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マイク・ベルナルド

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マイク・ベルナルド
基本きほん情報じょうほう
本名ほんみょう マイケル・ショーン・ベルナルド
(Michael Shawn Bernardo)
通称つうしょう ごううで
ベルちゃん
みなみアフリカの剛腕ごうわん
みなみアフリカの大砲たいほう
初代しょだい無冠むかん帝王ていおう
階級かいきゅう スーパーヘビーきゅう
身長しんちょう 193cm
体重たいじゅう 110kg
国籍こくせき 南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ共和きょうわこく
誕生たんじょう (1969-07-28) 1969ねん7がつ28にち
出身しゅっしん 南アフリカの旗 みなみアフリカ共和きょうわこく
西にしケープしゅうケープタウン
死没しぼつ (2012-02-14) 2012ねん2がつ14にち(42さいぼつ
死没しぼつ 南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ共和きょうわこく
西にしケープしゅうケープタウン
スタイル つよしやわらりゅう空手からてボクシングキックボクシング
プロキックボクシング戦績せんせき
そう試合しあいすう 77
54
KO 42
18
3
無効むこう試合しあい 2
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マイク・ベルナルド(Mike Bernardo、1969ねん7がつ28にち - 2012ねん2がつ14にち)は、みなみアフリカ共和きょうわこくもとキックボクサーもとプロボクサー西にしケープしゅうケープタウン出身しゅっしん。スティーブズジム所属しょぞくもとWKAムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王者おうじゃもとWAKO PROムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王者おうじゃ

みなみアフリカ共和きょうわこくケープタウン出身しゅっしん。18さいまでつよしやわらりゅう空手からてまなんでおり、のちにキックボクシングに転向てんこう。「みなみアフリカの剛腕ごうわん」「みなみアフリカの大砲たいほう」などの異名いみょうった。ピーター・アーツアーネスト・ホーストアンディ・フグとも草創そうそうK-1四天王してんのうとして君臨くんりんし、四天王してんのうやK-1デビューまえからのライバルであるジェロム・レ・バンナらとともにK-1の発展はってんおおきく貢献こうけんした。

また、剃刀かみそりメーカーのCMなどを代表だいひょうに、日本にっぽんでもおおくのテレビCMやバラエティ番組ばんぐみにも出演しゅつえんし、温厚おんこうあかるくサービス精神せいしん旺盛おうせいなキャラクターで、「ベルちゃん」の愛称あいしょうしたしまれるなど、絶大ぜつだい人気にんきほこった。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

衝撃しょうげきのK-1デビュー[編集へんしゅう]

1994ねん、ベルナルドの地元じもとであるみなみアフリカのケープタウンでのISKAフルコンタクト・インターコンチネンタルスーパーヘビーきゅう王座おうざせんで、ジェロム・レ・バンナはつ対戦たいせんし、激闘げきとうすえに0-3の判定はんていけ。しかし、この試合しあいがおたがいのあじ存分ぞんぶん発揮はっきされためい勝負しょうぶであったために、K-1主催しゅさいしゃからたか評価ひょうかされ、ったバンナはもちろん、けたベルナルドもK-1に参戦さんせんすることになった。

1995ねん3月3にち、「K-1 GRAND PRIX '95」 ではつ来日らいにち。1回戦かいせん優勝ゆうしょう候補こうほアンディ・フグ対戦たいせん。1Rに先制せんせいのダウンをうばわれるが、3Rに番狂ばんくるわせ逆転ぎゃくてんKOちをおさめて一躍いちやく脚光きゃっこうびる。

5月4にち、「K-1 GRAND PRIX '95 決勝けっしょうせん」では準々じゅんじゅん決勝けっしょうスタン・ザ・マンみぎ上段じょうだんりでKOち。準決勝じゅんけっしょうジェロム・レ・バンナとのリベンジせん実現じつげんするがみぎローキックでKOけ。K-1 GPはつ出場しゅつじょうでベスト4りをたした。

9月3にち、「K-1 REVENGE II」にてアンディ・フグ再戦さいせんし、またしても豪快ごうかいなKOちをおさめてフグをかえちにして前回ぜんかい勝利しょうりがフロックでないことを証明しょうめいした。

12月9にち、「K-1 HERCULES」にてK-1 GPを2連覇れんぱちゅう王者おうじゃピーター・アーツはつ対戦たいせんし、みぎフックをびて1Rわずか40びょうでKOけ。KOされたみぎフックがベルナルドの後頭部こうとうぶ直撃ちょくげきしており、反則はんそくであることをレフェリーに主張しゅちょうしたが、故意こいではなく一連いちれんながれのなかたったものとみなされ、びょうころせKOけしたくやしさもあいまって人目ひとめをはばからずくやなみだながした。

