ひがしティモール

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ひがしティモール民主みんしゅ共和きょうわこく
República Democrática de Timor-Leste (ポルトガル
Repúblika Demokrátika Timór-Leste (テトゥン
東ティモールの国旗 東ティモールの国章
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうごUnidade, Acção, Progresso
(ポルトガル: 統一とういつ行動こうどう前進ぜんしん
国歌こっかPátria(ポルトガル
祖国そこく
東ティモールの位置
公用こうよう ポルトガルテトゥン
首都しゅと ディリ[1]
最大さいだい都市とし ディリ
政府せいふ
大統領だいとうりょう ジョゼ・ラモス=ホルタ
首相しゅしょう シャナナ・グスマン
面積めんせき
総計そうけい 15,007km2154
水面すいめんせきりつ ごくわず
人口じんこう
総計そうけい2020ねん 1,318,000[2]ひと153
人口じんこう密度みつど 88.7[2]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2018ねん 30おく9,000まん[3]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくドル
GDP(MER
合計ごうけい2018ねん30おく9,000まん[3]ドル(163
1人ひとりあたり xxxドル
GDP(PPP
合計ごうけい2018ねん66おく5300まん[3]ドル(162
1人ひとりあたり 5,241[3]ドル
独立どくりつ
 - 宣言せんげん
 - 主権しゅけん回復かいふく事実じじつじょう独立どくりつ
ポルトガルより
1975ねん11月28にち
インドネシアより
2002ねん5がつ20日はつか[1]
通貨つうか アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくドルUSD
時間じかんたい UTC(+9) (DST:なし)
ISO 3166-1 TL / TLS
ccTLD .tl
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 670
註1: かつては.TP

ひがしティモール民主みんしゅ共和きょうわこく(ひがしティモールみんしゅきょうわこく、ポルトガル: República Democrática de Timor-Leste)、通称つうしょうひがしティモールは、アジア東南とうなんアジア地域ちいき位置いちする共和きょうわせい国家こっか首都しゅとディリ

島国しまぐにであり、しょうスンダ列島れっとうにあるティモールとうひがし半分はんぶんアタウロとうジャコとう飛地とびちオエクシ構成こうせいされている。南方なんぽうには、ティモールかいはさんでオーストラリアがあり、それ以外いがいインドネシアりょうひがしヌサ・トゥンガラしゅう西にしティモールふくむ)である。

1999ねん8がつ30にち国連こくれん主導しゅどう独立どくりつについての住民じゅうみん投票とうひょう英語えいごばん実施じっしインドネシア占領せんりょうから2002ねん5がつ20日はつか独立どくりつした[1]国際こくさいほううえポルトガルから独立どくりつ)。21世紀せいき最初さいしょ独立どくりつこくである。ポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたい加盟かめいこく

国名こくめい[編集へんしゅう]

正式せいしき名称めいしょうRepublika Demokratika Timor Lorosa'eテトゥン: レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)、República Democrática de Timor-Lesteポルトガル:レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レステ)。略称りゃくしょうは、Timor Lorosa'eテトゥン)、Timor-Lesteポルトガル)。

公式こうしき英語えいご表記ひょうきDemocratic Republic of Timor-Leste略称りゃくしょうTimor-Leste[4]意訳いやくしたEast Timorでもつうじるが[5]ひがしティモールの常任じょうにん使節しせつだんは2003ねん8がつ8にちづけ書簡しょかんですべての言語げんご表記ひょうきを「Timor-Leste」に変更へんこうするよう国際こくさい連合れんごう要請ようせいしている[4]ひがしティモール政府せいふ英語えいごばん公式こうしきサイトの「歴史れきし」の項目こうもくは、独立どくりつ以前いぜん記述きじゅつでは「East Timor」表記ひょうき散見さんけんされるが、独立どくりつ国家こっか場合ばあいは「Timor-Leste」に統一とういつされている[6]

日本語にほんご表記ひょうきひがしティモール民主みんしゅ共和きょうわこく通称つうしょうひがしティモール。ティモールの部分ぶぶんは、チモールとも表記ひょうきされる(近年きんねんでは「ティモール」の表記ひょうき一般いっぱんてきである)。

国名こくめいは「ティモールとう東部とうぶ」を意味いみするが、ティモールの由来ゆらいマレーインドネシアで「ひがし」を意味いみする「ティムール(timur)」であり、語源ごげんてきには重複じゅうふく表現ひょうげんとなっている。テトゥンの「ロロ」は「太陽たいよう」、「サエ」は「る」、「ロロサエ」は「」またはその方角ほうがく(「ひがし」)を意味いみする。ポルトガルの「レスチ」(英語えいごみは「レステ」)も「ひがし」を意味いみする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

成立せいりつ[編集へんしゅう]

ポルトガルの植民しょくみんになるはるかむかし紀元前きげんぜん2000ねんごろパプアけい語族ごぞくしま東部とうぶ移住いじゅうしていき、ずっと時代じだいくだって紀元きげん10世紀せいきごろオーストロネシア語族ごぞく流入りゅうにゅうしてきたとつたえられている。さらに紀元前きげんぜん3000ねんごろとどう2000ねんごろの 2にわたって、インド=マレーけいエスニックグループが移住いじゅうしてきたとのせつもある[7]

ポルトガル植民しょくみん[編集へんしゅう]

ポルトガルりょうティモールくにあきら

ティモールとう16世紀せいきポルトガルによって植民しょくみんされた。そのオランダ進出しんしゅつし、一時いちじはポルトガルがこれを撃退げきたいしたが、1859ねん西にしティモールとソロールとうオランダ割譲かつじょうしたことで、ティモールとう東西とうざい分割ぶんかつされた(リスボン条約じょうやくドイツばん)。この境界きょうかいについては1893ねんにポルトガルとオランダあいだ細部さいぶ改正かいせいおこなわれ、1904ねんポルトガル=オランダ条約じょうやく(1908ねん批准ひじゅん)で直線ちょくせんてき分断ぶんだんし、1913ねん[8](または1914ねん[9])に基本きほん合意ごういし、1916ねん確定かくていした。

1911ねんから翌年よくねんにかけて、収奪しゅうだつきびしさにえかねてリウライ(マヌファヒしょう国王こくおう)のドン・ドンボアベントゥラが反乱はんらんこした。戦死せんししゃ3,424にん負傷ふしょうしゃ1まん2,567にんした。さらに、1959ねんにピケケ県知事けんちじ誘拐ゆうかい蜂起ほうき事件じけん亡命ぼうめいインドネシアじんひがしティモールじんらによってこされた。150にん死者ししゃたとのせつもある[10]

