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だい航海こうかい時代じだい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1502ねんえがかれたカンティーノ平面へいめん天球てんきゅう現存げんそんする最古さいこ平面へいめん天球てんきゅうであり、クリストファー・コロンブス中央ちゅうおうアメリカ、ガスパル・コルテ=レアルがニューファンドランドとうヴァスコ・ダ・ガマがインド、ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに各々おのおのおもむいたことがしめされている。トルデシリャス条約じょうやくによる分割ぶんかつせんちゅう左側ひだりがわえがかれている。
だい航海こうかい時代じだいおも航路こうろしめした地図ちず

だい航海こうかい時代じだい(だいこうかいじだい)とは、15世紀せいきなかばから17世紀せいきなかばまでのヨーロッパじんによるアフリカアジアアメリカ大陸あめりかたいりくへのだい規模きぼ航海こうかいおこなわれた時代じだい区分くぶんである。おもポルトガルスペインによりおこなわれた。

定義ていぎ

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だい航海こうかい時代じだい」の名称めいしょうは、1963ねん岩波書店いわなみしょてんにて「だい航海こうかい時代じだい叢書そうしょ」を企画きかくしていたさい、それまでの「地理ちりじょう発見はっけん」、「だい発見はっけん時代じだい」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパじん立場たちばからの見方みかたによる名称めいしょうたいし、あたらしい視角しかくちたいとの希求ききゅうから、増田ますだ義郎よしおにより命名めいめいされた。増田ますだは、だい航海こうかい時代じだい時間じかんてき範囲はんいについて、議論ぎろんがあると前置まえおきしたうえで、具体ぐたいてきはじまりとわりのとし提案ていあんしている。増田ますだによれば、だい航海こうかい時代じだいはじまりは、1415ねんにおけるポルトガルセウタ攻略こうりゃくわりのとしは、さんじゅうねん戦争せんそう終結しゅうけつし、ロシアじん探検たんけんセミョン・デジニョフチュクチ半島はんとうデジニョフみさき到達とうたつした1648ねんである[1]

前史ぜんし

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文化ぶんか文明ぶんめい伝播でんぱ

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人類じんるい出現しゅつげん以来いらいとな文化ぶんか文明ぶんめいたがいに交流こうりゅう影響えいきょうおよぼしあってきた。文化ぶんか交流こうりゅう人類じんるいかぎられたことではなく、道具どうぐ使用しようをも文化ぶんかみとめるなら、チンパンジー一部いちぶ鳥獣ちょうじゅうについても、個体こたいあいだとな地域ちいきかいして文化ぶんか交流こうりゅうおこなわれている[i]人類じんるい言葉ことば文字もじ使用しようするので、より円滑えんかつ文化ぶんか文明ぶんめい伝播でんぱすることが可能かのうであるが、極東きょくとう西にしヨーロッパのように遠隔えんかく人々ひとびと直接ちょくせつ交流こうりゅうするためには、試行錯誤しこうさくご知識ちしき蓄積ちくせきや、異国いこくから科学かがく技術ぎじゅつ進歩しんぽ必要ひつようであった。

古代こだい国際こくさい交流こうりゅう

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マケドニアおうアレクサンドロス

強大きょうだい国家こっか成立せいりつした場合ばあい当然とうぜんのように遠隔えんかくあいだ交流こうりゅう加速かそくする。そのことは文明ぶんめいのゆりかご発祥はっしょうをはじめインカ帝国ていこくアステカ帝国ていこくれいるまでもなくあきらかである。

古代こだいギリシャひとは、地中海ちちゅうかい周辺しゅうへんエジプトさらにアケメネスあさペルシャ支配しはいするオリエント一部いちぶ世界せかいとして認識にんしきしていた。アレクサンドロス3せい大王だいおう)の東方とうほう遠征えんせいによって、ギリシャじん世界せかいかんはインド・中国ちゅうごくまでに一気いっきひろがった。アレキサンドロス3せいがペルシャの皇女おうじょめとったことに象徴しょうちょうされるように、アレキサンドロス3せい帝国ていこくではコスモポリタニズム標榜ひょうぼうされ、遠隔えんかく人々ひとびと同士どうし交流こうりゅうさかんにおこなわれ、その伝統でんとうディアドコイいたる建国けんこくした国々くにぐにやギリシャ文化ぶんか影響えいきょうつよけた古代こだいローマにもがれた。

パックス・ロマーナした整備せいびされた航路こうろ道路どうろ使つかってさかんに遠隔えんかく交易こうえきおこなわれ、地中海ちちゅうかい地域ちいき中東ちゅうとう地域ちいきをはじめとお極東きょくとうからもめずらしい商品しょうひんがローマにもたらされた[ii]多様たよう人種じんしゅ民族みんぞく奴隷どれいとなりあるいは傭兵ようへいとなり、またある人々ひとびとはローマのとみもとめて流入りゅうにゅうし、国際こくさいあいだ交流こうりゅう益々ますます増加ぞうかしてった[iii]。また、こういったグローバリズムがすすんだ影響えいきょうペストだい流行りゅうこうなどをはじめとする疫病えきびょうがヨーロッパを中心ちゅうしんとするエピデミックこっているが、それによってグローバリズムのたいてきなナショナリズムの勃興ぼっこうられるのもこのころからで古代こだいギリシャのような都市とし国家こっかよりも範囲はんいおおきな領域りょういき国家こっか形成けいせいにつながるながれもはじめる。