トップスター[編集へんしゅう]

1996ねん3がつ10日とおか、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕かいまくせん」の1回戦かいせんではジェフ・ルーファスにKOち。

5月6にち、「K-1 GRAND PRIX '96 決勝けっしょうせん」の準々じゅんじゅん決勝けっしょうにて、K-1史上しじょう最多さいた連勝れんしょう記録きろく更新こうしんちゅうで、GP3連覇れんぱねら絶対ぜったい王者おうじゃピーター・アーツ対戦たいせん。アーツを圧倒あっとうし、最後さいごひだりフックいちげき豪快ごうかいなKOちでリベンジをたした。つづ準決勝じゅんけっしょうムサシ(武蔵むさしに3-0の判定はんていち。決勝けっしょうアンディ・フグ対戦たいせんし、ローキックとフグ・トルネードでダウンをうばわれてKOけし、しくもじゅん優勝ゆうしょうわる。

9月1にち、「K-1 REVENGE '96」でピーター・アーツ再戦さいせん。アーツのりがローブローとなってベルナルドが試合しあい続行ぞっこう不可能ふかのうとなり、反則はんそくちとなった。

10月8にち、「K-1 STAR WARS '96」で決着けっちゃくけるべく、ピーター・アーツ再戦さいせん先制せんせいのダウンをうばわれるが、そのもう反撃はんげきし、3RKOち。

1997ねん3月16にち、「K-1 KINGS '97」で佐竹さたけ雅昭まさあき対戦たいせんし、2RKOち。

4がつ9にち、「K-1 BRAVES '97」でアーネスト・ホースト対戦たいせんし、ダウンをうばうが、ホーストのたくみなコンビネーションのまえしずみ、4R逆転ぎゃくてんKOけ。なお、ホーストは自身じしん生涯しょうがいベストバウトにこの試合しあいげている。

6月7にちアンディ・フグ母国ぼこくスイス開催かいさいされた「K-1 FIGHT NIGHT '97 〜THE DECISION〜」にて、フグのWKAムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんし、ダウンをうばいながらもたくみな戦術せんじゅつのフグをたおしきれずに判定はんていけ。

11月9にち、「K-1 GRAND PRIX '97 決勝けっしょうせん」の準々じゅんじゅん決勝けっしょうピーター・アーツ対戦たいせんし、みぎボディストレートで2のダウンをうばわれて3RKOけ。

1998ねん4がつ9にち、「K-1 KINGS '98」でWAKO-PRO世界せかいムエタイスーパーヘビーきゅう王者おうじゃゴードン・マイナーズに挑戦ちょうせんし、2RKOちでどう王座おうざ獲得かくとく自身じしんのキャリアではじめての世界せかい王座おうざ獲得かくとくとなり、試合しあいのリングじょうでは人目ひとめをはばからずうれなみだながした。

7がつ18にち、「K-1 DREAM '98」にてグラウベ・フェイトーザ対戦たいせんし、3ダウンをうばって1RKOち。

9月27にち、「K-1 GRAND PRIX '98 開幕かいまくせん」でのGP1回戦かいせんモーリス・スミス判定はんていち。

12月13にち、「K-1 GRAND PRIX '98 決勝けっしょうせん」のGP準々じゅんじゅん決勝けっしょうで、かい進撃しんげきつづけていたフランシスコ・フィリォから2ダウンをうばって3RKOち。フィリォはこれが生涯しょうがいはつのKOけとなった。準決勝じゅんけっしょうではピーター・アーツとの通算つうさん6度目どめ対戦たいせんで、1RKOけ。

1999ねん6がつ20日はつか、「K-1 BRAVES '99」にてWAKO-PRO世界せかいムエタイスーパーヘビーきゅう王座おうざはつ防衛ぼうえいせんサム・グレコ対戦たいせんし、壮絶そうぜつ激闘げきとうすえ判定はんていけでどう王座おうざから陥落かんらく

10月3にち、「K-1 GRAND PRIX '99 開幕かいまくせん」のGP1回戦かいせんミルコ・クロコップ対戦たいせんし、ミルコのひだりハイキックとパンチ連打れんだで3ダウンをうばわれ、番狂ばんくるわせの1RKOけ。ミルコはこの勝利しょうりをきっかけにスターダムへとがっていった。

プロボクシング転向てんこう[編集へんしゅう]

