対 たい 華 はな 21カ条 かじょう 要求 ようきゅう (たいか21かじょうようきゅう)は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1915年 ねん 1月 がつ 18日 にち に日本 にっぽん が中国 ちゅうごく に対 たい して行 い った満蒙 まもう における日本 にっぽん の権益 けんえき 問題 もんだい や在 ざい 華 はな 日本人 にっぽんじん の条約 じょうやく 上 じょう の法益 ほうえき 保護 ほご 問題 もんだい をめぐる21か条 じょう の要求 ようきゅう と希望 きぼう のこと[ 1] 。対 たい 支 ささえ 21ヶ条 かじょう 要求 ようきゅう 、二 に 十 じゅう 一 いち か条 じょう の要求 ようきゅう とも呼 よ ばれる(中国語 ちゅうごくご 版 ばん では「二 に 十 じゅう 一 いち 条 じょう 」)。
一部 いちぶ は山東 さんとう 条項 じょうこう としてヴェルサイユ条約 じょうやく に反映 はんえい されたが、最終 さいしゅう 的 てき には1922年 ねん の山東 さんとう 懸案 けんあん 解決 かいけつ に関 かん する条約 じょうやく 等 ひとし により、日本 にっぽん 軍 ぐん の撤退 てったい と租借 そしゃく 地 ち 及 およ び公有 こうゆう 財産 ざいさん ・青島 ちんたお 税関 ぜいかん の返還 へんかん が行 おこな われ、外国 がいこく 人 じん の青島 ちんたお 市政 しせい 参与 さんよ 権 けん は拒否 きょひ され、山東 さんとう 省 しょう の主要 しゅよう 都市 とし も外国 がいこく 人 じん には解放 かいほう されずに終了 しゅうりょう した。
当初 とうしょ 、中国 ちゅうごく 側 がわ の袁世凱 は希望 きぼう 条項 じょうこう として秘密 ひみつ 交渉 こうしょう に委 ゆだ ねられていた第 だい 5号 ごう の7か条 じょう (日本人 にっぽんじん の政治 せいじ ・財政 ざいせい ・警察 けいさつ 顧問 こもん の招聘 しょうへい 、日本 にっぽん の兵器 へいき 受給 じゅきゅう などの要求 ようきゅう )を国際 こくさい 社会 しゃかい に暴露 ばくろ することで国際 こくさい 社会 しゃかい の反発 はんぱつ を煽 あお って不成立 ふせいりつ にしようと画策 かくさく したが、 日本 にっぽん 側 がわ は4月 がつ 26日 にち に要求 ようきゅう を19ヶ条 かじょう に減 へ らして若干 じゃっかん 緩和 かんわ し、さらに5月7日 にち には第 だい 5号 ごう の要求 ようきゅう を削除 さくじょ した13ヶ条 かじょう にし、5月9日 にち を期限 きげん とする「最後 さいご 通 どおり 告文 こくぶん 」を出 だ した結果 けっか 、同日 どうじつ に袁世凱が最後 さいご 通 どおり 告文 こくぶん を承認 しょうにん
[ 1] [ 2] [ 3] 。しかし中国 ちゅうごく 国内 こくない では受諾 じゅだく に対 たい する激 はげ しい反対 はんたい 運動 うんどう や暴動 ぼうどう がおこり[ 2] 、日 にち 中 ちゅう 関係 かんけい が悪化 あっか 。また外国 がいこく の猜疑心 さいぎしん を招 まね き、ワシントン会議 かいぎ では10か条 じょう に縮小 しゅくしょう された[ 3] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん がヨーロッパ で始 はじ まり、日本 にっぽん は第 だい 三 さん 回 かい 日 にち 英 えい 同盟 どうめい 協約 きょうやく により、1914年 ねん 8月 がつ 23日 にち にドイツ帝国 ていこく へ宣戦 せんせん 布告 ふこく し、連合 れんごう 国 こく の一員 いちいん として参戦 さんせん した。参戦 さんせん に際 さい し日本 にっぽん 政府 せいふ はドイツ政府 せいふ 宛 あて に「独 どく 国 こく 政府 せいふ ニ与 あずか ヘタル帝国 ていこく 政府 せいふ ノ勧告 かんこく 」を8月 がつ 15日 にち に発 はっ し、その中 なか で膠 にかわ 州 しゅう 湾 わん 租借 そしゃく 地 ち (青島 ちんたお )の全部 ぜんぶ を支 ささえ 那 な 国 こく (中華民国 ちゅうかみんこく )に還付 かんぷ する目的 もくてき をもって無償 むしょう 無条件 むじょうけん に日本 にっぽん 帝国 ていこく 官憲 かんけん に公布 こうふ することを要求 ようきゅう した[ 4] 。しかしその真意 しんい は決 けっ して文面 ぶんめん どおりのものではなかった[ 5] 。日本 にっぽん 政府 せいふ は租借 そしゃく 地 ち の解消 かいしょう とともに外国 がいこく 人 じん (日本人 にっぽんじん )居留 きょりゅう 地 ち を設営 せつえい したのち従来 じゅうらい のドイツ商権 しょうけん および鉄道 てつどう 運行 うんこう 権 けん を日本人 にっぽんじん 居留民 きょりゅうみん が継承 けいしょう することを想定 そうてい しており、青島 ちんたお 攻略 こうりゃく 戦 せん ののちこの認識 にんしき の違 ちが いがただちに外交 がいこう 問題 もんだい となった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において中華民国 ちゅうかみんこく は当初 とうしょ は中立 ちゅうりつ であり[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 日本 にっぽん の対 たい 独 どく 宣戦 せんせん 布告 ふこく に対 たい し、山東 さんとう 半島 はんとう において交戦 こうせん 区域 くいき を設定 せってい した。この交戦 こうせん 区域 くいき は中華民国 ちゅうかみんこく が日 にち 独 どく 英 えい に一方 いっぽう 的 てき に通告 つうこく したものであったが、ドイツは膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう を物資 ぶっし 補給 ほきゅう に利用 りよう し、日本 にっぽん はこれを占領 せんりょう するなど交戦 こうせん 区域 くいき 外 がい での軍事 ぐんじ 行動 こうどう が行 おこな われ、また中華民国 ちゅうかみんこく も交戦 こうせん 区域 くいき からの逸脱 いつだつ を有効 ゆうこう に排除 はいじょ しえなかった[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。日本 にっぽん 軍 ぐん は1914年 ねん 10月 がつ 末 まつ に実施 じっし した青島 ちんたお の戦 たたか い の際 さい 、「交戦 こうせん 区域 くいき 」外 そと に進出 しんしゅつ 、膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう がドイツ軍 ぐん の物資 ぶっし 輸送 ゆそう に利用 りよう されているとしてこれを占領 せんりょう し[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 、10月7日 にち には終着駅 しゅうちゃくえき である済 すみ 南 みなみ 府 ふ 停車場 ていしゃじょう まで進出 しんしゅつ している[ 8] 。済 すみ 南 みなみ は山東 さんとう 省 しょう の首都 しゅと であり、維県(維坊) はドイツ膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう (山東 さんとう 鉄道 てつどう )上 じょう の重要 じゅうよう 都市 とし である。青島 ちんたお 攻略 こうりゃく 後 ご も膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう の附属 ふぞく 地域 ちいき の占領 せんりょう は継続 けいぞく された。
