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アヘン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケシの果実かじつ(いわゆるケシ坊主けしぼうず)にきずをつけて、アルカロイド樹脂じゅし採取さいしゅする

アヘン阿片あへん鴉片あへんopium)は、ケシ芥子からしopium poppy)のから採取さいしゅされる果汁かじゅう乾燥かんそうさせたもので、麻薬まやく一種いっしゅである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ケシのから採取さいしゅされるアルカロイドオピエートばれ、そこから合成ごうせいされるものがオピオイドである[1]麻薬まやく(narcotic)とは、本来ほんらいこのようなオピエートオピオイド[1]

ケシから採取さいしゅされたアルカロイドや、そこから合成ごうせいされる化合かごうぶつは、鎮痛ちんつう陶酔とうすいといった作用さようがあり、またこう用量ようりょう摂取せっしゅでは昏睡こんすい呼吸こきゅう抑制よくせいこす[1]。このようなアルカロイドや、合成ごうせい化合かごうぶつには、モルヒネヘロインコデインオキシコドンふくむ。

アヘンの由来ゆらいは、英語えいごopium中国ちゅうごく音訳おんやくである阿片あへん拼音: a piàn アーピエン)を音読おんよみしたものである。あきらだい中国ちゅうごく江戸えど時代じだい日本にっぽんではおもね芙蓉ふよう(あふよう)といた。

ケシのしる古代こだいから鎮痛ちんつう鎮静ちんせい作用さようられ、医薬品いやくひんとしてもちいられてきた。しかし同時どうじ習慣しゅうかんせいや、濫用らんようによる健康けんこう被害ひがいなど、麻薬まやくとしての特性とくせいがあり、アヘン戦争せんそうこすなど、重大じゅうだい害悪がいあくこした。

現在げんざいでは、1912ねんハーグ阿片あへん条約じょうやく、これを1961ねん麻薬まやくかんする単一たんいつ条約じょうやくにおいて国際こくさい統制とうせいにある。日本にっぽんでもあへんほうによって規制きせいされている。

性質せいしつ[編集へんしゅう]

アヘンを収穫しゅうかくする伝統でんとうてき方法ほうほうとしては「ヘラき」がある。ケシの開花かいか、10 - 20日はつかって花弁はなびらちた未熟みじゅくはて(いわゆるケシ坊主けしぼうず)の表皮ひょうひに、あさのうちあさみをれると、乳液にゅうえきじょう物質ぶっしつ分泌ぶんぴつする。これを夕方ゆうがたってあつめ、乾燥かんそうさせるとくろ粘土ねんどじょうはん固形こけいぶつになる。こうしてあつめられたのがなまアヘンで、やく10%ほどのモルヒネなどのおおくのアルカロイドるい(アヘンアルカロイド)をふくむ。

ヘラきによるアヘンの採取さいしゅ人手ひとで手間てまがかなりかかる。そのわりにられるりょうはごくわずか(1kgのアヘンをるのに、ケシのやく2000ほん必要ひつよう)である。まずしい農民のうみん栽培さいばい従事じゅうじするアフガニスタンなど非合法ひごうほう栽培さいばい地域ちいきでは現在げんざいおこなわれているが、合法ごうほうてき栽培さいばいにおいては、現在げんざい有機ゆうき溶媒ようばいくきふく全体ぜんたい処理しょりして化学かがくてき麻薬まやく成分せいぶんアルカロイドを抽出ちゅうしゅつ精製せいせいする方法ほうほう主流しゅりゅうである。

つくったアヘンは産地さんち薬研やげん粉末ふんまつにし、ブリキかんれ、製品せいひんとして出荷しゅっかする。精製せいせいしなくても薬効やっこうがあるために、きわめてふるくからそのまま吸引きゅういんされてきた。しかしなまアヘンは不純物ふじゅんぶつ大量たいりょうふくみ、ききめがモルヒネやヘロインよりすうだんおとるため、そのままでの麻薬まやくとしての商品しょうひん価値かちはかなりひくい。価値かちたかめるにはさらに煮出にだして乾燥かんそうさせるなど精製せいせいし、およ化学かがくてき加工かこうして、モルヒネやヘロインに加工かこうする必要ひつようがある。精製せいせいするとりょうがアヘンのときの 20 - 25% までにる。

産地さんち[編集へんしゅう]

