出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2021年 ねん 4月 がつ )
この項目 こうもく では、15世紀 せいき 中 ちゅう ごろから17世紀 せいき 中 ちゅう ごろのヨーロッパ人 じん による植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 的 てき な海外 かいがい 進出 しんしゅつ について説明 せつめい しています。
1502年 ねん に描 えが かれたカンティーノ平面 へいめん 天球 てんきゅう 図 ず 。現存 げんそん する最古 さいこ の平面 へいめん 天球 てんきゅう 図 ず であり、クリストファー・コロンブス が中央 ちゅうおう アメリカ、ガスパル・コルテ=レアル がニューファンドランド島 とう 、ヴァスコ・ダ・ガマ がインド、ペドロ・アルヴァレス・カブラル がブラジルに各々 おのおの 赴 おもむ いたことが示 しめ されている。トルデシリャス条約 じょうやく による分割 ぶんかつ 線 せん も図 ず 中 ちゅう 左側 ひだりがわ に描 えが かれている。
大 だい 航海 こうかい 時代 じだい の主 おも な航路 こうろ を示 しめ した地図 ちず
大 だい 航海 こうかい 時代 じだい (だいこうかいじだい)とは、15世紀 せいき 半 なか ばから17世紀 せいき 半 なか ばまでのヨーロッパ人 じん によるアフリカ ・アジア ・アメリカ大陸 あめりかたいりく への大 だい 規模 きぼ な航海 こうかい が行 おこな われた時代 じだい を指 さ す区分 くぶん である。主 おも にポルトガル とスペイン により行 おこな われた。
「大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 」の名称 めいしょう は、1963年 ねん 岩波書店 いわなみしょてん にて「大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 叢書 そうしょ 」を企画 きかく していた際 さい 、それまでの「地理 ちり 上 じょう の発見 はっけん 」、「大 だい 発見 はっけん 時代 じだい 」(Age of Discovery / Age of Exploration )といったヨーロッパ人 じん の立場 たちば からの見方 みかた による名称 めいしょう に対 たい し、新 あたら しい視角 しかく を持 も ちたいとの希求 ききゅう から、増田 ますだ 義郎 よしお により命名 めいめい された。増田 ますだ は、大 だい 航海 こうかい 時代 じだい の時間 じかん 的 てき 範囲 はんい について、議論 ぎろん があると前置 まえお きした上 うえ で、具体 ぐたい 的 てき な始 はじ まりと終 お わりの年 とし を提案 ていあん している。増田 ますだ によれば、大 だい 航海 こうかい 時代 じだい の始 はじ まりは、1415年 ねん におけるポルトガル のセウタ 攻略 こうりゃく 。終 お わりの年 とし は、三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう が終結 しゅうけつ し、ロシア人 じん の探検 たんけん 家 か セミョン・デジニョフ がチュクチ半島 はんとう のデジニョフ岬 みさき に到達 とうたつ した1648年 ねん である[1] 。
人類 じんるい 出現 しゅつげん 以来 いらい 、隣 とな り合 あ う文化 ぶんか 文明 ぶんめい は互 たが いに交流 こうりゅう し影響 えいきょう を及 およ ぼしあってきた。文化 ぶんか 交流 こうりゅう は人類 じんるい に限 かぎ られたことではなく、道具 どうぐ の使用 しよう をも文化 ぶんか と認 みと めるなら、チンパンジー や一部 いちぶ の鳥獣 ちょうじゅう についても、個体 こたい 間 あいだ や隣 とな り合 あ う地域 ちいき を介 かい して文化 ぶんか 交流 こうりゅう が行 おこな われている[i] 。人類 じんるい は言葉 ことば や文字 もじ を使用 しよう するので、より円滑 えんかつ に文化 ぶんか 文明 ぶんめい を伝播 でんぱ することが可能 かのう であるが、極東 きょくとう と西 にし ヨーロッパのように遠隔 えんかく 地 ち に住 す む人々 ひとびと が直接 ちょくせつ 交流 こうりゅう するためには、試行錯誤 しこうさくご を経 へ た知識 ちしき の蓄積 ちくせき や、異国 いこく から得 え た科学 かがく 技術 ぎじゅつ の進歩 しんぽ が必要 ひつよう であった。
マケドニア王 おう アレクサンドロス
強大 きょうだい な国家 こっか が成立 せいりつ した場合 ばあい 、当然 とうぜん のように遠隔 えんかく 地 ち 間 あいだ 交流 こうりゅう が加速 かそく する。そのことは文明 ぶんめい のゆりかご の発祥 はっしょう 地 ち をはじめインカ帝国 ていこく やアステカ帝国 ていこく の例 れい を見 み るまでもなく明 あき らかである。
古代 こだい ギリシャ人 ひと は、地中海 ちちゅうかい 周辺 しゅうへん とエジプト さらにアケメネス朝 あさ ペルシャ が支配 しはい するオリエント の一部 いちぶ を世界 せかい として認識 にんしき していた。アレクサンドロス3世 せい (大王 だいおう )の東方 とうほう 遠征 えんせい によって、ギリシャ人 じん の世界 せかい 観 かん はインド・中国 ちゅうごく までに一気 いっき に広 ひろ がった。アレキサンドロス3世 せい がペルシャの皇女 おうじょ を娶 めと ったことに象徴 しょうちょう されるように、アレキサンドロス3世 せい の帝国 ていこく ではコスモポリタニズム が標榜 ひょうぼう され、遠隔 えんかく 地 ち に住 す む人々 ひとびと 同士 どうし の交流 こうりゅう が盛 さか んに行 おこな われ、その伝統 でんとう はディアドコイ 達 いたる が建国 けんこく した国々 くにぐに やギリシャ文化 ぶんか の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けた古代 こだい ローマ にも受 う け継 つ がれた。
パックス・ロマーナ の下 した 、整備 せいび された航路 こうろ や道路 どうろ を使 つか って盛 さか んに遠隔 えんかく 地 ち 交易 こうえき が行 おこな われ、地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき や中東 ちゅうとう 地域 ちいき をはじめ遠 とお く極東 きょくとう からも珍 めずら しい商品 しょうひん がローマにもたらされた[ii] 。多様 たよう な人種 じんしゅ ・民族 みんぞく が奴隷 どれい となり或 ある いは傭兵 ようへい となり、またある人々 ひとびと はローマの富 とみ を求 もと めて流入 りゅうにゅう し、国際 こくさい 間 あいだ の交流 こうりゅう は益々 ますます 増加 ぞうか して行 い った[iii] 。また、こういったグローバリズムが進 すす んだ影響 えいきょう でペスト の大 だい 流行 りゅうこう などを始 はじ めとする疫病 えきびょう がヨーロッパを中心 ちゅうしん とするエピデミック も起 お こっているが、それによってグローバリズムの対 たい 義 ぎ 的 てき なナショナリズムの勃興 ぼっこう も見 み られるのもこの頃 ころ からで古代 こだい ギリシャのような都市 とし 国家 こっか よりも範囲 はんい の大 おお きな領域 りょういき 国家 こっか の形成 けいせい につながる流 なが れも見 み え始 はじ める。