一方 いっぽう で中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ は交戦 こうせん 区域 くいき からの逸脱 いつだつ に抗議 こうぎ し、1915年 ねん 1月 がつ に交戦 こうせん 区域 くいき の撤廃 てっぱい を日 にち 独 どく 英 えい に通告 つうこく し、ドイツ租借 そしゃく 地 ち および膠 にかわ 済 ずみ 線 せん 附属 ふぞく 地 ち 外 がい の日本 にっぽん 軍 ぐん の撤収 てっしゅう を要求 ようきゅう した。また日本 にっぽん の膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう (山東 さんとう 鉄道 てつどう )や青島 ちんたお 税関 ぜいかん の管理 かんり 権 けん を拒否 きょひ した。中華民国 ちゅうかみんこく はドイツ権益 けんえき が中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ の管理 かんり 下 か におかれるべきと要求 ようきゅう したのだが、日本 にっぽん 政府 せいふ は戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 上 じょう の軍事 ぐんじ 占領 せんりょう として日本 にっぽん 軍 ぐん が管理 かんり するべきものとした。日本 にっぽん 政府 せいふ としてはドイツと開戦 かいせん したのであり、休戦 きゅうせん 後 ご の講和 こうわ 条件 じょうけん によって山東 さんとう 半島 はんとう の対 たい ドイツ租借 そしゃく 権 けん をドイツから継承 けいしょう したのち中華民国 ちゅうかみんこく に返還 へんかん する意向 いこう であると表明 ひょうめい したが(ただし、租借 そしゃく 地 ち の返還 へんかん 期限 きげん は明示 めいじ することはなく、パリ講和 こうわ 会議 かいぎ において日 にち 中 ちゅう 間 あいだ の直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう に持 も ち込 こ む意図 いと であった)、一方 いっぽう で中華民国 ちゅうかみんこく の主張 しゅちょう は対 たい 独 どく 租借 そしゃく 条約 じょうやく の文言 もんごん に「他国 たこく に譲渡 ゆずりわた せず」の文言 もんごん があり中華民国 ちゅうかみんこく に直接 ちょくせつ 返還 へんかん されなければならないとした[ 9] 。
欧州 おうしゅう では第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が継続 けいぞく 中 ちゅう であり、日本 にっぽん 政府 せいふ としてはドイツとの休戦 きゅうせん ・講和 こうわ が成立 せいりつ するまで山東 さんとう 膠 にかわ 州 しゅう 湾 わん のドイツ権益 けんえき を占領 せんりょう する必要 ひつよう があり、膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう や青島 ちんたお 税関 ぜいかん は日本 にっぽん が戦時 せんじ 接収 せっしゅう していた。軍事 ぐんじ 占領 せんりょう は権益 けんえき の帰属 きぞく を確定 かくてい させるものではなく、日本 にっぽん 政府 せいふ が一方 いっぽう 的 てき に中華民国 ちゅうかみんこく に返還 へんかん した場合 ばあい 、戦争 せんそう の推移 すいい や講和 こうわ 条件 じょうけん の如何 いか によっては日本 にっぽん 政府 せいふ がドイツあるいは中華民国 ちゅうかみんこく に対 たい して山東 さんとう の一方 いっぽう 的 てき 返還 へんかん について多額 たがく の賠償 ばいしょう 義務 ぎむ を負 お う可能 かのう 性 せい がある。また辛 からし 亥 い 革命 かくめい の成立 せいりつ 以降 いこう 、中華民国 ちゅうかみんこく 中央 ちゅうおう 政府 せいふ と日本 にっぽん 政府 せいふ との正式 せいしき な外交 がいこう 条約 じょうやく はいまだ締約 ていやく されておらず、過去 かこ の日 にち 清 しん 間 あいだ の諸 しょ 条約 じょうやく の継承 けいしょう 関係 かんけい は明確 めいかく でなく、とりわけ旅順 りょじゅん ・大連 たいれん の租借 そしゃく 権 けん が1923年 ねん に期限 きげん を迎 むか えること[ 注釈 ちゅうしゃく 4] は外交 がいこう 上 じょう の懸案 けんあん であった。
日本 にっぽん 政府 せいふ は袁世凱 大 だい 総統 そうとう と直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう することで事態 じたい の打開 だかい に動 うご いた。1914年 ねん 12月3日 にち 、加藤 かとう 高明 こうめい 外相 がいしょう は、駐 ちゅう 華 はな 公使 こうし 日置 ひおき 益 えき に対 たい 華 はな 要求 ようきゅう を訓令 くんれい し、翌 よく 1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )1月 がつ 18日 にち 、大隈 おおくま 重信 しげのぶ 内閣 ないかく (加藤 かとう 高明 こうめい 外務 がいむ 大臣 だいじん )は袁世凱 に5号 ごう 21か条 じょう の要求 ようきゅう を行 おこな った。主 おも に次 つぎ のような内容 ないよう であった[ 10] 。
第 だい 1号 ごう 山東 さんとう 省 しょう について
第 だい 2号 ごう 南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及 およ び東部 とうぶ 内 ない 蒙 こうむ 古 ふる について
旅順 りょじゅん ・大連 たいれん (関東 かんとう 州 しゅう )の租借 そしゃく 期限 きげん 、満 まん 鉄 てつ ・安 やす 奉 たてまつ 鉄道 てつどう の権益 けんえき 期限 きげん を99年 ねん に延長 えんちょう すること(旅順 りょじゅん ・大連 たいれん は1997年 ねん まで、満 まん 鉄 てつ ・安 やす 奉 たてまつ 鉄道 てつどう は2002年 ねん まで)
日本人 にっぽんじん に対 たい し、各種 かくしゅ 商 しょう 工業 こうぎょう 上 じょう の建物 たてもの の建設 けんせつ 、耕作 こうさく に必要 ひつよう な土地 とち の貸借 たいしゃく ・所有 しょゆう 権 けん を与 あた えること