以前いぜん[いつ?]は、東南とうなんアジアタイラオスミャンマーまたがる「黄金おうごん三角さんかく地帯ちたい」でおお生産せいさんされていたが、抑制よくせい対策たいさくこうそうしてその地帯ちたいでのケシ栽培さいばいおおきく減少げんしょうした。2009ねん国連こくれん薬物やくぶつ犯罪はんざい事務所じむしょ報告ほうこく[2]によれば、アヘンの94%はアフガニスタン生産せいさんされている。2010ねんにはケシの病害びょうがいにより生産せいさんりょう減少げんしょう、アヘンの農場のうじょう出荷しゅっかがくが$64/kg から$169/kgへと高騰こうとうした[3]

2011ねん10がつ、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外務がいむ大臣だいじんは、「アフガニスタンのアヘンはたけ一掃いっそうすることにアメリカが消極しょうきょくてきであることにおどろきをきんじえない」とべ、アフガニスタンでのアメリカのアヘン問題もんだいへの態度たいど批判ひはんした[4]

アヘン[編集へんしゅう]

阿片あへん中国人ちゅうごくじん
禁止きんしれいにより、焼却しょうきゃくされる喫煙きつえん

アヘンはきわめてふるくからその存在そんざいられている。紀元前きげんぜん3400ねんごろにはメソポタミアでケシが栽培さいばいされていたとかんがえられており、紀元前きげんぜん3000ねんごろ記述きじゅつされたとられるイランでつかった石版せきばんにはシュメールじん乳液にゅうえき採取さいしゅについて記述きじゅつされている。紀元前きげんぜん2000ねんごろには、ヨーロッパや、中央ちゅうおうアルプスにケシ栽培さいばいつたわった。紀元前きげんぜん1500ねんごろエジプトにてアヘン製造せいぞうがされていたことがわかるパピルス文献ぶんけんつかっている。文献ぶんけんによれば、アヘンは当時とうじのエジプトにおいて鎮痛ちんつうざいなどの薬剤やくざいとしてもちいられていた。メトロポリタン美術館びじゅつかんにある、アッシュールナツィルパル2せい宮殿きゅうでんにあった紀元前きげんぜん879ねんつくられたりのゆうつばさかみじゅうは、美術館びじゅつかんザクロ解説かいせつしているもののケシの未熟みじゅくはてたばはこんでいる。

紀元前きげんぜん300ねんころギリシャ哲学てつがくしゃであるテオプラストス著書ちょしょに、アヘンについての記述きじゅつることができる。ギリシャ神話しんわでは、アヘンの発見はっけんしゃ女神めがみデメテルとされている。マ帝国まていこくネロみかど時代じだい医師いしディオスコリデスは、アヘンの採取さいしゅほうおよ薬効やっこう著書ちょしょなかくわしくべている。この時代じだいには、アヘンはすでに鎮痛ちんつうざい睡眠すいみんざいとして利用りようされていた。一部いちぶ遊興ゆうきょうてき使用しようおこなわれたが、おおくは薬用やくようであった。英語えいごめいopiumは、この時代じだいラテン語らてんごめいopiumをいだものである。古代こだいヨーロッパにおけるアヘンの使用しようは、西にしマ帝国まていこく滅亡めつぼうにより、一時いちじすたることとなった。

5世紀せいき前後ぜんこうイスラムけん交易こうえきもう発達はったつし、インドや中国ちゅうごく、アフリカの中部ちゅうぶなどの各地かくちにアヘンはもたらされた。アラブ商人しょうにん医薬品いやくひんとしてのアヘンを商品しょうひんとみなしていた。ひがしアジアにも伝来でんらいした。シルクロードつうじて、アラブ商人しょうにんんだとかんがえられている。500ねんごろ薬学やくがくしゃであったとうひろしけいにより編纂へんさんされた『から本草ほんぞう』には医薬品いやくひんとしてのアヘンの記述きじゅつがある。それ以前いぜんに、シルクロードをつうじてまれた医薬品いやくひんそこ迦(てりあか)にはアヘンがふくまれていたとの指摘してきがある。

11世紀せいき前後ぜんこう、イスラムけんとの接触せっしょくて、アヘンはヨーロッパにさい伝来でんらいした。ふたたび、医薬品いやくひんとしてもちいられた。15世紀せいきごろからは麻酔ますいやくとしてももちいられた。20世紀せいき初頭しょとうまでは民間みんかん療法りょうほう薬剤やくざいとしてもちいられた。

