タンザニア

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タンザニア連合れんごう共和きょうわこく
Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ
United Republic of Tanzania 英語えいご
タンザニアの国旗 タンザニアの国章
国旗こっき (くにあきら)
くに標語ひょうごUhuru na Umoja
スワヒリ: "自由じゆう統一とういつ")
国歌こっかMungu ibariki Afrika(スワヒリ
かみよ、アフリカに祝福しゅくふく
タンザニアの位置
公用こうよう スワヒリ国語こくご公用こうよう)、英語えいご公用こうよう[1] [2]
首都しゅと ドドマ
最大さいだい都市とし ダルエスサラーム
政府せいふ
大統領だいとうりょう サミア・スルフ・ハッサン
ふく大統領だいとうりょう英語えいごばん フィリップ・ムパンゴ英語えいごばん
首相しゅしょうカシム・マジャリワ英語えいごばん
面積めんせき
総計そうけい 945,087km230
水面すいめんせきりつ 6.2%
人口じんこう
総計そうけい2022ねん 63,852,892[3]ひと23)(ザンジバルをふくむ)
人口じんこう密度みつど 67.6にん/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2020ねん 148ちょう5221おく1100まん[4]タンザニア・シリング
GDP(MER
合計ごうけい2020ねん644おく300まん[4]ドル(71
1人ひとりあたり 1110.37(推計すいけい)2[4]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2020ねん1696おく8900まん[4]ドル(74
1人ひとりあたり 2925.615(推計すいけい)[4]ドル
独立どくりつ
 - タンガニーカ
 - ザンジバル
 - 合併がっぺい
イギリスより
1961ねん12月9にち
1963ねん12月19にち
1964ねん4がつ26にち
通貨つうか タンザニア・シリングTZS
時間じかんたい UTC(+3) (DST:なし)
ISO 3166-1 TZ / TZA
ccTLD .tz
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 255 3
  1. ^ Tanzania Goverment Portal :languages タンザニア連合れんごう共和きょうわこく政府せいふ 2019ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ 各国かっこく地域ちいき情勢じょうせい 国名こくめい:タンザニア連合れんごう共和きょうわこく(United Republic of Tanzania) 外務省がいむしょう 2019ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  3. ^ Tanzania”. ザ・ワールド・ファクトブック. 2022ねん8がつ8にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021ねん10がつ17にち閲覧えつらん[1]

註1: データは本土ほんどのみ
註2: 立法府りっぽうふ議事堂ぎじどうドドマ、その政府せいふ官庁かんちょうダルエスサラーム
註3: ケニアとウガンダからける場合ばあいは 007

タンザニア連合れんごう共和きょうわこく(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称つうしょうタンザニアは、ひがしアフリカにある共和きょうわせい国家こっかイギリス連邦れんぽう加盟かめいこくケニアウガンダルワンダブルンジザンビアマラウイモザンビーク国境こっきょうせっし、タンガニーカ対岸たいがんにはコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくがあり、またインド洋いんどようめんする。

1996ねん立法府りっぽうふ議事堂ぎじどう法律ほうりつじょうしん首都しゅとドドマ移転いてんされたが、その政府せいふ官庁かんちょうきゅう首都しゅとダルエスサラームにある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

タンザニアはひがしアフリカ大陸たいりくタンガニーカインド洋いんどよう島嶼とうしょザンジバルから構成こうせいされ、ザンジバルは中央ちゅうおう政府せいふからつよ自治じちけん確保かくほしたザンジバル革命かくめい政府せいふによって統治とうちされている。

また、アフリカでも有数ゆうすうだい自然しぜんめぐまれ、文化ぶんかてきにもスワヒリ国語こくごとし、アフリカ在来ざいらい言語げんごおおきな役割やくわりたしている数少かずすくない国家こっかである。

国名こくめい[編集へんしゅう]

正式せいしき名称めいしょうは、スワヒリJamhuri ya Muungano wa Tanzania(ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア)。英語えいごUnited Republic of Tanzania(ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア)。通称つうしょうTanzania(タンザニア)。

日本語にほんご表記ひょうきは、タンザニア連合れんごう共和きょうわこく通称つうしょうタンザニア漢字かんじ表記ひょうきは、ひろしくわあま

国名こくめいはタンザニアを構成こうせいするために併合へいごうしたタンガニーカ(Tanganyika)とザンジバル(Zanzibar)の名前なまえに、かつてアフリカ南部なんぶさかえたアザニア文化ぶんか英語えいごばん(Azania)の名前なまえふくあわして1964ねん命名めいめいされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

キルワ・キシワニのだいモスクの遺跡いせき
19世紀せいきなかオマーン帝国ていこく版図はんと。19世紀せいきインド洋いんどよう覇権はけんをイギリスとあらそったオマーン帝国ていこくは、1830年代ねんだいよりひがしアフリカのザンジバル本拠地ほんきょちいていた。

有史ゆうし以前いぜん[編集へんしゅう]

250まん - 200まんねんまえホモ・ハビリス現在げんざいのタンザニアに相当そうとうする地域ちいき北部ほくぶオルドヴァイ峡谷きょうこく)に存在そんざいしていたことが、ルイス・リーキー博士はかせによって確認かくにんされている。

バンツーけい民族みんぞく移動いどう[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん10世紀せいきごろ、現在げんざいカメルーン相当そうとうする地域ちいきからバントゥーけい民族みんぞくがタンザニアの森林しんりん移住いじゅうした(en:Bantu expansion)。

イスラームの到来とうらい[編集へんしゅう]

7世紀せいきアラビア半島はんとうイスラームきょう成立せいりつしたあと、アラブじんペルシアじんひがしアフリカのインド洋いんどよう沿岸えんがん渡来とらいし、スワヒリ文明ぶんめいきずきあげた。10世紀せいきごろから16世紀せいき初頭しょとうにかけて、タンザニアにはキルワとうマフィアとうバガモヨなどのスワヒリ都市としさかえた。

ポルトガルりょう時代じだい[編集へんしゅう]

1498ねんポルトガル王国おうこく航海こうかいしゃヴァスコ・ダ・ガマがインド航路こうろ開拓かいたくし、インド洋いんどようにおけるポルトガル覇権はけんはじまった。ポルトガルは1505ねんキルワ王国おうこくほろぼしたあと、ひがしアフリカの各地かくち制圧せいあつした。

オマーン帝国ていこく時代じだい[編集へんしゅう]

