(Translated by https://www.hiragana.jp/)
モザンビーク - Wikipedia コンテンツにスキップ

モザンビーク

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モザンビーク共和きょうわこく
República de Moçambique
モザンビークの国旗
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうご:なし
国歌こっかPátria Amada(ポルトガル
最愛さいあい祖国そこく
モザンビークの位置
モザンビークの位置いち
公用こうよう ポルトガル
首都しゅと マプト
最大さいだい都市とし マプト
政府せいふ
大統領だいとうりょう フィリペ・ニュシ
首相しゅしょう アドリアーノ・マレイアーネ
面積めんせき
総計そうけい 801,590km235
水面すいめんせきりつ 2.2%
人口じんこう
総計そうけい2020ねん 31,255,000[1]ひと47
人口じんこう密度みつど 39.7[1]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2019ねん 9626おく2100まん[2]メティカル
GDP(MER
合計ごうけい2019ねん153おく9000まん[2]ドル(121
1人ひとりあたり 506.817(推計すいけい)[2]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2019ねん405おく6500まん[2]ドル(119
1人ひとりあたり 1,335.876(推計すいけい)[2]ドル
独立どくりつ
ポルトガルより1975ねん6月25にち
通貨つうか メティカルMZM
時間じかんたい UTC(+2) (DST:なし)
ISO 3166-1 MZ / MOZ
ccTLD .mz
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 258

モザンビーク共和きょうわこく(モザンビークきょうわこく)、通称つうしょうモザンビークは、アフリカ大陸たいりく南東なんとう位置いちする共和きょうわせい国家こっかみなみみなみアフリカ共和きょうわこく南西なんせいエスワティニ西にしジンバブエ北西ほくせいザンビアマラウイきたタンザニア国境こっきょうせっする。ひがしインド洋いんどようで、モザンビーク海峡かいきょううち対岸たいがんマダガスカルコモロフランスりょうマヨットおよび無人島むじんとうぐん一部いちぶ存在そんざいする。首都しゅとマプトである。

国土こくど面積めんせきやく79まん9000平方へいほうキロメートル日本にっぽんのおよそ2ばい)、人口じんこうやく3036まんにん増加ぞうか傾向けいこうにある[3]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

同国どうこくひがしアフリカ位置いちする。かつてはポルトガルきゅう植民しょくみんであり、1964ねんからモザンビーク独立どくりつ戦争せんそうそよいたのち1975ねん独立どくりつ達成たっせいした。その政情せいじょう不安定ふあんていで、1977ねんから1992ねんまでモザンビーク内戦ないせんつづいた。

内戦ないせん終結しゅうけつ好調こうちょう経済けいざい成長せいちょうつづける反面はんめんHIV感染かんせんAIDS発症はっしょう蔓延まんえん問題もんだいとなっている。

ポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたいならびにポルトガル公用こうようアフリカ諸国しょこく加盟かめいこくとなっているが、隣接りんせつこくすべ英語えいごけん国家こっかであるため1995ねんからイギリス連邦れんぽう加盟かめいしている。

国名こくめい

[編集へんしゅう]

正式せいしき名称めいしょうは、ポルトガルRepública de MoçambiqueIPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ プーブリカ・デ・ムサンビー)。通称つうしょうMoçambiqueムサンビー)。

公式こうしき英語えいご表記ひょうきは、Republic of Mozambique通称つうしょうMozambiqueモウザンビー)。

日本語にほんご表記ひょうきモザンビーク共和きょうわこく通称つうしょうモザンビーク国名こくめいはかつてポルトガルりょうひがしアフリカ首府しゅふかれたモザンビークとう由来ゆらいし、しま名前なまえ全土ぜんど名前なまえとなった。独立どくりつ1975ねんから1990ねんまではモザンビーク人民じんみん共和きょうわこくだったが、1990ねん憲法けんぽう改正かいせいにより現在げんざいモザンビーク共和きょうわこくとなった。

歴史れきし

[編集へんしゅう]
1683ねんソファラ

この地域ちいきにはやく300まんねんまえから人類じんるい居住きょじゅうし、生活せいかつしていた(「さるじん参照さんしょう)。紀元きげん前後ぜんこうにはサンじん(ブッシュマン)が居住きょじゅうしていたものの、次第しだいバントゥーけいアフリカじんもろ部族ぶぞく広範囲こうはんい分布ぶんぷするようになった。紀元前きげんぜん1世紀せいきにはギリシャじんローマじん[よう曖昧あいまい回避かいひ]沿岸えんがん住民じゅうみん交易こうえきするようになった。8世紀せいきにはアラブじん商人しょうにんきむぎんもとめてみなとあらわれるようになった。

この地域ちいき記録きろくのこ歴史れきしは、11世紀せいきから19世紀せいき部族ぶぞく連合れんごうこくおう称号しょうごうからアラブじん商人しょうにん通称つうしょうしたモノモタパ王国おうこくさかのぼることができる。現在げんざいのジンバブエを中心ちゅうしんさかえたモノモタパ王国おうこくは、スワヒリ文明ぶんめい最南端さいなんたん位置いちした都市としであるげんモザンビークりょうソファラ拠点きょてんに、アラブじん商人しょうにん香辛料こうしんりょう象牙ぞうげかねなどの交易こうえきおこなっており、中国ちゅうごく陶磁器とうじきや、インド綿めん製品せいひんれていた。

ポルトガル植民しょくみん時代じだい

[編集へんしゅう]

ヨーロッパだい航海こうかい時代じだいむかえていた1498ねんポルトガルじんヴァスコ・ダ・ガマもちほうえてこの到達とうたつしたのをきっかけに、16世紀せいき初頭しょとうからポルトガルによる植民しょくみんはじまり、17世紀せいきなかばにはポルトガルの植民しょくみん支配しはい確立かくりつした(ポルトガルりょうモザンビーク・ひがしアフリカ通称つうしょうポルトガル: Província Ultramarina de Moçambique)。植民しょくみん支配しはいのための首府しゅふモザンビークとうかれた。モザンビークからははるとおくのブラジルにまで黒人こくじん奴隷どれい連行れんこうされた。1782ねんロウレンソ・マルケス建設けんせつされた。1807ねんイギリス奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしした結果けっか西にしアフリカからの奴隷どれい輸出ゆしゅつ困難こんなんになると、ポルトガルはブラジルへのあらたな奴隷どれい供給きょうきゅうとしてモザンビークにけ、ザンジバル拠点きょてんにしたサイイド・サイードおう奴隷どれい貿易ぼうえき相俟あいまって、19世紀せいき前半ぜんはんひがしアフリカ内陸ないりくは、拡大かくだいする奴隷どれい貿易ぼうえき輸出ゆしゅつよう奴隷どれい供給きょうきゅうとなった[4]

19世紀せいきはいり、1858ねんにポルトガルりょうでは奴隷どれい制度せいど廃止はいしされたものの、劣悪れつあく労働ろうどう環境かんきょうによる労働ろうどう契約けいやくせいにより、事実じじつじょう奴隷どれい労働ろうどう制度せいど継続けいぞくしていた。19世紀せいきまつすすんだアフリカ分割ぶんかつなかでポルトガルは、モザンビークとアンゴラ横断おうだんしようとする「バラ色ばらいろ地図ちずポルトガルばん計画けいかく発表はっぴょうした。しかし、1890ねんにイギリスの圧力あつりょくくっしたポルトガルは、ザンビアとジンバブエとマラウイ領有りょうゆうあきらめ、1891ねん条約じょうやく現在げんざいのモザンビークの領域りょういき確立かくりつされた[5]。また、どう1891ねんポルトガルりょうモザンビーク総督そうとくはイギリス・フランス資本しほん勅許ちょっきょ会社かいしゃモザンビーク会社かいしゃ英語えいごばんニアサ会社かいしゃ英語えいごばんザンベジア会社かいしゃポルトガルばん開発かいはつ権利けんり司法しほうけんのぞ自治じちけんあたえた。このためポルトガルがきゅう宗主そうしゅこくであるにもかかわらず、独立どくりつイギリス連邦れんぽう加盟かめいこくとなっている。また、ポルトガルの圧政あっせいたいして、たとえば1894ねんロウレンソ・マルケス襲撃しゅうげきなど、先住民せんじゅうみんによる抵抗ていこう運動うんどう頻発ひんぱつしたものの、それらはすべポルトガルぐんにより武力ぶりょく鎮圧ちんあつされた。