だい航海こうかい時代じだいての西欧せいおう諸国しょこくによる海上かいじょう貿易ぼうえきにおいて、アヘンは重要じゅうよう商品しょうひんとなった。中国ちゅうごくでは、西欧せいおう諸国しょこくとくにイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘンおちいる。イギリス交易こうえきにおいて三角さんかく貿易ぼうえき構造こうぞう構築こうちくし、アヘンをもちいて資産しさん獲得かくとくした。このアヘン貿易ぼうえきは、規模きぼ対象たいしょう時代じだいこそちがうものの諸国しょこくにおいても同様どうよう交易こうえきおこなわれた。

清国きよくにでは、上海しゃんはいなど都市としかわ沿地域ちいき使用しようしゃおおく、当初とうしょ運搬船うんぱんせん停泊ていはく船内せんない宿場しゅくばなどで煙草たばこぜて吸入きゅうにゅうされていた。19世紀せいき、このアヘンの蔓延まんえん危機ききかんをつのらせた清国きよくにがイギリス商人しょうにんのアヘンを焼却しょうきゃく中国語ちゅうごくごばんしたことが、イギリスと清国きよくにあいだで、アヘン戦争せんそう(1840ねん-)のがねとなった。しかし、この紛争ふんそうもアヘン流入りゅうにゅうりょう縮小しゅくしょうされず、市中しちゅうでは次第しだいはん固形こけい阿片あへんあぶら煙管きせる(キセル)にれて吸入きゅうにゅうするようになっていた。この携行けいこうしやすい阿片あへんあぶらによって、よりきよし国内こくない広域こういきへアヘンが浸透しんとうアヘンくつ伝播でんぱした。20世紀せいき初頭しょとう清末きよすえには、清国きよくに上流じょうりゅうそうにもアヘンが一部いちぶながれていたとされており、きよし滅亡めつぼうの1930年代ねんだいにおいても、煙管きせるなど吸引きゅういん用品ようひん取扱とりあつかいてんや「だいけむり」と看板かんばんかかげたけむりかんなど、アヘン関係かんけいみせ各地かくちでみられた。

ヨーロッパにおいては、「アヘンの危険きけんせい認知にんち」や「アヘンの習慣しゅうかんものおお中国人ちゅうごくじん各地かくちへの移住いじゅうとそれによる中国人ちゅうごくじんコミュニティーとの接触せっしょく」にともない19世紀せいきにははんアヘン運動うんどうたかまった。また、アメリカカナダへの中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃ流入りゅうにゅうともに、とくにサンフランシスコをはじめとする地域ちいきでアヘンくつがみられるようになり、1875ねんいたはんドラッグほう制定せいていなど対策たいさくおこなわれた。

20世紀せいき初頭しょとうから、国際こくさいあいだにおけるアヘンの統制とうせいはじまる。1912ねんにはハーグ阿片あへん条約じょうやく調印ちょういんされ、アヘン貿易ぼうえき制限せいげんされた。1920ねん国際こくさい連盟れんめい成立せいりつしてからは、連盟れんめい統制とうせいかんする職務しょくむい、国際こくさい機関きかん設置せっちされた。1926ねんだいいちだい阿片あへん会議かいぎ条約じょうやくでは、アヘンの使用しようとうかんしても統制とうせいされ、1928ねん麻薬まやく製造せいぞう制限せいげん条約じょうやくにおいてアヘン貿易ぼうえき完全かんぜん禁止きんしされた。国際こくさい連合れんごう移行いこうも、同様どうよう統制とうせい体制たいせい持続じぞくし、現行げんこうの1961ねん麻薬まやくかんする単一たんいつ条約じょうやくにおいてもアヘンは統制とうせいされている。

日本にっぽんにおけるアヘン[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいまで[編集へんしゅう]