ポルトガルが中立ちゅうりつまもっただい世界せかい大戦たいせんときには、当初とうしょは1941ねんにオランダぐんオーストラリアぐん保護ほご占領せんりょうし、ティモールとうたたか英語えいごばんのあとオランダりょうひがしインド地域ちいきわせて1942ねん日本にっぽんぐん占領せんりょうしたが、1945ねん日本にっぽん敗戦はいせんによりオーストラリアぐん進駐しんちゅうてポルトガル総督そうとく支配しはい復活ふっかつし、1949ねんインドネシア一部いちぶとして西にしティモールの独立どくりつ確定かくていしたあともポルトガルによる支配しはい継続けいぞくした。これにたいし、人口じんこうなか圧倒的あっとうてき多数たすうめる地元じもと住民じゅうみん独立どくりつ志向しこうつよめたが、アントニオ・サラザール首相しゅしょうなどの「エスタド・ノヴォ体制たいせい」により抑圧よくあつされた。

1974ねんにポルトガルで左派さは中心ちゅうしんとしたカーネーション革命かくめいこり、植民しょくみん維持いじつよ主張しゅちょうした従来じゅうらい保守ほしゅ独裁どくさい体制たいせい崩壊ほうかいすると、ひがしティモールでも政治せいじ活動かつどう自由じゆうされる。まずポルトガルとの関係かんけい維持いじかかげるティモール民主みんしゅ同盟どうめい(UDT)[注釈ちゅうしゃく 1]発足ほっそくし、つづいて左派さははん植民しょくみん主義しゅぎのティモール社会しゃかい民主みんしゅ協会きょうかい(ASDT、9月にひがしティモール独立どくりつ革命かくめい戦線せんせんFRETILIN(フレティリン)と改称かいしょう)が即時そくじ完全かんぜん独立どくりつ要求ようきゅう[注釈ちゅうしゃく 2]おくれてインドネシアとの統合とうごう主張しゅちょうするティモール民主みんしゅ人民じんみん協会きょうかい(APODETI、アポデティ)[注釈ちゅうしゃく 3]ちあげられ、主要しゅよう3政党せいとうとして旗揚はたあげした[11][12][13]

ひがしティモールでは、1974ねん9がつにUDTが独立どくりつ支持しじ方針ほうしん転換てんかんし1975ねん初頭しょとうからフレティリンと共同きょうどう戦線せんせんっていたが、相互そうご不信ふしん同盟どうめい指導しどう人事じんじ問題もんだい決裂けつれつしていた。1975ねん8がつ11にち、UDTはポルトガル総督そうとく相手あいてクーデターおこなう。これにたいしてフレティリンは軍事ぐんじ部門ぶもんひがしティモール民族みんぞく解放かいほうぐん」(Forças Armadas da Libertação Nacional de Timor-Leste、FALINTIL)を組織そしきし、撤退てったいしたポルトガルぐん武器ぶき回収かいしゅうして武装ぶそう、UDTがわ内戦ないせん開始かいしした[14][15]状況じょうきょう制御せいぎょできなくなったポルトガルがわディリ放棄ほうきし8がつ下旬げじゅんアタウロとう退避たいひ、10がつはじめにはポルトガル本国ほんごくから派遣はけんされた軍艦ぐんかん本国ほんごくへと帰還きかんした。

これらのうごきは、ひがしティモールの領有りょうゆうけん主張しゅちょう反共はんきょう主義しゅぎ国是こくぜとするインドネシアのスハルト政権せいけんにとっては容認ようにんできず、アポデティやUDTない反共はんきょうなど、はんフレティリンの右派うは勢力せいりょくつうじた介入かいにゅう強化きょうかした。

インドネシアによる占領せんりょう[編集へんしゅう]

インドネシアからの独立どくりつデモ

1975ねん11月28にち右派うは勢力せいりょく連携れんけいしたインドネシアぐん特殊とくしゅ部隊ぶたい西にしティモールから侵攻しんこう開始かいしするなか、フレティリンが首都しゅとディリでひがしティモール民主みんしゅ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんおこなう。よく29にち、インドネシアぐんひがしティモール全土ぜんど制圧せいあつし、30にちにはアポデティ指導しどうそうなどからなるしんインドネシア併合へいごう承認しょうにんする「バリボ宣言せんげん」をした(国連こくれんはこれをみとめず)。12月7にち、インドネシアはひがしティモールにたいする全面ぜんめん侵攻しんこう「スロジャ作戦さくせん開始かいし12月12にちには国連こくれん安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいがインドネシアの即時そくじ撤退てったいもとめる決議けつぎ可決かけつした。1976ねん7がつ17にち、インドネシアが27番目ばんめしゅうとして併合へいごう宣言せんげんおこなう。国連こくれん総会そうかいではこの侵攻しんこう占領せんりょう非難ひなんする決議けつぎただちに採択さいたくされたが、おうべいごうなどの主要しゅようこく反共はんきょう立場たちばをとるインドネシアとの関係かんけい重視じゅうしし、併合へいごう事実じじつじょう黙認もくにんした。

インドネシアが併合へいごうした時点じてん状況じょうきょうは、主食しゅしょくコメトウモロコシ大半たいはんはインドネシア国内こくないからの移入いにゅうたよっていた。インドネシア自体じたいべい不足ふそく輸入ゆにゅうたよっていた状況じょうきょうであり、1978ねん以降いこう西部せいぶのマリアナ一帯いったい灌漑かんがい事業じぎょうすすめられるなど食料しょくりょう自給じきゅう体制たいせい向上こうじょうすすめられた。また、文盲もんもうりつが93%と高率こうりつであったため、インドネシアがわから教師きょうし派遣はけんされ[16]結果けっかてき文化ぶんかめん同一どういつすすんだ。

1977ねんにはインドネシアぐん包囲ほうい殲滅せんめつ作戦さくせん展開てんかい。スハルト政権せいけんひがしティモールの抵抗ていこうたいしてはげしい弾圧だんあつくわえたため、とく占領せんりょう直後ちょくごから1980年代ねんだいまでにおおくの人々ひとびと殺戮さつりく飢餓きがによりいのちとした。インドネシア占領せんりょういのちうしなったひがしティモールじんは20まんにんにのぼるとわれている。1991ねん平和へいわてきなデモたいにインドネシアぐん差別さべつ発砲はっぽうし、400にんちかくをころしたサンタクルス事件じけんは、住民じゅうみん大量たいりょう殺戮さつりく事件じけんとして世界せかいてきられることになった。また、官吏かんり教員きょういんなどを派遣はけんして徹底てっていした「インドネシア」も推進すいしんした。フレティリンの軍事ぐんじ部門ぶもんであるファリンテルは民族みんぞく抵抗ていこう革命かくめい評議ひょうぎかい(CRRN)の主要しゅようメンバーとなり、シャナナ・グスマン議長ぎちょうになったが、インドネシア政府せいふはグスマンを逮捕たいほ抵抗ていこう運動うんどうおさんだ。1996ねん12月、ノーベル平和へいわしょう現地げんちカトリック教会きょうかいベロ司教しきょうおよび独立どくりつ運動うんどうジョゼ・ラモス=オルタおくられた。

1998ねんにインドネシアでの民主みんしゅ運動うんどうでスハルト政権せいけん崩壊ほうかいすると、後任こうにんハビビ大統領だいとうりょうひがしティモールにかん特別とくべつ自治じちけん付与ふよ住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしすることできゅう宗主そうしゅこくのポルトガルと同意どういした。