アラブ勢力せいりょく拡大かくだいにともない、ポルトガル勢力せいりょくオマーンによって1698ねん現在げんざいのタンザニアりょうから駆逐くちくされ、南方なんぽうモザンビークとうにまで撤退てったいした。その、19世紀せいきはいるとオマーン帝国ていこくアラビア: الإمبراطورية العمانية‎)のサイイド・サイードおう在地ざいちマズルイから島嶼とうしょ沿岸えんがん地方ちほうみずからの勢力せいりょくけんき、1830年代ねんだいにザンジバルに王宮おうきゅうストーンタウン建設けんせつし、帝国ていこく本拠地ほんきょちうつした。1856ねんにサイイド・サイードおう死亡しぼうしたあと、本国ほんごくオマーン・スルタンこくとはべつサイイド・マージドがザンジバルのスルターン即位そくいするとザンジバル・スルタンこくSultanate of Zanzibar1856ねん - 1964ねん)が成立せいりつし、つづクローヴなどの香辛料こうしんりょう交易こうえき奴隷どれい貿易ぼうえきさかえ、この時代じだいにザンジバルはひがしアフリカ最大さいだい奴隷どれい市場いちばとなった。19世紀せいき後半こうはんには、ザンジバル出身しゅっしんのスワヒリ商人しょうにんティップー・ティプ現在げんざいコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく東部とうぶ相当そうとうするタンガニーカにまで勢力せいりょくばし、内陸ないりく地域ちいきのスワヒリ普及ふきゅう一因いちいんとなった。かれデイヴィッド・リヴィングストンヘンリー・モートン・スタンリー探険たんけんたすけた。

イギリス・ドイツ植民しょくみん時代じだい[編集へんしゅう]

ドイツりょうひがしアフリカ

1880年代ねんだいアフリカ分割ぶんかつはじまると、カール・ペータース活動かつどうによって1885ねん大陸たいりくドイツひがしアフリカ会社かいしゃ植民しょくみん認可にんかされた(ドイツりょうひがしアフリカ)。19世紀せいき後半こうはんからインド洋いんどよう進出しんしゅつしていたイギリスは、1890ねん7がつ1にちにドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約じょうやく締結ていけつし、ザンジバルりょうのうち、沿岸えんがん地方ちほうはドイツが獲得かくとくし、島嶼とうしょのザンジバルをイギリスの保護ほごこくとした。1890ねん保護ほごこくとなったザンジバル・スルタンこくは、政変せいへんにともなう1896ねんイギリスとの戦争せんそうでイギリスに一方いっぽうてき敗北はいぼくし、保護ほごこく当初とうしょのザンジバルへの内政ないせい不干渉ふかんしょう原則げんそく反故ほごにされ、以後いごザンジバルではイギリスによる行政ぎょうせいすすんだ。

一方いっぽう大陸たいりくのタンガニーカでは、ペータースの植民しょくみん会社かいしゃ沿岸えんがん地方ちほう発生はっせいしたアブシリの反乱はんらん鎮圧ちんあつこずり、会社かいしゃによる統治とうち不可能ふかのう判断はんだんされ、本国ほんごくドイツから総督そうとく派遣はけんける統治とうち形態けいたいへとわった。19世紀せいきまつ領域りょういき内部ないぶには部族ぶぞく国家こっか複数ふくすう存在そんざいしており、なかでもルヴマしゅうソンゲア・ルワフ・ムバノひきいるンゴニぞくイリンガしゅうムクワワひきいるヘヘぞく英語えいごばんだい勢力せいりょくであったが、そうあらそっていたため、すうねんがかりで各個かっこ制圧せいあつされていった。しかしながら、指導しどうしゃムクワワひきいるヘヘぞく英語えいごばんとのゲリラたたかえ1891ねん - 1898ねん)は長期ちょうきした。1905ねん霊媒れいばいキンジキティレ・ングワレ英語えいごばん(Kinjikitile Ngwale)が主導しゅどうするマジ・マジ反乱はんらんンゴニぞく呼応こおうして最大さいだい反乱はんらんとなったが、ヘヘぞくがドイツがわについて部族ぶぞく垣根かきねえることはできず、徹底的てっていてき鎮圧ちんあつされた。この反乱はんらんけて、ドイツは統治とうち政策せいさく見直みなおしをおこなうこととなった。沿岸えんがんからタンガニーカまでをむす鉄道てつどうドイツ: Tanganjikabahn現在げんざいタンザニア中央ちゅうおう鉄道てつどう英語えいごばん)は、1905ねんダルエスサラーム起点きてん着工ちゃっこうし、1914ねんには終点しゅうてんキゴマ到達とうたつして完成かんせいした。

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、ひがしアフリカ戦線せんせんではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍しょうぐんひきいる現地げんちじん兵士へいしアスカリ)を中心ちゅうしんとしたゲリラ部隊ぶたいイギリスぐんなどを相手あいて本国ほんごく降伏ごうぶくまで交戦こうせんおこなった。

イギリス・ベルギー植民しょくみん時代じだい[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんがドイツの敗北はいぼく終結しゅうけつしたことによりドイツりょうひがしアフリカ解体かいたいされ、大半たいはんイギリス委任いにん統治とうちりょうタンガニーカじゅんしゅうとなり、東北とうほくルアンダ=ウルンディベルギー委任いにん統治とうちりょうとなった。イギリスはひがしアフリカで4地域ちいきウガンダケニアタンガニーカザンジバル)を支配しはいすることとなり、これらには関税かんぜい同盟どうめいかれ、ドイツりょうひがしアフリカルピー英語えいごばんえて共通きょうつう通貨つうかひがしアフリカ・シリング英語えいごばん導入どうにゅうされた。中央ちゅうおう鉄道てつどうには複数ふくすう支線しせん敷設ふせつされ、そのひとつはヴィクトリアムワンザにまで延長えんちょうされた。

1939ねんだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつするとイギリスりょうだったひがしアフリカ地域ちいきからは28まんにん動員どういんされ、タンガニーカからは8まん7,000にん出征しゅっせいした[1]ひがしアフリカ部隊ぶたいひがしアフリカ戦線せんせんイタリアぐんと、ビルマ戦線せんせん日本にっぽんぐんとのたたかいをひろげ、インパール作戦さくせん日本にっぽんぐん対峙たいじしたイギリスぐんにはおおくのアフリカじんアスカリ存在そんざいした。

独立どくりつ連合れんごう[編集へんしゅう]

タンザニア連合れんごう共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょうジュリウス・ニエレレ。「ムワリム」(スワヒリで「先生せんせい」の)とばれ、タンザニアじん尊敬そんけいあつめている。

だい世界せかい大戦たいせん世界せかいてきだつ植民しょくみん潮流ちょうりゅうなかタンガニーカ=アフリカじん民族みんぞく同盟どうめい英語えいごばん(TANU)が次第しだい支持しじあつめ、1961ねん12月9にち大陸たいりくがわのタンガニーカがイギリスの合意ごういのもと平和へいわてき独立どくりつした。1963ねんにはザンジバル王国おうこく主権しゅけん獲得かくとくして独立どくりつした。しかし、よく1964ねん1がつザンジバルで革命かくめい勃発ぼっぱつすると国王こくおう亡命ぼうめいし、アラブじん排斥はいせき流血りゅうけつ事態じたいなかザンジバル人民じんみん共和きょうわこく成立せいりつした。その、ザンジバルでの政変せいへんて、ニエレレのひろしアフリカ主義しゅぎ精神せいしんした両国りょうこく連合れんごうし、1964ねん4がつ26にちタンガニーカ・ザンジバル連合れんごう共和きょうわこく成立せいりつした[2]同年どうねん10がつ29にち、この国家こっか連合れんごう両国りょうこく名称めいしょうとかつてこの地域ちいきさかえたアザニア文化ぶんか英語えいごばん名称めいしょうふくごうし、タンザニア連合れんごう共和きょうわこく改称かいしょうした。

