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アフリカーナー

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アフリカーナー
Afrikaner
アフリカーンスの家族かぞく(1886ねん
そう人口じんこう
やく340まんにん
居住きょじゅう地域ちいき
南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ300まんにん
イギリスの旗 イギリス100,000にん[1]
ニュージーランドの旗 ニュージーランド90,000にん
ナミビアの旗 ナミビア80,000にん - 183,000にん [2]
ザンビアの旗 ザンビア48,000にん [3]
オーストラリアの旗 オーストラリア40,000にん - 45,000にん [4]
オランダの旗 オランダ25,000にん
カナダの旗 カナダ15,000にん
ベルギーの旗 ベルギー12,500にん
アルゼンチンの旗 アルゼンチン11,879にん[5]
ボツワナの旗 ボツワナ5,079にん
言語げんご
アフリカーンスみなみアフリカ英語えいごバントゥーぐん
宗教しゅうきょう
プロテスタントオランダ改革かいかく教会きょうかいカルヴァン)、カトリック
関連かんれんする民族みんぞく
オランダじんアングロアフリカン

アフリカーナーアフリカーンス: Afrikaner)は、アフリカ南部なんぶ居住きょじゅうする白人はくじんのうち、ケープ植民しょくみん形成けいせいしたオランダけい移民いみん主体しゅたいに、フランスのユグノー、ドイツけいプロテスタント教徒きょうとなど、信教しんきょう自由じゆうもとめてヨーロッパからアフリカ入植にゅうしょくした人々ひとびと合流ごうりゅうして形成けいせいされた民族みんぞく集団しゅうだんである。現在げんざいみなみアフリカ共和きょうわこくナミビアおおんでいる。

言語げんごオランダ基礎きそにして現地げんち言語げんごとう融合ゆうごうして形成けいせいされたゲルマンけい言語げんごであるアフリカーンス母語ぼごとする。かつてはブールじん(Boer)とばれた(「ブール」〔Boer〕とはオランダおよびアフリカーンス農民のうみん。"Boer"の英語えいごみにもとづいてボーアじんとも表記ひょうきされる)。おも宗教しゅうきょう改革かいかく(カルヴァンぞくするオランダ改革かいかく教会きょうかいである。

アパルトヘイト時代じだい厳密げんみつ定義ていぎでは、オランダけい同化どうかしたユグノーなどもふくまれる)であること、アフリカーンスだいいち言語げんごとすること、オランダ改革かいかく教会きょうかい信徒しんとであること、このみっつをみたすことが「アフリカーナー」の条件じょうけんであった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

オランダ植民しょくみん時代じだい(1652ねん - 1795ねん[編集へんしゅう]

1652ねんヤン・ファン・リーベックがケープに上陸じょうりくした様子ようすえがいた絵画かいが

17世紀せいきなかばの1652ねんにオランダじんヤン・ファン・リーベックらが、オランダりょうひがしインド日本にっぽんへの補給ほきゅうこう建設けんせつために、アフリカ南部なんぶ沿岸えんがん入植にゅうしょくし、ケープタウン建設けんせつオランダひがしインド会社かいしゃ(VOC)によるケープ植民しょくみん成立せいりつした。かれらがアフリカーナーの源流げんりゅうといえる。ケープ植民しょくみん総督そうとくシモン・ファン・デル・ステルは1679ねんステレンボッシュきずき、のアフリカーナーの内陸ないりく進出しんしゅつ拠点きょてんとなった。このオランダ入植にゅうしょくしゃ集団しゅうだんにはカトリック主流しゅりゅうフランス王国おうこく公民こうみんあつかいされていなかったしん教徒きょうとのユグノーなど、のヨーロッパ諸国しょこくからのプロテスタント移民いみん合流ごうりゅうするかたち流入りゅうにゅうし、のち民族みんぞく集団しゅうだんとしてアフリカーナー(ブールじん)とばれることになる人々ひとびと前身ぜんしん形成けいせいされていった。以上いじょう理由りゆうより、アフリカーナーの出身しゅっしんこくにはオランダ、フランス、ドイツのほかベルギースカンディナヴィア諸国しょこくがある。このなかでもフランス出身しゅっしんのユグノーは、現在げんざいもケープ地方ちほうつたわるワイン製造せいぞう技術ぎじゅつをもたらした[6]。また、こうして形成けいせいされたオランダけい集団しゅうだんは、インドネシアマレーシアインドスリランカモザンビークマダガスカルなどの出身しゅっしんのアジアけい・アフリカけい人々ひとびと奴隷どれいとして使役しえきし、先住民せんじゅうみんサンじん当時とうじ呼称こしょうではブッシュマン)から家畜かちく土地とちうばって従僕じゅうぼくとした[7]