中東 ちゅうとう ・インド・中国 ちゅうごく でも強力 きょうりょく な世界 せかい 帝国 ていこく [iv] が成立 せいりつ し、その影響 えいきょう 下 か にある国々 くにぐに の間 あいだ で盛 さか んに交易 こうえき が行 おこな われ、シルクロード や複数 ふくすう のスパイスロードによる香辛料 こうしんりょう 貿易 ぼうえき など多数 たすう の交易 こうえき 路 ろ や航路 こうろ が開拓 かいたく 整備 せいび された。アフリカ 地域 ちいき でも古代 こだい エジプト のほか、大 だい 陸奥 みちのく 部 ぶ にも王国 おうこく が成立 せいりつ し、塩 しお や金 きむ が大陸 たいりく を行 い き交 か った。このように各 かく 地域 ちいき で発展 はってん した交易 こうえき 圏 けん は、時代 じだい とともに互 たが いに接触 せっしょく を深 ふか め、旧 きゅう 世界 せかい においては世界 せかい 的 てき 交易 こうえき ネットワーク が徐々 じょじょ に構築 こうちく されていった。
ロ ろ ーマ帝国 まていこく が衰退 すいたい すると、未開 みかい 人 じん といわれたゲルマン人 じん やノルマン人 じん が相次 あいつ いでヨーロッパを侵 おか し、またイスラム 勢力 せいりょく がイベリア半島 はんとう に侵入 しんにゅう し、ヨーロッパは混乱 こんらん と停滞 ていたい の時代 じだい を迎 むか える。やがて西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領土 りょうど であった現在 げんざい のイタリア ・フランス ・ドイツ では、カトリック を精神 せいしん 的 てき 支柱 しちゅう とするフランク王国 おうこく が出現 しゅつげん した。フランク王国 おうこく はゲルマンの伝統 でんとう を色濃 いろこ く残 のこ していたが、ローマの遺産 いさん も尊重 そんちょう し継承 けいしょう した。ようやく安定 あんてい がもたらされた西 にし ヨーロッパの経済 けいざい が活性 かっせい 化 か し富 とみ が蓄積 ちくせき され、フランク王国 おうこく はトゥール・ポワティエ間 あいだ の戦 たたか い でイスラムの北進 ほくしん を阻 はば んだ。ペスト の流行 りゅうこう や気候 きこう 寒冷 かんれい 化 か による混乱 こんらん の中 なか で暗黒 あんこく 時代 じだい を経験 けいけん した中世 ちゅうせい ヨーロッパであったが、数 かず 世紀 せいき を経 へ てゲルマン人 じん やノルマン人 じん の国家 こっか が淘汰 とうた ・洗練 せんれん され、徐々 じょじょ に力 ちから をつけていった。西暦 せいれき 1000年 ねん 頃 ころ 、ヴァイキング と呼 よ ばれていたノース人 じん がヴィンランド (ニューファンドランド島 とう )のランス・オ・メドー に到達 とうたつ した記録 きろく が『赤毛 あかげ のエイリークのサガ 』や『グリーンランド人 じん のサガ 』に記録 きろく されている。しかし、先住民 せんじゅうみん スクレリング の激 はげ しい抵抗 ていこう に遭 あ い、10年 ねん ほどで放棄 ほうき した。
11世紀 せいき 後半 こうはん セルジューク朝 ちょう トルコ がパレスチナ を占領 せんりょう する。セルジューク朝 ちょう トルコの脅威 きょうい を受 う けて東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 皇帝 こうてい アレクシオス1世 せい コムネノス は聖地 せいち 回復 かいふく を大義名分 たいぎめいぶん に、ローマ教皇 きょうこう ・ウルバヌス2世 せい に支援 しえん を求 もと めた。ヨーロッパ各地 かくち に十字軍 じゅうじぐん の結成 けっせい が呼 よ びかけられ多数 たすう の王侯 おうこう 貴族 きぞく や民衆 みんしゅう がこれに応 おう じたが、当初 とうしょ の十字軍 じゅうじぐん の発動 はつどう で中心 ちゅうしん 的 てき 役割 やくわり を果 は たしたのはフランスの諸侯 しょこう とそれに付 つ き従 したが う騎士 きし や民衆 みんしゅう であった。そして結果 けっか 的 てき に聖地 せいち エルサレム奪回 だっかい を目的 もくてき とすると言 い われながらも十字軍 じゅうじぐん 内部 ないぶ での主導 しゅどう 権 けん 争 あらそ いや利権 りけん の争奪 そうだつ 戦 せん に発展 はってん したり、インノケンティウス3世 せい によって発動 はつどう されたアルビジョア十字軍 じゅうじぐん のように本来 ほんらい キリスト教 きりすときょう 圏 けん である南 みなみ フランスに派遣 はけん される十字軍 じゅうじぐん が登場 とうじょう するに至 いた って、フランスの貴族 きぞく 、諸侯 しょこう もローマ教皇 きょうこう に利用 りよう されていただけである事 こと に気付 きづ いたことがガリカニスム(フランス王 おう と諸侯 しょこう による反 はん カトリック的 てき 思想 しそう )の形成 けいせい 、さらに教皇 きょうこう 権 けん の衰退 すいたい の遠因 えんいん にもなっていく。
多 おお くの者 もの が殉教 じゅんきょう 精神 せいしん から十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか したが、教皇 きょうこう は東方 とうほう 教会 きょうかい への影響 えいきょう 力 りょく 拡大 かくだい を望 のぞ み、王侯 おうこう 貴族 きぞく はイスラムの領土 りょうど や富 とみ の収奪 しゅうだつ [v] 、さらに、交易 こうえき が盛 さか んな文化 ぶんか 国家 こっか 東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく への影響 えいきょう 力 りょく 行使 こうし も望 のぞ まれ、それが最 もっと も顕著 けんちょ な形 かたち で現 あらわ れたのがインノケンティウス3世 せい の発動 はつどう した十字軍 じゅうじぐん であり、同胞 どうほう とも言 い える同 おな じキリスト教 きりすときょう 圏内 けんない のギリシャ正教会 せいきょうかい が率 ひき いた東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のコンスタンティノープルを陥落 かんらく させる事態 じたい も起 お こった。