文献ぶんけんえるふる記録きろくでは、梶原かじはらせいあきら(かじわらしょうぜん:1265 - 1337)『ひたぶるしょう』のなかにすでに「罌粟げし」の用語ようごられる。くだって室町むろまち時代ときよには、南蛮なんばん貿易ぼうえきによってケシのたねインドから津軽つがる地方ちほう現在げんざい青森あおもりけん)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称ぞくしょうとなったという伝承でんしょうがある[5]。その江戸えど時代じだいつうじて現在げんざい山梨やまなしけん和歌山わかやまけん大阪おおさか付近ふきんなどで栽培さいばいされたが、いずれも少量しょうりょう高価こうかであり、用途ようととしても麻酔ますいなどの医療いりょうよう投獄とうごくしゃへの自白じはくざいなどにかぎられていた。寺島てらしまりょうやす和漢わかんさんさい図会ずえ』(1713ねんころまきひゃくさんには「阿片あへん」や生薬きぐすりたつすななどと調合ちょうごうした「いちつぶきむまこと」なる丸薬がんやくとめ瀉薬として紹介しょうかいされている。この処方箋しょほうせん備前びぜん岡山おかやまはんはん木村きむらげんせきによるといい、これが元禄げんろく2ねん1689ねん弘前ひろさきはんはん和田わだげんりょう秘薬ひやくとしてつたわった。はん和田わだげんはるによる寛政かんせい11ねん1799ねん)の効能こうのうしょには鎮痛ちんつう強壮きょうそううたわれている[6]。このくすり評判ひょうばんはすぐに江戸えどにまでおよび、歌舞伎かぶき富岡とみおかこいさんひらき』には「しんみぎ衛門えもん、それでおれが、月々つきづきまそうとおもって、伝手つてたのんで、津軽つがるのお座敷ざしき所望しょもうしたいちつぶきむまこと」という台詞せりふのこされるまでとなり、江戸えどちゅうられていたようである[6]天保てんぽう8ねん1837ねん摂津せっつ道修どしょうまちくすり問屋とんや奉公ほうこう太田おおた四郎しろう兵衛ひょうえ種子しゅしかえって栽培さいばいし、はじめてアヘンの製造せいぞう成功せいこうしたとの記述きじゅつもみえる。

幕末ばくまつ[編集へんしゅう]

一方いっぽう16世紀せいきなかばのあきらあさ末期まっきに、イギリスの三角さんかく貿易ぼうえきによりインドから大量たいりょうのアヘンが中国ちゅうごくない流通りゅうつうはじめ、やがてあかりほろきよしとなった中国ちゅうごくからは、長崎ながさき貿易ぼうえきつうじて吸煙きゅうえん用途ようと安価あんかなアヘン(けむりあぶら)やなまアヘンがられるようになった。日本にっぽん鎖国さこくはしていたが、海外かいがい情報じょうほうオランダ風説ふうせつしょによってていた。

19世紀せいきはいるとオランダ以外いがい欧米おうべい諸国しょこく日本にっぽんにも執拗しつよう開国かいこくしてきており、江戸えど幕府ばくふ対応たいおう苦慮くりょしていた。1839ねん天保てんぽう10ねん)にアヘン戦争せんそうはじまると、オランダはそれまでの風説ふうせつしょとはべつに、詳細しょうさい別段べつだん風説ふうせつしょとしての報告ほうこくしょ阿片あへん招禍ろく[7]」を作成さくせいして欧米おうべいかかわる動乱どうらん詳細しょうさい報告ほうこくはじめた。その3ねんあかりつづ大国たいこく認識にんしきしていたきよしがイギリスに大敗たいはいしたことは幕政ばくせいおおいにるがし、同年どうねん異国いこくせんはらいれいした。このためアヘンにかんしては日本にっぽんきよし後追あとおいになる危険きけんもあったが、佐久間さくま象山ぞうさんらによってげんひじりたけし』『海国かいこくこころざし』などが熱心ねっしん研究けんきゅうされ(斎藤さいとうたけどう鴉片あへん始末しまつ』など)、また、これはアメリカ全権ぜんけんタウンゼント・ハリス日本にっぽんにアヘンの危険きけんせいいた。 鎖国さこくいた4ねん安政あんせい5ねん1858ねん)に安政あんせいカ国かこく条約じょうやく締結ていけついたり、このいずれのくにからもアヘンの輸入ゆにゅう禁制きんせいとする条文じょうぶん記載きさいされた[8][9][10][11][12][ちゅう 1]。 なお、国内こくないでは1822ねんから国内こくない散発さんぱつしていたコレラがこのとし江戸えどでもだい流行りゅうこうし、蘭方らんぽう医学いがくものポンペ患者かんじゃキニーネとアヘンの製剤せいざいあたえたことが記録きろくされており[13]、またてん松本まつもとりょうじゅん開国かいこくめぐ朝廷ちょうてい説得せっとく心労しんろうたおれた徳川とくがわ慶喜よしのぶにアヘンを処方しょほうして不眠ふみんおさめたなど一定いってい需要じゅようがあり、日本にっぽんではまだ吸煙きゅうえん習慣しゅうかん定着ていちゃくしておらず、栽培さいばい全国ぜんこくひろがっていた。