日本人 にっぽんじん が南 みなみ 満 まん 洲 しゅう ・東部 とうぶ 内 ない 蒙 こうむ 古 ふる において自由 じゆう に居住 きょじゅう ・往来 おうらい したり、各種 かくしゅ 商 しょう 工業 こうぎょう などの業務 ぎょうむ に従事 じゅうじ することを許 ゆる すこと
日本人 にっぽんじん に対 たい し、指定 してい する鉱山 こうざん の採掘 さいくつ 権 けん を与 あた えること
他国 たこく 人 じん に鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 権 けん を与 あた えるとき、鉄道 てつどう 敷設 ふせつ のために他国 たこく から資金 しきん 援助 えんじょ を受 う けるとき、また諸税 しょぜい を担保 たんぽ として借款 しゃっかん を受 う けるときは日本 にっぽん 政府 せいふ の同意 どうい を得 え ること
政治 せいじ ・財政 ざいせい ・軍事 ぐんじ に関 かん する顧問 こもん 教官 きょうかん を必要 ひつよう とする場合 ばあい は日本 にっぽん 政府 せいふ に協議 きょうぎ すること
吉長 よしなが 鉄道 てつどう の管理 かんり ・経営 けいえい を99年間 ねんかん 日本 にっぽん に委任 いにん すること
第 だい 3号 ごう 漢 かん 冶萍公司 こうし (かんやひょうこんす:中華民国 ちゅうかみんこく 最大 さいだい の製鉄 せいてつ 会社 かいしゃ )について
漢 かん 冶萍公司 こうし を日 にち 中 ちゅう 合弁 ごうべん 化 か すること。また、中国 ちゅうごく 政府 せいふ は日本 にっぽん 政府 せいふ の同意 どうい なく同 どう 公司 こうし の権利 けんり ・財産 ざいさん などを処分 しょぶん しないようにすること。
漢 かん 冶萍公司 こうし に属 ぞく する諸 しょ 鉱山 こうざん 付近 ふきん の鉱山 こうざん について、同 どう 公司 こうし の承諾 しょうだく なくして他者 たしゃ に採掘 さいくつ を許可 きょか しないこと。また、同 どう 公司 こうし に直接的 ちょくせつてき ・間接 かんせつ 的 てき に影響 えいきょう が及 およ ぶおそれのある措置 そち を執 と る場合 ばあい は、まず同 どう 公司 こうし の同意 どうい を得 え ること
第 だい 4号 ごう 中国 ちゅうごく の領土 りょうど 保全 ほぜん について
第 だい 5号 ごう 中国 ちゅうごく 政府 せいふ の顧問 こもん として日本人 にっぽんじん を雇用 こよう すること、その他 た
中国 ちゅうごく 政府 せいふ に政治 せいじ 顧問 こもん 、経済 けいざい 顧問 こもん 、軍事 ぐんじ 顧問 こもん として有力 ゆうりょく な日本人 にっぽんじん を雇用 こよう すること
中国 ちゅうごく 内地 ないち の日本 にっぽん の病院 びょういん ・寺院 じいん ・学校 がっこう に対 たい して、その土地 とち 所有 しょゆう 権 けん を認 みと めること
これまでは日 にち 中 ちゅう 間 あいだ で警察 けいさつ 事故 じこ が発生 はっせい することが多 おお く、不快 ふかい な論争 ろんそう を醸 かも したことも少 すく なくなかったため、必要 ひつよう 性 せい のある地方 ちほう の警察 けいさつ を日 にち 中 ちゅう 合同 ごうどう とするか、またはその地方 ちほう の中国 ちゅうごく 警察 けいさつ に多数 たすう の日本人 にっぽんじん を雇用 こよう することとし、中国 ちゅうごく 警察 けいさつ 機関 きかん の刷新 さっしん 確立 かくりつ を図 はか ること[ 11]
一定 いってい の数量 すうりょう (中国 ちゅうごく 政府 せいふ 所有 しょゆう の半数 はんすう )以上 いじょう の兵器 へいき の供給 きょうきゅう を日本 にっぽん より行 おこな い、あるいは中国 ちゅうごく 国内 こくない に日 にち 中 ちゅう 合弁 ごうべん の兵器廠 へいきしょう を設立 せつりつ し、日本 にっぽん より技師 ぎし ・材料 ざいりょう の供給 きょうきゅう を仰 あお ぐこと
武 たけ 昌 あきら と九 きゅう 江 え を連絡 れんらく する鉄道 てつどう 、および南 みなみ 昌 あきら ・杭州 こうしゅう 間 あいだ 、南 みなみ 昌 あきら ・潮 うしお 州 しゅう 間 あいだ の鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 権 けん を日本 にっぽん に与 あた えること
福建 ふっけん 省 しょう における鉄道 てつどう ・鉱山 こうざん ・港湾 こうわん の設備 せつび (造船 ぞうせん 所 しょ を含 ふく む)に関 かん して、建設 けんせつ に外国 がいこく 資本 しほん を必要 ひつよう とする場合 ばあい はまず日本 にっぽん に協議 きょうぎ すること
中国 ちゅうごく において日本人 にっぽんじん の布教 ふきょう 権 けん を認 みと めること
このうち、日本 にっぽん 側 がわ が重視 じゅうし したのは第 だい 二 に 号 ごう 、なかんずく旅順 りょじゅん 大連 たいれん の租借 そしゃく 地 ち 期限 きげん の延長 えんちょう と満 まん 鉄 てつ 及 およ び安 やす 奉 たてまつ 線 せん の期限 きげん の延長 えんちょう であった[ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。
日本 にっぽん が中国 ちゅうごく に特殊 とくしゅ 利益 りえき を有 ゆう することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文 めいぶん あるいは黙示 もくし を以って承認 しょうにん していたが、ドイツは不承認 ふしょうにん でありアメリカの態度 たいど は明確 めいかく でなかった。3月8日 にち 、イギリスのグレイ 外相 がいしょう は加藤 かとう 外相 がいしょう に対 たい し、「自分 じぶん が非常 ひじょう に懸念 けねん しているのは、日 にち 中 ちゅう 問題 もんだい から生起 せいき すべき政治 せいじ 上 じょう の事態 じたい 進展 しんてん にある。ドイツが中国 ちゅうごく において盛 さか んに陰謀 いんぼう をたくましくしつつあるはもちろん事実 じじつ であって、中国 ちゅうごく をそそのかして日本 にっぽん の要求 ようきゅう に反抗 はんこう させるために百方 ひゃっぽう 手段 しゅだん を講 こう じつつあるのみならず、これによって日 にち 中 ちゅう 両国 りょうこく 間 あいだ に衝突 しょうとつ を見 み るようなことがあれば、ドイツの最 もっと も本懐 ほんかい とするところであろう。自分 じぶん は今回 こんかい の問題 もんだい について何 なに か質問 しつもん を受 う ける場合 ばあい 、できる限 かぎ り日本 にっぽん の要求 ようきゅう を支持 しじ して同盟 どうめい の友好 ゆうこう 関係 かんけい を全 まっと うしたい精神 せいしん である」と述 の べた[ 13] 。駐 ちゅう 日 にち 英 えい 大使 たいし グリーンは加藤 かとう 外相 がいしょう に、中国 ちゅうごく 側 がわ の態度 たいど はまことに了解 りょうかい しがたい、駐 ちゅう 華 はな 英 えい 公使 こうし は日 にち 中 ちゅう 両国 りょうこく が不幸 ふこう な衝突 しょうとつ を見 み るに至 いた らないよう、北京 ぺきん 政府 せいふ に注意 ちゅうい しており、袁世凱 大 だい 総統 そうとう に直接 ちょくせつ 申 もう しいれてもいる、と語 かた っている。
