タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく
Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ語 ご ) United Republic of Tanzania (英語 えいご )
国 くに の標語 ひょうご :Uhuru na Umoja (スワヒリ語 ご : "自由 じゆう と統一 とういつ ")
国歌 こっか :Mungu ibariki Afrika (スワヒリ語 ご ) 神 かみ よ、アフリカに祝福 しゅくふく を
^ Tanzania Goverment Portal :languages タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ 2019年 ねん 1月 がつ 1日 にち 閲覧 えつらん
^ 各国 かっこく ・地域 ちいき 情勢 じょうせい 国名 こくめい :タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく (United Republic of Tanzania) 外務省 がいむしょう 2019年 ねん 1月 がつ 1日 にち 閲覧 えつらん
^ “Tanzania ”. ザ・ワールド・ファクトブック . 2022年 ねん 8月 がつ 8日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年 ねん 10月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん ([1] )
註1: データは本土 ほんど のみ 註2: 立法府 りっぽうふ の議事堂 ぎじどう はドドマ 、その他 た の政府 せいふ 官庁 かんちょう はダルエスサラーム 註3: ケニアとウガンダから掛 か ける場合 ばあい は 007
タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく (タンザニアれんごうきょうわこく)、通称 つうしょう タンザニア は、東 ひがし アフリカ にある共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか 。イギリス連邦 れんぽう 加盟 かめい 国 こく 。ケニア 、ウガンダ 、ルワンダ 、ブルンジ 、ザンビア 、マラウイ 、モザンビーク と国境 こっきょう を接 せっ し、タンガニーカ湖 こ 対岸 たいがん にはコンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく があり、またインド洋 いんどよう に面 めん する。
1996年 ねん に立法府 りっぽうふ の議事堂 ぎじどう が法律 ほうりつ 上 じょう の新 しん 首都 しゅと ドドマ に移転 いてん されたが、その他 た の政府 せいふ 官庁 かんちょう は旧 きゅう 首都 しゅと ダルエスサラーム にある。
タンザニアは東 ひがし アフリカ大陸 たいりく 部 ぶ のタンガニーカ とインド洋 いんどよう 島嶼 とうしょ 部 ぶ のザンジバル から構成 こうせい され、ザンジバルは中央 ちゅうおう 政府 せいふ から強 つよ い自治 じち 権 けん を確保 かくほ したザンジバル革命 かくめい 政府 せいふ によって統治 とうち されている。
また、アフリカ でも有数 ゆうすう の大 だい 自然 しぜん に恵 めぐ まれ、文化 ぶんか 的 てき にもスワヒリ語 ご を国語 こくご とし、アフリカ在来 ざいらい の言語 げんご が大 おお きな役割 やくわり を果 は たしている数少 かずすく ない国家 こっか である。
正式 せいしき 名称 めいしょう は、スワヒリ語 ご で Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語 えいご で United Republic of Tanzania (ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称 つうしょう 、Tanzania (タンザニア)。
日本語 にほんご の表記 ひょうき は、タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 。通称 つうしょう 、タンザニア 。漢字 かんじ 表記 ひょうき は、坦 ひろし 桑 くわ 尼 あま 亜 あ 。
国名 こくめい はタンザニアを構成 こうせい するために併合 へいごう したタンガニーカ (Tanganyika)とザンジバル (Zanzibar)の名前 なまえ に、かつてアフリカ南部 なんぶ で栄 さか えたアザニア文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) (Azania)の名前 なまえ を複 ふく 合 あわ して1964年 ねん に命名 めいめい された。
キルワ・キシワニの大 だい モスクの遺跡 いせき
19世紀 せいき 半 なか ばオマーン帝国 ていこく の版図 はんと 。19世紀 せいき のインド洋 いんどよう の覇権 はけん をイギリスと争 あらそ ったオマーン帝国 ていこく は、1830年代 ねんだい より東 ひがし アフリカのザンジバル に本拠地 ほんきょち を置 お いていた。
250万 まん - 200万 まん 年 ねん 前 まえ にホモ・ハビリス が現在 げんざい のタンザニアに相当 そうとう する地域 ちいき (北部 ほくぶ のオルドヴァイ峡谷 きょうこく )に存在 そんざい していたことが、ルイス・リーキー 博士 はかせ によって確認 かくにん されている。
バンツー系 けい の民族 みんぞく 移動 いどう [ 編集 へんしゅう ]
紀元前 きげんぜん 10世紀 せいき ごろ、現在 げんざい のカメルーン に相当 そうとう する地域 ちいき からバントゥー系 けい 民族 みんぞく がタンザニアの森林 しんりん 部 ぶ に移住 いじゅう した(en:Bantu expansion )。
7世紀 せいき にアラビア半島 はんとう でイスラーム教 きょう が成立 せいりつ したあと、アラブ人 じん やペルシア人 じん が東 ひがし アフリカのインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん 部 ぶ に渡来 とらい し、スワヒリ文明 ぶんめい を築 きず きあげた。10世紀 せいき ごろから16世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて、タンザニアにはキルワ島 とう やマフィア島 とう 、バガモヨ などのスワヒリ都市 とし が栄 さか えた。
ポルトガル領 りょう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1498年 ねん にポルトガル王国 おうこく の航海 こうかい 者 しゃ ヴァスコ・ダ・ガマ がインド航路 こうろ を開拓 かいたく し、インド洋 いんどよう におけるポルトガル の覇権 はけん が始 はじ まった。ポルトガル は1505年 ねん にキルワ王国 おうこく を滅 ほろ ぼしたあと、東 ひがし アフリカの各地 かくち を制圧 せいあつ した。
オマーン帝国 ていこく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
アラブ勢力 せいりょく の拡大 かくだい にともない、ポルトガル勢力 せいりょく はオマーン によって1698年 ねん に現在 げんざい のタンザニア領 りょう から駆逐 くちく され、南方 なんぽう のモザンビーク島 とう にまで撤退 てったい した。その後 ご 、19世紀 せいき に入 はい るとオマーン帝国 ていこく (アラビア語 ご :