ベルナルドがミルコにやぶれた同日どうじつ、ライバルのジェロム・レ・バンナがキックボクシングと並行へいこうしてプロボクシングに参戦さんせんしたのちのK-1復帰ふっき初戦しょせんマット・スケルトン衝撃しょうげきの1RKOちをおさめてだい活躍かつやくはじめたのをたりにしたことで、バンナを参考さんこうにしてベルナルドも2000ねんからプロボクシングに本格ほんかく参戦さんせんすることを決意けつい

2000ねん5がつ12にちにはマイナー団体だんたいではあるがプロボクシング団体だんたいWBF世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく

7がつ30にち、「K-1 WORLD GP 2000 in NAGOYA」ではK-1の大会たいかいないでプロボクシング公式こうしきせんたたかった。

2001ねん6がつ8にち、ピーター・マクニーリーに1RTKOちでWBF世界せかいヘビーきゅう王座おうざはつ防衛ぼうえい成功せいこう

1999ねんまでは積極せっきょくてきまえ猪突猛進ちょとつもうしんにパンチをまわすファイトスタイルだったが、プロボクシング経験けいけんカウンター駆使くししたスタイルへと変化へんかした。

きアンディ・フグのためK-1復帰ふっき[編集へんしゅう]

そのもプロボクシングに専念せんねんする予定よていだったが、同年どうねん8がつ24にち盟友めいゆうアンディ・フグ急死きゅうし。そして生前せいぜんのフグは、出場しゅつじょう予定よていだったK-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAを欠場けつじょうすることを発表はっぴょうしたさいに「わたしわりにマイク・ベルナルドに出場しゅつじょうしてほしい」とコメントしていたことをけて、ベルナルドはボクシングの試合しあいやテレビ出演しゅつえんなどの予定よていすべてキャンセルして、K-1に復帰ふっきし、どう大会たいかいのGP予選よせんトーナメントに出場しゅつじょうユルゲン・クルトアンドリュー・トムソンミルコ・クロコップ相手あいてに3試合しあい連続れんぞく1ラウンドKOちで優勝ゆうしょう。これは当時とうじのK-1トーナメント史上しじょう最短さいたん優勝ゆうしょう記録きろくとなった。

きフグのわりに同年どうねんのK-1 WORLD GP 2000優勝ゆうしょうけて闘志とうしやしていたが、怪我けがによって無念むねん欠場けつじょうとなった。

2001ねん3月17にち、「K-1 GLADIATORS 2001」でジェロム・レ・バンナ対戦たいせん。1ラウンド終了しゅうりょう間際まぎわ、ベルナルドのからだえての左右さゆうのフックがバンナの顔面がんめん直撃ちょくげきし、1ラウンド終了しゅうりょうのゴングがっているにもかかわらず観客かんきゃくだい歓声かんせいでゴングのおとがかきされ、レフェリーにはこえず、ベルナルドはそのまま攻撃こうげきつづけてダウンをうばった。ダウンは無効むこうとなり、バンナのセコンドも、怪我けがをした状態じょうたいでは、やはり無理むりだったとかんじて、抗議こうぎして試合しあい棄権きけんさせたため、いちは1ラウンドKOちと判定はんていされるも、検証けんしょう結果けっか、ダウン攻撃こうげきであることをまえてノーコンテスト(無効むこう試合しあい)となった。

7がつ20日はつか、「K-1 WORLD GP 2001 in NAGOYA」にてGP予選よせんトーナメント1回戦かいせんタケルにKOち、準決勝じゅんけっしょうロイド・ヴァン・ダム延長えんちょうせんすえ判定はんていちするも、負傷ふしょうのため決勝けっしょうせん棄権きけんした。

10月8にち、「K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA」での敗者はいしゃ復活ふっかつせんBブロック1回戦かいせんアダム・ワットに2のダウンをうばわれてだい番狂ばんくるわせの1RKOけ。たれつよさが長所ちょうしょひとつだったベルナルドだが、この試合しあい以降いこう長年ながねんのダメージの蓄積ちくせきのためたれよわくなり、ダウンするシーンが目立めだつようになる。

12月8にち、「K-1 WORLD GP 2001 決勝けっしょうせん」のリザーブマッチでアダム・ワットと再戦さいせんし、判定はんていちでリベンジ成功せいこう

2002ねん3月3にち、「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」にてレイ・セフォー対戦たいせんし、おたがいにノーガードでなぐってダウンをうば壮絶そうぜつ激闘げきとうすえ判定はんていけ。