1898ねんにモザンビークとうからロウレンソ・マルケスに植民しょくみん首都しゅと遷都せんとされ、以降いこうロウレンソ・マルケスはポルトガルりょうひがしアフリカ首都しゅととなった。

だつ植民しょくみん

[編集へんしゅう]
「FRELIMOはうそをついた!あなたたちはくるしんでいる」
モザンビーク解放かいほう戦線せんせん(FRELIMO)にたいするポルトガルのプロパガンダ

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつし、世界せかいてきだつ植民しょくみんながれがてくると、アフリカ諸国しょこくのヨーロッパ諸国しょこくからの独立どくりつさけばれるようになり、その影響えいきょうはモザンビークにもせた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権せいけんは、1951ねんにモザンビークなどのアフリカ植民しょくみんを「海外かいがいしゅう」とえ、植民しょくみん支配しはいたいする国際こくさい社会しゃかい非難ひなんけようとした。モザンビークやアンゴラは形式けいしきじょうポルトガル本国ほんごく同等どうとう立場たちばであるとされ、1959ねんのポルトガルの開発かいはつ計画けいかくにより、モザンビークには3800まんポンド投資とうしされた。さらに、リンポポがわ流域りゅういきへのポルトガルじん入植にゅうしょくや、港湾こうわん能力のうりょく拡大かくだいのための鉄道てつどう建設けんせつすすめられた。ただ、モザンビーク植民しょくみん慢性まんせいてきなポルトガルへの輸入ゆにゅう超過ちょうかおぎなうために、みなみアフリカ連邦れんぽう鉱山こうざんへの黒人こくじん労働ろうどうしゃ出稼でかせによって経済けいざいささえられた。

その形式けいしきじょうぎない本国ほんごくポルトガルとの対等たいとう地位ちいと、事実じじつじょう植民しょくみん政策せいさく矛盾むじゅんかくせるものではなく、モザンビークでも1964ねん9月に、エドゥアルド・モンドラーネ議長ぎちょうとしたモザンビーク解放かいほう戦線せんせん(FRELIMO)がタンザニア拠点きょてん武装ぶそう闘争とうそう開始かいしし、モザンビーク独立どくりつ戦争せんそうはじまった。マルクス主義まるくすしゅぎかかげ、ソ連それん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく援助えんじょけていたFRELIMOは、冷戦れいせん構造こうぞうなか西側にしがわ諸国しょこく脅威きょういであり、そのためポルトガルぐん強権きょうけんもってFRELIMOに対処たいしょした。1969ねんにモンドラーネは暗殺あんさつされたものの、サモラ・マシェルらがこういで独立どくりつ戦争せんそう継続けいぞくやく10ねんてポルトガル本国ほんごくでのカーネーション革命かくめいがきっかけとなり、1975ねん6月25にちにモザンビークはモザンビーク人民じんみん共和きょうわこくとして完全かんぜん独立どくりつたした。

独立どくりつ内戦ないせん

[編集へんしゅう]

1975ねん独立どくりつ出国しゅっこくしたポルトガルけいモザンビークじんわって権力けんりょくにぎったFRELIMOは政党せいとうし、いちとうせいによる社会しゃかい主義しゅぎ路線ろせん推進すいしんした。社会しゃかい主義しゅぎかかげるモザンビークは1976ねん国連こくれん制裁せいさい決議けつぎしたがって、白人はくじん支配しはい国家こっかローデシア国境こっきょう封鎖ふうさした。この措置そち輸出入ゆしゅつにゅうの8わりをモザンビークあいだ鉄道てつどう輸送ゆそうたよるローデシア経済けいざいおおきな打撃だげきあたえたが、一方いっぽうでモザンビークがわ鉄道てつどう港湾こうわん収入しゅうにゅうから収益しゅうえきうしなうことを意味いみしておりいたけとなった[6]

1977ねんにローデシア諜報ちょうほう機関きかんによって、ポルトガルりょう時代じだい秘密ひみつ警察けいさつであったPIDE英語えいごばん母体ぼたいとして結成けっせいされたはん政府せいふ組織そしきモザンビーク民族みんぞく抵抗ていこう運動うんどう(MNR,RENAMO)が政府せいふぐん衝突しょうとつし、モザンビーク内戦ないせん勃発ぼっぱつした。イデオロギーてき正当せいとうせいいていたRENAMOは、当初とうしょ成人せいじん男子だんし少年しょうねん強制きょうせい徴収ちょうしゅうすることによってしか兵力へいりょくあつめることができず[7]暴力ぼうりょく恐怖きょうふむね学校がっこう病院びょういんへの襲撃しゅうげき作戦さくせん遂行すいこうした。

1980ねんにローデシアが崩壊ほうかいし、黒人こくじん国家こっかジンバブエ独立どくりつすると、アフリカにおけるはん共産きょうさん主義しゅぎとりで自認じにんしていたみなみアフリカ共和きょうわこくは、ローデシアにわってモザンビークとアンゴラの社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんたいして不安定ふあんてい工作こうさく仕掛しかけた。みなみアフリカをはじめとする西側にしがわ諸国しょこく援助えんじょけたRENAMOは、農村のうそん略奪りゃくだつ暴行ぼうこう激化げきかさせたため、1984ねんにはモザンビークとみなみアフリカ両国りょうこくあいだンコマチ協定きょうてい締結ていけつされた。みなみアフリカはRENAMOにたいする支援しえんを、モザンビークはアフリカ民族みんぞく会議かいぎ(ANC)にたいする支援しえん相互そうごり、両国りょうこくあいだ不可侵ふかしん条約じょうやくむすばれた。しかし、その実質じっしつてきにこの協定きょうてい反故ほごにされ、以降いこうみなみアフリカによるRENAMO支援しえんつづけられた[8]。さらに、1986ねんにはマシェル大統領だいとうりょう事故死じこしし、後任こうにんとしてジョアキン・アルベルト・シサノあらたな大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

モザンビーク内戦ないせん長期ちょうきし、経済けいざい疲弊ひへいするなかで、東欧とうおう革命かくめいソ連それん崩壊ほうかいにより東側ひがしがわ諸国しょこく勢力せいりょく低下ていかした。1989ねん、シサノ大統領だいとうりょうひきいるモザンビーク政府せいふ社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい放棄ほうき決定けっていし、よく1990ねん複数ふくすう政党せいとうせい自由じゆう市場いちば経済けいざい規定きていしたしん憲法けんぽう制定せいていした。これによりはん共産きょうさん主義しゅぎかかげていたみなみアフリカなどから干渉かんしょうされる理由りゆうすくなくなった。みなみアフリカ政府せいふ黒人こくじん差別さべつするアパルトヘイト政策せいさく廃止はいしを1991ねん宣言せんげんした[9]。モザンビークがわでも1990ねんから1991ねんにかけてのだい旱魃かんばつ影響えいきょうもあり、和平わへい交渉こうしょう結果けっか1992ねんローマ和平わへい協定きょうてい英語えいごばんローマ締結ていけつされ、内戦ないせん終結しゅうけつした。

