(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アフリカ戦線 (第一次世界大戦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

アフリカ戦線せんせん (だいいち世界せかい大戦たいせん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アフリカ戦線せんせん

戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1914ねん4がつ3にち1918ねん11月
場所ばしょカメルーントーゴナミビアタンザニアザンビアモザンビーク
結果けっか連合れんごうこく勝利しょうり、ドイツの植民しょくみん喪失そうしつ
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス
みなみアフリカ連邦れんぽう
フランスの旗 フランス
ベルギーの旗 ベルギー
イタリアの旗 イタリア
ポルトガルの旗 ポルトガル
リベリアの旗リベリア
など
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
オスマン帝国ていこく
サヌーシー教団きょうだん
ブールじんみなみアフリカ)
ダラーウィーシュこく
ダルフール・スルターンこく
エチオピア帝国ていこく
など

だいいち世界せかい大戦たいせんにおけるアフリカ戦線せんせん(アフリカせんせん)は、アフリカ大陸たいりく点在てんざいするドイツ帝国ていこく植民しょくみんとその周辺しゅうへんにおいて、中央ちゅうおう同盟どうめいこくドイツぐん連合れんごうこくぐんとのあいだ発生はっせいした戦闘せんとうである。 アフリカのドイツ植民しょくみんには、ドイツりょうカメルーンドイツりょうトーゴラントドイツりょう南西なんせいアフリカ、およびドイツりょうひがしアフリカがあった。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

ほぼ世界中せかいじゅう制海権せいかいけんにぎイギリス帝国ていこくは、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにドイツの植民しょくみん征服せいふくするだけの戦力せんりょく物資ぶっしっていた。アフリカ大陸たいりくにあったドイツ植民しょくみんのほとんどは獲得かくとくしてまだあさく、十分じゅうぶん防衛ぼうえい体制たいせいがなされていなかった(ドイツりょうひがしアフリカは例外れいがい)。そしてそれぞれが連合れんごうこく植民しょくみん(イギリス、フランスベルギー、およびポルトガル)にかこまれている状態じょうたいだった。

アフリカ大陸たいりくのドイツ植民しょくみんはそれぞれ単独たんどくたたかわざるをえず、次々つぎつぎ連合れんごうぐん制圧せいあつされたが、パウル・フォン・レットウ=フォルベックひきいられたドイツりょうひがしアフリカぐんだけは大戦たいせん期間きかんちゅうたたかいつづけ、最終さいしゅうてき降伏ごうぶくしたのは、本国ほんごくドイツの休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいのことだった。

きたアフリカ戦線せんせん

[編集へんしゅう]

モロッコ

[編集へんしゅう]

アルジェリア・マリ・ニジェール

[編集へんしゅう]

ダルフール

[編集へんしゅう]

ソマリア・ソマリランド

[編集へんしゅう]

西にしアフリカ戦線せんせん

[編集へんしゅう]
西にしアフリカ戦線せんせん英語えいごばん

ドイツりょうカメルーンのアフリカじん部隊ぶたい
戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1914ねん8がつ3にち1916ねん2がつ
場所ばしょカメルーントーゴ
結果けっか連合れんごうこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス

フランスの旗 フランス

ベルギーの旗 ベルギー

ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく西にしアフリカドイツばん英語えいごばん

西にしアフリカでは、2つの小規模しょうきぼかつ短期間たんきかん軍事ぐんじ作戦さくせんおこなわれ、ドイツの植民しょくみんトーゴラント(のちのトーゴ共和きょうわこく)およびドイツりょうカメルーン(のちのカメルーン共和きょうわこくおよびナイジェリア連邦れんぽう共和きょうわこく東部とうぶ一部いちぶ地域ちいき)が占領せんりょうされた。

トーゴランド戦線せんせん

[編集へんしゅう]

ちいさな植民しょくみんだったドイツりょうトーゴラントは、ほとんど開戦かいせん直後ちょくご征服せいふくされた。連合れんごうぐんえいりょうゴールド・コースト(のちのガーナ共和きょうわこく)の王立おうりつ西にしアフリカ辺境へんきょうぐんRoyal West African Frontier Force; RWAFF)およびフランスりょう西にしアフリカ・ダオメー(のちのベナン共和きょうわこく)のセネガル原住民げんじゅうみん部隊ぶたいTirailleurs senegalais[1]侵攻しんこうし(フランスぐん小規模しょうきぼ部隊ぶたい)、戦闘せんとう1914ねん8がつ27にちまでに終了しゅうりょうした。

カメルーン戦線せんせん

[編集へんしゅう]

