トゥール・ポワティエあいだたたか

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トゥール・ポワティエあいだたたか
ウマイヤあさのガリア侵攻しんこうなか

ヴェルサイユ宮殿きゅうでん美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
とき732ねん10がつ10日とおか
場所ばしょフランストゥールポワティエあいだ
結果けっか フランク王国おうこく勝利しょうり、ウマイヤあさ撤退てったい
衝突しょうとつした勢力せいりょく
フランク王国おうこく
ランゴバルド王国おうこく
ウマイヤあさ
指揮しきかん
カール・マルテル
アキテーヌこうウード
アブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー英語えいごばん
戦力せんりょく
15,000-75,000(Goreのせつによると15,000〜20,000にん) 60,000-400,000(Goreのせつによると20,000〜25,000)
被害ひがいしゃすう
やく1,500 不明ふめい被害ひがい甚大じんだい

トゥール・ポワティエあいだたたか(トゥールポワティエかんのたたかい、フランス語ふらんすご: Bataille de Poitiersアラビア: معركة بلاط الشهداء‎)は、732ねんフランス西部せいぶトゥールポワティエあいだで、フランク王国おうこくウマイヤあさあいだこったたたかい。ツール・ポアティエのたたか呼称こしょうすることがある。

そのも735-739ねんにかけてウマイヤぐん侵攻しんこうしたがカール・マルテルひきいるフランク王国おうこく連合れんごうぐんにより撃退げきたいされた。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

英語えいごでは「Battle of Tours(トゥアー(トゥールの)のたたかい)」、アラビアでは「معركة بلاط الشهداء(マウラカト・バーラト・アル=シュハーダ(殉教者じゅんきょうしゃみち)のたたかい)」とばれる[1]イスラム教徒きょうとがわ呼称こしょう由来ゆらいは14世紀せいきモロッコマラケシュ歴史れきし学者がくしゃイブン・イダーリー英語えいごばん歴史れきししょアル=バヤーン・アル=マグリブ英語えいごばんالبيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب略称りゃくしょうバヤーン(بيان ))」に由来ゆらいする。同書どうしょアンダルス歴史れきしなかで、イブン・ハイヤーン英語えいごばん資料しりょうから「アンダルシアの支配しはいしゃであるアブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー英語えいごばん以下いか、ガーフィキー)はローマじん土地とち侵入しんにゅうし、ヒジュラれき115ねんに「殉教者じゅんきょうしゃみちبلاط الشهداء)」としてられる場所ばしょで、かれ軍隊ぐんたい殉教じゅんきょうした。」という記述きじゅつがあることによる。イブン・ハイヤーンはたたかいので、アザーンながあいだかれるようになったとかたっている。

背景はいけい[編集へんしゅう]

イスラム世界せかいはつ帝国ていこくであるウマイヤあさだい10代カリフヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク時代じだい比較的ひかくてき安定あんていしていた。だい6だいカリフのワリード1せい時代じだい進行しんこうしたイスラムぐんはアンダルス(げんスペイン)を支配しはいいた。この征服せいふくたいし、現地げんちキリスト教きりすときょう領主りょうしゅたちは対抗たいこう小競こぜいがえなかった。シャリーア(イスラムほう)のジズヤみつげおさめすることで信仰しんこう自由じゆうみとめられていたものの、アラブじんとそれに追従ついしょうしたベルベルじん、そして現地げんちキリスト教徒きりすときょうとたちは相容あいいれない生活せいかつおくっていた。またアラブじん直轄ちょっかつするまちではイスラムいろく、問題もんだい発生はっせいしていた。

アル=アンダルスのワーリーであったアッ=サム・イブン・マリク・アル=ハウラーニー英語えいごばんトゥールーズのたたか英語えいごばんヨーロッパへの領土りょうど拡張かくちょうおこなっている。トゥールーズのたたかいでは、アキテーヌこうウード活躍かつやくにより勝利しょうりした。

このたたかいでハウラーニーは重傷じゅうしょうい、まもなくくなった。しかしイスラム勢力せいりょく脅威きょういえたわけではなく、緩衝かんしょう地帯ちたい位置いちするアキテーヌにはつね不安ふあんがあった。