また、西にしヨーロッパ出身しゅっしん白人はくじん男性だんせいによるだい規模きぼ入植にゅうしょくはじまった当初とうしょは、同地どうちにおいて白人はくじん女性じょせいほとんどいなかった。それをおぎなうべく、本国ほんごくから本妻ほんさいせたり、孤児こじ少女しょうじょ集団しゅうだんおくんだほか、上述じょうじゅつしたインドネシア・マレーシアにあたる地域ちいきから連行れんこうされてきた、のちケープマレー呼称こしょうされる奴隷どれい女性じょせいたち到着とうちゃくするようになった。しかし、当然とうぜんながらそれだけでは問題もんだい解決かいけつにはいたらず、おおくの白人はくじん男性だんせいは、使役しえきするコイコイじん奴隷どれい女性じょせい結婚けっこんしたほか、性行為せいこうい強要きょうようつづけた。また、オランダひがしインド会社かいしゃもケープタウンに女性じょせい奴隷どれい収容しゅうようした慰安いあんしょもうけ、女性じょせいたち船員せんいんたちせい奴隷どれいとして酷使こくしされた。

こうした人種じんしゅあいだ結婚けっこんせい暴力ぼうりょく多発たはつした結果けっかすうおおくの混血こんけつまれることとなった。その影響えいきょうもあって、2019ねん2がつに、作為さくい抽出ちゅうしゅつした77めいのアフリカーナーを対象たいしょうおこなわれた遺伝子いでんし調査ちょうさでは、そのほぼ全員ぜんいんが、ヨーロッパじん血統けっとう保持ほじしていており、その平均へいきんてき割合わりあいやく4.8%、単純たんじゅん計算けいさんで10代まえ祖先そせん(1,024にん)のうち50めい前後ぜんこうヨーロッパじんとなる、という結果けっか発表はっぴょうされた。由来ゆらいのおおよその割合わりあいとしては、みなみアジアけいは1.7%、東南とうなんアジアけいは0.9%、カポイドは1.3%、コンゴイドは0.8%であり、アメリカ先住民せんじゅうみんいている事例じれい確認かくにんされている。また、調査ちょうさ対象たいしょうしゃにおけるヨーロッパじん血統けっとう割合わりあいは、5めいが10%以上いじょう、21めいが5~10%、46めいが1~5%、5めいが1%未満みまんだった[8]

民族みんぞく形成けいせい(1795ねん - 1910ねん[編集へんしゅう]

19世紀せいき南部なんぶアフリカのアフリカーナー諸共もろとも和国わこくナタール共和きょうわこくトランスヴァール共和きょうわこくオレンジ自由じゆうこくなど。

19世紀せいきのアフリカーナーの歴史れきしはアフリカに勢力せいりょくばしたイギリスとの対立たいりつ主要しゅよう矛盾むじゅんとなった。フランス革命かくめい戦争せんそうなかの1795ねんにオランダりょうだったケープ植民しょくみんがイギリスに占領せんりょうされ、1799ねん12月31にちにオランダひがしインド会社かいしゃがオランダ本国ほんごく占領せんりょうしたフランスによって解散かいさんさせられると、ケープ植民しょくみん農業のうぎょう従事じゅうじしていた植民しょくみんしゃたちはかえ故国ここくうしなってしまった[9]。また、イギリスによる占領せんりょう以後いご、イギリスからの移民いみんがアフリカ南部なんぶ流入りゅうにゅうし、とりわけ1820ねんにはイギリス政府せいふからの補助ほじょきんたイギリスじん多数たすう入植にゅうしょくした[10]さらに、イギリスによるケープ領有りょうゆう、イギリス国内こくないキリスト教きりすときょう人道じんどう主義しゅぎものによる奴隷どれい制度せいど廃止はいし運動うんどう成果せいかもあって、イギリスは1828ねんだい50法令ほうれいでブッシュマンをはじめとするカラードに白人はくじん対等たいとう権利けんりあたえ、1833ねんには奴隷どれい廃止はいしほう可決かけつし、1834ねん12月1にちにケープ植民しょくみんない奴隷どれい解放かいほうされた[11]。イギリス統治とうち英語えいご公用こうようとなると、アフリカーナーは英語えいご不得手ふえてだったためにイギリス当局とうきょくからきゅう市民しみん英語えいごばんあつかいされた。