日本 にっぽん の要求 ようきゅう 書 しょ を受 う けとった袁世凱 は、即答 そくとう を避 さ け、ポール・ラインシュ 米 べい 公使 こうし やヒンツェ独 どく 公使 こうし らと緊密 きんみつ な連絡 れんらく をとり、相 あい 計 はか って国内 こくない 世論 せろん を沸騰 ふっとう させ、外国 がいこく に対 たい しては、日本 にっぽん の要求 ようきゅう を誇大 こだい に吹聴 ふいちょう して列国 れっこく の対 たい 日 にち 反感 はんかん を挑発 ちょうはつ した。在中 ざいちゅう ドイツ系 けい 機関 きかん 紙 し である北京 ぺきん ガゼットや独 どく 華 はな 日報 にっぽう は山東 さんとう 問題 もんだい に関 かん する袁世凱との直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう を攻撃 こうげき しはじめ、20余 あまり 紙 し はドイツの新任 しんにん 公使 こうし ヒンツェに買収 ばいしゅう されたなどと言 い われた[ 14] 。排日 はいにち 派 は や宣教師 せんきょうし らは日本 にっぽん 軍 ぐん の暴行 ぼうこう を喧伝 けんでん し日本 にっぽん 軍 ぐん の撤兵 てっぺい を要求 ようきゅう した[ 15] とされる。
アメリカは第 だい 1号 ごう 第 だい 2号 ごう 第 だい 3号 ごう については抗議 こうぎ する意図 いと なく、あるいは敢て反対 はんたい しない態度 たいど を日本 にっぽん 政府 せいふ に提示 ていじ したが[ 16] 、第 だい 4号 ごう 第 だい 5号 ごう に関 かん しては明確 めいかく に反対 はんたい であり、とりわけウィルソンの関心 かんしん は第 だい 5号 ごう に集中 しゅうちゅう していた。大隈 おおくま 内閣 ないかく は3月 がつ 15日 にち に日本 にっぽん 側 がわ に提示 ていじ されたこの対 たい 日 にち 覚書 おぼえがき の意図 いと を正 ただ しく理解 りかい することができず、第 だい 5号 ごう に関 かん して米国 べいこく は「左 ひだり シテ重 じゅう キを措カサルモノ」と判断 はんだん し安易 あんい に対 たい 華 はな 強硬 きょうこう 策 さく に転 てん じたことは、4月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 以降 いこう のアメリカの極東 きょくとう 政策 せいさく に影響 えいきょう をあたえることになった。
会談 かいだん の初期 しょき 、中国 ちゅうごく 側 がわ は会議 かいぎ 遷延 せんえん 策 さく をとっていたが、2月 がつ 6日 にち には、第 だい 1号 ごう 、第 だい 2号 ごう に関 かん し十分 じゅうぶん に考慮 こうりょ し、第 だい 2号 ごう は吉長 よしなが 線 せん に関 かん することを除 のぞ きできる限 かぎ り譲歩 じょうほ すると返答 へんとう した。ただ、第 だい 5号 ごう については応 おう じられないという姿勢 しせい であった。また中国 ちゅうごく 側 がわ は、第 だい 2号 ごう の第 だい 2条 じょう と第 だい 3条 じょう は南 みなみ 満 まん 洲 しゅう についてだけ認 みと め、東 ひがし 蒙 こうむ 古 いにしえ を除外 じょがい しようとしたが、日本 にっぽん 側 がわ は、東部 とうぶ 内 ない 蒙 こうむ 古 いにしえ は、地理 ちり 上南 かみな 満 まん 洲 しゅう と分離 ぶんり できない一 いち 地域 ちいき を形成 けいせい し、歴史 れきし 上 じょう 、行政 ぎょうせい 上 じょう 、経済 けいざい 上 じょう ならびに交通 こうつう 上 じょう 、互 たが いに密接 みっせつ な関係 かんけい を有 ゆう しており、また1912年 ねん の露 つゆ 蒙 こうむ 協定 きょうてい 付属 ふぞく 通商 つうしょう 議定 ぎてい 書 しょ において、第 だい 1条 じょう は「ロシア人 じん は蒙 こうむ 古内 ふるうち において随所 ずいしょ に居住 きょじゅう し、自由 じゆう に移転 いてん し、商 しょう 工業 こうぎょう その他 た の業務 ぎょうむ に従事 じゅうじ できる」、第 だい 6条 じょう は「ロシア人 じん は蒙 こうむ 古 いにしえ の随所 ずいしょ で商 しょう 工業 こうぎょう 上 じょう の経営 けいえい 所 しょ を創設 そうせつ し、諸 しょ 家屋 かおく 、店舗 てんぽ および倉庫 そうこ を建設 けんせつ するため、指定 してい 地 ち を賃借 ちんしゃく することができる」となっており、日本 にっぽん に対 たい してこれと同 おな じことを東 ひがし 蒙 こうむ 古 いにしえ で認 みと めないのは到底 とうてい 承認 しょうにん できない、と主張 しゅちょう した[ 13] 。
3月3日 にち 、日置 ひおき 公使 こうし は第 だい 6回 かい 会議 かいぎ で、「元来 がんらい 、革命 かくめい の乱 らん が勃発 ぼっぱつ した当時 とうじ 、シナの大半 たいはん は粉々 こなごな としてあたかも鼎 かなえ の沸 わ くような情勢 じょうせい であったにもかかわらず、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう と東部 とうぶ 蒙 こうむ 古 いにしえ が乱 らん 離 はなれ の禍 わざわい から免 まぬか れえたのは、まったく日本 にっぽん が何 なん らの野心 やしん をも抱 いだ かないで、終始 しゅうし 公明正大 こうめいせいだい な態度 たいど を持 もた し、努 つと めてこの両 りょう 地方 ちほう の秩序 ちつじょ 維持 いじ に留意 りゅうい したことと、日本 にっぽん がこの方面 ほうめん において特殊 とくしゅ の地位 ちい を保有 ほゆう していた結果 けっか にほかならない。もし万一 まんいち 、日本 にっぽん がこの機会 きかい に乗 じょう じてある種 しゅ の行動 こうどう をとった場合 ばあい には、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう も東 ひがし 蒙 こうむ もあるいは今日 きょう の外 そと 蒙 こうむ 古 ふる と同様 どうよう の運命 うんめい に遭遇 そうぐう したかもわからない。ついては日本 にっぽん 国 こく のこの公明正大 こうめいせいだい な心事 しんじ とその優越 ゆうえつ する特殊 とくしゅ 地位 ちい に顧 かえり みて、中国 ちゅうごく 政府 せいふ は速 すみ やかに満蒙 まもう におけるわが優越 ゆうえつ なる地位 ちい を確認 かくにん し、第 だい 2号 ごう から東 ひがし 蒙 こうむ を除外 じょがい する考 かんが えを翻 ひるがえ してほしい」と述 の べた。全権 ぜんけん の陸 りく 徴 しるし 祥 さち 外交 がいこう 総長 そうちょう は「革命 かくめい の乱 らん 当時 とうじ における事情 じじょう 、ならびに日本 にっぽん 国 こく の態度 たいど は、まことに貴 とうと 説 せつ の通 とお りである。これらの事情 じじょう からして中国 ちゅうごく は、今回 こんかい 南 みなみ 満 まん 洲 しゅう に関 かん し条約 じょうやく 締結 ていけつ の商議 しょうぎ に応 おう ずる次第 しだい である」と答 こた えた[ 13] 。