明治めいじ[編集へんしゅう]

長崎ながさき横浜よこはまなどの条約じょうやくみなとでは、貿易ぼうえきのためにあつまった外国がいこく商人しょうにん居住きょじゅうのため使用人しようにん料理人りょうりにんとして中国人ちゅうごくじんれてており、かれらが密輸みつゆによりアヘンのけむりあぶらんで問題もんだいとなっていた。長崎ながさきでは中国人ちゅうごくじん日本人にっぽんじんにアヘンのけむりあぶら大量たいりょうりつけ、遊女ゆうじょなどが中毒ちゅうどくする事件じけんつたえている[14]。やがてたびたび「あへん禁令きんれい」の高札こうさつつようになり、1868ねん6がつ慶応けいおう4ねんうるう4がつ)、明治めいじ政府せいふから最初さいしょのアヘン禁令きんれいとなる「阿片あへんけむりきんはんけん高札こうさつ掲示けいじセシム」[15]布告ふこくし、「あへん煙草たばこひと生気せいき消耗しょうもういのちちぢめるもの」とはじめてひとがいであることが明記めいきされた。政府せいふほう整備せいびすすめ、1870ねん9月4にち明治めいじ3ねん8がつ9にち)には「販売はんばい鴉片あへんけむりりつ[16]布告ふこくされ、使用しよう売買ばいばいふくめて罰則ばっそく規定きていもう重罪じゅうざいとした。なおこの法律ほうりつ現行げんこうほうにほぼそのままれられ、「あへんけむりかんするつみ刑法けいほう136-140じょう)」となっている。また、国内こくない流通りゅうつうするアヘンについても「なま鴉片あへん取扱とりあつかい規則きそく[17]同日どうじつ発布はっぷし、記録きろく届出とどけでなど管理かんり徹底てっていはじめた。これらの法律ほうりつ在留ざいりゅう清国きよくにじんにも適用てきようされた。

植民しょくみんにおけるアヘン対策たいさく[編集へんしゅう]

アヘン戦争せんそう敗戦はいせん以後いご大量たいりょう中国人ちゅうごくじん東南とうなんアジアやひがしアジアへ移動いどうしており、それとともにアヘンも拡大かくだいしていった。

1877ねんにはイギリス商人しょうにんによるアヘン密輸みつゆ事件じけんであるハートレー事件じけんおこったが、治外法権ちがいほうけん行使こうしされてハートレーは無罪むざいとなった。イギリス領事館りょうじかんからぎゃくほう制度せいど整備せいび指摘してきされた明治めいじ政府せいふは、1879ねん明治めいじ12ねん5月1にち薬用やくよう阿片あへん売買ばいばいなみ製造せいぞう規則きそく阿片あへん専売せんばいほう)を施行しこうした。この法律ほうりつにおいて、政府せいふ国内外こくないがいにおけるアヘンを独占どくせんてき購入こうにゅうし、許可きょか薬局やっきょくのみの専売せんばいとした。購入こうにゅう医療いりょう用途ようとのみとし、購入こうにゅうしゃおよ栽培さいばい農家のうか政府せいふによる登録とうろくせいとした。この専売せんばいせい政府せいふ利益りえきをもたらし、にちしん戦争せんそう戦費せんぴとなった。

