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塘沽協定きょうてい

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塘沽協定きょうてい
塘沽協定きょうてい交渉こうしょう
通称つうしょう略称りゃくしょう 塘沽停戦ていせん協定きょうてい
署名しょめい 1933ねん昭和しょうわ8ねん5月31にち
署名しょめい場所ばしょ 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく 塘沽(タンクー、拼音: Tánggū:タングー)
締約ていやくこく 日本の旗 日本にっぽん
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
おも内容ないよう まんしゅう事変じへん停戦ていせん協定きょうてい
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塘沽協定きょうてい(タンクーきょうてい)は、1933ねん昭和しょうわ8ねん5月31にちに、河北かほくしょう塘沽(タンクー、拼音: Tánggū:タングー)において日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐんとのあいだ締結ていけつされた停戦ていせん協定きょうていである。

これによりやなぎじょうみずうみ事件じけんはじまるまんしゅう事変じへん軍事ぐんじてき衝突しょうとつ停止ていしされた。塘沽停戦ていせん協定きょうていともばれる。

背景はいけい

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ねつかわしょう位置付いちづ

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ねつかわしょう位置いち

ねつかわ清朝せいちょうなつ別邸べってい地域ちいきとして歴史れきしじょう有名ゆうめいであるとともにまんしゅう中国ちゅうごく本土ほんどあいだにくさびのように存在そんざいし、そのせま終端しゅうたん山海さんかいせきうみかっていた[1]。このまんしゅうこく建国けんこく宣言せんげんではまんしゅうこく一部いちぶとされ、塘沽協定きょうてい締結ていけつされた当時とうじ、その山間さんかん北京ぺきんふく中国ちゅうごく北部ほくぶ威圧いあつする場所ばしょとしても、あるいはまんしゅう軍隊ぐんたい扇動せんどうプロパガンダ工作こうさくいんおく場所ばしょとしても重要じゅうようであり、またアヘン栽培さいばいによる収益しゅうえき当地とうち価値かちたかめ、その地理ちりじょう位置いち戦略せんりゃくてき政治せいじてき重要じゅうようなものとなっていた[1]

この支配しはいしていた湯玉ゆたまは、かつてはちょうまなぶりょう部下ぶかだった[1]が、まんしゅうこく建国けんこく宣言せんげん署名しょめい[2]ねつかわしょうちょう就任しゅうにんしていた[3]正規せいき不正規ふせいきぐん両方りょうほうあわせて2まんえるぐんひきいていた[2]が、みなみ西にしからはちょうまなぶりょう軍事ぐんじりょく、さらに万里ばんり長城ちょうじょうせまりつつあった日本にっぽんぐん軍事ぐんじりょく脅威きょうい狭間はざまにあった[1]蔣介せき湯玉ゆたま麟の関心かんしん地盤じばんとしてのねつかわしょうとアヘンの販路はんろとしての東北とうほく地域ちいき確保かくほていた[2]ちょうまなぶりょうはこのから産出さんしゅつされ、天津てんしん北京ぺきんながれるアヘンをさばくためにアヘン販売はんばいきょくもうけて莫大ばくだい利益りえきげ、自身じしんまんしゅうこくにおける工作こうさく活動かつどう資金しきんとしていた[4]

朝陽あさひてら事件じけん

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1932ねん7がつ17にち関東軍かんとうぐん嘱託しょくたく石本いしもと権四郎けんしろうねつかわ省内しょうない朝陽あさひてら拉致らちされる事件じけん発生はっせいしたため(朝陽あさひてら事件じけん)、だい8師団しだん石本いしもと奪還だっかんするため翌日よくじつ同地どうちおもむいた。関東軍かんとうぐんではどう事件じけんをきっかけに、内地ないちからの増援ぞうえんけ、ねつかわしょう軍事ぐんじ制圧せいあつ検討けんとうしていたが、眞崎まさき三郎さぶろう参謀さんぼう次長じちょうからは「性急せいきゅう行動こうどうつつしむよう」指示しじされた。事件じけんたいし、中華民国ちゅうかみんこく外交がいこう矢野やのしん臨時りんじ代理だいり公使こうしたいして「匪賊ひぞくによる列車れっしゃ強盗ごうとうたいしわがぐん治安ちあん出動しゅつどうしていたところ、日本にっぽんぐんより攻撃こうげきけた」として抗議こうぎおこなったが、日本にっぽんがわは「治安ちあん維持いじのための出動しゅつどうであり、日本にっぽんぐん威嚇いかく射撃しゃげきなどをおこなった中国ちゅうごくがわがある」と反論はんろんした[5]

日本にっぽんがわ報道ほうどうによると石本いしもとちょう瑞光ずいこうひきいられたやく300めい匪賊ひぞく襲撃しゅうげきされ、不思議ふしぎなことにそのからただ一人ひとり拉致らちされていた[6]拉致らち実行じっこうしゃたちが遺棄いきした書類しょるいから彼等かれらが7がつ16にちちょうまなぶりょうからの「石本いしもとひとしねつかわ省内しょうない朝陽あさひにおいて活動かつどうしつつあるからかれ捕縛ほばくせよ」との命令めいれいけて行動こうどうしたことが判明はんめいした[7]。7月19にちにはねつかわ政府せいふ代表だいひょう日本にっぽん要求ようきゅうれ、石本いしもと救出きゅうしゅつ努力どりょくすること今後こんご問題もんだいこさないこと約束やくそくした[8]が、8がつ23にち南京なんきん政府せいふ軍事ぐんじ委員いいんかいきた平分へいぶんかいに「日本にっぽんぐんよりの石本いしもと引渡ひきわた要求ようきゅう拒絶きょぜつすべし」とでんいのちした[9]石本いしもとねつかわしょうにおけるアヘン問題もんだいについてねつかわ当局とうきょく交渉こうしょうおこなっており、日本にっぽんがわは「アヘンからの収入しゅうにゅううしなうことをおそれたちょうまなぶりょう朝陽あさひてら事件じけんこした」と判断はんだんした[6][10]

石本いしもとよく1933ねん3がつ18にち朝陽あさひ東方とうほう4kmの地点ちてん遺体いたいとなって発見はっけんされ、検死けんし結果けっか1932ねん12月20にちごろ匪賊ひぞくによって殺害さつがいされたことが判明はんめいした[11]遺体いたい発見はっけん1週間しゅうかんの3がつ25にちには石本いしもと陸軍りくぐんそうおこなわれた[12]

朝陽あさひてら事件じけん長期ちょうきする一方いっぽうで、蔣介せきちょうまなぶりょうたいねつかわ進軍しんぐんし、湯玉ゆたま麟を中国ちゅうごくがわもどすよう圧力あつりょくをかけることを要請ようせいしていた[5]ちょうまなぶりょう中央ちゅうおう政府せいふとの対立たいりつ発生はっせいさせながら、10月にはいると、中国ちゅうごくぐんねつかわ集結しゅうけつ開始かいしした[13]。さらに日本にっぽんがわも12月にだい6師団しだん増派ぞうはて、ねつかわ作戦さくせん実施じっしせまりつつあった。蔣介せき12月25にち、さらに中央ちゅうおうぐん6師団しだん増派ぞうはすすめていることをちょうまなぶりょうらせている。

