東 ひがし ティモール民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく
República Democrática de Timor-Leste (ポルトガル語 ご )
Repúblika Demokrátika Timór-Leste (テトゥン語 ご )
国 くに の標語 ひょうご :Unidade, Acção, Progresso (ポルトガル語 ご : 統一 とういつ 、行動 こうどう 、前進 ぜんしん )
国歌 こっか :Pátria (ポルトガル語 ご ) 祖国 そこく
註1: かつては.TP
東 ひがし ティモール民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (ひがしティモールみんしゅきょうわこく、ポルトガル語 ご : República Democrática de Timor-Leste )、通称 つうしょう 東 ひがし ティモール は、アジア (東南 とうなん アジア )地域 ちいき に位置 いち する共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか 。首都 しゅと はディリ 。
島国 しまぐに であり、小 しょう スンダ列島 れっとう にあるティモール島 とう の東 ひがし 半分 はんぶん とアタウロ島 とう 、ジャコ島 とう 、飛地 とびち オエクシ で構成 こうせい されている。南方 なんぽう には、ティモール海 かい を挟 はさ んでオーストラリア があり、それ以外 いがい はインドネシア 領 りょう 東 ひがし ヌサ・トゥンガラ州 しゅう (西 にし ティモール を含 ふく む)である。
1999年 ねん 8月 がつ 30日 にち に国連 こくれん の主導 しゅどう で独立 どくりつ についての住民 じゅうみん 投票 とうひょう (英語 えいご 版 ばん ) を実施 じっし 。インドネシア の占領 せんりょう から2002年 ねん 5月 がつ 20日 はつか に独立 どくりつ した[1] (国際 こくさい 法 ほう 上 うえ はポルトガル から独立 どくりつ )。21世紀 せいき 最初 さいしょ の独立 どくりつ 国 こく である。ポルトガル語 ご 諸国 しょこく 共同 きょうどう 体 たい 加盟 かめい 国 こく 。
正式 せいしき 名称 めいしょう は Republika Demokratika Timor Lorosa'e (テトゥン語 ご : レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)、República Democrática de Timor-Leste (ポルトガル語 ご : レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レステ)。略称 りゃくしょう は、Timor Lorosa'e (テトゥン語 ご )、Timor-Leste (ポルトガル語 ご )。
公式 こうしき の英語 えいご 表記 ひょうき は Democratic Republic of Timor-Leste 、略称 りゃくしょう は Timor-Leste [4] 。意訳 いやく したEast Timor でも通 つう じるが[5] 、東 ひがし ティモールの常任 じょうにん 使節 しせつ 団 だん は2003年 ねん 8月 がつ 8日 にち 付 づけ の書簡 しょかん ですべての言語 げんご の表記 ひょうき を「Timor-Leste」に変更 へんこう するよう国際 こくさい 連合 れんごう へ要請 ようせい している[4] 。東 ひがし ティモール政府 せいふ の英語 えいご 版 ばん 公式 こうしき サイトの「歴史 れきし 」の項目 こうもく は、独立 どくりつ 以前 いぜん の記述 きじゅつ では「East Timor」表記 ひょうき が散見 さんけん されるが、独立 どくりつ 後 ご の国家 こっか を指 さ す場合 ばあい は「Timor-Leste」に統一 とういつ されている[6] 。
日本語 にほんご の表記 ひょうき は東 ひがし ティモール民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく 。通称 つうしょう 東 ひがし ティモール 。ティモールの部分 ぶぶん は、チモール とも表記 ひょうき される(近年 きんねん では「ティモール」の表記 ひょうき が一般 いっぱん 的 てき である)。
国名 こくめい は「ティモール島 とう の東部 とうぶ 」を意味 いみ するが、ティモールの由来 ゆらい はマレー語 ご ・インドネシア語 ご で「東 ひがし 」を意味 いみ する「ティムール(timur)」であり、語源 ごげん 的 てき には重複 じゅうふく 表現 ひょうげん となっている。テトゥン語 ご の「ロロ」は「太陽 たいよう 」、「サエ」は「出 で る」、「ロロサエ」は「日 ひ の出 で 」またはその方角 ほうがく (「東 ひがし 」)を意味 いみ する。ポルトガル語 ご の「レスチ」(英語 えいご 読 よ みは「レステ」)も「東 ひがし 」を意味 いみ する。
ポルトガルの植民 しょくみん 地 ち になるはるか昔 むかし 、紀元前 きげんぜん 2000年 ねん ごろパプア系 けい 語族 ごぞく が島 しま の東部 とうぶ へ移住 いじゅう していき、ずっと時代 じだい が下 くだ って紀元 きげん 10世紀 せいき ごろオーストロネシア語族 ごぞく が流入 りゅうにゅう してきたと伝 つた えられている。さらに紀元前 きげんぜん 3000年 ねん ごろと同 どう 2000年 ねん ごろの 2度 ど にわたって、インド=マレー系 けい エスニックグループが移住 いじゅう してきたとの説 せつ もある[7] 。
ポルトガル植民 しょくみん 地 ち [ 編集 へんしゅう ]
ポルトガル領 りょう ティモール の国 くに 章 あきら
ティモール島 とう は16世紀 せいき にポルトガル によって植民 しょくみん 地 ち 化 か された。その後 ご オランダ が進出 しんしゅつ し、一時 いちじ はポルトガルがこれを撃退 げきたい したが、1859年 ねん に西 にし ティモール とソロール島 とう をオランダ に割譲 かつじょう したことで、ティモール島 とう は東西 とうざい に分割 ぶんかつ された(リスボン条約 じょうやく (ドイツ語 ご 版 ばん ) )。この境界 きょうかい については1893年 ねん にポルトガルとオランダ間 あいだ で細部 さいぶ の改正 かいせい が行 おこな われ、1904年 ねん にポルトガル=オランダ条約 じょうやく (1908年 ねん 批准 ひじゅん )で直線 ちょくせん 的 てき に分断 ぶんだん し、1913年 ねん [8] (または1914年 ねん [9] )に基本 きほん 合意 ごうい し、1916年 ねん に確定 かくてい した。
1911年 ねん から翌年 よくねん にかけて、収奪 しゅうだつ の厳 きび しさに耐 た えかねてリウライ(マヌファヒ小 しょう 国王 こくおう )のドン・ドンボアベントゥラが反乱 はんらん を起 お こした。戦死 せんし 者 しゃ 3,424人 にん 、負傷 ふしょう 者 しゃ 1万 まん 2,567人 にん を出 だ した。さらに、1959年 ねん にピケケ県知事 けんちじ 誘拐 ゆうかい ・蜂起 ほうき 事件 じけん が亡命 ぼうめい インドネシア人 じん と東 ひがし ティモール人 じん らによって引 ひ き起 お こされた。150人 にん の死者 ししゃ が出 で たとの説 せつ もある[10] 。
ポルトガルが中立 ちゅうりつ を守 まも った第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 とき には、当初 とうしょ は1941年 ねん にオランダ軍 ぐん とオーストラリア軍 ぐん が保護 ほご 占領 せんりょう し、ティモール島 とう の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) のあとオランダ領 りょう 東 ひがし インド 地域 ちいき と合 あ わせて1942年 ねん に日本 にっぽん 軍 ぐん が占領 せんりょう したが、1945年 ねん の日本 にっぽん の敗戦 はいせん によりオーストラリア 軍 ぐん の進駐 しんちゅう を経 へ てポルトガル総督 そうとく 府 ふ の支配 しはい が復活 ふっかつ し、1949年 ねん にインドネシア の一部 いちぶ として西 にし ティモールの独立 どくりつ が確定 かくてい したあともポルトガルによる支配 しはい が継続 けいぞく した。これに対 たい し、人口 じんこう の中 なか で圧倒的 あっとうてき 多数 たすう を占 し める地元 じもと 住民 じゅうみん は独立 どくりつ 志向 しこう を強 つよ めたが、アントニオ・サラザール 首相 しゅしょう などの「エスタド・ノヴォ 体制 たいせい 」により抑圧 よくあつ された。