にちしん戦争せんそう下関しものせき条約じょうやくによりきよから台湾たいわん割譲かつじょうさせて植民しょくみんとした日本にっぽんは、台湾たいわんにおいてアヘンの製造せいぞう消費しょうひ一大いちだい産業さんぎょうになっていることをった。台湾たいわん総督そうとく衛生えいせい顧問こもんだった後藤ごとう新平しんぺい伊藤いとう博文ひろぶみ日本にっぽんによるアヘン専売せんばい建議けんぎし、1897ねんには台湾たいわん阿片あへんれいかれる。どうれいにおいては、すでに常用じょうようしゃである台湾たいわんじん登録とうろくのうえアヘン購入こうにゅう許可きょかされたが、日本人にっぽんじん、および中毒ちゅうどくしゃでない台湾たいわんじん医療いりょう目的もくてき以外いがいのアヘン使用しよう禁止きんしされた。1898ねん阿片あへんれいでは、台湾たいわん総督そうとく専売せんばいきょくによる専売せんばいはじまった。後藤ごとう台湾たいわんのケシ栽培さいばい課税かぜい対象たいしょうとし、段階だんかいてき課税かぜい厳格げんかくすることで、40ねんをかけ台湾たいわんのケシ生産せいさん消滅しょうめつさせる一方いっぽう内地ないちでは、はん長音ちょうおんぞうなどのケシ栽培さいばい積極せっきょくてき後援こうえんし、1935ねんごろには日本にっぽんのアヘン年間ねんかん生産せいさんりょうは15tたっした。台湾たいわん総督そうとくは、日本にっぽんさんアヘンの台湾たいわんへの輸出ゆしゅつ販売はんばいにより、莫大ばくだい利益りえきた。

昭和しょうわはいると日本にっぽん朝鮮ちょうせんまんしゅうねつかわしょう遼寧りょうねいしょううちモンゴルなどでケシ栽培さいばい奨励しょうれいし、だい世界せかい大戦たいせんなか満州まんしゅうさんアヘンに高額こうがくぜいをかけ戦費せんぴ調達ちょうたつした[18]

中華民国ちゅうかみんこくは、日本にっぽんちがい、アヘンの全面ぜんめん禁止きんし政策せいさく採用さいようしていたが、四川しせんしょう雲南うんなんしょうなどで密造みつぞうされた非合法ひごうほうのアヘンがやみ流通りゅうつうしており、軍閥ぐんばつ重要じゅうよう資金しきんげんとされていた[19]中国ちゅうごくさんアヘンの末端まったん価格かかく日本にっぽんさんのそれのやく半分はんぶんであり、しばしば日本にっぽんさんアヘンを市場いちばから駆逐くちくした。にちちゅう戦争せんそうがはじまると、関東軍かんとうぐんかげただしあきら大佐たいさ指導しどうのもと、里見さとみはじめ秘密ひみつ結社けっしゃあおべに連携れんけい里見さとみ機関きかん設立せつりつし、中国ちゅうごく通貨つうかほうぬさ獲得かくとくするため、上海しゃんはいなどでアヘンやモルヒネを大量たいりょう密売みつばいした。

統制とうせい状況じょうきょう[編集へんしゅう]

アヘンはおおくのくに麻薬まやく一種いっしゅとしてその製造せいぞう販売はんばい販売はんばい目的もくてき所持しょじ禁止きんしまたは規制きせいされている(自己じこ使用しよう処罰しょばつする日本にっぽん法制ほうせいは、比較ひかく法的ほうてきには少数しょうすうである)。

日本にっぽんでは麻薬まやくおよこう精神せいしんやく取締とりしまりほうあへんほうが、アヘンやヘロインの使用しよう所持しょじとう禁止きんししている。どうほうにより、原料げんりょうのケシの栽培さいばい自体じたい禁止きんしされている。あへんほうにいう「けし」とは、Papaver somniferum L., Papaver setigerum DC. およびそののケシぞく (Papaveraceae) の植物しょくぶつであって、厚生こうせい労働ろうどう大臣だいじん指定していするものをいい、「あへん」とは、けしのくすりじる凝固ぎょうこしたものおよびこれに加工かこうほどこしたもの(医薬品いやくひんとして加工かこうほどこしたものをのぞく。)をいう(どうほう3じょう1ごう、2ごう)。使つか意思いしがなくとも吸引きゅういん用具ようぐ所持しょじ海外かいがいでは吸引きゅういん用具ようぐ美術びじゅつひんとして取引とりひきされているところがある)しているだけでも違法いほうになる。刑法けいほう136じょう - 141じょうでアヘンの製造せいぞう輸入ゆにゅう所持しょじ吸煙きゅうえんおよび吸煙きゅうえん道具どうぐ製造せいぞう輸入ゆにゅう所持しょじ吸煙きゅうえん場所ばしょ提供ていきょうきんじており、未遂みすい処罰しょばつされる(刑法けいほうだい2へん だい14しょうあへんけむりかんするつみ」)。