こののち、ウード大公たいこう自分じぶんむすめ(おそらく名前なまえランペジア英語えいごばん)をアル=アンダルスのふく知事ちじであるムヌザ英語えいごばん(サルデーニャのムヌザ:カタルーニャ領主りょうしゅ、ベルベルじん)によめとしておくった。ウードこう和睦わぼくすることで、アキテーヌを緩衝かんしょう地帯ちたいとする目的もくてきがあったとおもわれる。しかし、あらたにアル=アンダルス総督そうとく英語えいごばん任命にんめいされたガーフィキーから反乱はんらんくわだてているとムヌザはうたがわれることになる。たいするメロヴィングあさフランク王国おうこくみやおさむであるカールも、イスラム国家こっかつうじることをしとせず、アキテーヌへと侵攻しんこうした。

730ねん(ヒジュラれき112ねん)にワーリーに任命にんめいされたガーフィキーは 、サルデーニャ独立どくりつ政権せいけんちたてようとしたムヌザを攻撃こうげきした。かれころされ、つま(ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレムへとおくられた。ウードこう援軍えんぐんおくりたかったが、不信ふしんったみやおさむカールと交戦こうせんちゅうでできなかった[2]

ウードおおやけみやおさむカールにやぶれ、アキテーヌは没収ぼっしゅうされた。そのピレネー山脈さんみゃくえてウードこう領地りょうちであるアキテーヌへと侵攻しんこうするガーフィキーひきいるイスラム勢力せいりょくを、領土りょうどうしなったウードおおやけ家臣かしんたちは、ガロンヌがわたたか英語えいごばん(ボルドーのたたかい)で対決たいけつする。ウードこうぐんやぶって、アキテーヌ北部ほくぶまで侵攻しんこう略奪りゃくだつおこなった。

だが、ウードおおやけ体制たいせいなおすため、みやおさむカールへと救援きゅうえん要請ようせいおこなった。イスラム勢力せいりょく侵攻しんこうったみやおさむカールはウードこう自軍じぐん右翼うよくみ、領主りょうしゅたちをあつめてフランク連合れんごうぐん組織そしき。トゥールとポワティエあいだにある平野へいやでアル=アンダルス総督そうとくであるガーフィキーぐん衝突しょうとつすることになった。

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

みやおさむカールひきいるフランク王国おうこく連合れんごうぐんは、騎兵きへいおおいガーフィキーの軍隊ぐんたいたい場所ばしょえらんだ。イスラムがわおおくは騎兵きへいであり機動きどうりょく発揮はっきできないよう、おか樹木じゅもくなどの地形ちけいファランクス上手うま活用かつよう防衛ぼうえい体制たいせいととのえた。歩兵ほへい騎兵きへい戦闘せんとうながら決着けっちゃくはつかず、7日間にちかん小競こぜいがつづいた。イスラムがわはフランク王国おうこく連合れんごうぐん主体しゅたい歩兵ほへいであることから、戦闘せんとう楽観らっかんしていた。

トゥールとポワティエのあいだクランがわ英語えいごばんヴィエンヌがわ合流ごうりゅうてんで2つのぐん合流ごうりゅうしたと想定そうていしており、りょうぐん兵士へいしかず不明ふめいラテン語らてんご資料しりょうである「754ねんのモサラベ年代ねんだい」においては、詳細しょうさい人数にんずうにおいては言及げんきゅうされていない。りょう陣営じんえい動員どういんすう当時とうじ兵站へいたんかんがみるにフランク王国おうこく連合れんごうぐんが15,000〜20,000にん。ガーフィキーひきいるアル=アンダルス遠征えんせいぐんが20,000〜25,000にんとされている[3]

歴史れきしポール・K・デイヴィス英語えいごばんは1999ねんにイスラム教徒きょうと軍隊ぐんたいやく80,000にん、フランク王国おうこく連合れんごうぐんやく30,000にん推定すいていした。一方いっぽうでエドワード・J・シェーンフェルト(Edward J. Schoenfeld)はウマイヤあさかずが60,000-400,000とフランク王国おうこく連合れんごうぐんが75,000の範囲はんいであったというふる見積みつもりを拒否きょひした。戦地せんちひろさと、当時とうじ補給ほきゅう事情じじょうかんがみるに50,000にんえるへいすう運用うんようできないと指摘してきした。テリー・L・ゴア(Terry L. Gore)はフランク王国おうこく連合れんごうぐん15,000〜20,000にん、イスラム教徒きょうと軍隊ぐんたいを20,000〜25,000にん見積みつもった[3]