中東ちゅうとう・インド・中国ちゅうごくでも強力きょうりょく世界せかい帝国ていこく[iv]成立せいりつし、その影響えいきょうにある国々くにぐにあいださかんに交易こうえきおこなわれ、シルクロード複数ふくすうのスパイスロードによる香辛料こうしんりょう貿易ぼうえきなど多数たすう交易こうえき航路こうろ開拓かいたく整備せいびされた。アフリカ地域ちいきでも古代こだいエジプトのほか、だい陸奥みちのくにも王国おうこく成立せいりつし、しおきむ大陸たいりくった。このようにかく地域ちいき発展はってんした交易こうえきけんは、時代じだいとともにたがいに接触せっしょくふかめ、きゅう世界せかいにおいては世界せかいてき交易こうえきネットワーク徐々じょじょ構築こうちくされていった。

ヨーロッパの停滞ていたい復興ふっこう

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マ帝国まていこく衰退すいたいすると、未開みかいじんといわれたゲルマンじんノルマンじん相次あいついでヨーロッパをおかし、またイスラム勢力せいりょくイベリア半島はんとう侵入しんにゅうし、ヨーロッパは混乱こんらん停滞ていたい時代じだいむかえる。やがて西にしマ帝国まていこく領土りょうどであった現在げんざいイタリアフランスドイツでは、カトリック精神せいしんてき支柱しちゅうとするフランク王国おうこく出現しゅつげんした。フランク王国おうこくはゲルマンの伝統でんとう色濃いろこのこしていたが、ローマの遺産いさん尊重そんちょう継承けいしょうした。ようやく安定あんていがもたらされた西にしヨーロッパの経済けいざい活性かっせいとみ蓄積ちくせきされ、フランク王国おうこくトゥール・ポワティエあいだたたかでイスラムの北進ほくしんはばんだ。ペスト流行りゅうこう気候きこう寒冷かんれいによる混乱こんらんなか暗黒あんこく時代じだい経験けいけんした中世ちゅうせいヨーロッパであったが、かず世紀せいきてゲルマンじんやノルマンじん国家こっか淘汰とうた洗練せんれんされ、徐々じょじょちからをつけていった。西暦せいれき1000ねんころヴァイキングばれていたノースじんヴィンランドニューファンドランドとう)のランス・オ・メドー到達とうたつした記録きろくが『赤毛あかげのエイリークのサガ』や『グリーンランドじんのサガ』に記録きろくされている。しかし、先住民せんじゅうみんスクレリングはげしい抵抗ていこうい、10ねんほどで放棄ほうきした。

十字軍じゅうじぐん

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11世紀せいき後半こうはんセルジュークちょうトルコパレスチナ占領せんりょうする。セルジュークちょうトルコの脅威きょういけてひがしマ帝国まていこく皇帝こうていアレクシオス1せいコムネノス聖地せいち回復かいふく大義名分たいぎめいぶんに、ローマ教皇きょうこうウルバヌス2せい支援しえんもとめた。ヨーロッパ各地かくち十字軍じゅうじぐん結成けっせいびかけられ多数たすう王侯おうこう貴族きぞく民衆みんしゅうがこれにおうじたが、当初とうしょ十字軍じゅうじぐん発動はつどう中心ちゅうしんてき役割やくわりたしたのはフランスの諸侯しょこうとそれにしたが騎士きし民衆みんしゅうであった。そして結果けっかてき聖地せいちエルサレム奪回だっかい目的もくてきとするとわれながらも十字軍じゅうじぐん内部ないぶでの主導しゅどうけんあらそいや利権りけん争奪そうだつせん発展はってんしたり、インノケンティウス3せいによって発動はつどうされたアルビジョア十字軍じゅうじぐんのように本来ほんらいキリスト教きりすときょうけんであるみなみフランスに派遣はけんされる十字軍じゅうじぐん登場とうじょうするにいたって、フランスの貴族きぞく諸侯しょこうもローマ教皇きょうこう利用りようされていただけであること気付きづいたことがガリカニスム(フランスおう諸侯しょこうによるはんカトリックてき思想しそう)の形成けいせい、さらに教皇きょうこうけん衰退すいたい遠因えんいんにもなっていく。

おおくのもの殉教じゅんきょう精神せいしんから十字軍じゅうじぐん参加さんかしたが、教皇きょうこう東方とうほう教会きょうかいへの影響えいきょうりょく拡大かくだいのぞみ、王侯おうこう貴族きぞくはイスラムの領土りょうどとみ収奪しゅうだつ[v]、さらに、交易こうえきさかんな文化ぶんか国家こっかひがしマ帝国まていこくへの影響えいきょうりょく行使こうしのぞまれ、それがもっと顕著けんちょかたちあらわれたのがインノケンティウス3せい発動はつどうした十字軍じゅうじぐんであり、同胞どうほうともえるおなキリスト教きりすときょう圏内けんないのギリシャ正教会せいきょうかいひきいたひがしマ帝国まていこくのコンスタンティノープルを陥落かんらくさせる事態じたいこった。