狂信 きょうしん 者 しゃ や野心 やしん 家 か 、無頼漢 ぶらいかん までも含 ふく む十字軍 じゅうじぐん は、1096年 ねん 、聖戦 せいせん の名 な の下 した に東方 とうほう へ進軍 しんぐん した。利害 りがい 対立 たいりつ によって抗 こう 争 そう をくり返 がえ していたイスラム勢力 せいりょく を撃破 げきは しながら、パレスチナ やその周辺 しゅうへん を占領 せんりょう し複数 ふくすう のキリスト教 きりすときょう 国家 こっか を建設 けんせつ したが、寄 よ せ集 あつ め勢力 せいりょく の十字軍 じゅうじぐん もまた主導 しゅどう 権 けん 争 あらそ いに明 あ け暮 く れ、ロ ろ ーマ法王 まほうおう (教皇 きょうこう )や東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との対立 たいりつ も深 ふか まり、混迷 こんめい の様相 ようそう を呈 てい した。利権 りけん をめぐって『敵 てき の敵 てき は味方 みかた 』とばかり、十字軍 じゅうじぐん 勢力 せいりょく とイスラム勢力 せいりょく が同盟 どうめい する事態 じたい さえ発生 はっせい した。
また十字軍 じゅうじぐん によるイスラム教徒 きょうと ・ユダヤ教徒 きょうと など異教徒 いきょうと への激 はげ しい弾圧 だんあつ が民衆 みんしゅう の抵抗 ていこう を招 まね き、長引 ながび く戦争 せんそう によって十字軍 じゅうじぐん 内 ない の士気 しき は低下 ていか し、堕落 だらく と厭戦 えんせん 気分 きぶん が蔓延 まんえん した。さらに十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい による戦費 せんぴ 調達 ちょうたつ は重 おも くヨーロッパ各国 かっこく 民衆 みんしゅう にのしかかり、熱狂 ねっきょう 的 てき 殉教 じゅんきょう 精神 せいしん も次第 しだい に沈静 ちんせい 化 か していった。
サラディーン (アラビア語 ご : الملك الناصر أبو المظفّر صلاح الدين يوسف بن أيّوب 、サラーフ・アッ=ディーン、Ṣalāḥ ad-Dīn )による反撃 はんげき から約 やく 1世紀 せいき 、1291年 ねん 、十字軍 じゅうじぐん は最後 さいご の拠点 きょてん であったアッコン を失 うしな い、聖地 せいち から地中海 ちちゅうかい に追 お い落 お とされてしまう。また、この頃 ころ から前述 ぜんじゅつ の十字軍 じゅうじぐん が内包 ないほう する矛盾 むじゅん によって広 ひろ がった厭戦 えんせん 機運 きうん に続 つづ くようにしてイベリア半島 はんとう で後 のち ウマイヤ朝 あさ を追 お い出 だ したレコンキスタ や東方 とうほう 植民 しょくみん も終焉 しゅうえん を迎 むか える。
マルコ・ポーロ の旅路 たびじ
軍事 ぐんじ 的 てき に失敗 しっぱい した十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい ではあったが、戦争 せんそう によって東西 とうざい 交流 こうりゅう はより発展 はってん した[vi] 。ヨーロッパから鉱物 こうぶつ 資源 しげん や毛織物 けおりもの 等 ひとし が、イスラムから香辛料 こうしんりょう や絹 きぬ 等 ひとし が、今 いま まで以上 いじょう に東西 とうざい 間 あいだ で交易 こうえき されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間 あいだ に位置 いち する東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく やイタリア 諸 しょ 都市 とし 国家 こっか の経済 けいざい 成長 せいちょう が顕著 けんちょ になる。ことにイタリアでは東西 とうざい 交易 こうえき に伴 ともな い、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の保存 ほぞん していた古代 こだい ギリシアの哲学 てつがく ・科学 かがく や、イスラム諸国 しょこく からの当時 とうじ 世界 せかい 最高 さいこう 水準 すいじゅん にあったイスラム文化 ぶんか やイスラム科学 かがく が紹介 しょうかい され、しかも十字軍 じゅうじぐん 失敗 しっぱい によってローマ教皇 きょうこう の権威 けんい が低下 ていか し、宗教 しゅうきょう 戒律 かいりつ に疑問 ぎもん を持 も った人々 ひとびと の中 なか からルネッサンス 運動 うんどう が開始 かいし されて近代 きんだい への扉 とびら が開 あ けられた。
モンゴル帝国 ていこく が興 おこ ったころ、東方 とうほう のキリスト教徒 きりすときょうと プレスター・ジョン が大軍 たいぐん を率 ひき いてイスラムを攻撃 こうげき するという噂 うわさ がヨーロッパに広 ひろ まった。プレスター・ジョン確認 かくにん のためにローマ教皇 きょうこう や西 にし ヨーロッパ各国 かっこく は、国情 こくじょう 視察 しさつ も兼 か ね同盟 どうめい や交易 こうえき を求 もと めて東方 とうほう に使節 しせつ を派遣 はけん した。
そしてプラノ・カルピニ の使節 しせつ はカラコルム に達 たっ し、1245年 ねん 、グユク ハーンと謁見 えっけん を果 は たした。そこはプレスター・ジョンの国 くに ではなかったが、宗教 しゅうきょう や異 い 民族 みんぞく に比較的 ひかくてき 寛容 かんよう なモンゴル人 じん はヨーロッパ人 じん を受 う け入 い れ、パックスモンゴリカ の下 した でイタリア商人 しょうにん やイスラム商人 しょうにん が頻繁 ひんぱん に東 ひがし アジア を訪 おとず れるようになり、カラコルムや大 だい 都 と (北京 ぺきん )などの主要 しゅよう 都市 とし に長期 ちょうき 滞在 たいざい する者 もの さえ現 あらわ れた。
中 なか でもマルコ・ポーロ は約 やく 20年 ねん にわたって行 おこな われた旅行 りょこう 体験 たいけん をルスティケロ・ダ・ピサ へ口述 こうじゅつ し、ルスティケロが『東方 とうほう 見聞 けんぶん 録 ろく 』として著 いちじる しヨーロッパに広 ひろ まった。イスラム諸国 しょこく 、インド、中国 ちゅうごく 、ジパング についての記述 きじゅつ が、プレスター・ジョン 伝説 でんせつ とともにヨーロッパ人 じん の世界 せかい への好奇心 こうきしん を掻 か き立 た てた。
ニーニャ号 ごう 、ピンタ号 ごう 及 およ びサンタ・マリア号 ごう の復元 ふくげん 船 せん