国連こくれん暫定ざんてい統治とうち[編集へんしゅう]

1999ねん5がつ、インドネシア、ポルトガルと国連こくれんひがしティモールの住民じゅうみん投票とうひょう実施じっし枠組わくぐみにかんする合意ごうい文書ぶんしょ調印ちょういん(ニューヨーク合意ごうい)。6月、国際こくさい連合れんごうひがしティモール・ミッション(UNAMET)が派遣はけんされる。8月30にち独立どくりつかんする住民じゅうみん投票とうひょうおこなわれた(投票とうひょうりつ98.6%)。9月4にち発表はっぴょうされた投票とうひょう結果けっかでは、自治じち拒否きょひ78.5%で、特別とくべつ自治じちけん提案ていあん拒否きょひされたことで独立どくりつ事実じじつじょう決定けってい。9月7にち、インドネシア治安ちあん当局とうきょくひがしティモールに非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発令はつれいし、国軍こくぐん5,500にん増兵ぞうへいしインドネシア併合へいごう維持いじ武装ぶそう勢力せいりょく民兵みんぺい)を使つかって破壊はかい虐殺ぎゃくさつおこなう。9月12にち、インドネシアが国連こくれん平和へいわ維持いじぐんれを容認ようにんし、オーストラリアぐん主力しゅりょくとする国籍こくせきぐんひがしティモール国際こくさいぐん、INTERFET)が派遣はけんされた(ひがしティモール紛争ふんそう)。その結果けっか暴力ぼうりょく行為こうい収拾しゅうしゅうしたが、おおくの難民なんみん西にしティモールにのがれ、あるいは強制きょうせいてきられたりした。10月には、国際こくさい連合れんごうひがしティモール暫定ざんてい行政ぎょうせい機構きこう(UNTAET)が設立せつりつ、2002ねん独立どくりつまでひきいた。

独立どくりつ平和へいわ構築こうちく活動かつどう

その制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょではフレティリンが圧勝あっしょうし、大統領だいとうりょうにはシャナナ・グスマン首相しゅしょうにはマリ・アルカティリ選出せんしゅつされ、2002ねん5がつ20日はつか独立どくりつ式典しきてんおこなった。独立どくりつ国連こくれん国際こくさい連合れんごうひがしティモール支援しえんだん(UNMISET)を設立せつりつ独立どくりつくにづくりの支援しえんおこなった。このなかで、日本にっぽん自衛隊じえいたい国連こくれん平和へいわ維持いじ活動かつどう(PKO)として派遣はけんされ、国連こくれん協力きょうりょくして活動かつどうおこなった。2005ねんには、国連こくれん平和へいわ構築こうちくミッション、UNOTIL(国連こくれんひがしティモール事務所じむしょ)が設立せつりつされた。

独立どくりつ混乱こんらん[編集へんしゅう]

2006ねん4がつ西部せいぶ出身しゅっしん軍人ぐんじんやく600にん昇級しょうきゅう給料きゅうりょう東部とうぶ出身しゅっしんしゃとのあいだ差別さべつがあるとして待遇たいぐう改善かいぜん差別さべつ廃止はいしもと抗議こうぎし、ストライキこしたが、政府せいふはストライキ参加さんかしゃ全員ぜんいん解雇かいこした[注釈ちゅうしゃく 4]国軍こくぐん内部ないぶ問題もんだいとして、将兵しょうへいおおくがきゅうファリンティル構成こうせいいんからなっており、政治せいじてき信頼しんらいせいによってあたらしい国軍こくぐんでの階級かいきゅうがつけられたこと、および西部せいぶ出身しゅっしんしゃ独立どくりつ運動うんどうにおいて相対そうたいてき消極しょうきょくてきであり、一部いちぶインドネシア国軍こくぐんから移籍いせきしてきていたことなどが背景はいけいにあった[注釈ちゅうしゃく 5][17][18]

これを不服ふふくとした参加さんかしゃがわが5がつ下旬げじゅん蜂起ほうき国軍こくぐんとのあいだ戦闘せんとう勃発ぼっぱつした。ところが、鎮圧ちんあつおもむいた警察けいさつ国軍こくぐん一部いちぶがスト参加さんかしゃ同調どうちょうして反旗はんきひるがえし、警察けいさつしょ襲撃しゅうげきして死者ししゃたため、おびえた警察官けいさつかん職務しょくむ放棄ほうき。また若者わかもの中心ちゅうしん暴徒ぼうとしてディリは混乱こんらんした。治安ちあん維持いじ不可能ふかのうとなった政府せいふ5月24にちにオーストラリア・マレーシアニュージーランドポルトガル治安ちあん維持いじぐん派遣はけん要請ようせいし、翌日よくじつにはひがしティモールへの利権りけん確保かくほすることを意図いとしたオーストラリアぐん早速さっそく展開てんかいし、その4かこくによる治安ちあん維持いじおこなわれた。

事件じけん全体ぜんたい背景はいけいとして、東部とうぶ住民じゅうみん西部せいぶ住民じゅうみん軋轢あつれき若者わかもの失業しつぎょうりつたかさがげられている。また、アルカティリ首相しゅしょう独善どくぜんてき姿勢しせい国連こくれん活動かつどう終了しゅうりょうはやすぎた可能かのうせい指摘してきされている。

オーストラリアぐん反乱はんらんぐん指揮しきする少佐しょうさ接触せっしょくし、少佐しょうさ武装ぶそう解除かいじょ命令めいれいによって6がつなかばに蜂起ほうき終結しゅうけつしたが、暴徒ぼうとほうはん政府せいふデモとなり、グスマン大統領だいとうりょう忠告ちゅうこくによって、アルカティリ首相しゅしょう辞任じにんまれた。ディリはなか戦場せんじょうし、住民じゅうみんのほとんどは難民なんみんとなって郊外こうがい脱出だっしゅつした。治安ちあん維持いじぐんによって年内ねんない暴動ぼうどう鎮圧ちんあつされたが、オーストラリア政府せいふ支援しえんによる警察けいさつ再建さいけんなど、治安ちあん回復かいふくには時間じかんがかかるとおもわれる。

暴動ぼうどうけ、同年どうねん8がつには国際こくさい連合れんごうひがしティモール統合とうごうミッション(UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT)が設立せつりつ平和へいわ構築こうちくミッションから、ふたた平和へいわ維持いじ活動かつどうへと逆戻ぎゃくもどりした。

2007ねん1がつ13にちフランスとともに東南とうなんアジア友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやく(TAC))に締結ていけつした。この条約じょうやく東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN)加盟かめいひがしアジアサミット参加さんかへの条件じょうけんとされており、締結ていけつこくあいだ主権しゅけん尊重そんちょう内政ないせい不干渉ふかんしょう紛争ふんそう平和へいわてき解決かいけつうたうものである。ひがしティモールは2007ねんないのASEAN加盟かめい目指めざしていたが、国内こくない事情じじょう混乱こんらんもあって実現じつげんしなかった。その、2011ねんにASEAN加盟かめい申請しんせいし、2017ねん時点じてんでも交渉こうしょうちゅうである[19]