狂信きょうしんしゃ野心やしん無頼漢ぶらいかんまでもふく十字軍じゅうじぐんは、1096ねん聖戦せいせんした東方とうほう進軍しんぐんした。利害りがい対立たいりつによってこうそうをくりがえしていたイスラム勢力せいりょく撃破げきはしながら、パレスチナやその周辺しゅうへん占領せんりょう複数ふくすうキリスト教きりすときょう国家こっか建設けんせつしたが、あつ勢力せいりょく十字軍じゅうじぐんもまた主導しゅどうけんあらそいにれ、マ法王まほうおう(教皇きょうこう)やひがしマ帝国まていこくとの対立たいりつふかまり、混迷こんめい様相ようそうていした。利権りけんをめぐって『てきてき味方みかた』とばかり、十字軍じゅうじぐん勢力せいりょくとイスラム勢力せいりょく同盟どうめいする事態じたいさえ発生はっせいした。

また十字軍じゅうじぐんによるイスラム教徒きょうとユダヤ教徒きょうとなど異教徒いきょうとへのはげしい弾圧だんあつ民衆みんしゅう抵抗ていこうまねき、長引ながび戦争せんそうによって十字軍じゅうじぐんない士気しき低下ていかし、堕落だらく厭戦えんせん気分きぶん蔓延まんえんした。さらに十字軍じゅうじぐん遠征えんせいによる戦費せんぴ調達ちょうたつおもくヨーロッパ各国かっこく民衆みんしゅうにのしかかり、熱狂ねっきょうてき殉教じゅんきょう精神せいしん次第しだい沈静ちんせいしていった。

サラディーンアラビア: الملك الناصر أبو المظفّر صلاح الدين يوسف بن أيّوب ‎、サラーフ・アッ=ディーン、Ṣalāḥ ad-Dīn)による反撃はんげきからやく1世紀せいき、1291ねん十字軍じゅうじぐん最後さいご拠点きょてんであったアッコンうしない、聖地せいちから地中海ちちゅうかいとされてしまう。また、このころから前述ぜんじゅつ十字軍じゅうじぐん内包ないほうする矛盾むじゅんによってひろがった厭戦えんせん機運きうんつづくようにしてイベリア半島はんとうのちウマイヤあさしたレコンキスタ東方とうほう植民しょくみん終焉しゅうえんむかえる。

国際こくさい交流こうりゅう発展はってん

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マルコ・ポーロ旅路たびじ

軍事ぐんじてき失敗しっぱいした十字軍じゅうじぐん遠征えんせいではあったが、戦争せんそうによって東西とうざい交流こうりゅうはより発展はってんした[vi]。ヨーロッパから鉱物こうぶつ資源しげん毛織物けおりものひとしが、イスラムから香辛料こうしんりょうきぬひとしが、いままで以上いじょう東西とうざいあいだ交易こうえきされるようになった。それによってヨーロッパとオリエントのあいだ位置いちするひがしマ帝国まていこくイタリアしょ都市とし国家こっか経済けいざい成長せいちょう顕著けんちょになる。ことにイタリアでは東西とうざい交易こうえきともない、ひがしマ帝国まていこく保存ほぞんしていた古代こだいギリシアの哲学てつがく科学かがくや、イスラム諸国しょこくからの当時とうじ世界せかい最高さいこう水準すいじゅんにあったイスラム文化ぶんかやイスラム科学かがく紹介しょうかいされ、しかも十字軍じゅうじぐん失敗しっぱいによってローマ教皇きょうこう権威けんい低下ていかし、宗教しゅうきょう戒律かいりつ疑問ぎもんった人々ひとびとなかからルネッサンス運動うんどう開始かいしされて近代きんだいへのとびらけられた。

モンゴル帝国ていこくおこったころ、東方とうほうキリスト教徒きりすときょうとプレスター・ジョン大軍たいぐんひきいてイスラムを攻撃こうげきするといううわさがヨーロッパにひろまった。プレスター・ジョン確認かくにんのためにローマ教皇きょうこう西にしヨーロッパ各国かっこくは、国情こくじょう視察しさつ同盟どうめい交易こうえきもとめて東方とうほう使節しせつ派遣はけんした。

そしてプラノ・カルピニ使節しせつカラコルムたっし、1245ねんグユクハーンと謁見えっけんたした。そこはプレスター・ジョンのくにではなかったが、宗教しゅうきょう民族みんぞく比較的ひかくてき寛容かんようモンゴルじんはヨーロッパじんれ、パックスモンゴリカしたでイタリア商人しょうにんやイスラム商人しょうにん頻繁ひんぱんひがしアジアおとずれるようになり、カラコルムやだい北京ぺきん)などの主要しゅよう都市とし長期ちょうき滞在たいざいするものさえあらわれた。

なかでもマルコ・ポーロやく20ねんにわたっておこなわれた旅行りょこう体験たいけんルスティケロ・ダ・ピサ口述こうじゅつし、ルスティケロが『東方とうほう見聞けんぶんろく』としていちじるしヨーロッパにひろまった。イスラム諸国しょこく、インド、中国ちゅうごくジパングについての記述きじゅつが、プレスター・ジョン伝説でんせつとともにヨーロッパじん世界せかいへの好奇心こうきしんてた。

変遷へんせん

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ニーニャごうピンタごうおよサンタ・マリアごう復元ふくげんせん