独立どくりつ連合れんごう共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょうとなったジュリウス・ニエレレは、内政ないせいめんではスワヒリ国語こくごとし、1967ねんアルーシャ宣言せんげん英語えいごばん発令はつれい以後いご社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつ目指めざし、ウジャマー英語えいごばんばれるコンセプトにもとづいたアフリカ社会しゃかい主義しゅぎ採用さいようした(ウジャマー社会しゃかい主義しゅぎ)。対外たいがいてきにはひがしアフリカ諸国しょこくひがしアフリカ連邦れんぽう英語えいごばん統合とうごうする構想こうそうかか[3][4][5]、アルーシャを本部ほんぶとするひがしアフリカ共同きょうどうたいだいいち)をつく[6]みなみアフリカ共和きょうわこくアパルトヘイト政権せいけんローデシアたい白人はくじん少数しょうすう支配しはい対抗たいこうする「最前線さいぜんせん」としてザンビアボツワナフロントライン諸国しょこく英語えいごばん(FLS)を結成けっせいして、ニエレレは初代しょだい議長ぎちょうつとめた[7]。また、ローデシアやみなみアフリカ共和きょうわこくからの経済けいざいてき自立じりつはかタンザン鉄道てつどう建設けんせつなどをつうじて中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの関係かんけいふかめ、ポルトガルとも敵対てきたいし、1964ねんモザンビーク独立どくりつ戦争せんそうはじまると、エドゥアルド・モンドラーネ議長ぎちょう指導しどうするモザンビーク解放かいほう戦線せんせん(FRELIMO)を支援しえんし、解放かいほう提供ていきょうした。この時期じきにタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビア南西なんせいアフリカ人民じんみん機構きこう(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカじん民族みんぞく同盟どうめい英語えいごばん(ZANU)を支援しえんしている。

1971ねんミルトン・オボテイディ・アミンのクーデターによって追放ついほうされて以来いらい、オボテをかくまったタンザニアは隣国りんごくウガンダとは対立たいりつつづいた。

タンザニア革命かくめいとう[編集へんしゅう]

1977ねんにそれまでべつ組織そしきだったTANUとアフロ・シラジとう英語えいごばん(ASP)が統合とうごうし、タンザニア革命かくめいとう成立せいりつし、国内こくないでもいちとうせい移行いこうした。

1978ねんにそれまで対立たいりつしていたウガンダのアミン大統領だいとうりょうがタンザニアに侵攻しんこうするとこれを撃退げきたいし、タンザニアぐんはウガンダの首都しゅとカンパラ攻略こうりゃくしてアミン失脚しっきゃく一因いちいんとなった(ウガンダ・タンザニア戦争せんそう)。こうした政策せいさくによってタンザニアはアフリカ内外ないがいだいさん世界せかい指導しどうする国家こっか一角いっかくとしての信望しんぼうあつめたが、その一方いっぽうで1970年代ねんだいはいるとおや西側にしがわてきなケニアのジョモ・ケニヤッタとの対立たいりつみずからの理想りそう体現たいげんしたひがしアフリカ共同きょうどうたい消滅しょうめつし、旱魃かんばつによる農業のうぎょう衰退すいたいや、ウジャマーむら建設けんせつ失敗しっぱい各地かくち報告ほうこくされ、経済けいざいめんでウジャマー社会しゃかい主義しゅぎ失敗しっぱいあきらかになった。

1980年代ねんだいはいるとだい石油せきゆ危機きき影響えいきょうもあって経済けいざい衰退すいたい深刻しんこくし、にち用品ようひん飲料いんりょうすい不足ふそく起因きいんする国民こくみん不満ふまんたかまるなか、1985ねん11月にニエレレは引退いんたい発表はっぴょうした。

経済けいざい自由じゆう[編集へんしゅう]

後任こうにんには与党よとうタンザニア革命かくめいとうからザンジバル出身しゅっしんアリ・ハッサン・ムウィニ就任しゅうにんし、ムウィニのしたIMF勧告かんこくれるなど経済けいざい自由じゆうすすめられ、また複数ふくすう政党せいとうせいみとめられて民主みんしゅおこなわれた。1995ねん就任しゅうにんしたベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領だいとうりょう時代じだいには、1994ねん民主みんしゅしたみなみアフリカ共和きょうわこくからの投資とうしさかんにおこなわれ、経済けいざい復興ふっこうげた。

1998ねん8がつ7にちにはアルカイーダによって首都しゅとダルエスサラームちゅうタンザニアアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使館たいしかん攻撃こうげきされる、アメリカ大使館あめりかたいしかん爆破ばくは事件じけん発生はっせいした。

2005ねんにはジャカヤ・キクウェテ大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、2015ねんにはジョン・マグフリ大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

政治せいじ[編集へんしゅう]

だい4だい大統領だいとうりょうジャカヤ・キクウェテ閣僚かくりょう
だい5だい大統領だいとうりょうジョン・マグフリ

タンザニアは共和きょうわせい大統領だいとうりょうせい国家こっか体制たいせいとする立憲りっけん国家こっかである。現行げんこう憲法けんぽうであるタンザニア憲法けんぽう英語えいごばん1977ねん4がつ25にち制定せいてい1984ねん10月大幅おおはば改正かいせい)されたもの。

タンザニア政治せいじ特徴とくちょうとして、のアフリカ諸国しょこくおおられる、特定とくてい部族ぶぞくによる政権せいけん独占どくせん民族みんぞくによる投票とうひょう行動こうどうられないことがあげられる。これは、国内こくない特別とくべつおおきな民族みんぞくグループが存在そんざいしないこと、スワヒリによる初等しょとう教育きょういくと、教育きょういくプログラムにまれたひろしタンザニアなどをつうじてタンザニアじんとしてのアイデンティティ創出そうしゅつ成功せいこうしたこと、初代しょだい大統領だいとうりょうニエレレがウジャマー社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつ過程かてい旧来きゅうらい地方ちほう組織そしき解体かいたいしたこと、複数ふくすう政党せいとうせい導入どうにゅう民族みんぞく基盤きばんとした政党せいとう結成けっせいきんじられたことなどが理由りゆうとなっている[8]

元首げんしゅ[編集へんしゅう]