2007ねん8がつ8にち与党よとうフレティリンが下野げやし、グスマン連立れんりつ政権せいけん発足ほっそく前後ぜんごより、フレティリンの熱狂ねっきょうてき支持しじしゃ暴徒ぼうとし、首都しゅとディリなどで民家みんかなどへの放火ほうか投石とうせき多発たはつしている。また8がつ10日とおかには、東部とうぶのバウカウけん国連こくれん平和へいわ維持いじ活動かつどうたずさわる国連こくれん警察けいさつ車列しゃれつ発砲はっぽうけ、車両しゃりょう1だいやされた。ビケケけんではども1にん暴動ぼうどうまれ死亡しぼう数日すうじつあいだに100めい以上いじょう逮捕たいほしゃた。バウカウ・ビケケりょうけんは、フレティリン支持しじしゃおおい。8月12にちには、国連こくれん警察けいさつひがしティモール警察けいさつ国籍こくせき治安ちあん部隊ぶたい(おもにごうぐん)、ひがしティモール国軍こくぐんにより暴動ぼうどう沈静ちんせいした。

2008ねん2がつ11にち、ラモス=オルタ大統領だいとうりょうやグスマン首相しゅしょうが2006ねん国軍こくぐん反乱はんらん以降いこうはん政府せいふ勢力せいりょくとなったアルフレド・レイナド英語えいごばん少佐しょうさ指揮しき武装ぶそう集団しゅうだん襲撃しゅうげきされた。このさいにレイナドは死亡しぼうし、ラモス=オルタは重傷じゅうしょうったがオーストラリアの病院びょういんでの治療ちりょうにより一命いちめいめた。ラモス=オルタ大統領だいとうりょうは4がつ17にち職務しょくむ復帰ふっきし、襲撃しゅうげき事件じけんともな非常ひじょう事態じたいれいも5月8にち解除かいじょされた。国連こくれんによるUNMITは2009ねん延長えんちょうされたが、同年どうねん3がつには国家こっか警察けいさつへの権限けんげん移譲いじょう開始かいしされ、混乱こんらん徐々じょじょ収束しゅうそくしつつある[20]

この一連いちれん独立どくりついた記録きろくが、2013ねんユネスコ記憶きおく遺産いさん登録とうろくされた[21]

政治せいじ[編集へんしゅう]

国会こっかい議事堂ぎじどう

国家こっか元首げんしゅ大統領だいとうりょうは、しゅとして象徴しょうちょうてき役割やくわりたすにすぎないが、立法りっぽうたいする拒否きょひけんつ。国民こくみん選挙せんきょによってえらばれ、任期にんきは5ねん行政府ぎょうせいふちょうである首相しゅしょうは、議会ぎかいでの選出せんしゅつ大統領だいとうりょう任命にんめいする。2023ねん現在げんざい大統領だいとうりょうだい5だいもと首相しゅしょうジョゼ・ラモス=ホルタが、首相しゅしょうだい7だいもと大統領だいとうりょうシャナナ・グスマンつとめている。

立法府りっぽうふは、一院制いちいんせい国民こくみん議会ぎかいで、定数ていすうは、52以上いじょう65以下いか範囲はんい法律ほうりつによってさだめられる。現在げんざいは65。

ただし、だい1のみは特例とくれいとして88議席ぎせき議員ぎいんは、国民こくみん選挙せんきょによって選出せんしゅつされ、任期にんきは5ねん。2007ねん6がつ30にちおこなわれた選挙せんきょでは、ひがしティモール独立どくりつ革命かくめい戦線せんせん(フレティリン)が21議席ぎせきひがしティモール再建さいけん国民こくみん会議かいぎ(CNRT)が18議席ぎせき、ティモール社会しゃかい民主みんしゅ連合れんごう社会しゃかい民主党みんしゅとう統一とういつ連合れんごうが11議席ぎせき民主党みんしゅとうが8議席ぎせき、ほかに3つの政党せいとう統一とういつ連合れんごうけい7議席ぎせき獲得かくとくし、ひがしティモール再建さいけん国民こくみん会議かいぎ中心ちゅうしんとするはんフレティリン連立れんりつ政権せいけん樹立じゅりつ合意ごういされた。ひがしティモールの政党せいとう参照さんしょうのこと。

独立どくりつのフレティリンは左派さはしょくうすめ、資本しほん主義しゅぎこくとの関係かんけい重視じゅうししている。独立どくりつ直後ちょくごの2002ねん7がつにはポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたい加盟かめいしている。また、インドネシアとの外交がいこう関係かんけい安定あんてい志向しこうし、東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN)へのオブザーバー資格しかく獲得かくとく正式せいしき加盟かめい模索もさくしているが、独立どくりつ戦争せんそう以来いらいしょ問題もんだい解決かいけつおおのこり、経済けいざいてき格差かくさおおきいため、まだ正式せいしき加盟かめい交渉こうしょうにはいたっていない。

2006ねん6がつ23にち、シャナナ・グスマン大統領だいとうりょうから辞任じにんもとめられていたアルカティリ首相しゅしょう辞任じにん表明ひょうめいした。26にち、アルカティリ首相しゅしょうは、グスマン大統領だいとうりょう正式せいしき辞表じひょう提出ていしゅつ受理じゅりされた。首相しゅしょう首都しゅとディリ市内しない公邸こうてい辞任じにん表明ひょうめいげると市民しみん歓迎かんげいし、騒乱そうらん収拾しゅうしゅう事態じたい正常せいじょうへの期待きたいたかめた。7月8にち、グスマン大統領だいとうりょうは、ぜん首相しゅしょう後任こうにんノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうしゃジョゼ・ラモス=オルタ前外相ぜんがいしょうけん国防こくぼうしょう任命にんめいした。ぜん首相しゅしょう与党よとうのフレティリンがしたダ・シルバ農相のうしょうだいいちふく首相しゅしょうに、デ・アラウジョ保健ほけんしょうだいふく首相しゅしょう起用きようする。

2006ねん7がつ14にち、オルタないかく就任しゅうにん宣誓せんせいしき首都しゅとディリでおこなわれ、どう内閣ないかく正式せいしき発足ほっそくした。14閣僚かくりょうのうち6にん新任しんにんで、のこりの6にんぜん内閣ないかくからの再任さいにんである。国防こくぼうしょうはオルタ首相しゅしょう自身じしんつとめる。オルタ首相しゅしょう任期にんき翌年よくねん5がつそう選挙せんきょまで。オルタ首相しゅしょう施政しせい方針ほうしん演説えんぜつで、アジアの最貧さいひんこくであるひがしティモールの経済けいざいをインフラ建設けんせつなどをつう底上そこあげし、復興ふっこう目指めざすと表明ひょうめいした。