5号 ごう 条項 じょうこう は秘密 ひみつ ・希望 きぼう 条項 じょうこう とされていたがただちにリークされ、報道 ほうどう は中国 ちゅうごく 側 がわ が21ヶ条 かじょう 要求 ようきゅう を突 つ きつけられたと喧伝 けんでん し、国際 こくさい 的 てき 、主 おも にアメリカからの批判 ひはん を浴 あ びた。日本 にっぽん は5号 ごう 条項 じょうこう を後 のち に撤回 てっかい した[ 19] 。中国 ちゅうごく 国内 こくない でも反対 はんたい 運動 うんどう が起 お こったが、中国 ちゅうごく 側 がわ に日本 にっぽん 軍 ぐん を実力 じつりょく で排除 はいじょ する力 ちから は無 な く、日本 にっぽん 側 がわ は5月7日 にち に最終 さいしゅう 通告 つうこく を行 おこな い、同 どう 9日 にち に袁政権 けん は要求 ようきゅう を受 う け入 い れた。袁世凱は自己 じこ の地位 ちい を強固 きょうこ にするために、日本 にっぽん の横暴 おうぼう を内外 ないがい に宣伝 せんでん して中国 ちゅうごく 国民 こくみん の団結 だんけつ を訴 うった えた。中国 ちゅうごく 国民 こくみん はこれを非難 ひなん し、要求 ようきゅう を受諾 じゅだく した日 ひ (5月 がつ 9日 にち )を「国 くに 恥 はじ 記念 きねん 日 び 」と呼 よ んだ。
アメリカ は、満 まん 洲 しゅう における租借 そしゃく 地 ち と鉄道 てつどう の租借 そしゃく 期限 きげん 延長 えんちょう に対 たい しては、特別 とくべつ の反対 はんたい はなかったが、山東 さんとう 省 しょう を満 まん 洲 しゅう と同様 どうよう な日本 にっぽん の勢力 せいりょく 範囲 はんい とすることに対 たい しては絶対 ぜったい 反対 はんたい であった。イギリス も、満 まん 洲 しゅう における租借 そしゃく 地 ち と鉄道 てつどう の租借 そしゃく 期限 きげん の延長 えんちょう には賛成 さんせい 協力 きょうりょく したが、長城 ちょうじょう 以南 いなん においては最大 さいだい の競争 きょうそう 相手 あいて と考 かんが える日本 にっぽん を強 つよ く警戒 けいかい し、第 だい 5号 ごう 案 あん を同盟 どうめい 国 こく にも秘密 ひみつ にしたことで不信 ふしん 感 かん を強 つよ くし、武 たけ 昌 あきら ・九 きゅう 江間 えま の鉄道 てつどう 、南 みなみ 昌 あきら ・潮 うしお 州 しゅう 間 あいだ の鉄道 てつどう に関 かん する要求 ようきゅう に対 たい しては、イギリスの利益 りえき を侵害 しんがい するものとして、3月 がつ 10日 とおか に日本 にっぽん 政府 せいふ に考慮 こうりょ を求 もと めた[ 20] 。
アメリカは3月15日 にち に、日本 にっぽん の提案 ていあん 第 だい 1号 ごう と第 だい 2号 ごう とはこれを問題 もんだい にする考 かんが えはないという書簡 しょかん を送 おく ってきたが[ 16] 、5月6日 にち 、ブライアン 国務 こくむ 長官 ちょうかん は、英 えい 仏 ふつ 露 ろ 三 さん 国 こく に呼 よ びかけて日 にち 中 ちゅう 両国 りょうこく に協同 きょうどう 干渉 かんしょう をするよう提議 ていぎ して、三 さん 国 こく 当局 とうきょく から拒絶 きょぜつ されると、5月13日 にち 、中国 ちゅうごく の領土 りょうど 保全 ほぜん 、門戸 もんこ 開放 かいほう の原則 げんそく 、および中国 ちゅうごく におけるアメリカやアメリカ人 じん の権利 けんり と抵触 ていしょく する条約 じょうやく ・協定 きょうてい ・了解 りょうかい はすべて、アメリカとして承認 しょうにん しない、と通告 つうこく した。
5月7日 にち 、イギリスのグレイ 外相 がいしょう は駐 ちゅう 英 えい 井上 いのうえ 勝之助 かつのすけ 大使 たいし に対 たい し、「北京 ぺきん 政府 せいふ が強硬 きょうこう に反対 はんたい してきたのは主 しゅ として第 だい 5号 ごう の各項 かくこう であるが、日本 にっぽん がこれを本 ほん 交渉 こうしょう から引 ひ き離 はな したことは日本 にっぽん 側 がわ の大 おお きな譲歩 じょうほ といえる。北京 ぺきん 政府 せいふ は速 すみ やかにこれを受諾 じゅだく して、時局 じきょく の妥協 だきょう を計 はか ることが得策 とくさく である旨 むね を、駐 ちゅう 華 はな 公使 こうし に自分 じぶん の勧告 かんこく として述 の べておいた」と述 の べ、また5月 がつ 10日 とおか 、「5月 がつ 7日 にち 朝 あさ ジョルダン 公使 こうし に電報 でんぽう して、日本 にっぽん の最後 さいご の提案 ていあん は非常 ひじょう に寛大 かんだい であるから直 ただ ちにこれを承諾 しょうだく し、妥協 だきょう を図 はか るほうが利益 りえき である旨 むね 、非公式 ひこうしき に強 つよ い勧告 かんこく を与 あた えるよう訓令 くんれい した」と述 の べた。一方 いっぽう 、ロシア のマレヴィッチ 大使 たいし は5月6日 にち 、「充分 じゅうぶん 了解 りょうかい した。真 しん に今度 こんど のご措置 そち は賢明 けんめい なる方法 ほうほう と考 かんが える。必 かなら ずや北京 ぺきん 政府 せいふ は承諾 しょうだく するだろう。袁世凱 は最後 さいご 通牒 つうちょう を待 ま っているものと思 おも われる」と加藤 かとう 高明 こうめい 外相 がいしょう に述 の べた。さらに、日本 にっぽん の対 たい 華 はな 21カ条 かじょう 要求 ようきゅう に対 たい し特 とく に異議 いぎ のなかったフランス に、石井 いしい 菊次郎 きくじろう 大使 たいし が最後 さいご 通牒 つうちょう の説明 せつめい を行 おこな った際 さい 、デルカッセ 仏 ふつ 外相 がいしょう は「今更 いまさら 内容 ないよう をうかがうまでもなく、貴国 きこく の成功 せいこう を祝 しゅく す」と述 の べた[ 13] 。
小池 こいけ 張 ちょう 造 づくり (1873-1921) 明治 めいじ -大正 たいしょう 時代 じだい の外交 がいこう 官 かん 。加藤 かとう 高明 こうめい 外相 がいしょう 秘書官 ひしょかん などをへて、ニューヨーク・奉天 ほうてん などの総領事 そうりょうじ をつとめる。大正 たいしょう 2年 ねん 外務省 がいむしょう 政務 せいむ 局長 きょくちょう となり、加藤 かとう 外相 がいしょう のもとで対 たい 華 はな 二 に 十 じゅう 一 いち ヵ条 かじょう 要求 ようきゅう の原案 げんあん 作成 さくせい にあたった。のち久原 くはら 本店 ほんてん 理事 りじ 。福島 ふくしま 県 けん 出身 しゅっしん 。東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 卒 そつ 。