8がつ17にち、「K-1 WORLD GP 2002 in LAS VEGAS」にて、K-1のライバル団体だんたいPRIDE活躍かつやくする総合そうごう格闘かくとうゲーリー・グッドリッジ相手あいてにWORLD GP 開幕かいまくせん出場しゅつじょうけんけたワンマッチで対戦たいせんし、1RKOけ。最初さいしょのダウンをうばわれたさいにグッドリッジがダウン追撃ついげきをしてきたが、レフェリーの角田つのだしんろう口頭こうとう注意ちゅういのみにめて、がったのちのベルナルドに回復かいふく時間じかんあたえていないことをベルナルド陣営じんえい主催しゅさいしゃ石井いしい和義かずよしらは批判ひはんした。また、この大会たいかい以降いこう長年ながねん所属しょぞくしていたスティーブスジムを離脱りだつ

9月22にち、「K-1 ANDY SPIRITS 〜JAPAN GP 決勝けっしょうせん〜」にて、「てば13にちのK-1 WORLD GP開幕かいまくせん出場しゅつじょうければそく引退いんたい」という条件じょうけんトム・エリクソン対戦たいせんし、さきに2ダウンをうばわれながらも2ダウンをうばかえして1RKOち。

10月5にち、「K-1 WORLD GP 2002 開幕かいまくせん」のGP1回戦かいせん前年度ぜんねんどGP王者おうじゃマーク・ハント対戦たいせんし、さい延長えんちょうせんすえ判定はんていけ。

12月31にちINOKI BOM-BA-YE 2002にてゲーリー・グッドリッジ再戦さいせんし、2ダウンをうばって1RKOちでリベンジ成功せいこう前回ぜんかい試合しあいでダウンしたのちなぐれたうらみもあって、KO直後ちょくごたおれたグッドリッジのうえあしせて勝利しょうりをアピールする挑発ちょうはつ行為こういをしてレフェリーからイエローカードをされる。その、グッドリッジとは和解わかいしており、おたがいの公式こうしきサイトに応援おうえんメッセージをおくうようにもなっている。

2003ねん5月30にち盟友めいゆうアンディ・フグ母国ぼこくスイスで開催かいさいされた「K-1 WORLD GP 2003 in Basel」でWORLD GP開幕かいまくせん出場しゅつじょうけて前年度ぜんねんどベスト8のステファン"ブリッツ"レコ対戦たいせんし、判定はんていけ。

7がつ13にち、「K-1 WORLD GP in FUKUOKA」にてWORLD GP開幕かいまくせん出場しゅつじょうけてフランシスコ・フィリォ対戦たいせんするが、5ラウンドをとおしておたがいにカウンターねらいでほとんどさない消極しょうきょくてきなスタイルに終始しゅうしし、結果けっかはドロー。会場かいじょうないには両者りょうしゃへのブーイングがひびいた。

10月11にち、「K-1 WORLD GP 2003 開幕かいまくせん」のGP1回戦かいせんアレクセイ・イグナショフにローキックで2RKOけ。

現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

2004ねん3月27にち、「K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA」にて、スティーブスジム時代じだい弟弟子おとうとでしであるヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ対戦たいせんし、1RKOけ。やぶれた直後ちょくご、ノルキヤのセコンドであるスティーブスジムのスティーブ・カラコダが、ノルキヤの勝利しょうりよろこぶよりもさきにベルナルドのもとへとけつけて介抱かいほうした。以後いご不調ふちょうつづくベルナルドは原点げんてん回帰かいきすべくスティーブスジムに復帰ふっき

6月26にち、WORLD GP開幕かいまくせん出場しゅつじょうのために、過去かこ栄光えいこうもプライドもてて、ジャパンGP予選よせん出場しゅつじょう優勝ゆうしょう候補こうほ本命ほんめいされたが、1回戦かいせん富平とみひらたつぶんにKOけ。日本人にっぽんじん相手あいてはつ黒星くろぼしとなった。

11月6にちしん日本にっぽんキックボクシング協会きょうかい主催しゅさいの「TITANS 1st」において、1かげつにK-1 WORLD GP決勝けっしょう大会たいかい出場しゅつじょうひかえたガオグライ・ゲーンノラシン出場しゅつじょうすることになり、この大会たいかいでガオグライがければガオグライにった選手せんしゅわりにK-1 WGP決勝けっしょう大会たいかい出場しゅつじょうさせることを谷川たにがわ貞治さだはる示唆しさしたため、最後さいご希望きぼうけてベルナルドが対戦たいせん名乗なのげた。試合しあいはパンチやキックだけでなく、滅多めったたないバックスピンキックまではなって勝利しょうりへの執念しゅうねんせたベルナルドだったが、ガオグライのたくみな「マトリックス・ディフェンス」をくずすことはできず、たがいに決定けっていいたままけドロー。これがベルナルドの現役げんえき最後さいご試合しあいとなった。