2007ねん4がつ9にちひがしティモール大統領だいとうりょう選挙せんきょおこなわれた。これは2002ねん独立どくりつ以後いごはじめての国政こくせい選挙せんきょとなった。登録とうろく有権者ゆうけんしゃすうやく52まんにん独立どくりつ運動うんどう指導しどうしゃノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうしゃラモス・オルタ首相しゅしょう(シャナナ・グスマン大統領だいとうりょう当時とうじ)に支持しじされている)、きゅう与党よとうひがしティモール独立どくりつ革命かくめい戦線せんせん(フレティリン)のフランシスコ・グテレス通称つうしょうル・オロ)国会こっかい議長ぎちょう野党やとう民主党みんしゅとうのフェルナンド・ラマサ党首とうしゅら8にん立候補りっこうほしたが、4がつ18にち選挙せんきょ管理かんり委員いいんかい過半数かはんすう候補こうほがいなかったとして、1のグテレスと2のオルタりょう候補こうほによる決選けっせん投票とうひょう実施じっしすると発表はっぴょうした。得票とくひょうりつはそれぞれ27.89%、21.81%で、投票とうひょうりつは81.79%だった。5月9にち決選けっせん投票とうひょうおこなわれ、即日そくじつ開票かいひょう作業さぎょうおこなわれた。そして、ラモス・オルタがせいし、5がつ20日はつかだい2だい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

2007ねん6月30にちおこなわれた議会ぎかい選挙せんきょでは、グスマン党首とうしゅひきいるひがしティモール再建さいけん国民こくみん会議かいぎ(CNRT)が18議席ぎせき獲得かくとくし、議会ぎかいだい2とう躍進やくしんひがしティモール独立どくりつ革命かくめい戦線せんせんはかろうじてだい1とうであったが、65議席ぎせきちゅう21議席ぎせき大幅おおはば議席ぎせきらした。これはぜん大統領だいとうりょうシャナナ・グスマンがCNRTを結成けっせいして選挙せんきょいどんだからにほかならない。ラモス・オルタ大統領だいとうりょう与野党よやとうによる挙国一致きょこくいっちないかく目指めざしたが、フレティリンのマリ・アルカティリ書記しょきちょうはこれにこととなえた。いったんはそのかんがえをれたが、CNRTひきいる野党やとう連合れんごうとフレティリンは、なん週間しゅうかん論争ろんそうかえしたが合意ごういにはいたらなかった。これにより、ラモス・オルタ大統領だいとうりょうは、はんフレティリン野党やとう連合れんごう(37議席ぎせき)による連立れんりつ政権せいけん組閣そかくすることを決断けつだん。8月6にちにグスマン党首とうしゅ首相しゅしょう指名しめい組閣そかく指示しじ、8がつ8にちにグスマンは首相しゅしょう就任しゅうにんした。これにたいして、首相しゅしょうだい1とうからすとさだめたひがしティモールの憲法けんぽう違反いはんするとして、アルカティリが法的ほうてき手段しゅだんたたかうとべ、首相しゅしょう就任しゅうにん宣誓せんせいしき出席しゅっせきをボイコット、フレティリンはラモス・オルタ大統領だいとうりょう決定けってい非難ひなんした。そのうえ、議長ぎちょうもフレティリンではなく、連立れんりつんだ民主党みんしゅとうのアラウジョ党首とうしゅ就任しゅうにんした。しかし、連立れんりつ政権せいけんはんフレティリンで一致いっちしているだけで、初代しょだい大統領だいとうりょうとしてくに混乱こんらんまねいた責任せきにんまぬかれないというグスマンへの個人こじん批判ひはんべるものもいるという側面そくめんもある。連立れんりつ政権せいけんはCNRT、社会しゃかい民主党みんしゅとう民主党みんしゅとうなど4とうふく首相しゅしょうにグテレス。外相がいしょう社会しゃかい民主党みんしゅとう幹部かんぶのダコスタ。なお、グテレスはフレティリンはん主流しゅりゅう議会ぎかい選挙せんきょでは「フレティリン改革かいかく」を組織そしきし、CNRT支援しえんまわった。

2012ねん7がつ7にち議会ぎかい選挙せんきょではCNRTがだい1とうとなり、フレティリンはだい2とう転落てんらくした。首相しゅしょうつづきシャナナ・グスマンがになうこととなった。一方いっぽう同年どうねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、もと国軍こくぐん司令しれいかん(そのさらにまえはファリンティル司令しれいかん)のタウル・マタン・ルアクがCNRTの支持しじのもと無所属むしょぞくから出馬しゅつばし、決選けっせん投票とうひょうをへてフレティリンのフランシスコ・グテレスを退しりぞ当選とうせん5月12にち就任しゅうにんした。現職げんしょくのラモス・オルタはだい1かい投票とうひょうで3にとどまり、再選さいせんのがした。

2015ねん1がつ、シャナナ・グスマンは首相しゅしょう辞任じにんすると発表はっぴょう翌月よくげつになって正式せいしき辞職じしょくした。首相しゅしょうしょくルイ・マリア・デ・アラウジョいだ。なお、グスマンは3がつ閣僚かくりょうとして政権せいけん復帰ふっきしている。

2017ねん5がつ20日はつか大統領だいとうりょう選挙せんきょおこなわれた。現職げんしょくのタウル・マタン・ルアクは出馬しゅつばせず、みずか新党しんとう人民じんみん解放かいほうとう英語えいごばん(PLP)をげていたため、つづいておこなわれる議会ぎかい選挙せんきょから首相しゅしょうねらっているとうわさされた[22]選挙せんきょではフレティリンにぞくするフランシスコ・グテレスが大差たいさ大統領だいとうりょうった。

一方いっぽう議会ぎかい選挙せんきょではシャナナ・グスマンひきいるCNRTとマリ・アルカティリひきいるフレティリンがそれぞれだい1とうだい2とうとなったが、議席ぎせきはわずか1であり、首相しゅしょう指名しめいされたアルカティリは民主党みんしゅとう連立れんりつんで少数しょうすう与党よとうとして出発しゅっぱつした[23]。しかし予算よさんあんとおすことができず、膠着こうちゃく状態じょうたいつづいたため、グテレス大統領だいとうりょう議会ぎかい解散かいさんそう選挙せんきょ宣言せんげんした[24]投票とうひょう2018ねん5月12にちおこなわれ、CNRTやPLPによる政党せいとう連合れんごう変化へんか進歩しんぽのための同盟どうめい(AMP)」がだい1勢力せいりょくとなった。PLPをひきいるタウル・マタン・ルアクが首相しゅしょう指名しめいされ、6月22にち正式せいしきにアルカティリをいで首相しゅしょう就任しゅうにんした。

対外たいがい関係かんけい軍事ぐんじ[編集へんしゅう]

独立どくりつしてあさ小国しょうこくであるため、隣国りんごくインドネシアをはじめとする東南とうなんアジア諸国しょこく、オーストラリアのほか、この地域ちいきおおきな影響えいきょうりょく日本にっぽん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの良好りょうこう関係かんけいきずき、国家こっかとしての存立そんりつ発展はってん目指めざしている。ASEAN加盟かめいは2017ねん時点じてん実現じつげんしていないが、アラウジョ首相しゅしょうは「我々われわれ準備じゅんびができている」「ポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたい議長ぎちょうこくとしておおくの国際こくさい会議かいぎ主催しゅさいした」として、早期そうき加盟かめい目指めざ方針ほうしんしめしている[25]

