(Translated by https://www.hiragana.jp/)
バントゥー系民族 - Wikipedia コンテンツにスキップ

バントゥーけい民族みんぞく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
バントゥーけい民族みんぞく
サハラ以南いなんのアフリカ(ちゃしょくのエリア)に分布ぶんぷ
そう人口じんこう
やく3おく1せんまんにん
居住きょじゅう地域ちいき
サハラ以南いなんのアフリカ諸国しょこく

バントゥーけい民族みんぞく(Bantu peoples)は、アフリカ言語げんごだいカテゴリであるバントゥーぐんぞくする多様たよう言語げんご使用しようしつつ1つのおおきな言語げんご集団しゅうだんおおくの民族みんぞく総称そうしょうである。このかたりは、現在げんざいカメルーンから中央ちゅうおうアフリカひがしアフリカ横切よこぎみなみアフリカまでのブラックアフリカ分布ぶんぷする、400以上いじょう民族みんぞく(140 - 600[1]以上いじょう言語げんご)にたいする一般いっぱんてき分類ぶんるいとしてもちいられている。バントゥーけい民族みんぞくぞくする民族みんぞくはバントゥーぐんぞくする言語げんご利用りようしているほか、先祖せんぞ伝来でんらい文化ぶんかにも共通きょうつうせいられる。また、バントゥーけい民族みんぞくには1つのかたりぐんながらインド・ヨーロッパ語族ごぞく全体ぜんたい相当そうとうする多様たようせいがある。

語源ごげん

[編集へんしゅう]

おおくのバントゥーぐんぞくする言語げんごにおいて、バントゥー(Bantu)という単語たんごは"じん々"を意味いみする。歴史れきしうえはじめてこのかたりもちいたのはヴィルヘルム・ブレーク博士はかせであり、それは1862ねん出版しゅっぱんされた著書ちょしょ、『A Comparative Grammar of South African Languagesちゅうでのことであった。ブレークは、中央ちゅうおうアフリカ、西にしアフリカひがしアフリカ、みなみアフリカの膨大ぼうだいかず民族みんぞくあいだにおいて共通きょうつうする特徴とくちょう数多かずおおられたことから、これらのしょぞく単一たんいつ語族ごぞくぞくするのではないか、という仮説かせつててとうしょで"Bantu"にかんする言及げんきゅうおこなった。

言語げんごあいだにおける共通きょうつうせい観点かんてんからておそらくもっと顕著けんちょであったのは、バントゥーぐんぞくする言語げんごだい多数たすう言語げんご構成こうせいにおいて、すくなくとも10種類しゅるい以上いじょう名詞めいしクラスしたがって接頭せっとう変化へんかするというてんである。たとえば、ブレークが語形ごけい変化へんかれいとしてげたズールーには、ウムントゥ (umuntuひと)、アバントゥ (abantu人々ひとびと)、ウブントゥ(ubuntu人間にんげんしつ他人たにんへのおもいやり)などの名詞めいし語根ごこん "-ntu" があり、どう一文いちぶんちゅうのそのような名詞めいしかかわる動詞どうし形容詞けいようし以下いかのように名詞めいし一致いっちする。

  • Umuntu omkhulu uhamba ngokushesha (The big person walks quickly:おおきいひと素早すばやあるく)
  • Abantu abakhulu bahamba ngokushesha (The big people walk quickly:おおきい人々ひとびと素早すばやあるく)

現在げんざい、ブレークの言語げんごがくてき親和しんわせいかんする基本きほんてき主張しゅちょうには、比較ひかく研究けんきゅうほうもちいたおおくの研究けんきゅうによりうらづけがなされている。

