アフリカ美術びじゅつ

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タンザニア、マコンデぞく彫刻ちょうこく
Makonde carving c.1974
Pearl sculpture of the Bamun
Velours from Kasai

アフリカ美術びじゅつ(アフリカびじゅつ)とはアフリカにおける美術びじゅつ視覚しかく文化ぶんかす。

概要がいよう[編集へんしゅう]

アフリカ大陸たいりくにおける美術びじゅつ文化ぶんかは、多様たよう創造そうぞうせい芸術げいじゅつてき遺産いさんの1つである。鑑賞かんしょうしゃたちのおおくが「伝統でんとうてきな」アフリカ美術びじゅつ一般いっぱんしがちであっても、大陸たいりく多数たすう民族みんぞく社会しゃかいおよび文明ぶんめいであふれており、それぞれに独特どくとく視覚しかく文化ぶんかゆうしている。その多様たようせいにもかかわらず、アフリカ大陸たいりく視覚しかく文化ぶんか全体ぜんたいとしてかんがえるとき、なにかしら共通きょうつうした美術びじゅつじょう特質とくしつかんじることも可能かのうである。なお、木彫きぼりの彫刻ちょうこく色彩しきさい感覚かんかくとぼしいが、アフリカのファッションは色彩しきさい感覚かんかくにあふれている。

芸術げいじゅつてき創造そうぞうせい表現ひょうげんじょう個人こじん主義しゅぎ - 過去かこ芸術げいじゅつ遺産いさんぎながら、とく西にしアフリカでは芸術げいじゅつ自律じりつてき個人こじん主義しゅぎることができる[1][2]形式けいしき革新かくしん - 美術びじゅつ作品さくひん厳格げんかく表象ひょうしょう規範きはんしたがって生産せいさんされる傾向けいこうにある「西洋せいよう社会しゃかいちがい、おおくのアフリカ社会しゃかいではアーティストにたいして様式ようしき形式けいしき革新かくしん創造そうぞううながしている。この革新かくしん多様たようせいは、おおきな歴史れきしてき地理ちりてきひろがりのあいだにだけでなく、むらむらとのあいだにさえられるものである。

視覚しかくてき抽象ちゅうしょう - アフリカの美術びじゅつ作品さくひん自然しぜん主義しゅぎてき再現さいげんよりも視覚しかくてき抽象ちゅうしょうこの傾向けいこうにある。これはおおくのアフリカ美術びじゅつ作品さくひんが、メディウムによらず、対象たいしょう概念がいねん描写びょうしゃするよりも表象ひょうしょうする傾向けいこうにあるからである (もちろんここには例外れいがいがあり、もっといちじるしいものでは古代こだいエジプトの美術びじゅつひんくわえてイレ・イフェのヨルバ頭部とうぶ肖像しょうぞうがある)。

彫刻ちょうこく重視じゅうし - アフリカのアーティストは2次元じげん作品さくひんよりも3次元じげん作品さくひんこの傾向けいこうにある。おおくのアフリカ絵画かいがぬの作品さくひんでさえ、3次元じげんてき体験たいけんされるよう意図いとされている。家屋かおくえがかれた絵画かいがはしばしばいえかこ連続れんぞくしたデザインとしてられ、その全体ぜんたい体験たいけんするためには作品さくひんまわりをめぐってみなければならない。また装飾そうしょくされたぬの装飾そうしょくてきまたは儀式ぎしきてき衣装いしょうとしてけられ、ひときた彫刻ちょうこくえる。


「アフリカ美術びじゅつ」という用語ようごにはなが論争ろんそう歴史れきしがある。21世紀せいきいたるまで、通常つうじょう「アフリカの」との指定していは「ブラック・アフリカ」、つまりサハラ以南いなんのアフリカの美術びじゅつばかりが強調きょうちょうされる傾向けいこうがあった。古代こだいエジプト美術びじゅつ同様どうように、きたアフリカ、地中海ちちゅうかい沿岸えんがんエチオピア美術びじゅつは「アフリカ美術びじゅつ」とはわれなかったのである。最近さいきんでは、アフリカ美術びじゅつやその学者がくしゃたちのあいだには、これらの地域ちいき文化ぶんか実際じっさいにアフリカ大陸たいりく地理ちりてき境界きょうかい内側うちがわこったものであるという理由りゆうから、そうした地域ちいき視覚しかく文化ぶんかを「アフリカ美術びじゅつ」という用語ようごふくめようといううごきがある。すべてのアフリカ文化ぶんかとその視覚しかく文化ぶんかを「アフリカ美術びじゅつ」という用語ようごふくめることによって、サハラ砂漠さはらさばく南北なんぼく両側りょうがわ大陸たいりく存在そんざいし、またかつて存在そんざいした文化ぶんか多様たようせいについて、専門せんもんでない人々ひとびとがより理解りかいられるだろうという発想はっそうである。アフリカ、イスラム地中海ちちゅうかい文化ぶんかはしばしば合流ごうりゅうしたため、イスラムと古代こだいエジプト、地中海ちちゅうかいおよび伝統でんとうてきなアフリカ社会しゃかいあいだ明確めいかく線引せんひきをしてもあまり意味いみがないということに学者がくしゃたちは気付きづいたのである。最後さいごに、ブラジル西にしインド諸島しょとう合衆国がっしゅうこく南東なんとうひろまっているアフリカのディアスポラの人々ひとびと美術びじゅつは、追放ついほうされたアフリカのしょ民族みんぞくと、かれらとあたらしい世界せかい文化ぶんかとの出会であいの産物さんぶつとして「アフリカ美術びじゅつ研究けんきゅうふくまれはじめている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