海外かいがい征服せいふく開始かいし

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15世紀せいき、モンゴル帝国ていこく衰退すいたいすると、強力きょうりょく官僚かんりょう機構きこう軍事ぐんじ機構きこうをもったオスマン帝国ていこく1453ねんビザンツ帝国ていこくほろぼし、イタリアしょ都市とし国家こっか連合れんごう艦隊かんたいにも勝利しょうりして地中海ちちゅうかい制海権せいかいけん獲得かくとくした。東西とうざい中間ちゅうかんくさびつオスマンちょうは、地中海ちちゅうかい交易こうえき支配しはいたか関税かんぜいをかけた。旧来きゅうらい経済けいざい秩序ちつじょ[vii]激変げきへんし、あらたな交易こうえきルートの開拓かいたくがヨーロッパに渇望かつぼうされるようになる。とはいえそのオスマン帝国ていこく進出しんしゅつもベネチアによるオスマン帝国ていこくとの地中海ちちゅうかい貿易ぼうえきつづき、16世紀せいき後半こうはんから17世紀せいきにかけてまた隆盛りゅうせいいちはポルトガルのインドルートをしのぐほどになるので、オスマンの進出しんしゅつがどの程度ていど地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき影響えいきょうあたえたかははっきりしていない。

ポルトガルやスペインはもともと地中海ちちゅうかい貿易ぼうえきのはずれにあったので地中海ちちゅうかい貿易ぼうえきによる恩恵おんけいがうすかった。ベネチアはひがし地中海ちちゅうかいにおいてイスラム諸国しょこくとの貿易ぼうえきをほぼ独占どくせんしていた。イベリア諸国しょこくはベネチアと対立たいりつしていたジェノヴァ商人しょうにんおおきな影響えいきょうりょくをもちかれらがベネチアの地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき対抗たいこうして両国りょうこく大西洋たいせいよう進出しんしゅつ出資しゅっしした。とくにポルトガルは西にしのはずれにあり地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき北海ほっかいバルト海ばるとかい貿易ぼうえき恩恵おんけいけることができなかったので必然ひつぜんてき進出しんしゅつさき西にしアフリカになったのである。

一方いっぽう、15世紀せいきなかばオスマンちょう隆盛りゅうせいきわめつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国りょうこくでは国王こくおう中核ちゅうかくとして、イベリア半島はんとうからイスラム勢力せいりょく駆逐くちくしようとしていた(レコンキスタ)。ながあいだイスラムの圧迫あっぱくけていたポルトガルとスペインでは民族みんぞく主義しゅぎ沸騰ふっとうし、強力きょうりょく国王こくおう中心ちゅうしんとした中央ちゅうおう集権しゅうけん制度せいどのヨーロッパ諸国しょこく先駆さきがけて確立かくりつした。

また、このころ頑丈がんじょうキャラックせんキャラベルせん建造けんぞうされるようになり、羅針盤らしんばんがイスラムをかいしてつたわったことから外洋がいよう航海こうかい可能かのうになった。ポルトガルとスペインは後退こうたいするイスラム勢力せいりょくうようにきたアフリカ沿岸えんがん進出しんしゅつした。

あらたな交易こうえきルートの確保かくほ、イスラム勢力せいりょく駆逐くちく強力きょうりょく権力けんりょくおう出現しゅつげん、そして航海こうかい技術ぎじゅつ発展はってん海外かいがい進出しんしゅつ機会きかい醸成じょうせいされたことで、ポルトガル・スペイン両国りょうこくきそってうみしてった。

初期しょき航海こうかいでは遭難そうなん難破なんぱてきからの襲撃しゅうげき壊血病かいけつびょう疫病えきびょう感染かんせん内部ないぶこうそうなどによって、乗組のりくみいん生還せいかんりつは20%にもたないほど危険きけんきわまりなかった。しかし遠征えんせい成功せいこうしてしん航路こうろ開拓かいたくされあたらしい領土りょうど獲得かくとくするごとに、海外かいがい進出しんしゅつによる利益りえき莫大ばくだいであることが立証りっしょうされた。健康けんこう不屈ふくつ精神せいしんそして才覚さいかく幸運こううんめぐまれれば、貧者ひんじゃ下層かそうみんであっても一夜いちやにして王侯おうこう貴族きぞく匹敵ひってきするほどのとみ名声めいせいころがりんだ。こうしたはやしゃ機運きうん貴賎きせんわず人々ひとびと競争心きょうそうしんあおて、ポルトガル・スペイン両国りょうこく中心ちゅうしんにヨーロッパに航海こうかいブームがれるようになった。

またローマ教皇きょうこう海外かいがい侵略しんりゃく強力きょうりょく後援こうえんした。16世紀せいき初頭しょとうから宗教しゅうきょう改革かいかくあらしさらされていたカトリック教会きょうかい相次あいついで成立せいりつしたプロテスタント諸派しょは対抗たいこうするため、海外かいがいでのあらたな信者しんじゃ獲得かくとく計画けいかくし、強固きょうこカトリック教かとりっくきょうこくであるポルトガル・スペイン両国りょうこく航海こうかい使命しめいかんあふれる宣教師せんきょうしわせ、両国りょうこく獲得かくとくした領土りょうど住民じゅうみんへの布教ふきょう活動かつどう開始かいしした。