الإمبراطورية العمانية )のサイイド・サイード 王 おう が在地 ざいち のマズルイ家 か から島嶼 とうしょ 部 ぶ と沿岸 えんがん 地方 ちほう を自 みずか らの勢力 せいりょく 圏 けん に置 お き、1830年代 ねんだい にザンジバルに王宮 おうきゅう ストーンタウン を建設 けんせつ し、帝国 ていこく の本拠地 ほんきょち を移 うつ した。1856年 ねん にサイイド・サイード王 おう が死亡 しぼう したあと、本国 ほんごく のオマーン・スルタン国 こく とは別 べつ にサイイド・マージド がザンジバルのスルターン に即位 そくい するとザンジバル・スルタン国 こく (Sultanate of Zanzibar 、1856年 ねん - 1964年 ねん )が成立 せいりつ し、引 ひ き続 つづ きクローヴ などの香辛料 こうしんりょう の交易 こうえき や奴隷 どれい 貿易 ぼうえき で栄 さか え、この時代 じだい にザンジバルは東 ひがし アフリカ最大 さいだい の奴隷 どれい 市場 いちば となった。19世紀 せいき 後半 こうはん には、ザンジバル出身 しゅっしん のスワヒリ商人 しょうにん ティップー・ティプ が現在 げんざい のコンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく 東部 とうぶ に相当 そうとう するタンガニーカ湖 こ にまで勢力 せいりょく を伸 の ばし、内陸 ないりく 地域 ちいき のスワヒリ語 ご の普及 ふきゅう の一因 いちいん となった。彼 かれ はデイヴィッド・リヴィングストン やヘンリー・モートン・スタンリー の探険 たんけん も助 たす けた。
イギリス・ドイツ植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
ドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカ
1880年代 ねんだい にアフリカ分割 ぶんかつ が始 はじ まると、カール・ペータース の活動 かつどう によって1885年 ねん に大陸 たいりく 部 ぶ にドイツ東 ひがし アフリカ会社 かいしゃ の植民 しょくみん 地 ち が認可 にんか された(ドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカ )。19世紀 せいき 後半 こうはん からインド洋 いんどよう に進出 しんしゅつ していたイギリスは、1890年 ねん 7月 がつ 1日 にち にドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約 じょうやく を締結 ていけつ し、ザンジバル領 りょう のうち、沿岸 えんがん 地方 ちほう はドイツが獲得 かくとく し、島嶼 とうしょ 部 ぶ のザンジバルをイギリスの保護 ほご 国 こく とした。1890年 ねん に保護 ほご 国 こく となったザンジバル・スルタン国 こく は、政変 せいへん にともなう1896年 ねん のイギリスとの戦争 せんそう でイギリスに一方 いっぽう 的 てき に敗北 はいぼく し、保護 ほご 国 こく 化 か 当初 とうしょ のザンジバルへの内政 ないせい 不干渉 ふかんしょう の原則 げんそく は反故 ほご にされ、以後 いご ザンジバルではイギリスによる行政 ぎょうせい が進 すす んだ。
一方 いっぽう 、大陸 たいりく 部 ぶ のタンガニーカでは、ペータースの植民 しょくみん 地 ち 会社 かいしゃ は沿岸 えんがん 地方 ちほう で発生 はっせい したアブシリの反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ に手 て こずり、会社 かいしゃ による統治 とうち は不可能 ふかのう と判断 はんだん され、本国 ほんごく ドイツ から総督 そうとく の派遣 はけん を受 う ける統治 とうち 形態 けいたい へと変 か わった。19世紀 せいき 末 まつ 、領域 りょういき 内部 ないぶ には部族 ぶぞく 国家 こっか が複数 ふくすう 存在 そんざい しており、中 なか でもルヴマ州 しゅう のソンゲア・ルワフ・ムバノ 率 ひき いるンゴニ族 ぞく とイリンガ州 しゅう のムクワワ 率 ひき いるヘヘ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) が二 に 大 だい 勢力 せいりょく であったが、相 そう 争 あらそ っていたため、数 すう 年 ねん がかりで各個 かっこ 制圧 せいあつ されていった。しかしながら、指導 しどう 者 しゃ ムクワワ が率 ひき いるヘヘ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) とのゲリラ 戦 たたかえ (1891年 ねん - 1898年 ねん )は長期 ちょうき 化 か した。1905年 ねん の霊媒 れいばい 師 し キンジキティレ・ングワレ (英語 えいご 版 ばん ) (Kinjikitile Ngwale)が主導 しゅどう するマジ・マジ反乱 はんらん はンゴニ族 ぞく も呼応 こおう して最大 さいだい の反乱 はんらん となったが、ヘヘ族 ぞく がドイツ側 がわ について部族 ぶぞく の垣根 かきね を越 こ えることはできず、徹底的 てっていてき に鎮圧 ちんあつ された。この反乱 はんらん を受 う けて、ドイツは統治 とうち 政策 せいさく の見直 みなお しを行 おこな うこととなった。沿岸 えんがん 部 ぶ からタンガニーカ湖 こ までを結 むす ぶ鉄道 てつどう (ドイツ語 ご : Tanganjikabahn 現在 げんざい のタンザニア中央 ちゅうおう 鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) )は、1905年 ねん にダルエスサラーム を起点 きてん に着工 ちゃっこう し、1914年 ねん には終点 しゅうてん キゴマ に到達 とうたつ して完成 かんせい した。
1914年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、東 ひがし アフリカ戦線 せんせん ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック 将軍 しょうぐん 率 ひき いる現地 げんち 人 じん 兵士 へいし (アスカリ )を中心 ちゅうしん としたゲリラ 部隊 ぶたい がイギリス軍 ぐん などを相手 あいて に本国 ほんごく の降伏 ごうぶく 時 じ まで交戦 こうせん を行 おこな った。
イギリス・ベルギー植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん がドイツの敗北 はいぼく で終結 しゅうけつ したことによりドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカ は解体 かいたい され、大半 たいはん はイギリス の委任 いにん 統治 とうち 領 りょう タンガニーカ準 じゅん 州 しゅう となり、東北 とうほく 部 ぶ のルアンダ=ウルンディ はベルギー の委任 いにん 統治 とうち 領 りょう となった。イギリスは東 ひがし アフリカで4地域 ちいき (ウガンダ 、ケニア 、タンガニーカ 、ザンジバル )を支配 しはい することとなり、これらには関税 かんぜい 同盟 どうめい が敷 し かれ、ドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカルピー (英語 えいご 版 ばん ) に代 か えて共通 きょうつう 通貨 つうか 東 ひがし アフリカ・シリング(英語 えいご 版 ばん ) が導入 どうにゅう された。中央 ちゅうおう 鉄道 てつどう には複数 ふくすう の支線 しせん が敷設 ふせつ され、そのひとつはヴィクトリア湖 こ のムワンザ にまで延長 えんちょう された。
1939年 ねん に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ するとイギリス領 りょう だった東 ひがし アフリカ地域 ちいき からは28万 まん 人 にん が動員 どういん され、タンガニーカからは8万 まん 7,000人 にん が出征 しゅっせい した[1] 。東 ひがし アフリカ部隊 ぶたい は東 ひがし アフリカ戦線 せんせん でイタリア軍 ぐん と、ビルマ戦線 せんせん で日本 にっぽん 軍 ぐん との戦 たたか いを繰 く り広 ひろ げ、インパール作戦 さくせん で日本 にっぽん 軍 ぐん が対峙 たいじ したイギリス軍 ぐん には多 おお くのアフリカ人 じん のアスカリ が存在 そんざい した。
独立 どくりつ と連合 れんごう [ 編集 へんしゅう ]
タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ジュリウス・ニエレレ 。「ムワリム」(スワヒリ語 ご で「先生 せんせい 」の意 い )と呼 よ ばれ、タンザニア人 じん の尊敬 そんけい を集 あつ めている。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、世界 せかい 的 てき な脱 だつ 植民 しょくみん 地 ち 化 か の潮流 ちょうりゅう の中 なか でタンガニーカ=アフリカ人 じん 民族 みんぞく 同盟 どうめい (英語 えいご 版 ばん ) (TANU)が次第 しだい に支持 しじ を集 あつ め、1961年 ねん 12月9日 にち に大陸 たいりく 側 がわ のタンガニーカがイギリスの合意 ごうい のもと平和 へいわ 的 てき に独立 どくりつ した。1963年 ねん にはザンジバル王国 おうこく も主権 しゅけん を獲得 かくとく して独立 どくりつ した。しかし、翌 よく 1964年 ねん 1月 がつ にザンジバルで革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ すると国王 こくおう は亡命 ぼうめい し、アラブ人 じん 排斥 はいせき の流血 りゅうけつ の事態 じたい の中 なか でザンジバル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ した。その後 ご 、ザンジバルでの政変 せいへん を経 へ て、ニエレレの汎 ひろし アフリカ主義 しゅぎ の精神 せいしん の下 した で両国 りょうこく は連合 れんごう し、1964年 ねん 4月 がつ 26日 にち にタンガニーカ・ザンジバル連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ した[2] 。同年 どうねん 10月 がつ 29日 にち 、この国家 こっか 連合 れんごう は両国 りょうこく の名称 めいしょう とかつてこの地域 ちいき で栄 さか えたアザニア文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) の名称 めいしょう を複 ふく 合 ごう し、タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく と改称 かいしょう した。
独立 どくりつ 後 ご 、連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう となったジュリウス・ニエレレ は、内政 ないせい 面 めん ではスワヒリ語 ご を国語 こくご とし、1967年 ねん のアルーシャ宣言 せんげん (英語 えいご 版 ばん ) 発令 はつれい 以後 いご は社会 しゃかい 主義 しゅぎ の建設 けんせつ を目指 めざ し、ウジャマー (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれるコンセプトに基 もと づいたアフリカ社会 しゃかい 主義 しゅぎ を採用 さいよう した(ウジャマー社会 しゃかい 主義 しゅぎ )。対外 たいがい 的 てき には東 ひがし アフリカ諸国 しょこく を東 ひがし アフリカ連邦 れんぽう (英語 えいご 版 ばん ) に統合 とうごう する構想 こうそう を掲 かか げ[3] [4] [5] 、アルーシャを本部 ほんぶ とする東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 体 たい (第 だい 一 いち 次 じ )を作 つく り[6] 、南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく のアパルトヘイト 政権 せいけん やローデシア の対 たい 白人 はくじん 少数 しょうすう 派 は 支配 しはい に対抗 たいこう する「最前線 さいぜんせん 」としてザンビア やボツワナ とフロントライン諸国 しょこく (英語 えいご 版 ばん ) (FLS)を結成 けっせい して、ニエレレは初代 しょだい 議長 ぎちょう を務 つと めた[7] 。また、ローデシアや南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく からの経済 けいざい 的 てき な自立 じりつ を図 はか るタンザン鉄道 てつどう の建設 けんせつ などを通 つう じて中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との関係 かんけい を深 ふか め、ポルトガル とも敵対 てきたい し、1964年 ねん にモザンビーク独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まると、エドゥアルド・モンドラーネ 議長 ぎちょう の指導 しどう するモザンビーク解放 かいほう 戦線 せんせん (FRELIMO)を支援 しえん し、解放 かいほう 区 く を提供 ていきょう した。この時期 じき にタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビア の南西 なんせい アフリカ人民 じんみん 機構 きこう (SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人 じん 民族 みんぞく 同盟 どうめい (英語 えいご 版 ばん ) (ZANU)を支援 しえん している。
1971年 ねん にミルトン・オボテ がイディ・アミン のクーデターによって追放 ついほう されて以来 いらい 、オボテをかくまったタンザニアは隣国 りんごく ウガンダ とは対立 たいりつ が続 つづ いた。
タンザニア革命 かくめい 党 とう [ 編集 へんしゅう ]
1977年 ねん にそれまで別 べつ 組織 そしき だったTANUとアフロ・シラジ党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (ASP)が統合 とうごう し、タンザニア革命 かくめい 党 とう が成立 せいりつ し、国内 こくない でも一 いち 党 とう 制 せい に移行 いこう した。
1978年 ねん にそれまで対立 たいりつ していたウガンダのアミン大統領 だいとうりょう がタンザニアに侵攻 しんこう するとこれを撃退 げきたい し、タンザニア軍 ぐん はウガンダの首都 しゅと カンパラ を攻略 こうりゃく してアミン失脚 しっきゃく の一因 いちいん となった(ウガンダ・タンザニア戦争 せんそう )。こうした政策 せいさく によってタンザニアはアフリカ内外 ないがい で第 だい 三 さん 世界 せかい を指導 しどう する国家 こっか の一角 いっかく としての信望 しんぼう を集 あつ めたが、その一方 いっぽう で1970年代 ねんだい に入 はい ると親 おや 西側 にしがわ 的 てき なケニアのジョモ・ケニヤッタ との対立 たいりつ で自 みずか らの理想 りそう を体現 たいげん した東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 体 たい は消滅 しょうめつ し、旱魃 かんばつ による農業 のうぎょう の衰退 すいたい や、ウジャマー村 むら の建設 けんせつ の失敗 しっぱい が各地 かくち で報告 ほうこく され、経済 けいざい 面 めん でウジャマー社会 しゃかい 主義 しゅぎ の失敗 しっぱい が明 あき らかになった。
1980年代 ねんだい に入 はい ると第 だい 二 に 次 じ 石油 せきゆ 危機 きき の影響 えいきょう もあって経済 けいざい の衰退 すいたい は深刻 しんこく 化 か し、日 にち 用品 ようひん や飲料 いんりょう 水 すい の不足 ふそく に起因 きいん する国民 こくみん の不満 ふまん が高 たか まる中 なか 、1985年 ねん 11月にニエレレは引退 いんたい を発表 はっぴょう した。
経済 けいざい の自由 じゆう 化 か [ 編集 へんしゅう ]