そのも、悲願ひがんのK-1 WORLD GPはつ優勝ゆうしょう目指めざしてトレーニングをつづけていたが、2006ねん現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいし、同年どうねん9がつ30にちのK-1 WORLD GP 2006 開幕かいまくせん引退いんたいセレモニーがおこなわれた。

2007ねんに「K-1 JAPAN TRYOUT」においてアーネスト・ホーストともにコーチをつとめ、日本人にっぽんじん選手せんしゅ育成いくせいみ、みなみアフリカでチーム・ベルナルドの合宿がっしゅくおこなった[1]

現役げんえき引退いんたいは、臨床りんしょう心理しんりがくまなんで臨床りんしょう心理しんり資格しかく取得しゅとくしんてき外傷がいしょう薬物やくぶつ依存いぞんなどの問題もんだいかかえた若者わかもののカウンセラーとしてはたらいた。

死去しきょ[編集へんしゅう]

2012ねん2がつ14にち母国ぼこくみなみアフリカのケープタウンで死去しきょ[2][3]。42さいぼつ自宅じたくくなっているのを家族かぞくによって発見はっけんされた。死因しいん不明ふめいだったが[4]、うつびょう罹患りかんしていたことから、現地げんちでは自殺じさつであったともつたえられた[5]

エピソード[編集へんしゅう]

  • スキンヘッドがトレードマーク。しかし、K-1参戦さんせん初期しょきころ短髪たんぱつ金髪きんぱつだった。
  • 剃刀かみそりメーカーシックの「プロテクター」のCMに出演しゅつえんし、「れてなーい」のフレーズでおちゃあいだにもひろしたしまれた。
  • 日本にっぽん流行はやったギャグ(「だっちゅーの」など)を披露ひろうするなど、あかるくサービス精神せいしん旺盛おうせいなキャラクターで人気にんきはくした[6]
  • 敬虔けいけんなクリスチャンとしても有名ゆうめい[2]試合しあいようトランクスには十字架じゅうじかえがかれていた。また、バンテージチェックマジックでバンテージにも十字架じゅうじかいていた。わかころからキリストきょうおしえにそむいているアパルトヘイト不快ふかいかんおぼえていたという。
  • 親日しんにちで、日本にっぽんおこなった自身じしん結婚式けっこんしきでははかま着用ちゃくようし、夫人ふじん文金ぶんきんだか島田しまだちであった。また、引退いんたいセレモニーのスピーチも一部いちぶ日本語にほんごでコメントした。
  • 来日らいにちしたさいに、施設しせつおやがいない子供こども障害しょうがいった子供こどもたちうことをみずか希望きぼうしてっていた[7]
  • 入場にゅうじょうテーマきょくみずか参加さんかしたSEALの「マイ・セルベイション」を使用しようしていたことがある[8]
  • 2005ねん開催かいさいされた愛知あいち万博ばんぱくでは、みなみアフリカかん親善しんぜん大使たいし任命にんめいされた。
  • おとうとカール・ベルナルドもキックボクサーで、K-1のリングにもあがったことがある(K-1 REVENGE '96にてはつ来日らいにちアーネスト・ホーストに2RKOけ)。
  • K-1黎明れいめいからとも活躍かつやくしてきたアンディ・フグピーター・アーツジェロム・レ・バンナらとはきライバルであり、友人ゆうじんでもある。前述ぜんじゅつのようにベルナルドのキャリアのターニング・ポイントにはかれさんにんかかわっており、ベルナルド自身じしんかれらをライバルする発言はつげんおおかった。また、ベルナルドの現役げんえき引退いんたいセレモニーがおこなわれたK-1 WORLD GP 2006 開幕かいまく戦後せんごのインタビューでは、「ぼく結局けっきょくK-1 WORLD GPで優勝ゆうしょうできなかったけど、ぼくおなねんにK-1デビューしていまはつ優勝ゆうしょう目指めざしてるジェロムにぼくがかなえられなかったゆめたくすよ」とコメントしていた。
  • 2004ねん12月31にち大阪おおさかドームにて開催かいさいされたK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!には、K-1デビューせんとなったボビー・オロゴン対戦たいせん相手あいてとして出場しゅつじょう予定よていしていたものの、トレーニングちゅうくび負傷ふしょうしドクターストップとなったため、出場しゅつじょう辞退じたいとなった(代替だいたい対戦たいせん相手あいてシリル・アビディ)。出場しゅつじょう辞退じたい同年どうねん12月26にち放映ほうえいされた『さんまのSUPERからくりTV』(TBS)のボビー・オロゴンがレギュラー出演しゅつえんしている『ファニエスト外語がいご学院がくいん』にて、「ボビーの対戦たいせん相手あいて変更へんこう」としてかされた。