1974年 ねん にポルトガルで左派 さは を中心 ちゅうしん としたカーネーション革命 かくめい が起 お こり、植民 しょくみん 地 ち の維持 いじ を強 つよ く主張 しゅちょう した従来 じゅうらい の保守 ほしゅ 独裁 どくさい 体制 たいせい が崩壊 ほうかい すると、東 ひがし ティモールでも政治 せいじ 活動 かつどう が自由 じゆう 化 か される。まずポルトガルとの関係 かんけい 維持 いじ を掲 かか げるティモール民主 みんしゅ 同盟 どうめい (UDT)[注釈 ちゅうしゃく 1] が発足 ほっそく し、続 つづ いて左派 さは ・反 はん 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ のティモール社会 しゃかい 民主 みんしゅ 協会 きょうかい (ASDT、9月に東 ひがし ティモール独立 どくりつ 革命 かくめい 戦線 せんせん FRETILIN(フレティリン)と改称 かいしょう )が即時 そくじ 完全 かんぜん 独立 どくりつ を要求 ようきゅう [注釈 ちゅうしゃく 2] 、遅 おく れてインドネシアとの統合 とうごう を主張 しゅちょう するティモール民主 みんしゅ 人民 じんみん 協会 きょうかい (APODETI、アポデティ)[注釈 ちゅうしゃく 3] が立 た ちあげられ、主要 しゅよう 3政党 せいとう として旗揚 はたあ げした[11] [12] [13] 。
東 ひがし ティモールでは、1974年 ねん 9月 がつ にUDTが独立 どくりつ 支持 しじ へ方針 ほうしん 転換 てんかん し1975年 ねん 初頭 しょとう からフレティリンと共同 きょうどう 戦線 せんせん を張 は っていたが、相互 そうご 不信 ふしん や同盟 どうめい 指導 しどう 部 ぶ の人事 じんじ 問題 もんだい で決裂 けつれつ していた。1975年 ねん 8月 がつ 11日 にち 、UDTはポルトガル総督 そうとく 府 ふ を相手 あいて にクーデター を行 おこな う。これに対 たい してフレティリンは軍事 ぐんじ 部門 ぶもん 「東 ひがし ティモール民族 みんぞく 解放 かいほう 軍 ぐん 」(Forças Armadas da Libertação Nacional de Timor-Leste、FALINTIL)を組織 そしき し、撤退 てったい したポルトガル軍 ぐん の武器 ぶき を回収 かいしゅう して武装 ぶそう 化 か 、UDT側 がわ と内戦 ないせん を開始 かいし した[14] [15] 。状況 じょうきょう を制御 せいぎょ できなくなったポルトガル側 がわ はディリ を放棄 ほうき し8月 がつ 下旬 げじゅん にアタウロ島 とう へ退避 たいひ 、10月 がつ 初 はじ めにはポルトガル本国 ほんごく から派遣 はけん された軍艦 ぐんかん で本国 ほんごく へと帰還 きかん した。
これらの動 うご きは、東 ひがし ティモールの領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう し反共 はんきょう 主義 しゅぎ を国是 こくぜ とするインドネシアのスハルト 政権 せいけん にとっては容認 ようにん できず、アポデティやUDT内 ない の反共 はんきょう 派 は など、反 はん フレティリンの右派 うは 勢力 せいりょく を通 つう じた介入 かいにゅう を強化 きょうか した。
インドネシアによる占領 せんりょう [ 編集 へんしゅう ]
インドネシアからの独立 どくりつ デモ
1975年 ねん 11月28日 にち 、右派 うは 勢力 せいりょく と連携 れんけい したインドネシア軍 ぐん 特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい が西 にし ティモールから侵攻 しんこう を開始 かいし する中 なか 、フレティリンが首都 しゅと ディリで東 ひがし ティモール民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ 宣言 せんげん を行 おこな う。翌 よく 29日 にち 、インドネシア軍 ぐん が東 ひがし ティモール全土 ぜんど を制圧 せいあつ し、30日 にち にはアポデティ指導 しどう 層 そう などからなる親 しん インドネシア派 は が併合 へいごう を承認 しょうにん する「バリボ宣言 せんげん 」を出 だ した(国連 こくれん はこれを認 みと めず)。12月7日 にち 、インドネシアは東 ひがし ティモールに対 たい する全面 ぜんめん 侵攻 しんこう 「スロジャ作戦 さくせん 」 を開始 かいし 。12月12日 にち には国連 こくれん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい がインドネシアの即時 そくじ 撤退 てったい を求 もと める決議 けつぎ を可決 かけつ した。1976年 ねん 7月 がつ 17日 にち 、インドネシアが27番目 ばんめ の州 しゅう として併合 へいごう 宣言 せんげん を行 おこな う。国連 こくれん 総会 そうかい ではこの侵攻 しんこう と占領 せんりょう を非難 ひなん する決議 けつぎ が直 ただ ちに採択 さいたく されたが、日 ひ ・欧 おう ・米 べい ・豪 ごう などの主要 しゅよう 国 こく は反共 はんきょう の立場 たちば をとるインドネシアとの関係 かんけい を重視 じゅうし し、併合 へいごう を事実 じじつ 上 じょう 黙認 もくにん した。
インドネシアが併合 へいごう した時点 じてん の状況 じょうきょう は、主食 しゅしょく のコメ やトウモロコシ の大半 たいはん はインドネシア国内 こくない からの移入 いにゅう に頼 たよ っていた。インドネシア自体 じたい も米 べい 不足 ふそく で輸入 ゆにゅう に頼 たよ っていた状況 じょうきょう であり、1978年 ねん 以降 いこう は西部 せいぶ のマリアナ一帯 いったい で灌漑 かんがい 事業 じぎょう が進 すす められるなど食料 しょくりょう 自給 じきゅう 体制 たいせい の向上 こうじょう が進 すす められた。また、文盲 もんもう 率 りつ が93%と高率 こうりつ であったため、インドネシア側 がわ から教師 きょうし が派遣 はけん され[16] 、結果 けっか 的 てき に文化 ぶんか 面 めん の同一 どういつ 化 か も進 すす んだ。
1977年 ねん にはインドネシア軍 ぐん が包囲 ほうい 殲滅 せんめつ 作戦 さくせん を展開 てんかい 。スハルト政権 せいけん は東 ひがし ティモールの抵抗 ていこう に対 たい して激 はげ しい弾圧 だんあつ を加 くわ えたため、特 とく に占領 せんりょう 直後 ちょくご から1980年代 ねんだい までに多 おお くの人々 ひとびと が殺戮 さつりく や飢餓 きが により命 いのち を落 お とした。インドネシア占領 せんりょう 下 か で命 いのち を失 うしな った東 ひがし ティモール人 じん は20万 まん 人 にん にのぼると言 い われている。1991年 ねん 、平和 へいわ 的 てき なデモ隊 たい にインドネシア軍 ぐん が無 む 差別 さべつ 発砲 はっぽう し、400人 にん 近 ちか くを殺 ころ したサンタクルス事件 じけん は、住民 じゅうみん の大量 たいりょう 殺戮 さつりく 事件 じけん として世界 せかい 的 てき に知 し られることになった。また、官吏 かんり や教員 きょういん などを派遣 はけん して徹底 てってい した「インドネシア化 か 」も推進 すいしん した。フレティリンの軍事 ぐんじ 部門 ぶもん であるファリンテルは民族 みんぞく 抵抗 ていこう 革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい (CRRN)の主要 しゅよう メンバーとなり、シャナナ・グスマン が議長 ぎちょう になったが、インドネシア政府 せいふ はグスマンを逮捕 たいほ し抵抗 ていこう 運動 うんどう を抑 おさ え込 こ んだ。1996年 ねん 12月、ノーベル平和 へいわ 賞 しょう が現地 げんち カトリック教会 きょうかい のベロ司教 しきょう および独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か のジョゼ・ラモス=オルタ に贈 おく られた。