内戦ないせん終結しゅうけつ以降いこう

[編集へんしゅう]
ジョアキン・アルベルト・シサノ内戦ないせん終結しゅうけつのモザンビークを安定あんていした発展はってん軌道きどうせた。

内戦ないせんしん政権せいけん樹立じゅりつのため、1994ねん10月に国際こくさい連合れんごうモザンビーク活動かつどう(ONUMOZ)の支援しえんした複数ふくすう政党せいとうせいによる大統領だいとうりょう選挙せんきょおよび議会ぎかい選挙せんきょ実施じっしされた。この結果けっか与党よとうのFRELIMOが勝利しょうりし、しん政権せいけん創設そうせつされた。

1995ねんみなみアフリカやジンバブエなど、周辺しゅうへん英語えいごけん諸国しょこくとの経済けいざいてきむすきをふかめるため、それまでオブザーバーとして参加さんかしていたイギリス連邦れんぽう正式せいしき加盟かめいした。ただ、よく1996ねんにはポルトガル世界せかいルゾフォニア)とのむすきをふかめるために、ポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたいにも加盟かめいした。1998ねんにはアルミニウム精錬せいれんおこなモザールしゃが、みなみアフリカと日本にっぽんなどの投資とうしにより誕生たんじょうした。

シサノ大統領だいとうりょうは2003ねんにはアフリカ連合れんごうAUえーゆー)のだい2だい総会そうかい議長ぎちょう選出せんしゅつされ、さら引退いんたいの2007ねんにはモ・イブラヒムしょうだい1かい受賞じゅしょうしゃとなった。2005ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、与党よとうFRELIMOからアルマンド・ゲブーザあらたに大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。ゲブーザは2009ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでも勝利しょうりした。2014ねん1がつには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく援助えんじょあたらしい大統領だいとうりょう建設けんせつされた[10]停戦ていせんもFRELIMOとRENAMOのあいだ軍事ぐんじてき対立たいりつつづいたが水面すいめんでは和平わへい交渉こうしょうつづけられ、2019ねん8がつ1にち両者りょうしゃあらためて和平わへい協定きょうてい調印ちょういんし、内戦ないせん終結しゅうけつも27年間ねんかんつづいた軍事ぐんじてき緊張きんちょうわりをげ、RENAMOの軍事ぐんじ部門ぶもん武装ぶそう解除かいじょされることとなった[11]

なお、停戦ていせんともな和平わへい協定きょうてい締結ていけつ比較的ひかくてき安定あんていした政治せいじと、アルミニウム精錬せいれんおこなうなどして年率ねんりつ8%の経済けいざい成長せいちょう実現じつげんしたものの、国民こくみんやく半分はんぶん貧困ひんこんライン以下いかである[12]。しかも内戦ないせん時代じだいには学校がっこうへの襲撃しゅうげきもあったなど教育きょういくおくれている。国民こくみん教育きょういく水準すいじゅんひくいままで、識字しきじりつは60%程度ていどぎない。慢性まんせいてき医師いし不足ふそく改善かいぜんすすまず、教育きょういく水準すいじゅんひく国民こくみんはHIV感染かんせんしゃおおく、AIDSの蔓延まんえん深刻しんこく問題もんだいとなっている。2018ねんにおいて平均へいきん寿命じゅみょうは60.2さいであり[13]世界せかい平均へいきんより12ねんみじか[14]

あらたな有力ゆうりょく産業さんぎょうとして、東方とうほうインド洋いんどようおきふくめて天然てんねんガス開発かいはつすすんでいる。モザンビーク政府せいふは、2020年代ねんだいには液化えきか天然てんねんガス(LNG)輸出ゆしゅつ拡大かくだいによりたか経済けいざい成長せいちょう持続じぞくすることをめざしている[15](「鉱業こうぎょう」も参照さんしょう)。

一方いっぽうで、イスラム過激かげき武装ぶそう闘争とうそう展開てんかいしており、LNG開発かいはつ基地きちとなる北東ほくとうカボ・デルガードしゅうにも戦火せんかおよんでいる[16]

政治せいじ

[編集へんしゅう]
だい4だい大統領だいとうりょうフィリペ・ニュシ

大統領だいとうりょう国家こっか元首げんしゅとする共和きょうわせいをとっている。大統領だいとうりょうは1994ねん1がつ以来いらい直接ちょくせつ選挙せんきょ選出せんしゅつされ、任期にんき5ねん大統領だいとうりょうほか行政ぎょうせいちょうたる首相しゅしょう存在そんざいする。

立法りっぽうたる共和きょうわこく議会ぎかいen:Assembly of the Republic (Mozambique))は一院制いちいんせいであり、ぜん250議席ぎせきすべ直接ちょくせつ選挙せんきょによって選出せんしゅつされる。任期にんき5ねん。1994ねん1がつ国民こくみん選挙せんきょ委員いいんかい設置せっちされた。

主要しゅよう政党せいとうとしては、社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ民主みんしゅ社会しゃかい主義しゅぎモザンビーク解放かいほう戦線せんせん (FRELIMO)、保守ほしゅ主義しゅぎモザンビーク民族みんぞく抵抗ていこう運動うんどう (Renamo-UE)、中道右派ちゅうどううはモザンビーク民主みんしゅ運動うんどう(en:Democratic Movement of Mozambique、MDM)のげられる。

司法しほうけん最高さいこう司法しほう機関きかんたる最高さいこう裁判所さいばんしょつかさどる。

これまでの選挙せんきょ

[編集へんしゅう]
  • 1998ねん6がつ地方ちほう選挙せんきょ実施じっしされた。投票とうひょうりつきわめてひくく、33自治体じちたい平均へいきん投票とうひょうりつが15%にたなかった。この背景はいけいには、教育きょういく水準すいじゅん低位ていい環境かんきょう整備せいびなどがげられる。
  • だい3かい大統領だいとうりょう国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ:2004ねん12月1にちから2にちゲブーザ与党よとう公認こうにん候補こうほ(FRELIMO幹事かんじちょう)が大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた。政党せいとうべつ獲得かくとく議席ぎせきすうは、以下いかとおり。
    • モザンビーク解放かいほう戦線せんせん(FRELIMO): 160
    • モザンビーク民族みんぞく抵抗ていこう運動うんどう(Renamo-UE): 90
  • だい4かい大統領だいとうりょう国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ:2009ねん10がつゲブーザ与党よとう公認こうにん候補こうほ現職げんしょく大統領だいとうりょう)が大統領だいとうりょう選出せんしゅつ政党せいとうべつ獲得かくとく議席ぎせきすうは、以下いかとおりで与党よとう勝利しょうりとなった。

国際こくさい関係かんけい

[編集へんしゅう]
モザンビークが外交がいこう使節しせつ派遣はけんしている諸国しょこく一覧いちらん

独立どくりつ主導しゅどうけんにぎったのが社会しゃかい主義しゅぎかかげるFRELIMOだったために、冷戦れいせんちゅう国内こくない内戦ないせん状況じょうきょうがそのままおや東側ひがしがわ政策せいさくむすき、おや西側にしがわ立場たちばからはん政府せいふゲリラを支援しえんするローデシアみなみアフリカ共和きょうわこくなどとは敵対てきたい政策せいさくつづいた。冷戦れいせん終結しゅうけつ西側にしがわ諸国しょこくとの友好ゆうこう関係かんけいふかめ、ぜん方位ほうい外交がいこうおこなっている。

ポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたい一員いちいんであり、ポルトガルブラジルカーボベルデアンゴラなどポルトガルけん国々くにぐにルゾフォニア)とはふかきずなたもっている。