イギリスによる奴隷どれい解放かいほうによって無償むしょう労働ろうどうりょくうばわれたアフリカーナーは、イギリス支配しはいきらって1830年代ねんだいから1840年代ねんだいにかけてグレート・トレックばれる沿岸えんがんから内陸ないりくへのさい入植にゅうしょくおこない、ンデベレじんズールーじんなどのバントゥーけい民族みんぞくしょ王国おうこくたたかいながらさい入植にゅうしょくさきナタール共和きょうわこくトランスヴァール共和きょうわこく(1852ねん建国けんこく)、オレンジ自由じゆうこく1854ねん建国けんこく)などのアフリカーナー共和きょうわこく建国けんこくした[12]。1835ねんから1840ねんにかけてグレート・トレックに旅立たびだったアフリカーナー6,000にんおもにケープ植民しょくみんなかでもまずしい階層かいそうぞくするしょう農民のうみんであり、混血こんけつしゃ従僕じゅうぼくやく5,000にんともなった彼等かれらは、少数しょうすうながらも1838ねん12月16にちかわたたかズールー王国おうこくディンガネおうやぶっている[13]。オランダで「アフリカじん」を意味いみしていた「アフリカーナー」と言葉ことばは、18世紀せいきには黒人こくじん奴隷どれいを、19世紀せいき前半ぜんはんにはイギリスじんふく白人はくじん一般いっぱん意味いみしていたが、1870年代ねんだいよりすすんだ『聖書せいしょ』のアフリカーンスやくはじめとして、文法ぶんぽうしょ雑誌ざっしなどのアフリカーンス書物しょもつ出版しゅっぱんされたことをて、次第しだいにケープ植民しょくみん入植にゅうしょくしたアフリカーンスはな白人はくじん言葉ことばとなっていった[14]。また、ポール・クルーガーはじめとするアフリカーナーはこの19世紀せいき後半こうはん時期じきに、オランダ改革かいかく神学しんがくしゃアブラハム・カイパーしんカルヴァン主義しゅぎの「公共こうきょうめぐせつ発達はったつさせて、かみ選民せんみん自任じにんし、奴隷どれいせい神学しんがくてき肯定こうていする理論りろん[15]

だいブール戦争せんそう(1899ねん-1902ねん)の最中さいちゅうイギリスぐんによって強制きょうせい収容しゅうようしょおくられたアフリカーナーの女性じょせい子供こども

アフリカーナーが建国けんこくしたトランスヴァール共和きょうわこくとオレンジ自由じゆうこくにわたるボーア戦争せんそうでイギリスと交戦こうせんし、1880ねんから1881ねんにかけてのだいいちボーア戦争せんそうではイギリスを退しりぞけたが、1899ねんから1902ねんにかけてのだいボーア戦争せんそう敗北はいぼく両国りょうこくともイギリスの支配しはいかれた。だいボーア戦争せんそう最中さいちゅうに、イギリスのホレイショ・ハーバート・キッチナー将軍しょうぐんゲリラ戦術せんじゅつ抵抗ていこうするアフリカーナー12まんにん強制きょうせい収容しゅうようしょおくった。戦時せんじちゅうにイギリスが建設けんせつしたアフリカーナー強制きょうせい収容しゅうようしょ近代きんだい世界せかいはつ強制きょうせい収容しゅうようしょであり、また、だいブール戦争せんそう死亡しぼうしたアフリカーナー34,000にんうちやく65%が16さい以下いか少年しょうねん少女しょうじょであった[16]。『マンチェスター・ガーディアン』特派とくはいんとしてだいブール戦争せんそう取材しゅざいたったイギリスのジョン・アトキンソン・ホブソンはこの経験けいけんから『帝国ていこく主義しゅぎろん』(1902ねん)をあらわし、ウラジーミル・レーニンの『資本しほん主義しゅぎ最高さいこう段階だんかいとしての帝国ていこく主義しゅぎ』(1917ねん)に理論りろんてき影響えいきょうあたえた[17]。このボーア戦争せんそう以後いご、アフリカーナーははんえい感情かんじょう尖鋭せんえいさせていった[16]