アフリカ美術びじゅつ起源きげん記録きろくのある歴史れきしよりずっとさかのぼる。ニジェールサハラ砂漠さはらさばくにあるアフリカのいわでは6000ねんまえられたものが保存ほぞんされている [1]現在げんざいられているもっとふる彫刻ちょうこくナイジェリアノク文化ぶんかのもので、紀元前きげんぜん500ねんごろつくられたものである。サハラ以南いなんのアフリカにくわえて、西部せいぶ部族ぶぞく文化ぶんか古代こだいエジプトの制作せいさくぶつ南部なんぶ土着どちゃく工芸こうげいもアフリカ美術びじゅつおおきく寄与きよしている。しばしば周囲しゅうい自然しぜんゆたかさを描写びょうしゃしているそれら美術びじゅつは、しばしば動物どうぶつ植物しょくぶつ自然しぜんのデザインや形態けいたい抽象ちゅうしょうてき解釈かいしゃくとなっている。

美術びじゅつ制作せいさくするより複雑ふくざつ方法ほうほうは、13世紀せいきごろにイスラムの拡大かくだいともにサハラ以南いなんのアフリカにはじめてもたらされた。しばしば象牙ぞうげ貴石たかいし装飾そうしょくされることもあるブロンズや真鍮しんちゅう鋳造ちゅうぞうは、西にしアフリカのおおくで非常ひじょう価値かちたかいものになり、ときにはベニンのブロンズのように宮廷きゅうてい美術家びじゅつか王室おうしつみとめられたものだけに限定げんていされることもあった。

20世紀せいきはじめ、ピカソ[3]マティスモディリアーニといったアーティストはかれらの表現ひょうげんのためのあたらしい形態けいたい探求たんきゅうなかで、アフリカ彫刻ちょうこくからふか感銘かんめいけている。西洋せいようにおいて、アフリカの「伝統でんとうてき」な仮面かめん彫刻ちょうこく民族みんぞくてきなものとしてではなく、美術びじゅつ作品さくひんとして分析ぶんせきされたのはキュビスム運動うんどうはやかった。ピカソがアフリカ美術びじゅつ影響えいきょうされた時期じきは、戦前せんぜんすう年間ねんかんつづき、アフリカの美術びじゅつ彫刻ちょうこくもとづいた作品さくひん制作せいさくされた。マイルス・デイヴィスはジャケットアートやファッションなどで、アフリカ芸術げいじゅつ影響えいきょうけた。

伝統でんとう美術びじゅつ[編集へんしゅう]

伝統でんとうてきな」美術びじゅつ博物館はくぶつかんのコレクションに典型てんけいてきられるような、もっともよくられ、また研究けんきゅうされているアフリカ美術びじゅつあらわす。木製もくせい仮面かめんは、人間にんげんのものも動物どうぶつのものもあるが、西にしアフリカでもっと一般いっぱんてきられる形態けいたいである。元来がんらい文脈ぶんみゃくでは、儀式ぎしきてき仮面かめん宗教しゅうきょうてき政治せいじてき社会しゃかいてきなパフォーマンスにおいて役者やくしゃやダンサーによって使つかわれるものである。ぞうつく材料ざいりょうともに、象牙ぞうげいしじゅん宝石ほうせきなど仮面かめん使つかわれる。装飾そうしょくてき衣服いふくもまた一般いっぱんてきで、複雑ふくざつ技法ぎほうもちいられており、アフリカ美術びじゅつ構成こうせいするもう一方いっぽうおおきな領域りょういきである。

現代げんだい美術びじゅつ[編集へんしゅう]

アフリカは現代げんだい美術びじゅつ文化ぶんかおおきくさかえている場所ばしょである。しかし、学者がくしゃやコレクターたちが「伝統でんとうてき」アフリカ美術びじゅつ強調きょうちょうしてきたために、最近さいきんまでこのことはかげにかくれてきた。