国家こっか元首げんしゅである大統領だいとうりょうは、国民こくみん直接ちょくせつ選挙せんきょにより選出せんしゅつされ、任期にんきは5ねん。3せん禁止きんしされている。首相しゅしょうおよび閣僚かくりょう大統領だいとうりょうにより任命にんめいされるが、閣僚かくりょう国民こくみん議会ぎかい議員ぎいんでなければならない。2015ねん10がつ与党よとう信任しんにん選出せんしゅつされたジョン・マグフリだい5だい大統領だいとうりょうが2021ねん3がつ17にち死去しきょ[9]し、後任こうにんだい6だい大統領だいとうりょうとしてふく大統領だいとうりょうであったサミア・スルフ・ハッサン同国どうこくはつ女性じょせい大統領だいとうりょうとして就任しゅうにんした。死去しきょしたマグフリの残余ざんよ任期にんき[10]

立法りっぽう[編集へんしゅう]

立法府りっぽうふ一院制いちいんせいで、正式せいしき名称めいしょう国民こくみん議会ぎかい定数ていすうは393議席ぎせきで、うち264議席ぎせき国民こくみん直接ちょくせつ選挙せんきょわく(うち50議席ぎせきは、ザンジバル5しゅうない選挙せんきょより選出せんしゅつ)、113議席ぎせき大統領だいとうりょう任命にんめいする女性じょせい議員ぎいんわく、5議席ぎせきザンジバル革命かくめい議会ぎかい議員ぎいんわくである。議員ぎいん任期にんきは5ねんである。

1992ねん以来いらい、タンザニアでは複数ふくすう政党せいとうせいみとめられているが、タンザニア革命かくめいとう(CCM)による政権せいけん独立どくりつ以来いらいつづいている。その政党せいとう勢力せいりょく脆弱ぜいじゃくだが、市民しみん統一とういつ戦線せんせん(CUF)と民主進歩党みんしゅしんぽとう(CHADEMA)が比較的ひかくてき有力ゆうりょくである。

ザンジバル[編集へんしゅう]

連合れんごう共和きょうわこく政府せいふとはべつに、ザンジバルには独自どくじ自治じち政府せいふであるザンジバル革命かくめい政府せいふおよび議会ぎかい存在そんざいし、ザンジバルの内政ないせいになっている。統治とうちけんおよぶのはザンジバルとうの3しゅう、およびペンバとうの2しゅうである。ザンジバルの大統領だいとうりょう英語えいごばんはザンジバル住民じゅうみん直接ちょくせつ選挙せんきょ選出せんしゅつされ、任期にんきは5ねんである。ザンジバル議会ぎかい一院制いちいんせい定数ていすう81議席ぎせき議員ぎいん任期にんきは5ねんで、81議席ぎせきちゅう50議席ぎせきはザンジバル住民じゅうみん直接ちょくせつ選挙せんきょにより選出せんしゅつされる。2021ねん現在げんざいのザンジバル大統領だいとうりょうタンザニア革命かくめいとう (CCM) のフセイン・ムウィニ英語えいごばんだい8だい)。強力きょうりょく自治じち政府せいふであり、大陸たいりくからザンジバルとうわた場合ばあいでも、入国にゅうこく管理かんり手続てつづきが存在そんざいする。タンガニーカ独自どくじ政府せいふ存在そんざいしない。

一方いっぽうで、ザンジバルにおいては首都しゅとのあるウングジャとうとペンバとうあいだ対立たいりつがある。ペンバとうはザンジバル革命かくめいとききゅう政権せいけんがわ支持しじしたため、革命かくめい政権せいけんによって冷遇れいぐうけた。この対立たいりつ民主みんしゅでもつづいており、ウングジャとうタンザニア革命かくめいとうつよ一方いっぽう、ペンバとうはタンザニア最大さいだい野党やとう市民しみん統一とういつ戦線せんせん地盤じばんとなっている。ザンジバル経済けいざいはペンバとうでおもに栽培さいばいされるクローブの輸出ゆしゅつはしらとしているため、経済けいざいめんでの貢献こうけんしてペンバとう政治せいじめん冷遇れいぐうけていることがさらにこの対立たいりつ増幅ぞうふくしている。

国際こくさい関係かんけい[編集へんしゅう]

独立どくりつ以来いらい、ニエレレ大統領だいとうりょうしただいさん世界せかい外交がいこう実践じっせんされ、とくソビエト連邦れんぽうよりも中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの友好ゆうこう関係かんけいきずかれた。ザンビアからタンザニアにいたタンザン鉄道てつどうやタンザニア海軍かいぐん基地きちなども中国ちゅうごく援助えんじょによって建設けんせつされ、中国ちゅうごく支援しえんでできたアマーン・スタジアム英語えいごばんでタンザニア革命かくめいとう設立せつりつされた[11]。もともとえいりょうひがしアフリカ植民しょくみんとして同一どういつ政府せいふ機構きこうしたにあったウガンダやケニアとは独立どくりつからひがしアフリカ共同きょうどう役務えきむ機構きこう設立せつりつしており、アルーシャに事務じむきょくひがしアフリカ共同きょうどうたいだいいち)の盟主めいしゅでもあったが、1977ねんにケニアと決裂けつれつしてひがしアフリカ共同きょうどうたい解体かいたい、1978ねんにはウガンダ・タンザニア戦争せんそうきた。その2001ねんひがしアフリカ共同きょうどうたいはアルーシャでさい結成けっせいされ、ふたた協力きょうりょく体制たいせい構築こうちくされた。また、南部なんぶアフリカ開発かいはつ調整ちょうせい会議かいぎ英語えいごばん(SADCC)の設立せつりつ経緯けいいから、ひがしアフリカ諸国しょこく加盟かめいしていない南部なんぶアフリカ開発かいはつ共同きょうどうたい(SADC)の一員いちいんでもある。

日本にっぽんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

1960年代ねんだい日本にっぽんから6にん技術ぎじゅつ専門せんもんおくまれ、政治せいじ顧問こもん官僚かんりょうとして活動かつどうした。このことがえんとなり、1969ねんにはタンザニアの大臣だいじん発案はつあんで、キリマンジャロしゅうの1まん4000平方へいほうキロの土地とち日本にっぽんし、パイロット地区ちく形成けいせいしようとするあんまれた[12]

  • 在留ざいりゅう日本人にっぽんじんすう - 195めい(2021ねん10がつ外務省がいむしょう海外かいがい在留ざいりゅう邦人ほうじんすう調査ちょうさ統計とうけい[13]
  • 在日ざいにちタンザニアじんかず - 433にん(2021ねん12月,法務省ほうむしょう在留ざいりゅう外国がいこくじん統計とうけい[13]