みなみアフリカ共和きょうわこく白人はくじん(2009ねん推計すいけい国民こくみんの9.1%をめている)は、イギリスけいが19世紀せいきまつから現在げんざいいたるまできむダイヤモンド鉱山こうざん経営けいえいによって経済けいざいめん主導しゅどうてき立場たちばになってきたのにたいし、アフリカーナーは基本きほんてき農民のうみんとしてらすひとおおかった。ドリス・レッシングの『くさうたっている』にてもちいられる「プア・ホワイト」という言葉ことば使つかわれかた興味深きょうみぶかい。当時とうじみなみローデシアげんジンバブエ)では、どれほどまずしくてもイギリスじんのことは「プア・ホワイト」とはばず、このかたりはあくまでアフリカーナーをしたという。これは、おなじヨーロッパけい植民しょくみんしゃあいだにも差別さべつ感情かんじょう根強ねづよくあったことをしめしている。

みなみアフリカ連邦れんぽう(1910ねん-1961ねん[編集へんしゅう]

1910ねんみなみアフリカ連邦れんぽう成立せいりつ、アフリカーナーは政治せいじめん主導しゅどうてき立場たちば次第しだいうばわれたが、連邦れんぽう時代じだい56年間ねんかん首相しゅしょう7にんうち6にんはアフリカーナー出身しゅっしんであった[16]みなみアフリカ連邦れんぽう成立せいりつ、アフリカーナー社会しゃかいはイギリスと協調きょうちょうしてアフリカーナーの地位ちい向上こうじょうはかる「現実げんじつ」と、アフリカーナー中心ちゅうしんみなみアフリカの実現じつげんはかる「理想りそう」に分裂ぶんれつし、「理想りそう」は1913ねん結成けっせいされた国民党こくみんとうと1918ねん結成けっせいされたアフリカーナー兄弟きょうだい同盟どうめい中心ちゅうしんアフリカーナー・ナショナリズム発達はったつさせ[18]、グレート・トレックちゅうかわたたかから100周年しゅうねんたる1938ねんには、グレート・トレックを再現さいげんする儀式ぎしきとして「オックス・トレック」がおこなわれ、アフリカーナーとしてのアイデンティティ強化きょうかされた[19]。また、1925ねんにはアフリカーンスがそれまで英語えいごとも公用こうようだったオランダわって、みなみアフリカ連邦れんぽう公用こうようとなっている[20]。アフリカーナー・ナショナリズムのになは、イギリスけい白人はくじん対抗たいこう関係かんけいなかで、アフリカーンスはな白人はくじん文化ぶんかてき経済けいざいてき後進こうしんせい自覚じかくした聖職せいしょくしゃ教師きょうし知識ちしきじん実業じつぎょうなどであった[21]

みなみアフリカ連邦れんぽうだい世界せかい大戦たいせんでは連合れんごうこくがわ参戦さんせんし、イギリスぐんともにフランスりょうマダガスカル占領せんりょうしたり(マダガスカルのたたか)、きたアフリカ戦線せんせんなどでたたかった。戦後せんごの1948ねんにアフリカーナーを支持しじ母体ぼたいとする国民党こくみんとう政権せいけんにぎり、それ以後いご名目めいもくてきな「分離ぶんり発展はってん」をうたいながら、国際こくさい連合れんごうが「人類じんるいたいする犯罪はんざい」とんだアパルトヘイト(「分離ぶんり」という意味いみのアフリカーンス制度せいど強力きょうりょく推進すいしんしていった。それは、経済けいざいめんでイギリスけいたいして劣位れついかれたアフリカーナーが政治せいじ警察けいさつ軍隊ぐんたいといった公権力こうけんりょく奪回だっかいすることでもあった。多数たすうであった黒人こくじんしょ民族みんぞくへの恐怖きょうふをイギリスけい共通きょうつう利害りがいとしてかかえていたアフリカーナー「理想りそう」も、イギリスけい白人はくじん協調きょうちょうしてキリストきょう西洋せいよう文明ぶんめい黒人こくじん民族みんぞく解放かいほう運動うんどう共産きょうさん主義しゅぎから防衛ぼうえいすることをえらんだ[22]。1958ねん連邦れんぽう首相しゅしょう就任しゅうにんしたヘンドリック・フルウールト熱烈ねつれつなアフリカーナー・ナショナリストであると同時どうじ共和きょうわ主義しゅぎしゃであり[23]、1961ねんみなみアフリカはイギリス連邦れんぽうから離脱りだつし、共和きょうわせい採用さいようするみなみアフリカ共和きょうわこくとなった。

みなみアフリカ共和きょうわこく成立せいりつ以後いご(1961ねん - )[編集へんしゅう]