後任 こうにん には与党 よとう タンザニア革命 かくめい 党 とう からザンジバル 出身 しゅっしん のアリ・ハッサン・ムウィニ が就任 しゅうにん し、ムウィニの下 した でIMF の勧告 かんこく を受 う け入 い れるなど経済 けいざい の自由 じゆう 化 か が進 すす められ、また複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい が認 みと められて民主 みんしゅ 化 か が行 おこな われた。1995年 ねん に就任 しゅうにん したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ 大統領 だいとうりょう の時代 じだい には、1994年 ねん に民主 みんしゅ 化 か した南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく からの投資 とうし が盛 さか んに行 おこな われ、経済 けいざい は復興 ふっこう を遂 と げた。
1998年 ねん 8月 がつ 7日 にち にはアルカイーダ によって首都 しゅと ダルエスサラーム の駐 ちゅう タンザニアアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大使館 たいしかん が攻撃 こうげき される、アメリカ大使館 あめりかたいしかん 爆破 ばくは 事件 じけん が発生 はっせい した。
2005年 ねん にはジャカヤ・キクウェテ が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん し、2015年 ねん にはジョン・マグフリ が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。
第 だい 4代 だい 大統領 だいとうりょう ジャカヤ・キクウェテ と閣僚 かくりょう
第 だい 5代 だい 大統領 だいとうりょう ジョン・マグフリ
タンザニアは共和 きょうわ 制 せい 、大統領 だいとうりょう 制 せい を国家 こっか 体制 たいせい とする立憲 りっけん 国家 こっか である。現行 げんこう 憲法 けんぽう であるタンザニア憲法 けんぽう (英語 えいご 版 ばん ) は1977年 ねん 4月 がつ 25日 にち に制定 せいてい (1984年 ねん 10月 に大幅 おおはば 改正 かいせい )されたもの。
タンザニア政治 せいじ の特徴 とくちょう として、他 た のアフリカ諸国 しょこく に多 おお く見 み られる、特定 とくてい 部族 ぶぞく による政権 せいけん の独占 どくせん や民族 みんぞく による投票 とうひょう 行動 こうどう が見 み られないことがあげられる。これは、国内 こくない に特別 とくべつ 大 おお きな民族 みんぞく グループが存在 そんざい しないこと、スワヒリ語 ご による初等 しょとう 教育 きょういく と、教育 きょういく プログラムに盛 も り込 こ まれた汎 ひろし タンザニア史 し などを通 つう じてタンザニア人 じん としてのアイデンティティ創出 そうしゅつ に成功 せいこう したこと、初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ニエレレがウジャマー社会 しゃかい 主義 しゅぎ 建設 けんせつ の過程 かてい で旧来 きゅうらい の地方 ちほう 組織 そしき を解体 かいたい したこと、複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい 導入 どうにゅう 時 じ に民族 みんぞく を基盤 きばん とした政党 せいとう 結成 けっせい が禁 きん じられたことなどが理由 りゆう となっている[8] 。
国家 こっか 元首 げんしゅ である大統領 だいとうりょう は、国民 こくみん の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ により選出 せんしゅつ され、任期 にんき は5年 ねん 。3選 せん は禁止 きんし されている。首相 しゅしょう および閣僚 かくりょう は大統領 だいとうりょう により任命 にんめい されるが、閣僚 かくりょう は国民 こくみん 議会 ぎかい 議員 ぎいん でなければならない。2015年 ねん 10月 がつ に与党 よとう 信任 しんにん で選出 せんしゅつ されたジョン・マグフリ 第 だい 5代 だい 大統領 だいとうりょう が2021年 ねん 3月 がつ 17日 にち に死去 しきょ [9] し、後任 こうにん の第 だい 6代 だい 大統領 だいとうりょう として副 ふく 大統領 だいとうりょう であったサミア・スルフ・ハッサン が同国 どうこく 初 はつ の女性 じょせい の大統領 だいとうりょう として就任 しゅうにん した。死去 しきょ したマグフリの残余 ざんよ 任期 にんき を引 ひ き継 つ ぐ[10] 。
立法府 りっぽうふ は一院制 いちいんせい で、正式 せいしき 名称 めいしょう は国民 こくみん 議会 ぎかい 。定数 ていすう は393議席 ぎせき で、うち264議席 ぎせき は国民 こくみん の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ 枠 わく (うち50議席 ぎせき は、ザンジバル5州 しゅう 内 ない の選挙 せんきょ 区 く より選出 せんしゅつ )、113議席 ぎせき は大統領 だいとうりょう が任命 にんめい する女性 じょせい 議員 ぎいん 枠 わく 、5議席 ぎせき はザンジバル 革命 かくめい 議会 ぎかい 議員 ぎいん の枠 わく である。議員 ぎいん の任期 にんき は5年 ねん である。
1992年 ねん 以来 いらい 、タンザニアでは複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい が認 みと められているが、タンザニア革命 かくめい 党 とう (CCM)による政権 せいけん が独立 どくりつ 以来 いらい 続 つづ いている。その他 た の政党 せいとう の勢力 せいりょく は脆弱 ぜいじゃく だが、市民 しみん 統一 とういつ 戦線 せんせん (CUF)と民主進歩党 みんしゅしんぽとう (CHADEMA)が比較的 ひかくてき 有力 ゆうりょく である。
連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ とは別 べつ に、ザンジバル には独自 どくじ の自治 じち 政府 せいふ であるザンジバル革命 かくめい 政府 せいふ および議会 ぎかい が存在 そんざい し、ザンジバルの内政 ないせい を担 にな っている。統治 とうち 権 けん が及 およ ぶのはザンジバル島 とう の3州 しゅう 、およびペンバ島 とう の2州 しゅう である。ザンジバルの大統領 だいとうりょう (英語 えいご 版 ばん ) はザンジバル住民 じゅうみん の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ で選出 せんしゅつ され、任期 にんき は5年 ねん である。ザンジバル議会 ぎかい は一院制 いちいんせい で定数 ていすう 81議席 ぎせき 。議員 ぎいん の任期 にんき は5年 ねん で、81議席 ぎせき 中 ちゅう 50議席 ぎせき はザンジバル住民 じゅうみん の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ により選出 せんしゅつ される。2021年 ねん 現在 げんざい のザンジバル大統領 だいとうりょう はタンザニア革命 かくめい 党 とう (CCM) のフセイン・ムウィニ (英語 えいご 版 ばん ) (第 だい 8代 だい )。強力 きょうりょく な自治 じち 政府 せいふ であり、大陸 たいりく からザンジバル島 とう に渡 わた る場合 ばあい でも、入国 にゅうこく 管理 かんり 手続 てつづ きが存在 そんざい する。タンガニーカ の独自 どくじ 政府 せいふ は存在 そんざい しない。