周辺しゅうへん諸国しょこくとの関係かんけいにおいては、とくみなみアフリカ共和きょうわこくとの関係かんけい経済けいざいてきおおきい。また、タンザニアとは独立どくりつ戦争せんそう以来いらい友好ゆうこう関係かんけい存在そんざいする。

隣接りんせつこくすべ英語えいごけんであるため、1987ねんからイギリス連邦れんぽうのオブザーバーとなっていた。モザンビークがみなみアフリカとジンバブエの民主みんしゅおおきな役割やくわりたした功績こうせきみとめられたため[17]、1995ねん正式せいしきにイギリス連邦れんぽう加盟かめいした。

日本にっぽんとの関係かんけい

[編集へんしゅう]

織田おだ信長のぶなが家来けらいとして活躍かつやくしたわたるすけは、現在げんざいのモザンビークにあたるポルトガルりょうひがしアフリカ出身しゅっしんで、1581ねんにイタリアじん宣教師せんきょうしアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより日本にっぽん渡航とこうしたと推定すいていされる。また、1582ねんにヨーロッパへかった天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつが、帰路きろにて1586ねんにモザンビークとう寄港きこうし、やく6かげつあいだごした[18]
1980年代ねんだい以降いこう日本にっぽん留学りゅうがくするものあらわれており、ベンビンダ・ツレのように長期間ちょうきかん留学りゅうがく日本にっぽん就職しゅうしょく帰国きこくしたものもいる。このベンビンダは小学生しょうがくせいけの学習がくしゅう雑誌ざっしもの掲載けいさいされたり、帰国きこくとしにはラジオ番組ばんぐみ特別とくべつ企画きかく長期間ちょうきかんにわたってまれるなどおおくの日本人にっぽんじん名前なまえられた。だい5かいアフリカ開発かいはつ会議かいぎなかの2013ねん6がつ1にちに、横浜よこはま日本にっぽんとのあいだ投資とうし協定きょうていむすばれた[19]。2018ねんにはIHIによりさい新鋭しんえいガスタービン火力かりょく発電はつでんしょ首都しゅとマプトに建設けんせつされている[20]

  • 在留ざいりゅう日本人にっぽんじんすう - 195にん(2018ねん10がつ時点じてん[3]
  • 在日ざいにちモザンビーク人数にんずう - やく130にん(2019ねん12月時点じてん[3]

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう

[編集へんしゅう]
モザンビーク陸軍りくぐん軍人ぐんじん

モザンビーク国防こくぼうぐん陸軍りくぐん海軍かいぐん空軍くうぐんから構成こうせいされている。また徴兵ちょうへいせい採用さいようしているくにとしても認知にんちされている。

そう人員じんいんやく11,200にん小規模しょうきぼではあるものの、のアフリカの国軍こくぐんくらべると機能きのうてき編成へんせいされているめんがある。2018ねん軍事ぐんじ支出ししゅつ国内こくないそう生産せいさん(GDP)の0.99%だった[21]

地理ちり

[編集へんしゅう]
モザンビークの衛星えいせい写真しゃしん

モザンビークの国土こくど面積めんせきやく79まん9000km2[3]国内こくない最高峰さいこうほうビンガやま(2436m)である。2500 km以上いじょうにおよぶ海岸かいがんせんには、熱帯ねったいのビーチとサンゴ礁さんごしょう浅瀬あさせられる。マダガスカルとうとはモザンビーク海峡かいきょうはさんでかいっている。

モザンビークには5つのおおきな河川かせんながれており、もっとおおきく重要じゅうようなものはザンベジがわである。国土こくどはザンベジがわによって地勢ちせいじょう、2つの地域ちいきかれる。ザンベジがわきたでは、なだらかな海岸かいがんせん内陸ないりくはいって丘陵きゅうりょうひく台地だいちである。その西にしは、ミオンボ森林しんりんおおわれたニアサ高原こうげんナムリ高原こうげん(シレ高原こうげん)、アンゴニア高原こうげんテテ高原こうげんマコンデ台地だいちのようなけわしい高原こうげんである。なお、主要しゅようみずうみとしては、ニアサ(またはマラウイ)、シウタシルワと3つがげられ、これらはいずれも北部ほくぶ位置いちする。ザンベジがわみなみでは、低地ていちひろく、マショナランド台地だいちレンボ山地さんちふか南部なんぶ存在そんざいする。

一方いっぽう南部なんぶアフリカ山脈さんみゃくであるレボンボ山脈さんみゃく英語えいごばん一部いちぶ同国どうこくつながっており、その姿すがたながめることが出来できる。

気候きこう

[編集へんしゅう]

ケッペンの気候きこう区分くぶんによれば、気候きこう熱帯ねったい雨林うりん気候きこうサバナ気候きこうかれるが、首都しゅとマプトが位置いちする南部なんぶ冬季とうきには平均へいきん気温きおんが20以下いかまでがり、5月から9がつまでは比較的ひかくてきしのぎやすい。

生態せいたいけい

[編集へんしゅう]

地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく

[編集へんしゅう]
モザンビークのしゅう

モザンビークは、10のしゅう(província,プロヴィンシア)、およびしゅう同格どうかくの1つの(cidade,シダーデ)にかれる。

  1. ニアサしゅう (Niassa) 州都しゅうと - リシンガ (Lichinga)
  2. カーボ・デルガードしゅう (Cabo Delgado) 州都しゅうと - ペンバ (Pemba)
  3. ナンプーラしゅう (Nampula) 州都しゅうと - ナンプーラ (Nampula)
  4. テテしゅう (Tete) 州都しゅうと - テテ (Tete)
  5. ザンベジアしゅう (Zambezia) 州都しゅうと - ケリマネ (Quelimane)
  6. マニカしゅう (Manica) 州都しゅうと - シモイオ (chimoio)
  7. ソファラしゅう (Sofala) 州都しゅうと - ベイラ (Beira)
  8. ガザしゅう (Gaza) 州都しゅうと - シャイシャイ (Xai-Xai)
  9. イニャンバネしゅう (Inhambane) 州都しゅうと - イニャンバネ (Inhambane)
  10. マプト (Maputo cidade)
  11. マプトしゅう (Maputo província) 州都しゅうと - マトラ (Matola)

主要しゅよう都市とし

[編集へんしゅう]

主要しゅよう都市としマプト首都しゅと)、マトラベイラナンプラがある。

経済けいざい

[編集へんしゅう]
首都しゅとマプト

通貨つうかしんメティカルであり1000:1のレートできゅうメティカルとわっている。きゅう通貨つうかは2012ねんまつまでにモザンビーク銀行ぎんこう英語えいごばんによって償還しょうかんされた。USドルみなみアフリカランド、そして近年きんねんではユーロもまたひろれられ、ビジネスの取引とりひき使つかわれている。法定ほうてい最低さいてい賃金ちんぎんつき60USドルである。モザンビークは南部なんぶアフリカ開発かいはつ共同きょうどうたい(SADC)の加盟かめいこくである。

ザンベジアしゅうグルエー付近ふきんチャノキのプランテーション。

鉱産こうさん資源しげん開発かいはつ活発かっぱつするまえは、だい1産品さんぴんである農産物のうさんぶつ生産せいさんおもであった。日本にっぽん輸出ゆしゅつエビおおかった。ただ、鉱産こうさん資源しげんめぐまれており、その生産せいさん活発かっぱつしてきた。

1980年代ねんだい内政ないせい失敗しっぱいくわえ、内戦ないせん旱魃かんばつなどで経済けいざい壊滅かいめつ状態じょうたいおちいった。内戦ないせん終結しゅうけつも、1999ねん2000ねんつづいてきただい洪水こうずいなどの自然しぜん災害さいがいなどで経済けいざい打撃だげきけていたが、1990年代ねんだい後半こうはん以降いこうから経済けいざい急速きゅうそく発展はってんしており、1996ねんから2006ねんまでにとし平均へいきん8%の経済けいざい成長せいちょう達成たっせいした[22]