ドイツりょうカメルーンにはやく3,000めいのアフリカじん兵士へいし支援しえんされたやく1,000めい駐留ちゅうりゅうドイツぐんがいた。イギリスぐんはイギリスりょうナイジェリアから3縦隊じゅうたいひがしのカメルーンへ侵攻しんこうした。しかし、3つの部隊ぶたいはすべて、その地形ちけいあく、およびドイツぐん攻撃こうげきなどがわさり撃退げきたいされた。フランスぐんチャドからみなみのカメルーンへ侵攻しんこうし、クッセリ占領せんりょうした(クッセリのたたか英語えいごばん)。9月初旬しょじゅん、ベルギー=フランス合同ごうどうぐん沿岸えんがんリンベ占領せんりょうした。この部隊ぶたい移動いどう砲台ほうだいとして4せきのイギリスおよびフランス巡洋艦じゅんようかん援助えんじょをうけ、1914ねん9月27にち植民しょくみん首都しゅとドゥアラ占領せんりょうした(Naval operations of the Kamerun Campaign)。

ドイツぐん抵抗ていこう地区ちくヤウンダ(Yaounda)のみとなった(だいいちヤウンダのたたか英語えいごばん)。ベルギー=フランス合同ごうどうぐん部隊ぶたいはドイツが敷設ふせつした鉄道てつどう内陸ないりくへたどっていき、ドイツぐん反撃はんげき撃退げきたいし、11月にはヤウンダは占領せんりょうされた(だいヤウンダのたたか英語えいごばん)。のこったドイツへいのほとんどは中立ちゅうりつ地帯ちたいであるスペインりょうギニア(のちの赤道せきどうギニア共和きょうわこく)のリオ・ムニ脱出だっしゅつした。カメルーンにあった最後さいごのドイツぐん要塞ようさい武器ぶき弾薬だんやく使つかたし、1916ねん2がつ降伏ごうぶくした[2]

南西なんせいアフリカ戦線せんせん

[編集へんしゅう]
南西なんせいアフリカ戦線せんせん英語えいごばん

南西なんせいアフリカ戦線せんせん(1915ねん
戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1914ねん9月 - 1915ねん7がつ
場所ばしょみなみアフリカナミビア
結果けっか連合れんごうこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
南アフリカ連邦の旗 ルイス・ボータ
南アフリカ連邦の旗 ヤン・スマッツ
ドイツの旗 ヴィクトル・フランケドイツばん英語えいごばん
戦力せんりょく
みなみアフリカ防衛ぼうえいたい(SADF)67,000めい 防衛ぼうえいたい3,000めい男性だんせい入植にゅうしょくしゃやく7,000めい
損害そんがい
113めい 1,131めい

南西なんせいアフリカでは、開戦かいせんとともにみなみアフリカ連邦れんぽうがイギリスにわりドイツりょう南西なんせいアフリカ現在げんざいナミビア共和きょうわこく)を攻撃こうげき征服せいふくした。

ドイツりょう南西なんせいアフリカは広大こうだい乾燥かんそうした地域ちいきだった。完全かんぜん荒涼こうりょうとしたナミブ砂漠さばく海岸かいがん隣接りんせつしており、ほとんどのドイツじん大西おおにしひろしからおよそ320km内陸ないりく植民しょくみん首都しゅとヴィントフーク周辺しゅうへん本拠ほんきょとしていた。現地げんちには防衛ぼうえいたいSchutztruppe)3,000めいがおり、ドイツ入植にゅうしょくしゃのうち成人せいじん男性だんせい7,000めいだい部分ぶぶんからの支援しえん期待きたいできた。

1914ねん8がつヨーロッパでの戦争せんそう拡大かくだいきざしをはじめたころみなみアフリカ連邦れんぽう政府せいふはドイツ植民しょくみん国境こっきょうせっしていることの重要じゅうようせい気付きづいていた。みなみアフリカ連邦れんぽう首相しゅしょうルイス・ボータロンドンたいし、みなみアフリカは自身じしん守備しゅびすることができること、駐留ちゅうりゅうイギリスぐんをフランスに派遣はけんできることをつたえた。イギリス政府せいふがボータにたいしドイツりょう南西なんせいアフリカに侵攻しんこうできるかどうかたずねたとき、ボータはみなみアフリカにはそれができ、そうするだろうと返答へんとうした。

1914ねん9がつ初旬しょじゅんみなみアフリカ連邦れんぽうぐん司令しれいかんヘンリー・ルーキン英語えいごばんサロモン(マニー)・マリッツ英語えいごばん中佐ちゅうさ指揮しきした両国りょうこく国境こっきょう沿いに動員どういんされた。そのまもなく、べつ部隊ぶたいリューデリッツみなと占領せんりょうした。

