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トゥール・ポワティエ間 あいだ の戦 たたか い (トゥールポワティエかんのたたかい、フランス語 ふらんすご : Bataille de Poitiers 、アラビア語 ご : معركة بلاط الشهداء )は、732年 ねん にフランス 西部 せいぶ のトゥール とポワティエ の間 あいだ で、フランク王国 おうこく とウマイヤ朝 あさ の間 あいだ で起 お こった戦 たたか い。ツール・ポアティエの戦 たたか い と呼称 こしょう することがある。
その後 ご も735-739年 ねん にかけてウマイヤ軍 ぐん は侵攻 しんこう したがカール・マルテル 率 ひき いるフランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん により撃退 げきたい された。
英語 えいご では「Battle of Tours(トゥアー(トゥールの意 い )の戦 たたか い)」、アラビア語 ご では「معركة بلاط الشهداء (マウラカト・バーラト・アル=シュハーダ(殉教者 じゅんきょうしゃ の道 みち )の戦 たたか い)」と呼 よ ばれる[1] 。イスラム教徒 きょうと 側 がわ の呼称 こしょう の由来 ゆらい は14世紀 せいき モロッコ のマラケシュ の歴史 れきし 学者 がくしゃ イブン・イダーリー (英語 えいご 版 ばん ) の歴史 れきし 書 しょ 「アル=バヤーン・アル=マグリブ (英語 えいご 版 ばん ) (البيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب 、略称 りゃくしょう バヤーン(بيان ))」に由来 ゆらい する。同書 どうしょ のアンダルス の歴史 れきし の中 なか で、イブン・ハイヤーン (英語 えいご 版 ばん ) の資料 しりょう から「アンダルシアの支配 しはい 者 しゃ であるアブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー (英語 えいご 版 ばん ) (以下 いか 、ガーフィキー)はローマ人 じん の土地 とち に侵入 しんにゅう し、ヒジュラ暦 れき 115年 ねん に「殉教者 じゅんきょうしゃ の道 みち (بلاط الشهداء )」として知 し られる場所 ばしょ で、彼 かれ の軍隊 ぐんたい と殉教 じゅんきょう した。」という記述 きじゅつ があることによる。イブン・ハイヤーンは戦 たたか いの地 ち で、アザーン が長 なが い間 あいだ 聞 き かれるようになったと語 かた っている。
イスラム世界 せかい 初 はつ の帝国 ていこく であるウマイヤ朝 あさ は第 だい 10代カリフ のヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク の時代 じだい で比較的 ひかくてき 安定 あんてい していた。第 だい 6代 だい カリフのワリード1世 せい の時代 じだい に進行 しんこう したイスラム軍 ぐん はアンダルス(現 げん スペイン )を支配 しはい 下 か に置 お いた。この征服 せいふく に対 たい し、現地 げんち のキリスト教 きりすときょう 領主 りょうしゅ たちは対抗 たいこう し小競 こぜ り合 あ いが絶 た えなかった。シャリーア (イスラム法 ほう )のジズヤ を貢 みつげ 納 おさめ することで信仰 しんこう の自由 じゆう は認 みと められていたものの、アラブ人 じん とそれに追従 ついしょう したベルベル人 じん 、そして現地 げんち のキリスト教徒 きりすときょうと たちは相容 あいい れない生活 せいかつ を送 おく っていた。またアラブ人 じん が直轄 ちょっかつ する街 まち ではイスラム 色 いろ が濃 こ く、問題 もんだい も発生 はっせい していた。
アル=アンダルスのワーリー であったアッ=サム・イブン・マリク・アル=ハウラーニー (英語 えいご 版 ばん ) がトゥールーズの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でヨーロッパ への領土 りょうど 拡張 かくちょう を行 おこな っている。トゥールーズの戦 たたか いでは、アキテーヌ公 こう のウード の活躍 かつやく により勝利 しょうり した。