一方 いっぽう 、孫 まご 文 ぶん は3月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、外務省 がいむしょう の小池 こいけ 張 ちょう 造 づくり に書簡 しょかん を送 おく り、日 にち 中 ちゅう 盟約 めいやく 案 あん として提案 ていあん した。その内容 ないよう は第 だい 五 ご 号 ごう の4、5、6条 じょう の趣旨 しゅし に符合 ふごう するものであった。まだ日本 にっぽん に期待 きたい していた孫 まご 文 ぶん にとって、苦渋 くじゅう の選択 せんたく だった。また、進歩 しんぽ 派 は 知識 ちしき 人 じん の代表 だいひょう 格 かく であった吉野 よしの 作造 さくぞう は「事 こと ここに至 いた れば最後 さいご 通牒 つうちょう を発 はっ するの他 ほか にとるべき手段 しゅだん はない」と断 だん じた。
この要求 ようきゅう の草案 そうあん は非常 ひじょう に短時間 たんじかん で作 つく られたものであり、要求 ようきゅう は希望 きぼう 条項 じょうこう を除 のぞ いて、現在 げんざい から、過去 かこ に起 お こった事項 じこう に関 かん する事 こと へと順 じゅん に遡 さかのぼ って記述 きじゅつ されるという特徴 とくちょう 的 てき な構成 こうせい となっている。
交渉 こうしょう の結果 けっか 、第 だい 5号 ごう 希望 きぼう 条項 じょうこう は棚上 たなあ げされ最終 さいしゅう 的 てき には十 じゅう 六 ろく ヶ条 かじょう が5月25日 にち 、2条約 じょうやく および13交換 こうかん 公文 こうぶん として結 むす ばれた。
山東 さんとう 省 しょう に関 かん する条約 じょうやく
山東 さんとう 省 しょう 不 ふ 割譲 かつじょう に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
山東 さんとう 省 しょう に於 お ける都市 とし 開放 かいほう に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に関 かん する条約 じょうやく
旅順 りょじゅん 大連 たいれん の租借 そしゃく 期限 きげん 並 なみ に南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 及安奉 たてまつ 鉄道 てつどう の期限 きげん 等 とう に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
東部 とうぶ 内 ない 蒙 こうむ 古 いにしえ に於 お ける都市 とし 開放 かいほう に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう に於 お ける鉱山 こうざん 採掘 さいくつ 権 けん に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に於 お ける鉄道 てつどう 又 また は各種 かくしゅ 税 ぜい 課 か に対 たい する借款 しゃっかん に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう に於 お ける外国 がいこく 顧問 こもん 教官 きょうかん に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に関 かん する条約 じょうやく 第 だい 二 に 条 じょう に規定 きてい する商 しょう 租の解釈 かいしゃく に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に関 かん する条約 じょうやく 第 だい 五 ご 条 じょう に規定 きてい する日本国 にっぽんこく 臣民 しんみん の服従 ふくじゅう すべき警察 けいさつ 法令 ほうれい 及課税 かぜい の決定 けってい に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に関 かん する条約 じょうやく 第 だい 二 に 条 じょう 乃至 ないし 第 だい 五 ご 条 じょう の実施 じっし 延期 えんき に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
漢 かん 冶萍公司 こうし に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
膠 にかわ 洲 しゅう 湾 わん 租借 そしゃく 地 ち に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
福建 ふっけん 省 しょう に関 かん する交換 こうかん 公文 こうぶん
締結 ていけつ 直後 ちょくご の6月 がつ 22日 にち に中華民国 ちゅうかみんこく は懲弁国賊 こくぞく 条例 じょうれい を公布 こうふ した。これは外国 がいこく 人 じん に土地 とち を貸 か したものは公開 こうかい 裁判 さいばん なしに死刑 しけい に処 しょ すもので、土地 とち 商 しょう 租権は調印 ちょういん と同時 どうじ に早 はや くも空文 くうぶん と化 か し、中国 ちゅうごく は条約 じょうやく に違反 いはん した[ 21] [ 22] 。中国 ちゅうごく の門戸 もんこ 開放 かいほう (Open door)を唱 とな えるアメリカは、日本 にっぽん の対 たい 中 ちゅう 政策 せいさく との妥協 だきょう 点 てん を求 もと め、1917年 ねん に石井 いしい ・ランシング協定 きょうてい を結 むす んだ。1919年 ねん 、大戦 たいせん 後 ご のパリ講和 こうわ 会議 かいぎ でも日本 にっぽん の要求 ようきゅう が認 みと められたが、中国 ちゅうごく 国内 こくない では学生 がくせい デモを発端 ほったん に各地 かくち でストライキが起 お こり、軍閥 ぐんばつ 政権 せいけん は屈服 くっぷく しヴェルサイユ条約 じょうやく の調印 ちょういん を拒絶 きょぜつ した(五 ご 四 よん 運動 うんどう )。日本 にっぽん の中国 ちゅうごく 政策 せいさく を批判 ひはん する国際 こくさい (特 とく にアメリカの)世論 せろん が高 たか まり、ワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく の場 ば を借 か りた二 に 国 こく 間 あいだ 協議 きょうぎ で山東 さんとう 懸案 けんあん 解決 かいけつ に関 かん する条約 じょうやく が締結 ていけつ され、日本 にっぽん は守備 しゅび 兵 へい を撤兵 てっぺい し、膠 にかわ 州 しゅう 湾 わん 租借 そしゃく 地 ち 、膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう などを返還 へんかん したが、膠 にかわ 済 ずみ 鉄道 てつどう は日本 にっぽん の借款 しゃっかん 鉄道 てつどう となり、同 どう 鉄道 てつどう 沿線 えんせん の鉱山 こうざん は日 にち 中 ちゅう 合弁 ごうべん 会社 かいしゃ の経営 けいえい となるなど、山東 さんとう 省 しょう において名義 めいぎ のうえで一定 いってい の権益 けんえき を確保 かくほ した(中国 ちゅうごく 官憲 かんけん による権益 けんえき 侵害 しんがい や民衆 みんしゅう を動員 どういん した抗日 こうにち 運動 うんどう により実施 じっし されなかった)。