1998年 ねん にインドネシアでの民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう でスハルト政権 せいけん が崩壊 ほうかい すると、後任 こうにん のハビビ 大統領 だいとうりょう は東 ひがし ティモールに関 かん し特別 とくべつ 自治 じち 権 けん の付与 ふよ を問 と う住民 じゅうみん 投票 とうひょう を実施 じっし することで旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく のポルトガルと同意 どうい した。
国連 こくれん の暫定 ざんてい 統治 とうち [ 編集 へんしゅう ]
1999年 ねん 5月 がつ 、インドネシア、ポルトガルと国連 こくれん 、東 ひがし ティモールの住民 じゅうみん 投票 とうひょう 実施 じっし の枠組 わくぐ みに関 かん する合意 ごうい 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん (ニューヨーク合意 ごうい )。6月、国際 こくさい 連合 れんごう 東 ひがし ティモール・ミッション (UNAMET)が派遣 はけん される。8月30日 にち 、独立 どくりつ に関 かん する住民 じゅうみん 投票 とうひょう が行 おこな われた(投票 とうひょう 率 りつ 98.6%)。9月4日 にち に発表 はっぴょう された投票 とうひょう 結果 けっか では、自治 じち 拒否 きょひ 78.5%で、特別 とくべつ 自治 じち 権 けん 提案 ていあん が拒否 きょひ されたことで独立 どくりつ が事実 じじつ 上 じょう 決定 けってい 。9月7日 にち 、インドネシア治安 ちあん 当局 とうきょく は東 ひがし ティモールに非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん を発令 はつれい し、国軍 こくぐん 5,500人 にん を増兵 ぞうへい しインドネシア併合 へいごう 維持 いじ 派 は の武装 ぶそう 勢力 せいりょく (民兵 みんぺい )を使 つか って破壊 はかい と虐殺 ぎゃくさつ を行 おこな う。9月12日 にち 、インドネシアが国連 こくれん 平和 へいわ 維持 いじ 軍 ぐん の受 う け入 い れを容認 ようにん し、オーストラリア軍 ぐん を主力 しゅりょく とする多 た 国籍 こくせき 軍 ぐん (東 ひがし ティモール国際 こくさい 軍 ぐん 、INTERFET)が派遣 はけん された(東 ひがし ティモール紛争 ふんそう )。その結果 けっか 、暴力 ぼうりょく 行為 こうい は収拾 しゅうしゅう したが、多 おお くの難民 なんみん が西 にし ティモールに逃 のが れ、あるいは強制 きょうせい 的 てき に連 つ れ去 さ られたりした。10月には、国際 こくさい 連合 れんごう 東 ひがし ティモール暫定 ざんてい 行政 ぎょうせい 機構 きこう (UNTAET)が設立 せつりつ 、2002年 ねん の独立 どくりつ まで率 ひき いた。
独立 どくりつ 後 ご の平和 へいわ 構築 こうちく 活動 かつどう
その後 ご の制憲 せいけん 議会 ぎかい 選挙 せんきょ ではフレティリンが圧勝 あっしょう し、大統領 だいとうりょう にはシャナナ・グスマン 、首相 しゅしょう にはマリ・アルカティリ が選出 せんしゅつ され、2002年 ねん 5月 がつ 20日 はつか に独立 どくりつ 式典 しきてん を行 おこな った。独立 どくりつ 後 ご 、国連 こくれん は国際 こくさい 連合 れんごう 東 ひがし ティモール支援 しえん 団 だん (UNMISET)を設立 せつりつ 、独立 どくりつ 後 ご の国 くに 造 づく りの支援 しえん を行 おこな った。この中 なか で、日本 にっぽん の自衛隊 じえいたい も国連 こくれん 平和 へいわ 維持 いじ 活動 かつどう (PKO)として派遣 はけん され、国連 こくれん と協力 きょうりょく して活動 かつどう を行 おこな った。2005年 ねん には、国連 こくれん の平和 へいわ 構築 こうちく ミッション、UNOTIL(国連 こくれん 東 ひがし ティモール事務所 じむしょ )が設立 せつりつ された。
独立 どくりつ 後 ご の混乱 こんらん [ 編集 へんしゅう ]
2006年 ねん 4月 がつ 、西部 せいぶ 出身 しゅっしん の軍人 ぐんじん 約 やく 600人 にん が昇級 しょうきゅう や給料 きゅうりょう で東部 とうぶ 出身 しゅっしん 者 しゃ との間 あいだ で差別 さべつ があるとして待遇 たいぐう 改善 かいぜん と差別 さべつ の廃止 はいし を求 もと め抗議 こうぎ し、ストライキ を起 お こしたが、政府 せいふ はストライキ参加 さんか 者 しゃ 全員 ぜんいん を解雇 かいこ した[注釈 ちゅうしゃく 4] 。国軍 こくぐん 内部 ないぶ の問題 もんだい として、将兵 しょうへい の多 おお くが旧 きゅう ファリンティル構成 こうせい 員 いん からなっており、政治 せいじ 的 てき 信頼 しんらい 性 せい によって新 あたら しい国軍 こくぐん での階級 かいきゅう に差 さ がつけられたこと、および西部 せいぶ 出身 しゅっしん 者 しゃ は独立 どくりつ 運動 うんどう において相対 そうたい 的 てき に消極 しょうきょく 的 てき であり、一部 いちぶ はインドネシア国軍 こくぐん から移籍 いせき してきていたことなどが背景 はいけい にあった[注釈 ちゅうしゃく 5] [17] [18] 。
これを不服 ふふく とした参加 さんか 者 しゃ 側 がわ が5月 がつ 下旬 げじゅん に蜂起 ほうき 、国軍 こくぐん との間 あいだ で戦闘 せんとう が勃発 ぼっぱつ した。ところが、鎮圧 ちんあつ に赴 おもむ いた警察 けいさつ や国軍 こくぐん の一部 いちぶ がスト参加 さんか 者 しゃ に同調 どうちょう して反旗 はんき を翻 ひるがえ し、警察 けいさつ 署 しょ を襲撃 しゅうげき して死者 ししゃ が出 で たため、怯 おび えた警察官 けいさつかん が職務 しょくむ 放棄 ほうき 。また若者 わかもの を中心 ちゅうしん に暴徒 ぼうと 化 か してディリは混乱 こんらん した。治安 ちあん 維持 いじ が不可能 ふかのう となった政府 せいふ は5月24日 にち にオーストラリア・マレーシア ・ニュージーランド ・ポルトガル に治安 ちあん 維持 いじ 軍 ぐん の派遣 はけん を要請 ようせい し、翌日 よくじつ には東 ひがし ティモールへの利権 りけん を確保 かくほ することを意図 いと したオーストラリア軍 ぐん が早速 さっそく 展開 てんかい し、その後 ご 4か国 こく による治安 ちあん 維持 いじ が行 おこな われた。
事件 じけん 全体 ぜんたい の背景 はいけい として、東部 とうぶ 住民 じゅうみん と西部 せいぶ 住民 じゅうみん の軋轢 あつれき や若者 わかもの の失業 しつぎょう 率 りつ の高 たか さが挙 あ げられている。また、アルカティリ首相 しゅしょう の独善 どくぜん 的 てき 姿勢 しせい や国連 こくれん の活動 かつどう 終了 しゅうりょう が早 はや すぎた可能 かのう 性 せい も指摘 してき されている。
オーストラリア軍 ぐん は反乱 はんらん 軍 ぐん を指揮 しき する少佐 しょうさ と接触 せっしょく し、少佐 しょうさ の武装 ぶそう 解除 かいじょ 命令 めいれい によって6月 がつ 半 なか ばに蜂起 ほうき は終結 しゅうけつ したが、暴徒 ぼうと の方 ほう は反 はん 政府 せいふ デモとなり、グスマン大統領 だいとうりょう の忠告 ちゅうこく によって、アルカティリ首相 しゅしょう は辞任 じにん に追 お い込 こ まれた。ディリは半 なか ば戦場 せんじょう と化 か し、住民 じゅうみん のほとんどは難民 なんみん となって郊外 こうがい へ脱出 だっしゅつ した。治安 ちあん 維持 いじ 軍 ぐん によって年内 ねんない に暴動 ぼうどう は鎮圧 ちんあつ されたが、オーストラリア政府 せいふ の支援 しえん による警察 けいさつ の再建 さいけん など、治安 ちあん の回復 かいふく には時間 じかん がかかると思 おも われる。
暴動 ぼうどう を受 う け、同年 どうねん 8月 がつ には国際 こくさい 連合 れんごう 東 ひがし ティモール統合 とうごう ミッション (UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT)が設立 せつりつ 。平和 へいわ 構築 こうちく ミッションから、再 ふたた び平和 へいわ 維持 いじ 活動 かつどう へと逆戻 ぎゃくもど りした。
