反乱 はんらん の首謀 しゅぼう 者 しゃ サロモン・マリッツ
マリッツ反乱 はんらん (マリッツはんらん、英 えい : Maritz Rebellion 、ブール反乱 はんらん (ボーア反乱 はんらん 、Boer Revolt)あるいは5シリング反乱 はんらん [1] (Five Shilling Rebellion)とも呼 よ ばれる)は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した1914年 ねん に、南 みなみ アフリカ において、かつてのブール人 じん 共和 きょうわ 国 こく 再興 さいこう を支持 しじ するブール人 じん が南 みなみ アフリカ政府 せいふ に対 たい して蜂起 ほうき した反乱 はんらん 。
政府 せいふ 軍 ぐん の多 おお くは、自身 じしん が12年 ねん 前 まえ の第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう でマリッツと共 とも にイギリス帝国 ていこく と戦 たたか った元 もと ブール人 じん だった。
反乱 はんらん は失敗 しっぱい し、首謀 しゅぼう 者 しゃ は重 おも い罰金 ばっきん と禁固刑 きんこけい を受 う けた(が、1-2年 ねん 後 ご には釈放 しゃくほう された)。
1902年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう が終結 しゅうけつ すると、すべてのブール人 じん 兵士 へいし は講和 こうわ 条約 じょうやく を遵守 じゅんしゅ する旨 むね の誓約 せいやく 書 しょ に署名 しょめい を求 もと められた。デネイス・レイツ はじめ数 すう 人 にん はそれを拒否 きょひ し、南 みなみ アフリカから追放 ついほう された。その後 ご の10年間 ねんかん 、多 おお くは故郷 こきょう に帰 かえ ったが、全員 ぜんいん が帰 かえ ると同時 どうじ に仕事 しごと に就 つ けたわけではなかった。ボーア戦争 せんそう において最後 さいご まで戦 たたか いつづけたボーア人 じん は「不屈 ふくつ の人 ひと 」(bitter-enders)として知 し られた。反乱 はんらん の頃 ころ には、上記 じょうき 誓約 せいやく を行 おこな わず、新 あたら しい戦争 せんそう が始 はじ まるのを待 ま っていた人々 ひとびと も「不屈 ふくつ の人 ひと 」として知 し られるようになった。
元 もと ボーア人 じん 将軍 しょうぐん ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク へインタビューを行 おこな ったドイツ人 じん ジャーナリストは、「テークリヒェ・ルンドシャウ」(Tägliche Rundschau )紙 し で次 つぎ のように書 か いた。「ヘルツォークはブール人 じん による3年間 ねんかん の戦 たたか いの結果 けっか 、イギリスがヨーロッパ 列強 れっきょう との戦争 せんそう に巻 ま き込 こ まれればすぐに、南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく 全体 ぜんたい に彼 かれ らの自由 じゆう が舞 ま い込 こ んでくると思 おも っている。」
アイルランド ナショナリスト の言葉 ことば 「イギリスの不幸 ふこう はアイルランドの好機 こうき 」("England's misfortune is Ireland's opportunity")の「アイルランド」を「不屈 ふくつ の人 ひと 」に置 お き換 か え、「不屈 ふくつ の人 ひと 」々とその支持 しじ 者 しゃ は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ を好機 こうき ととらえた(イギリス帝国 ていこく の敵 てき であるドイツ帝国 ていこく は彼 かれ らの古 ふる くからの支援 しえん 者 しゃ だった)。