1976ねん日本にっぽん大使館たいしかん書記官しょきかん象牙ぞうげ密輸みつゆはかっていたとして事実じじつじょう更迭こうてつけた。タンザニアでは当時とうじから象牙ぞうげ輸出ゆしゅつ許可きょかせいとなっており、規制きせい回避かいひするために外交がいこう特権とっけん利用りようして日本にっぽんおくっていたうたがい。象牙ぞうげあつめを手伝てつだったタンザニア従業じゅうぎょういん警察けいさつ調しらべをけたのち解雇かいこされており、現地げんちみん日系にっけい企業きぎょうからは批難ひなんこえがった[14]

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう[編集へんしゅう]

タンザニア人民じんみん防衛ぼうえいぐん

タンザニア人民じんみん防衛ぼうえいぐん陸軍りくぐん海軍かいぐん空軍くうぐん三軍さんぐんから構成こうせいされ、そう人員じんいんやく2まん7,000にんである。兵制へいせい志願しがんせい採用さいようしている。2005ねんにはGDPの0.2%が軍事ぐんじ支出ししゅつされた[15]

地理ちり[編集へんしゅう]

タンザニアの地図ちず
アフリカ大地だいちみぞたい

タンザニアの面積めんせき94まん5,087km²は世界せかい31ひろさでエジプトつづき、ナイジェリアとほぼひとしい。北東ほくとうアフリカ最高峰さいこうほうキリマンジャロさん(5,895メートル)があり、北部ほくぶアフリカ最大さいだい面積めんせきほこビクトリア西部せいぶアフリカでもっともふかタンガニーカがある。このみなみニアサふくアフリカさんだいみずうみ存在そんざいする。これらはアフリカ大地だいちみぞたい形成けいせいしたものである。中部ちゅうぶには高原こうげんひろがる。東部とうぶ海岸かいがんあつ気候きこうで、ザンジバルとう(ウングジャとう)がすぐ沖合おきあいにある。

気候きこう国土こくど大半たいはんサバナ気候きこうぞくし、中央ちゅうおうステップ気候きこう南部なんぶ北部ほくぶ高原こうげん温暖おんだん冬季とうき少雨しょうう気候きこうである。降水こうすいりょう海岸かいがんやビクトリア湖岸こがん、キリマンジャロ周辺しゅうへんでは1,000ミリをえるが、内陸ないりくでは500ミリ程度ていどのところがおおい。植生しょくせいは、海岸かいがん熱帯ねったいはん落葉らくよう降雨こううりんが、内陸ないりくミオンボ(またはミヨンボ)とばれる熱帯ねったい広葉こうようみどり乾燥かんそうりんひろがっている。

生態せいたいがくじょう貴重きちょう野生やせい公園こうえん数多かずおお存在そんざいする。きた有名ゆうめいンゴロンゴロ保全ほぜん地域ちいきセレンゲティ国立こくりつ公園こうえん、そしてみなみセルースりょうじゅう保護ほごルアハ国立こくりつ公園こうえんミクミ国立こくりつ公園こうえんがある。西にしゴンベ国立こくりつ公園こうえんジェーン・グドール博士はかせチンパンジー研究けんきゅうしたところである。タンザニア政府せいふ観光かんこうしょう南西なんせいルクワ地域ちいきにあるカランボたき観光かんこう拠点きょてんにしようとつとめている。このたきはタンガニーカ南端なんたんにあり、アフリカだい2の規模きぼである。

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん[編集へんしゅう]

タンザニアのしゅう

タンザニア連合れんごう共和きょうわこくは、タンガニーカの26しゅう、ザンジバルの5しゅう(ウングジャとう3しゅう、ペンバとう2しゅう)からなる。

タンガニーカ:
首相しゅしょう地方ちほう自治じち国務相こくむしょう(Minister of State, Regional Administration and Local Government)のした政令せいれい行政ぎょうせい上位じょういからしゅう(Region)、けん(District)、ぐん(Division)、(Ward)、むら(Village/Street)とさだめられている。そのけんぐんあいだ選挙せんきょ(Constituency)、むらした隣組となりぐみ(Sub-Vilage)が存在そんざいする。また、行政ぎょうせい系統けいとうが Regional Administration と Local Government にかれており、連合れんごう共和きょうわこく政府せいふレベルの行政ぎょうせい系統けいとうとしてRegional Administration(しゅうけんぐん)、地方ちほう政府せいふ行政ぎょうせい系統けいとうとしてLocal Government(けんむら)となっている。
ザンジバル:

主要しゅよう都市とし[編集へんしゅう]

経済けいざい[編集へんしゅう]

最大さいだい都市としダルエスサラーム

1980年代ねんだい中盤ちゅうばんまで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領だいとうりょうしもウジャマー社会しゃかい主義しゅぎ標榜ひょうぼうし、ウジャマーむらばれる集団しゅうだん農場のうじょう中心ちゅうしんとした社会しゃかい主義しゅぎ経済けいざい目指めざしていた。しかし旧来きゅうらい社会しゃかい制度せいどをまったく無視むししたこの方式ほうしき失敗しっぱいわり、生活せいかつ必需ひつじゅひん供給きょうきゅうすらとどこお状態じょうたいとなった。1985ねんにニエレレののちいだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領だいとうりょうは、IMFの勧告かんこくれ、貿易ぼうえき制限せいげん緩和かんわなどをおこな自由じゆう経済けいざいへとかじった。以後いごタンザニア経済けいざいゆるやかに回復かいふくへとかい、1995ねん就任しゅうにんしたベンジャミン・ムカパ大統領だいとうりょうおこなった国営こくえい企業きぎょう民営みんえいなど政府せいふセクターの民間みんかんへの移動いどうと、みなみアフリカ共和きょうわこくなどからの投資とうし拡大かくだいにより、1995ねんから2005ねんまでの経済けいざい成長せいちょうりつ平均へいきん5%を記録きろくした。

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

タンザニア経済けいざい農業のうぎょう立脚りっきゃくしており、GDP半分はんぶん以上いじょう輸出ゆしゅつの80%、雇用こようの85%は農業のうぎょうによってもたらされている。キリマンジャロ上質じょうしつのコーヒーとして世界中せかいじゅう愛好あいこうされる主要しゅよう輸出ゆしゅつひんである。ほかにちゃ栽培さいばいされる。ビクトリア周辺しゅうへんでは、漁業ぎょぎょう綿花めんか栽培さいばい中心ちゅうしんとした農業のうぎょうさかんにおこなわれている。ビクトリア捕獲ほかくされるナイルパーチスズキしょくかん淡水魚たんすいぎょ)は加工かこうされ、世界せかい各地かくち輸出ゆしゅつされている。に、カシューナッツなども主要しゅよう輸出ゆしゅつひんとなっている。一方いっぽう、ザンジバル経済けいざい根幹こんかんしているのがクローブ栽培さいばいである。19世紀せいきなかばにオマーンサイイド・サイードによってはじめられたクローブ栽培さいばいは、2015ねん現在げんざいではザンジバルの主要しゅよう輸出ゆしゅつひんとなっている。ザンジバルのクローブの90%はペンバとう栽培さいばいされている。