日本にっぽん三菱商事みつびししょうじ出資しゅっししたアルミニウム精錬せいれん事業じぎょうモザールしゃしゅたる出資しゅっしBHPグループ)は、2000ねんより事業じぎょう開始かいしした。国内こくない最大さいだいきゅう企業きぎょうであるモザールしゃは、オーストラリアアルミナ原料げんりょうとして輸入ゆにゅうしたうえで、みなみアフリカから供給きょうきゅうされる豊富ほうふ安価あんか電力でんりょく使つか溶融ようゆうしお電解でんかいおこなってアルミニウム地金じがねとして輸出ゆしゅつしており、モザンビークの輸出ゆしゅつ市場いちばでの位置いちづけはたかい。背景はいけいとして、植民しょくみん時代じだいにポルトガルが建設けんせつした、モザンビーク北西ほくせいテテしゅうにあるザンベジがわ流域りゅういきカオラ・バッサダムで水力すいりょく発電はつでん英語えいごばんおこない、大量たいりょう電力でんりょくみなみアフリカに供給きょうきゅううれでんしていることがある。そのことが、なんアから安価あんか電力でんりょくをモザールにたいして安定あんてい供給きょうきゅうするシステムへとつながった。

2010ねん9がつ1にち首都しゅとマプトでパン値段ねだんが30%げられたことへの抗議こうぎがきっかけとなり暴動ぼうどう発生はっせいした。警官けいかんたい発砲はっぽうし、子供こども2にんふく市民しみん7にん死亡しぼうした。2にち政府せいふはデモたいきずいたバリケードをのぞくために軍隊ぐんたい導入どうにゅうした。民間みんかんテレビ局てれびきょくSTVでは10にん死亡しぼうし、27にん重軽傷じゅうけいしょうい、140にん拘束こうそくされたと報道ほうどうしている[23]

2020ねん7がつ日本にっぽん政府せいふ開発かいはつ援助えんじょ(ODA)事業じぎょう一環いっかんとして2011ねんから開始かいしされた日本にっぽん・ブラジル・モザンビークの三角さんかく協力きょうりょくによりおこなわれている農業のうぎょう支援しえん事業じぎょう「プロサバンナ」(ProSAVANA-JBM)が中止ちゅうしされる事態じたいとなった[24]。この事案じあん現地げんち小規模しょうきぼ農家のうか生活せいかつ破壊はかいするものとしてプロジェクト開始かいしから批判ひはん相次あいついでおり、事業じぎょうたずさわるNPO法人ほうじん関係かんけいしゃビザ発給はっきゅう拒否きょひされるなどのトラブルをこしていたことから関係かんけいこくあいだくすぶつづけていたものでもあった[25][26]

鉱業こうぎょう

[編集へんしゅう]

モザンビークは石炭せきたん宝石ほうせきなどの鉱物こうぶつ資源しげんめぐまれており、資源しげん開発かいはつおこなわれている。2012ねんからはだい規模きぼ天然てんねんガス資源しげん沖合おきあいに発見はっけんされ注目ちゅうもくあつめている[27]

鉱物こうぶつ資源しげん背景はいけいは、モザンビーク北東ほくとう地層ちそう南北なんぼく方向ほうこうかたむいたモザンビークたいと、東西とうざい方向ほうこうかたむいたザンベジたいあいだ分岐ぶんき合流ごうりゅうてん位置いちし、しん原生代げんせいだいやく8おくねんまえ~5おくねんまえ)の造山つくりやまたいであることから、長年ながねんふくあいてきねつ変形へんけいルビーガーネットなどの鉱物こうぶつ形成けいせい理想りそうてき温度おんど圧力あつりょくをもたらしたとわれている[28]。このほか鉄鉱てっこうせきマンガンチタンじゅうすな)などもある。

石炭せきたん
石炭せきたん埋蔵まいぞうりょうやく7おくトンで、モザンビークの主要しゅよう鉱産こうさんぶつの1つである。日本にっぽん主導しゅどうで「石炭せきたん産業さんぎょう発展はってん5カ年かねんプラン」がすすめられており、2011ねんには探査たんさ活動かつどう結果けっかとしてテテしゅうやく200おくトンの資源しげんりょう報告ほうこくされている[29]
天然てんねんガス
モザンビークでは世界せかいでも最大さいだい規模きぼ埋蔵まいぞうりょくほこガス発見はっけんされている。2003ねんにはみなみアフリカの企業きぎょうによる陸上りくじょうのガス生産せいさん開始かいしし、みなみアフリカと輸出ゆしゅつようガスパイプラインむすばれるなど、同国どうこくからの投資とうし近年きんねんえている。また、モザンビーク北部ほくぶ沖合おきあいにおけるオフショア天然てんねんガスの液化えきか設備せつび計画けいかく三井物産みついぶっさんらによってすすめられている。プラント建設けんせつは、千代田化工建設ちよだかこうけんせつべいCB&Iしゃイタリアのサイペンしゃの3しゃ連合れんごうう。LNG生産せいさん能力のうりょくとし1200まんトンで、インフラもふくめた事業じぎょう総額そうがくすくなくとも1ちょうえん規模きぼとみられる[30]
宝石ほうせき

1980年代ねんだい後半こうはんからルビー産出さんしゅつされるようになり、とく2009ねん以降いこうになると世界せかいのルビー需要じゅようになうようになってきている。北東ほくとうでのルビー採鉱さいこう、またトルマリン一種いっしゅであるパライバトルマリン産出さんしゅつされており、ブラジルさんナイジェリアさんのパライバトルマリンが枯渇こかつしている現状げんじょうにおいて良質りょうしつ宝石ほうせきしつのパライバトルマリンはここでのみの産出さんしゅつとなっている[31]

観光かんこう

[編集へんしゅう]

モザンビークの観光かんこう自然しぜん環境かんきょう野生やせい生物せいぶつ歴史れきしてき遺産いさん主体しゅたいとしている。同国どうこくにおける観光かんこう事業じぎょうは、国内こくないそう生産せいさん(GDP)の成長せいちょうおおきな可能かのうせいめているとされている[32]

交通こうつう

[編集へんしゅう]

鉄道てつどう

[編集へんしゅう]

航空こうくう

[編集へんしゅう]

国民こくみん

[編集へんしゅう]
1961ねんから2003ねんまでのモザンビークの人口じんこう動態どうたいグラフ
モザンビークとうモスク

民族みんぞく

[編集へんしゅう]

やく40の部族ぶぞく存在そんざいする[3]

マクアじん英語えいごばん(Emakhuwa)・ロムウェじんフランス語ふらんすごばん(Elomwe)が40%、マコンデじんシャンガーンじんショナじんスワジじんなどのバントゥーけい黒人こくじんしょ民族みんぞく国民こくみん全体ぜんたいの99%を構成こうせい[33]、そのメスチーソ黒人こくじん白人はくじん混血こんけつムラート)が0.8%、インドじんしるし)が0.08%、ポルトガルけいモザンビークじんおもとする白人はくじんが0.06%とごく少数しょうすう黒人こくじんけいマイノリティが存在そんざいする[34]。2007ねん時点じてんでは1,500にんから12,000にんたっする規模きぼ中国ちゅうごくけいコミュニティが存在そんざいするとも推定すいていされている[35][36]

2010年代ねんだい初頭しょとうより、経済けいざいてき停滞ていたいつづきゅう宗主そうしゅこくポルトガルから経済けいざいてき勃興ぼっこうげつつあるモザンビークに専門せんもんしょく従事じゅうじしゃ移住いじゅうすすんでおり、首都しゅとマプトにはやく2まんにんポルトガルじん存在そんざいすると推定すいていされている[37]