独立どくりつ直後ちょくご日本にっぽんからの政府せいふ開発かいはつ援助えんじょ(ODA)がおおきな役割やくわりたしたが、近年きんねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく経済けいざい支援しえんインフラ整備せいび急速きゅうそく存在そんざいかんしている[26]たいちゅう接近せっきん背景はいけいには、経済けいざいささえるティモールかい既存きそん油田ゆでんすうねんない枯渇こかつするとの危機ききかんがある。2016ねんには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく海軍かいぐん艦艇かんていはじめて首都しゅとディリに寄港きこうした[27]。オーストラリアとは後述こうじゅつのように、ティモールかい資源しげん権益けんえきをめぐる紛争ふんそうかかえる。

2001ねんひがしティモール国防こくぼうぐん創設そうせつしており、陸軍りくぐん兵力へいりょく1,250にん)と海軍かいぐん兵力へいりょく80にん)を保有ほゆうする[28]

地理ちり自然しぜん[編集へんしゅう]

ひがしティモールは環太平洋かんたいへいよう火山かざんたい環太平洋かんたいへいよう造山つくりやまたい)の一部いちぶしょうスンダ列島れっとうぞくするティモールとう東部とうぶ位置いちしており、全土ぜんどやく6わり山岳さんがく地帯ちたいとなっている。最高峰さいこうほうは2,963メートルのタタマイラウさん(ラメラウさん)。高温こうおん多湿たしつ熱帯ねったいせい気候きこうだが、乾季かんき雨季うき区別くべつがある。動植物どうしょくぶつ固有こゆうしゅ多数たすう存在そんざいし、北部ほくぶ海岸かいがんにはサンゴ礁さんごしょう発達はったつしている。

地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく[編集へんしゅう]

ひがしティモールの行政ぎょうせい区画くかく
ティモールとう地図ちず

13けんと1特別とくべつ行政ぎょうせいからる。国土こくど北部ほくぶ沿岸えんがん中心ちゅうしんとするディリ地方ちほうしま東端ひがしばたバウカウ地方ちほう国土こくど中央ちゅうおうサメ地方ちほう、インドネシアとの境界きょうかいせん付近ふきんマリアナ地方ちほうであるオエクシ地方ちほうおおきくグループけされる。

ディリ地方ちほう
ディリけん - (ディリ
マナトゥトけん - (マナトゥト英語えいごばん
リキシャけん - (リキシャ英語えいごばん
アタウロけん - (アタウロとう):2022ねん創設そうせつ
バウカウ地方ちほう
バウカウけん - (バウカウ英語えいごばん
ヴィケケけん - (ヴィケケ英語えいごばん
ラウテンけん - (ロスパロス
サメ地方ちほう
アイナロけん - (アイナロ英語えいごばん
アイレウけん - (アイレウ英語えいごばん
マヌファヒけん - (サメ英語えいごばん
マリアナ地方ちほう
エルメラけん - (グレノ英語えいごばん
コバリマけん - (スアイ英語えいごばん
ボボナロけん - (マリアナ
オエクシ地方ちほう
オエクシ=アンベノ特別とくべつ行政ぎょうせい - (パンテ・マカッサル):

経済けいざい[編集へんしゅう]

首都しゅとディリ
補助ほじょ通貨つうかのセンタボ

通貨つうかかんしてはアメリカドルによる通貨つうか代替だいたい英語えいごばんドラリゼーション)がおこなわれているが、補助ほじょ通貨つうかとしてセンタボという単位たんい硬貨こうか流通りゅうつうしている。

IMFによると、2018ねんGDPは31おくドル。1人ひとりあたりのGDPは2,435ドルである[3]2011ねんアジア開発銀行あじあかいはつぎんこう公表こうひょうした資料しりょうによると、1にち2ドル未満みまんらす貧困ひんこんそうは77まんにん推定すいていされており、国民こくみん過半数かはんすうめている[29]国際こくさい連合れんごうによる基準きじゅんもとづき、後発こうはつ開発かいはつ途上とじょうこく分類ぶんるいされている[30]

いろ面積めんせきしめしたひがしティモールの輸出ゆしゅつ品目ひんもく(2010ねん

ポルトガルりょう時代じだいは、アンゴラモザンビークなどのほかの植民しょくみん同様どうよう工業こうぎょうがまったくすすまず、自給自足じきゅうじそくてき農業のうぎょう依存いぞんした貧困ひんこん状態じょうたいだった。インドネシアによる統治とうちはじまると社会しゃかい資本しほん整備せいびゆるやかにすすんだが、1999ねん住民じゅうみん投票とうひょう独立どくりつ支持しじ勝利しょうりするとインドネシア併合へいごう維持いじ民兵みんぺい首都しゅとディリ破壊はかいし、経済けいざい壊滅かいめつ状態じょうたいおちいった。しかし、2006ねん混乱こんらん経済けいざい成長せいちょうはじまり、2007ねんから2011ねんにかけては平均へいきん12.1%にもたっするたかいGDP成長せいちょうりつ記録きろくした[20]一方いっぽうで、このGDPのびの大半たいはん石油せきゆ収入しゅうにゅうによるものであり、経済けいざい多角たかくはかることが目標もくひょうとされている[20][31]

石油せきゆ天然てんねんガスによる収入しゅうにゅうは2011ねん時点じてんじつにGDPの8わりたっしており[20]、IMFはひがしティモールの経済けいざいを「世界せかいでもっとも石油せきゆ収入しゅうにゅう依存いぞんした経済けいざい」とひょうしている[31]石油せきゆ以外いがい主要しゅよう産業さんぎょう農業のうぎょうで、べいやトウモロコシ、コーヒーまめなどが生産せいさんされている[20]。コーヒーはフェアトレード商品しょうひんとして人気にんきがある。かつての独立どくりつ闘争とうそう影響えいきょうのこり、べいやトウモロコシの主食しゅしょく近隣きんりん諸国しょこくからの輸入ゆにゅう依存いぞんしている。

ティモール・ギャップ英語えいごばん
赤色あかいろ海域かいいきひがしティモールの領域りょういき黄色おうしょく海域かいいきがオーストラリアの領域りょういきピンク色ぴんくいろ海域かいいき共有きょうゆう領域りょういきである。

石油せきゆ南方なんぽうのティモールかい海底かいてい油田ゆでんより産出さんしゅつされている。隣国りんごくで、ひがしティモールへの影響えいきょうりょく獲得かくとくしようとしているオーストラリアとの境界きょうかいせん確定かくてい課題かだいだが、ひがしティモールがわはインドネシア政府せいふむすんだ境界きょうかいせん見直みなおしをもとめ、交渉こうしょう難航なんこうしている。しかし、確定かくていとはべつ両国りょうこく共同きょうどう石油せきゆ開発かいはつエリア (JPDA:Joint Petroleum Development Area) をさだめ (Timor Gap Treaty, Sunrise International Unitization Agreement, Timor Sea Treaty)、収入しゅうにゅうの90%をひがしティモールに、10%をオーストラリアにわたすこととなった。2007ねんからは原油げんゆ採掘さいくつともな税収ぜいしゅうロイヤルティー収入しゅうにゅう計上けいじょうされ (Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea)、その収入しゅうにゅう集約しゅうやくするためにひがしティモール政府せいふ設立せつりつした「石油せきゆ基金ききん」(2010ねんまつ時点じてんやく69おくドル[32])を利用りようした国家こっか予算よさん計上けいじょうできるようになっている。最初さいしょ事業じぎょうはグレーターサンライズ・ガス開発かいはつである。