15世紀 せいき 、モンゴル帝国 ていこく が衰退 すいたい すると、強力 きょうりょく な官僚 かんりょう 機構 きこう と軍事 ぐんじ 機構 きこう をもったオスマン帝国 ていこく が1453年 ねん ビザンツ帝国 ていこく を滅 ほろ ぼし、イタリア諸 しょ 都市 とし 国家 こっか の連合 れんごう 艦隊 かんたい にも勝利 しょうり して地中海 ちちゅうかい の制海権 せいかいけん を獲得 かくとく した。東西 とうざい の中間 ちゅうかん に楔 くさび を打 う つオスマン朝 ちょう は、地中海 ちちゅうかい 交易 こうえき を支配 しはい し高 たか い関税 かんぜい をかけた。旧来 きゅうらい の経済 けいざい 秩序 ちつじょ [vii] が激変 げきへん し、新 あら たな交易 こうえき ルートの開拓 かいたく がヨーロッパに渇望 かつぼう されるようになる。とはいえそのオスマン帝国 ていこく の進出 しんしゅつ 後 ご もベネチアによるオスマン帝国 ていこく との地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき は続 つづ き、16世紀 せいき 後半 こうはん から17世紀 せいき にかけてまた隆盛 りゅうせい し一 いち 時 じ はポルトガルのインドルートをしのぐほどになるので、オスマンの進出 しんしゅつ がどの程度 ていど 地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき に影響 えいきょう を与 あた えたかははっきりしていない。
ポルトガルやスペインはもともと地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき のはずれにあったので地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき による恩恵 おんけい がうすかった。ベネチアは東 ひがし 地中海 ちちゅうかい においてイスラム諸国 しょこく との貿易 ぼうえき をほぼ独占 どくせん していた。イベリア諸国 しょこく はベネチアと対立 たいりつ していたジェノヴァ商人 しょうにん が大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく をもち彼 かれ らがベネチアの地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき に対抗 たいこう して両国 りょうこく の大西洋 たいせいよう 進出 しんしゅつ に出資 しゅっし した。特 とく にポルトガルは西 にし のはずれにあり地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき 、北海 ほっかい ・バルト海 ばるとかい 貿易 ぼうえき の恩恵 おんけい も受 う けることができなかったので必然 ひつぜん 的 てき に進出 しんしゅつ 先 さき は西 にし アフリカになったのである。
一方 いっぽう 、15世紀 せいき 半 なか ばオスマン朝 ちょう が隆盛 りゅうせい を極 きわ めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国 りょうこく では国王 こくおう を中核 ちゅうかく として、イベリア半島 はんとう からイスラム勢力 せいりょく を駆逐 くちく しようとしていた(レコンキスタ )。長 なが い間 あいだ イスラムの圧迫 あっぱく を受 う けていたポルトガルとスペインでは民族 みんぞく 主義 しゅぎ が沸騰 ふっとう し、強力 きょうりょく な国王 こくおう を中心 ちゅうしん とした中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 制度 せいど が他 た のヨーロッパ諸国 しょこく に先駆 さきが けて確立 かくりつ した。
また、このころ頑丈 がんじょう なキャラック船 せん やキャラベル船 せん が建造 けんぞう されるようになり、羅針盤 らしんばん がイスラムを介 かい して伝 つた わったことから外洋 がいよう 航海 こうかい が可能 かのう になった。ポルトガルとスペインは後退 こうたい するイスラム勢力 せいりょく を追 お うように北 きた アフリカ沿岸 えんがん に進出 しんしゅつ した。
新 あら たな交易 こうえき ルートの確保 かくほ 、イスラム勢力 せいりょく の駆逐 くちく 、強力 きょうりょく な権力 けんりょく を持 も つ王 おう の出現 しゅつげん 、そして航海 こうかい 技術 ぎじゅつ の発展 はってん 、海外 かいがい 進出 しんしゅつ の機会 きかい が醸成 じょうせい されたことで、ポルトガル・スペイン両国 りょうこく は競 きそ い合 あ って海 うみ に乗 の り出 だ して行 い った。
初期 しょき の航海 こうかい では遭難 そうなん や難破 なんぱ 、敵 てき からの襲撃 しゅうげき 、壊血病 かいけつびょう や疫病 えきびょう 感染 かんせん 、内部 ないぶ 抗 こう 争 そう などによって、乗組 のりくみ 員 いん の生還 せいかん 率 りつ は20%にも満 み たないほど危険 きけん 極 きわ まりなかった。しかし遠征 えんせい が成功 せいこう して新 しん 航路 こうろ が開拓 かいたく され新 あたら しい領土 りょうど を獲得 かくとく するごとに、海外 かいがい 進出 しんしゅつ による利益 りえき が莫大 ばくだい であることが立証 りっしょう された。健康 けんこう と不屈 ふくつ の精神 せいしん そして才覚 さいかく と幸運 こううん に恵 めぐ まれれば、貧者 ひんじゃ や下層 かそう 民 みん であっても一夜 いちや にして王侯 おうこう 貴族 きぞく に匹敵 ひってき するほどの富 とみ と名声 めいせい が転 ころ がり込 こ んだ。こうした早 はや い者 しゃ 勝 が ち の機運 きうん が貴賎 きせん を問 と わず人々 ひとびと の競争心 きょうそうしん を煽 あお り立 だ て、ポルトガル・スペイン両国 りょうこく を中心 ちゅうしん にヨーロッパに航海 こうかい ブームが吹 ふ き荒 あ れるようになった。
またローマ教皇 きょうこう も海外 かいがい 侵略 しんりゃく を強力 きょうりょく に後援 こうえん した。16世紀 せいき 初頭 しょとう から宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の嵐 あらし に晒 さら されていたカトリック教会 きょうかい は相次 あいつ いで成立 せいりつ したプロテスタント 諸派 しょは に対抗 たいこう するため、海外 かいがい での新 あら たな信者 しんじゃ 獲得 かくとく を計画 けいかく し、強固 きょうこ なカトリック教 かとりっくきょう 国 こく であるポルトガル・スペイン両国 りょうこく の航海 こうかい に使命 しめい 感 かん 溢 あふ れる宣教師 せんきょうし を連 つ れ添 そ わせ、両国 りょうこく が獲得 かくとく した領土 りょうど の住民 じゅうみん への布教 ふきょう 活動 かつどう を開始 かいし した。
ヴァスコ・ダ・ガマ のインド への航路 こうろ (黒 くろ ) 、Pêro da Covilhã の航路 こうろ (橙 だいだい ) 、Afonso de Paiva の航路 こうろ (青 あお ) 及 およ び後者 こうしゃ 2人 にん の共通 きょうつう 航路 こうろ (緑 みどり )
15世紀 せいき のカラベル船 せん の復元 ふくげん