一方 いっぽう で、ザンジバルにおいては首都 しゅと のあるウングジャ島 とう とペンバ島 とう の間 あいだ に対立 たいりつ がある。ペンバ島 とう はザンジバル革命 かくめい の時 とき に旧 きゅう 政権 せいけん 側 がわ を支持 しじ したため、革命 かくめい 政権 せいけん によって冷遇 れいぐう を受 う けた。この対立 たいりつ は民主 みんしゅ 化 か 後 ご でも続 つづ いており、ウングジャ島 とう でタンザニア革命 かくめい 党 とう が強 つよ い一方 いっぽう 、ペンバ島 とう はタンザニア最大 さいだい 野党 やとう ・市民 しみん 統一 とういつ 戦線 せんせん の地盤 じばん となっている。ザンジバル経済 けいざい はペンバ島 とう でおもに栽培 さいばい されるクローブの輸出 ゆしゅつ を柱 はしら としているため、経済 けいざい 面 めん での貢献 こうけん に比 ひ してペンバ島 とう が政治 せいじ 面 めん で冷遇 れいぐう を受 う けていることがさらにこの対立 たいりつ を増幅 ぞうふく している。
独立 どくりつ 以来 いらい 、ニエレレ大統領 だいとうりょう の下 した で第 だい 三 さん 世界 せかい 外交 がいこう が実践 じっせん され、特 とく にソビエト連邦 れんぽう よりも中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との友好 ゆうこう 関係 かんけい が築 きず かれた。ザンビアからタンザニアに至 いた るタンザン鉄道 てつどう やタンザニア海軍 かいぐん 基地 きち なども中国 ちゅうごく の援助 えんじょ によって建設 けんせつ され、中国 ちゅうごく の支援 しえん でできたアマーン・スタジアム (英語 えいご 版 ばん ) でタンザニア革命 かくめい 党 とう も設立 せつりつ された[11] 。もともと英 えい 領 りょう 東 ひがし アフリカ植民 しょくみん 地 ち として同一 どういつ の政府 せいふ 機構 きこう の下 した にあったウガンダやケニアとは独立 どくりつ 時 じ から東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 役務 えきむ 機構 きこう を設立 せつりつ しており、アルーシャに事務 じむ 局 きょく を置 お く東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 体 たい (第 だい 一 いち 次 じ )の盟主 めいしゅ でもあったが、1977年 ねん にケニアと決裂 けつれつ して東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 体 たい は解体 かいたい 、1978年 ねん にはウガンダ・タンザニア戦争 せんそう も起 お きた。その後 ご 、2001年 ねん に東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 体 たい はアルーシャで再 さい 結成 けっせい され、再 ふたた び協力 きょうりょく 体制 たいせい が構築 こうちく された。また、南部 なんぶ アフリカ開発 かいはつ 調整 ちょうせい 会議 かいぎ (英語 えいご 版 ばん ) (SADCC)の設立 せつりつ 経緯 けいい から、他 た の東 ひがし アフリカ諸国 しょこく は加盟 かめい していない南部 なんぶ アフリカ開発 かいはつ 共同 きょうどう 体 たい (SADC)の一員 いちいん でもある。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
1960年代 ねんだい 、日本 にっぽん から6人 にん の技術 ぎじゅつ 専門 せんもん 家 か が送 おく り込 こ まれ、政治 せいじ 顧問 こもん や官僚 かんりょう として活動 かつどう した。このことが縁 えん となり、1969年 ねん にはタンザニアの大臣 だいじん の発案 はつあん で、キリマンジャロ州 しゅう の1万 まん 4000平方 へいほう キロの土地 とち を日本 にっぽん に貸 か し、パイロット地区 ちく を形成 けいせい しようとする案 あん が持 も ち込 こ まれた[12] 。
在留 ざいりゅう 日本人 にっぽんじん 数 すう - 195名 めい (2021年 ねん 10月 がつ ,外務省 がいむしょう 海外 かいがい 在留 ざいりゅう 邦人 ほうじん 数 すう 調査 ちょうさ 統計 とうけい )[13]
在日 ざいにち タンザニア人 じん 数 かず - 433人 にん (2021年 ねん 12月,法務省 ほうむしょう 在留 ざいりゅう 外国 がいこく 人 じん 統計 とうけい )[13]
1976年 ねん 、日本 にっぽん 大使館 たいしかん の書記官 しょきかん が象牙 ぞうげ の密輸 みつゆ を図 はか っていたとして事実 じじつ 上 じょう の更迭 こうてつ を受 う けた。タンザニアでは当時 とうじ から象牙 ぞうげ の輸出 ゆしゅつ は許可 きょか 制 せい となっており、規制 きせい を回避 かいひ するために外交 がいこう 特権 とっけん を利用 りよう して日本 にっぽん に送 おく っていた疑 うたが い。象牙 ぞうげ 集 あつ めを手伝 てつだ ったタンザニア従業 じゅうぎょう 員 いん は警察 けいさつ の取 と り調 しら べを受 う けた後 のち に解雇 かいこ されており、現地 げんち 民 みん や日系 にっけい 企業 きぎょう からは批難 ひなん の声 こえ が上 あ がった[14] 。
国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう [ 編集 へんしゅう ]
タンザニア人民 じんみん 防衛 ぼうえい 軍 ぐん
タンザニア人民 じんみん 防衛 ぼうえい 軍 ぐん は陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん 、空軍 くうぐん の三軍 さんぐん から構成 こうせい され、総 そう 人員 じんいん は約 やく 2万 まん 7,000人 にん である。兵制 へいせい は志願 しがん 制 せい を採用 さいよう している。2005年 ねん にはGDPの0.2%が軍事 ぐんじ に支出 ししゅつ された[15] 。
タンザニアの地図 ちず
アフリカ大地 だいち 溝 みぞ 帯 たい
タンザニアの面積 めんせき 94万 まん 5,087km²は世界 せかい 31位 い の広 ひろ さでエジプト に続 つづ き、ナイジェリア とほぼ等 ひと しい。北東 ほくとう 部 ぶ にアフリカ最高峰 さいこうほう のキリマンジャロ山 さん (5,895メートル)があり、北部 ほくぶ にアフリカ最大 さいだい の面積 めんせき を誇 ほこ るビクトリア湖 こ 、西部 せいぶ にアフリカでもっとも深 ふか い タンガニーカ湖 こ がある。この南 みなみ のニアサ湖 こ を含 ふく めアフリカ三 さん 大 だい 湖 みずうみ が存在 そんざい する。これらはアフリカ大地 だいち 溝 みぞ 帯 たい が形成 けいせい したものである。中部 ちゅうぶ には高原 こうげん が広 ひろ がる。東部 とうぶ 海岸 かいがん は蒸 む し暑 あつ い気候 きこう で、ザンジバル島 とう (ウングジャ島 とう )がすぐ沖合 おきあい にある。
気候 きこう は国土 こくど の大半 たいはん がサバナ気候 きこう に属 ぞく し、中央 ちゅうおう 部 ぶ がステップ気候 きこう 、南部 なんぶ と北部 ほくぶ の高原 こうげん 部 ぶ が温暖 おんだん 冬季 とうき 少雨 しょうう 気候 きこう である。降水 こうすい 量 りょう は海岸 かいがん 部 ぶ やビクトリア湖岸 こがん 、キリマンジャロ周辺 しゅうへん では1,000ミリを超 こ えるが、内陸 ないりく 部 ぶ では500ミリ程度 ていど のところが多 おお い。植生 しょくせい は、海岸 かいがん 部 ぶ に熱帯 ねったい 半 はん 落葉 らくよう 降雨 こうう 林 りん が、内陸 ないりく 部 ぶ にミオンボ (またはミヨンボ)と呼 よ ばれる熱帯 ねったい 広葉 こうよう 雨 う 緑 みどり 乾燥 かんそう 林 りん が広 ひろ がっている。
生態 せいたい 学 がく 上 じょう 貴重 きちょう な野生 やせい 公園 こうえん が数多 かずおお く存在 そんざい する。北 きた の有名 ゆうめい なンゴロンゴロ保全 ほぜん 地域 ちいき とセレンゲティ国立 こくりつ 公園 こうえん 、そして南 みなみ にセルース猟 りょう 獣 じゅう 保護 ほご 区 く とルアハ国立 こくりつ 公園 こうえん とミクミ国立 こくりつ 公園 こうえん がある。西 にし のゴンベ国立 こくりつ 公園 こうえん はジェーン・グドール 博士 はかせ がチンパンジー を研究 けんきゅう したところである。タンザニア政府 せいふ 観光 かんこう 省 しょう が南西 なんせい 部 ぶ ルクワ地域 ちいき にあるカランボ滝 たき を観光 かんこう 拠点 きょてん にしようと努 つと めている。この滝 たき はタンガニーカ湖 こ 南端 なんたん にあり、アフリカ第 だい 2の規模 きぼ である。