また、2009ねん3がつにはグスマン首相しゅしょう日本にっぽん訪問ほうもんし、日本にっぽん麻生あそう太郎たろう首相しゅしょうとのあいだで「日本にっぽんひがしティモールとのあいだ共同きょうどうプレスステートメント」を発表はっぴょうした。そのなか日本にっぽん無償むしょう資金しきん援助えんじょひがしティモールにたいしておこない、ひがしティモールの円滑えんかつなASEAN加盟かめい支援しえんすることを表明ひょうめいした[33]

交通こうつう[編集へんしゅう]

ひがしティモールでは、くに貧困ひんこん問題もんだい貧弱ひんじゃくインフラ、まばらな通信つうしん情報じょうほうもうのために、交通こうつう機関きかん減少げんしょう一途いっと辿たどっている問題もんだいてんげられる。

わんこうディリこう英語えいごばんティバー・ベイこう英語えいごばん代表だいひょうとなっている。

国民こくみん[編集へんしゅう]

民族みんぞく[編集へんしゅう]

住民じゅうみんメラネシアじんだい部分ぶぶんである。その華僑かきょうきゃく)、しるしインドけい移民いみん)、ハーフカストポルトガルじんとメラネシアじん混血こんけつ)、ごく少数しょうすうカーボベルデなどアフリカけい移民いみんなどが存在そんざいする。

ひがしティモールの言語げんご分布ぶんぷ

言語げんご[編集へんしゅう]

言語げんごテトゥンポルトガル公用こうようである[34]現在げんざいは、マカサエ英語えいごばんファタルク英語えいごばんなどのパプア諸語しょごトランスニューギニア語族ごぞく)とテトゥンマンバイ英語えいごばんなどのオーストロネシア語族ごぞく中心ちゅうしんはなされている[7]。そのほか、インドネシア統治とうち教育きょういくけた1960年代ねんだい - 1980年代ねんだいなかばにかけてまれた世代せだい国民こくみん中心ちゅうしんインドネシア使つかわれている。独立どくりつ世代せだいあいだ使用しようできる言語げんごことなっていることが問題もんだいとなっている[33]ひがしティモールは独立どくりつの2002ねんからポルトガル諸国しょこく共同きょうどうたい(CPLP)に加盟かめいしている。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

ディリ郊外こうがいファツカマみさきのキリストぞう

キリスト教きりすときょう信徒しんと国民こくみんの99.1%をめており、アジアではフィリピンならびキリストきょう信仰しんこうさかんなくにである。キリスト教徒きりすときょうと大半たいはんローマ・カトリックぞくし、それ以外いがいプロテスタント諸派しょはぞくしている。キリストきょう以外いがい宗教しゅうきょう信徒しんと構成こうせいは、イスラム教いすらむきょうが0.7%、そのヒンドゥーきょう仏教ぶっきょうアニミズムなどとなっている。インドネシア統治とうち時代じだいの1992ねん推計すいけいではイスラム教徒きょうと人口じんこうの4%をめていたとされるが、独立どくりつによりインドネシア政府せいふ公務員こうむいんなどがひがしティモールから退去たいきょし、イスラム教徒きょうと比率ひりつ大幅おおはば低下ていかした。一方いっぽう独立どくりつ運動うんどう精神せいしんめんささつづけたカトリック教会きょうかいへの信頼しんらいたかまった。


保健ほけん[編集へんしゅう]

治安ちあん[編集へんしゅう]

ひがしティモールの治安ちあんは2020ねん12月4にち時点じてんにおいて、荒立あらだったうごきなどがきていないため比較的ひかくてき安定あんていしているほうとされている。現在げんざいまでのところ、国内こくないにおける治安ちあん情勢じょうせい顕著けんちょ悪化あっかした状況じょうきょうにはいたっていないものの、今後こんご政治せいじ情勢じょうせい感染かんせんしょうウイルスの国内こくない感染かんせんじょうきょう変化へんか影響えいきょうされ、治安ちあん不安定ふあんていするおそれがあるとられている。

また、格闘技かくとうぎ集団しゅうだん(マーシャル・アーツ・グループ)によるこうそう[注釈ちゅうしゃく 6]散発さんぱつしているほかに、依然いぜんとして殺人さつじん暴行ぼうこう強盗ごうとうなどの犯罪はんざい発生はっせいしているてんから、同国どうこく滞在たいざいする場合ばあい最新さいしん治安ちあん情報じょうほう入手にゅうしゅするなど十分じゅうぶん注意ちゅうい必要ひつようとされている[35]

人権じんけん[編集へんしゅう]

文化ぶんか[編集へんしゅう]

伝統でんとうてき衣装いしょうつつんだひがしティモールの男性だんせい

しょく文化ぶんか[編集へんしゅう]

ひがしティモールにおける調理ちょうり光景こうけい

ひがしティモールの料理りょうりは、豚肉ぶたにくさかなトウモロコシ根菜こんさいトロピカルフルーツなどが食材しょくざいもちいられていることが特徴とくちょうとなっている。

また、バジルなどのこうそうや、タマリンドなどのマメ植物しょくぶつ果実かじつ使つかわれることもある。主食しゅしょくべいである。

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

ひがしティモールの作家さっかには、ルイス・カルドソ英語えいごばんフェルナンド・シルヴァン英語えいごばんポンテ・ペドリーニャホルヘ・バロス・ドゥアルテクリソディオ・アラウホホルヘ・ローテンフランシスコ・ボルジャ・ダ・コスタ英語えいごばんアフォンソ・ブサ・メタンフィトゥン・フイク代表だいひょうされる。

音楽おんがく[編集へんしゅう]

祝祭日しゅくさいじつ[編集へんしゅう]

日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ    
3月〜4がつ せい金曜日きんようび   イースターまえ金曜日きんようび
3月〜4がつ イースター   移動いどう祝日しゅくじつ
5がつ20日はつか 独立記念日どくりつきねんび   2002ねん
8がつ15にち 聖母せいぼ昇天しょうてんさい    
8がつ30にち 住民じゅうみん投票とうひょう記念きねん   1999ねん
9がつ20日はつか 解放かいほう記念きねん   1999ねんのINTERFET(国連こくれん平和へいわ維持いじ活動かつどうたい)による解放かいほう記念きねん
11月1にち しょ聖人せいじん    
11月12にち サンタクルス記念きねん   サンタクルス事件じけん
12月8にち 原罪げんざい宿やど    
12月25にち クリスマス    

スポーツ[編集へんしゅう]

サッカー[編集へんしゅう]