この戦 たたか いでハウラーニーは重傷 じゅうしょう を負 お い、まもなく亡 な くなった。しかしイスラム勢力 せいりょく の脅威 きょうい が消 き えた訳 わけ ではなく、緩衝 かんしょう 地帯 ちたい に位置 いち するアキテーヌ には常 つね に不安 ふあん があった。
この後 のち 、ウード大公 たいこう が自分 じぶん の娘 むすめ (おそらく名前 なまえ はランペジア (英語 えいご 版 ばん ) )をアル=アンダルスの副 ふく 知事 ちじ であるムヌザ (英語 えいご 版 ばん ) (サルデーニャのムヌザ:カタルーニャ の領主 りょうしゅ 、ベルベル人 じん )に嫁 よめ として送 おく った。ウード公 こう と和睦 わぼく することで、アキテーヌを緩衝 かんしょう 地帯 ちたい とする目的 もくてき があったと思 おも われる。しかし、新 あら たにアル=アンダルス総督 そうとく (英語 えいご 版 ばん ) に任命 にんめい されたガーフィキーから反乱 はんらん を企 くわだ てているとムヌザは疑 うたが われることになる。対 たい するメロヴィング朝 あさ フランク王国 おうこく の宮 みや 宰 おさむ であるカール も、イスラム国家 こっか と通 つう じることを良 い しとせず、アキテーヌへと侵攻 しんこう した。
730年 ねん (ヒジュラ暦 れき 112年 ねん )にワーリーに任命 にんめい されたガーフィキーは 、サルデーニャ で独立 どくりつ 政権 せいけん を打 う ちたてようとしたムヌザを攻撃 こうげき した。彼 かれ は殺 ころ され、妻 つま (ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレム へと送 おく られた。ウード公 こう は援軍 えんぐん を送 おく りたかったが、不信 ふしん を買 か った宮 みや 宰 おさむ カールと交戦 こうせん 中 ちゅう でできなかった[2] 。
ウード公 おおやけ も宮 みや 宰 おさむ カールに敗 やぶ れ、アキテーヌは没収 ぼっしゅう された。その後 ご ピレネー山脈 さんみゃく を越 こ えてウード公 こう の領地 りょうち であるアキテーヌへと侵攻 しんこう するガーフィキー率 ひき いるイスラム勢力 せいりょく を、領土 りょうど を失 うしな ったウード公 おおやけ と家臣 かしん たちは、ガロンヌ川 がわ の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) (ボルドーの戦 たたか い)で対決 たいけつ する。ウード公 こう の軍 ぐん を破 やぶ って、アキテーヌ北部 ほくぶ まで侵攻 しんこう し略奪 りゃくだつ を行 おこな った。
だが、ウード公 おおやけ は逃 に げ延 の び体制 たいせい を建 た て直 なお すため、宮 みや 宰 おさむ カールへと救援 きゅうえん 要請 ようせい を行 おこな った。イスラム勢力 せいりょく の侵攻 しんこう を知 し った宮 みや 宰 おさむ カールはウード公 こう を自軍 じぐん の右翼 うよく に組 く み込 こ み、他 た の領主 りょうしゅ たちを集 あつ めてフランク連合 れんごう 軍 ぐん を組織 そしき 。トゥールとポワティエ間 あいだ にある平野 へいや でアル=アンダルス総督 そうとく であるガーフィキー軍 ぐん と衝突 しょうとつ することになった。
宮 みや 宰 おさむ カール率 ひき いるフランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん は、騎兵 きへい の多 おお いガーフィキーの軍隊 ぐんたい に対 たい し場所 ばしょ を選 えら んだ。イスラム側 がわ の多 おお くは騎兵 きへい であり機動 きどう 力 りょく を発揮 はっき できないよう、丘 おか や樹木 じゅもく などの地形 ちけい とファランクス を上手 うま く活用 かつよう し防衛 ぼうえい 体制 たいせい と整 ととの えた。歩兵 ほへい と騎兵 きへい の戦闘 せんとう ながら決着 けっちゃく はつかず、7日間 にちかん の小競 こぜ り合 あ いが続 つづ いた。イスラム側 がわ はフランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん の主体 しゅたい が歩兵 ほへい であることから、戦闘 せんとう を楽観 らっかん 視 し していた。