地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん [ 編集 へんしゅう ]
タンザニアの州 しゅう
タンザニア連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく は、タンガニーカの26州 しゅう 、ザンジバルの5州 しゅう (ウングジャ島 とう 3州 しゅう 、ペンバ島 とう 2州 しゅう )からなる。
タンガニーカ:
首相 しゅしょう 府 ふ 、地方 ちほう 自治 じち 国務相 こくむしょう (Minister of State, Regional Administration and Local Government)の下 した 、政令 せいれい 行政 ぎょうせい 区 く 上位 じょうい から州 しゅう (Region)、県 けん (District)、郡 ぐん (Division)、区 く (Ward)、村 むら (Village/Street)と定 さだ められている。その他 た 、県 けん と郡 ぐん の間 あいだ に選挙 せんきょ 区 く (Constituency)、村 むら の下 した に隣組 となりぐみ (Sub-Vilage)が存在 そんざい する。また、行政 ぎょうせい 系統 けいとう が Regional Administration と Local Government に分 わ かれており、連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ レベルの行政 ぎょうせい 系統 けいとう としてRegional Administration(州 しゅう 、県 けん 、郡 ぐん )、地方 ちほう 政府 せいふ の行政 ぎょうせい 系統 けいとう としてLocal Government(県 けん 、区 く 、村 むら )となっている。
ザンジバル:
最大 さいだい の都市 とし ダルエスサラーム
1980年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領 だいとうりょう の下 しも ウジャマー社会 しゃかい 主義 しゅぎ を標榜 ひょうぼう し、ウジャマー村 むら と呼 よ ばれる集団 しゅうだん 農場 のうじょう を中心 ちゅうしん とした社会 しゃかい 主義 しゅぎ 経済 けいざい を目指 めざ していた。しかし旧来 きゅうらい の社会 しゃかい 制度 せいど をまったく無視 むし したこの方式 ほうしき は失敗 しっぱい に終 お わり、生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん の供給 きょうきゅう すら滞 とどこお る状態 じょうたい となった。1985年 ねん にニエレレの後 のち を継 つ いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領 だいとうりょう は、IMFの勧告 かんこく を受 う け入 い れ、貿易 ぼうえき 制限 せいげん の緩和 かんわ などを行 おこな い自由 じゆう 経済 けいざい へと舵 かじ を切 き った。以後 いご タンザニア経済 けいざい は緩 ゆる やかに回復 かいふく へと向 む かい、1995年 ねん に就任 しゅうにん したベンジャミン・ムカパ大統領 だいとうりょう の行 おこな った国営 こくえい 企業 きぎょう の民営 みんえい 化 か など政府 せいふ セクターの民間 みんかん への移動 いどう と、南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく などからの投資 とうし の拡大 かくだい により、1995年 ねん から2005年 ねん までの経済 けいざい 成長 せいちょう 率 りつ は平均 へいきん 5%を記録 きろく した。
タンザニア経済 けいざい は農業 のうぎょう に立脚 りっきゃく しており、GDP の半分 はんぶん 以上 いじょう 、輸出 ゆしゅつ の80%、雇用 こよう の85%は農業 のうぎょう によってもたらされている。キリマンジャロ は上質 じょうしつ のコーヒーとして世界中 せかいじゅう で愛好 あいこう される主要 しゅよう 輸出 ゆしゅつ 品 ひん である。ほかに茶 ちゃ が栽培 さいばい される。ビクトリア湖 こ 周辺 しゅうへん では、漁業 ぎょぎょう と綿花 めんか 栽培 さいばい を中心 ちゅうしん とした農業 のうぎょう が盛 さか んに行 おこな われている。ビクトリア湖 こ で捕獲 ほかく されるナイルパーチ (スズキ に食 しょく 感 かん が似 に た淡水魚 たんすいぎょ )は加工 かこう され、世界 せかい 各地 かくち に輸出 ゆしゅつ されている。他 た に、カシューナッツ なども主要 しゅよう 輸出 ゆしゅつ 品 ひん となっている。一方 いっぽう 、ザンジバル経済 けいざい の根幹 こんかん を成 な しているのがクローブ の栽培 さいばい である。19世紀 せいき 半 なか ばにオマーン のサイイド・サイード によって始 はじ められたクローブ栽培 さいばい は、2015年 ねん 現在 げんざい ではザンジバルの主要 しゅよう な輸出 ゆしゅつ 品 ひん となっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバ島 とう で栽培 さいばい されている。
鉱業 こうぎょう では、宝石 ほうせき のタンザナイト を産出 さんしゅつ することで有名 ゆうめい である。金 きむ はアフリカでは南 なん ア、ガーナに次 つ ぐ産出 さんしゅつ がある。また、ブルンジと同様 どうよう 、超 ちょう 塩基 えんき 性 せい 岩 がん にともなうNi-PGE鉱床 こうしょう が存在 そんざい し、ニッケル ・コバルト ・銅 どう が採掘 さいくつ されている。また、南部 なんぶ 海域 かいいき のガス田 でん から天然 てんねん ガスが生産 せいさん されダルエスサラームと地方 ちほう での発電 はつでん に使 つか われている。しかしタンザニアの電力 でんりょく の多 おお くは水力 すいりょく 発電 はつでん によってまかなわれているため、旱魃 かんばつ の影響 えいきょう を受 う けやすく、水不足 みずぶそく が電力 でんりょく 不足 ふそく に直結 ちょっけつ する。
アフリカ大陸 たいりく 最高峰 さいこうほう のキリマンジャロ山 さん
タンザニアの観光 かんこう 業 ぎょう は成長 せいちょう を続 つづ けている。タンザニアにおける観光 かんこう 業 ぎょう はGDPの17.5%を占 し め、外貨 がいか 収入 しゅうにゅう の25%を占 し めており、金 かね の輸出 ゆしゅつ に次 つ いで第 だい 2位 い の外貨 がいか 獲得 かくとく 産業 さんぎょう となっている。[16] 2004年 ねん にタンザニアに入国 にゅうこく した観光 かんこう 客数 きゃくすう は58万 まん 3,000人 にん であり、1995年 ねん の2倍 ばい に達 たっ した[17] 。さらに2016年 ねん には観光 かんこう 客数 きゃくすう は128万 まん 4,279人 にん となっており、増加 ぞうか の一途 いっと を辿 たど っている[16] 。観光 かんこう 客 きゃく の目的 もくてき はンゴロンゴロ保全 ほぜん 地域 ちいき やセレンゲティ国立 こくりつ 公園 こうえん などでのサファリ 、キリマンジャロ への登山 とざん 、ザンジバル島 とう のストーン・タウン など歴史 れきし 遺産 いさん やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐 たき に渡 わた っている。
タンザニアの鉄道 てつどう 網 もう