山海さんかいせき事件じけん

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日本にっぽん義和よしかずだんらんさいむすばれた北京ぺきん議定ぎていしょにおいてロシア意識いしきした要求ようきゅうおこない、万里ばんり長城ちょうじょうひがしはし位置いちする山海さんかいせきとその西南せいなん15kmにあり不凍港ふとうこうとして重要じゅうようされる秦皇島しんのうとうなどに駐兵ちゅうへいする権利けんりていたため、この時期じき山海さんかいせきにはきたやすし鉄路てつろ南側みなみがわ兵営へいえい歩兵ほへい100にん工兵こうへいしょう部隊ぶたい駐留ちゅうりゅうさせ砲台ほうだいを4もうけるとともに秦皇島しんのうとうには守備しゅびたいやく50にん駐屯ちゅうとんさせていた[14]

1933ねん1がつ1にち午後ごご920ふんごろ山海さんかい関南せきなみ門外かどけ日本にっぽん憲兵けんぺい分遣ぶんけんしょ構内こうないどう憲兵けんぺい分遣ぶんけん所長しょちょう宿舎しゅくしゃたてまつやません山海さんかいせきえき日本にっぽんぐん鉄道てつどう哨所およまんしゅうこく国境こっきょう警察けいさつたい付近ふきん手榴弾しゅりゅうだんとうじ、小銃しょうじゅう射撃しゃげきくわえたものがあり、日本にっぽんぐん守備しゅびたいただちに警戒けいかい配置はいちにつき、中国ちゅうごくがわとは協定きょうていむす小康しょうこう状態じょうたいたもっていた[15]1がつ2にち午前ごぜん11ごろ日本にっぽんぐん守備しゅびたい協定きょうていもとづみなみもん処理しょりかおうとしたが、中国ちゅうごくぐん依然いぜんみなみもん付近ふきんにあって不法ふほう突如とつじょ射撃しゃげきくわえてきたため兒玉こだま利雄としお中尉ちゅうい戦死せんしし、すうめい負傷ふしょうしゃした[15]日本にっぽんがわ報道ほうどうによると日本にっぽんぐん守備しゅびたい自衛じえいじょうやむなく応戦おうせんし、午後ごご330ふん以後いご山海さんかいせき付近ふきん中国ちゅうごくぐん戦闘せんとう開始かいししてたてまつやま沿線えんせんにあった関東軍かんとうぐん一部いちぶ増援ぞうえんとして[15]陸軍りくぐんしょうは、これは当時とうじちょうまなぶりょうさかんにねつかわしょうならびに山海さんかいせき付近ふきんにおいてはんまん抗日こうにち行動こうどうつつある情況じょうきょうから、中国ちゅうごくがわ官憲かんけん日本にっぽん国際こくさいてき地位ちい不利ふりにするためおこなった計画けいかくてき挑戦ちょうせんであることがあきらかであると発表はっぴょうした[15]ささえ駐屯ちゅうとんぐん司令しれいかん中村なかむら孝太郎こうたろう中将ちゅうじょうは1がつ2にち午後ごご1130ふん北平きたひら歩兵ほへい隊長たいちょうあわ飯原いいはら中佐ちゅうさとおしてちょうまなぶりょうたいするぐん司令しれいかん警告けいこく手交しゅこうし、日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみん山海さんかいせきおよ秦皇島しんのうとうとも守備しゅびたい兵営へいえい収容しゅうよう保護ほごされた[15]

1がつ3にち日本にっぽんぐん爆破ばくはたい山海さんかいせきおきにある駆逐くちくかんからのかんほう射撃しゃげき綏中から飛来ひらいした航空機こうくうきばくげき援護えんご山海さんかい関南せきなみもん爆破ばくはすると、戦車せんしゃたい守備しゅびたい一部いちぶ突撃とつげきして中国ちゅうごくぐん撃退げきたいし、1155ふん日章旗にっしょうきげた[16]りょうぐん歩兵ほへい同等どうとうだったが日本にっぽんぐん駆逐くちくかん芙蓉ふよう」と「刈萱かるかや[15]からのかんほう射撃しゃげきくわえ、19もん野砲やほう、7航空機こうくうき中国ちゅうごくぐんけいしょう火器かき[17]対峙たいじしたため[18]圧倒あっとうするにいたった。日本にっぽんぐんはこの戦闘せんとう中国ちゅうごくがわ内部ないぶ侵攻しんこうするうごきをせず、日本にっぽんぐん司令しれいかんからは停戦ていせんもうれがなされた[1]一方いっぽう日本にっぽんがわ報道ほうどうによるとちかくの秦皇島しんのうとうにいた中国ちゅうごくぐん山海さんかいせき陥落かんらくほうごしとなり中国人ちゅうごくじんがい一帯いったいにわたって恣意しいてき徴発ちょうはつ略奪りゃくだつ)をおこなったため中国ちゅうごく住民じゅうみん恐慌きょうこうをきたし[19]、さらに避難ひなんした日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみん家屋かおくからも一物いちもつのこさず略奪りゃくだつしていた[16]

日本にっぽんぐん山海さんかい関南せきなみもん攻略こうりゃくかんする報道ほうどう日本にっぽんがわ中国ちゅうごくがわことなっていたが、外国がいこく信頼しんらいできる情報じょうほうげんおおくは日本にっぽんがわ報道ほうどう支持しじした[20][21]山海さんかいせき事件じけんについて当時とうじロンドン・タイムズは、日本にっぽん最終さいしゅうてきねつかわしょうから無法者むほうものはら意図いとけっしてかくしたことはないが、この事件じけん中国ちゅうごくがわ挑戦ちょうせんによるものとする日本にっぽんがわ主張しゅちょう現場げんばちかくに日本にっぽん軍隊ぐんたいがいなかったという事実じじつ戦闘せんとうはじまったときにはだい師団しだん釜山ぷさんから日本にっぽんけて出航しゅっこうしていた事実じじつによって裏付うらづけられるとし[22]、「中国ちゅうごくがわ西欧せいおう列強れっきょう支援しえんるためのものではないか」とろんじた[1]おなじく英国えいこくデイリー・メールかみ事件じけんおもちょうまなぶりょうによるものでかれ国際こくさい連盟れんめい日本にっぽんたいして実力じつりょく行使こうしすることを期待きたいしたのではないかとろんじた[23]中国ちゅうごくがわ日本にっぽんぐんによる山海さんかいせき占拠せんきょ合法ごうほうせいみとめなかった[24]が、ロンドン・タイムズは「1901ねん調印ちょういんされた北京ぺきん議定ぎていしょもとづいて占拠せんきょしている日本にっぽんぐんたいして中国ちゅうごくぐん攻撃こうげきてき態度たいどったことは中国ちゅうごくぐん責任せきにんであり、日本にっぽんがわ侵略しんりゃくされたとして防御ぼうぎょするのは当然とうぜん権利けんり」と説明せつめいしている[1]

フランスでは、フランス社会党しゃかいとう党首とうしゅレオン・ブルムどうとう機関きかんにおいて反日はんにちてき論説ろんせつおこない、日本にっぽんとの即時そくじ断交だんこう主張しゅちょうしたが、4にち夕刊ゆうかん各紙かくし報道ほうどうはいずれも日本にっぽん弁護べんごした。『タン』は「日本にっぽんぐん北平きたひらへの進出しんしゅつせつがあるが軽々かるがるしくしんじられぬ」とし、『リベルテ』は「山海さんかいせき事件じけん中国ちゅうごくがわわるいに相違そういない、国際こくさい連盟れんめい事務じむきょくちからでごまかすだろう」とほうじた[25]