トゥールとポワティエの間 あいだ のクラン川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) とヴィエンヌ川 がわ の合流 ごうりゅう 点 てん で2つの軍 ぐん が合流 ごうりゅう したと想定 そうてい しており、両 りょう 軍 ぐん の兵士 へいし の数 かず は不明 ふめい 。ラテン語 らてんご 資料 しりょう である「754年 ねん のモサラベ年代 ねんだい 記 き 」においては、詳細 しょうさい な人数 にんずう においては言及 げんきゅう されていない。両 りょう 陣営 じんえい の動員 どういん 数 すう は当時 とうじ の兵站 へいたん を鑑 かんが みるにフランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん が15,000〜20,000人 にん 。ガーフィキー率 ひき いるアル=アンダルス遠征 えんせい 軍 ぐん が20,000〜25,000人 にん とされている[3] 。
歴史 れきし 家 か のポール・K・デイヴィス (英語 えいご 版 ばん ) は1999年 ねん にイスラム教徒 きょうと の軍隊 ぐんたい を約 やく 80,000人 にん 、フランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん を約 やく 30,000人 にん と推定 すいてい した。一方 いっぽう でエドワード・J・シェーンフェルト(Edward J. Schoenfeld)はウマイヤ朝 あさ の数 かず が60,000-400,000とフランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん が75,000の範囲 はんい であったという古 ふる い見積 みつ もりを拒否 きょひ した。戦地 せんち の広 ひろ さと、当時 とうじ の補給 ほきゅう 事情 じじょう を鑑 かんが みるに50,000人 にん を超 こ える兵 へい 数 すう は運用 うんよう できないと指摘 してき した。テリー・L・ゴア(Terry L. Gore)はフランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん 15,000〜20,000人 にん 、イスラム教徒 きょうと の軍隊 ぐんたい を20,000〜25,000人 にん と見積 みつ もった[3] 。
最終 さいしゅう 日 び において、フランク軍 ぐん がイスラム軍 ぐん の略奪 りゃくだつ 品 ひん の荷車 にぐるま などを襲撃 しゅうげき した[3] 。人種 じんしゅ ・民族 みんぞく ・宗教 しゅうきょう 入 い り乱 みだ れるガーフィキーの軍 ぐん では戦利 せんり 品 ひん の防衛 ぼうえい と攻撃 こうげき とで指揮 しき 系統 けいとう が乱 みだ れた(当時 とうじ の略奪 りゃくだつ 品 しな は、そのまま兵士 へいし たちの給料 きゅうりょう でもあった。また、イスラム側 がわ は家族 かぞく を同伴 どうはん していたことも理由 りゆう である)、ガーフィキーは混乱 こんらん した自軍 じぐん をまとめようとして、前 まえ に出 で たところを矢 や で射 い られ死亡 しぼう した。(ガーフィキーの死亡 しぼう は「754年 ねん のモサラベ年代 ねんだい 記 き 」でも言及 げんきゅう されている。)
イスラム側 がわ の記録 きろく によると、ガーフィキーの死後 しご に有力 ゆうりょく 者 しゃ たちで会議 かいぎ を行 おこな ったが意見 いけん が纏 まと まることは無 な く夜 よる の内 うち に撤退 てったい したという。(ガーフィキーはイスラム側 がわ では、民族 みんぞく や文化 ぶんか の垣根 かきね を越 こ えた優秀 ゆうしゅう な指導 しどう 者 しゃ であったと評価 ひょうか されている。)
フランク王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん は、後日 ごじつ の攻撃 こうげき に備 そな えて直 す ぐには武装 ぶそう 解除 かいじょ しなかった。