いち早 はや くレコンキスタを達成 たっせい したポルトガルは北 きた アフリカ への侵略 しんりゃく を確固 かっこ とし1415年 ねん 、ジョアン1世 せい のとき命 いのち を受 う けた3人 にん の王子 おうじ が北西 ほくせい アフリカのセウタ を攻略 こうりゃく した。エンリケ王子 おうじ は西 にし アフリカ にて伝説 でんせつ の『金 かね の山 やま 』を見 み つけようと沿岸 えんがん の探検 たんけん と開拓 かいたく を続 つづ けた。ポルトガルは1460年 ねん ごろまでにカナリア諸島 かなりあしょとう ・マデイラ諸島 しょとう を探検 たんけん しシエラレオネ 付近 ふきん まで進出 しんしゅつ し、さらに象牙 ぞうげ 海岸 かいがん ・黄金 おうごん 海岸 かいがん を経 へ て1482年 ねん 、ガーナ の地 ち に城塞 じょうさい を築 きず いて金 きむ や奴隷 どれい の交易 こうえき を行 おこな った。1485年 ねん 、ディオゴ・カン がジョアン2世 せい に命 めい じられてナミビア のクロス岬 みさき に到達 とうたつ した。
1488年 ねん 、バルトロメウ・ディアス は船団 せんだん を率 ひき いて困難 こんなん の末 すえ にアフリカ南端 なんたん にたどり着 つ いた。ディアスはさらにインドを目指 めざ したが強風 きょうふう に行 い く手 て を阻 はば まれた挙句 あげく に乗組 のりくみ 員 いん の反乱 はんらん も起 お こったため帰路 きろ に発見 はっけん した岬 みさき を『嵐 あらし の岬 みさき 』と名 な づけて帰還 きかん した。この成果 せいか にインド航路 こうろ 開拓 かいたく の確証 かくしょう を得 え たジョアン2世 せい は『嵐 あらし の岬 みさき 』を喜 き 望 もち 峰 ほう と改名 かいめい させた。
1497年 ねん 7月 がつ 8日 にち 、ヴァスコ・ダ・ガマ はマヌエル1世 せい に命 めい じられ、船団 せんだん を率 ひき いてリスボン を旅立 たびだ つとインドを目指 めざ した。目的 もくてき はインドとの直接 ちょくせつ 交易 こうえき 。先人 せんじん 達 たち の知識 ちしき をもとに4ヶ月 かげつ で一気 いっき に喜 き 望 もち 峰 ほう に到達 とうたつ したガマは、アフリカ南端 なんたん を回 まわ ってモザンビーク 海峡 かいきょう に至 いた りイスラム商人 しょうにん と出会 であ うとインドへの航路 こうろ に関 かん する情報 じょうほう を収集 しゅうしゅう した。1498年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、ついにヨーロッパ人 じん として初 はじ めてインドのカリカット(コーリコード )に到着 とうちゃく したガマは、翌年 よくねん 、香辛料 こうしんりょう をポルトガルに持 も ち帰 かえ った。
1509年 ねん 2月 がつ 、フランシスコ・デ・アルメイダ は国王 こくおう の命 いのち で遠征 えんせい 艦隊 かんたい を率 ひき いてイスラム勢力 せいりょく と戦 たたか い(ディーウ沖 おき 海戦 かいせん )、インドとの直接 ちょくせつ 交易 こうえき を獲得 かくとく するに至 いた った。ポルトガルは順調 じゅんちょう にマレ まれ ー半島 はんとう ・セイロン島 とう にも侵略 しんりゃく 、1557年 ねん にはマカオ に要塞 ようさい を築 きず いて極東 きょくとう の拠点 きょてん とした。その間 あいだ 、1543年 ねん にジャンク船 せん に乗 の ったポルトガル人 じん が日本 にっぽん の種子島 たねがしま に漂着 ひょうちゃく して鉄砲 てっぽう を伝 つた えている。
このようなポルトガルの快挙 かいきょ は特筆 とくひつ されるべきものであり、その後 ご のヨーロッパの驚異 きょうい 的 てき な発展 はってん に寄与 きよ したのである。しかしイスラム商人 しょうにん は古 ふる くからインドや中国 ちゅうごく さらにモルッカ諸島 しょとう などと盛 さか んに交易 こうえき しており、アフリカ 大陸 たいりく においても赤道 あかみち 周辺 しゅうへん 地域 ちいき まで交易 こうえき 圏 けん を広 ひろ げていた。西 にし アフリカに成立 せいりつ していたマリ王国 おうこく はイスラムに金 かね ・塩 しお ・奴隷 どれい を輸出 ゆしゅつ していた。また、ヨーロッパに先駆 さきが けて中国 ちゅうごく の鄭 てい 和 かず 艦隊 かんたい の一部 いちぶ がアフリカ大陸 たいりく に到達 とうたつ したと言 い われ、南 みなみ アフリカのジンバブエ の遺跡 いせき からはインドやペルシャのほか中国 ちゅうごく 製 せい の綿 めん 製品 せいひん ・絨毯 じゅうたん ・陶器 とうき などが出土 しゅつど している。このように14世紀 せいき から15世紀 せいき までに旧 きゅう 世界 せかい における世界 せかい 航路 こうろ は、様々 さまざま な国家 こっか ・地域 ちいき の民族 みんぞく によって、開拓 かいたく されほぼ完成 かんせい していたことも忘 わす れてはならない。世界 せかい 規模 きぼ で言 い うならば、ガマは世界 せかい 航路 こうろ のひとつにアフリカ周 まわ りの欧 おう 印 しるし 航路 こうろ を加 くわ えたに過 す ぎないのである。
クリストファー・コロンブス の4度 ど に渡 わた る中央 ちゅうおう アメリカ への航路 こうろ
同 おな じころ、ジェノヴァ 商人 しょうにん のクリストファー・コロンブス は西 にし 周 まわ りインド航路 こうろ を開拓 かいたく しようと1484年 ねん 、ポルトガルに航海 こうかい の援助 えんじょ をもちかけた。既 すで にアフリカ航路 こうろ を開拓 かいたく しインドまで今 いま 一 いち 歩 ほ に迫 せま っていたポルトガルはこれを拒否 きょひ する。
ポルトガルに遅 おく れをとっていたスペインは1486年 ねん 、フェルナンド5世 せい (アラゴン 王 おう としてはフェルナンド2世 せい )と、その妻 つま イサベル がコロンブスの計画 けいかく を採用 さいよう し1492年 ねん 、旗艦 きかん サンタ・マリア号 ごう に率 ひき いられた船団 せんだん がパロス港 こう から西 にし に出港 しゅっこう した。1492年 ねん 10月12日 にち 、西 にし インド諸島 しょとう に属 ぞく するバハマ諸島 しょとう に到着 とうちゃく したコロンブスは翌年 よくねん スペインに帰還 きかん して西 にし 回 まわ りインド航路 こうろ を発見 はっけん したと宣言 せんげん した。
アメリカ航路 こうろ 開拓 かいたく に遅 おく れをとっていたポルトガルも、1500年 ねん 、カブラル がブラジル [viii] に到達 とうたつ し、トルデシリャス条約 じょうやく によってその地 ち をポルトガル領 りょう に加 くわ えた。