起源きげん

[編集へんしゅう]
1 = 紀元前きげんぜん2000ねん - 1500ねん バントゥーけい民族みんぞく起源きげん
2 = 紀元前きげんぜん1500ねんごろ いち度目どめ移動いどう
2.a = ひがしバントゥーぞく 2.b = みなみバントゥーぞく
3 = 紀元前きげんぜん1000ねん - 500ねん ひがしバントゥーぞくウレウェ文化ぶんか中心地ちゅうしんち
4 - 7 = 南進なんしん
9 = 紀元前きげんぜん500ねん - 0ねん コンゴに存在そんざいした中心地ちゅうしんち
10 = 紀元きげん0ねん - 1000ねん 拡大かくだい最終さいしゅう段階だんかい[2][3][4]
ひがしアフリカとみなみアフリカにおける初期しょき鉄器てっき時代じだい時期じき

近年きんねん学術がくじゅつかいにおける一般いっぱん解釈かいしゃくでは、バントゥーけい民族みんぞく祖先そせんである はらバントゥーぞく英語えいごばん(Proto-Bantu)発祥はっしょうは、およそ4000ねんまえ紀元前きげんぜん2000ねん)の現在げんざいナイジェリアカメルーン国境こっきょう南西なんせい付近ふきんであるとかんがえられている。また、バントゥーけい民族みんぞくニジェール・コンゴ語族ごぞくから分岐ぶんきした語族ごぞくであるとなされている[5]。この学説がくせつは、1960年代ねんだいとおしてジョーゼフ・グリーンバーグマルコム・ガスリー英語えいごばん(Malcolm Guthrie)が各々おのおの展開てんかいした2つの理論りろんもとにした議論ぎろん結果けっかからられた。

まず、グリーンバーグはバントゥーぐんふくめた広範囲こうはんい比較ひかく研究けんきゅうもとづき、「バントゥーけい民族みんぞく先祖せんぞとして仮定かていしたはらバントゥーぞく言語げんごがナイジェリア南東なんとう利用りようされていた言語げんごグループとつよ類似るいじせいつこと」をろんじたうえで、「バントゥーけい民族みんぞくはナイジェリア南東なんとう から東方とうほう南方なんぽう移動いどうしたのち、すうひゃくねんかけて拡大かくだいしていったのではないか」と主張しゅちょうした。

一方いっぽう、ガスリーはかくバントゥーぐんあいだ関係かんけいせい比較ひかくつよ焦点しょうてんわせた研究けんきゅうもとづき、「バントゥーけい民族みんぞく中央ちゅうおうアフリカからぜん方向ほうこうへおおよそひとしい速度そくど拡大かくだいしていった」と主張しゅちょうした。しかし、後続こうぞく農業のうぎょう畜産ちくさんにおける借用しゃくよう研究けんきゅうや、ニジェール・コンゴ語族ごぞくかんする広範囲こうはんい研究けんきゅう結果けっか、このガスリーの主張しゅちょう支持しじされがた状況じょうきょうとなっていった。

1990ねん1がつになって、ヤン・ファンサナ英語えいごばん(Jan Vansina)がグリーンバーグの学説がくせつ修正しゅうせい提案ていあんした。それは、「だいだいさんのバントゥーけい民族みんぞく中央ちゅうおうクラスタからの拡大かくだい部分ぶぶんかんしては、ガスリーの中央ちゅうおうノードの着想ちゃくそうちかいものであるようにかんがえられるが、言語げんごぐん創造そうぞうした地域ちいきクラスタは1つだけではなく複数個ふくすうこ存在そんざいした」のではないか、と指摘してきするものであった[6]