ブールじん反乱はんらん

[編集へんしゅう]

当時とうじみなみアフリカ連邦れんぽうブールじんあいだではドイツに共感きょうかんをもつものがかなりおおくいた。それは、だいボーア戦争せんそうにおいてドイツはかれらを支援しえんしており、それからまだ12ねんしかっていなかったためであった。クリスティアーン・ベイヤース英語えいごばんはドイツとの開戦かいせん反対はんたいなん国防こくぼうしょう辞任じにん、オラニエ自由じゆうしゅう知事ちじ代理だいりクリスティアーン・デ・ヴェト英語えいごばんらとともにボータらと対立たいりつした。ドイツりょう南西なんせいアフリカとの国境こっきょう展開てんかいしたみなみアフリカ連邦れんぽうぐん部隊ぶたい指揮しきかんマリッツは、以下いか宣言せんげんおこなった。

ケープしゅうおよびナタールのみならず、かつてのみなみアフリカ共和きょうわこく[3]およびオラニエ自由じゆうしゅうはイギリスの支配しはいからだっ独立どくりつすることを宣言せんげんし、これら地域ちいき居住きょじゅうする、または国籍こくせきつすべての白人はくじんみずからの武器ぶきり、みなみアフリカの自由じゆう独立どくりつのためにながあいだ大切たいせつにしてきた理想りそう実現じつげんすることをここにもとめる[4]

マリッツとすうめい高級こうきゅう将校しょうこうすみやかに総勢そうぜいやく12,000めい反乱はんらん部隊ぶたいトランスファールしゅうおよびオラニエ自由じゆうしゅう集結しゅうけつさせ、戦闘せんとう準備じゅんびおこなった。これがブール反乱はんらんマリッツ反乱はんらんともばれる)のはじまりである。

1914ねん10月14にちみなみアフリカ連邦れんぽう政府せいふ戒厳かいげんれい布告ふこく、ルイス・ボータ指揮しき政府せいふ忠誠ちゅうせいちかわせ、ヤン・スマッツ反乱はんらん鎮圧ちんあつ開始かいしした。10月24にち、マリッツは敗北はいぼくし、ドイツりょう逃亡とうぼうした。反乱はんらん1915ねん2がつ初旬しょじゅんには事実じじつじょう鎮圧ちんあつされた。ド・ヴェトらブール反乱はんらん首謀しゅぼうしゃは6-7ねん禁固刑きんこけいおよび2,000ポンド前後ぜんこう罰金ばっきんけいけた(が、1-2ねん釈放しゃくほうされる)。

ドイツりょう南西なんせいアフリカ

[編集へんしゅう]
砂漠さばくなか牽引けんいんされるみなみアフリカぐんの4.7インチ速射そくしゃほう

1915ねん3月、みなみアフリカぐん67,000めいは4縦隊じゅうたい南西なんせいアフリカへ侵攻しんこう開始かいしした。みなみアフリカぐん練度れんどたかく、現地げんち同種どうしゅ地形ちけい生活せいかつした経験けいけんがあった。かれらはうまり、なにもない土地とちすうひゃくkmあまり縦断じゅうだんした。ドイツぐん遅滞ちたい戦術せんじゅつ展開てんかいしようとしたが成功せいこうしなかった。ボータ自身じしんぐんひきい、ウォルビスベイおよびスワコプムント占領せんりょうした。進撃しんげきちゅう部隊ぶたい頑強がんきょう抵抗ていこうだけでなく、地雷原じらいげん有毒ゆうどく物質ぶっしつ井戸いど遭遇そうぐうした。3月12にち植民しょくみん首都しゅとヴィントフーク占領せんりょうされ、このときまでにみなみアフリカぐん南西なんせいアフリカのほとんどを手中しゅちゅうおさめた。この段階だんかいでドイツぐん降伏ごうぶく勧告かんこくがなされたが不首尾ふしゅびわり、ドイツぐん徐々じょじょ領土りょうど北西ほくせいみながら戦闘せんとうつづいた。1915ねん7がつ1にち、ドイツぐんオタヴィ英語えいごばん敗北はいぼくし(オタヴィのたたか英語えいごばん)、7がつ9にちコラブ英語えいごばん英語えいご: Khorab)で降伏ごうぶくした。南西なんせいアフリカは以後いご1990ねんナミビアとして独立どくりつするまでの75ねんわたり、事実じじつじょうみなみアフリカに支配しはいされた。

アンゴラ戦線せんせん

[編集へんしゅう]