孫 まご 文 ぶん は、「21ヶ条 かじょう 要求 ようきゅう は、袁世凱自身 じしん によって起草 きそう され、要求 ようきゅう された策略 さくりゃく であり、皇帝 こうてい であることを認 みと めてもらうために、袁が日本 にっぽん に支払 しはら った代償 だいしょう である」、と断言 だんげん した。また、加藤 かとう 高明 こうめい 外相 がいしょう は、最後 さいご 通牒 つうちょう は、譲歩 じょうほ する際 さい に中国 ちゅうごく 国民 こくみん に対 たい して袁の顔 かお を立 た てるために、袁に懇願 こんがん されたものである、と公然 こうぜん と認 みと めた。さらに、アメリカ公使 こうし ポール・ラインシュ (Paul S. Reinsch)の国務省 こくむしょう への報告 ほうこく 書 しょ には、「中国 ちゅうごく 側 がわ は、譲歩 じょうほ すると約束 やくそく したよりも要求 ようきゅう がはるかに少 すく なかったので、最後 さいご 通牒 つうちょう の寛大 かんだい さに驚 おどろ いた」とある[ 23] 。最後 さいご 通牒 つうちょう の手交 しゅこう を必要 ひつよう としない状況 じょうきょう において最後 さいご 通牒 つうちょう を強行 きょうこう したことは、中国 ちゅうごく 国民 こくみん の民族 みんぞく 主義 しゅぎ を軽視 けいし した日本 にっぽん 外交 がいこう の失敗 しっぱい であった[ 20] 。
この外交 がいこう 交渉 こうしょう により、2条約 じょうやく 13交換 こうかん 公文 こうぶん にまとめられたもののうち南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に関 かん する条約 じょうやく など満蒙 まもう 問題 もんだい に関 かん する重要 じゅうよう な取 と り決 き めがなされ、満 まん 洲 しゅう 善後 ぜんご 条約 じょうやく や満 まん 洲 しゅう 協約 きょうやく 、北京 ぺきん 議定 ぎてい 書 しょ ・日 にち 清 しん 追加 ついか 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく などを含 ふく め日本 にっぽん の中国 ちゅうごく 特殊 とくしゅ 権益 けんえき が条約 じょうやく 上 じょう 固定 こてい された。日本 にっぽん と中華民国 ちゅうかみんこく によるこれら条約 じょうやく の継続 けいぞく 有効 ゆうこう (日本 にっぽん )と破棄 はき 無効 むこう (中国 ちゅうごく )をめぐる争 あらそ いが宣戦 せんせん 布告 ふこく なき戦争 せんそう [ 注釈 ちゅうしゃく 6] へ導 みちび くこととなる。
のち、第 だい 二 に 次 じ 北 きた 伐 き を開始 かいし した中華民国 ちゅうかみんこく 蒋介石 しょうかいせき 政府 せいふ は1928年 ねん 7月 がつ 19日 にち に日 にち 清 しん 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の一方 いっぽう 的 てき 破棄 はき を宣言 せんげん し日本 にっぽん 政府 せいふ はその無効 むこう を主張 しゅちょう することとなる。また1915年 ねん の懲弁国賊 こくぞく 条例 じょうれい は1929年 ねん に強化 きょうか され「土地 とち 盗 ぬすめ 売 うり 厳禁 げんきん 条例 じょうれい 」「商 しょう 租禁止 きんし 令 れい 」などおよそ59の追加 ついか 法令 ほうれい となり、日本人 にっぽんじん に対 たい する土地 とち ・家屋 かおく の商 しょう 租禁止 きんし と従前 じゅうぜん に貸借 たいしゃく している土地 とち ・家屋 かおく の回収 かいしゅう が図 はか られた[ 25] 。間島 まじま や満 まん 洲 しゅう 各地 かくち の朝鮮 ちょうせん 系 けい を中心 ちゅうしん とした日本人 にっぽんじん 居住 きょじゅう 者 しゃ は立 た ち退 の きを強要 きょうよう されあるいは迫害 はくがい された。このことは満 まん 洲 しゅう 事変 じへん の大 おお きな要因 よういん となる。
いわゆる「対 たい 華 はな 21カ条 かじょう 要求 ようきゅう 」と呼 よ ばれる一連 いちれん の外交 がいこう 交渉 こうしょう について、正式 せいしき な名称 めいしょう は存在 そんざい しない。1915年 ねん 当時 とうじ の報道 ほうどう では「対 たい 支 ささえ (那 な )交渉 こうしょう 」「山東 さんとう 問題 もんだい 」「山東 さんとう (善後 ぜんご )処分 しょぶん 」[ 14] あるいは「要求 ようきゅう 二 に 十 じゅう 一 いち 条 じょう 」「重要 じゅうよう 条件 じょうけん 二 に 十 じゅう 一 いち 款」[ 26] 「五 ご 項 こう 二 に 十 じゅう 一 いち 箇条 かじょう 」[ 27] などと記述 きじゅつ している。
したがって次 つぎ のようない方 いかた は、いずれも"通称 つうしょう "でありいずれが正式 せいしき な表記 ひょうき というものはない。
「対 たい 華 はな 」、「対 たい 支 ささえ 」、「対 たい 中 ちゅう 」、または入 い れないか
「5号 ごう 」、「五 ご 号 ごう 」、または入 い れないか(横書 よこが きならば数字 すうじ が、縦 たて 書 が きならば漢 かん 数字 すうじ が、それぞれ使 つか われることが多 おお い)
「21」、「二 に 十 じゅう 一 いち 」、「二 に 一 いち 」(横書 よこが きならば数字 すうじ が、縦 たて 書 が きならば漢 かん 数字 すうじ が、それぞれ使 つか われることが多 おお い)
「か条 じょう 」、「ヵ条 かじょう 」、「カ条 かじょう 」、「ヶ条 かじょう 」、「ケ条 かじょう 」、「箇条 かじょう 」、「個条 かじょう 」、「条 じょう 」
「の要求 ようきゅう 」、「要求 ようきゅう 」、または入 い れないか
ちなみに、岩波書店 いわなみしょてん から出版 しゅっぱん されている4つの年表 ねんぴょう (いずれも横書 よこが き)を見 み るだけでも、「5号 ごう 21か条 じょう の要求 ようきゅう 」(『近代 きんだい 日本 にっぽん 総合 そうごう 年表 ねんぴょう 第 だい 四 よん 版 はん 』2001年 ねん )、「対 たい 華 はな 21か条 じょう 要求 ようきゅう 」(『世界 せかい 史 し 年表 ねんぴょう 第 だい 二 に 版 はん 』2001年 ねん )、「対 たい 華 はな 21か条 じょう の要求 ようきゅう 」(『日本 にっぽん 史 し 年表 ねんぴょう 第 だい 四 よん 版 はん 』2001年 ねん )、「対 たい 中 ちゅう 21ヵ条 かじょう 要求 ようきゅう 」(『近代 きんだい 日 び 中 ちゅう 関係 かんけい 史 し 年表 ねんぴょう 』2006年 ねん )と、表現 ひょうげん はまるでばらばらである。原 はら 敬 たかし は自伝 じでん の『原 はら 敬 たかし 日記 にっき 』にて「日 ひ 支 ささえ 条約 じょうやく 」と表記 ひょうき している。