戦績せんせき[編集へんしゅう]

ボクシング[編集へんしゅう]

プロボクシング 戦績せんせき
13 試合しあい (T)KO 判定はんてい その 無効むこう試合しあい
11 かち 9 1 0
1 はい

キックボクシング[編集へんしゅう]

キックボクシング 戦績せんせき
77 試合しあい (T)KO 判定はんてい その 無効むこう試合しあい
54 かち 42 3 2
18 はい 12
勝敗しょうはい 対戦たいせん相手あいて 試合しあい結果けっか 大会たいかいめい 開催かいさい年月日ねんがっぴ
ガオグライ・ゲーンノラシン 3R終了しゅうりょう 判定はんてい1-0 しん日本にっぽんキックボクシング協会きょうかい「TITANS 1st」 2004ねん11月6にち
ピーター・マエストロビッチ 5R終了しゅうりょう 判定はんてい K-1 World Championships Basel 2004 2004ねん9がつ18にち
× 富平とみひらたつぶん 1R 1:09 KO(ひだりハイキック) K-1 WORLD GP 2004 in SHIZUOKA
【JAPAN GP 1回戦かいせん
2004ねん6がつ26にち
× ヤン"ザ・ジャイアント"ノルキヤ 1R 2:32 KO(3ノックダウン) K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA 2004ねん3がつ27にち
セルゲイ・グール 2R KO K-1 FINAL FIGHT STARS WAR(クロアチア) 2003ねん10がつ31にち
× アレクセイ・イグナショフ 2R 2:11 KO(みぎローキック) K-1 WORLD GP 2003 開幕かいまくせん ALL STARS
【WORLD GP 1回戦かいせん
2003ねん10がつ11にち
バタービーン 2R 1:01 KO(みぎハイキック) K-1 SURVIVAL 2003 〜JAPAN GP 決勝けっしょうせん 2003ねん9がつ21にち
フランシスコ・フィリォ 5R終了しゅうりょう 判定はんてい1-0 K-1 WORLD GP in FUKUOKA 2003ねん7がつ13にち
× ステファン"ブリッツ"レコ 5R終了しゅうりょう 判定はんてい0-3 K-1 WORLD GP 2003 in Basel 2003ねん5がつ30にち
中迫なかさこつよし 2R 1:01 TKO(タオル投入とうにゅう K-1 BEAST 2003 〜山形やまがたはつ上陸じょうりく 2003ねん4がつ6にち
ゲーリー・グッドリッジ 1R 2:12 KO(みぎフック) INOKI BOM-BA-YE 2002【K-1ルール】 2002ねん12月31にち
× マーク・ハント 3ふん3R+延長えんちょうR終了しゅうりょう 判定はんてい0-3 K-1 WORLD GP 2002 開幕かいまくせん
【WORLD GP 1回戦かいせん
2002ねん10がつ5にち
トム・エリクソン 1R 2:30 KO(みぎフック) K-1 ANDY SPIRITS 〜JAPAN GP 決勝けっしょうせん 2002ねん9がつ22にち
× ゲーリー・グッドリッジ 1R 1:38 TKO(レフェリーストップ) K-1 WORLD GP 2002 in LAS VEGAS 2002ねん8がつ17にち
× レイ・セフォー 5R終了しゅうりょう 判定はんてい0-3 K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA 2002ねん3がつ3にち
アダム・ワット 3R終了しゅうりょう 判定はんてい3-0 K-1 WORLD GP 2001 決勝けっしょうせん
【リザーブマッチ】
2001ねん12月8にち
× アダム・ワット 1R 2:27 KO(2ノックダウン) K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA
敗者はいしゃ復活ふっかつせん Bブロック1回戦かいせん
2001ねん10がつ8にち
ロイド・ヴァン・ダム 延長えんちょうR終了しゅうりょう 判定はんてい2-0 K-1 WORLD GP 2001 in NAGOYA
【GP予選よせんトーナメント 準決勝じゅんけっしょう
2001ねん7がつ20日はつか
タケル 2R 1:40 TKO(タオル投入とうにゅう K-1 WORLD GP 2001 in NAGOYA
【GP予選よせんトーナメント 1回戦かいせん
2001ねん7がつ20日はつか
ジェロム・レ・バンナ 1R終了しゅうりょう 無効むこう試合しあい(ゴング攻撃こうげき K-1 GLADIATORS 2001 2001ねん3がつ17にち
天田あまだヒロミ 4R 1:32 TKO(タオル投入とうにゅう K-1 RISING 2001 〜四国しこくはつ上陸じょうりく 2001ねん1がつ30にち
ミルコ・クロコップ 1R 1:07 TKO(タオル投入とうにゅう K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA
【GP予選よせんトーナメント 決勝けっしょう
2000ねん10がつ9にち
アンドリュー・トムソン 1R 0:34 TKO(ドクターストップ) K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA
【GP予選よせんトーナメント 準決勝じゅんけっしょう
2000ねん10がつ9にち
ユルゲン・クルト 1R 2:24 KO(みぎフック) K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA
【GP予選よせんトーナメント 1回戦かいせん
2000ねん10がつ9にち
セルジオ"ブラック・パンサー"エスペ KO K-1 WORLD GP 〜アフリカ地区ちく予選よせん 2000ねん9がつ3にち
ジャスティン・フォーチュン 1R 1:03 無効むこう試合しあい(バッティング) K-1 WORLD GP 2000 in NAGOYA 2000ねん7がつ30にち
× ミルコ"クロコップ"フィリポビッチ 1R 1:20 KO(3ノックダウン:パンチ) K-1 GRAND PRIX '99 開幕かいまくせん