交通 こうつう 網 もう はあまり発達 はったつ しておらず、輸送 ゆそう インフラも貧弱 ひんじゃく である。国内 こくない 道路 どうろ のうち、旧 きゅう 首都 しゅと ダルエスサラームからキリマンジャロ山麓 さんろく のアルーシャまでは舗装 ほそう 道路 どうろ が通 つう じているものの、他 た は未 み 舗装 ほそう の悪 あく 路 ろ である部分 ぶぶん も多 おお い。
鉄道 てつどう は、タンザニア中央 ちゅうおう 鉄道 てつどう とタンザン鉄道 てつどう の2社 しゃ があり、前者 ぜんしゃ はダルエスサラームから北 きた へ向 む かいタンガ やアルーシャ を結 むす ぶ路線 ろせん と、西 にし へ向 む かい首都 しゅと ドドマ 、タボラ を通 とお ってタンガニーカ湖畔 こはん のキゴマ へ向 む かう路線 ろせん 、タボラから北 きた へ向 む かいビクトリア湖畔 こはん のムワンザ へと向 む かう3路線 ろせん を運行 うんこう している。後者 こうしゃ は1976年 ねん に建設 けんせつ され、ダルエスサラームから南西 なんせい へ向 む かい、マラウイ国境 こっきょう 近 ちか くのムベヤ を通 とお ってザンビア領 りょう のカピリムポシ までを結 むす んでいる。
水運 すいうん は、タンガニーカとザンジバル間 あいだ で活発 かっぱつ であるほか、ビクトリア湖 こ やタンガニーカ湖 こ に国際 こくさい フェリー が就航 しゅうこう しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく とを結 むす んでいる。沿岸 えんがん ではいまだにダウ船 せん での輸送 ゆそう も行 おこな われている。
空 そら 運 うん はかつて国営 こくえい のタンザニア航空 こうくう (英語 えいご 版 ばん ) の独占 どくせん であったが、自由 じゆう 化 か により中小 ちゅうしょう の航空 こうくう 会社 かいしゃ が多 おお く設立 せつりつ されるようになった。
タンザニアの人口 じんこう 推移 すいい (1961年 ねん - 2003年 ねん )
バントゥー系 けい 黒人 こくじん が国民 こくみん の95%を占 し め、タンガニーカでは99%がアフリカ系 けい 黒人 こくじん であり、1%ほどのヨーロッパ系 けい 、アラブ系 けい 、インド系 けい の市民 しみん が存在 そんざい する[15] 。ザンジバルではアラブ人 じん 、アフリカ系 けい 黒人 こくじん の他 ほか に、両者 りょうしゃ の混血 こんけつ が存在 そんざい する[15] 。また、アフリカ系 けい 黒人 こくじん はザンジバル原住民 げんじゅうみん と大陸 たいりく からの移住 いじゅう 民 みん に別 わか れ、ザンジバル原住民 げんじゅうみん はイラン のシーラーズ からの移民 いみん の子孫 しそん であるとしてシラジと名乗 なの り、混血 こんけつ 民 みん も含 ふく めてひとつの民族 みんぞく としてのアイデンティティを持 も つ。おもな民族 みんぞく はスクマ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、ハヤ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、ニャキュサ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、ニャムウェジ人 じん 、チャガ人 じん 、マコンデ族 ぞく などである。それ以外 いがい にはトングェ族 ぞく 、ハッザ族 ぞく などが存在 そんざい する。また、北部 ほくぶ からケニア 南部 なんぶ にかけて、先住民 せんじゅうみん であり遊牧民 ゆうぼくみん のマサイ族 ぞく も存在 そんざい する。
言語 げんご は、スワヒリ語 ご が国語 こくご であり、スワヒリ語 ご と英語 えいご が公用 こうよう 語 ご である[18] [19] 。
スワヒリ語 ご は国語 こくご の扱 あつか いを受 う けており、1960年 ねん のタンガニーカ独立 どくりつ 時 じ にはすでに公用 こうよう 語 ご に指定 してい されていた。これは旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく の言語 げんご をそのまま公用 こうよう 語 ご に指定 してい した他 ほか のアフリカ諸国 しょこく とは大 おお きく異 こと なる点 てん である。1961年 ねん のザンジバルとの連合 れんごう 後 ご 、スワヒリ語 ご 母語 ぼご 話者 わしゃ がほとんどを占 し めるザンジバルを加 くわ えたことでこの政策 せいさく はより推進 すいしん されることとなった。1967年 ねん のウジャマー社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政策 せいさく の採用 さいよう 以来 いらい 、スワヒリ語 ご の近代 きんだい 言語 げんご 化 か や教育 きょういく による普及 ふきゅう が進 すす められた。タンザニア憲法 けんぽう はスワヒリ語 ご で書 か かれており、大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の中 なか でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽 おんがく などで用 もち いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語 ご は国民 こくみん 統合 とうごう のための言語 げんご としての地位 ちい を与 あた えられている[20] 。その結果 けっか 、タンザニアでは国民 こくみん のほぼ100%がスワヒリ語 ご を解 げ するとされ、国家 こっか 内 ない で同一 どういつ の言語 げんご が通 つう じることはタンザニアの政情 せいじょう 安定 あんてい に大 おお きく貢献 こうけん しているとされる[8] 。一方 いっぽう で、スワヒリ語 ご での教育 きょういく は初等 しょとう 教育 きょういく に限 かぎ られ、中等 ちゅうとう 教育 きょういく 以降 いこう へのスワヒリ語 ご 導入 どうにゅう は進 すす んでいない[21] 。2015年 ねん にはタンザニア政府 せいふ は中等 ちゅうとう 教育 きょういく 以降 いこう においても教授 きょうじゅ 言語 げんご を英語 えいご からスワヒリ語 ご へ転換 てんかん する政策 せいさく を表明 ひょうめい し[22] 、実現 じつげん されればサブサハラアフリカ では初 はつ の試 こころ みとなる。
宗教 しゅうきょう は、タンガニーカではキリスト教 きりすときょう が30%、イスラム教 いすらむきょう が35%、伝統 でんとう 的 てき 宗教 しゅうきょう が35%である[15] 。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教 いすらむきょう である[15] 。
タンザニアの児童 じどう
学制 がくせい は初等 しょとう 教育 きょういく が7年 ねん 、前期 ぜんき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく が4年 ねん 、後期 こうき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく が2年 ねん 、高等 こうとう 教育 きょういく が3年 ねん の7-4-2-3制 せい 。義務 ぎむ 教育 きょういく は初等 しょとう 教育 きょういく のみである。初等 しょとう 教育 きょういく は2001年 ねん より無償 むしょう 化 か し、これにより就学 しゅうがく 率 りつ が大幅 おおはば に向上 こうじょう した。現在 げんざい 、初等 しょとう 教育 きょういく の就学 しゅうがく 率 りつ は97.3%である。前期 ぜんき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく は20.7%、後期 こうき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく は0.9%。教育 きょういく 言語 げんご は、初等 しょとう 教育 きょういく は公用 こうよう 語 ご であるスワヒリ語 ご であるが、中等 ちゅうとう 教育 きょういく 以降 いこう は英語 えいご が教育 きょういく 言語 げんご である。