スペインのカトリック国王 こくおう フェルナンド が西 にし インド探検 たんけん 航海 こうかい を企画 きかく し、アメリゴ・ヴェスプッチ は、1497年 ねん から1498年 ねん にかけてカリブ海 かりぶかい 沿岸 えんがん を探検 たんけん 、1499年 ねん から1500年 ねん の航海 こうかい ではカリブ海 かりぶかい から南下 なんか してブラジル北岸 ほくがん まで探検 たんけん を行 おこな った。 ポルトガル王 おう マヌエル1世 せい は、カブラルが発見 はっけん した土地 とち が単 たん なる島 しま なのか、あるいはスペインが既 すで にその北側 きたがわ を探検 たんけん していた大陸 たいりく の一部 いちぶ なのか知 し ることを望 のぞ み、ヴェスプッチに探検 たんけん を依頼 いらい 、ヴェスプッチは、1501年 ねん から1502年 ねん にかけた航海 こうかい で大陸 たいりく 東岸 とうがん に沿 そ って南下 なんか 、南緯 なんい 50度 ど まで到達 とうたつ することができた。ヴェスプッチは、大陸 たいりく がアジア最南端 さいなんたん (マレ まれ ー半島 はんとう 、北緯 ほくい 1度 ど )とアフリカ最南端 さいなんたん (南緯 なんい 34度 ど )の緯度 いど をはるかに南 みなみ へ越 こ えて続 つづ くため、それが既知 きち の大陸 たいりく のどれにも属 ぞく さない「新大陸 しんたいりく 」であることを、1503年 ねん 頃 ごろ の論文 ろんぶん 『新 しん 世界 せかい 』で発表 はっぴょう した。
1513年 ねん 、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア は、パナマ地峡 ちきょう を横断 おうだん し、ヨーロッパ人 じん として初 はじ めて西 にし 回 まわ りでの太平洋 たいへいよう に遭遇 そうぐう し、北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく と南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく が地続 じつづ きであることを発見 はっけん した。
スペインは交易 こうえき 品 ひん を求 もと めてアメリカ大陸 あめりかたいりく 深部 しんぶ に進出 しんしゅつ すると豊富 ほうふ な金銀 きんぎん に目 め をつけた。インカやアステカを征服 せいふく し原住民 げんじゅうみん を牛馬 ぎゅうば のように酷使 こくし して略奪 りゃくだつ の限 かぎ りを尽 つ くした。ポルトガルも、ブラジルにおいてスペイン同様 どうよう に原住民 げんじゅうみん から富 とみ を収奪 しゅうだつ した。
マゼラン 及 およ びエルカーノ 率 ひき いる艦隊 かんたい の世界 せかい 一周 いっしゅう 航路 こうろ
スペインの命 いのち を受 う けモルッカ諸島 しょとう への西 にし 回 まわ り航路 こうろ 開拓 かいたく に出 で たマゼラン (マガリャンイス)はスペイン王 おう ・カルロス1世 せい の援助 えんじょ を得 え て1519年 ねん 8月 がつ 、セビリャ から5隻 せき の船 ふね に265名 めい の乗組 のりくみ 員 いん を乗 の せて出発 しゅっぱつ した。1520年 ねん 10月、南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく 南端 なんたん のマゼラン海峡 かいきょう を通過 つうか して太平洋 たいへいよう を横断 おうだん し、グァム島 とう に立 た ち寄 よ り、1521年 ねん にフィリピン 諸島 しょとう に到着 とうちゃく した。マゼランはフィリピン中部 ちゅうぶ のマクタン島 とう で住民 じゅうみん の争 あらそ いに加担 かたん し、同年 どうねん 4月 がつ 27日 にち に酋長 しゅうちょう ラプ・ラプ によって殺 ころ された。その後 ご 、部下 ぶか エルカーノ 率 ひき いるビクトリア号 ごう 1隻 せき が航海 こうかい をつづけ、1522年 ねん にセビリャに帰港 きこう し世界 せかい 周航 しゅうこう を果 は たし、地球 ちきゅう が球体 きゅうたい であることを実証 じっしょう した。帰 かえ ってきたのは18名 めい であった。
スペインはこの後 のち もメキシコ (ノビスパン )から太平洋 たいへいよう を横断 おうだん しモルッカ諸島 しょとう への航路 こうろ を開 ひら こうと躍起 やっき になり、ポルトガルと摩擦 まさつ を起 お こす。そのさなか、フィリピンは1571年 ねん メキシコを出発 しゅっぱつ したミゲル・ロペス・デ・レガスピ によって征服 せいふく されスペイン領 りょう となった。なお、フィリピンの名 な は1542年 ねん 、フィリピン諸島 しょとう を探検 たんけん したビリャロボス が、当時 とうじ スペイン王子 おうじ であったフェリペ(のちのフェリペ2世 せい )にちなみ、これらの諸島 しょとう を「フィリピナス諸島 しょとう 」と呼 よ んだことに由来 ゆらい する。
ポルトガル・スペイン間 あいだ の条約 じょうやく 締結 ていけつ [ 編集 へんしゅう ]
トルデシリャス条約 じょうやく (紫 むらさき ) 及 およ びサラゴサ条約 じょうやく (緑 みどり ) の境界 きょうかい 線 せん
ポルトガル海上 かいじょう 帝国 ていこく の貿易 ぼうえき ルート (青 あお ) 及 およ び競合 きょうごう するマニラ・ガレオン の貿易 ぼうえき ルート (白 しろ )
ポルトガルとスペインによる新 しん 航路 こうろ 開拓 かいたく と海外 かいがい 領土 りょうど 獲得 かくとく 競争 きょうそう が白熱 はくねつ 化 か すると両国 りょうこく 間 あいだ に激 はげ しい紛争 ふんそう が発生 はっせい した。さらに他 た のヨーロッパ諸国 しょこく が海外 かいがい 進出 しんしゅつ を開始 かいし したため、独占 どくせん 体制 たいせい 崩壊 ほうかい に危機 きき 感 かん を募 つの らせた両国 りょうこく は仲介 ちゅうかい をローマ教皇 きょうこう に依頼 いらい して1494年 ねん にトルデシリャス条約 じょうやく 、1529年 ねん にサラゴサ条約 じょうやく を締結 ていけつ した。両国 りょうこく はこれらの条約 じょうやく により各々 おのおの の勢力 せいりょく 範囲 はんい を決定 けってい し既得 きとく 権 けん を防衛 ぼうえい しようと図 はか った。
西欧 せいおう とロシアによるアジア・北 きた アメリカ征服 せいふく [ 編集 へんしゅう ]
ヨハネス・ケプラー による、ルドルフ表 ひょう に基 もと づいて描 えが かれた1627年 ねん 当時 とうじ の世界 せかい 地図 ちず 。