2007年 ねん 1月 がつ 13日 にち 、フランス とともに東南 とうなん アジア友好 ゆうこう 協力 きょうりょく 条約 じょうやく (TAC))に締結 ていけつ した。この条約 じょうやく は東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう (ASEAN)加盟 かめい と東 ひがし アジアサミット参加 さんか への条件 じょうけん とされており、締結 ていけつ 国 こく 間 あいだ の主権 しゅけん 尊重 そんちょう と内政 ないせい 不干渉 ふかんしょう 、紛争 ふんそう の平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ を謳 うた うものである。東 ひがし ティモールは2007年 ねん 内 ない のASEAN加盟 かめい を目指 めざ していたが、国内 こくない 事情 じじょう の混乱 こんらん もあって実現 じつげん しなかった。その後 ご 、2011年 ねん にASEAN加盟 かめい を申請 しんせい し、2017年 ねん 時点 じてん でも交渉 こうしょう 中 ちゅう である[19] 。
2007年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、与党 よとう フレティリンが下野 げや し、グスマン連立 れんりつ 政権 せいけん 発足 ほっそく の前後 ぜんご より、フレティリンの熱狂 ねっきょう 的 てき な支持 しじ 者 しゃ が暴徒 ぼうと 化 か し、首都 しゅと ディリなどで民家 みんか などへの放火 ほうか や投石 とうせき が多発 たはつ している。また8月 がつ 10日 とおか には、東部 とうぶ のバウカウ県 けん で国連 こくれん 平和 へいわ 維持 いじ 活動 かつどう に携 たずさ わる国連 こくれん 警察 けいさつ の車列 しゃれつ が発砲 はっぽう を受 う け、車両 しゃりょう 1台 だい が燃 も やされた。ビケケ県 けん では子 こ ども1人 にん が暴動 ぼうどう に巻 ま き込 こ まれ死亡 しぼう 、数日 すうじつ の間 あいだ に100名 めい 以上 いじょう の逮捕 たいほ 者 しゃ が出 で た。バウカウ・ビケケ両 りょう 県 けん は、フレティリン支持 しじ 者 しゃ が多 おお い。8月12日 にち には、国連 こくれん 警察 けいさつ 、東 ひがし ティモール警察 けいさつ 、多 た 国籍 こくせき 治安 ちあん 部隊 ぶたい (おもに豪 ごう 軍 ぐん )、東 ひがし ティモール国軍 こくぐん により暴動 ぼうどう は沈静 ちんせい 化 か した。
2008年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、ラモス=オルタ大統領 だいとうりょう やグスマン首相 しゅしょう が2006年 ねん の国軍 こくぐん 反乱 はんらん 以降 いこう に反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく となったアルフレド・レイナド (英語 えいご 版 ばん ) 少佐 しょうさ 指揮 しき の武装 ぶそう 集団 しゅうだん に襲撃 しゅうげき された。この際 さい にレイナドは死亡 しぼう し、ラモス=オルタは重傷 じゅうしょう を負 お ったがオーストラリアの病院 びょういん での治療 ちりょう により一命 いちめい を取 と り留 と めた。ラモス=オルタ大統領 だいとうりょう は4月 がつ 17日 にち に職務 しょくむ に復帰 ふっき し、襲撃 しゅうげき 事件 じけん に伴 ともな う非常 ひじょう 事態 じたい 令 れい も5月8日 にち に解除 かいじょ された。国連 こくれん によるUNMITは2009年 ねん も延長 えんちょう されたが、同年 どうねん 3月 がつ には国家 こっか 警察 けいさつ への権限 けんげん 移譲 いじょう が開始 かいし され、混乱 こんらん は徐々 じょじょ に収束 しゅうそく しつつある[20] 。
この一連 いちれん の独立 どくりつ に至 いた る記録 きろく が、2013年 ねん にユネスコ記憶 きおく 遺産 いさん に登録 とうろく された[21] 。
国会 こっかい 議事堂 ぎじどう
国家 こっか 元首 げんしゅ の大統領 だいとうりょう は、主 しゅ として象徴 しょうちょう 的 てき な役割 やくわり を果 は たすにすぎないが、立法 りっぽう に対 たい する拒否 きょひ 権 けん を持 も つ。国民 こくみん の選挙 せんきょ によって選 えら ばれ、任期 にんき は5年 ねん 。行政府 ぎょうせいふ の長 ちょう である首相 しゅしょう は、議会 ぎかい での選出 せんしゅつ 後 ご 、大統領 だいとうりょう が任命 にんめい する。2023年 ねん 現在 げんざい 、大統領 だいとうりょう は第 だい 5代 だい で元 もと 首相 しゅしょう のジョゼ・ラモス=ホルタ が、首相 しゅしょう は第 だい 7代 だい で元 もと 大統領 だいとうりょう のシャナナ・グスマン が務 つと めている。
立法府 りっぽうふ は、一院制 いちいんせい の国民 こくみん 議会 ぎかい で、定数 ていすう は、52以上 いじょう 65以下 いか の範囲 はんい で法律 ほうりつ によって定 さだ められる。現在 げんざい は65。
ただし、第 だい 1期 き のみは特例 とくれい として88議席 ぎせき 。議員 ぎいん は、国民 こくみん の選挙 せんきょ によって選出 せんしゅつ され、任期 にんき は5年 ねん 。2007年 ねん 6月 がつ 30日 にち に行 おこな われた選挙 せんきょ では、東 ひがし ティモール独立 どくりつ 革命 かくめい 戦線 せんせん (フレティリン)が21議席 ぎせき 、東 ひがし ティモール再建 さいけん 国民 こくみん 会議 かいぎ (CNRT)が18議席 ぎせき 、ティモール社会 しゃかい 民主 みんしゅ 連合 れんごう と社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の統一 とういつ 連合 れんごう が11議席 ぎせき 、民主党 みんしゅとう が8議席 ぎせき 、ほかに3つの政党 せいとう ・統一 とういつ 連合 れんごう が計 けい 7議席 ぎせき を獲得 かくとく し、東 ひがし ティモール再建 さいけん 国民 こくみん 会議 かいぎ を中心 ちゅうしん とする反 はん フレティリン連立 れんりつ 政権 せいけん 樹立 じゅりつ が合意 ごうい された。東 ひがし ティモールの政党 せいとう も参照 さんしょう のこと。
独立 どくりつ 後 ご のフレティリンは左派 さは 色 しょく を薄 うす め、資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく との関係 かんけい を重視 じゅうし している。独立 どくりつ 直後 ちょくご の2002年 ねん 7月 がつ にはポルトガル語 ご 諸国 しょこく 共同 きょうどう 体 たい に加盟 かめい している。また、インドネシアとの外交 がいこう 関係 かんけい の安定 あんてい も志向 しこう し、東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう (ASEAN)へのオブザーバー資格 しかく 獲得 かくとく や正式 せいしき 加盟 かめい も模索 もさく しているが、独立 どくりつ 戦争 せんそう 以来 いらい の諸 しょ 問題 もんだい の解決 かいけつ が多 おお く残 のこ り、経済 けいざい 的 てき な格差 かくさ も大 おお きいため、まだ正式 せいしき な加盟 かめい 交渉 こうしょう には至 いた っていない。
2006年 ねん 6月 がつ 23日 にち 、シャナナ・グスマン大統領 だいとうりょう から辞任 じにん を求 もと められていたアルカティリ首相 しゅしょう が辞任 じにん を表明 ひょうめい した。26日 にち 、アルカティリ首相 しゅしょう は、グスマン大統領 だいとうりょう に正式 せいしき に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ し受理 じゅり された。首相 しゅしょう が首都 しゅと ディリ市内 しない の公邸 こうてい で辞任 じにん 表明 ひょうめい を読 よ み上 あ げると市民 しみん は歓迎 かんげい し、騒乱 そうらん の収拾 しゅうしゅう ・事態 じたい 正常 せいじょう 化 か への期待 きたい を高 たか めた。7月8日 にち 、グスマン大統領 だいとうりょう は、前 ぜん 首相 しゅしょう の後任 こうにん にノーベル平和 へいわ 賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ のジョゼ・ラモス=オルタ 前外相 ぜんがいしょう 兼 けん 国防 こくぼう 相 しょう を任命 にんめい した。前 ぜん 首相 しゅしょう の与党 よとう のフレティリンが推 お したダ・シルバ農相 のうしょう を第 だい 一 いち 副 ふく 首相 しゅしょう に、デ・アラウジョ保健 ほけん 相 しょう を第 だい 二 に 副 ふく 首相 しゅしょう に起用 きよう する。