【GRAND PRIX 1回戦かいせん
1999ねん10がつ3にち
ロニー・セフォー 4R 1:24 KO(みぎフック) K-1 SPIRITS '99 1999ねん8がつ22にち
× サム・グレコ 5R終了しゅうりょう 判定はんてい0-3 K-1 BRAVES '99
【WAKO PROムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅうタイトルマッチ】
1999ねん6がつ20日はつか
佐竹さたけ雅昭まさあき 5R終了しゅうりょう 判定はんてい3-0 K-1 REVENGE '99 1999ねん4がつ25にち
× ピーター・アーツ 1R 2:53 TKO(2ノックダウン:みぎストレート) K-1 GRAND PRIX '98 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準決勝じゅんけっしょう
1998ねん12月13にち
フランシスコ・フィリォ 3R 1:35 TKO(2ノックダウン:みぎフック) K-1 GRAND PRIX '98 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準々じゅんじゅん決勝けっしょう
1998ねん12月13にち
サダウ・ゲッソンリット 1R 2:00 TKO(みぎアッパー、タオル投入とうにゅう K-1 JAPAN '98 〜神風かみかぜ 1998ねん10がつ28にち
モーリス・スミス 5R終了しゅうりょう 判定はんてい3-0 K-1 GRAND PRIX '98 開幕かいまくせん
【GRAND PRIX 1回戦かいせん
1998ねん9がつ27にち
アンドリュー・トムソン 1R 3:03 TKO(みぎストレート) K-1 BUSHIDO '98 1998ねん8がつ28にち
グラウベ・フェイトーザ 1R 1:42 TKO(3ノックダウン:みぎフック) K-1 DREAM '98 1998ねん7がつ18にち
ゴードン・マイナーズ 2R 2:05 KO(ひだりフック) K-1 KINGS '98
【WAKO PROムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅうタイトルマッチ】
1998ねん4がつ9にち
× ピーター・アーツ 3R 1:17 KO(2ノックダウン:みぎボディストレート) K-1 GRAND PRIX '97 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準々じゅんじゅん決勝けっしょう
1997ねん11月9にち
ブランコ・シカティック 1R 0:38 TKO(がく負傷ふしょう K-1 GRAND PRIX '97 開幕かいまくせん
【GRAND PRIX 1回戦かいせん
1997ねん9がつ7にち
× アンディ・フグ 5R終了しゅうりょう 判定はんてい K-1 FIGHT NIGHT '97 〜THE DECISION〜
【WKAムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅうタイトルマッチ】
1997ねん6がつ7にち
× アーネスト・ホースト 4R 1:03 TKO(ひだりフック) K-1 BRAVES '97 1997ねん4がつ29にち
佐竹さたけ雅昭まさあき 2R 1:24 TKO(みぎフック) K-1 KINGS '97 1997ねん3がつ16にち
スタン・ザ・マン 5R終了しゅうりょう 判定はんてい1-0 K-1 HERCULES '96 1996ねん12月8にち
ピーター・アーツ 3R 2:37 KO(みぎフック) K-1 STAR WARS '96 1996ねん10がつ8にち
ピーター・アーツ 1R 2:21 反則はんそく急所きゅうしょ攻撃こうげき K-1 REVENGE '96 1996ねん9がつ1にち
× アンディ・フグ 2R 1:18 KO(フグトルネード) K-1 GRAND PRIX '96 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 決勝けっしょう
1996ねん5がつ6にち
ムサシ(武蔵むさし 3R終了しゅうりょう 判定はんてい3-0 K-1 GRAND PRIX '96 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準決勝じゅんけっしょう
1996ねん5がつ6にち
ピーター・アーツ 3R 0:13 KO(ひだりフック) K-1 GRAND PRIX '96 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準々じゅんじゅん決勝けっしょう
1996ねん5がつ6にち
ジェフ・ルーファス 2R 1:37 TKO(3ノックダウン:みぎフック) K-1 GRAND PRIX '96 開幕かいまくせん
【GRAND PRIX 1回戦かいせん
1996ねん3がつ10日とおか
× ピーター・アーツ 1R 0:40 KO(みぎフック) K-1 HERCULES 1995ねん12月9にち
アンディ・フグ 2R 2:43 TKO(みぎストレート) K-1 REVENGE II 1995ねん9がつ3にち
× ジェロム・レ・バンナ 2R 3:05 KO(みぎローキック) K-1 GRAND PRIX '95 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準決勝じゅんけっしょう
1995ねん5がつ4にち
スタン・ザ・マン 3R 1:42 KO(みぎハイキック) K-1 GRAND PRIX '95 決勝けっしょうせん
【GRAND PRIX 準々じゅんじゅん決勝けっしょう
1995ねん5がつ4にち
アンディ・フグ 3R 2:39 TKO(タオル投入とうにゅう K-1 GRAND PRIX '95 開幕かいまくせん
【GRAND PRIX 1回戦かいせん
1995ねん3がつ3にち
× ジェロム・レ・バンナ 判定はんてい0-3 ISKAインターコンチネンタルスーパーヘビーきゅう王座おうざせん 1994ねん