一方いっぽうで、この事件じけん原因げんいんささえ駐屯ちゅうとんぐん山海さんかいせき守備しゅびたい隊長たいちょう落合おちあい九郎くろう謀略ぼうりゃくとする研究けんきゅうもある[26]

国民党こくみんとうによる抗日こうにち顛末てんまつ

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1932ねん12月に南京なんきん開催かいさいされた国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいん全体ぜんたい会議かいぎでは、中国ちゅうごく北部ほくぶにおける軍事ぐんじ行動こうどう東北とうほく義勇軍ぎゆうぐんたいする援助えんじょ日貨にっか排斥はいせきの3てんからなる積極せっきょくてき抗日こうにちあん提出ていしゅつされ、決議けつぎされたことが確実視かくじつしされていた[27]東北とうほく義勇軍ぎゆうぐんねつかわ作戦さくせんまでの1ねんにわたりねつかわ地方ちほう蹂躙じゅうりんしたちょうまなぶりょう麾下きかの10まんあまり勢力せいりょくであった[28]実際じっさいねつかわ省内しょうないにおける治安ちあん攪乱かくらんうごきが顕著けんちょとなり、ちょうまなぶりょう麾下きか正規せいきぐん越境えっきょうし、ねつかわしょう侵入しんにゅうした[27]まん議定ぎていしょによれば、まんしゅうこく領域りょういきない治安ちあん維持いじ日本にっぽんまんしゅう両国りょうこく共同きょうどうしておこなうものとしており、日本にっぽんねつかわ問題もんだい条約じょうやくじょう義務ぎむとしても認識にんしきし、おおきな関心かんしんせていた[27]

中国ちゅうごく国内こくないでは山海さんかいせき事件じけん以後いご塘沽協定きょうてい締結ていけつまでのねつかわしょう喪失そうしつ過程かていで、民衆みんしゅう抗日こうにち意識いしきおおきくたかまり、日本にっぽんぐん矢面やおもてったそうあきらもとだい29ぐんへの支援しえんのほか、2がつ16にち北平きたひらにおいて東北とうほくねつかわ後援こうえん協会きょうかい組織そしきされ、そうぶんちょうまなぶりょうなどが結成けっせいしき列席れっせきし、多額たがく義援金ぎえんきんおくられた[29]が、蔣介せき共産きょうさん勢力せいりょく脅威きょういさらされるようになると、抗日こうにちくちにすることをきんじるようになった(後述こうじゅつ共産きょうさんぐん脅威きょうい参照さんしょう)。『中国ちゅうごくきん現代げんだい論争ろんそう年表ねんぴょう』によれば3がつ6にち抗日こうにち多言たげんするものころしてゆるすなかれ」の命令めいれいしている[30]。また『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』も蔣介せきが「共産きょうさんぐん討伐とうばつ完了かんりょうまえ絶対ぜったい抗日こうにちうことはゆるされず、違反いはんすればもっとおもばちける」とべたことをつたえている[31]

ねつかわ作戦さくせん

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日本にっぽんがわ方針ほうしん

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内田うちだ尚孝なおたかによれば、日本にっぽんがわは1932ねん当時とうじねつかわしょう経済けいざいてき利益りえきうす地域ちいき認識にんしきしていた[32]が、『だい八師団熱河経略経過概況』には1932ねん6月23にちねつかわ地方ちほうアヘンけるためにまんしゅうこく国務こくむいん財政ざいせいから天野あまの竹蔵たけぞうまねいたとの記述きじゅつがあり、内田うちだはこのころには経済けいざいてき利益りえき見出みいだしつつあったとている。1933ねん2がつ7にちだい8師団しだん参謀さんぼうがまとめた『ねつかわ事情じじょう一端いったん』では、ねつかわしょう産業さんぎょう筆頭ひっとうにアヘンをげている[33]

日本にっぽんねつかわ作戦さくせん実施じっししたのは、参謀さんぼう本部ほんぶの『ねつかわしょうへい要地ようち』にしめされるまんしゅうこくたいする緩衝かんしょうとしての「消極しょうきょくてき利益りえき」にくわえて、「平津ひらつ地方ちほう領有りょうゆうため……作戦さくせん指導しどうスルじょう合本がっぽん地方ちほうヨリ一部いちぶ作戦さくせんくだりフノ有利ゆうりナルハ当然とうぜんニシテ……」という、平津ひらつ北京ぺきん北平きたひら天津てんしん)をふく華北かほく侵略しんりゃく橋頭堡きょうとうほとしての「積極せっきょくてき利益りえき」を見出みいだしていたためとしている[34]

1933ねん1がつ11にち陸軍りくぐん当局とうきょくがおこなった発表はっぴょうでは、「1932ねんなつには20まん以上いじょう勢力せいりょくっていたへい義勇軍ぎゆうぐんとうねつかわしょうのぞぜんまんしゅうにわたり集団しゅうだんてきはんまんぐんのほとんどが一掃いっそうされ、ぜんまんしゅう治安ちあん回復かいふくった」とされた[35]同日どうじつ陸軍りくぐんねつかわ問題もんだいかんしても発表はっぴょうおこなった[36]。それによると

  1. ねつかわしょうきゅう東北とうほくよんしょうひとつとしてほか三省みつよしとは不可分ふかぶん関係かんけいにある。
  2. まんしゅうこく独立どくりつ宣言せんげんさいねつかわまんしゅうこく一部いちぶとして宣布せんぷしている。
  3. リットン調査ちょうさ委員いいん質問しつもんたいまんしゅうこく当局とうきょく万里ばんり長城ちょうじょう国境こっきょうであるむねあきらかにしている。
  4. ねつかわしょう主席しゅせき湯玉ゆたま麟はまんしゅうこく独立どくりつ宣言せんげんしょ署名しょめい執政しっせい溥儀ふぎたいしんれいおこなった。

これらによってねつかわしょうまんしゅうこく一部いちぶたることは厳然げんぜんたる事実じじつであるとし、したがってねつかわ省内しょうない治安ちあんみだものまんしゅうこく不逞ふてい分子ぶんしより省内しょうない侵入しんにゅうするもの侵略しんりゃくしゃであるので他国たこく干渉かんしょうすべきものではないととなえた[37]

内田うちだによれば、その正当せいとうせい逆説ぎゃくせつてきに「長城ちょうじょう以南いなんへの侵攻しんこうには正当せいとうせいがない」ことをしめしていた[38]1がつ13にち閣議かくぎでは、陸相りくしょうまんしゅう国外こくがいにはさぬ方針ほうしんとな[39]関内せきうちへの侵入しんにゅうかたきんじる決定けってい文書ぶんしょでなされた[40]