ポルトガルやスペインに遅 おく れて絶対 ぜったい 王権 おうけん を安定 あんてい させ、ようやく航海 こうかい や探検 たんけん の後押 あとお しをする用意 ようい が整 ととの ったフランス やイギリス 、スペインからの独立 どくりつ を果 は たしたオランダ といった後発 こうはつ 諸国 しょこく も盛 さか んに海外 かいがい 進出 しんしゅつ し、次第 しだい に先行 せんこう していたポルトガルとスペインを凌駕 りょうが していった。こうした後発 こうはつ 海運 かいうん 国 こく はトルデシリャス条約 じょうやく によって新 しん 領土 りょうど 獲得 かくとく から排除 はいじょ されることを拒 こば み、独自 どくじ に航海 こうかい の経験 けいけん も積 つ んでいたため、新 あたら しい技術 ぎじゅつ や地図 ちず を使 つか い北 きた の大海 たいかい に乗 の り出 だ していった。後発 こうはつ 海運 かいうん 国 こく は、ポルトガルやスペインが広大 こうだい な領土 りょうど を獲得 かくとく したにもかかわらず急速 きゅうそく に没落 ぼつらく していった経験 けいけん から学 まな んで、慎重 しんちょう かつ綿密 めんみつ な植民 しょくみん 地 ち 経営 けいえい を行 おこな った。
後発 こうはつ 海運 かいうん 国 こく の最初 さいしょ の探検 たんけん は、イタリア人 じん ジョン・カボット (ジョヴァンニ・カボート)を雇 やと ったイギリスによる北米 ほくべい 探検 たんけん (1497年 ねん )であり、イギリス・フランス・オランダによる一連 いちれん の北米 ほくべい 探検 たんけん のはじまりとなった。イギリスの代理人 だいりにん カボット、フランスの代理人 だいりにん ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海 こうかい は、北 きた アメリカを迂回 うかい して豊 ゆた かな中国 ちゅうごく やインドに至 いた る最短 さいたん の大圏 たいけん 航路 こうろ (北西 ほくせい 航路 こうろ )を探 さが すことが目的 もくてき だった。
スペインは、より多 おお くの天然 てんねん 資源 しげん の見 み つかる中央 ちゅうおう アメリカおよび南 みなみ アメリカの探検 たんけん に人的 じんてき 資源 しげん を集中 しゅうちゅう させていたため、北 きた アメリカの探検 たんけん に注 そそ いだ努力 どりょく は限 かぎ られていた。1525年 ねん には、フランスによって派遣 はけん されたイタリア人 じん ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ が現在 げんざい のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 東海岸 ひがしかいがん を探検 たんけん しており、記録 きろく に残 のこ る最初 さいしょ に北米 ほくべい 東海岸 ひがしかいがん を探検 たんけん したヨーロッパ人 じん となった。フランス人 じん ジャック・カルティエ は1534年 ねん にカナダへの最初 さいしょ の航海 こうかい を行 おこな った。南米 なんべい 航路 こうろ では、1522年 ねん のマゼラン 艦隊 かんたい の世界 せかい 初 はつ の世界 せかい 一周 いっしゅう でフィリピン が発見 はっけん された。
そして1580年 ねん 、イギリス軍人 ぐんじん フランシス・ドレーク の2番目 ばんめ の世界 せかい 一周 いっしゅう により南 みなみ アメリカのホーン岬 みさき やドレーク海峡 かいきょう が発見 はっけん された。そうしたアメリカ経由 けいゆ の西 にし 回 まわ り航路 こうろ の探索 たんさく 過程 かてい で北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく の海岸 かいがん 部 ぶ の様相 ようそう も明 あき らかとなってゆき、北 きた アメリカ自体 じたい に可能 かのう 性 せい を見出 みいだ したヨーロッパ人 じん たちがいた。北 きた アメリカの植民 しょくみん 地 ち を1607年 ねん に建設 けんせつ したイギリス(イングランド)のヴァージニア会社 かいしゃ が1606年 ねん の特許 とっきょ で、1757年 ねん からインド植民 しょくみん 地 ち を運営 うんえい することになったイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ が1601年 ねん 1月 がつ 10日 とおか に発布 はっぷ されたエリザベス1世 せい の特許 とっきょ 状 じょう で設立 せつりつ されていた[2] 。
当初 とうしょ はオランダ東 ひがし インド会社 かいしゃ に雇 やと われていたヘンリー・ハドソン は数 すう 度 ど の航海 こうかい ののち、1609年 ねん に現 げん ニューヨーク州 しゅう のハドソン川 がわ に到達 とうたつ し、その後 ご イギリスの植民 しょくみん 地 ち 会社 かいしゃ に雇 やと われて現 げん カナダの北東 ほくとう 部 ぶ の海 うみ を探検 たんけん しアイスランド 、グリーンランド 、ハドソン湾 わん などを発見 はっけん した。北 きた アメリカ東海岸 ひがしかいがん には、オランダ のニューネーデルラント 、ニューアムステルダム 、イギリスのバージニア植民 しょくみん 地 ち 、ニューヨーク植民 しょくみん 地 ち など大 だい 規模 きぼ な植民 しょくみん 地 ち が築 きず かれ始 はじ めた。
1627の三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 、1666年 ねん の第 だい 二 に 次 じ 英 えい 蘭 らん 戦争 せんそう が争 あらそ われる中 なか 、オランダやイギリスは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北 きた を迂回 うかい して中国 ちゅうごく に至 いた る北東 ほくとう 航路 こうろ の探検 たんけん も行 おこな い、ロシア・ツァーリ国 こく との北海 ほっかい 交易 こうえき を始 はじ めたり、捕鯨 ほげい の拠点 きょてん となる北極 ほっきょく 海 かい の島 しま を多 おお く発見 はっけん したりしたが、やはり氷 こおり の海 うみ に阻 はば まれアジアへの航路 こうろ を見 み つけることはできず、また、北 きた アメリカを迂回 うかい する航路 こうろ も19世紀 せいき までは見 み つかることはなかった。
ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフ が1648年 ねん にシベリア東部 とうぶ への探検 たんけん 隊 たい を率 ひき い、ユーラシア最 さい 東 ひがし 端 はし となる岬 みさき (後 のち にデジニョフ岬 みさき と命名 めいめい された)を発見 はっけん した。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋 いんどよう にも航海 こうかい して独自 どくじ の交易 こうえき 地 ち や植民 しょくみん 地 ち を確立 かくりつ し、この方面 ほうめん に独占 どくせん 的 てき に勢力 せいりょく を築 きず いていたポルトガルの地位 ちい を脅 おど かした。ポルトガルの最 もっと も利益 りえき の大 おお きい拠点 きょてん であるゴア やマカオ を、新興 しんこう 諸国 しょこく の拠点 きょてん (香港 ほんこん やバタヴィア など)が包囲 ほうい し、オランダがインドネシアを勢力 せいりょく 圏 けん として香料 こうりょう 諸島 しょとう からポルトガル勢力 せいりょく を駆逐 くちく すると、次第 しだい にポルトガルやスペインがアジア貿易 ぼうえき 市場 いちば に占 し めていたシェアは小 ちい さくなっていった。