言語げんご

[編集へんしゅう]

モザンビークの公用こうようポルトガルモザンビーク・ポルトガル英語えいごばん)である。そのバントゥー諸語しょごマクアセナツォンガニュングウェチェワショナロムウェマコンデツワ英語えいごばんロンガ英語えいごばんチョピ英語えいごばんヤオコティ英語えいごばんンワニ英語えいごばんなど)や、北部ほくぶではスワヒリもちいられる。

モザンビークの言語げんご状況じょうきょう複雑ふくざつである。1997ねん国勢調査こくせいちょうさによれば公用こうようのポルトガルだい1言語げんごとする人々ひとびと国民こくみんの8.8%であり[34]だい2言語げんごとする人々ひとびとの27%[34]わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語しょご最大さいだい話者わしゃすうようするマクアでも26.1%ほどにしかならず[34]しょ言語げんご混在こんざいする状態じょうたいにある。

宗教しゅうきょう

[編集へんしゅう]

キリスト教きりすときょうやく60%、イスラム教いすらむきょうやく20%、ほかに伝統でんとう宗教しゅうきょう信仰しんこうされている[3]。2017ねん推定すいていによれば、キリストきょうカトリック教会きょうかいが27.2%、ペンテコステが15.3%、ザイオニスト教会きょうかいZionist Churches)が15.6%。イスラム教いすらむきょうが18.9%、宗教しゅうきょうが13.9%である[33]

教育きょういく

[編集へんしゅう]
ナンプーラ学校がっこう生徒せいとたち
エドゥアルド・モンドラーネ大学だいがく(1962ねん創立そうりつ

1975ねんにポルトガルから独立どくりつして以来いらい学校がっこう建設けんせつ教員きょういん訓練くんれん登録とうろく人口じんこう増加ぞうかいついていない。とくモザンビーク内戦ないせん(1977-1992ねん)ののち就学しゅうがくすう着実ちゃくじつ若年じゃくねん人口じんこう増加ぞうかのためつねたかくなっており、教育きょういくしつはその影響えいきょうけている。すべてのモザンビークじん法律ほうりつによって初等しょとう教育きょういくレベルの学校がっこう出席しゅっせきすることを義務ぎむけられているが、おおくのモザンビークの児童じどう家族かぞく生活せいかつのために農場のうじょうはたらかなければならないため、初等しょとう学校がっこうかよっていない。2007ねん時点じてんでも、100まんにん児童じどういまだに学校がっこうかよっておらず、かれらのおおくは農村のうそんまずしい地域ちいき出身しゅっしんである。モザンビークの教員きょういんのほぼ半数はんすういまだに資格しかくである。女児じょじ就学しゅうがくすうは2002ねんに300まんにんだったが2006ねんには410まんにん増加ぞうかし、修了しゅうりょうりつも31,000にんから90,000にん増加ぞうかしたが、修了しゅうりょうりついちじるしくひく水準すいじゅんたもっている[38]。7年生ねんせいのち生徒せいと中等ちゅうとう学校がっこうかようために標準ひょうじゅんされた国家こっか試験しけんける必要ひつようがあり、中等ちゅうとう学校がっこうは8ねんから10ねんまでである[よう出典しゅってん]。モザンビークの大学だいがくわく極端きょくたんかぎられており、そのためおおくのじゅん大学だいがく教育きょういくえた学生がくせいはすぐには大学だいがく勉強べんきょうすすめない。おおくは教員きょういんとしてはたらくか、無職むしょくとなる。職業しょくぎょう訓練くんれん提供ていきょうする機関きかん存在そんざいし、農業のうぎょう学校がっこう工業こうぎょう学校がっこう教育きょういく学校がっこうなどは10年生ねんせいのち進学しんがくできるじゅん大学だいがくである。

2017ねん推計すいけいによれば、15さい以上いじょう国民こくみん識字しきじりつは60.7%(男性だんせい:72.6%、女性じょせい:50.3%)である[33]。ただ、植民しょくみん時代じだいの1950ねん時点じてんでは、識字しきじりつが97.8%であった[39]。2005ねん教育きょういく支出ししゅつはGDPの5.0%だった[34]

おも高等こうとう教育きょういく機関きかんとしては、エドゥアルド・モンドラーネ大学だいがく(1962ねん)やモザンビーク教育きょういく大学だいがくげられる。

保健ほけん

[編集へんしゅう]

出生しゅっしょうりつ女性じょせい1にんにつき、やく4.89にんである[33]。2004ねん保健ほけんへの公的こうてき支出ししゅつはGDP2.7%であり、一方いっぽう同年どうねん私的してき支出ししゅつは1.3%だった[40]。2004ねん1人ひとりたりの保健ほけんは42USドル(PPP)だった[40]。2017ねん人口じんこう100,000にんたいして医者いしゃは8にん。2021ねん推定すいてい乳幼児にゅうようじ死亡しぼうりつ新生児しんせいじ1000にんたいして63.03にん[33]。15さいから49さいまでのHIV感染かんせんは10%をえる[40]。モザンビークのHIV感染かんせんりつたかく、2019ねんのHIV感染かんせんしゃやく220まんにんであり、感染かんせんりつは12.1%である[33]

2017ねんマラリアコレラ流行りゅうこう深刻しんこくした。マラリアは2017ねん1がつから3がつあいだに148まんにん診断しんだんされ、288にん死亡しぼうした。コレラは3ねん連続れんぞく流行りゅうこうとなり1222にん感染かんせんし、うち2にん死亡しぼうしている[41]

治安ちあん

[編集へんしゅう]

同国どうこくでは近年きんねん資源しげん価格かかく下落げらくくわえ、対外たいがい債務さいむ問題もんだいにより経済けいざい情勢じょうせい悪化あっかしている影響えいきょうから所得しょとく格差かくさ拡大かくだいしており、そこから強盗ごうとう誘拐ゆうかいせい犯罪はんざいくるまじょうらしなどの犯罪はんざい多発たはつし、治安ちあん悪化あっか社会しゃかい問題もんだいとなっている。

また、1992ねん内戦ないせん終了しゅうりょうもその当時とうじ戦争せんそう活動かつどうしていた政府せいふ与党よとうのFRELIMOと野党やとうであるRENAMOとのあいだ政治せいじてき緊張きんちょう関係かんけい存続そんぞくし、RENAMO支持しじしゃおおきた中部ちゅうぶ地域ちいき一部いちぶでは、政府せいふぐん警察けいさつとRENAMOがわ武装ぶそう集団しゅうだんとのあいだいま衝突しょうとつ発生はっせいしている。

人権じんけん

[編集へんしゅう]

マスコミ

[編集へんしゅう]

文化ぶんか

[編集へんしゅう]
モザンビークとう - (1991ねん文化ぶんか遺産いさん)

イスラームの沿岸えんがん商人しょうにんとヨーロッパの植民しょくみんしゃ影響えいきょうがあったのにもかかわらず、モザンビークの人々ひとびと小規模しょうきぼ農業のうぎょうもとづいた土着どちゃく文化ぶんかたもっている。モザンビークでもっともよくられた美術びじゅつ芸術げいじゅつとしては、モザンビーク北部ほくぶマコンデじんによる木彫きぼりひんとダンスがとく有名ゆうめいである。中流ちゅうりゅう階級かいきゅう上流じょうりゅう階級かいきゅうはポルトガル植民しょくみん時代じだい遺産いさん言語げんごてき影響えいきょういまつよけている。

しょく文化ぶんか

[編集へんしゅう]