総合そうごう格闘技かくとうぎ[編集へんしゅう]

総合そうごう格闘技かくとうぎ 戦績せんせき
1 試合しあい (T)KO 一本いっぽん 判定はんてい その 無効むこう試合しあい
0 かち 0 0 0 0 1 0
0 はい 0 0 0 0
勝敗しょうはい 対戦たいせん相手あいて 試合しあい結果けっか 大会たいかいめい 開催かいさい年月日ねんがっぴ
高田たかだのべ 3ふん3R終了しゅうりょう 時間切じかんぎ INOKI BOM-BA-YE 2001 2001ねん12月31にち

獲得かくとくタイトル[編集へんしゅう]

  • だい10代WBF世界せかいヘビーきゅう王座おうざ
  • ワールド・オリンピック・キックボクシングスーパーヘビーきゅう王座おうざ
  • だい3だいWAKO PROムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王座おうざ
  • WKAムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王座おうざ
  • K-1 GRAND PRIX '96 じゅん優勝ゆうしょう
  • K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA 優勝ゆうしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ TRYOUTぐみ気合きあ満々まんまん ついに海外かいがい合宿がっしゅくがスタート!! K-1公式こうしきサイト 2007ねん7がつ17にち[リンク]
  2. ^ a b K1ベルナルドさん急死きゅうし薬物やくぶつ大量たいりょう摂取せっしゅ”. 日刊にっかんスポーツ (2012ねん2がつ16にち). 2020ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ "K-1"マイク・ベルナルド薬物やくぶつ自殺じさつ藤原ふじわら紀香のりかしんじられない」 zakzak 2012ねん2がつ15にち閲覧えつらん[リンク]
  4. ^ 格闘かくとうベルナルドさん死去しきょ” (2012ねん2がつ15にち). 2022ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ Former SA fighter diesSport24 2012ねん2がつ14にち
  6. ^ ベルナルドが現役げんえき引退いんたい 「みなさんのこと一生いっしょうわすれません」 スポーツナビ 2006ねん10がつ1にち[リンク]
  7. ^ マイク・ベルナルド 岡田おかだ敦子あつこオフィシャルブログ 2012ねん2がつ15にち
  8. ^ KICK THE CAN CREWのMCUがしんバンド、SEALを結成けっせい bounce.com 2004ねん8がつ16にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ぜん王者おうじゃ
ジョー・ヒップ
WBF世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃ

2000ねん5がつ12にち - 2002ねん

王者おうじゃ
アレキサンドル・ヤコブ
ぜん王者おうじゃ
ゴードン・マイナーズ
だい3だいWAKO PROムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王者おうじゃ

1998ねん4がつ9にち - 1999ねん6がつ20日はつか

王者おうじゃ
サム・グレコ
ぜん王者おうじゃ
アンディ・フグ
WKAムエタイ世界せかいスーパーヘビーきゅう王者おうじゃ

2004ねん9がつ18にち - 2005ねん

王者おうじゃ