2006年 ねん 7月 がつ 14日 にち 、オルタ内 ない 閣 かく の就任 しゅうにん 宣誓 せんせい 式 しき が首都 しゅと ディリで行 おこな われ、同 どう 内閣 ないかく が正式 せいしき に発足 ほっそく した。14閣僚 かくりょう のうち6人 にん が新任 しんにん で、残 のこ りの6人 にん は前 ぜん 内閣 ないかく からの再任 さいにん である。国防 こくぼう 相 しょう はオルタ首相 しゅしょう 自身 じしん が務 つと める。オルタ首相 しゅしょう の任期 にんき は翌年 よくねん 5月 がつ の総 そう 選挙 せんきょ まで。オルタ首相 しゅしょう は施政 しせい 方針 ほうしん 演説 えんぜつ で、アジアの最貧 さいひん 国 こく である東 ひがし ティモールの経済 けいざい をインフラ建設 けんせつ などを通 つう じ底上 そこあ げし、復興 ふっこう を目指 めざ すと表明 ひょうめい した。
2007年 ねん 4月 がつ 9日 にち 、東 ひがし ティモール大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ が行 おこな われた。これは2002年 ねん 独立 どくりつ 以後 いご 初 はじ めての国政 こくせい 選挙 せんきょ となった。登録 とうろく 有権者 ゆうけんしゃ 数 すう は約 やく 52万 まん 人 にん 。独立 どくりつ 運動 うんどう 指導 しどう 者 しゃ でノーベル平和 へいわ 賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ のラモス・オルタ 首相 しゅしょう (シャナナ・グスマン大統領 だいとうりょう (当時 とうじ )に支持 しじ されている)、旧 きゅう 与党 よとう ・東 ひがし ティモール独立 どくりつ 革命 かくめい 戦線 せんせん (フレティリン)のフランシスコ・グテレス (通称 つうしょう ル・オロ)国会 こっかい 議長 ぎちょう 、野党 やとう ・民主党 みんしゅとう のフェルナンド・ラマサ党首 とうしゅ ら8人 にん が立候補 りっこうほ したが、4月 がつ 18日 にち 、選挙 せんきょ 管理 かんり 委員 いいん 会 かい は過半数 かはんすう を得 え た候補 こうほ がいなかったとして、1位 い のグテレスと2位 い のオルタ両 りょう 候補 こうほ による決選 けっせん 投票 とうひょう を実施 じっし すると発表 はっぴょう した。得票 とくひょう 率 りつ はそれぞれ27.89%、21.81%で、投票 とうひょう 率 りつ は81.79%だった。5月9日 にち 、決選 けっせん 投票 とうひょう が行 おこな われ、即日 そくじつ 開票 かいひょう 作業 さぎょう が行 おこな われた。そして、ラモス・オルタが制 せい し、5月 がつ 20日 はつか に第 だい 2代 だい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。
2007年 ねん 6月30日 にち に行 おこな われた議会 ぎかい 選挙 せんきょ では、グスマン党首 とうしゅ 率 ひき いる東 ひがし ティモール再建 さいけん 国民 こくみん 会議 かいぎ (CNRT)が18議席 ぎせき を獲得 かくとく し、議会 ぎかい 第 だい 2党 とう に躍進 やくしん 。東 ひがし ティモール独立 どくりつ 革命 かくめい 戦線 せんせん はかろうじて第 だい 1党 とう であったが、65議席 ぎせき 中 ちゅう 21議席 ぎせき と大幅 おおはば に議席 ぎせき を減 へ らした。これは前 ぜん 大統領 だいとうりょう シャナナ・グスマンがCNRTを結成 けっせい して選挙 せんきょ に挑 いど んだからにほかならない。ラモス・オルタ大統領 だいとうりょう は与野党 よやとう による挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく を目指 めざ したが、フレティリンのマリ・アルカティリ 書記 しょき 長 ちょう はこれに異 こと を唱 とな えた。いったんはその考 かんが えを受 う け入 い れたが、CNRT率 ひき いる野党 やとう 連合 れんごう とフレティリンは、何 なん 週間 しゅうかん も論争 ろんそう を繰 く り返 かえ したが合意 ごうい には至 いた らなかった。これにより、ラモス・オルタ大統領 だいとうりょう は、反 はん フレティリン野党 やとう 連合 れんごう (37議席 ぎせき )による連立 れんりつ 政権 せいけん を組閣 そかく することを決断 けつだん 。8月6日 にち にグスマン党首 とうしゅ を首相 しゅしょう に指名 しめい し組閣 そかく を指示 しじ 、8月 がつ 8日 にち にグスマンは首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。これに対 たい して、首相 しゅしょう は第 だい 1党 とう から出 だ すと定 さだ めた東 ひがし ティモールの憲法 けんぽう に違反 いはん するとして、アルカティリが法的 ほうてき 手段 しゅだん で闘 たたか うと述 の べ、首相 しゅしょう 就任 しゅうにん 宣誓 せんせい 式 しき 出席 しゅっせき をボイコット、フレティリンはラモス・オルタ大統領 だいとうりょう の決定 けってい を非難 ひなん した。そのうえ、議長 ぎちょう もフレティリンではなく、連立 れんりつ を組 く んだ民主党 みんしゅとう のアラウジョ党首 とうしゅ が就任 しゅうにん した。しかし、連立 れんりつ 政権 せいけん は反 はん フレティリンで一致 いっち しているだけで、初代 しょだい 大統領 だいとうりょう として国 くに の混乱 こんらん を招 まね いた責任 せきにん は免 まぬか れないというグスマンへの個人 こじん 批判 ひはん を述 の べるものもいるという側面 そくめん もある。連立 れんりつ 政権 せいけん はCNRT、社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 、民主党 みんしゅとう など4党 とう 。副 ふく 首相 しゅしょう にグテレス。外相 がいしょう に社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 幹部 かんぶ のダコスタ。なお、グテレスはフレティリン反 はん 主流 しゅりゅう 派 は 。議会 ぎかい 選挙 せんきょ では「フレティリン改革 かいかく 派 は 」を組織 そしき し、CNRT支援 しえん に回 まわ った。
2012年 ねん 7月 がつ 7日 にち の議会 ぎかい 選挙 せんきょ ではCNRTが第 だい 1党 とう となり、フレティリンは第 だい 2党 とう に転落 てんらく した。首相 しゅしょう は引 ひ き続 つづ きシャナナ・グスマンが担 にな うこととなった。一方 いっぽう 、同年 どうねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、元 もと 国軍 こくぐん 司令 しれい 官 かん (そのさらに前 まえ はファリンティル司令 しれい 官 かん )のタウル・マタン・ルアク がCNRTの支持 しじ のもと無所属 むしょぞく から出馬 しゅつば し、決選 けっせん 投票 とうひょう をへてフレティリンのフランシスコ・グテレスを退 しりぞ け当選 とうせん 、5月12日 にち に就任 しゅうにん した。現職 げんしょく のラモス・オルタは第 だい 1回 かい 投票 とうひょう で3位 い にとどまり、再選 さいせん を逃 のが した。
2015年 ねん 1月 がつ 、シャナナ・グスマンは首相 しゅしょう を辞任 じにん すると発表 はっぴょう 、翌月 よくげつ になって正式 せいしき に辞職 じしょく した。首相 しゅしょう 職 しょく はルイ・マリア・デ・アラウジョ が継 つ いだ。なお、グスマンは3月 がつ に閣僚 かくりょう として政権 せいけん へ復帰 ふっき している。