1がつ21にち帝国ていこく議会ぎかい演説えんぜつにおいて内田うちだ康哉こうさい外務がいむ大臣だいじん政府せいふ正式せいしき認識にんしきとして「ねつかわ問題もんだいまんしゅうこく内政ないせい問題もんだいである」とべたが、ねつかわ省内しょうない民衆みんしゅう連日れんじつ戦闘せんとうすで犠牲ぎせいしていたことから、中国ちゅうごくがわからは反発はんぱつこった[41]。2月2にち衆議院しゅうぎいんにおいて陸相りくしょうねつかわしょうにはちょうまなぶりょう兵団へいだんが3旅団りょだん湯玉ゆたま麟部たい、さらに方面ほうめんからのへい匪があつまり9まんへいがいるもののかならずしも一致いっちしたものでないことから帰順きじゅんするものがあると判断はんだんするとともになるべく混乱こんらん方面ほうめんおよばないように慎重しんちょう方法ほうほうることを表明ひょうめいした[42]

2がつ4にち昭和しょうわ天皇てんのう閑院みやひとし参謀さんぼう総長そうちょうねつかわ作戦さくせんは「万里ばんり長城ちょうじょうえて関内かんない進入しんにゅうすることなき条件じょうけん」のした実行じっこう認可にんかした[43]一方いっぽう陸軍りくぐんがわでは実質じっしつてき指導しどうしゃであった眞崎まさき参謀さんぼう次長じちょうみずからが「(外交がいこうてき手段しゅだん解決かいけついたらなければ)兵力へいりょくヲ以テためとくげん直路ちょくろ平津ひらつ地方ちほうヲ衝クニざいリ」として、長城ちょうじょうせん以南いなんへの侵攻しんこうかんがえていた[44]一方いっぽうで、陸軍りくぐん中央ちゅうおう2がつ10日とおか報道ほうどうけに「ねつかわしょう……は画竜点睛がりょうてんせいをなすものである。ねつかわ問題もんだい山海さんかいせき問題もんだいとは……区別くべつしてかんがへられねばならぬ。前者ぜんしゃまんしゅう国内こくないいち事象じしょうであり後者こうしゃささえ領土りょうどじょうこった事件じけんであるからである」との声明せいめい発表はっぴょうし、華北かほくへの侵入しんにゅうはしないことを表向おもてむきに表明ひょうめいした[45]

作戦さくせん経過けいか

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ねつかわ作戦さくせん発動はつどうされるまえにおいてもいくつかの衝突しょうとつ事件じけんきていた。日本にっぽんぐんにしきしゅう部隊ぶたい側面そくめん攻撃こうげきしようとねつかわしょう侵入しんにゅうした中国ちゅうごくぐんだいじゅうろくたびおよだいじゅうきゅうたびたい日本にっぽんぐんは1がつ8にちばくげきおこなった[46][47]。これについて日本にっぽん陸軍りくぐん国防こくぼう立場たちばから当然とうぜんとし、出先でさき軍部ぐんぶ一任いちにんすることを表明ひょうめいしている[46]山海さんかいせき北方ほっぽう13kmにあるきゅうもんちょうまなぶりょう軍隊ぐんたい補給ほきゅうねつかわおくんでいた場所ばしょであったため[48]、1がつ10にち早朝そうちょう日本にっぽんぐんはこれを攻撃こうげきして占拠せんきょした[49][48]ひらき魯にはちょうまなぶりょう別働隊べつどうたい司令しれいかれ[50]つうりょうねつかわぐん別働隊べつどうたい包囲ほういされて圧迫あっぱくされるにいた日本にっぽんぐんは1がつ15にちにその司令しれいばくげきおこなったが、このときひらけ魯では同士打どうしうちによる市街しがいせんおこなわれている最中さいちゅうでもあり、死傷ししょうしゃすうひゃくめいおよんだ[51]空爆くうばくは16にち、22にち、23にちにもおこなわれた[52][53]

1933ねん2がつ9にちちょうまなぶりょうねつかわ攻略こうりゃく決意けつい[54]南京なんきん政府せいふくわわった多数たすう正規せいきぐんねつかわ侵入しんにゅうさせたため、まんしゅうこく2がつ18にちねつかわ討伐とうばつ決定けっていし、ちょうけいめぐみそう司令しれい任命にんめい[55]同日どうじつ関東軍かんとうぐんまん共同きょうどう防衛ぼうえい立場たちばからねつかわ征討せいとう声明せいめい発表はっぴょうした[3]2がつ21にちまんしゅうこく政府せいふは「ちょうまなぶりょう正規せいきぐん義勇軍ぎゆうぐんまんしゅう国内こくないねつかわしょう侵入しんにゅうして要地ようち占拠せんきょ住民じゅうみんからの略奪りゃくだつ婦女子ふじょしへの暴行ぼうこうという不法ふほう行為こういかえしてまんしゅうこく治安ちあん混乱こんらんさせ、くに独立どくりつせいあやうくしている」としてその不法ふほう行為こうい詰問きつもんした。同時どうじに「不逞ふてい分子ぶんし」の24時間じかん以内いない国外こくがい退去たいきょ要求ようきゅうし、これにおうじない場合ばあいには断固だんこ実力じつりょくをもって掃蕩そうとうおこなうとの最後さいご通牒つうちょう翌日よくじつはっすることも決定けっていした[56]よく22にちには日本にっぽん政府せいふ南京なんきん政府せいふたいしてねつかわしょうにおけるはんまん抗日こうにち行為こうい中止ちゅうし中国ちゅうごくぐん即時そくじ撤退てったい要求ようきゅうし、おうじない場合ばあいには「自由じゆう行動こうどう」をることを宣言せんげんした[57]

作戦さくせん開始かいし時点じてんでも蔣介せき中央ちゅうおうぐん北部ほくぶ移動いどうせず、行動こうどうしていたのはすべて中国ちゅうごく北部ほくぶ将領しょうりょうたちでねつかわしょうに10まん関内かんないに10まん兵力へいりょくゆうしていると推定すいていされ、一方いっぽう日本にっぽんぐんソ連それんが1929ねんちゅう紛争ふんそうおこなったように飛行機ひこうき支援しえんによりおおきな抵抗ていこうけないことを期待きたいしていた[58]日本にっぽんぐん上層じょうそうは「まんしゅうこく国境こっきょう部分ぶぶん中国ちゅうごくがわ一定いってい距離きょりまでは中国ちゅうごくぐん掃蕩そうとうしなくてはならず、中国ちゅうごくがわ飛行機ひこうき使用しようするならその根拠地こんきょち爆破ばくはして作戦さくせん根拠こんきょ粉砕ふんさいすることは当然とうぜんであり、ちょうまなぶりょうぐんあるいはねつかわ敗残はいざんへい平津ひらつ地方ちほうにある日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみん生命せいめい財産ざいさんおびやかすなら現地げんち利害りがい関係かんけい配慮はいりょして現地げんち保護ほご必要ひつようがある」と説明せつめいしている[59]

2がつ22にちねつかわしょうにあった中国ちゅうごく義勇軍ぎゆうぐんだいよん師団しだん司令しれいかんりゅうかつらどうとその部下ぶか1まん5せんめいまんしゅうこくへの帰属きぞくもうるとともに中国ちゅうごく正規せいきぐんたいして作戦さくせん開始かいしした[60][61]。このうごきにおうじてねつかわ民衆みんしゅう湯玉ゆたま政権せいけん打倒だとうぐん組織そしき[62]地域ちいきでも中国ちゅうごくがわ軍隊ぐんたいから湯玉ゆたま打倒だとう参加さんか表明ひょうめいするものがつづいた[63][64]