鉱工業こうこうぎょう[編集へんしゅう]

鉱業こうぎょうでは、宝石ほうせきタンザナイト産出さんしゅつすることで有名ゆうめいである。きむはアフリカではなんア、ガーナに産出さんしゅつがある。また、ブルンジと同様どうようちょう塩基えんきせいがんにともなうNi-PGE鉱床こうしょう存在そんざいし、ニッケルコバルトどう採掘さいくつされている。また、南部なんぶ海域かいいきのガスでんから天然てんねんガスが生産せいさんされダルエスサラームと地方ちほうでの発電はつでん使つかわれている。しかしタンザニアの電力でんりょくおおくは水力すいりょく発電はつでんによってまかなわれているため、旱魃かんばつ影響えいきょうけやすく、水不足みずぶそく電力でんりょく不足ふそく直結ちょっけつする。

観光かんこう[編集へんしゅう]

アフリカ大陸たいりく最高峰さいこうほうキリマンジャロさん

タンザニアの観光かんこうぎょう成長せいちょうつづけている。タンザニアにおける観光かんこうぎょうはGDPの17.5%をめ、外貨がいか収入しゅうにゅうの25%をめており、かね輸出ゆしゅついでだい2外貨がいか獲得かくとく産業さんぎょうとなっている。[16]2004ねんにタンザニアに入国にゅうこくした観光かんこう客数きゃくすうは58まん3,000にんであり、1995ねんの2ばいたっした[17]。さらに2016ねんには観光かんこう客数きゃくすうは128まん4,279にんとなっており、増加ぞうか一途いっと辿たどっている[16]観光かんこうきゃく目的もくてきンゴロンゴロ保全ほぜん地域ちいきセレンゲティ国立こくりつ公園こうえんなどでのサファリキリマンジャロへの登山とざんザンジバルとうのストーン・タウンなど歴史れきし遺産いさんやザンジバルでのビーチリゾートなど多岐たきわたっている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

タンザニアの鉄道てつどうもう

交通こうつうもうはあまり発達はったつしておらず、輸送ゆそうインフラも貧弱ひんじゃくである。国内こくない道路どうろのうち、きゅう首都しゅとダルエスサラームからキリマンジャロ山麓さんろくのアルーシャまでは舗装ほそう道路どうろつうじているものの、舗装ほそうあくである部分ぶぶんおおい。

鉄道てつどう[編集へんしゅう]

鉄道てつどうは、タンザニア中央ちゅうおう鉄道てつどうタンザン鉄道てつどうの2しゃがあり、前者ぜんしゃはダルエスサラームからきたかいタンガアルーシャむす路線ろせんと、西にしかい首都しゅとドドマタボラとおってタンガニーカ湖畔こはんキゴマかう路線ろせん、タボラからきたかいビクトリア湖畔こはんムワンザへとかう3路線ろせん運行うんこうしている。後者こうしゃ1976ねん建設けんせつされ、ダルエスサラームから南西なんせいかい、マラウイ国境こっきょうちかくのムベヤとおってザンビアりょうカピリムポシまでをむすんでいる。

水運すいうん[編集へんしゅう]

水運すいうんは、タンガニーカとザンジバルあいだ活発かっぱつであるほか、ビクトリアやタンガニーカ国際こくさいフェリー就航しゅうこうしており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくとをむすんでいる。沿岸えんがんではいまだにダウせんでの輸送ゆそうおこなわれている。

航空こうくう[編集へんしゅう]

そらうんはかつて国営こくえいタンザニア航空こうくう英語えいごばん独占どくせんであったが、自由じゆうにより中小ちゅうしょう航空こうくう会社かいしゃおお設立せつりつされるようになった。

国民こくみん[編集へんしゅう]

タンザニアの人口じんこう推移すいい1961ねん - 2003ねん

民族みんぞく[編集へんしゅう]

バントゥーけい黒人こくじん国民こくみんの95%をめ、タンガニーカでは99%がアフリカけい黒人こくじんであり、1%ほどのヨーロッパけい、アラブけい、インドけい市民しみん存在そんざいする[15]。ザンジバルではアラブじん、アフリカけい黒人こくじんほかに、両者りょうしゃ混血こんけつ存在そんざいする[15]。また、アフリカけい黒人こくじんはザンジバル原住民げんじゅうみん大陸たいりくからの移住いじゅうみんわかれ、ザンジバル原住民げんじゅうみんイランシーラーズからの移民いみん子孫しそんであるとしてシラジと名乗なのり、混血こんけつみんふくめてひとつの民族みんぞくとしてのアイデンティティをつ。おもな民族みんぞくスクマじん英語えいごばんハヤじん英語えいごばんニャキュサじん英語えいごばんニャムウェジじんチャガじんマコンデぞくなどである。それ以外いがいにはトングェぞくハッザぞくなどが存在そんざいする。また、北部ほくぶからケニア南部なんぶにかけて、先住民せんじゅうみんであり遊牧民ゆうぼくみんマサイぞく存在そんざいする。

言語げんご[編集へんしゅう]

言語げんごは、スワヒリ国語こくごであり、スワヒリ英語えいご公用こうようである[18][19]

スワヒリ国語こくごあつかいをけており、1960ねんのタンガニーカ独立どくりつにはすでに公用こうよう指定していされていた。これはきゅう宗主そうしゅこく言語げんごをそのまま公用こうよう指定していしたほかのアフリカ諸国しょこくとはおおきくことなるてんである。1961ねんのザンジバルとの連合れんごう、スワヒリ母語ぼご話者わしゃがほとんどをめるザンジバルをくわえたことでこの政策せいさくはより推進すいしんされることとなった。1967ねんのウジャマー社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさく採用さいよう以来いらい、スワヒリ近代きんだい言語げんご教育きょういくによる普及ふきゅうすすめられた。タンザニア憲法けんぽうはスワヒリかれており、大衆たいしゅう文化ぶんかなかでもテレビやラジオ、ポピュラー音楽おんがくなどでもちいられ、タンザニアにおいてスワヒリ国民こくみん統合とうごうのための言語げんごとしての地位ちいあたえられている[20]。その結果けっか、タンザニアでは国民こくみんのほぼ100%がスワヒリするとされ、国家こっかない同一どういつ言語げんごつうじることはタンザニアの政情せいじょう安定あんていおおきく貢献こうけんしているとされる[8]一方いっぽうで、スワヒリでの教育きょういく初等しょとう教育きょういくかぎられ、中等ちゅうとう教育きょういく以降いこうへのスワヒリ導入どうにゅうすすんでいない[21]。2015ねんにはタンザニア政府せいふ中等ちゅうとう教育きょういく以降いこうにおいても教授きょうじゅ言語げんご英語えいごからスワヒリ転換てんかんする政策せいさく表明ひょうめい[22]実現じつげんされればサブサハラアフリカでははつこころみとなる。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょうは、タンガニーカではキリスト教きりすときょうが30%、イスラム教いすらむきょうが35%、伝統でんとうてき宗教しゅうきょうが35%である[15]。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教いすらむきょうである[15]