2017年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ が行 おこな われた。現職 げんしょく のタウル・マタン・ルアクは出馬 しゅつば せず、自 みずか ら新党 しんとう 人民 じんみん 解放 かいほう 党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (PLP)を立 た ち上 あ げていたため、続 つづ いて行 おこな われる議会 ぎかい 選挙 せんきょ から首相 しゅしょう を狙 ねら っていると噂 うわさ された[22] 。選挙 せんきょ ではフレティリンに属 ぞく するフランシスコ・グテレスが大差 たいさ で大統領 だいとうりょう を勝 か ち取 と った。
一方 いっぽう 、議会 ぎかい 選挙 せんきょ ではシャナナ・グスマン率 ひき いるCNRTとマリ・アルカティリ率 ひき いるフレティリンがそれぞれ第 だい 1党 とう 、第 だい 2党 とう となったが、議席 ぎせき 差 さ はわずか1であり、首相 しゅしょう 指名 しめい されたアルカティリは民主党 みんしゅとう と連立 れんりつ を組 く んで少数 しょうすう 与党 よとう として出発 しゅっぱつ した[23] 。しかし予算 よさん 案 あん を通 とお すことができず、膠着 こうちゃく 状態 じょうたい が続 つづ いたため、グテレス大統領 だいとうりょう は議会 ぎかい の解散 かいさん 総 そう 選挙 せんきょ を宣言 せんげん した[24] 。投票 とうひょう は2018年 ねん 5月12日 にち に行 おこな われ、CNRTやPLPによる政党 せいとう 連合 れんごう 「変化 へんか と進歩 しんぽ のための同盟 どうめい (AMP)」が第 だい 1勢力 せいりょく となった。PLPを率 ひき いるタウル・マタン・ルアクが首相 しゅしょう に指名 しめい され、6月22日 にち に正式 せいしき にアルカティリを継 つ いで首相 しゅしょう へ就任 しゅうにん した。
対外 たいがい 関係 かんけい と軍事 ぐんじ [ 編集 へんしゅう ]
独立 どくりつ して日 ひ が浅 あさ い小国 しょうこく であるため、隣国 りんごく インドネシアをはじめとする東南 とうなん アジア諸国 しょこく 、オーストラリアのほか、この地域 ちいき に大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ日本 にっぽん 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との良好 りょうこう な関係 かんけい を築 きず き、国家 こっか としての存立 そんりつ と発展 はってん を目指 めざ している。ASEAN加盟 かめい は2017年 ねん 時点 じてん で実現 じつげん していないが、アラウジョ首相 しゅしょう は「我々 われわれ は準備 じゅんび ができている」「ポルトガル語 ご 諸国 しょこく 共同 きょうどう 体 たい の議長 ぎちょう 国 こく として多 おお くの国際 こくさい 会議 かいぎ を主催 しゅさい した」として、早期 そうき 加盟 かめい を目指 めざ す方針 ほうしん を示 しめ している[25] 。
独立 どくりつ 直後 ちょくご は日本 にっぽん からの政府 せいふ 開発 かいはつ 援助 えんじょ (ODA)が大 おお きな役割 やくわり を果 は たしたが、近年 きんねん は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が経済 けいざい 支援 しえん やインフラ整備 せいび で急速 きゅうそく に存在 そんざい 感 かん を増 ま している[26] 。対 たい 中 ちゅう 接近 せっきん の背景 はいけい には、経済 けいざい を支 ささ えるティモール海 かい の既存 きそん 油田 ゆでん が数 すう 年 ねん 内 ない に枯渇 こかつ するとの危機 きき 感 かん がある。2016年 ねん には中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 海軍 かいぐん 艦艇 かんてい が初 はじ めて首都 しゅと ディリに寄港 きこう した[27] 。オーストラリアとは後述 こうじゅつ のように、ティモール海 かい の資源 しげん 権益 けんえき をめぐる紛争 ふんそう を抱 かか える。
2001年 ねん に東 ひがし ティモール国防 こくぼう 軍 ぐん を創設 そうせつ しており、陸軍 りくぐん (兵力 へいりょく 1,250人 にん )と海軍 かいぐん (兵力 へいりょく 80人 にん )を保有 ほゆう する[28] 。
東 ひがし ティモールは環太平洋 かんたいへいよう 火山 かざん 帯 たい (環太平洋 かんたいへいよう 造山 つくりやま 帯 たい )の一部 いちぶ で小 しょう スンダ列島 れっとう に属 ぞく するティモール島 とう の東部 とうぶ に位置 いち しており、全土 ぜんど の約 やく 6割 わり は山岳 さんがく 地帯 ちたい となっている。最高峰 さいこうほう は2,963メートルのタタマイラウ山 さん (ラメラウ山 さん )。高温 こうおん 多湿 たしつ の熱帯 ねったい 性 せい 気候 きこう 下 か だが、乾季 かんき と雨季 うき の区別 くべつ がある。動植物 どうしょくぶつ の固有 こゆう 種 しゅ が多数 たすう 存在 そんざい し、北部 ほくぶ 海岸 かいがん にはサンゴ礁 さんごしょう が発達 はったつ している。
地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区画 くかく [ 編集 へんしゅう ]
東 ひがし ティモールの行政 ぎょうせい 区画 くかく
ティモール島 とう の地図 ちず
13県 けん と1特別 とくべつ 行政 ぎょうせい 区 く から成 な る。国土 こくど の北部 ほくぶ 沿岸 えんがん を中心 ちゅうしん とするディリ地方 ちほう 、島 しま の東端 ひがしばた 部 ぶ のバウカウ地方 ちほう 、国土 こくど の中央 ちゅうおう 部 ぶ のサメ地方 ちほう 、インドネシアとの境界 きょうかい 線 せん 付近 ふきん のマリアナ地方 ちほう 、飛 と び地 ち であるオエクシ 地方 ちほう に大 おお きくグループ分 わ けされる。
ディリ地方 ちほう
ディリ県 けん - (ディリ )
マナトゥト県 けん - (マナトゥト (英語 えいご 版 ばん ) )
リキシャ県 けん - (リキシャ (英語 えいご 版 ばん ) )
アタウロ県 けん - (アタウロ島 とう ):2022年 ねん 創設 そうせつ
バウカウ地方 ちほう
バウカウ県 けん - (バウカウ (英語 えいご 版 ばん ) )
ヴィケケ県 けん - (ヴィケケ (英語 えいご 版 ばん ) )
ラウテン県 けん - (ロスパロス )
サメ地方 ちほう
アイナロ県 けん - (アイナロ (英語 えいご 版 ばん ) )
アイレウ県 けん - (アイレウ (英語 えいご 版 ばん ) )
マヌファヒ県 けん - (サメ (英語 えいご 版 ばん ) )
マリアナ地方 ちほう
エルメラ県 けん - (グレノ (英語 えいご 版 ばん ) )
コバリマ県 けん - (スアイ (英語 えいご 版 ばん ) )
ボボナロ県 けん - (マリアナ )
オエクシ地方 ちほう
オエクシ=アンベノ特別 とくべつ 行政 ぎょうせい 区 く - (パンテ・マカッサル ):飛 と び地 ち
首都 しゅと ディリ
補助 ほじょ 通貨 つうか のセンタボ
通貨 つうか に関 かん してはアメリカドル による通貨 つうか 代替 だいたい (英語 えいご 版 ばん ) (ドラリゼーション )が行 おこな われているが、補助 ほじょ 通貨 つうか としてセンタボ という単位 たんい の硬貨 こうか が流通 りゅうつう している。
IMF によると、2018年 ねん のGDP は31億 おく ドル。1人 ひとり あたりのGDPは2,435ドルである[3] 。 2011年 ねん にアジア開発銀行 あじあかいはつぎんこう が公表 こうひょう した資料 しりょう によると、1日 にち 2ドル未満 みまん で暮 く らす貧困 ひんこん 層 そう は77万 まん 人 にん と推定 すいてい されており、国民 こくみん の過半数 かはんすう を占 し めている[29] 。国際 こくさい 連合 れんごう による基準 きじゅん に基 もと づき、後発 こうはつ 開発 かいはつ 途上 とじょう 国 こく に分類 ぶんるい されている[30] 。
色 いろ と面積 めんせき で示 しめ した東 ひがし ティモールの輸出 ゆしゅつ 品目 ひんもく (2010年 ねん )