まん連合れんごうぐん協力きょうりょくしてねつかわしょう進攻しんこうし、2がつ24にちにはねつかわしょうきたであるひらき魯を占拠せんきょ[65]3月4にちにはねつかわしょううけたまわとく入城にゅうじょうした[3]同日どうじつ関東軍かんとうぐん司令しれいかん武藤むとう信義のぶよしは「長城ちょうじょう重要じゅうよう関門かんもん確保かくほシテきたささえ方面ほうめんたい戦備せんびせいヘ」るよう指令しれいした。ちょうまなぶりょうは蔣介せきとの会談かいだんうえ3月12にち敗北はいぼく責任せきにんって軍事ぐんじ委員いいんかいきた平分へいぶんかい代理だいり委員いいんちょう辞任じにん[66][67]同時どうじに蔣介せき念願ねんがんどおり、ちょうまなぶりょう指揮しきにあった東北とうほくぐん解体かいたいされ、万福ばんぷく于学ただしなんはしらこくおう以哲ぐんちょうとするよんぐん改編かいへんされ、中国ちゅうごく北部ほくぶたいする中央ちゅうおう支配しはいりょく確立かくりつ端緒たんしょとなった[68]一方いっぽうまんしゅう国軍こくぐんそう司令しれいちょうけいめぐみは3がつ13にちしんきょう凱旋がいせんした[69]

その関東軍かんとうぐんねつかわしょうでの掃討そうとうせんにおいて中国ちゅうごくがわかえ執拗しつよう反撃はんげきたいし、3月18にち長城ちょうじょうせんかく関門かんもん確保かくほするためだい6およだい8師団しだん主力しゅりょくかわせた[70]

灤東(らんとう)作戦さくせん

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3月27にち武藤むとう信義のぶよし関東軍かんとうぐん司令しれいかん正式せいしきに「せきさくいのちだいよんきゅういちごう」を発令はつれいし、灤東作戦さくせん開始かいしされた[71]

作戦さくせん目的もくてきまんしゅうこく国境こっきょうとしての長城ちょうじょう確保かくほすることにあった[72]実際じっさいには、長城ちょうじょうから大砲たいほう射程しゃてい範囲はんいないにある(日本にっぽんがわ主張しゅちょうする)中国ちゅうごく領内りょうない中国ちゅうごくぐん掃蕩そうとうすることがもとめられ[73][74]、また中国ちゅうごくがわ飛行機ひこうき根拠地こんきょち爆撃ばくげきして作戦さくせん根拠こんきょ破砕はさいすることは当然とうぜんとする発表はっぴょうねつかわ戦中せんちゅうにおこなわれていた[59]

なにおう欽が中央ちゅうおうぐん5まん北平きたひら天津てんしん地域ちいき集結しゅうけつさせると、関東軍かんとうぐん武藤むとう司令しれいかんの「長城ちょうじょうへだてる河北かほくしょう中華民国ちゅうかみんこく領土りょうどである」として長城ちょうじょうえて行動こうどうしないように自制じせいしていることにじょうじ、ねつかわたいして7せん兵力へいりょくすすめた[75][76]中国ちゅうごくぐんさかいみねこう方面ほうめんにおける増強ぞうきょう継続けいぞくし、あらたな反撃はんげき準備じゅんびおこなっていたが、3がつまつまでのすう日間にちかんにおいてしょうふるえ部隊ぶたい一部いちぶそうあきらもといち旅団りょだんくわえた。同時どうじそう大隊だいたいねつかわはいり、日本にっぽんぐん背後はいごこうとした[77]

3月31にち日本にっぽん陸軍りくぐん当局とうきょくしゃ外国がいこくじん記者きしゃだんからの「中国ちゅうごくぐん長城ちょうじょうせんにおける挑戦ちょうせん態度たいど継続けいぞくされる場合ばあい日本にっぽんぐん行動こうどうはどのようになるか」との質問しつもんたいし、私見しけんとして「日本にっぽんぐんしのべる限度げんどまではしのぶが中国ちゅうごくぐん増長ぞうちょうして反省はんせいがなければ一大いちだい鉄槌てっついくだ場合ばあい否定ひていできない」としながらも、「中国ちゅうごくがわ挑戦ちょうせんは蔣介せき一派いっぱ東北とうほくぐんおよびその雑色ざっしょくぐん日本にっぽんぐんにより整理せいりしようとする手段しゅだんであり(後述こうじゅつざつぐん整理せいり参照さんしょう)、整理せいりされようとするぐん将領しょうりょうもこのことをようやく理解りかいしてきたことからなんまでもつづくものとはかんがえていない」とべ、関内かんない東北とうほくぐん将領しょうりょう帰順きじゅんすればまんしゅうこくゆるすかとの質問しつもんには「まんしゅうこく忠誠ちゅうせいちかものゆるされ家族かぞく部下ぶか財産ざいさん安全あんぜん保障ほしょうされたおおくのれいがある」とこたえている[78]

日本にっぽんぐんは4がつ10日とおか攻勢こうせい開始かいし[79][80][81][82]長城ちょうじょうのすぐ外側そとがわ航空こうくう基地きちもうけ、37ようして長城ちょうじょう内側うちがわにおけるばくげき偵察ていさつ行動こうどうのために使用しようしていた[83]

4がつ22にち日本にっぽんがわねつかわしょう南側みなみがわ国境こっきょうから中国ちゅうごくがわ圧力あつりょくのぞき、目的もくてき長城ちょうじょうから大砲たいほう射程しゃてい範囲はんいないにある中国ちゅうごくぐん排除はいじょ)をすべて達成たっせいしたとして日本にっぽんぐんには作戦さくせん停止ていしめいじられたこと、中国ちゅうごくぐんが灤河以東いとうから完全かんぜん排除はいじょされたことを発表はっぴょう[84][85]以後いご日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐんあらたな攻撃こうげきおこなわないことを確認かくにんただちに撤退てったいする予定よていであることをしめした[85]

日本にっぽんぐん侵攻しんこう停止ていしは、4がつ18にち長城ちょうじょう以南いなんへの侵攻しんこう憂慮ゆうりょした昭和しょうわ天皇てんのう本庄ほんじょうしげる侍従じじゅう武官ぶかんちょうに「関東軍かんとうぐん直接ちょくせつ指令しれいして侵攻しんこう作戦さくせん停止ていしさせるか」と下問かもんしたことにはじまり、本庄ほんじょうから報告ほうこくけた眞崎まさき三郎さぶろう参謀さんぼう次長じちょう天皇てんのう意向いこうしるした親書しんしょ関東軍かんとうぐん司令しれいかん送付そうふするととも関東軍かんとうぐん参謀さんぼうちょう即時そくじ撤兵てっぺい打電だでんしたことから長城ちょうじょうせんへの撤退てったい命令めいれいはっせられた[86]内田うちだ尚孝なおたかによれば本庄ほんじょう眞崎まさき参謀さんぼう次長じちょうたいしその上奏じょうそう内容ないよう実情じつじょうちがいを詰問きつもんし、眞崎まさき以下いか陸軍りくぐん中央ちゅうおう議論ぎろんすえ、「さら進出しんしゅつするとも一旦いったん長城ちょうじょうせん復帰ふっき」させるための行動こうどうであったとしている[87]