教育きょういく[編集へんしゅう]

タンザニアの児童じどう

学制がくせい初等しょとう教育きょういくが7ねん前期ぜんき中等ちゅうとう教育きょういくが4ねん後期こうき中等ちゅうとう教育きょういくが2ねん高等こうとう教育きょういくが3ねんの7-4-2-3せい義務ぎむ教育きょういく初等しょとう教育きょういくのみである。初等しょとう教育きょういくは2001ねんより無償むしょうし、これにより就学しゅうがくりつ大幅おおはば向上こうじょうした。現在げんざい初等しょとう教育きょういく就学しゅうがくりつは97.3%である。前期ぜんき中等ちゅうとう教育きょういくは20.7%、後期こうき中等ちゅうとう教育きょういくは0.9%。教育きょういく言語げんごは、初等しょとう教育きょういく公用こうようであるスワヒリであるが、中等ちゅうとう教育きょういく以降いこう英語えいご教育きょういく言語げんごである。

2002ねんのセンサスによれば、15さい以上いじょう国民こくみん識字しきじりつは69.4%(男性だんせい:77.5%、女性じょせい:62.2%)である[15]。1999ねんにはGDPの2.2%が教育きょういく支出ししゅつされた[15]

おもな高等こうとう教育きょういく機関きかんとしては、ダルエスサラーム大学だいがくソコイネ農業のうぎょう大学だいがくがげられる。

保健ほけん[編集へんしゅう]

かつては衛生えいせい状態じょうたい劣悪れつあくで、1978ねん1がつには首都しゅとダニエスサラームを中心ちゅうしんコレラ患者かんじゃ多発たはつ、180にん以上いじょう死者ししゃた。政府せいふトイレ環境かんきょう改善かいぜん奨励しょうれいした[23]結果けっか、2020ねん現在げんざい都市としでは改善かいぜんされたトイレを利用りようできる人口じんこう比率ひりつは30%をえる状態じょうたいとなっている[24]

タンザニアにおける2007ねんHIV感染かんせんしゃ推計すいけいやく140まんにんであり[15]感染かんせんりつは6.2%である[15]。タンザニアじん平均へいきん寿命じゅみょうは52.01さい男性だんせい:50.56さい女性じょせい:53.51さい)である[15]

医療いりょう[編集へんしゅう]

治安ちあん[編集へんしゅう]

タンザニアの治安ちあんはかなり危険きけん状況じょうきょうとなっている。同国どうこくでは全土ぜんどにおいて一般いっぱん犯罪はんざい日常にちじょうてき発生はっせいしているとの情報じょうほうがある。とく都市としにおいては、強盗ごうとうおも路上ろじょう強盗ごうとう車両しゃりょう強盗ごうとう)、住居じゅうきょ侵入しんにゅう詐欺さぎひったくりおお発生はっせいしており、銃器じゅうき使用しようされる凶悪きょうあく犯罪はんざい発生はっせいしている。

2020ねん10がつには隣国りんごくモザンビーク北部ほくぶのカーボデルガードしゅうにおける治安ちあん悪化あっか波及はきゅうするかたちで、タンザニアではじめてイスラムこく関係かんけいするとみられる武装ぶそうグループによるムトワラしゅう村民そんみん襲撃しゅうげき事件じけん発生はっせい。そのもモザンビークとの国境こっきょう地域ちいきでは武装ぶそうグループによる襲撃しゅうげき事件じけん多発たはつしており、さら翌年よくねん2021ねん8がつにはダルエスサラームじゅう発砲はっぽう事件じけん発生はっせいしている。

また、隣国りんごくからの密入国みつにゅうこくしゃおおく、これらのなかには武器ぶき所持しょじしているケースもあるなど、難民なんみん流入りゅうにゅうともな治安ちあん悪化あっか懸念けねんされている。くわえて、近隣きんりんこくのウガンダではISとの関係かんけいうたがわれるテロ事件じけん続発ぞくはつしているのが現状げんじょうである。そのため滞在たいざいするさいにはこうした状況じょうきょうのタンザニアへの波及はきゅうリスクを念頭ねんとう充分じゅうぶん留意りゅういする必要ひつようもとめられる[25]

人権じんけん[編集へんしゅう]

マスコミ[編集へんしゅう]

タンザニアにはメディア評議ひょうぎかい存在そんざいしており、評議ひょうぎかいは1995ねん開設かいせつされた。2003ねん成立せいりつした「タンザニア通信つうしん規制きせいほう」により、放送ほうそうライセンスを監督かんとくする「タンザニア通信つうしん規制きせい当局とうきょく」が創設そうせつされている。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

マコンデじん彫刻ちょうこく

しょく文化ぶんか[編集へんしゅう]

ウガリばれるトウモロコシこなったもの、またはべい主食しゅしょくで、これにトマトベースのスープなどのおかずをつけてべるのが一般いっぱんてきである。プランテン・バナナキャッサバチャパティなどをべる地域ちいきもある。

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

タンザニアにおける文学ぶんがくは、20世紀せいき後半こうはんまであるじ口承こうしょう文学ぶんがく主体しゅたいとしていた。タンザニア国内こくない記録きろくされている口承こうしょう文学ぶんがくだい部分ぶぶんはスワヒリであるが、同国どうこく言語げんごにはそれぞれ独自どくじ口承こうしょう伝統でんとう根付ねついているためかならずしも画一かくいつされたものとはなっていない。

音楽おんがく[編集へんしゅう]

ポピュラー音楽おんがくにおいては、1980年代ねんだいからダルエスサラームで発達はったつしたレゲエヒップ・ホップ影響えいきょうけたボンゴフレーバー20世紀せいき前半ぜんはんにザンジバルで発達はったつしたタアラブやその現代げんだいばんのモダン・タアラブなどが存在そんざいする。1980年代ねんだいにはジャマイカ発祥はっしょうレゲエひろしアフリカ主義しゅぎのメッセージが一定いっていちからち、タンザニアじんラスタファリアン存在そんざいした[26]。なお、伝統でんとう音楽おんがくにおいては親指おやゆびピアノンゴマなどが存在そんざいする。

美術びじゅつ[編集へんしゅう]

南部なんぶ居住きょじゅうするマコンデじんのシェタニ(精霊せいれい)をモチーフとした黒檀こくたん彫刻ちょうこくはタンザニアの美術びじゅつにおいて特筆とくひつされる。

現代げんだいタンザニアを代表だいひょうする画家がかジョージ・リランガ英語えいごばんもシェタニをモチーフに絵画かいが彫刻ちょうこく製作せいさくした。そのにもタンザニアで発展はってんげたポップアートとして、エドワード・サイディ・ティンガティンガ英語えいごばん1960年代ねんだい大成たいせいしたティンガティンガ絵画かいが存在そんざいげられる。