ポルトガル領 りょう 時代 じだい は、アンゴラ やモザンビーク などのほかの植民 しょくみん 地 ち 同様 どうよう 、工業 こうぎょう 化 か がまったく進 すす まず、自給自足 じきゅうじそく 的 てき な農業 のうぎょう に依存 いぞん した貧困 ひんこん 状態 じょうたい だった。インドネシアによる統治 とうち が始 はじ まると社会 しゃかい 資本 しほん の整備 せいび が緩 ゆる やかに進 すす んだが、1999年 ねん の住民 じゅうみん 投票 とうひょう で独立 どくりつ 支持 しじ 派 は が勝利 しょうり するとインドネシア併合 へいごう 維持 いじ 派 は の民兵 みんぺい が首都 しゅと ディリ を破壊 はかい し、経済 けいざい は壊滅 かいめつ 状態 じょうたい に陥 おちい った。しかし、2006年 ねん の混乱 こんらん 後 ご は経済 けいざい 成長 せいちょう が始 はじ まり、2007年 ねん から2011年 ねん にかけては平均 へいきん 12.1%にも達 たっ する高 たか いGDP成長 せいちょう 率 りつ を記録 きろく した[20] 。一方 いっぽう で、このGDPの伸 の びの大半 たいはん は石油 せきゆ 収入 しゅうにゅう によるものであり、経済 けいざい の多角 たかく 化 か を図 はか ることが目標 もくひょう とされている[20] [31] 。
石油 せきゆ ・天然 てんねん ガス による収入 しゅうにゅう は2011年 ねん 時点 じてん で実 じつ にGDPの8割 わり に達 たっ しており[20] 、IMFは東 ひがし ティモールの経済 けいざい を「世界 せかい でもっとも石油 せきゆ 収入 しゅうにゅう に依存 いぞん した経済 けいざい 」と評 ひょう している[31] 。石油 せきゆ 以外 いがい の主要 しゅよう 産業 さんぎょう は農業 のうぎょう で、米 べい やトウモロコシ、コーヒー豆 まめ などが生産 せいさん されている[20] 。コーヒーはフェアトレード 商品 しょうひん として人気 にんき がある。かつての独立 どくりつ 闘争 とうそう の影響 えいきょう が残 のこ り、米 べい やトウモロコシの主食 しゅしょく は近隣 きんりん 諸国 しょこく からの輸入 ゆにゅう に依存 いぞん している。
ティモール・ギャップ (英語 えいご 版 ばん ) 赤色 あかいろ の海域 かいいき が東 ひがし ティモールの領域 りょういき 、黄色 おうしょく の海域 かいいき がオーストラリアの領域 りょういき 、ピンク色 ぴんくいろ の海域 かいいき が共有 きょうゆう 領域 りょういき である。
石油 せきゆ は南方 なんぽう のティモール海 かい の海底 かいてい 油田 ゆでん より産出 さんしゅつ されている。隣国 りんごく で、東 ひがし ティモールへの影響 えいきょう 力 りょく を獲得 かくとく しようとしているオーストラリアとの境界 きょうかい 線 せん 確定 かくてい が課題 かだい だが、東 ひがし ティモール側 がわ はインドネシア政府 せいふ が結 むす んだ境界 きょうかい 線 せん の見直 みなお しを求 もと め、交渉 こうしょう は難航 なんこう している。しかし、確定 かくてい とは別 べつ に両国 りょうこく 共同 きょうどう 石油 せきゆ 開発 かいはつ エリア (JPDA:Joint Petroleum Development Area ) を定 さだ め (Timor Gap Treaty , Sunrise International Unitization Agreement , Timor Sea Treaty )、収入 しゅうにゅう の90%を東 ひがし ティモールに、10%をオーストラリアに渡 わた すこととなった。2007年 ねん からは原油 げんゆ 採掘 さいくつ に伴 ともな う税収 ぜいしゅう やロイヤルティー 収入 しゅうにゅう が計上 けいじょう され (Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea )、その収入 しゅうにゅう を集約 しゅうやく するために東 ひがし ティモール政府 せいふ が設立 せつりつ した「石油 せきゆ 基金 ききん 」(2010年 ねん 末 まつ 時点 じてん で約 やく 69億 おく ドル[32] )を利用 りよう した国家 こっか 予算 よさん が計上 けいじょう できるようになっている。最初 さいしょ の事業 じぎょう はグレーターサンライズ・ガス田 た 開発 かいはつ である。
また、2009年 ねん 3月 がつ にはグスマン首相 しゅしょう が日本 にっぽん を訪問 ほうもん し、日本 にっぽん の麻生 あそう 太郎 たろう 首相 しゅしょう との間 あいだ で「日本 にっぽん と東 ひがし ティモールとの間 あいだ の共同 きょうどう プレスステートメント」を発表 はっぴょう した。その中 なか で日本 にっぽん は無償 むしょう 資金 しきん 援助 えんじょ を東 ひがし ティモールに対 たい して行 おこな い、東 ひがし ティモールの円滑 えんかつ なASEAN加盟 かめい を支援 しえん することを表明 ひょうめい した[33] 。
東 ひがし ティモールでは、国 くに の貧困 ひんこん 問題 もんだい や貧弱 ひんじゃく なインフラ 、まばらな通信 つうしん 情報 じょうほう 網 もう のために、交通 こうつう 機関 きかん が減少 げんしょう の一途 いっと を辿 たど っている問題 もんだい 点 てん が挙 あ げられる。
湾 わん 港 こう はディリ港 こう (英語 えいご 版 ばん ) とティバー・ベイ港 こう (英語 えいご 版 ばん ) が代表 だいひょう となっている。
住民 じゅうみん はメラネシア人 じん が大 だい 部分 ぶぶん である。その他 た 華僑 かきょう (客 きゃく 家 か )、印 しるし 僑 (インド系 けい 移民 いみん )、ハーフカスト (ポルトガル人 じん とメラネシア人 じん の混血 こんけつ )、ごく少数 しょうすう のカーボベルデ などアフリカ系 けい の移民 いみん などが存在 そんざい する。
東 ひがし ティモールの言語 げんご 分布 ぶんぷ
言語 げんご はテトゥン語 ご とポルトガル語 ご が公用 こうよう 語 ご である[34] 。現在 げんざい は、マカサエ語 ご (英語 えいご 版 ばん ) やファタルク語 ご (英語 えいご 版 ばん ) などのパプア諸語 しょご (トランスニューギニア語族 ごぞく )とテトゥン語 ご やマンバイ語 ご (英語 えいご 版 ばん ) などのオーストロネシア語族 ごぞく が中心 ちゅうしん に話 はな されている[7] 。そのほか、インドネシア統治 とうち 期 き に教育 きょういく を受 う けた1960年代 ねんだい - 1980年代 ねんだい 半 なか ばにかけて生 う まれた世代 せだい の国民 こくみん を中心 ちゅうしん にインドネシア語 ご が使 つか われている。独立 どくりつ 後 ご は世代 せだい 間 あいだ で使用 しよう できる言語 げんご が異 こと なっていることが問題 もんだい となっている[33] 。東 ひがし ティモールは独立 どくりつ 時 じ の2002年 ねん からポルトガル語 ご 諸国 しょこく 共同 きょうどう 体 たい (CPLP)に加盟 かめい している。
ディリ郊外 こうがい ファツカマ岬 みさき のキリスト像 ぞう
キリスト教 きりすときょう の信徒 しんと が国民 こくみん の99.1%を占 し めており、アジアではフィリピン と並 なら びキリスト教 きょう 信仰 しんこう が盛 さか んな国 くに である。キリスト教徒 きりすときょうと の大半 たいはん はローマ・カトリック に属 ぞく し、それ以外 いがい はプロテスタント 諸派 しょは に属 ぞく している。キリスト教 きょう 以外 いがい の宗教 しゅうきょう の信徒 しんと の構成 こうせい 比 ひ は、イスラム教 いすらむきょう が0.7%、その他 た ヒンドゥー教 きょう 、仏教 ぶっきょう 、アニミズム などとなっている。インドネシア統治 とうち 時代 じだい の1992年 ねん 推計 すいけい ではイスラム教徒 きょうと が人口 じんこう の4%を占 し めていたとされるが、独立 どくりつ によりインドネシア政府 せいふ の公務員 こうむいん などが東 ひがし ティモールから退去 たいきょ し、イスラム教徒 きょうと の比率 ひりつ は大幅 おおはば に低下 ていか した。一方 いっぽう 、独立 どくりつ 運動 うんどう を精神 せいしん 面 めん で支 ささ え続 つづ けたカトリック教会 きょうかい への信頼 しんらい は高 たか まった。