現在げんざい、モルヒネようとしてのアヘン輸出ゆしゅつ国際こくさいてきみとめられているくにはインド、日本にっぽん中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせんだけである。しかし、外国がいこく輸出ゆしゅつ出来できるほどの生産せいさんりょうすくなくとも、ひょうのルートで取引とりひきされるもの)があるのはインドだけである。また、オーストラリアでも比較的ひかくてきだい規模きぼ薬用やくようアヘンの製造せいぞうおこなわれているが、国内こくない需要じゅよう一部いちぶしかたせない。日本にっぽんでは、栽培さいばい技術ぎじゅつ継承けいしょうのため、北海道大学ほっかいどうだいがくきわめて小規模しょうきぼ生産せいさんおこなわれている。そのくにでは、すくなくとも表向おもてむきはだい規模きぼなケシ栽培さいばいおこなわれていない。このため、世界せかい合法ごうほうてきなモルヒネは大半たいはんがインドさんである。また、必要ひつよう以上いじょう在庫ざいこ保有ほゆうすることがきんじられているため、いかにインドとえども、なんらかのきゅう需要じゅよう増加ぞうかには対処たいしょできない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ オランダとはこの前年ぜんねんにちらん追加ついか条約じょうやくですでにアヘンにかんしての禁輸きんゆめられている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 世界せかい保健ほけん機関きかん (1994) (pdf). Lexicon of alchol and drug term. World Health Organization. pp. 47, 49-50. ISBN 92-4-154468-6. http://whqlibdoc.who.int/publications/9241544686.pdf  (HTMLばん introductionが省略しょうりゃくされている
  2. ^ 2009 Annual Opium Survey
  3. ^ 2010 Annual Opium Survey
  4. ^ アフガニスタンのアヘンはたけ一掃いっそうにアメリカは消極しょうきょくてき ロシアは疑問ぎもん
  5. ^ 伊澤いさわ一男かずお薬草やくそうカラー図鑑ずかん』「ケシ」。
  6. ^ a b 陸奥むつ新報しんぽう 2009ねん10がつ19にちばんケシ栽培さいばいんだ秘薬ひやく=36
  7. ^ 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん 激動げきどう幕末ばくまつ 開国かいこく衝撃しょうげき
  8. ^ にちらん修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく
  9. ^ 日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく
  10. ^ にちえい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく
  11. ^ にち修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく
  12. ^ にちふつ修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく
  13. ^ 長崎大学ながさきだいがく薬学部やくがくぶ 近代きんだい薬学やくがく到来とうらい
  14. ^ さき雑報ざっぽう阿片あへん遊女ゆうじょなす」慶応けいおう4ねん8がつ
  15. ^ 阿片あへんけむりきんはんけん高札こうさつ掲示けいじセシム - 日本法令にほんほうれい索引さくいん明治めいじ前期ぜんきへん
  16. ^ 販売はんばい鴉片あへんけむりりつ - 日本法令にほんほうれい索引さくいん明治めいじ前期ぜんきへん
  17. ^ なま鴉片あへん取扱とりあつかい規則きそく - 日本法令にほんほうれい索引さくいん明治めいじ前期ぜんきへん
  18. ^ NHKスペシャル. “調査ちょうさ報告ほうこく 日本にっぽんぐん阿片あへん”. 2008ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  19. ^ 定時ていじ秀和しゅうわ日本にっぽん阿片あへん侵略しんりゃく中国ちゅうごく阿片あへん抵抗ていこうについて」『歴史れきし研究けんきゅうだい30ごう大阪教育大学おおさかきょういくだいがく歴史れきしがく研究けんきゅうしつ、1992ねん、p87-122、ISSN 03869245NAID 120001060213 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 佐藤さとうひろしだい東亜とうあ特殊とくしゅ資源しげんだい東亜とうあ出版しゅっぱん、1943ねん。『ぞく現代げんだい史料しりょうしゅう 12』だい一部いちぶだいさん資料しりょう
  • たんちょうはん戦争せんそう日本にっぽん阿片あへん』 すばる書房しょぼう、1977ねん
  • マーティン・ブース 『阿片あへん田中たなか昌太郎しょうたろうやく中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1998ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]