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん 8月 がつ のヨーロッパでの戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ はかなり以前 いぜん から予想 よそう されており、南 みなみ アフリカ連邦 れんぽう 政府 せいふ は南西 なんせい アフリカのドイツ植民 しょくみん 地 ち と境界 きょうかい 線 せん を接 せっ していることの重要 じゅうよう 性 せい をよく分 わ かっていた。南 みなみ アフリカ首相 しゅしょう ルイス・ボータ はロンドン に対 たい し、南 みなみ アフリカは自身 じしん を守 まも れること、および駐留 ちゅうりゅう イギリス軍 ぐん をフランス に送 おく ることが出来 でき ることを伝 つた えた。イギリス政府 せいふ がボータに対 たい しドイツ領 りょう 南西 なんせい アフリカに侵攻 しんこう できるか尋 たず ねたところ、ボータは南 みなみ アフリカはそれが出来 でき るし、そうするだろうと返答 へんとう した。
1914年 ねん 9月 がつ 初旬 しょじゅん 、南 みなみ アフリカ連邦 れんぽう 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) はヘンリー・ルーキン 司令 しれい 官 かん とサロモン(マニー)・マリッツ 中佐 ちゅうさ 指揮 しき の下 した 、両国 りょうこく 国境 こっきょう 沿 ぞ いに動員 どういん された。その後 ご まもなく、別 べつ の部隊 ぶたい がリューデリッツ 港 みなと を占領 せんりょう した。
南 みなみ アフリカ政府 せいふ がドイツ植民 しょくみん 地 ち 侵攻 しんこう を表明 ひょうめい したとき、南 みなみ アフリカ国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん クリスティアーン・ベイヤース は(それに反対 はんたい して)辞任 じにん し、ボーア戦争 せんそう 中 ちゅう に行 おこな われた残虐 ざんぎゃく 行為 こうい に言及 げんきゅう した。「戦争 せんそう がドイツ人 じん の『残虐 ざんぎゃく 性 せい 』に対 たい して行 おこな われるというのは残念 ざんねん なことである。我々 われわれ は許 ゆる したが、南 みなみ アフリカでの戦争 せんそう 中 ちゅう に我々 われわれ の国 くに で行 おこな われた残虐 ざんぎゃく 行為 こうい のすべてを忘 わす れたわけではない。」
この問題 もんだい について議会 ぎかい で政府 せいふ を支持 しじ することを拒否 きょひ した指名 しめい 上院 じょういん 議員 ぎいん コース・デ・ラ・レイ 将軍 しょうぐん はベイヤースのもとを訪 おとず れた。9月15日 にち 、彼 かれ らは共 とも にポチェフストルーム のJ.C.G.ケンプ 少佐 しょうさ を訪 おとず れるために出発 しゅっぱつ した。ケンプは大量 たいりょう の武器 ぶき と訓練 くんれん を終 お えたばかりの2,000名 めい の部隊 ぶたい を擁 よう しており、その多 おお くは反乱 はんらん の考 かんが えに同調 どうちょう すると考 かんが えられていた。
南 みなみ アフリカ政府 せいふ は彼 かれ らのポチェフストルーム訪問 ほうもん の目的 もくてき が何 なに であったかは知 し らなかったが、反乱 はんらん に関 かん する政府 せいふ 青書 せいしょ [2] で述 の べられているところでは、それが反乱 はんらん を扇動 せんどう する企 くわだ てであると考 かんが えていた。ベイヤースによれば、それは政府 せいふ の方針 ほうしん に反対 はんたい する軍 ぐん 指導 しどう 者 しゃ の一斉 いっせい 辞任 じにん 計画 けいかく を打 う ち合 あ わせるためで、イギリスで2年 ねん 前 まえ に発生 はっせい したアイルランド地方 ちほう 自治 じち 法案 ほうあん (en )をめぐるカラフ事件 じけん (Curragh incident )を模 も したものだった。
デ・ラ・レイはその打 う ち合 あ わせに向 む かう途中 とちゅう 、フォスター・ギャング(当時 とうじ 南 みなみ アフリカで活動 かつどう していた犯罪 はんざい 組織 そしき )を探 さが し出 だ すために設置 せっち されていたバリケードにいた警官 けいかん から偶然 ぐうぜん 撃 う たれた。しかし、彼 かれ の葬式 そうしき では多 おお くのブール人 じん ナショナリストが政府 せいふ による暗殺 あんさつ だという噂 うわさ を信 しん じ続 つづ け、火 ひ に油 あぶら を注 そそ いだ。これはシーネル・ファン・レンスブルフと彼 かれ の議論 ぎろん を呼 よ ぶ予言 よげん によりさらに煽 あふ られる結果 けっか となった。