ドイツぐん唯一ゆいいつポルトガルりょうアンゴラけては攻勢こうせいたが、撃退げきたいされた。

ひがしアフリカ戦線せんせん

[編集へんしゅう]
ひがしアフリカ戦線せんせん英語えいごばん

ベルギーりょうコンゴ公安こうあんぐん(ドイツりょうひがしアフリカにて)
戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1914ねん8がつ3にち - 1918ねん11月23にち
場所ばしょタンザニアザンビアモザンビークルワンダブルンジケニアウガンダコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく
結果けっか連合れんごうこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス

ベルギーの旗 ベルギー

ポルトガルの旗 ポルトガル

イタリアの旗 イタリア

ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
南アフリカ連邦の旗 ヤン・スマッツ ドイツの旗 パウル・フォン・レットウ=フォルベック
戦力せんりょく
40,000めい 15,500めい

ひがしアフリカではドイツりょうひがしアフリカ(のちのタンガニーカタンザニア連合れんごう共和きょうわこく大陸たいりく一部いちぶ)、ブルンジ共和きょうわこくおよびルワンダ共和きょうわこく)から戦闘せんとうはじまり、最終さいしゅうてきポルトガルりょうひがしアフリカ(のちのモザンビーク共和きょうわこく)、イギリスりょうひがしアフリカ(のちのケニア共和きょうわこく)、きたローデシア(のちのザンビア共和きょうわこく)、イギリス保護ほごりょうウガンダ英語えいごばん(のちのウガンダ共和きょうわこく)、ベルギーりょうコンゴ(のちのコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく)に波及はきゅうした。イギリスぐんは4ねん努力どりょくなんまんもの犠牲ぎせいしゃ(そのおおくは風土病ふうどびょうによる)をしながらドイツ植民しょくみん占領せんりょうあるいはドイツぐん鎮圧ちんあつができなかった。

パウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐たいさ(のち少将しょうしょう)にひきいられたドイツ植民しょくみんぐんは、奇襲きしゅう、ヒット・エンド・ラン攻撃こうげき、および攻撃こうげきひろげた。再三再四さいさんさいし、イギリスぐんはレットウ=フォルベックの部隊ぶたいおとしいれる計画けいかくったが、かれつかまえることはできなかった。ドイツぐんはドイツりょうひがしアフリカ全土ぜんどうごまわり、土地とちのものをべて生活せいかつし、イギリスおよびポルトガルの物資ぶっしうばった。レットウ=フォルベックはだいいち世界せかい大戦たいせんとおしてたたかき、ドイツの休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいになって降伏ごうぶくした。

情勢じょうせい

[編集へんしゅう]

ドイツりょうひがしアフリカはひろく、地形ちけい複雑ふくざつ地域ちいきだった(だい地溝ちこうたい一部いちぶタンガニーカ、およびヴィクトリアふくまれる)。それは豊富ほうふ水源すいげんとなる山脈さんみゃく北西ほくせい肥沃ひよく土地とち乾燥かんそうし、すないわだらけの中央ちゅうおう野生やせい生物せいぶつ豊富ほうふ北東ほくとう草原そうげん広大こうだい無人むじん森林しんりん地域ちいきのある南東なんとうなど変化へんかんでいた。沿岸えんがんにはスワヒリぞく英語えいごばんアラブ商人しょうにん居住きょじゅうし、アラブじんはイギリスが支配しはいするザンジバルとのちのケニアおよびモザンビーク沿岸えんがんとともに、中部ちゅうぶアフリカとの貿易ぼうえき牛耳ぎゅうじっていた。

戦争せんそう勃発ぼっぱつ、ドイツ植民しょくみん管理かんり責任せきにんしゃであるハインリヒ・シュネー総督そうとく敵対てきたいてき行動こうどうをとることのないよう指示しじした。きたのイギリスりょうひがしアフリカ(ケニア)では、イギリスの総督そうとくが、イギリスりょうひがしアフリカは「現在げんざいおこなわれている戦争せんそうには関心かんしんい」との声明せいめいした[5]。その理由りゆうひとつにはどちらの植民しょくみんおおくのへいがいなかったからということがあった。しかし、ひがしアフリカの小規模しょうきぼなドイツぐん指揮しきかんフォン・レットウ=フォルベック大佐たいさはシュネーを無視むしし、戦闘せんとうけてぐん召集しょうしゅうした。開戦かいせんドイツ防衛ぼうえいたいSchutztruppe)にはやく200めい将校しょうこうと1,700めいのドイツじん兵士へいし、2,500めいアスカリがいた。

1914ねん

[編集へんしゅう]

開戦かいせん

[編集へんしゅう]