一方いっぽう中国ちゅうごくがわでは3月13にちなにおう軍政ぐんせい部長ぶちょう国防こくぼうしょう)が軍事ぐんじ委員いいんかいきた平分へいぶんかい代理だいり委員いいんちょう兼任けんにんし、華北かほく軍事ぐんじ問題もんだい処理しょりにあたっていたが、4がつ18にちいたり、蔣介せきひろしちょうめいに「てき平津ひらつ包囲ほういする」との状況じょうきょう判断はんだんつたえ、5月6にちには戦闘せんとう継続けいぞく和睦わぼくかの判断はんだん中央ちゅうおうせまった[66]

関内かんない作戦さくせん

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灤東作戦さくせんで灤河右岸うがん退しりぞいた中国ちゅうごくぐん日本にっぽんぐん長城ちょうじょうせんもどるとふたたび灤東地区ちくへいすすめた[88]日本にっぽんぐん撤退てったいすれば挑戦ちょうせん行動こうどう中国ちゅうごくがわ態度たいど放置ほうちしては、まんしゅう中国ちゅうごく国境こっきょう紛争ふんそうおさまらないと判断はんだんした小磯こいそ参謀さんぼうちょうは、上京じょうきょうして昭和しょうわ天皇てんのう陸軍りくぐん中央ちゅうおうより灤東進出しんしゅつ許可きょか[88]。ここにおいて関東軍かんとうぐん5月3にち関内かんない作戦さくせん」を発令はつれい[89]、灤東に進出しんしゅつした中国ちゅうごくぐんたいして作戦さくせん行動こうどうった[88]

この時期じき北平きたひら天津てんしん地方ちほうには中国ちゅうごくぐんやく40師団しだんがあったが関内かんない作戦さくせん順調じゅんちょうすすめられた[90]だい6師団しだんは7にち前後ぜんこうから、だい8師団しだん10日とおかよるから行動こうどう開始かいしすると23にち夕方ゆうがたにはあざみ運河うんがより懐柔かいじゅうから密雲みつうんにかけてのせんすすんだ[90]。また 5がつ8にちには日本にっぽんぐん軍事ぐんじ司令しれいかん声明せいめいとして「日本にっぽんぐん作戦さくせんいた責任せきにん日本にっぽんぐん関内かんない進出しんしゅつってあなど態度たいど中国ちゅうごくがわにある」と発表はっぴょうされた[88]

5月25にち中国ちゅうごくがわなにおう欽を軍使ぐんしとして密雲みつうん派遣はけん正式せいしき停戦ていせんもとめたため、関東軍かんとうぐん戦闘せんとう行動こうどう停止ていしし、関内かんない作戦さくせん終了しゅうりょうした。

共産きょうさんぐん脅威きょうい

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1932ねん12月12にちちゅう国交こっこう回復かいふくコミンテルン中国共産党ちゅうごくきょうさんとうたいし『中国共産党ちゅうごくきょうさんとう急務きゅうむ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう強化きょうか拡大かくだいすることである』とめいじた[91]。1933ねん1がつ14にち中国ちゅうごく政府せいふ軍閥ぐんばつは蔣介せき指導しどうによりはん帝国ていこく主義しゅぎ運動うんどうすべてを弾圧だんあつし、くち抗日こうにちとなえながら、実際じっさいは80まん大軍たいぐん中国ちゅうごくソビエト区域くいき攻撃こうげきするという欺瞞ぎまん政策せいさくおこなっているとして中国ちゅうごくソビエトしょう政府せいふおよ労農ろうのう赤軍せきぐん革命かくめい委員いいんかいは蔣介せき軍閥ぐんばつ打倒だとう発表はっぴょうした[51]

4がつ3にち江西えにししょうしょうみなみあきらから共産きょうさんぐん政府せいふぐんたいして決定的けっていてき行動こうどうおこないつつあり、事態じたい深刻しんこくであるとの報告ほうこく南京なんきん政府せいふ提出ていしゅつされ、よく4にち蔣介せき南京なんきんから江西えにししょうかった[92]中国ちゅうごく北部ほくぶ状況じょうきょうわるくなれば蔣介せきじょうもどるとつたえられたが蔣介せき北部ほくぶ集中しゅうちゅうするために江西えにししょう共産きょうさん主義しゅぎしゃ完全かんぜん制圧せいあつすることをのぞんでいた[92]南京なんきん政府せいふは2がつから江西えにししょうにおいての損害そんがいおおきいことおよいち師長もろながおおくのたびちょう連隊れんたいちょう死亡しぼうしていたことを発表はっぴょうした[92]。あるときには負傷ふしょうした師長もろなが自決じけつし、かれ部隊ぶたい降伏ごうぶくし、また共産きょうさんぐんのためにちんまこと麾下きかの2全滅ぜんめつしたことがつたえられた[92]

4がつ10にちごろになると蔣介せき日本にっぽんぐんたいする作戦さくせんより江西えにししょう共産きょうさん匪賊ひぞく共産きょうさんぐん)を排除はいじょすることにめ、湖南こなんしょう主席しゅせき開封かいふう司令しれい部長ぶちょうりゅう峙は広東かんとん湖南こなん福建ふっけん部隊ぶたいくわ作戦さくせん促進そくしんさせるためすう江西えにししょうおくるようめいじた[93]。4月18にち江西えにししょうには近代きんだい兵器へいき共産きょうさんぐんが8ぐんあることが判明はんめいし、それらは中央ちゅうおうぐん攻撃こうげきをうまくふせぎ、江西えにししょうの3ぶんの2ちかくを占拠せんきょし、隣接りんせつするしょうへの脅威きょういしていた[94]江西えにししょう農民のうみん共産きょうさんぐん略奪りゃくだつこうむり、5月になって広東かんとんぐん共産きょうさん匪賊ひぞく駆逐くちくしたとき耕作こうさくはじめるにはおそすぎるぶしとなっており、備蓄びちくされていた穀物こくもつ被災ひさいしゃくばられた[95]

ざつぐん整理せいり

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中国ちゅうごくぐんはその中核ちゅうかく軍事ぐんじ委員いいんかい委員いいんちょう蔣介せき直系ちょっけいぐん、いわゆる中央ちゅうおうぐんとし、それ以外いがいきゅう東北とうほくぐん(ちょうまなぶりょう麾下きか)、きゅう西北せいほくぐん(玉祥ぎょくしょう麾下きか)、山西さんせいぐん(閻錫やま麾下きか)、広西ひろせぐん(そうひとしはくたかし麾下きか)、広東かんとんぐん(ちんわたる麾下きか)、四川しせんぐん湖南こなんぐん山東さんとうぐん、そのざつぐんからるものであった[96]南京なんきん国民こくみん政府せいふ直接ちょくせつ支配しはいされた地域ちいきのぞき、地方ちほう駐留ちゅうりゅうするかくぐん名目めいもくじょう中国ちゅうごくぐんとしての立場たちばっていたが実際じっさいはん独立どくりつ状態じょうたいであった[96]。1930ねんには蔣介せき軍閥ぐんばつあいだ中原なかはら大戦たいせんきていた。