バントゥーけい民族みんぞくふく牧畜ぼくちく農業のうぎょう生活せいかつする人々ひとびと拡大かくだいする以前いぜん赤道せきどう以南いなんのアフリカではしん石器せっき時代じだい狩猟しゅりょうものたちが定住ていじゅうしていた。かれらのなかには、現在げんざいはバントゥーぐんぞくする言葉ことばもちいている、ピグミーばれる現代げんだい中央ちゅうおうアフリカにむ"もりひと"の先祖せんぞのほか、現在げんざいカラハリ砂漠さばく周囲しゅうい乾燥かんそう地帯ちたい数少かずすくない現代げんだい狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞく祖先そせんであるはらコイサン語族ごぞく(proto-Khoisan-speaking peoples)などがふくまれている。 また、コイコイじんサンじん子孫しそんだい部分ぶぶんは、現在げんざいみなみアフリカ共和きょうわこくナミビアカラードとしてアフリカーンス英語えいごもちいて生活せいかつしている。タンザニアにおける少数しょうすう民族みんぞくで、狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞくでもあるハヅァぞくサンダウェぞく言語げんごであるハヅァサンダウェは、コイコイサンなどのコイサン語族ごぞく(ただし、コイサン語族ごぞく単一たんいつけいであるという仮説かせつにはおおくの論争ろんそうがあり、この名称めいしょう便宜上べんぎじょう使用しようした)ととお関係かんけいがあるのではないかという提案ていあん数多かずおおくなされている。なに世紀せいきもの期間きかんにわたり、ほとんどの狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞく中央ちゅうおうアフリカ北部ほくぶひがしアフリカから移住いじゅうしてきたバントゥーけい民族みんぞくや、ウバンギアンぐんナイル諸語しょご中部ちゅうぶスーダン諸語しょご語族ごぞくらにいやられ、またまれていった。

なお、現在げんざいのバントゥーけい民族みんぞく地域ちいき数多かずおお存在そんざいする農業のうぎょう牧畜ぼくちくかんする最古さいこ考古学こうこがくてき証拠しょうこは、バントゥーけい民族みんぞく拡大かくだい反映はんえいしていると推定すいていされている[7]

バントゥーけい民族みんぞく拡大かくだい

[編集へんしゅう]

バントゥーけい民族みんぞく拡大かくだいは、すうせんねんながきにわたる物理ぶつりてき移住いじゅうや、どういち地域ちいき民族みんぞくへの言語げんご知識ちしきひろまり、ことなるコミュニティーあいだでの結婚けっこんや、しょう集団しゅうだんによるコミュニティあいだ移動いどうおよび新天地しんてんちへの移動いどうなどをふくめたあたらしい社会しゃかいグループの創設そうせつによるものである。 バントゥーけい民族みんぞくは、農業のうぎょう金属きんぞく加工かこうかんするあらたな方法ほうほう発達はったつさせたことで、新天地しんてんち移住いじゅうするさいにはもりひらはたけつくることで、狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞくよりもたか人口じんこう密度みつどでの生活せいかつ維持いじすることを可能かのうとした。 一方いっぽうで、ひがしアフリカおよびみなみアフリカへ移住いじゅうしたバントゥーけい民族みんぞくは、土地とち接触せっしょくしたほか民族みんぞくから牧畜ぼくちく導入どうにゅうすると、今度こんどはそれを狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞくつたえた。そのために、バントゥーけい民族みんぞく移住いじゅうするすう世紀せいきまえ牧畜ぼくちく文化ぶんかがはるかみなみまでつたわった。

現在げんざい判明はんめいしている考古学こうこがくてき言語げんごがくてき遺伝いでんがくてき証拠しょうこすべてが、バントゥーけい民族みんぞく拡大かくだい人類じんるい移民いみん歴史れきしにおいてもっと重要じゅうよう出来事できごとひとつであることと、このような文化ぶんかてき変質へんしつ過去かこのわずかすうせんねんのうちにしょうじたことを裏付うらづけている。

およそ5000ねんまえ推測すいそくされているバントゥーけい民族みんぞく拡大かくだい開始かいし時期じきは、正確せいかくにははっきりしないが、そのがねとなったのは農耕のうこう文化ぶんかになY染色せんしょくたいハプログループR1bオリエントからカメルーンにやってきて、バンツーぞく農業のうぎょう技術ぎじゅつをもたらしたこととかんがえられる。(R1bは現在げんざいチャドけい民族みんぞくこう頻度ひんどられる。)

3500ねんまえ紀元前きげんぜん1500ねん)に、みなみ西にし)バントゥーぞくのコミュニティが中央ちゅうおうアフリカのだい熱帯ねったい雨林うりん到達とうたつし、2500ねんまえ紀元前きげんぜん500ねん)には先駆せんくてきなグループが現在げんざいコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくアンゴラザンビア位置いちしていたサバンナ南方なんぽう出現しゅつげんしている。