ドイツりょうひがしアフリカでの戦闘せんとう1914ねん8がつはじまった。8がつ15にち、ルアンダ=ウルンディのドイツぐんはベルギーりょうコンゴの数ヶ所すうかしょむら砲撃ほうげきした。8がつ22にち、タンガニーカのドイツ軍艦ぐんかんはアルバートヴィル(のちのカレミ)のみなとたいして砲門ほうもんひらいた。

9月、ドイツぐん隣接りんせつするイギリスりょうひがしアフリカおよびイギリス保護ほごりょうウガンダに侵入しんにゅうした。また、レットウ=フォルベックはヴィクトリアしょう艦隊かんたい創設そうせつし、それはちいさな戦果せんかおおきな衝撃しょうげきあたえた。イギリスぐんはヴィクトリアでのせいすいけん回復かいふくするため、すうせきほうてい分解ぶんかいして鉄道てつどうみずうみはこんだ。また、1914ねん11月2にちイギリスりょうインドぐん2旅団りょだんタンガへの上陸じょうりくこころみたが、ドイツぐん上陸じょうりく部隊ぶたい撃退げきたいする(タンガのたたか)。正確せいかくはげしい砲撃ほうげきはま上陸じょうりく部隊ぶたい進撃しんげき阻止そしし、3にちには上陸じょうりく部隊ぶたいふねもどした。砂浜すなはまにはドイツぐん翌年よくねんまで本拠ほんきょ維持いじできるだけの物資ぶっしのこされていた[6]

1915ねん

[編集へんしゅう]

イギリス=ベルギーぐんのタンガニーカ遠征えんせい

[編集へんしゅう]

1915ねん、ドイツぐん優勢ゆうせいであったタンガニーカにイギリスぐんはモーターランチミィミィごうとトウトウごう英語えいごばんおくんだ。ジェフリー・スパイサー=シムソン英語えいごばん中佐ちゅうさ指揮しきした、この2せきは1915ねん12月26にちにドイツぐんのキンガニと交戦こうせんしこれを捕獲ほかくした。1916ねん2がつ9にちにはフィフィごう英語えいごばん改名かいめいされたキンガニとミィミィがドイツぐん武装ぶそう商船しょうせんヘードヴィヒ・フォン・ヴィスマン英語えいごばん撃沈げきちんした。ドイツがわ特設とくせつ砲艦ほうかんグラーフ・フォン・ゲッツェン」を就役しゅうえきさせたが、連合れんごうぐん水上すいじょうによって撃破げきはした。

1915ねんにはレットウ=フォルベックの部隊ぶたいには3,500めいのドイツへいとおよそ12,000めいのアスカリがくわわっていた。

1916ねん

[編集へんしゅう]

スマッツ将軍しょうぐん到着とうちゃく

[編集へんしゅう]

イギリスぐんホレス・スミス=ドリエン英語えいごばん将軍しょうぐんはドイツぐんとの戦闘せんとう指揮しきかん任命にんめいされていたが、みなみアフリカへの航海こうかいちゅう肺炎はいえんかかり、指揮しきをとることができなくなった。1916ねんヤン・スマッツ将軍しょうぐんがレットウ=フォルベック撃破げきはにんけた。スマッツは(その地域ちいきでは)だい規模きぼなおよそ13,000めいブールじんふくみなみアフリカへい、イギリスへいおよびローデシアへいのほか、7,000めいインドじんおよびアフリカじん兵士へいしようしていた。また、かれ直属ちょくぞくではいがおな連合れんごうぐんとしてベルギーぐんと、ポルトガルりょうひがしアフリカにはだい規模きぼだがまったくたよりにならないポルトガルじん部隊ぶたいがいた。イギリスぐん指揮しきされたアフリカじんポーターによるだい規模きぼ運搬うんぱん兵団へいだんCarrier Corps)が、鉄道てつどう道路どうろがいたるところで寸断すんだんされている内陸ないりくはいったスマッツのぐん物資ぶっし供給きょうきゅうした。これらはそれぞれ別々べつべつくに部隊ぶたいであったが、原則げんそくてきみなみアフリカぐんのスマッツに指揮しきされた。

ベルギーりょうコンゴぐん参戦さんせん

[編集へんしゅう]

参戦さんせんしたベルギーりょうコンゴぐんはかなりだい規模きぼだった − 戦闘せんとう部隊ぶたいふくまない後方こうほう支援しえん部隊ぶたいだけでおよそ260,000にん運搬うんぱんへい動員どういんされた。トンブール英語えいごばん将軍しょうぐん、モリトール大佐たいさおよびオルセン大佐たいさひきいられたベルギーりょうコンゴの植民しょくみんぐん公安こうあんぐん)は1916ねん4がつ18にち参戦さんせんした。かれらは5月6にちキガリ占領せんりょうした。ブルンジのドイツぐん善戦ぜんせんしたが、かずまさるベルギーりょうコンゴぐん屈服くっぷくせざるをえなかった。6月6にちかれらはウスンブラ攻略こうりゃくし、そのころにはルワンダとブルンジを完全かんぜん制圧せいあつした。