アフリカ・アジア大陸たいりく征服せいふく

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ヴァスコ・ダ・ガマインドへの航路こうろ (くろ) 、Pêro da Covilhã航路こうろ (だいだい) 、Afonso de Paiva航路こうろ (あお) およ後者こうしゃ2にん共通きょうつう航路こうろ (みどり)
15世紀せいきカラベルせん復元ふくげん

いちはやくレコンキスタを達成たっせいしたポルトガルはきたアフリカへの侵略しんりゃく確固かっことし1415ねんジョアン1せいのときいのちけた3にん王子おうじ北西ほくせいアフリカのセウタ攻略こうりゃくした。エンリケ王子おうじ西にしアフリカにて伝説でんせつの『かねやま』をつけようと沿岸えんがん探検たんけん開拓かいたくつづけた。ポルトガルは1460ねんごろまでにカナリア諸島かなりあしょとうマデイラ諸島しょとう探検たんけんシエラレオネ付近ふきんまで進出しんしゅつし、さらに象牙ぞうげ海岸かいがん黄金おうごん海岸かいがん1482ねんガーナ城塞じょうさいきずいてきむ奴隷どれい交易こうえきおこなった。1485ねんディオゴ・カンジョアン2せいめいじられてナミビアクロスみさき到達とうたつした。

1488ねんバルトロメウ・ディアス船団せんだんひきいて困難こんなんすえにアフリカ南端なんたんにたどりいた。ディアスはさらにインドを目指めざしたが強風きょうふうはばまれた挙句あげく乗組のりくみいん反乱はんらんこったため帰路きろ発見はっけんしたみさきを『あらしみさき』とづけて帰還きかんした。この成果せいかにインド航路こうろ開拓かいたく確証かくしょうたジョアン2せいは『あらしみさき』をもちほう改名かいめいさせた。

1497ねん7がつ8にちヴァスコ・ダ・ガママヌエル1せいめいじられ、船団せんだんひきいてリスボン旅立たびだつとインドを目指めざした。目的もくてきはインドとの直接ちょくせつ交易こうえき先人せんじんたち知識ちしきをもとに4ヶ月かげつ一気いっきもちほう到達とうたつしたガマは、アフリカ南端なんたんまわってモザンビーク海峡かいきょういたりイスラム商人しょうにん出会であうとインドへの航路こうろかんする情報じょうほう収集しゅうしゅうした。1498ねん5がつ20日はつか、ついにヨーロッパじんとしてはじめてインドのカリカット(コーリコード)に到着とうちゃくしたガマは、翌年よくねん香辛料こうしんりょうをポルトガルにかえった。

1509ねん2がつフランシスコ・デ・アルメイダ国王こくおういのち遠征えんせい艦隊かんたいひきいてイスラム勢力せいりょくたたかい(ディーウおき海戦かいせん)、インドとの直接ちょくせつ交易こうえき獲得かくとくするにいたった。ポルトガルは順調じゅんちょうマレまれ半島はんとうセイロンとうにも侵略しんりゃく1557ねんにはマカオ要塞ようさいきずいて極東きょくとう拠点きょてんとした。そのあいだ1543ねんジャンクせんったポルトガルじん日本にっぽん種子島たねがしま漂着ひょうちゃくして鉄砲てっぽうつたえている。

このようなポルトガルの快挙かいきょ特筆とくひつされるべきものであり、そののヨーロッパの驚異きょういてき発展はってん寄与きよしたのである。しかしイスラム商人しょうにんふるくからインドや中国ちゅうごくさらにモルッカ諸島しょとうなどとさかんに交易こうえきしており、アフリカ大陸たいりくにおいても赤道あかみち周辺しゅうへん地域ちいきまで交易こうえきけんひろげていた。西にしアフリカに成立せいりつしていたマリ王国おうこくはイスラムにかねしお奴隷どれい輸出ゆしゅつしていた。また、ヨーロッパに先駆さきがけて中国ちゅうごくていかず艦隊かんたい一部いちぶがアフリカ大陸たいりく到達とうたつしたとわれ、みなみアフリカのジンバブエ遺跡いせきからはインドやペルシャのほか中国ちゅうごくせい綿めん製品せいひん絨毯じゅうたん陶器とうきなどが出土しゅつどしている。このように14世紀せいきから15世紀せいきまでにきゅう世界せかいにおける世界せかい航路こうろは、様々さまざま国家こっか地域ちいき民族みんぞくによって、開拓かいたくされほぼ完成かんせいしていたこともわすれてはならない。世界せかい規模きぼうならば、ガマは世界せかい航路こうろのひとつにアフリカまわりのおうしるし航路こうろくわえたにぎないのである。

みなみアメリカ大陸あめりかたいりく征服せいふく

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クリストファー・コロンブスの4わた中央ちゅうおうアメリカへの航路こうろ

おなじころ、ジェノヴァ商人しょうにんクリストファー・コロンブス西にしまわりインド航路こうろ開拓かいたくしようと1484ねん、ポルトガルに航海こうかい援助えんじょをもちかけた。すでにアフリカ航路こうろ開拓かいたくしインドまでいまいちせまっていたポルトガルはこれを拒否きょひする。