2000年代 ねんだい の中学校 ちゅうがっこう で扱 あつか われる文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 検定 けんてい 済 ずみ 教科書 きょうかしょ で掲載 けいさい されているものには、『21か条 じょう の要求 ようきゅう 』、『二 に 十 じゅう 一 いち か条 じょう の要求 ようきゅう 』、『二 に 十 じゅう 一 いち か条 じょう 要求 ようきゅう 』と表記 ひょうき されている場合 ばあい が多 おお い[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。
^ 1917年 ねん 8月 がつ 14日 にち にドイツ・オーストリアに宣戦 せんせん 布告 ふこく 。
^ 伝統 でんとう 的 てき 国際 こくさい 法 ほう においては、交戦 こうせん 国 こく 以外 いがい の中立 ちゅうりつ 国 こく には一連 いちれん の義務 ぎむ があり、中立 ちゅうりつ 国 こく の領域 りょういき および領水 りょうすい は、交戦 こうせん 国 こく の敵対 てきたい ・作戦 さくせん 行為 こうい が禁止 きんし された非 ひ 交戦 こうせん 区域 くいき であり、中立 ちゅうりつ 国 こく には交戦 こうせん の防止 ぼうし や排除 はいじょ の役割 やくわり が求 もと められる。陸戦 りくせん ノ場合 ばあい ニ於ケル中立 ちゅうりつ 国 こく 及中立 ちゅうりつ 人 じん ノ権利 けんり 義務 ぎむ ニ関 せき スル条約 じょうやく 第 だい 一 いち 条 じょう には「中立 ちゅうりつ 国 こく の領土 りょうど は不可侵 ふかしん とす」と、中立 ちゅうりつ 国 こく のみならず交戦 こうせん 国 こく も拘束 こうそく される内容 ないよう になっている。しかし実際 じっさい の戦史 せんし ではこの中立 ちゅうりつ 国 こく の権利 けんり 義務 ぎむ はしばしば有効 ゆうこう に機能 きのう せず、第三国 だいさんごく の領域 りょういき が攻撃 こうげき 対象 たいしょう とされ、あるいは交戦 こうせん 区域 くいき に取 と り込 こ まれるかはほとんど武力 ぶりょく 紛争 ふんそう 当事 とうじ 者 しゃ の判断 はんだん に委 ゆだ ねられている[ 6] 。
^ 中立 ちゅうりつ 国 こく には公平 こうへい 義務 ぎむ があり、交戦 こうせん 当事 とうじ 国 こく の一方 いっぽう に便宜 べんぎ を提供 ていきょう しない回避 かいひ 義務 ぎむ を負 お う[ 7] 。ただし、陸戦 りくせん ノ場合 ばあい ニ於ケル中立 ちゅうりつ 国 こく 及中立 ちゅうりつ 人 じん ノ権利 けんり 義務 ぎむ ニ関 せき スル条約 じょうやく 第 だい 7条 じょう によれば、中立 ちゅうりつ 国 こく に武器 ぶき 弾薬 だんやく を含 ふく む物資 ぶっし の輸出 ゆしゅつ や通過 つうか を阻止 そし する義務 ぎむ は無 な い。
^ 1898年 ねん に「旅順 りょじゅん (港 みなと )大連 たいれん (湾 わん )租借 そしゃく に関 かん する条約 じょうやく 」でロシアに租借 そしゃく 、1905年 ねん のポーツマス条約 じょうやく で日本 にっぽん に譲渡 じょうと 。
^ 加藤 かとう 外相 がいしょう によれば「自分 じぶん が要求 ようきゅう の眼目 がんもく としたのは、第 だい 二 に 号 ごう 、就中 なかんづく 、旅順 りょじゅん ・大連 たいれん の租借 そしゃく 地 ち 期限 きげん 延長 えんちょう と、同 おな じく満 まん 鉄 てつ 及 およ び安 やす 奉 たてまつ 線 せん の期限 きげん 延長 えんちょう とであった。それから、満蒙 まもう の鉄道 てつどう ・鉱山 こうざん に関 かん する利権 りけん 問題 もんだい についても、後日 ごじつ 紛糾 ふんきゅう の種子 しゅし となるようなものを全部 ぜんぶ 解決 かいけつ する積 つも り」であり大隈 おおくま 内閣 ないかく が達成 たっせい しようとした目標 もくひょう であった[ 12]
^ モーゲンソー日記 にっき によれば、ルーズベルト大統領 だいとうりょう は「結局 けっきょく 、イタリアと日本 にっぽん が宣戦 せんせん 布告 ふこく せず交戦 こうせん する技術 ぎじゅつ を進化 しんか させてきたとすれば、なぜ我々 われわれ は同様 どうよう の技術 ぎじゅつ を開発 かいはつ できないのか」と語 かた ったとされる[ 24] 。
^ 『中学 ちゅうがく 社会 しゃかい 歴史 れきし 』(文部省 もんぶしょう 検定 けんてい 済 ずみ 教科書 きょうかしょ 。中学校 ちゅうがっこう 社会 しゃかい 科 か 用 よう 。教育 きょういく 出版 しゅっぱん 株式会社 かぶしきがいしゃ 。平成 へいせい 10年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 発行 はっこう )p 224には、『21か条 じょう の要求 ようきゅう 』と表記 ひょうき されている。『新 あたら しい社会 しゃかい 歴史 れきし 』(文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 検定 けんてい 済 ずみ 教科書 きょうかしょ 。中学校 ちゅうがっこう 社会 しゃかい 科 か 用 よう 。東京書籍 とうきょうしょせき 株式会社 かぶしきがいしゃ 。平成 へいせい 16年 ねん 2月 がつ 10日 とおか 発行 はっこう )p 156、『社会 しゃかい 科 か 中学生 ちゅうがくせい の歴史 れきし 』(文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 検定 けんてい 済 ずみ 教科書 きょうかしょ 。中学校 ちゅうがっこう 社会 しゃかい 科 か 用 よう 。株式会社 かぶしきがいしゃ 帝国 ていこく 書院 しょいん 。平成 へいせい 20年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 発行 はっこう )p 188には、『二 に 十 じゅう 一 いち か条 じょう の要求 ようきゅう 』と表記 ひょうき されている。『日本 にっぽん 史 し B 新 しん 訂 てい 版 ばん 』(文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 検定 けんてい 済 ずみ 教科書 きょうかしょ 。高等 こうとう 学校 がっこう 地理 ちり 歴史 れきし 科 か 用 よう 。実教出版 じつきょうしゅっぱん 株式会社 かぶしきがいしゃ 。平成 へいせい 14年 ねん 1月 がつ 25日 にち 発行 はっこう )p 288には、『二 に 十 じゅう 一 いち か条 じょう 要求 ようきゅう 』と表記 ひょうき されている。