19世紀せいきからヨーロッパ諸国しょこくによる植民しょくみんすすむとアフリカ各地かくち偶像ぐうぞう破壊はかいおこなわれ、1920年代ねんだいにはヨーロッパの移民いみんキリスト教きりすときょう宣教師せんきょうしによって美術びじゅつ学校がっこうなどの組織そしき設立せつりつされた。1960年代ねんだいから植民しょくみんからの独立どくりつ相次あいつぐと、国家こっか建設けんせつとともに公立こうりつ美術びじゅつ制度せいどはじまり、国民こくみん民族みんぞく単位たんいとして芸術げいじゅつ運動うんどうおこなわれた。1980年代ねんだい経済けいざい危機ききき、公的こうてき美術びじゅつ制度せいど停滞ていたい後退こうたいこすと、美術びじゅつのテーマも個別こべつしていった。1989ねんにはポンピドゥー・センターで「大地だいち魔術まじゅつてん」が開催かいさいされ、アフリカ作家さっか作品さくひんがモダン・アートの美術館びじゅつかん展示てんじされはじめた[4]

作家さっか世代せだいべつにみると、国際こくさいてき展覧てんらんかいはじめて参加さんかしたのがゼリフナ・イェトムゲタ(Zerihuna Yetmgeta)、エル・アナツイ(1944ねん-)[5]ルバイナ・ヒミッド英語えいごばん(1954ねん-)、ソカリ・ダグラス・キャンプ英語えいごばん(1958ねん-)[6]らの世代せだいにあたる[7]つぎ世代せだい初期しょきから国際こくさいてき作品さくひん発表はっぴょうするようになり、ロマール・アズメ英語えいごばん(1962ねん-)[7]インカ・ショニバレ(1962ねん-)、ビル・ビジョカ(Bill Bidjocka)(1962ねん)、オル・オギュイベ英語えいごばん(1964ねん-)、ジェムス・ロバート・ココ・ビ英語えいごばん(1966ねん-)、ザネレ・ムホリ英語えいごばん(1972ねん-)[8]アイダ・ムルネ英語えいごばん(1974ねん-)[7]らがそれにあたる[7]。2000年代ねんだい以降いこう作風さくふう主題しゅだい多様たようするとともに、公的こうてき制度せいどわって美術びじゅつインフラの構築こうちく関与かんよする作家さっかえた。サミー・バロジ英語えいごばん(1980ねん-)[9]メアリー・シバンデ英語えいごばん(1982ねん-)[7]、キング・フンデックピンク(King Houndekpinkou)(1987ねん-)[7]、エディ・カマンガ・イルンガ(1991ねん-)[7]らがいる。

ビエンナーレダカールセネガル、およびみなみアフリカのヨハネスブルクで開催かいさいされている。おおくのアフリカの現代げんだいアーティストは美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされ、またその作品さくひんはオークションで高値たかねられることもある。にもかかわらず、おおくのアフリカの現代げんだいアーティストは、作品さくひん販売はんばいする市場いちば見付みつけるのが困難こんなんである傾向けいこうにある。現代げんだいアフリカ美術びじゅつおおくは先行せんこうする伝統でんとうから非常ひじょうおおくを借用しゃくようしている。皮肉ひにくなことに、こうして抽象ちゅうしょう強調きょうちょうすることが、西洋せいようじんからはかれらの祖先そせん美術びじゅつからの再現さいげんというよりは、ピカソやマティスといった、ヨーロッパやアメリカのキュビストやトーテム美術家びじゅつか模倣もほうのようにられてしまう。そのようにして、西洋せいよう美術びじゅつ市場いちばではアフリカの現代げんだい美術びじゅつ独創どくそうてきでも革新かくしんてきでもないものとられうるのである。

くにべつ[編集へんしゅう]

バウール(Baoule)、セノフォ(Senoufo)、ダン(Dan)のかく民族みんぞく木彫きぼり技術ぎじゅつすぐれており、それぞれの文化ぶんか多種たしゅ多様たよう木製もくせい仮面かめんつくられている。コートジボワールの民族みんぞくかみ々をえがくために戯画ぎがなか動物どうぶつ表現ひょうげんしたり、死者ししゃたましい表現ひょうげんするために仮面かめんもちいる。

仮面かめん偉大いだい精霊せいれいちからっているために、特別とくべつ訓練くんれんされたひと以外いがい着用ちゃくようしたり所有しょゆうしたりすることはタブーとかんがえられている。

これらの儀式ぎしきてき仮面かめんはそれぞれたましい生命せいめいりょくつとかんがえられており、これをこうむることによってそのひと仮面かめんあらわすものへと変容へんようするとかんがえられている。