映画えいが[編集へんしゅう]

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

タンザニア国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた文化ぶんか遺産いさんが3けん自然しぜん遺産いさんが4けん存在そんざいする。

文化ぶんか遺産いさん[編集へんしゅう]

国立こくりつ公園こうえん国立こくりつ保護ほご[編集へんしゅう]

祝祭日しゅくさいじつ[編集へんしゅう]

祝祭日しゅくさいじつ
日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ Mwaka Mpya
1がつ12にち ザンジバル革命かくめい記念きねん Mapinduzi ya Zanzibar 1964ねんザンジバルで革命かくめい
4がつ26にち 統合とうごう記念きねん Muungano wa Tanganyika na Zanzibar 1964ねん、タンガニーカとザンジバルが統合とうごう
5月1にち 労働ろうどうしゃ Sikukuu ya Wafanyakazi メーデー
7がつ7にち 産業さんぎょう Saba Saba
8がつ8にち 農業のうぎょう Nane Nane (Siku ya Wakulima)
10月14にち ニエレレ Kumbukumbu ya Mwalimu Nyerere タンザニア初代しょだい大統領だいとうりょう/1999.10.14ぼつ
12月9にち 独立記念日どくりつきねんび Uhuru na Jamhuri 1961ねんタンガニーカ独立どくりつ
12月25にち クリスマス Kuzaliwa Kristo
12月26にち ボクシング・デー Siku ya Kupeana Zawadi

スポーツ[編集へんしゅう]

サッカー[編集へんしゅう]

タンザニア国内こくないでもアフリカ諸国しょこく同様どうようサッカー圧倒的あっとうてきに1ばん人気にんきスポーツとなっている。1965ねんにサッカーリーグのタンザニアン・プレミアリーグ創設そうせつされた。タンザニアサッカー連盟れんめい英語えいごばんによって構成こうせいされるサッカータンザニア代表だいひょうは、これまでFIFAワールドカップには出場しゅつじょうである。アフリカネイションズカップには2出場しゅつじょうしているが、いずれもグループリーグ敗退はいたいとなっている。

オリンピック[編集へんしゅう]

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉田よしだ昌夫まさお世界せかい現代げんだい14 アフリカ現代げんだいII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん2がつだい2はん。p.153
  2. ^ “12月9にち今日きょうはタンザニアの独立記念日どくりつきねんび. 日本にっぽん食糧しょくりょう新聞しんぶん電子でんしばん. https://news.nissyoku.co.jp/today/603137 2020ねん12月9にち閲覧えつらん 
  3. ^ Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. ISBN 0-460-07878-X. p. 173
  4. ^ Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. ISBN 9780894649110. p. 55
  5. ^ Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.
  6. ^ "TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967" (PDF) (Press release). Kenya Law. 2016ねん6がつ30にち時点じてんオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2018ねん6がつ30にち閲覧えつらん
  7. ^ Arnold, Guy (6 April 2010). The A to Z of the Non-Aligned Movement and Third World. Scarecrow Press. pp. 126–127. ISBN 9781461672319.
  8. ^ a b 民主みんしゅ主義しゅぎがアフリカ経済けいざいころす: さい底辺ていへんの10おくにんくにきている真実しんじつ』p92-93、甘糟あまかす智子さとこやく日経にっけいBPしゃ、2010ねん1がつ18にち
  9. ^ "コロナに感染かんせん?タンザニア大統領だいとうりょう死去しきょ 対策たいさく懐疑かいぎてき". 朝日新聞あさひしんぶんデジタル. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 18 March 2021. 2021ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  10. ^ タンザニア、大統領だいとうりょうにスルフ 前任ぜんにんしゃ急死きゅうしはつ女性じょせい - 時事じじドットコム 2021ねん3がつ19にち
  11. ^ Ogunsanwo, Alaba (1974). China's Policy in Africa, 1958-71. Cambridge: Cambridge University Press. p. 251.
  12. ^ キリマンジャロ地方ちほう開発かいはつ 日本にっぽんにおまかせします 『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ44ねん(1969ねん)10がつ22にち夕刊ゆうかん、3はん、11めん
  13. ^ a b 外務省がいむしょう タンザニア基礎きそデータ
  14. ^ 外交がいこう特権とっけん利用りよう 象牙ぞうげ密輸みつゆはか日本にっぽん大使館たいしかん書記官しょきかん 発覚はっかくしたら帰国きこく朝日新聞あさひしんぶん』1976ねん昭和しょうわ51ねん)4がつ17にち夕刊ゆうかん、3はん、7めん
  15. ^ a b c d e f g h i j CIA World Factbook "Tanzania" 2010ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  16. ^ a b Tanzania Tourist Arrivals Increase by 12.9% in 2016 to Reach 1,28 M - TanzaniaInvest"
  17. ^ 「タンザニアをるための50しょう」p129 栗田くりた和明かずあき根本ねもと利通としみち編著へんちょ 明石書店あかししょてん 2006ねん7がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ 
  18. ^ Tanzania Goverment Portal :languages タンザニア連合れんごう共和きょうわこく政府せいふ 2019ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  19. ^ 各国かっこく地域ちいき情勢じょうせい 国名こくめい:タンザニア連合れんごう共和きょうわこく(United Republic of Tanzania) 外務省がいむしょう 2019ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  20. ^ 宮本みやもとただしきょう「アフリカの言語げんご その生態せいたい機能きのう」『ハンドブック現代げんだいアフリカ』岡倉おかくら登志としへん 明石書店あかししょてん、2002ねん12月。
  21. ^ 「アフリカのことばと社会しゃかい 多言たげん状況じょうきょうきるということ」pp407-409 かじ茂樹しげき+すなさいわいみのる編著へんちょ さんげんしゃ 2009ねん4がつ30にち初版しょはんだい1さつ
  22. ^ タンザニア:英語えいごからスワヒリでの授業じゅぎょう転換てんかん”. グローバル・ボイス・オンライン. 2015ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  23. ^ コレラで死者ししゃ160にん 交通こうつう閉鎖へいさ強硬きょうこうさく朝日新聞あさひしんぶん』1978ねん昭和しょうわ53ねん)1がつ18にち朝刊ちょうかん、13はん、23めん
  24. ^ 3ふんでわかるタンザニア タンザニアってどういうくに?”. 特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん ワールドビジョン (2020ねん8がつ18にち). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  25. ^ タンザニア 危険きけん・スポット・広域こういき情報じょうほう”. 外務省がいむしょう. 2022ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  26. ^ 白石しらいしあらわ 『ポップ・アフリカ』 勁草書房しょぼう〈KEISO BOOKS5〉、東京とうきょう、1989ねん11月25にち初版しょはんだいいちさつ、62-70ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 南緯なんい618ふん25びょう 東経とうけい3451ふん14びょう / 南緯なんい6.307 東経とうけい34.854 / -6.307; 34.854