東 ひがし ティモールの治安 ちあん は2020年 ねん 12月4日 にち 時点 じてん において、荒立 あらだ った動 うご きなどが起 お きていないため比較的 ひかくてき 安定 あんてい している方 ほう とされている。現在 げんざい までのところ、国内 こくない における治安 ちあん 情勢 じょうせい が顕著 けんちょ に悪化 あっか した状況 じょうきょう には至 いた っていないものの、今後 こんご 、政治 せいじ 情勢 じょうせい や感染 かんせん 症 しょう ウイルスの国内 こくない 感染 かんせん 状 じょう 況 きょう の変化 へんか に影響 えいきょう され、治安 ちあん が不安定 ふあんてい 化 か するおそれがあると見 み られている。
また、格闘技 かくとうぎ 集団 しゅうだん (マーシャル・アーツ・グループ)による抗 こう 争 そう [注釈 ちゅうしゃく 6] が散発 さんぱつ している他 ほか に、依然 いぜん として殺人 さつじん 、暴行 ぼうこう 、強盗 ごうとう 、空 あ き巣 す などの犯罪 はんざい が発生 はっせい している点 てん から、同国 どうこく に滞在 たいざい する場合 ばあい は最新 さいしん の治安 ちあん 情報 じょうほう を入手 にゅうしゅ するなど十分 じゅうぶん な注意 ちゅうい が必要 ひつよう とされている[35] 。
伝統 でんとう 的 てき な衣装 いしょう に身 み を包 つつ んだ東 ひがし ティモールの男性 だんせい
東 ひがし ティモールにおける調理 ちょうり 光景 こうけい
東 ひがし ティモールの料理 りょうり は、豚肉 ぶたにく や魚 さかな 、トウモロコシ 、根菜 こんさい 、トロピカルフルーツ などが食材 しょくざい に用 もち いられていることが特徴 とくちょう となっている。
また、バジル などの香 こう 草 そう や、タマリンド などのマメ科 か 植物 しょくぶつ の果実 かじつ が使 つか われることもある。主食 しゅしょく は米 べい である。
東 ひがし ティモールの作家 さっか には、ルイス・カルドソ (英語 えいご 版 ばん ) 、フェルナンド・シルヴァン (英語 えいご 版 ばん ) 、ポンテ・ペドリーニャ 、ホルヘ・バロス・ドゥアルテ 、クリソディオ・アラウホ 、ホルヘ・ローテン 、フランシスコ・ボルジャ・ダ・コスタ (英語 えいご 版 ばん ) 、アフォンソ・ブサ・メタン 、フィトゥン・フイク が代表 だいひょう される。
東 ひがし ティモール国内 こくない では、ポルトガル やインドネシア の統治 とうち を受 う けた歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい などから、サッカー が圧倒的 あっとうてき に1番 ばん 人気 にんき のスポーツ となっている。国際 こくさい サッカー連盟 れんめい (FIFA)は東 ひがし ティモール国内 こくない に1万 まん 5,500人 にん のサッカー選手 せんしゅ がおり、そのうち登録 とうろく 選手 せんしゅ は500人 にん であり10の国内 こくない クラブが存在 そんざい するとしている[36] 。東 ひがし ティモールサッカー連盟 れんめい (FFTL)は2002年 ねん に設立 せつりつ され、2003年 ねん 3月 がつ にはサッカー東 ひがし ティモール代表 だいひょう にとって初 はつ の公式 こうしき 戦 せん となる、AFCアジアカップ の2004年 ねん 大会 たいかい ・予選 よせん が実施 じっし された。最初 さいしょ の試合 しあい は2003年 ねん 3月 がつ 21日 にち にスリランカ に2-3で敗 やぶ れ、続 つづ く3月 がつ 23日 にち にはチャイニーズタイペイ に0-3で敗 やぶ れた。FFTLは2005年 ねん 9月 がつ 12日 にち にFIFA加盟 かめい が認 みと められ[37] 、現在 げんざい はアジアサッカー連盟 れんめい (AFC)にも加盟 かめい している。国内 こくない リーグとしては、2015年 ねん に創設 そうせつ されたLFAプリメーラ・ディビジョン (英語 えいご 版 ばん ) が存在 そんざい している。
同国 どうこく 代表 だいひょう が参加 さんか する公式 こうしき 戦 せん は徐々 じょじょ に増加 ぞうか しており、アジアカップは前述 ぜんじゅつ の2004年 ねん 大会 たいかい では予選 よせん に参加 さんか したが、2007年 ねん 大会 たいかい 予選 よせん は棄権 きけん し、AFC内 ない のFIFAランキング 下位 かい のチームが参加 さんか するAFCチャレンジカップ にも参加 さんか していない。一方 いっぽう 、東南 とうなん アジアサッカー選手権 せんしゅけん には2004年 ねん から参加 さんか し、2008年 ねん にはスリランカ に2-2で引 ひ き分 わ けて同 どう チーム史上 しじょう 初 はつ の国際 こくさい Aマッチ での勝 か ち点 てん を獲得 かくとく 、2012年 ねん にカンボジア に勝利 しょうり して同 おな じく初 はつ 勝利 しょうり を記録 きろく した。また、FIFAワールドカップ の予選 よせん には2010年 ねん 大会 たいかい 予選 よせん から参加 さんか 。2010年 ねん 大会 たいかい 予選 よせん ・2014年 ねん 大会 たいかい 予選 よせん は1次 じ 予選 よせん でそれぞれ香港 ほんこん ・ネパール に敗 やぶ れ敗退 はいたい したものの、2018年 ねん 大会 たいかい 予選 よせん ではモンゴル を破 やぶ って初 はじ めて1次 じ 予選 よせん を突破 とっぱ した(2次 じ 予選 よせん は0勝 しょう 2分 ふん 6敗 はい で敗退 はいたい )。2023年 ねん 時点 じてん のFIFAランキング では192位 い [38] で、いわゆる「最 さい 弱国 じゃっこく 」の一 ひと つとみなされている。
スポーツ全体 ぜんたい を統轄 とうかつ する組織 そしき としては、2003年 ねん に国内 こくない オリンピック委員 いいん 会 かい (NOC)である東 ひがし ティモールオリンピック委員 いいん 会 かい が結成 けっせい され、国際 こくさい オリンピック委員 いいん 会 かい (IOC)やアジアオリンピック評議 ひょうぎ 会 かい (OCA)に参加 さんか した。国 くに が独立 どくりつ 準備 じゅんび 中 ちゅう だった2000年 ねん シドニー大会 たいかい ではNOC設立 せつりつ 前 まえ だった東 ひがし ティモールの選手 せんしゅ に対 たい して個人 こじん 参加 さんか の特例 とくれい が認 みと められ、次 つぎ の夏季 かき オリンピック となった2004年 ねん アテネ大会 たいかい では、東 ひがし ティモール選手 せんしゅ 団 だん としての初 はつ 参加 さんか が実現 じつげん した。ただし、今 いま までに五輪 ごりん で同国 どうこく の選手 せんしゅ 団 だん がメダルを獲得 かくとく したことはない。また、2003年 ねん からは東南 とうなん アジア競技 きょうぎ 大会 たいかい に参加 さんか し、2005年 ねん には武術 ぶじゅつ で3つの銅 どう メダルを獲得 かくとく した[39] 。
^ 植民 しょくみん 地 ち 政庁 せいちょう の役人 やくにん やポルトガル人 じん 教会 きょうかい の支持 しじ を得 え て保守 ほしゅ 層 そう を代弁 だいべん した。また、政治 せいじ 体制 たいせい の急激 きゅうげき な変化 へんか をおそれるポルトガル系 けい 住民 じゅうみん や華人 かじん らの支持 しじ も集 あつ めた。
^ 識字 しきじ 教室 きょうしつ や保健 ほけん プログラムを村落 そんらく ごとに実施 じっし 、自立 じりつ 精神 せいしん を高揚 こうよう させた。また教育 きょういく 言語 げんご にテトゥン語 ご の採用 さいよう を求 もと めた。改称 かいしょう 後 ご は過激 かげき 化 か し、「東 ひがし ティモール唯一 ゆいいつ の正当 せいとう な代表 だいひょう 」と自称 じしょう した。
^ インドネシア統合 とうごう 下 か での自治 じち を主張 しゅちょう 。活動 かつどう は低調 ていちょう だったが、後 のち にインドネシアの支援 しえん で武装 ぶそう 化 か した。
^ 国軍 こくぐん は2012年 ねん 時点 じてん でも2,300人 にん ほどしかいない。
^ やはりインドネシア国家 こっか 警察 けいさつ での経歴 けいれき がある者 もの が多 おお いという理由 りゆう で、東 ひがし ティモール国家 こっか 警察 けいさつ も国軍 こくぐん 主流 しゅりゅう 派 は と対立 たいりつ していた。
^ 投石 とうせき 行為 こうい 、刃物 はもの や凶器 きょうき を使用 しよう した乱闘 らんとう 事件 じけん
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