ボツワナの北部ほくぶでは、エシャ(Etsha)やガメール(Gumare)のむらにいる部族ぶぞく女性じょせいたちがモラ椰子やし地域ちいき染料せんりょうバスケットつく技術ぎじゅつ注目ちゅうもくされる。バスケットは一般いっぱんてきに3種類しゅるいまれる: おおきくてふたのある貯蔵ちょぞうようのバスケット、あたませてものはこんだり脱穀だっこくした穀物こくもつをふるいにかけたりするひらいたバスケット、そして粉砕ふんさいした穀物こくもつをふるいにかけるちいさなさら。これらのバスケットの芸術げいじゅつせいは、ますます商業しょうぎょうよう生産せいさんされていくにしたがっていろ使づかいやデザインの改良かいりょうによって着々ちゃくちゃく向上こうじょうつづけている。

もっとふる古代こだい絵画かいが痕跡こんせきはボツワナとみなみアフリカの両方りょうほう見付みつかっている。動物どうぶつ人間にんげん両方りょうほうふく狩猟しゅりょう描写びょうしゃはコイサンぞく制作せいさくしたもので、2まんねん以上いじょうまえ文明ぶんめい以前いぜんのカラハリ砂漠さばくえがかれたものである。

3せんねん歴史れきしと30の王朝おうちょうあいだ、「公式こうしきの」古代こだいエジプト美術びじゅつ国家こっか宗教しゅうきょう中心ちゅうしんとしていた。その美術びじゅつ巨大きょだい彫像ちょうぞうちいさなぞうのある石造せきぞう彫刻ちょうこくから、歴史れきし神話しんわえがいた壁画へきがまである。紀元前きげんぜん2600ねんにはエジプト彫刻ちょうこくはその最盛さいせいたっし、ラムセス2せい治世ちせいとなるまでの1500ねんあいだふたたびそのいき到達とうたつすることはなかった。

おおくの作品さくひんにはあるしゅかたさがあって、ぞうもっと威厳いげんのある衣装いしょう直立ちょくりつし、厳格げんかくはらった様子ようすである。身体しんたい比例ひれいもまた数学すうがく由来ゆらいしており、あらわされたぞう奇妙きみょう完全かんぜんせい感覚かんかくあたえている。これはおそらく支配しはい階層かいそう神聖しんせいせい補強ほきょうするためにもちいられたのであろう。この時代じだいのエジプト美術びじゅつ人体じんたい表現ひょうげん様式ようしき流動りゅうどうせいは、どうからこしこしからふとももへの不恰好ぶかっこう推移すいいをしばしばふくんでいた一方いっぽうのギリシア美術びじゅつをはるかにしのいでいた。

部族ぶぞくべつ[編集へんしゅう]

出典しゅってん脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Richard Majors; Billson, J.M. (1993). Cool Pose: The Dilemma of Black Manhood in America. Touchstone. p. 56. ISBN 9780671865726. https://books.google.com/books?id=bD-PkgpWErUC 2022ねん5がつ2にち閲覧えつらん 
  2. ^ Vangheluwe, S.; Vandenhoute, J. (2001). The Artist Himself in African Art Studies: Jan Vandenhoute's Investigation of the Dan Sculptor in Côte D'Ivoire. Academia Press. p. 19. ISBN 9789038202860. https://books.google.com/books?id=TnzNF43P9ZYC 2022ねん5がつ2にち閲覧えつらん 
  3. ^ 1881-1973。「あお時代じだい」「キュビズムの時代じだい」などをて、独自どくじ作風さくふう確立かくりつした。バルティスとの交流こうりゅう、ルソーの才能さいのうをいちはや見抜みぬくなどのエピソードもあった
  4. ^ 中村なかむら 2020, p. 93.
  5. ^ 塚田つかだ 2020, pp. 83–84.
  6. ^ 塚田つかだ 2020, pp. 85–86.
  7. ^ a b c d e f g 中村なかむら 2020, p. 94.
  8. ^ 塚田つかだ 2020, pp. 86–87.
  9. ^ 中村なかむら 2020, pp. 102–103.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 塚田つかだ美紀みき ちょ国際こくさいてき活躍かつやくする「アフリカけい」アーティストたち」、ウスビ・サコ, 清水しみず貴夫たかお へん現代げんだいアフリカ文化ぶんかいま 15の視点してんから、その現在地げんざいちさぐる』あおまぼろししゃ、p.83-87、2020ねん 
  • 中村なかむらとおる ちょ「アートシーンのフィールドワーク 現代げんだいアフリカ美術びじゅつ人々ひとびと」、ウスビ・サコ, 清水しみず貴夫たかお へん現代げんだいアフリカ文化ぶんかいま 15の視点してんから、その現在地げんざいちさぐる』あおまぼろししゃ、p.102-103、2020ねん 

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 緒方おがたしらべ『アフリカ美術びじゅつ人類じんるいがく―ナイジェリアできるアーティストとアートのありかた』清水しみず弘文こうぶんどう書房しょぼう、2017ねん 

Website[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]