ひがしティモール国内こくないでは、ポルトガルインドネシア統治とうちけた歴史れきしてき経緯けいいなどから、サッカー圧倒的あっとうてきに1ばん人気にんきスポーツとなっている。国際こくさいサッカー連盟れんめい(FIFA)はひがしティモール国内こくないに1まん5,500にんサッカー選手せんしゅがおり、そのうち登録とうろく選手せんしゅは500にんであり10の国内こくないクラブが存在そんざいするとしている[36]ひがしティモールサッカー連盟れんめい(FFTL)は2002ねん設立せつりつされ、2003ねん3がつにはサッカーひがしティモール代表だいひょうにとってはつ公式こうしきせんとなる、AFCアジアカップ2004ねん大会たいかい予選よせん実施じっしされた。最初さいしょ試合しあいは2003ねん3がつ21にちスリランカに2-3でやぶれ、つづく3がつ23にちにはチャイニーズタイペイに0-3でやぶれた。FFTLは2005ねん9がつ12にちにFIFA加盟かめいみとめられ[37]現在げんざいアジアサッカー連盟れんめい(AFC)にも加盟かめいしている。国内こくないリーグとしては、2015ねん創設そうせつされたLFAプリメーラ・ディビジョン英語えいごばん存在そんざいしている。

同国どうこく代表だいひょう参加さんかする公式こうしきせん徐々じょじょ増加ぞうかしており、アジアカップは前述ぜんじゅつの2004ねん大会たいかいでは予選よせん参加さんかしたが、2007ねん大会たいかい予選よせん棄権きけんし、AFCないFIFAランキング下位かいのチームが参加さんかするAFCチャレンジカップにも参加さんかしていない。一方いっぽう東南とうなんアジアサッカー選手権せんしゅけんには2004ねんから参加さんかし、2008ねんにはスリランカに2-2でけてどうチーム史上しじょうはつ国際こくさいAマッチでのてん獲得かくとく、2012ねんカンボジア勝利しょうりしておなじくはつ勝利しょうり記録きろくした。また、FIFAワールドカップ予選よせんには2010ねん大会たいかい予選よせんから参加さんか。2010ねん大会たいかい予選よせん2014ねん大会たいかい予選よせんは1予選よせんでそれぞれ香港ほんこんネパールやぶ敗退はいたいしたものの、2018ねん大会たいかい予選よせんではモンゴルやぶってはじめて1予選よせん突破とっぱした(2予選よせんは0しょう2ふん6はい敗退はいたい)。2023ねん時点じてんFIFAランキングでは192[38]で、いわゆる「さい弱国じゃっこく」のひとつとみなされている。

オリンピック[編集へんしゅう]

スポーツ全体ぜんたい統轄とうかつする組織そしきとしては、2003ねん国内こくないオリンピック委員いいんかい(NOC)であるひがしティモールオリンピック委員いいんかい結成けっせいされ、国際こくさいオリンピック委員いいんかい(IOC)やアジアオリンピック評議ひょうぎかい(OCA)に参加さんかした。くに独立どくりつ準備じゅんびちゅうだった2000ねんシドニー大会たいかいではNOC設立せつりつまえだったひがしティモールの選手せんしゅたいして個人こじん参加さんか特例とくれいみとめられ、つぎ夏季かきオリンピックとなった2004ねんアテネ大会たいかいでは、ひがしティモール選手せんしゅだんとしてのはつ参加さんか実現じつげんした。ただし、いままでに五輪ごりん同国どうこく選手せんしゅだんがメダルを獲得かくとくしたことはない。また、2003ねんからは東南とうなんアジア競技きょうぎ大会たいかい参加さんかし、2005ねんには武術ぶじゅつで3つのどうメダルを獲得かくとくした[39]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 植民しょくみん政庁せいちょう役人やくにんやポルトガルじん教会きょうかい支持しじ保守ほしゅそう代弁だいべんした。また、政治せいじ体制たいせい急激きゅうげき変化へんかをおそれるポルトガルけい住民じゅうみん華人かじんらの支持しじあつめた。
  2. ^ 識字しきじ教室きょうしつ保健ほけんプログラムを村落そんらくごとに実施じっし自立じりつ精神せいしん高揚こうようさせた。また教育きょういく言語げんごテトゥン採用さいようもとめた。改称かいしょう過激かげきし、「ひがしティモール唯一ゆいいつ正当せいとう代表だいひょう」と自称じしょうした。
  3. ^ インドネシア統合とうごうでの自治じち主張しゅちょう活動かつどう低調ていちょうだったが、のちにインドネシアの支援しえん武装ぶそうした。
  4. ^ 国軍こくぐんは2012ねん時点じてんでも2,300にんほどしかいない。
  5. ^ やはりインドネシア国家こっか警察けいさつでの経歴けいれきがあるものおおいという理由りゆうで、ひがしティモール国家こっか警察けいさつ国軍こくぐん主流しゅりゅう対立たいりつしていた。
  6. ^ 投石とうせき行為こうい刃物はもの凶器きょうき使用しようした乱闘らんとう事件じけん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 清水しみず健太郎けんたろう (2017ねん5がつ24にち). “ひがしティモール独立どくりつ15ねん 経済けいざい自立じりつ みちとお若者わかもの半数はんすう失業しつぎょう ASEAN加盟かめい熱望ねつぼう”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん (中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ): p. 夕刊ゆうかん 2 
  2. ^ a b UNdata”. 国連こくれん. 2021ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, April 2019” (英語えいご). IMF (2019ねん4がつ). 2019ねん9がつ14にち閲覧えつらん
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  5. ^ How East Timor went from democratic success to failed petro-state”. Nikkei Asia (2020ねん10がつ17にち). 2021ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  6. ^ History”. Government of Timor-Leste. 2021ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  7. ^ a b 山崎やまざきいさお白檀びゃくだんをめぐるティモールのおいたち」/山田やまだみつる編著へんちょひがしティモールをるための50しょう明石書店あかししょてん 2006ねん 16ページ
  8. ^ Schwartz (1994), p. 199.
  9. ^ Deeley, Furness, and Schofield (2001) The International Boundaries of East Timor p. 8
  10. ^ 山崎やまざきいさお近代きんだいナショナリズムと「植民しょくみん支配しはい」/山田やまだみつる編著へんちょひがしティモールをるための50しょう明石書店あかししょてん 2006ねん 20-22ページ
  11. ^ 松野まつの明久あきひさ「ポルトガルでもインドネシアでもなく」/山田やまだみつる編著へんちょひがしティモールをるための50しょう明石書店あかししょてん 2006ねん 35-38ページ
  12. ^ 木村きむら友彦ともひこひがしティモール併合へいごう戦争せんそう起源きげんとオーストラリアの外交がいこう政策せいさく: 1974ねん-1975ねん」pp.441-496『いちきょう法学ほうがくだい4かんだい3ごう 2005ねん
  13. ^ Commission for Reception, Truth and Reconciliation in East Timor. “Chega! Final Report of the Commission for Reception, Truth and Reconciliation in East Timor – Part 3: The History of the Conflict”. 2017ねん7がつ30にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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