病気びょうきとのたたか

[編集へんしゅう]

スマッツぐん複数ふくすう方面ほうめんから攻撃こうげきした。しゅ攻勢こうせいきたのイギリスりょうひがしアフリカから、同時どうじにベルギーりょうコンゴの相当そうとうすう部隊ぶたい西にしから2縦隊じゅうたい進軍しんぐんヴィクトリアえ、だい地溝ちこうたい侵入しんにゅうした。もうひとつの部隊ぶたい南西なんせいからニヤサマラウイ)を進軍しんぐんした。これらすべての部隊ぶたいはレットウ=フォルベックをらえることができず、全員ぜんいん進軍しんぐんちゅうおも病気びょうきわずらった。たとえばだい9みなみアフリカ歩兵ほへいたいは2がつには1,135めいいたが、ほとんど戦闘せんとうすることもないまま10がつには116めいにまでっていた[7]。しかし、ドイツぐんは、ほとんどいつもだい規模きぼなイギリスぐんたいすると撤退てったいし、1916ねん9がつまでにはダルエスサラーム海岸かいがんからウジジいたるドイツの鉄道てつどうはすべてイギリスの支配しはいになった。

ベルギーりょうコンゴぐんのタボラ占領せんりょう作戦さくせん

[編集へんしゅう]

ベルギーりょうコンゴぐんはそのタボラ占領せんりょう作戦さくせん開始かいしした。かれらは3縦隊じゅうたいでタンガニーカに進撃しんげきし、ビハラムロ、ムワンザ、カレマ、キゴマおよびウジジを攻略こうりゃくした。数日すうじつわた激戦げきせんのちかれらはタボラを制圧せいあつした。ベルギーがドイツ植民しょくみんたいする権利けんり主張しゅちょうするのをおそれたスマッツは、あわててルワンダとブルンジを占領せんりょうしたベルギーぐんをコンゴへかえさせた。トンブール英語えいごばん将軍しょうぐん指揮しきのベルギーぐんはドイツりょうひがしアフリカ中央ちゅうおうにある行政ぎょうせい中心地ちゅうしんちタボラ占領せんりょうした。

ひがしアフリカ南部なんぶへのふう

[編集へんしゅう]

これによりレットウ=フォルベックのぐんはドイツりょうひがしアフリカ南部なんぶめられたため、スマッツはかれみなみアフリカへい、ローデシアへいおよびインドじんへいをアフリカじんへい交代こうたいさせ、後方こうほうがらせた。1917ねん初頭しょとうにはイギリスぐん半数はんすう以上いじょうはアフリカじんにより構成こうせいされており、終戦しゅうせんころになるとほぼすべてがアフリカじん部隊ぶたいになっていた。スマッツは1917ねん1がつにこのり、イギリス戦時せんじ内閣ないかく入閣にゅうかくするためロンドンへかった。

1917ねん

[編集へんしゅう]

しかし、イギリスぐんは1917ねんにベルギーりょうコンゴぐんたいふたた援軍えんぐんもとめざるをえなくなった。以降いこうりょうぐん行動こうどうをともにした。イギリスぐんはレットウ=フォルベックのぐん捕縛ほばくあるいは撃破げきはするために作戦さくせんつづけていたがドイツぐん抵抗ていこう鎮圧ちんあつすることはできなかった。まずイギリスの王立おうりつアフリカ小銃しょうじゅうたいのホーキンス将軍しょうぐん指揮しきぎ、いでみなみアフリカのファン・デフェンテル将軍しょうぐん指揮しきった。

1917ねん7がつ、ファン・デフェンテルは攻勢こうせいた。レットウ=フォルベックのぐんは3のグループにかれ、そのうち2グループはなんとか攻勢こうせいからのがれることができたが、タフェル指揮しきのおよそ5,000めいからなるだい3グループは投降とうこう余儀よぎなくされた。ドイツぐんだい規模きぼなイギリスぐん釘付くぎづけにし、ときには敗退はいたいさせた。たとえば、ドイツぐんは1917ねん10がつにマヒワ近郊きんこうにてイギリスぐんやぶった(マヒワのたたか英語えいごばん)。ドイツぐんは100めいうしなったのにたいし、イギリスぐんは1,600めいうしなった。それでも、イギリスぐんはドイツぐんせまった。