一方 いっぽう 、ベイヤース辞任 じにん 後 ご 、ケープ州 しゅう 北西 ほくせい 部 ぶ のドイツ領 りょう 南西 なんせい アフリカとの国境 こっきょう に展開 てんかい していた南 なん ア軍 ぐん (指揮 しき 官 かん はマニー・マリッツ中佐 ちゅうさ )に不穏 ふおん な動 うご きがあるという報告 ほうこく が政府 せいふ に届 とど いた。政府 せいふ は直 ただ ちにコンラード・ブリッツ大佐 たいさ を後任 こうにん とするよう手配 てはい した。ブリッツはマリッツに出頭 しゅっとう して報告 ほうこく するよう伝達 でんたつ したが、マリッツは誰 だれ にも報告 ほうこく するつもりはないと返答 へんとう した。ブリッツはベン・バウワー少佐 しょうさ をマリッツの元 もと へ派遣 はけん した。バウワーと彼 かれ の中隊 ちゅうたい がマリッツの元 もと に到着 とうちゃく すると、部隊 ぶたい 共々 ともども マリッツに逮捕 たいほ された。マリッツはバウワーだけを釈放 しゃくほう し、ドイツ領 りょう 南西 なんせい アフリカの協力 きょうりょく を得 え ていることを話 はな し、大量 たいりょう の武器 ぶき 弾薬 だんやく があるところを見 み せ、ドイツ軍 ぐん を南 みなみ アフリカに導 みちび き入 い れることによって南 みなみ アフリカを解放 かいほう することに自信 じしん を示 しめ した。
マリッツは、暫定 ざんてい 政府 せいふ に代 か わり次 じ の宣言 せんげん を行 おこな った。
「
ケープ州 しゅう およびナタール のみならず、かつての南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく およびオラニエ自由 じゆう 国 こく はイギリスの支配 しはい から脱 だっ し独立 どくりつ することを宣言 せんげん し、これら地域 ちいき に居住 きょじゅう する、または国籍 こくせき を持 も つすべての白人 はくじん は自 みずか らの手 て で武器 ぶき を取 と り、南 みなみ アフリカの自由 じゆう と独立 どくりつ のために長 なが い間 あいだ 大切 たいせつ にしてきた理想 りそう を実現 じつげん することをここに求 もと める。
」
また、ベイヤース、クリスティアーン・デ・ヴェト 、マリッツ、ケンプおよびベズイデンホウトがこの暫定 ざんてい 政府 せいふ の指導 しどう 者 しゃ となることになっていると発表 はっぴょう された。マリッツの部隊 ぶたい はアピントン地区 ちく のケイモース を占領 せんりょう した。デ・ヴェトに指揮 しき されたライデンブルグ コマンドー隊 たい [3] はハイルブロン の街 まち を支配 しはい 下 か に置 お き、列車 れっしゃ を襲 おそ い、政府 せいふ の貯蔵 ちょぞう 品 ひん および弾薬 だんやく を鹵獲 ろかく した。この地区 ちく の何人 なんにん かの市民 しみん 代表 だいひょう 者 しゃ が彼 かれ の部隊 ぶたい に加 くわ わり、その週末 しゅうまつ には3,000名 めい の部隊 ぶたい となった。ベイヤースもまたマガリースベルグ山地 さんち で兵 へい を集 あつ め、合計 ごうけい で12,000名 めい の反乱 はんらん 軍 ぐん が再 さい 集結 しゅうけつ した。
1914年 ねん 10月14日 にち 、政府 せいふ は戒厳 かいげん 令 れい を布告 ふこく 、ルイス・ボータ指揮 しき 下 か の政府 せいふ に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか わせ、ヤン・スマッツ は反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ を開始 かいし した。10月24日 にち 、マリッツは敗北 はいぼく し、ドイツ領 りょう に逃 のが れた。10月28日 にち 、ベイヤースのコマンドー隊 たい はCommissioners Driftで攻撃 こうげき され、散 ち り散 ぢ りになった。