最終さいしゅうにおいて、フランクぐんがイスラムぐん略奪りゃくだつひん荷車にぐるまなどを襲撃しゅうげきした[3]人種じんしゅ民族みんぞく宗教しゅうきょうみだれるガーフィキーのぐんでは戦利せんりひん防衛ぼうえい攻撃こうげきとで指揮しき系統けいとうみだれた(当時とうじ略奪りゃくだつしなは、そのまま兵士へいしたちの給料きゅうりょうでもあった。また、イスラムがわ家族かぞく同伴どうはんしていたことも理由りゆうである)、ガーフィキーは混乱こんらんした自軍じぐんをまとめようとして、まえたところをられ死亡しぼうした。(ガーフィキーの死亡しぼうは「754ねんのモサラベ年代ねんだい」でも言及げんきゅうされている。)

イスラムがわ記録きろくによると、ガーフィキーの死後しご有力ゆうりょくしゃたちで会議かいぎおこなったが意見いけんまとまることはよるうち撤退てったいしたという。(ガーフィキーはイスラムがわでは、民族みんぞく文化ぶんか垣根かきねえた優秀ゆうしゅう指導しどうしゃであったと評価ひょうかされている。)

フランク王国おうこく連合れんごうぐんは、後日ごじつ攻撃こうげきそなえてぐには武装ぶそう解除かいじょしなかった。

影響えいきょう[編集へんしゅう]

このフランクじん勝利しょうりムハンマドから100ねんにあたり、しばらくのあいだピレネー山脈さんみゃくえてフランス王国おうこく領内りょうないアラブじん侵入しんにゅうするという深刻しんこく脅威きょういわらせた。この勝利しょうりにより、みやおさむカールは「マルテル」の称号しょうごうて、「カール・マルテル」とばれるようになる。そしてこのたたかいによって、フランク王国おうこくうちにおける地位ちい確固かっこたるものとした。アウストラシアみやおさむ出身しゅっしんであったカール・マルテルの息子むすこしょうピピン教皇きょうこう味方みかたにつけ、メロヴィングあさはいしてみずか王位おういそくき、カロリングあさひらいた。しょうピピンは息子むすこ王位おうい世襲せしゅうおこなわせたため、しょうピピンの息子むすこであるカールが王位おういについた。これが有名ゆうめいなシャルルマーニュことカール大帝たいてい(800ねんフランク・ローマ皇帝こうていとして戴冠たいかん。)である。

ヨーロッパにおいては、キリストきょうけん防衛ぼうえい中世ちゅうせいはじまりから評価ひょうかたかたたかいだが、イスラムがわではそこまでおおきい評価ひょうかはされていない。キリストきょうけん防衛ぼうえいという一事いちじと、カール・マルテルがフランク王国おうこくない絶対ぜったいてき地位ちい確立かくりつし、それがこうシャルルマーニュつながってヨーロッパのいしずえになったことによる評価ひょうかおおきい。(一方いっぽうエドワード・ギボン自著じちょマ帝国まていこく衰亡すいぼう』のなかたか評価ひょうかしている。)

一方いっぽうで、イスラムけんからすればちいさい小競こぜいという印象いんしょう評価ひょうかである。事実じじつじょう、アル=アンダルスとアキテーヌこう問題もんだいにカール・マルテルが介入かいにゅうしたことから「領主りょうしゅ小競こぜい」あるいは「略奪りゃくだつによるとみ目的もくてき」だったなどヨーロッパとはちがいちじるしくことなる。

備考びこう[編集へんしゅう]

SF作家さっかアーサー・C・クラークは『楽園らくえんいずみ』の作中さくちゅうにて、もしこのたたかいでイスラムがわ勝利しょうりしてヨーロッパを征服せいふくしていれば、キリストきょう支配しはいによる中世ちゅうせい暗黒あんこく時代じだい回避かいひされ、産業さんぎょう革命かくめいは1000ねんはやまって人類じんるいすで恒星こうせいにまで到達とうたつしていたかもれないとして「人類じんるい最大さいだい悲劇ひげきひとつ」とひょうしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ MIZUKAMI, Ryo (2014). “The Group Ijāza Referred to by Ibn al-Fuwaṭī in the Late 13th Century”. Bulletin of the Society for Near Eastern Studies in Japan 57 (1): 62–72. doi:10.5356/jorient.57.1_62. ISSN 0030-5219. https://doi.org/10.5356/jorient.57.1_62. 
  2. ^ Legal History Review (34): 436–439. (1984). doi:10.5955/jalha.1984.436. ISSN 1883-5562. https://doi.org/10.5955/jalha.1984.436. 
  3. ^ a b c battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021ねん4がつ24にち閲覧えつらん[リンク]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • アミール・アリ回教かいきょう A Short History of the Saracens』(1942ねん善隣ぜんりんしゃ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]