英語えいごとアフリカーンスかれたアパルトヘイト時代じだい標識ひょうしき

みなみアフリカ共和きょうわこくのアパルトヘイト体制たいせいはイギリスじんのヨーロッパけい白人はくじんをもさい優遇ゆうぐうする制度せいどであり、少数しょうすう民族みんぞくである白人はくじん政権せいけんは、国外こくがいからの白人はくじん移民いみん奨励しょうれいし、ポルトガルじんなどが流入りゅうにゅうした。人種じんしゅ当初とうしょ参政さんせいけんもなく、しるしカラードマレーじん、コイコイじんふくめる)→黒人こくじんじゅんに、職業しょくぎょう教育きょういく結婚けっこん居住きょじゅうなどあらゆるめんで、ほうした平等びょうどうによって搾取さくしゅされた。さい底辺ていへん位置いちづけられた黒人こくじんは、最後さいごまで参政さんせいけんもなく、土地とち条件じょうけんくないバントゥースタン諸国しょこくしばけられたり、あるいはまれた土地とちから強制きょうせいてき退きを余儀よぎなくされるなどした。だつ植民しょくみんすす時代じだい逆行ぎゃっこうするアパルトヘイト体制たいせいは、国際こくさい社会しゃかいから問題もんだいされていたが、この制度せいどによって経済けいざいてき利益りえきたのは、この時代じだいきたみなみアフリカの白人はくじんだけではなく、ゆたかな鉱山こうざん資源しげん安価あんか黒人こくじん労働ろうどうりょく採掘さいくつできた日本にっぽんふく西側にしがわ諸国しょこく資本しほんと、それとむすびついた関連かんれん企業きぎょうふくまれていた。

政治せいじてき白人はくじん至上しじょう主義しゅぎかかげ、それを実行じっこうした集団しゅうだんではあるが、もちろん個々人ここじんには様々さまざまかんがえをもつひとがいた。詩人しじん/画家がかブライテン・ブライテンバッハ作家さっかアンドレ・ブリンク弁護士べんごしにしてみなみアフリカ共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんブラム・フィッシャーのように、アパルトヘイトに真向まっこうから反対はんたいするひと少数しょうすうながらいた。ブライテンバッハやフィッシャーなどは国家こっか反逆はんぎゃくざいなんねん獄中ごくちゅうにあった。また、ユージン・テレブランシュのようにアフリカーナー抵抗ていこう運動うんどうひきいてアパルトヘイト死守ししゅかかげた人物じんぶつもいた。アフリカーナー抵抗ていこう運動うんどうなどの極右きょくうグループは「ブールじん」だけのくにをめざし、じゅん軍事ぐんじ組織そしき私兵しへい)として現在げんざい活動かつどうつづけている。

著名ちょめいじん[編集へんしゅう]

ステレンボッシュ所在しょざいするステレンボッシュ大学だいがく1866ねん創立そうりつ)は、おもアフリカーンス教育きょういくおこなっている。
西にしケープしゅうピケットバーグ所在しょざいするオランダ改革かいかく教会きょうかい

脚註きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ [1]
  2. ^ http://www.joshuaproject.net/peopctry.php?rog3=WA&rop3=100093
  3. ^ http://www.joshuaproject.net/peopctry.php?rop3=100093&rog3=ZA
  4. ^ http://www.joshuaproject.net/peopctry.php?rop3=100093&rog3=AS
  5. ^ [2]
  6. ^ みね(1996:61)
  7. ^ みね(1996:61-62)
  8. ^ Hollfelder N, Erasmus JC, Hammaren R, Vicente M, Jakobsson M, Greeff JM (2020). “Patterns of African and Asian admixture in the Afrikaner population of South Africa.”. BMC Biol 18 (1): 16. doi:10.1186/s12915-020-0746-1. PMC 7038537. PMID 32089133. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7038537/. 
  9. ^ ロス/石鎚いしづちやく(2009:40-41)
  10. ^ ロス/石鎚いしづちやく(2009:41-42)
  11. ^ ロス/石鎚いしづちやく(2009:42-44)
  12. ^ みね(1996:80-85)
  13. ^ みね(1996:82-84)
  14. ^ みね(1996:114-115)
  15. ^ もり(2002:81-86,88-91)
  16. ^ a b c もり(2002:88)
  17. ^ みね(1996:109-110)
  18. ^ もり(2002:91-92)
  19. ^ もり(2002:91-93)
  20. ^ みね(1996:116)
  21. ^ みね(1996:117-118)
  22. ^ もり(2002:93-96)
  23. ^ もり(2002:95-96)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]