ポルトガルにおくれをとっていたスペインは1486ねんフェルナンド5せいアラゴンおうとしてはフェルナンド2せい)と、そのつまイサベルがコロンブスの計画けいかく採用さいよう1492ねん旗艦きかんサンタ・マリアごうひきいられた船団せんだんがパロスこうから西にし出港しゅっこうした。1492ねん10月12にち西にしインド諸島しょとうぞくするバハマ諸島しょとう到着とうちゃくしたコロンブスは翌年よくねんスペインに帰還きかんして西にしまわりインド航路こうろ発見はっけんしたと宣言せんげんした。

アメリカ航路こうろ開拓かいたくおくれをとっていたポルトガルも、1500ねんカブラルブラジル[viii]到達とうたつし、トルデシリャス条約じょうやくによってそのをポルトガルりょうくわえた。

スペインのカトリック国王こくおうフェルナンド西にしインド探検たんけん航海こうかい企画きかくし、アメリゴ・ヴェスプッチは、1497ねんから1498ねんにかけてカリブ海かりぶかい沿岸えんがん探検たんけん、1499ねんから1500ねん航海こうかいではカリブ海かりぶかいから南下なんかしてブラジル北岸ほくがんまで探検たんけんおこなった。 ポルトガルおうマヌエル1せいは、カブラルが発見はっけんした土地とちたんなるしまなのか、あるいはスペインがすでにその北側きたがわ探検たんけんしていた大陸たいりく一部いちぶなのかることをのぞみ、ヴェスプッチに探検たんけん依頼いらい、ヴェスプッチは、1501ねんから1502ねんにかけた航海こうかい大陸たいりく東岸とうがん沿って南下なんか南緯なんい50まで到達とうたつすることができた。ヴェスプッチは、大陸たいりくがアジア最南端さいなんたんマレまれ半島はんとう北緯ほくい1)とアフリカ最南端さいなんたん南緯なんい34)の緯度いどをはるかにみなみえてつづくため、それが既知きち大陸たいりくのどれにもぞくさない「新大陸しんたいりく」であることを、1503ねんごろ論文ろんぶんしん世界せかい』で発表はっぴょうした。

1513ねんバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、パナマ地峡ちきょう横断おうだんし、ヨーロッパじんとしてはじめて西にしまわりでの太平洋たいへいよう遭遇そうぐうし、きたアメリカ大陸あめりかたいりくみなみアメリカ大陸あめりかたいりく地続じつづきであることを発見はっけんした。

スペインは交易こうえきひんもとめてアメリカ大陸あめりかたいりく深部しんぶ進出しんしゅつすると豊富ほうふ金銀きんぎんをつけた。インカやアステカを征服せいふく原住民げんじゅうみん牛馬ぎゅうばのように酷使こくしして略奪りゃくだつかぎりをくした。ポルトガルも、ブラジルにおいてスペイン同様どうよう原住民げんじゅうみんからとみ収奪しゅうだつした。

世界せかい周航しゅうこう

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マゼランおよエルカーノひきいる艦隊かんたい世界せかい一周いっしゅう航路こうろ

スペインのいのちけモルッカ諸島しょとうへの西にしまわ航路こうろ開拓かいたくマゼラン(マガリャンイス)はスペインおうカルロス1せい援助えんじょ1519ねん8がつセビリャから5せきふねに265めい乗組のりくみいんせて出発しゅっぱつした。1520ねん10月、みなみアメリカ大陸あめりかたいりく南端なんたんマゼラン海峡かいきょう通過つうかして太平洋たいへいよう横断おうだんし、グァムとうり、1521ねんフィリピン諸島しょとう到着とうちゃくした。マゼランはフィリピン中部ちゅうぶマクタンとう住民じゅうみんあらそいに加担かたんし、同年どうねん4がつ27にち酋長しゅうちょうラプ・ラプによってころされた。その部下ぶかエルカーノひきいるビクトリアごう1せき航海こうかいをつづけ、1522ねんにセビリャに帰港きこう世界せかい周航しゅうこうたし、地球ちきゅう球体きゅうたいであることを実証じっしょうした。かえってきたのは18めいであった。

スペインはこののちメキシコノビスパン)から太平洋たいへいよう横断おうだんしモルッカ諸島しょとうへの航路こうろひらこうと躍起やっきになり、ポルトガルと摩擦まさつこす。そのさなか、フィリピンは1571ねんメキシコを出発しゅっぱつしたミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服せいふくされスペインりょうとなった。なお、フィリピンの1542ねん、フィリピン諸島しょとう探検たんけんしたビリャロボスが、当時とうじスペイン王子おうじであったフェリペ(のちのフェリペ2せい)にちなみ、これらの諸島しょとうを「フィリピナス諸島しょとう」とんだことに由来ゆらいする。

ポルトガル・スペインあいだ条約じょうやく締結ていけつ

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トルデシリャス条約じょうやく (むらさき) およびサラゴサ条約じょうやく (みどり) の境界きょうかいせん
ポルトガル海上かいじょう帝国ていこく貿易ぼうえきルート (あお) およ競合きょうごうするマニラ・ガレオン貿易ぼうえきルート (しろ)