ねつかわせん、 灤東せん関内かんないせんざつぐんだけが前線ぜんせんにあり[58][97][98]彼等かれら最初さいしょからのない日本にっぽんぐんとのたたかいをのぞむことはなかったが、ざつぐん日本にっぽんぐんまんしゅうぐんにできるだけ打撃だげきこうむるように仕向しむけられ[97][99]中央ちゅうおうぐん敗退はいたいしたざつぐん後方こうほうちうけ、その武力ぶりょく解散かいさん武装ぶそう解除かいじょおこなった[99]。たとえば3がつ28にち灤河右岸うがん後退こうたいしたなんはしら国軍こくぐんなにおう欽の命令めいれいで2000めい武装ぶそう解除かいじょされたが、これは蔣介せき常套じょうとう手段しゅだんであり、逐次ちくじ東北とうほくぐんざつぐんだい一線いっせんたせて日本にっぽんぐんたらせ、その壊滅かいめつさく一方いっぽう自力じりきによる武装ぶそう解除かいじょおこな中国ちゅうごく北部ほくぶ完全かんぜん中央ちゅうおうぐん掌中しょうちゅうおさめようとする意図いとによるものであった[100]。蔣介せき東北とうほくぐんざつぐん結束けっそくくずすためにあらゆるはんあいだ苦肉くにく策略さくりゃくこうじていた[99]

戦線せんせんへの参加さんかもとめられた馮玉祥ぎょくしょうは3がつ24にち以下いか条件じょうけんを蔣介せきみとめるなら行動こうどうするとこたえている[101]

  1. 蔣介せきみずか大軍たいぐんひきいて出陣しゅつじんし、全線ぜんせんそう攻撃こうげきくわまご殿どのえいそうあきらもとひとし個別こべつ撃破げきはされる危険きけんよりすくうこと
  2. 前線ぜんせんすみやかに武器ぶき供給きょうきゅうすること
  3. 前線ぜんせん軍隊ぐんたい補充ほじゅうすること
  4. 戦死せんししゃ遺族いぞく支援しえんすること
  5. 日本にっぽん妥協だきょうしないこと

このような状況じょうきょういて広東かんとんはん蔣介せき運動うんどう開始かいし[99][102]ほかにも中央ちゅうおうとの対立たいりつふかめるものがはじめていた[103]

協定きょうてい締結ていけつ

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5月25にちなにおう欽はその代理だいりじょつばめはかりごととおして関東軍かんとうぐん司令しれいかん正式せいしき停戦ていせん提議ていぎわたした[104]5月31にち午前ごぜん1111ふん、塘沽において日本にっぽんがわ代表だいひょう陸軍りくぐん少将しょうしょう岡村おかむらやすし関東軍かんとうぐん参謀さんぼう副長ふくちょう中国ちゅうごくがわ代表だいひょう陸軍りくぐん中将ちゅうじょうくまあきら以下いか内容ないよう停戦ていせん協定きょうてい調印ちょういんした[104]

  1. 中国ちゅうごくぐんすみやかにのべけい昌平しょうへい高麗こうらいじゅんよしとおりしゅう香河かごたからはやしちんこうやすしかわあしだいつうするせん以西いせい以南いなん地区ちく一律いちりつ撤退てったい爾後じご同線どうせんえて前進ぜんしんせず
    また一切いっさい挑戦ちょうせん攪乱かくらん行為こういおこなうことなし
  2. 日本にっぽんぐんだいいちこう実行じっこう確認かくにんするため随時ずいじ飛行機ひこうき及其方法ほうほうこれ視察しさつ
    中国ちゅうごくがわはこれにたい保護ほごおよ諸般しょはん便宜べんぎあずかうるものとす
  3. 日本にっぽんぐんだいいちこうしめ規定きてい中国ちゅうごくぐん遵守じゅんしゅせること確認かくにんするにおいては前記ぜんき中国ちゅうごくぐん撤退てったいせんえて進撃しんげき続行ぞっこうすることなく自主じしゅてきおおむ長城ちょうじょうせん帰還きかん
  4. 長城ちょうじょうせん以南いなんにしてだいいちこうしめせん以北いほく以東いとう地区ちくないける治安ちあん維持いじ中国ちゅうごくがわ警察けいさつ機関きかんこれにん
    みぎ警察けいさつ機関きかんためには日本にっぽんぐん感情かんじょう刺戟しげきするがごと武力ぶりょく団体だんたいもちいふるごとなし
  5. ほん協定きょうてい調印ちょういんとともに効力こうりょく発生はっせいするものとす[105]

南京なんきん政府せいふ同日どうじつ午後ごご3より緊急きんきゅう会議かいぎひらき、停戦ていせん協定きょうてい成立せいりつ報告ほうこくされると満場一致まんじょういっち承認しょうにんした[104]

日本にっぽん外務省がいむしょう声明せいめい

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協定きょうてい成立せいりつ同時どうじ以下いか日本にっぽん外務省がいむしょう声明せいめい発表はっぴょうされた[104]

  1. さきにささえぐん帝国ていこくぐんたいして執拗しつよう攻撃こうげきるや、帝国ていこくぐんまんしゅうこく国境こっきょう確保かくほのため、ついにむをずして関内かんない進出しんしゅつしたのであるが、最近さいきんきたささえけるささえがわ責任せきにんしゃよりわがほうたい停戦ていせんもとつた。しかるに帝国ていこくぐんするところは、屢次声明せいめいとおまんしゅうこく確保かくほ他意たいないのであるからこころよくその申出もうしでおうじ、五月ごがつさんじゅういちにち停戦ていせん協定きょうてい成立せいりつし、ここにささえりょうぐん戦闘せんとう終息しゅうそくるにいたりれるははなはよろこばしい次第しだいである。
  2. 由来ゆらいわがほうおいては、ささえがわ東洋とうよう大局たいきょく覚醒かくせいして、排日はいにち抗日こうにち態度たいどです、ささえ関係かんけい和平わへい維持いじ誠意せいいしめすにおいては、わがほうまたじゅうぶん好意こういもってこれをむかえふることもうすまでもない。したがって、ささえがわ今次こんじ停戦ていせん協定きょうてい発足ほっそくてんとして、従来じゅうらいごと敵意てきいある態度たいどより脱却だっきゃくし、きょう地方ちほう平静へいせい維持いじ勿論もちろんすすんで国内こくない秩序ちつじょ回復かいふく邁進まいしんするならば、現下げんか不快ふかいなる事態じたい解消かいしょうし、せずして極東きょくとう民族みんぞく安寧あんねい向上こうじょうもとひらくことが出来できるであらう。われじんささえがわこときたささえけるその責任せきにんしゃが、じょじょうほう主旨しゅしそんするところを玩味がんみし、これをあやまらざらんことをのぞみつつ、十分じゅうぶん用意よういもっ今後こんご発展はってん看守かんしゅするものである。

影響えいきょう

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1935ねんには協定きょうていめた武装ぶそう地帯ちたいないにおいて住民じゅうみんによる自治じち運動うんどうこり[106]、これを背景はいけいとして冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふ[107]冀察政務せいむ委員いいんかい[108]成立せいりつした。自治じち運動うんどうと冀東防共ぼうきょう自治じち委員いいんかいいずれについても武装ぶそう地帯ちたいないであるがゆえに南京なんきん政府せいふ軍事ぐんじ行動こうどうによる手段しゅだん制限せいげんされた[109][110]