もう一方いっぽうひがしバントゥーぞくは、3000ねんまえ紀元前きげんぜん1000ねん)に、アフリカだい湖沼こしょうちかくにだい規模きぼしん居留きょりゅうつくった。このめぐまれた生活せいかつ環境かんきょうによって、人口じんこう密度みつどたか状況じょうきょうでの生活せいかつささえられた。初期しょき移住いじゅうしゃたちがみずうみ沿岸えんがんかわのそばに広範囲こうはんいわたって定住ていじゅうしたため、みずからとお地域ちいきでは農業のうぎょうおこなうことが相当そうとう困難こんなん状況じょうきょうとなったので、しょう集団しゅうだんによるアフリカだい湖沼こしょうから南東なんとう方面ほうめんへの移住いじゅうがより急速きゅうそくえていった。

その紀元きげん300ねんには先駆せんくてきなグループが現在げんざいみなみアフリカ共和きょうわこくクワズルナタルしゅう海岸かいがん沿いに到達とうたつし、さらに紀元きげん500ねんには、現在げんざいみなみアフリカ共和きょうわこくリンポポしゅうきゅうトランスヴァール共和きょうわこくのあった地区ちく)まで到達とうたつした[8]

14世紀せいきと15世紀せいきあいだに、有力ゆうりょくなバントゥーけい民族みんぞくがアフリカだい湖沼こしょういきや、中央ちゅうおうアフリカ熱帯ねったい雨林うりんみなみのサバンナからあらわはじめ、ザンベジがわなか流域りゅういきではグレートジンバブエから技術ぎじゅついだモノモタパ王国おうこくさかえた。このような国家こっか形成けいせい過程かていは、16世紀せいき以降いこう頻度ひんど増大ぞうだいしていった。これらの国家こっかではおそらく住民じゅうみん人口じんこう密度みつどたか状態じょうたい生活せいかつしていたために、武力ぶりょくふくめて高度こうど専門せんもんした分業ぶんぎょうおこなわれたことにより、それまでの農業のうぎょう牧畜ぼくちくにより生活せいかつしていた時代じだい比較ひかくして移住いじゅうおこなうことが困難こんなんとなった。その一方いっぽうで、アフリカじんコミュニティーやヨーロッパじん沿岸えんがん地域ちいきにおけるスワヒリじんアラブひと貿易ぼうえき商人しょうにんとの取引とりひき増大ぞうだいによる経済けいざい活動かつどう技術ぎじゅつてき発展はってんや、さらには国民こくみん活力かつりょく健康けんこう根源こんげんとした、政治せいじ宗教しゅうきょうにおける王権おうけん儀式ぎしきといったあたらしい社会しゃかい仕組しくみがしょうじていった[9]

みなみアフリカ共和きょうわこくにおける"Bantu"という言葉ことば使用しよう

[編集へんしゅう]
バントゥースタンの1つ、シスカイ荒地あれち

1920年代ねんだいに、みなみアフリカ共和きょうわこく比較ひかくてきリベラルであった白人はくじん宣教師せんきょうし一部いちぶインテリ黒人こくじんが、国内こくないのバントゥーけい民族みんぞく言及げんきゅうするさいに、"Native"や、より侮蔑ぶべつてき言葉ことばである"Kaffir"よりも "Bantu"のかたりこのんで使つかはじめた。

だい世界せかい大戦たいせん人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎ国民党こくみんとう政府せいふは、"Bantu"のかたりアパルトヘイト政策せいさく公式こうしき使つかはじめたため、アパルトヘイト政策せいさく対抗たいこうして活性かっせいつつあったアフリカじん民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどう (African nationalist movement )とリベラルな白人はくじん同盟どうめいしゃたちは、わりに "African" のかたり使つかいはじめた。