1917ねん11月23にち、レットウ=フォルベックはみなみポルトガルりょうひがしアフリカ(のちのモザンビーク共和きょうわこく領内りょうないはいった。かれ小規模しょうきぼのポルトガル駐留ちゅうりゅう部隊ぶたいらえ、新兵しんぺい物資ぶっしることにのぞみをかけた。

1918ねん

[編集へんしゅう]

かれはそのやく9ヶ月かげつあいだわた捕縛ほばくけながらポルトガルりょうひがしアフリカ領内りょうない進撃しんげきしたが、ほとんど戦力せんりょく強化きょうかすることはできなかった。そのふたたびドイツりょうひがしアフリカにもどり、1918ねん8がつ今度こんどきたローデシア侵入しんにゅうした。

レットウ=フォルベックの投降とうこう

[編集へんしゅう]
アフリカじん芸術げいじゅつえがいた、アバーコーンにてイギリスぐん投降とうこうするレットウ=フォルベック

11月11にちにヨーロッパでドイツが休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいしていたが、その2にち11月13にちにレットウ=フォルベックのドイツぐんかれらが最後さいご攻略こうりゃくしたカサマまちき、イギリスぐんから退避たいひした。つぎチャンベジがわ英語えいごばんコンゴがわさい上流じょうりゅう)でレットウ=フォルベックはドイツが休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいしたことをげる電信でんしんり、戦闘せんとう停止ていし同意どういした。11月23にち要請ようせいしたがい、レットウ=フォルベックは残余ざんよ部隊ぶたいひきいてきたローデシアアバーコーン英語えいごばんまで行進こうしんし、そこで正式せいしき投降とうこうした[8]。レットウ=フォルベックの部隊ぶたい戦闘せんとうにおいてほとんど敗北はいぼくすることがなく、ドイツに英雄えいゆうとして凱旋がいせんした。ザンビアにはフォン・レットウ=フォルベック記念きねんてられている。

評価ひょうか

[編集へんしゅう]

この戦線せんせんでは1人ひとり戦死せんしするごとに30にん病気びょうきぬか戦闘せんとう不能ふのうになった(イギリスぐんがわ[9]

シリル・フォールズはべている。

レットウ=フォルベックの功績こうせき不朽ふきゅう名声めいせいあたいする。かれ本土ほんどから孤立こりつしていた。かれには決定的けっていてき勝利しょうりのぞむことはゆるされなかった。かれ純粋じゅんすいにイギリスぐん人員じんいんを、輸送ゆそうを、そして物資ぶっしをできるかぎ消費しょうひさせるために、イギリスぐんのできるかぎおおくを、できるかぎながばすことだけをねらっていた。その意味いみでは、かれ成功せいこうしたとえる。 — Cyril Falls, "The Great War" pg. 254

歴史れきしフレッド・レイドはつぎのように評価ひょうかしている。

いまにしておもえば、ひがしアフリカでの戦役せんえきだいいち世界せかい大戦たいせんの「し」のようにられるようになった。記憶きおく西部せいぶ戦線せんせんでのだい虐殺ぎゃくさつ集中しゅうちゅうしたせいで、その「悪意あくい」のいたみにえたインドじん、アフリカじんそしてイギリスじんのことはほとんどわすられた。今日きょうでも、それはそう死者ししゃすう概算がいさんるだけのものにぎない。イギリスぐんは1まんめい以上いじょううしない、その3ぶんの2は病死びょうしだった。ドイツぐんやく2,000めいうしなった。だが、運搬うんぱんへいひがしアフリカ黒人こくじん病気びょうき極度きょくど疲労ひろうおよび軍事ぐんじ行動こうどうによりはるかにくるしめられた。だれかれらの運命うんめい記録きろくすることさえしなかった。現在げんざい推定すいていされるところではりょうぐんで100,000めい死亡しぼうしたとされている。黒人こくじん民間みんかんじんもひどくくるしんだ。戦争せんそうおおくの場所ばしょ荒廃こうはいさせ、その結果けっかえ、病気びょうきをもたらした。なにせんものアフリカじん戦後せんごかれらの発生はっせいしたインフルエンザ[10]により死亡しぼうした。すくなくとも一部いちぶのアフリカじんは、ながあいだヨーロッパじんにより「野蛮やばんじん」の汚名おめいせられたが、おおくの場合ばあい野蛮やばんじん文明ぶんめいという白人はくじん仮面かめん裏側うらがわにいたことはあきらかだった。 — Fred Reid, "In Search of Willie Patterson" p.121

コンゴにいた無名むめいベルギーじん宣教師せんきょうし当時とうじのコンゴじん生活せいかつについていている。「父親ちちおや前線ぜんせんにいて、子供こどもたちが前線ぜんせん食料しょくりょうはこんでいるあいだ母親ははおや兵士へいしのために雑穀ざっこくく。」コンゴじんはヨーロッパでたたかうことはかったけれども、コンゴの人々ひとびともまた戦争せんそうおおくの犠牲ぎせいはらった。