このフランク人 じん の勝利 しょうり はムハンマド の死 し から100年 ねん 後 ご にあたり、しばらくの間 あいだ 、ピレネー山脈 さんみゃく を超 こ えてフランス王国 おうこく 領内 りょうない にアラブ人 じん が侵入 しんにゅう するという深刻 しんこく な脅威 きょうい を終 お わらせた。この勝利 しょうり により、宮 みや 宰 おさむ カールは「マルテル」の称号 しょうごう を得 え て、「カール・マルテル」と呼 よ ばれるようになる。そしてこの戦 たたか いによって、フランク王国 おうこく 内 うち における地位 ちい を確固 かっこ たるものとした。アウストラシア の宮 みや 宰 おさむ 出身 しゅっしん であったカール・マルテルの息子 むすこ 小 しょう ピピン は教皇 きょうこう を味方 みかた につけ、メロヴィング朝 あさ を廃 はい して自 みずか ら王位 おうい に即 そく き、カロリング朝 あさ を開 ひら いた。小 しょう ピピンは息子 むすこ に王位 おうい の世襲 せしゅう を行 おこな わせたため、小 しょう ピピンの息子 むすこ であるカールが王位 おうい についた。これが有名 ゆうめい なシャルルマーニュことカール大帝 たいてい (800年 ねん にフランク・ローマ皇帝 こうてい として戴冠 たいかん 。)である。
ヨーロッパにおいては、キリスト教 きょう 圏 けん の防衛 ぼうえい と中世 ちゅうせい の始 はじ まりから評価 ひょうか が高 たか い戦 たたか いだが、イスラム側 がわ ではそこまで大 おお きい評価 ひょうか はされていない。キリスト教 きょう 圏 けん の防衛 ぼうえい という一事 いちじ と、カール・マルテルがフランク王国 おうこく 内 ない で絶対 ぜったい 的 てき な地位 ちい を確立 かくりつ し、それが後 こう のシャルルマーニュ に繋 つな がってヨーロッパの礎 いしずえ になったことによる評価 ひょうか が大 おお きい。(一方 いっぽう エドワード・ギボン は自著 じちょ 『ロ ろ ーマ帝国 まていこく 衰亡 すいぼう 史 し 』の中 なか で高 たか く評価 ひょうか している。)
一方 いっぽう で、イスラム圏 けん からすれば小 ちい さい小競 こぜ り合 あ いという印象 いんしょう の評価 ひょうか である。事実 じじつ 上 じょう 、アル=アンダルスとアキテーヌ公 こう の問題 もんだい にカール・マルテルが介入 かいにゅう したことから「領主 りょうしゅ の小競 こぜ り合 あ い」あるいは「略奪 りゃくだつ による富 とみ が目的 もくてき 」だったなどヨーロッパとは違 ちが い著 いちじる しく異 こと なる。
SF作家 さっか アーサー・C・クラーク は『楽園 らくえん の泉 いずみ 』の作中 さくちゅう にて、もしこの戦 たたか いでイスラム側 がわ が勝利 しょうり してヨーロッパを征服 せいふく していれば、キリスト教 きょう 支配 しはい による中世 ちゅうせい の暗黒 あんこく 時代 じだい は回避 かいひ され、産業 さんぎょう 革命 かくめい は1000年 ねん 早 はや まって人類 じんるい は既 すで に他 た の恒星 こうせい にまで到達 とうたつ していたかも知 し れないとして「人類 じんるい 史 し 最大 さいだい の悲劇 ひげき の一 ひと つ」と評 ひょう している。
^ MIZUKAMI, Ryo (2014). “The Group Ijāza Referred to by Ibn al-Fuwaṭī in the Late 13th Century” . Bulletin of the Society for Near Eastern Studies in Japan 57 (1): 62–72. doi :10.5356/jorient.57.1_62 . ISSN 0030-5219 . https://doi.org/10.5356/jorient.57.1_62 .
^ Legal History Review (34): 436–439. (1984). doi :10.5955/jalha.1984.436 . ISSN 1883-5562 . https://doi.org/10.5955/jalha.1984.436 .
^ a b c “battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare ”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog . 2021年 ねん 4月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。 [リンク切 き れ ]
アミール・アリ 『回教 かいきょう 史 し A Short History of the Saracens』(1942年 ねん 、善隣 ぜんりん 社 しゃ )