なお、この民衆みんしゅう運動うんどう日本にっぽんがわ華北かほく分離ぶんり工作こうさく一環いっかんとして特務とくむ機関きかんによりこさせたものであった[111]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g ロンドン・タイムズ 1933ねん1がつ13にち、13めん
  2. ^ a b c サンケイ新聞しんぶん 1976, p.47
  3. ^ a b c 高木たかぎ 1938, p.5
  4. ^ 神尾かみおしげるねつかわ討伐とうばつとその真相しんそう大阪おおさか図書としょ販売はんばい 1933ねん4がつ、pp.13-14
  5. ^ a b 内田うちだ 2006 p.37
  6. ^ a b 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1932ねん7がつ19にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  7. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1932ねん7がつ19にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  8. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1932ねん7がつ21にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  9. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1932ねん8がつ24にちづけ朝刊ちょうかん 3めん
  10. ^ 陸軍りくぐんしょう調査ちょうさはんねつかわに就て』1933ねん1がつ17にち、p.11
  11. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん3がつ19にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  12. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん3がつ26にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  13. ^ 内田うちだ 2006 p.38
  14. ^ サンケイ新聞しんぶん 1976, p.55
  15. ^ a b c d e f 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ4にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  16. ^ a b 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ6にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  17. ^ 具体ぐたいてきには小銃しょうじゅう手榴弾しゅりゅうだん機関きかんじゅうおよ迫撃はくげきほうである(North-China Daily News, January 5 1933, p.9)
  18. ^ North-China Daily News, January 5 1933, p.9
  19. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ5にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  20. ^ North-China Daily News, January 4, 1933 pp.11, 18
  21. ^ North-China Daily News, January 5, 1933 p.18
  22. ^ ロンドン・タイムズ 1933ねん1がつ4にち、10めん
  23. ^ North-China Daily News, January 4, 1933 p.18
  24. ^ ロンドン・タイムズ 1933ねん1がつ12にち、11めん
  25. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ6にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  26. ^ 内田うちだ 2006 pp.40-41
  27. ^ a b c 内田うちだ康哉こうさい外務がいむ大臣だいじん帝国ていこく議会ぎかい会議かいぎろくだい64議会ぎかい 1933ねん1がつ21にち
  28. ^ 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ24にちづけ朝刊ちょうかん 1めん
  29. ^ しゅけいもり重遠しげとお中国語ちゅうごくごばんえんつちかええびすてきちょう文江ふみえらも参加さんかしていた(内田うちだ 2006 p.70)。
  30. ^ 竹内たけうちみのる編集へんしゅう中国ちゅうごくきん現代げんだい論争ろんそう年表ねんぴょうじょう同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん 1992ねん、p.296
  31. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』4がつ13にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  32. ^ 内田うちだ 2006 p.33
  33. ^ 内田うちだ 2006, pp.34-35
  34. ^ 内田うちだ 2006 p.33-34
  35. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ12にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  36. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ12にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  37. ^ 内田うちだ尚孝なおたかによればねつかわ作戦さくせん実施じっし検討けんとうされるようになると、日本にっぽんまんしゅうこくがわは、ねつかわしょうにおける軍事ぐんじ行動こうどう正当せいとうせいを「まんしゅうこく建国けんこく宣言せんげん」における主張しゅちょうねつかわしょうまんしゅうこく一部いちぶ」にもとめたとしている (内田うちだ 2006 p.32, pp.44-45)
  38. ^ 内田うちだ 2006 pp.44-45 『「平津ひらつ」(北京ぺきん天津てんしん)=華北かほく地域ちいきへはへいすすめてはならないが、「まんしゅうこく」の一部いちぶであるねつかわならば問題もんだいはないとの主張しゅちょう国内こくない世論せろんうったえたのである』(うったえた内容ないようは『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』1がつ12にち出典しゅってんとする)、内田うちだ 2006 p.68 『華北かほくにおいては……「満州まんしゅうこく内政ないせい問題もんだい」の処理しょりという論理ろんり正当せいとうすることができなくなった』
  39. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ14にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  40. ^ 長城ちょうじょう以南いなんには絶対ぜったいへいしゅっさん。ちょうまなぶりょうがどんなことをやってても追撃ついげきはしない。ようするにねつかわのみを目的もくてきとしてやる、ということを文書ぶんしょにして、かたくこの閣議かくぎ決定けっていしておこうじゃないか」(はら田熊たぐまつよし西園寺さいおんじこう政局せいきょく だい3かん岩波書店いわなみしょてん 1951ねん4がつ5にち pp.22-23)
  41. ^ 内田うちだ 2006 p.45-47
  42. ^ 荒木あらき貞夫さだお帝国ていこく議会ぎかい会議かいぎろくだい64議会ぎかい 1933ねん2がつ2にち
  43. ^ 内田うちだ 2006 p.47
  44. ^ 内田うちだ 2006 p.47-48
  45. ^ 内田うちだ 2006 p.64 (原典げんてんは『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』2がつ10日とおか
  46. ^ a b 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ9にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  47. ^ ロンドン・タイムズ 1933ねん1がつ9にち、12めん
  48. ^ a b ロンドン・タイムズ 1933ねん1がつ11にち、12めん
  49. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ11にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  50. ^ ロンドン・タイムズ 1933ねん1がつ28にち、9めん
  51. ^ a b 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ16にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  52. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ23にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  53. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん1がつ24にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  54. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ10にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  55. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ19にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  56. ^ 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ22にちづけ朝刊ちょうかん 1めん
  57. ^ 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ24にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  58. ^ a b ロンドン・タイムズ 1933ねん2がつ20日はつか、10めん
  59. ^ a b 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ28にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  60. ^ ロンドン・タイムズ 1933ねん2がつ23にち、14めん
  61. ^ 陸軍りくぐんしょう発表はっぴょうによればりゅうかつらどう2まんは2がつ20日はつか帰順きじゅん(『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ25にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  62. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ23にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  63. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ24にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  64. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ25にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  65. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん2がつ25にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  66. ^ a b 内田うちだ 2006 p.58
  67. ^ 戦史せんし叢書そうしょでは3がつ8にちから11にちあいだ下野げやしたとされ、大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ8ねん3がつ10にちづけ夕刊ゆうかん1めんでは3がつ10日とおか下野げやしたと報告ほうこくされている。
  68. ^ 戦史せんし叢書そうしょ p.3
  69. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん3がつ14にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  70. ^ 戦史せんし叢書そうしょ p.3
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  86. ^ 中村なかむら 1990, p.346、内田うちだ 2006 pp.60-61 ただし内田うちだ昭和しょうわ天皇てんのう下問かもんは4がつ17にちとする
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  101. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん3がつ25にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  102. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん4がつ7にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  103. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん4がつ9にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
  104. ^ a b c d 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1933ねん6がつ1にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  105. ^ 内田うちだ 2006 pp.108-109 (外務省がいむしょうへん日本にっぽん外交がいこう年表ねんぴょうなみ主要しゅよう文書ぶんしょ1840-1045』下巻げかんはら書房しょぼう、1966ねん、p.274)原文げんぶんはカナじりであるのをひらがなになおした。
  106. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1937ねん10がつ22にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  107. ^ 11月24にち冀東防共ぼうきょう自治じち委員いいんかいとして成立せいりつし、12月25にちに冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふとなった(『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1937ねん11月25にちづけ朝刊ちょうかん 2めん、『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1937ねん12月26にちづけ朝刊ちょうかん 2めん
  108. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1937ねん12月19にちづけ夕刊ゆうかん 1めん
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  110. ^ 姫野ひめの 1937 p.17
  111. ^ 広中ひろなか 2013 p.205

参照さんしょう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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