん2がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう)・10がつ場所ばしょ、1934ねん5がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう))
    • 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう:2かい(1929ねん3がつ場所ばしょ・5月場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

清水しみずがわ元吉もとよし
春場所はるばしょ さんがつ場所ばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1917ねん
大正たいしょう6ねん
ぜん相撲すもう x ぜん相撲すもう x
1918ねん
大正たいしょう7ねん
ひがし序ノ口じょのくち25まい
3–2 
x ひがしじょだん70まい
4–1 
x
1919ねん
大正たいしょう8ねん
西にしじょだん17まい
3–1
(1あずか)
 
x ひがしさんだん32まい
4–1 
x
1920ねん
大正たいしょう9ねん
西にしさんだん3まい
4–1 
x ひがし幕下まくした28まい
2–2
(1あずか)
 
x
1921ねん
大正たいしょう10ねん
ひがし幕下まくした26まい
3–1
(1あずか)
 
x ひがし幕下まくした19まい
3–1
(1あずか)
 
x
1922ねん
大正たいしょう11ねん
ひがしじゅうりょう13まい
2–1
(2あずか)
 
x 西にしじゅうりょう3まい
4–3 
x
1923ねん
大正たいしょう12ねん
西前にしまえあたま15まい
2–7
(1あずか)
 
x ひがしじゅうりょう4まい
6–3 
x
1924ねん
大正たいしょう13ねん
西前にしまえあたま13まい
4–5
(1あずか)
 
x 西前にしまえあたま12まい
4–7 
x
1925ねん
大正たいしょう14ねん
西前にしまえあたま15まい
8–3 
x ひがし前頭まえがしら5まい
8–2
(1引分ひきわけ)

x
1926ねん
大正たいしょう15ねん
ひがし小結こむすび
0–0–11[8] 
x 西前にしまえあたま4まい
8–3 
x
1927ねん
昭和しょうわ2ねん
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
3–8 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
3–8 
西前にしまえあたま7まい
0–0–11[9] 
前頭まえがしら
引退いんたい
0–0–0
1928ねん
昭和しょうわ3ねん
x x x 幕下まくした筆頭ひっとう
4–3 
1929ねん
昭和しょうわ4ねん
ひがしじゅうりょう12まい
8–3 
ひがしじゅうりょう12まい
優勝ゆうしょう
10–1
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
優勝ゆうしょう
11–0
西にしじゅうりょう筆頭ひっとう
8–3 
1930ねん
昭和しょうわ5ねん
ひがし前頭まえがしら8まい
6–5 
ひがし前頭まえがしら8まい
7–4 
西前にしまえあたま3まい
3–8 
西前にしまえあたま3まい
9–2 
1931ねん
昭和しょうわ6ねん
ひがし小結こむすび
5–6 
ひがし小結こむすび
4–7 
西前にしまえあたま3まい
10–1
旗手きしゅ
 
西前にしまえあたま3まい
6–5 
1932ねん
昭和しょうわ7ねん
西にし関脇せきわけ
8–0 
西にし関脇せきわけ
8–2 
ひがしちょういずる大関おおぜき
10–1 
ひがしちょういずる大関おおぜき
9–2 
1933ねん
昭和しょうわ8ねん
東大とうだいせき
5–6 
x 西にし大関おおぜき
7–4 
x
1934ねん
昭和しょうわ9ねん
西にし大関おおぜき
7–4 
x 西にし大関おおぜき
11–0 
x
1935ねん
昭和しょうわ10ねん
東大とうだいせき
5–6 
x 西にしちょういずる大関おおぜき
7–4 
x
1936ねん
昭和しょうわ11ねん
西にし大関おおぜき
4–7 
x 西にし大関おおぜき
6–5 
x
1937ねん
昭和しょうわ12ねん
西にし大関おおぜき
6–5 
x 西にし大関おおぜき
10–3 

引退いんたい
0–0–0
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 清水川しみずかわ 米作べいさく(しみずがわ よねさく):1917ねん1がつ場所ばしょ - 1926ねん5がつ場所ばしょ
  • きよし水川みずかわ 清行きよゆき( - きよゆき):1927ねん1がつ場所ばしょ - 1927ねん3がつ場所ばしょ
  • 清水川しみずかわ 米作べいさく(しみずがわ よねさく):1927ねん5がつ場所ばしょ - 10がつ場所ばしょ

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 清水川しみずかわ 米作べいさく(しみずがわ よねさく):1928ねん10がつ場所ばしょ - 1931ねん3がつ場所ばしょ
  • 清水しみずがわ 元吉もとよし( - もときち):1931ねん5がつ場所ばしょ - 1937ねん5がつ場所ばしょ[10]

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • 追手おってふう 元吉もとよし(おいてかぜ もときち):1937ねん5がつ場所ばしょ - 1965ねん1がつ12にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(著者ちょしゃ:塩澤しおざわみのるしんじ発行はっこうもと:北辰ほくしんどう出版しゅっぱん、2015ねん)p262-263

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 清水しみずがわ四股しこめい由来ゆらいについては尾崎おざき士郎しろうあらわした「相撲すもう随筆ずいひつ」で紹介しょうかいされている。
  2. ^ 当時とうじ交際こうさいしていた女性じょせいあにがヤクザであり、そのあにから脅迫きょうはくけた。
  3. ^ 2024ねん3がつ大相撲おおずもう春場所はるばしょで、みこと富士ふじ(きゅう金木かなぎまち出身しゅっしん)が幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうするまでは、唯一ゆいいつ五所川原ごしょがわら出身しゅっしん力士りきし幕内まくうち優勝ゆうしょうしゃだった。出典しゅってん:『五所川原ごしょがわら出身しゅっしん力士りきし優勝ゆうしょう 清水川しみずかわ以来いらい90ねんぶり』 - 陸奥むつ新報しんぽう・2024ねん3がつ25にちづけ朝刊ちょうかん2めん記事きじより。
  4. ^ 清水しみずがわ直弟子じきでしであり本人ほんにん停年ていねん立浪たつなみ部屋へやあずかり弟子でしとなり、引退いんたい立浪たつなみ部屋へやづけ年寄としよりつとめた10代追手おってふうもと幕内まくうち追風おいかぜやまむすめ婿むこであるもと幕内まくうちだいしょうさん名跡みょうせき交換こうかんかたちで11だい追手おってふう襲名しゅうめいして再興さいこうしたものである。
  5. ^ 遠藤えんどう部屋へや伝統でんとうの「清水しみずがわ名乗なのるには はつ横綱よこづなせん完敗かんぱい 朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL 2014ねん3がつ10日とおか2158ふん
  6. ^ 遠藤えんどうけはけ」3連敗れんぱい “武双山むそうやまちょうえ”最速さいそく金星きんぼしならず スポニチアネックス 2014ねん3がつ12にち
  7. ^ きた富士ふじ勝昭かつあき嵐山あらしやま光三郎こうざぶろうだい放談ほうだん大相撲おおずもうちあけはなし』(しんこうしゃ、2016ねん)P100
  8. ^ 肺炎はいえんにより全休ぜんきゅう
  9. ^ 神経しんけいつうにより全休ぜんきゅう
  10. ^ 帰参きさんねがってしたちち名前なまえ元吉もとよし」に由来ゆらい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]