1970年代ねんだいには、民族みんぞくてき人種じんしゅてき区分くぶんとして"Bantu"のかたり非常ひじょう不評ふひょうであったことから、アパルトヘイトをおこな政府せいふ公的こうてき人種じんしゅ分類ぶんるいを"Black"のかたり変更へんこうし、バントゥー・ホームランド市民しみんけんほうによりバントゥースタン強制きょうせい移住いじゅうさせるなどバントゥーけい民族みんぞく権利けんり一層いっそう制限せいげんした。そのころスティーブ・ビコらにひきいられた黒人こくじん意識いしき運動うんどう(Black Consciousness Movement)は"Black"のかたりを、"みなみアフリカ共和きょうわこく抑圧よくあつされているすべての人種じんしゅ(アフリカじん、カラード、アジアけいみなみアフリカじん)"の意味いみ定義ていぎした。

みなみアフリカ共和きょうわこくにおける"Bantu"のかたり慣用かんようてき使用しようほう

  1. 近年きんねんみなみアフリカ共和きょうわこく政治せいじであり、かつてトランスカイもと大統領だいとうりょうであった、バントゥー・ホロミサ(Bantu Holomisa)としてられるバントゥーボンケ・ハリングトン・ホロミサ将軍しょうぐん(Bantubonke Harrington Holomisa、バントゥーボンケとは、"すべての人々ひとびと"を意味いみする複合語ふくごうご)をす。
  2. みなみアフリカ共和きょうわこくのアパルトヘイト政府せいふ当初とうしょみなみアフリカ共和きょうわこく市民しみんけんからアフリカじん目的もくてきで、"'バントゥースタン"'(Bantustans)のけた10ヶ所かしょ不毛ふもう辺境へんきょう地域ちいきにアフリカじんみ、かぎりなくいつわりにちかかたち自治じちけん独立どくりつけんあたえようとした。なお、"バントゥースタン"のはもともと、西にしアジア中央ちゅうおうアジア様々さまざま民族みんぞくす"~スタン(-stans)"への類似るいじ反映はんえいさせたものである。この名称めいしょう不評ふひょうであったことから、みなみアフリカ共和きょうわこく政府せいふは"エスニック・ホームランド"という、まれ故郷こきょうでもない土地とちをホームランドとばせる歴史れきしてき欺瞞ぎまんちた名称めいしょうへと変更へんこうした。その一方いっぽうで、この政策せいさくてき不合理ふごうりさを政府せいふ理解りかいさせるためのはんアパルトヘイト運動うんどうは"バントゥースタン"とばれる土地とちつづけた。
  3. 抽象ちゅうしょうてき名詞めいしであり、人間にんげんせい他者たしゃへのおもいやりといった意味いみubuntuは、ングニぐんぞくするコサズールーンデベレ名詞めいしみきである-ntu由来ゆらいする。スワヒリにおけるこのかたり名詞めいしみき-ntfuであり、名詞めいしbuntfuとなる。
  4. アフリカ南部なんぶソト・ツワナぐんにおけるbatho はングニぐんabantuどう語源ごげんである。このりょうかたりぐんはいずれもバントゥーぐんぞくするが、ソト・ツワナぐんbatho実質じっしつてきかならずしも-ntu語幹ごかん類似るいじする必要ひつようがないことを例証れいしょうしている。初期しょきみなみアフリカ共和きょうわこくアフリカ民族みんぞく会議かいぎAbantu-Bathoばれる新聞しんぶんを1912ねんから1933まで発行はっこうしており、英語えいご、ズールーソト、コサコラムつたえていた。

バントゥーけい民族みんぞくとバントゥー諸語しょごのリスト

[編集へんしゅう]
デイヴィッド・リヴィングストンとツワナぞく集会しゅうかい、1900ねん
ドゥアラぞくのAkwaおう、1875ねん撮影さつえい
ブビぞく子供こどもたち
ファングぞくクリスチャンいたる、1912ねん撮影さつえい
カンバぞく、1923ねん
ソトぞく子供こどもたち
ルワンダの子供こどもたち。ルワンダは、人口じんこうの89パーセントがフツ、のこりはツチである。
ヤオぞく少年しょうねんたちによる儀式ぎしき
シャンガーンぞく伝統でんとうてきおど
ズールーじん戦士せんし。19世紀せいき後半こうはん
ズールーじんおど
スワジぞくおど
伝統でんとうてきなチャガぞく住居じゅうきょ
ショナぞく呪術じゅじゅつ