香料 こうりょう 諸島 しょとう
残 のこ る未知 みち の地域 ちいき (北 きた アメリカ西海岸 にしかいがん や太平洋 たいへいよう の島々 しまじま など、トルデシリャス条約 じょうやく でスペインに与 あた えられた地域 ちいき )については、スペインより先 さき にオランダが探検 たんけん した。1606年 ねん にはウィレム・ヤンツ (Willem Jansz, Willem Janszoon )が、1642年 ねん にはアベル・タスマン (Abel Tasman)など、オランダの探検 たんけん 家 か がオーストラリア を探検 たんけん している。
こうして17世紀 せいき 中 ちゅう ごろまでに一部 いちぶ の不毛 ふもう 地帯 ちたい を除 のぞ いた全 すべ ての地域 ちいき にヨーロッパ人 じん が到達 とうたつ して大 だい 航海 こうかい 時代 じだい は終焉 しゅうえん を迎 むか える。世界中 せかいじゅう の富 とみ が集中 しゅうちゅう するようになった英国 えいこく をはじめとしたヨーロッパ各国 かっこく は、いち早 はや く近代 きんだい 化 か を達成 たっせい し世界 せかい に覇 は を唱 とな えた。
^ チンパンジーのシロアリつりやくるみ割 わ り、オマキザル の木 こ の実 み 割 わ り、エジプトハゲワシ の卵 たまご 割 わ りetc。
^ 絹 きぬ 、紙 かみ etc 。
^ 後 こう 漢書 かんしょ に太秦 うずまさ 国 こく 皇帝 こうてい 安 あん 敦 あつし (ロ ろ ーマ帝国 まていこく 皇帝 こうてい マルクス・アウレリウス・アントニヌス )から派遣 はけん された使節 しせつ に関 かん する記述 きじゅつ がある。
^ パルチア 、漢 かん 、グプタ朝 あさ etc 。
^ 当時 とうじ のゲルマン人 じん やノルマン人 じん が分割 ぶんかつ 相続 そうぞく をしていたことから、領土 りょうど や富 とみ は代 だい を重 かさ ねて細分 さいぶん 化 か され、遺産 いさん 相続 そうぞく を望 のぞ めない子弟 してい が増加 ぞうか していた。
^ イスラム勢力 せいりょく の聖地 せいち 周辺 しゅうへん の征服 せいふく 以後 いご も、キリスト教徒 きりすときょうと の聖地 せいち 巡礼 じゅんれい は許 ゆる されていたので、十字軍 じゅうじぐん の遠征 えんせい 以前 いぜん にヨーロッパ人 じん とイスラム人 じん の交渉 こうしょう がなかったわけではない。
^ メディチ家 か やフッガー家 か の資本 しほん は影響 えいきょう を受 う けて破綻 はたん した。
^ ヨーロッパから喜 き 望 もち 峰 ほう に至 いた る航海 こうかい は風向 かざむ きの関係 かんけい から大西洋 たいせいよう をブラジル沿岸 えんがん 近海 きんかい まで大 おお きく西 にし に迂回 うかい するのが効率 こうりつ 的 てき である。このことからポルトガルは1490年代 ねんだい までにブラジルを発見 はっけん していた可能 かのう 性 せい が高 たか いと推定 すいてい されている。アメリカ大陸 あめりかたいりく 発見 はっけん を公表 こうひょう しなかった理由 りゆう について、他 た のライバル国 こく に迂回 うかい 航路 こうろ の存在 そんざい を悟 さと られないよう国家 こっか 機密 きみつ にしていたとされる。
大 だい 航海 こうかい 時代 じだい に関 かん する原典 げんてん の一覧 いちらん [ 編集 へんしゅう ]
詳細 しょうさい は大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 叢書 そうしょ ・アンソロジー新 しん 世界 せかい の挑戦 ちょうせん を参照 さんしょう 。
岩波書店 いわなみしょてん 『大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 叢書 そうしょ 』 会田 あいだ 由 ゆかり 、増田 ますだ 義郎 よしお 、生田 いくた 滋 しげる 等 ひとし の訳注 やくちゅう で刊行 かんこう 。下記 かき は岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ で再刊 さいかん 。
『大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 叢書 そうしょ 第 だい 1期 き 』 全 ぜん 11巻 かん 別巻 べっかん 1、1965-70年 ねん
『大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 叢書 そうしょ 第 だい 2期 き 』 全 ぜん 25巻 かん 、1979-92年 ねん
大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 叢書 そうしょ <エクストラ・シリーズ>全 ぜん 5巻 かん 、1985-87年 ねん
『アンソロジー新 しん 世界 せかい の挑戦 ちょうせん 』全 ぜん 13巻 かん 、1992-95年 ねん 。染田 そめだ 秀 しゅう 藤 ふじ 、青木 あおき 康 やすし 征 せい 等 ひとし による訳注 やくちゅう
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2021年 ねん 4月 がつ )
井沢 いざわ 実 みのる 『大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 夜話 やわ 』 岩波書店 いわなみしょてん 、1977年 ねん
青木 あおき 康 やすし 征 せい 『海 うみ の道 みち と東西 とうざい の出会 であ い』 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ <世界 せかい 史 し リブレット25>、1998年 ねん ISBN 4-634-34250-2
ボイス・ペンローズ『大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 旅 たび と発見 はっけん の二 に 世紀 せいき 』 荒尾 あらお 克己 かつみ 訳 やく 、筑摩書房 ちくましょぼう 、1985年 ねん /ちくま学芸 がくげい 文庫 ぶんこ 、2020年 ねん 12月
『図説 ずせつ 大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 』増田 ますだ 義郎 よしお 編 へん 、ふくろうの本 ほん ・河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2008年 ねん