戦後せんご

[編集へんしゅう]

戦争せんそうによりドイツ植民しょくみん帝国ていこく短命たんめいわった。イギリスとフランス、ポルトガル、イタリア、ベルギーなどはドイツ植民しょくみん分配ぶんぱいしたが、かれらの植民しょくみん支配しはいもまた短命たんめいわる。ほとんどのもとドイツ植民しょくみんは1960ねんまでに独立どくりつり、最後さいごのこったナミビア(WW1みなみアフリカの統治とうちにあった)も1990ねん完全かんぜん独立どくりつげた。

アフリカ戦線せんせん舞台ぶたいにした作品さくひん

[編集へんしゅう]
小説しょうせつ
エドガー・ライス・バローズ野獣やじゅうおうターザン英語えいごばん』(1919ねん) - 大戦たいせんちゅうのイギリスりょうひがしアフリカを舞台ぶたいとしたターザン・シリーズ作品さくひんで、シュテファン・ゾーレルにドイツ冒涜ぼうとくしゃターザンとドイツ国内こくない紹介しょうかいされたことから、ドイツ市場いちばうしなった。
セシル・スコット・フォレスターアフリカの女王じょおう英語えいごばん』(1935ねん) - 大戦たいせんちゅうのドイツりょうひがしアフリカを舞台ぶたいとした。
映画えいが
アフリカの女王じょおう』(1951ねん) - 上記じょうき同名どうめい小説しょうせつ映画えいがしたもの。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Keegan, "The First World War", pg. 206
  2. ^ Keegan, "The First World War", pg. 207
  3. ^ ちゅう日本にっぽんでは一般いっぱんトランスヴァール共和きょうわこくばれる。
  4. ^ Hypertext version of The Rise of the South African Reich, Brian Bunting, chapter 1.”. 2008ねん5がつ7にち閲覧えつらん
  5. ^ Keegan, "The First World War", pg. 210
  6. ^ Keegan, "The First World War", pg. 211
  7. ^ Cyril Falls, "The Great War", pg. 253
  8. ^ The Northern Rhodesia Journal online Vol IV No 5” (英語えいご). “The Evacuation of Kasama in 1918”. pp. 440-442 (1961ねん). 2007ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  9. ^ John Keegan, The First World War, pg. 300
  10. ^ 訳注やくちゅう: スペインかぜのこと

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • John Keegan (1999). The First World War. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 0-375-40052-4 
  • Cyril Falls (1959). The Great War, 1914-1918. New York: Puntnam. ISBN 0-399-50100-2 
  • Brigadier-General F. J. Moberly (1931). Togoland and the Cameroons 1914-1916. HMSO, official history 
  • Paice, Edward (2007). Tip and Run: The Untold Tragedy of the Great War in Africa. Weidenfeld & Nicolson. ISBN 0-297-84709-0 
  • Fred Reid (2002). In Search of Willie Patterson. Cualann Press. ISBN 978-0-9535036-7-4 
  • Abbott, Peter (2002). Armies in East Africa 1914-1918. Osprey. ISBN 1-84176-489-2 
  • Anderson, Ross (2004). The Forgotten Front: The East African Campaign: 1914-1918. Tempus Publishing, Limited. ISBN 0-7524-2344-4 
  • Farwell, Byron (1989). The Great War in Africa, 1914-1918. W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-30564-3 
  • Gardner, Brian (1963). On to Kilimanjaro. Macrae Smith Company. ISBN 1-111-04620-4 
  • Hodges, Geoffrey (1986). The Carrier Corps - Military Labour in the East African Campaign 1914-18. New York: Greenwood Press. ISBN 0-313-24418-9 
  • Hoyt, Edwin (1981). Guerilla: Colonel von Lettow-Vorbeck and Germany's East African Empire. Scribner. ISBN 0-02-555210-4 
  • Hoyt, Edwin (1969). The Germans who never lost. Frewin. ISBN 0-09-096400-4 
  • Miller, Charles (1974). Battle for the Bundu: The First World War in East Africa. Macmillan Publishing Co.. ISBN 0-02-584930-1 
  • Mosley, Leonard (1963). Duel for Kilimanjaro. Ballantine Books 
  • Sibley, J.R. (1973). Tanganyikan Guerrilla. Ballantine Books. ISBN 0-345-09801-3 
  • Strachan, Hew (2004). The First World War in Africa. Oxford University Press. ISBN 0-19-925728-0 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]