中央ちゅうおうアフリカおよびひがしアフリカのバントゥーぞくもちいる、140をえるバントゥー諸語しょごのうちの主要しゅような48の言語げんごと、当該とうがい言語げんご使用しようするおも民族みんぞく(もしくは使用しようされている地域ちいき)を国家こっかべつにリストした[10]。なお、これらの民族みんぞくだい多数たすう複数ふくすう国家こっかにまたがって生活せいかつしている。

リングワ・フランカ (バントゥーぞくあいだ共通きょうつう

アンゴラ

ボツワナ

ブルンジ

  • ルンディツチフツ。ただし、この2つの民族みんぞく近年きんねん同根どうこん集団しゅうだんであるとのかんがかた主流しゅりゅうである)

カメルーン

中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこく

  • カコ

コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく

赤道せきどうギニア

ケニヤ

レソト

マラウイ

モザンビーク

ナミビア

コンゴ共和きょうわこく

  • コンゴ (コンゴぞく
  • カコ
  • リンガラ

ルワンダ

みなみアフリカ共和きょうわこく

スワジランド

  • スワティスワジぞく
  • ツォンガ (シャンガーンぞく
  • ズールー (ズールーぞく

タンザニア

ウガンダ

ザンビア

ジンバブエ

なお、上記じょうき言語げんごめい民族みんぞくめいでは接頭せっとうはぶいたスワヒリ(Swahili)、ツワナ(Tswana)、ンデベレ(Ndebele)などのかたち記載きさいした。これは、キスワヒリ(Kiswahili)、セツワナ(Setswana)、シンデベレ(Sindebele)などの接頭せっとうは『~』をすことから、重複じゅうふく表現ひょうげんとなるのをけるためである。

また、バントゥーぐん言語げんごにおいては、接頭せっとうかないかたちかたりをその言語げんご自身じしんでは基本きほんてきもちいない。たとえばツワナ(Tswana)使用しようしているボツワナ(Botswana)では、ボツワナの人々ひとびと複数ふくすう)をかたりがバツワナ(Batswana)で、ボツワナのひと単数たんすう)をかたりはモツワナ(Motswana)であり、ツワナ自体じたいかたりはセツワナ(Setswana)となる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 「バントゥー諸語しょごコトバンク
  2. ^ The Chronological Evidence for the Introduction of Domestic Stock in Southern Africa Archived 2009ねん3がつ25にち, at the Wayback Machine.
  3. ^ A Brief History of Botswana
  4. ^ On Bantu and Khoisan in (Southeastern) Zambia, (in German)
  5. ^ Erhet & Posnansky, eds. (1982), Newman (1995)
  6. ^ Vansina (1995)
  7. ^ Ehret (1998)
  8. ^ Newman (1995), Ehret (1998), Shillington (2005)
  9. ^ Shillington (2005)
  10. ^ According to Ethnologue [1]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Christopher Ehret, An African Classical Age: Eastern and Southern Africa in World History, 1000 B.C. to A.D. 400, James Currey, London, 1998
  • Christopher Ehret and Merrick Posnansky, eds., The Archaeological and Linguistic Reconstruction of African History, University of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1982
  • April A. Gordon and Donald L. Gordon, Understanding Contemporary Africa, Lynne Riener, London, 1996
  • John M. Janzen, Ngoma: Discourses of Healing in Central and Southern Africa, University of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1992
  • James L. Newman, The Peopling of Africa: A Geographic Interpretation, Yale University Press, New Haven, 1995
  • Kevin Shillington, History of Africa, 3rd ed. St. Martin's Press, New York, 2005
  • Jan Vansina, Paths in the Rainforest: Toward a History of Political Tradition in Equatorial Africa, University of Wisconsin Press, Madison, 1990
  • Jan Vansina, "New linguistic evidence on the expansion of Bantu," Journal of African History 36:173-195, 1995

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]