ポルトガルとスペインによるしん航路こうろ開拓かいたく海外かいがい領土りょうど獲得かくとく競争きょうそう白熱はくねつすると両国りょうこくあいだはげしい紛争ふんそう発生はっせいした。さらにのヨーロッパ諸国しょこく海外かいがい進出しんしゅつ開始かいししたため、独占どくせん体制たいせい崩壊ほうかい危機ききかんつのらせた両国りょうこく仲介ちゅうかいローマ教皇きょうこう依頼いらいして1494ねんトルデシリャス条約じょうやく1529ねんサラゴサ条約じょうやく締結ていけつした。両国りょうこくはこれらの条約じょうやくにより各々おのおの勢力せいりょく範囲はんい決定けってい既得きとくけん防衛ぼうえいしようとはかった。

西欧せいおうとロシアによるアジア・きたアメリカ征服せいふく

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ヨハネス・ケプラーによる、ルドルフひょうもとづいてえがかれた1627ねん当時とうじ世界せかい地図ちず

ポルトガルやスペインにおくれて絶対ぜったい王権おうけん安定あんていさせ、ようやく航海こうかい探検たんけん後押あとおしをする用意よういととのったフランスイギリス、スペインからの独立どくりつたしたオランダといった後発こうはつ諸国しょこくさかんに海外かいがい進出しんしゅつし、次第しだい先行せんこうしていたポルトガルとスペインを凌駕りょうがしていった。こうした後発こうはつ海運かいうんこくはトルデシリャス条約じょうやくによってしん領土りょうど獲得かくとくから排除はいじょされることをこばみ、独自どくじ航海こうかい経験けいけんんでいたため、あたらしい技術ぎじゅつ地図ちず使つかきた大海たいかいしていった。後発こうはつ海運かいうんこくは、ポルトガルやスペインが広大こうだい領土りょうど獲得かくとくしたにもかかわらず急速きゅうそく没落ぼつらくしていった経験けいけんからまなんで、慎重しんちょうかつ綿密めんみつ植民しょくみん経営けいえいおこなった。

後発こうはつ海運かいうんこく最初さいしょ探検たんけんは、イタリアじんジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)をやとったイギリスによる北米ほくべい探検たんけん1497ねん)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連いちれん北米ほくべい探検たんけんのはじまりとなった。イギリスの代理人だいりにんカボット、フランスの代理人だいりにんヴェラッツァーノ、カルティエらの航海こうかいは、きたアメリカを迂回うかいしてゆたかな中国ちゅうごくやインドにいた最短さいたん大圏たいけん航路こうろ北西ほくせい航路こうろ)をさがすことが目的もくてきだった。

スペインは、よりおおくの天然てんねん資源しげんつかる中央ちゅうおうアメリカおよびみなみアメリカの探検たんけん人的じんてき資源しげん集中しゅうちゅうさせていたため、きたアメリカの探検たんけんそそいだ努力どりょくかぎられていた。1525ねんには、フランスによって派遣はけんされたイタリアじんジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ現在げんざいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく東海岸ひがしかいがん探検たんけんしており、記録きろくのこ最初さいしょ北米ほくべい東海岸ひがしかいがん探検たんけんしたヨーロッパじんとなった。フランスじんジャック・カルティエ1534ねんにカナダへの最初さいしょ航海こうかいおこなった。南米なんべい航路こうろでは、1522ねんマゼラン艦隊かんたい世界せかいはつ世界せかい一周いっしゅうフィリピン発見はっけんされた。

そして1580ねん、イギリス軍人ぐんじんフランシス・ドレークの2番目ばんめ世界せかい一周いっしゅうによりみなみアメリカのホーンみさきドレーク海峡かいきょう発見はっけんされた。そうしたアメリカ経由けいゆ西にしまわ航路こうろ探索たんさく過程かていきたアメリカ大陸あめりかたいりく海岸かいがん様相ようそうあきらかとなってゆき、きたアメリカ自体じたい可能かのうせい見出みいだしたヨーロッパじんたちがいた。きたアメリカの植民しょくみんを1607ねん建設けんせつしたイギリス(イングランド)のヴァージニア会社かいしゃが1606ねん特許とっきょで、1757ねんからインド植民しょくみん運営うんえいすることになったイギリスひがしインド会社かいしゃが1601ねん1がつ10日とおか発布はっぷされたエリザベス1せい特許とっきょじょう設立せつりつされていた[2]当初とうしょオランダひがしインド会社かいしゃやとわれていたヘンリー・ハドソンすう航海こうかいののち、1609ねんげんニューヨークしゅうハドソンがわ到達とうたつし、そのイギリスの植民しょくみん会社かいしゃやとわれてげんカナダの北東ほくとううみ探検たんけんアイスランドグリーンランドハドソンわんなどを発見はっけんした。きたアメリカ東海岸ひがしかいがんには、オランダニューネーデルラントニューアムステルダム、イギリスのバージニア植民しょくみんニューヨーク植民しょくみんなどだい規模きぼ植民しょくみんきずかれはじめた。

1627のさんじゅうねん戦争せんそう、1666ねんだいえいらん戦争せんそうあらそわれるなか、オランダやイギリスは、スカンジナビアやロシア、シベリアのきた迂回うかいして中国ちゅうごくいた北東ほくとう航路こうろ探検たんけんおこない、ロシア・ツァーリこくとの北海ほっかい交易こうえきはじめたり、捕鯨ほげい拠点きょてんとなる北極ほっきょくかいしまおお発見はっけんしたりしたが、やはりこおりうみはばまれアジアへの航路こうろつけることはできず、また、きたアメリカを迂回うかいする航路こうろも19世紀せいきまではつかることはなかった。

ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフが1648ねんにシベリア東部とうぶへの探検たんけんたいひきい、ユーラシアさいひがしはしとなるみさきのちにデジニョフみさき命名めいめいされた)を発見はっけんした。

イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋いんどようにも航海こうかいして独自どくじ交易こうえき植民しょくみん確立かくりつし、この方面ほうめん独占どくせんてき勢力せいりょくきずいていたポルトガルの地位ちいおどかした。ポルトガルのもっと利益りえきおおきい拠点きょてんであるゴアマカオを、新興しんこう諸国しょこく拠点きょてん香港ほんこんバタヴィアなど)が包囲ほういし、オランダがインドネシアを勢力せいりょくけんとして香料こうりょう諸島しょとうからポルトガル勢力せいりょく駆逐くちくすると、次第しだいにポルトガルやスペインがアジア貿易ぼうえき市場いちばめていたシェアはちいさくなっていった。

香料こうりょう諸島しょとう

のこ未知みち地域ちいききたアメリカ西海岸にしかいがん太平洋たいへいよう島々しまじまなど、トルデシリャス条約じょうやくでスペインにあたえられた地域ちいき)については、スペインよりさきにオランダが探検たんけんした。1606ねんにはウィレム・ヤンツWillem Jansz, Willem Janszoon)が、1642ねんにはアベル・タスマン(Abel Tasman)など、オランダの探検たんけんオーストラリア探検たんけんしている。

こうして17世紀せいきちゅうごろまでに一部いちぶ不毛ふもう地帯ちたいのぞいたすべての地域ちいきにヨーロッパじん到達とうたつしてだい航海こうかい時代じだい終焉しゅうえんむかえる。世界中せかいじゅうとみ集中しゅうちゅうするようになった英国えいこくをはじめとしたヨーロッパ各国かっこくは、いちはや近代きんだい達成たっせい世界せかいとなえた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ チンパンジーのシロアリつりやくるみり、オマキザルり、エジプトハゲワシたまごりetc。
  2. ^ きぬかみetc
  3. ^ こう漢書かんしょ太秦うずまさこく皇帝こうていあんあつしマ帝国まていこく皇帝こうていマルクス・アウレリウス・アントニヌス)から派遣はけんされた使節しせつかんする記述きじゅつがある。
  4. ^ パルチアかんグプタあさetc
  5. ^ 当時とうじのゲルマンじんやノルマンじん分割ぶんかつ相続そうぞくをしていたことから、領土りょうどとみだいかさねて細分さいぶんされ、遺産いさん相続そうぞくのぞめない子弟してい増加ぞうかしていた。
  6. ^ イスラム勢力せいりょく聖地せいち周辺しゅうへん征服せいふく以後いごも、キリスト教徒きりすときょうと聖地せいち巡礼じゅんれいゆるされていたので、十字軍じゅうじぐん遠征えんせい以前いぜんにヨーロッパじんとイスラムじん交渉こうしょうがなかったわけではない。
  7. ^ メディチフッガー資本しほん影響えいきょうけて破綻はたんした。
  8. ^ ヨーロッパからもちほういた航海こうかい風向かざむきの関係かんけいから大西洋たいせいようをブラジル沿岸えんがん近海きんかいまでおおきく西にし迂回うかいするのが効率こうりつてきである。このことからポルトガルは1490年代ねんだいまでにブラジルを発見はっけんしていた可能かのうせいたかいと推定すいていされている。アメリカ大陸あめりかたいりく発見はっけん公表こうひょうしなかった理由りゆうについて、のライバルこく迂回うかい航路こうろ存在そんざいさとられないよう国家こっか機密きみつにしていたとされる。

出典しゅってん

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  1. ^ 増田ますだ義郎よしお図説ずせつ だい航海こうかい時代じだい』(ふくろうのほん) 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2008ねん、100-102ぺーじ
  2. ^ 羽田はたただし世界せかい興亡こうぼう だい15かん ひがしインド会社かいしゃとアジアのうみ講談社こうだんしゃ,2007/12/17,ISBN 978-4-06-280715-9,74~81ページ

だい航海こうかい時代じだいかんする原典げんてん一覧いちらん

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詳細しょうさいだい航海こうかい時代じだい叢書そうしょアンソロジーしん世界せかい挑戦ちょうせん参照さんしょう

岩波書店いわなみしょてんだい航海こうかい時代じだい叢書そうしょ』 会田あいだゆかり増田ますだ義郎よしお生田いくたしげるひとし訳注やくちゅう刊行かんこう下記かき岩波いわなみ文庫ぶんこ再刊さいかん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井沢いざわみのるだい航海こうかい時代じだい夜話やわ岩波書店いわなみしょてん、1977ねん
  • 青木あおきやすしせいうみみち東西とうざい出会であい』 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかいリブレット25>、1998ねん ISBN 4-634-34250-2
  • ボイス・ペンローズ『だい航海こうかい時代じだい たび発見はっけん世紀せいき荒尾あらお克己かつみやく筑摩書房ちくましょぼう、1985ねん/ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2020ねん12月
  • 図説ずせつ だい航海こうかい時代じだい増田ますだ義郎よしおへん、ふくろうのほん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2008ねん

関連かんれん項目こうもく

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