文学ぶんがく

[編集へんしゅう]
現代げんだいモザンビークの作家さっかミア・コウト。モザンビークのみならず、アフリカ文学ぶんがくやポルトガル文学ぶんがくかいひろられる世界せかいてき文学ぶんがくしゃでもある。

文字もじによるモザンビークの活字かつじ文学ぶんがくは、植民しょくみん時代じだいの20世紀せいき前半ぜんはんルイ・デ・ノローニャドイツばんによるポルトガルによってはじまった[42]。これは、アンゴラやカーボベルデといった大西おおにしひろしがわのポルトガル植民しょくみんくらべてやくはん世紀せいきおくれたものだった[42]。その植民しょくみん主義しゅぎ批判ひはんするのこした女性じょせい詩人しじんノエーミア・デ・ソウザや、の1991ねんカモンイスしょう受賞じゅしょうし、ポルトガル世界せかいにおいて偉大いだい詩人しじん1人ひとりとされる[42]ジョゼ・クラヴェイリーニャにより、モザンビークのポルトガル発達はったつつづけた。独立どくりつには、マルクス主義まるくすしゅぎてきプロパガンダ目立めだつようになった。独立どくりつ注目ちゅうもくされる詩人しじんとしてはルイス・カルロス・パトラキン英語えいごばんげられる。

モザンビークの小説しょうせつ歴史れきしは、ジョアン・ディアスドイツばんによってポルトガルかれた『ゴディド』(1952ねん発表はっぴょう)によってはじまった[42]。その代表だいひょうてき作家さっかとしては『ぼくたちは皮膚ひふびょうにかかったいぬころした』(1964)で国内外こくないがいからの評価ひょうか[42]ルイス・ベルナルド・ホンワナや、1980年代ねんだいから活動かつどうし、『ゆめゆう大地だいち』(1992ねん)などで新語しんご創造そうぞうはげミア・コウト、『ウアララピ』(1987)でデビューしたウングラニ・バ・カ・コーサなどのげられる。

音楽おんがく

[編集へんしゅう]

同国どうこくマラベンタ発祥はっしょうである。

世界せかい遺産いさん

[編集へんしゅう]

モザンビーク国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた文化ぶんか遺産いさんが1けん存在そんざいする。

祝祭日しゅくさいじつ

[編集へんしゅう]
日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ Dia da Fraternidade universal
2がつ3にち モザンビーク英雄えいゆう Dia dos Heróis Moçambicanos エドゥアルド・モンドラーネ命日めいにち
4がつ7にち モザンビーク女性じょせい Dia da Mulher Moçambicana
5月1にち メーデー Dia Internacional dos Trabalhadores
6月25にち 独立記念日どくりつきねんび Dia da Independência Nacional
9月7にち ルサカ協定きょうてい記念きねん Dia da Vitória
9月25にち 国民こくみん解放かいほうぐん記念きねん Dia das Forças Armadas de Libertação Nacional
10月4にち 平和へいわ和解わかい Dia da Paz e Reconciliação
10月19にち サモラ・マシェル誕生たんじょう 初代しょだい大統領だいとうりょう
11月10にち マプト市民しみん マプトのみ
12月25にち 家族かぞく/クリスマス Dia da Família

スポーツ

[編集へんしゅう]
"くろひょう"の愛称あいしょうサッカーポルトガル代表だいひょうとして活躍かつやくしたエウゼビオ

サッカー

[編集へんしゅう]

モザンビークでもアフリカ諸国しょこく同様どうように、サッカーもっと人気にんきスポーツとなっている。モザンビークサッカー連盟れんめい英語えいごばんによって構成こうせいされるサッカーモザンビーク代表だいひょうは、これまでFIFAワールドカップには出場しゅつじょうである。しかしアフリカネイションズカップには4出場しゅつじょうしている。

ポルトガル植民しょくみん時代じだいには、エウゼビオなどの選手せんしゅポルトガル代表だいひょうとして活躍かつやくし、指導しどうしゃではカルロス・ケイロスなどを輩出はいしゅつしている。

その競技きょうぎ

[編集へんしゅう]