2002年 ねん のセンサスによれば、15歳 さい 以上 いじょう の国民 こくみん の識字 しきじ 率 りつ は69.4%(男性 だんせい :77.5%、女性 じょせい :62.2%)である[15] 。1999年 ねん にはGDPの2.2%が教育 きょういく に支出 ししゅつ された[15] 。
おもな高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん としては、ダルエスサラーム大学 だいがく やソコイネ農業 のうぎょう 大学 だいがく の名 な がげられる。
かつては衛生 えいせい 状態 じょうたい が劣悪 れつあく で、1978年 ねん 1月 がつ には首都 しゅと ダニエスサラームを中心 ちゅうしん にコレラ 患者 かんじゃ が多発 たはつ 、180人 にん 以上 いじょう の死者 ししゃ が出 で た。政府 せいふ はトイレ の環境 かんきょう 改善 かいぜん を奨励 しょうれい した[23] 結果 けっか 、2020年 ねん 現在 げんざい 、都市 とし 部 ぶ では改善 かいぜん されたトイレを利用 りよう できる人口 じんこう 比率 ひりつ は30%を超 こ える状態 じょうたい となっている[24] 。
タンザニアにおける2007年 ねん のHIV 感染 かんせん 者 しゃ は推計 すいけい で約 やく 140万 まん 人 にん であり[15] 、感染 かんせん 率 りつ は6.2%である[15] 。タンザニア人 じん の平均 へいきん 寿命 じゅみょう は52.01歳 さい (男性 だんせい :50.56歳 さい 、女性 じょせい :53.51歳 さい )である[15] 。
タンザニアの治安 ちあん はかなり危険 きけん な状況 じょうきょう となっている。同国 どうこく では全土 ぜんど において一般 いっぱん 犯罪 はんざい が日常 にちじょう 的 てき に発生 はっせい しているとの情報 じょうほう がある。特 とく に都市 とし 部 ぶ においては、強盗 ごうとう (主 おも に路上 ろじょう 強盗 ごうとう や車両 しゃりょう 強盗 ごうとう )、住居 じゅうきょ 侵入 しんにゅう 、空 あ き巣 す 、詐欺 さぎ 、ひったくり が多 おお く発生 はっせい しており、銃器 じゅうき が使用 しよう される凶悪 きょうあく 犯罪 はんざい も発生 はっせい している。
2020年 ねん 10月 がつ には隣国 りんごく モザンビーク北部 ほくぶ のカーボデルガード州 しゅう における治安 ちあん 悪化 あっか が波及 はきゅう する形 かたち で、タンザニアで初 はじ めてイスラム国 こく に関係 かんけい するとみられる武装 ぶそう グループによるムトワラ州 しゅう 村民 そんみん 襲撃 しゅうげき 事件 じけん が発生 はっせい 。その後 ご もモザンビークとの国境 こっきょう 地域 ちいき では武装 ぶそう グループによる襲撃 しゅうげき 事件 じけん も多発 たはつ しており、更 さら に翌年 よくねん 2021年 ねん 8月 がつ にはダルエスサラーム市 し で銃 じゅう 発砲 はっぽう 事件 じけん が発生 はっせい している。
また、隣国 りんごく からの密入国 みつにゅうこく 者 しゃ も多 おお く、これらの中 なか には武器 ぶき を所持 しょじ しているケースもあるなど、難民 なんみん 流入 りゅうにゅう に伴 ともな い治安 ちあん の悪化 あっか が懸念 けねん されている。加 くわ えて、近隣 きんりん 国 こく のウガンダではISとの関係 かんけい が疑 うたが われるテロ事件 じけん が続発 ぞくはつ しているのが現状 げんじょう である。その為 ため 、滞在 たいざい する際 さい にはこうした状況 じょうきょう のタンザニアへの波及 はきゅう リスクを念頭 ねんとう に充分 じゅうぶん 留意 りゅうい する必要 ひつよう が求 もと められる[25] 。
タンザニアにはメディア評議 ひょうぎ 会 かい が存在 そんざい しており、評議 ひょうぎ 会 かい は1995年 ねん に開設 かいせつ された。2003年 ねん に成立 せいりつ した「タンザニア通信 つうしん 規制 きせい 法 ほう 」により、放送 ほうそう ライセンスを監督 かんとく する「タンザニア通信 つうしん 規制 きせい 当局 とうきょく 」が創設 そうせつ されている。
マコンデ人 じん の彫刻 ちょうこく
ウガリ と呼 よ ばれるトウモロコシ の粉 こな を練 ね ったもの、または米 べい が主食 しゅしょく で、これにトマト ベースのスープなどのおかずをつけて食 た べるのが一般 いっぱん 的 てき である。プランテン・バナナ やキャッサバ 、チャパティ などを食 た べる地域 ちいき もある。
タンザニアにおける文学 ぶんがく は、20世紀 せいき 後半 こうはん まで主 あるじ に口承 こうしょう 文学 ぶんがく を主体 しゅたい としていた。タンザニア国内 こくない で記録 きろく されている口承 こうしょう 文学 ぶんがく の大 だい 部分 ぶぶん はスワヒリ語 ご であるが、同国 どうこく の言語 げんご にはそれぞれ独自 どくじ の口承 こうしょう の伝統 でんとう が根付 ねつ いている為 ため 、必 かなら ずしも画一 かくいつ されたものとはなっていない。
ポピュラー音楽 おんがく においては、1980年代 ねんだい からダルエスサラームで発達 はったつ したレゲエ やヒップ・ホップ の影響 えいきょう を受 う けたボンゴフレーバー 、20世紀 せいき 前半 ぜんはん にザンジバルで発達 はったつ したタアラブ やその現代 げんだい 版 ばん のモダン・タアラブなどが存在 そんざい する。1980年代 ねんだい にはジャマイカ 発祥 はっしょう のレゲエ の汎 ひろし アフリカ主義 しゅぎ のメッセージが一定 いってい の力 ちから を持 も ち、タンザニア人 じん ラスタファリアン が存在 そんざい した[26] 。なお、伝統 でんとう 音楽 おんがく においては親指 おやゆび ピアノ 、ンゴマ などが存在 そんざい する。
南部 なんぶ に居住 きょじゅう するマコンデ人 じん のシェタニ(精霊 せいれい )をモチーフとした黒檀 こくたん の彫刻 ちょうこく はタンザニアの美術 びじゅつ において特筆 とくひつ される。
現代 げんだい タンザニアを代表 だいひょう する画家 がか 、ジョージ・リランガ (英語 えいご 版 ばん ) もシェタニをモチーフに絵画 かいが や彫刻 ちょうこく を製作 せいさく した。その他 た にもタンザニアで発展 はってん を遂 と げたポップアート として、エドワード・サイディ・ティンガティンガ (英語 えいご 版 ばん ) が1960年代 ねんだい に大成 たいせい したティンガティンガ派 は 絵画 かいが の存在 そんざい が挙 あ げられる。
タンザニア国内 こくない には、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん リストに登録 とうろく された文化 ぶんか 遺産 いさん が3件 けん 、自然 しぜん 遺産 いさん が4件 けん 存在 そんざい する。
国立 こくりつ 公園 こうえん ・国立 こくりつ 保護 ほご 区 く [ 編集 へんしゅう ]
タンザニア国内 こくない でも他 た のアフリカ 諸国 しょこく 同様 どうよう 、サッカー が圧倒的 あっとうてき に1番 ばん 人気 にんき のスポーツ となっている。1965年 ねん にサッカーリーグのタンザニアン・プレミアリーグ が創設 そうせつ された。タンザニアサッカー連盟 れんめい (英語 えいご 版 ばん ) によって構成 こうせい されるサッカータンザニア代表 だいひょう は、これまでFIFAワールドカップ には未 み 出場 しゅつじょう である。アフリカネイションズカップ には2度 ど 出場 しゅつじょう しているが、いずれもグループリーグ敗退 はいたい となっている。
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座標 ざひょう : 南緯 なんい 6度 ど 18分 ふん 25秒 びょう 東経 とうけい 34度 ど 51分 ふん 14秒 びょう / 南緯 なんい 6.307度 ど 東経 とうけい 34.854度 ど / -6.307; 34.854