その後 ご ベイヤースはケンプと合流 ごうりゅう したが11月8日 にち にバール川 がわ で溺死 できし した。デ・ヴェトはベチュアナランド で捕縛 ほばく され、ケンプはカラハリ砂漠 さばく を一 いち ヶ月 かげつ かけて1,100km縦断 じゅうだん し、ケンプのコマンドー隊 たい は800名 めい 中 ちゅう 300名 めい と馬 うま のほとんどを失 うしな い、ドイツ領 りょう 南西 なんせい アフリカでマリッツと合流 ごうりゅう したが、約 やく 1週間 しゅうかん 後 ご に南 みなみ アフリカへ戻 もど り1915年 ねん 2月 がつ 4日 にち に投降 とうこう した。
マリッツ反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 後 ご 、南 みなみ アフリカ軍 ぐん はドイツ領 りょう 南西 なんせい アフリカ侵攻 しんこう 作戦 さくせん を続行 ぞっこう し1915年 ねん 7月 がつ までに征服 せいふく した(アフリカ戦線 せんせん (第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ) 参照 さんしょう )。
1916年 ねん のイースター蜂起 ほうき においてアイルランド反乱 はんらん 軍 ぐん 首謀 しゅぼう 者 しゃ が処刑 しょけい されたのに対 たい し、ブール人 じん 反乱 はんらん 軍 ぐん 首謀 しゅぼう 者 しゃ は6-7年 ねん の禁固刑 きんこけい と2,000ポンド前後 ぜんこう の罰金 ばっきん 刑 けい で済 す んだ。2年 ねん 後 ご 、ルイス・ボータは和解 わかい の価値 かち を認 みと めたため彼 かれ らは釈放 しゃくほう された。この後 のち 、「不屈 ふくつ の人 ひと 」らは合法 ごうほう 的 てき 活動 かつどう に専念 せんねん し、国民党 こくみんとう を結成 けっせい した。国民党 こくみんとう は1940年代 ねんだい 後期 こうき から南 みなみ アフリカの政治 せいじ を支配 しはい してアパルトヘイト政策 せいさく を推進 すいしん し、1990年代 ねんだい 初頭 しょとう にアパルトヘイト撤廃 てっぱい とともに与党 よとう の座 ざ を失 うしな った。
^ デ・ヴェト将軍 しょうぐん は武装 ぶそう コマンドー隊 たい の隊長 たいちょう としてレイツ の街 まち に入 はい った10月 がつ に正式 せいしき に反旗 はんき を翻 ひるがえ した。彼 かれ は全 ぜん 住民 じゅうみん を集 あつ め、法廷 ほうてい 速記 そっき 者 しゃ に彼 かれ が語 かた ったすべての言葉 ことば を書 か き留 と めるよう要求 ようきゅう した。そして、彼 かれ は不満 ふまん を述 の べた。「私 わたし は以前 いぜん 、原住民 げんじゅうみん の子供 こども を叩 たた いたことによりレイツの治安 ちあん 判事 はんじ に起訴 きそ された。私 わたし はただ小 ちい さな羊 ひつじ 飼 か いの鞭 むち でそれをしただけで、5シリング の罰金 ばっきん を受 う けた。」演説 えんぜつ の内容 ないよう を聞 き いたスマッツ将軍 しょうぐん はその暴動 ぼうどう を「5シリング反乱 はんらん 」と名 な づけた。(Sol Plaatje)
^ 青書 せいしょ (Blue Book)は1915年 ねん 2月 がつ 26日 にち に南 みなみ アフリカ連邦 れんぽう 政府 せいふ より『Report on the Outbreak of the Rebellion and the Policy of the Government with regard to its Suppression』(反乱 はんらん の発生 はっせい とその鎮圧 ちんあつ に関 かん する政府 せいふ の方針 ほうしん についての報告 ほうこく )の表題 ひょうだい で発行 はっこう された (J.G. Orford)
^ ここで言 い うところの「コマンドー隊 たい 」は後 ご のエリート歩兵 ほへい 部隊 ぶたい あるいは特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい ではない。詳細 しょうさい はコマンド部隊 ぶたい #語源 ごげん を参照 さんしょう