陸上りくじょう競技きょうぎでは、マリア・ムトラ2000ねんシドニー五輪ごりん女子じょし800mできんメダルを獲得かくとくしている。頭脳ずのうスポーツではチェスさかんであり、同国どうこくのチェス連盟れんめいであるモザンビークチェス連盟れんめいポルトガルばん国際こくさいチェス連盟れんめい所属しょぞくしている。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b UNdata”. 国連こくれん. 2021ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021ねん11月7にち閲覧えつらん[1]
  3. ^ a b c d e f モザンビーク共和きょうわこく(Republic of Mozambique)基礎きそデータ 日本国にっぽんこく外務省がいむしょう(2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  4. ^ 吉田よしだ昌夫まさお『〈世界せかい現代げんだい14〉アフリカ現代げんだいII──ひがしアフリカ』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん2がつ10日とおか、2はん1さつ発行はっこう)25-26ぺーじ
  5. ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/かねなな紀男のりおやく『ポルトガル3──世界せかい教科書きょうかしょ歴史れきし』(ほるぷ出版しゅっぱん、1981ねん)pp.36-40
  6. ^ 「アフリカ南部なんぶ動乱どうらんきざし モザンビークの戦争せんそう状態じょうたい宣言せんげん」『朝日新聞あさひしんぶん朝刊ちょうかん1976ねん昭和しょうわ51ねん)3がつ4にち7めん(13はん
  7. ^ 舩田ふなたクラーセンさやか「紛争ふんそうモザンビーク社会しゃかい課題かだい──むらもどらない人々ひとびと」『朝倉あさくら世界せかい地理ちり講座こうざ アフリカII』(池谷いけがや和信かずのぶ武内たけうち進一しんいち佐藤さとうれん也編、朝倉書店あさくらしょてん、2008ねん4がつ)pp.658-659
  8. ^ レナード・トンプソン/宮本みやもとただしきょう吉國よしくに恒雄つねおみね陽一よういち鶴見つるみただししろやくみなみアフリカの歴史れきし最新さいしんばん】』(明石書店あかししょてん、2009ねん11月)p.404
  9. ^ わかる!国際こくさい情勢じょうせい>Vol.49 躍進やくしんするみなみアフリカ~途上とじょうこくのリーダーとして 日本国にっぽんこく外務省がいむしょう(2009ねん11月2にち)2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  10. ^ “China Built New Presidential Palace in Mozambique”. China Aidd. https://china.aiddata.org/projects/40732 2018ねん7がつ26にち閲覧えつらん 
  11. ^ “モザンビークの政府せいふ野党やとう歴史れきしてき和平わへい協定きょうてい調印ちょういん. AFPBB News. フランス通信つうしんしゃ. (2019ねん8がつ2にち). https://www.afpbb.com/articles/-/3238083 2022ねん3がつ9にち閲覧えつらん 
  12. ^ モザンビーク”. 日本にっぽんこく総務そうむしょう. 2020ねん11月29にち閲覧えつらん
  13. ^ 主要しゅよう社会しゃかい指標しひょう”. アフリカ開発かいはつ銀行ぎんこうグループ. 2020ねん11月29にち閲覧えつらん
  14. ^ 世界せかい平均へいきん寿命じゅみょうは72さい こくゆたかさで格差かくさ顕在けんざい”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. 2020ねん11月29にち閲覧えつらん
  15. ^ ひがしアフリカさんLNG台頭たいとう/モザンビークなど 日本にっぽんにも恩恵おんけいモザンビーク財務ざいむしょう「24ねんから6~7%成長せいちょう生産せいさん本格ほんかく、『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2019ねん9がつ1にち総合そうごう5めん)2019ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  16. ^ 「モザンビーク 戦闘せんとう激化げきかたい過激かげき ガス開発かいはつ影響えいきょう読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2021ねん4がつ7にち国際こくさいめん)2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  17. ^ 市之瀬いちのせあつし『ポルトガルの世界せかい 海洋かいよう帝国ていこくゆめのゆくえ』(社会しゃかい評論ひょうろんしゃ、2001ねん12がつ)pp.164-165
  18. ^ はじめて日本にっぽんわたったアフリカじんはモザンビークじんざいモザンビーク日本国にっぽんこく大使館たいしかん (PDF)
  19. ^ にち・モザンビーク投資とうし協定きょうてい署名しょめい 日本国にっぽんこく外務省がいむしょう
  20. ^ 人事じんじ制度せいどひとざい育成いくせい | IHI原動機げんどうき リクルーティングサイト2021”. IHI原動機げんどうき リクルーティングサイト2021. 2021ねん2がつ6にち閲覧えつらん
  21. ^ Military and Security”. CIA. 2021ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  22. ^ 記事きじめい不明ふめい[リンク]
  23. ^ 食料しょくりょう燃料ねんりょう値上ねあげで暴動ぼうどう死傷ししょうしゃ多数たすう モザンビーク」[リンク]CNN(2010ねん9がつ2配信はいしん
  24. ^ モザンビークでのODA事業じぎょう人々ひとびとこえ中止ちゅうしへ︕現地げんちからの反対はんたいこえ活動かつどうしてきた日本にっぽんのNGOが8/12(水)すいにオンラインイベントでなま報告ほうこく(ききて:ジャーナリストほりじゅんPR TIMES(2020ねん8がつ6にち配信はいしん)2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  25. ^ かしでん秀樹ひでき日本にっぽんのODA事業じぎょうがモザンビークの小規模しょうきぼ農家のうか生活せいかつ破壊はかいする!HARBOR BUSINESS Online(2017ねん12がつ20日はつか配信はいしん)2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  26. ^ 35おくえんちょう国費こくひ投入とうにゅうされている日本にっぽんのODA「プロサバンナ」に現地げんちからの反発はんぱつこえ事態じたい憂慮ゆうりょする国会こっかい議員ぎいんによる一般いっぱん公開こうかい勉強べんきょうかいを12/23(月)げつ開催かいさい PR TIMES(2019ねん12月17にち配信はいしん)2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  27. ^ 記事きじめい不明ふめい[リンク]日経にっけいBizGate
  28. ^ モザンビーク:21世紀せいきけたルビーの発見はっけん 米国べいこく宝石ほうせき学会がっかい(GIA)2014ねん12月3にち配信はいしん/2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  29. ^ 記事きじめい不明ふめい[リンク]石油せきゆ天然てんねんガス・金属きんぞく鉱物こうぶつ資源しげん機構きこう
  30. ^ 千代田ちよだ化工かこう、モザンビークのLNG基地きち受注じゅちゅうへ 1ちょうえん規模きぼ日本経済新聞にほんけいざいしんぶんニュースサイト(2015ねん5がつ18にち配信はいしん)2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  31. ^ パライバトルマリンの品質ひんしつ価値かち産出さんしゅつ動向どうこう処理しょりについて 福岡ふくおか宝石ほうせき市場いちば(2021ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  32. ^ Mozambique Culture, History, & People Britannica Encyclopedia Britannica
  33. ^ a b c d e f People and Society”. CIA. 2021ねん2がつ1にち閲覧えつらん
  34. ^ a b c d e 『CIA World Factbook』(2020ねん11月29にち閲覧えつらん
  35. ^ Jian, Hong (2007), “莫桑かつ华侨てき历史あずか现状 (The History and Status Quo of Overseas Chinese in Mozambique)”, West Asia and Africa (Chinese Academy of Social Sciences) (5), ISSN 1002-7122, オリジナルの2011ねん6がつ17にち時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110617044234/http://scholar.ilib.cn/A-xyfz200705010.html 2008ねん10がつ29にち閲覧えつらん 
  36. ^ Horta, Loro (2007-08-13), “China, Mozambique: old friends, new business”, International Relations and Security Network Update, http://www.isn.ethz.ch/isn/Current-Affairs/Security-Watch/Detail/?id=53470&lng=en 2007ねん11月3にち閲覧えつらん 
  37. ^ “ポルトガルからきゅう植民しょくみんへの「ぎゃく頭脳ずのう流出りゅうしゅつ」”. JBPress. (2012ねん3がつ21にち). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34805 2013ねん7がつ4にち閲覧えつらん 
  38. ^ Key facts Archived 2009ねん1がつ9にち, at the Wayback Machine., Department for International Development (DFID), a part of the UK Government (24 May 2007)
  39. ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケスちょかねなな紀男のりおやく『ポルトガル3』(ほるぷ出版しゅっぱん世界せかい教科書きょうかしょ歴史れきし〉、1981ねん11月1にち初版しょはん)163ぺーじ
  40. ^ a b c アーカイブされたコピー”. 2010ねん1がつ30にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん5がつ2にち閲覧えつらん
  41. ^ 「モザンビークでコレラ流行りゅうこう、1222にん感染かんせんAFP(2017ねん3がつ15にち配信はいしん)2017ねん3がつ15にち閲覧えつらん
  42. ^ a b c d e 市之瀬いちのせあつし「モザンビーク文学ぶんがく公用こうよう問題もんだい」『モザンビーク 「すくわれるべき」こく過去かこ現在げんざい未来みらい』「モザンビーク」刊行かんこうチーム、拓殖たくしょく書房しょぼう、1994ねん11月

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 市之瀬いちのせあつし『ポルトガルの世界せかい──海洋かいよう帝国ていこくゆめのゆくえ』社会しゃかい評論ひょうろんしゃ東京とうきょう、2001ねん12月。ISBN 4-7845-0392-7 
  • かねなな紀男のりお『ポルトガル増補ぞうほばん)』(2003ねん4がつ増補ぞうほばんいろどりりゅうしゃ東京とうきょうISBN 4-88202-810-7 
  • 舩田ふなたクラーセンさやか紛争ふんそうモザンビーク社会しゃかい課題かだい──むらもどらない人々ひとびと」『朝倉あさくら世界せかい地理ちり講座こうざ──アフリカII』池谷いけがや和信かずのぶ武内たけうち進一しんいち佐藤さとうれんへん朝倉書店あさくらしょてん、2008ねん4がつ
  • ほしあきらはやしあきら『アフリカ現代げんだいI──総説そうせつ南部なんぶアフリカ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ東京とうきょう世界せかい現代げんだい13〉、1978ねん12月。 
  • 「モザンビーク」刊行かんこうチーム『モザンビーク──「すくわれるべき」こく過去かこ現在げんざい未来みらい拓殖たくしょく書房しょぼう東京とうきょう、1994ねん11月。 
    • 市之瀬いちのせあつし「モザンビーク文学ぶんがく公用こうよう問題もんだい」『モザンビーク──「すくわれるべき」こく過去かこ現在げんざい未来みらい』「モザンビーク」刊行かんこうチーム、拓殖たくしょく書房しょぼう、1994ねん11月。
  • レナード・トンプソン/宮本みやもとただしきょう吉國よしくに恒雄つねおみね陽一よういち鶴見つるみただししろ やくみなみアフリカの歴史れきし最新さいしんばん】』明石書店あかししょてん東京とうきょう世界せかい歴史れきし叢書そうしょ〉、2009ねん11月。ISBN 4-7503-3100-7 
  • 吉田よしだ昌夫まさお『アフリカ現代げんだいII──ひがしアフリカ』(2はん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ東京とうきょう世界せかい現代げんだい14〉、1990ねん2がつ10日とおかISBN 4-634-42140-2 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]

政府せいふ

日本にっぽん政府せいふ

その