ボーア戦争せんそう

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ボーア戦争せんそう時代じだいみなみアフリカ

ボーア戦争せんそう(ボーアせんそう、英語えいご: Boer Warsアフリカーンス: Anglo-Boereoorloë)は、イギリスオランダけいアフリカーナーボーアじんあるいはブールじんともばれる)がみなみアフリカの植民しょくみんあらそった、2かいにわたる戦争せんそうみなみアフリカ戦争せんそうみなみおもね戦争せんそうブール戦争せんそうともいう[1]

だいいちボーア戦争せんそう[編集へんしゅう]

だいいちボーア戦争せんそう
Eerste Vryheidsoorlog
Boers in action (1881).
戦争せんそう:ボーア戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1880ねん12月16にち - 1881ねん3月23にち
場所ばしょみなみアフリカ
結果けっか:トランスヴァール共和きょうわこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
トランスヴァール共和国の旗 トランスヴァール共和きょうわこく イギリスの旗 イギリス
指導しどうしゃ指揮しきかん
ポール・クルーガー
borberピート・ジュベール
borberニコラス・スミット英語えいごばん
borberJ.D. ヴェイルバッハ
borberフランソワ・ジュベール英語えいごばん
borberピート・クロニエ英語えいごばん
イギリスの旗 ヴィクトリア女王じょおう
イギリスの旗 ウィリアム・グラッドストン
イギリスの旗ジョージ・ポメロイ・コリー英語えいごばん少将しょうしょう 
イギリスの旗フィリップ・ロバート・アンストラザー中佐ちゅうさ 
イギリスの旗ウィリアム・ベレアーズ英語えいごばん大佐たいさ
戦力せんりょく
3,000
(合計ごうけいやく7,000)
ナタール野戦やせんぐん英語えいごばん1,200
(トランスヴァールに1,700)
損害そんがい
戦死せんし 41

負傷ふしょう 47

戦死せんし 408

負傷ふしょう 315

だいいちボーア戦争せんそうとは、トランスヴァール共和きょうわこくイギリス併合へいごうしようとした戦争せんそう1880ねん12月16にち - 1881ねん3月23にち)のこと。そのためトランスヴァール戦争せんそう (Transvaal War) ともばれる。

19世紀せいき17世紀せいきごろからケープ植民しょくみん入植にゅうしょくしていたオランダけい移民いみん子孫しそんであるボーアじんたちは、アフリカ南部なんぶ支配しはいけんめぐってイギリスとはげしく対立たいりつしていた。

イギリスのケープ占領せんりょうとオランダの植民しょくみん譲渡じょうとにより、ボーアじん新天地しんてんちもとめてアフリカ大陸たいりく内部ないぶさらなる植民しょくみん開始かいしし、ズールーぞく駆逐くちくして1839ねんナタール共和きょうわこく建設けんせつする。しかし、これは1843ねんのイギリスぐん侵攻しんこうによりついえる。ボーアじんさら内陸ないりく移動いどうし、1852ねんにトランスヴァール共和きょうわこくを、1854ねんオレンジ自由じゆうこく設立せつりつ。イギリスも両国りょうこく承認しょうにんした。

1860年代ねんだい以降いこう、トランスヴァール東部とうぶきむこうが、オレンジ自由じゆうこくではダイヤモンド鉱山こうざん発見はっけんされると、白人はくじん鉱山こうざん技師ぎし大量たいりょう流入りゅうにゅうしはじめた。イギリスはこの技師ぎしたちの保護ほご大義名分たいぎめいぶんとしてオレンジ自由じゆうこく領有りょうゆうする(この技師ぎしたちのなかには、のちデ・ビアスしゃ創設そうせつするセシル・ローズふくまれていた)。

内陸ないりくにあったトランスヴァール共和きょうわこくは、うみもとめてズールー王国おうこく方面ほうめん進出しんしゅつしようとした。しかし、このうごきを警戒けいかいしたイギリスはトランスヴァール共和きょうわこく併合へいごう宣言せんげんし、ボーアじんはこれに抵抗ていこうして1880ねん12月16にちポール・クルーガー司令しれいかんとしてだいえい帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこく両国りょうこく戦争せんそう状態じょうたい突入とつにゅうする。

このたたかいにおいてボーアじんたちはカーキしょく農作業のうさぎょうふく姿すがたであったのにたいして、英国えいこくぐん軍服ぐんぷく鮮紅せんこうしょくであったため、ボーアじん狙撃そげきしゅ格好かっこう標的ひょうてきとなったという。

1880ねん12月16にちポチェフストルームふるとりでにボーアじんてこもり、戦闘せんとう開始かいしつづいて12月20にちにはブロンコーストプルートのたたか英語えいごばんで、プレトリアかっていたアンストラザー中佐ちゅうさひきいるだい94歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばんやく250めいがボーアじん降伏ごうぶく1881ねん1がつ28にちにはレイングス・ネック英語えいごばんにて、だい規模きぼ戦闘せんとう発生はっせいした。(レイングス・ネックのたたか英語えいごばん)このたたかいでは砲兵ほうへい一斉いっせい砲撃ほうげきでボーアじんうごきをふうじたのちに、騎兵きへい突撃とつげきさせる戦法せんぽう英国えいこくぐんった。しかし、つボーアじん砲撃ほうげきによる被害ひがいをほとんどけず、突撃とつげきしてきた騎兵隊きへいたい銃撃じゅうげきくわえた。また、とも前進ぜんしんしていた歩兵ほへいにも攻撃こうげきし、だい損害そんがいあたえた。とくに、だい58歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばんは35-40%もの死傷ししょうしゃした。このたたかいでは、コリー少将しょうしょう参謀さんぼう士官しかんジェームス・ラスコム・プール少佐しょうさや、ロバート・エルウェス英語えいごばん中尉ちゅういエドワード・インマン中尉ちゅういや、ドルフィン中尉ちゅういなども戦死せんしするといった被害ひがいこうむった。さら2がつ8にちシャインスホーフタのたたか英語えいごばんでも敗北はいぼく。そして最終さいしゅうてき2がつ27にちマジュバ・ヒルのたたか英語えいごばん英国えいこくぐんはボーアじん惨敗ざんぱい。このたたかいで英国えいこくぐん指揮しきかんである、コリー少将しょうしょう戦死せんしするほか多大ただい犠牲ぎせいしゃした。これにより1881ねん3月23にちプレトリア協定きょうてい英語えいごばんむすばれ、イギリスはトランスヴァール共和きょうわこく独立どくりつ再度さいど承認しょうにんすることとなり、戦争せんそう終結しゅうけつしたもののだいえい帝国ていこく面目めんぼくまるつぶれとなった。

だいボーア戦争せんそう[編集へんしゅう]

だいボーア戦争せんそう
Tweede Vryheidsoorlog

戦争せんそう:ボーア戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1899ねん10月11にち - 1902ねん5月31にち
場所ばしょみなみアフリカ
結果けっか:イギリスぐん勝利しょうりフェリーニヒング条約じょうやく締結ていけつ。オレンジ自由じゆうこく・トランスヴァール共和きょうわこく消滅しょうめつ
交戦こうせん勢力せいりょく
オレンジ自由国の旗 オレンジ自由じゆうこく
トランスヴァール共和国の旗 トランスヴァール共和きょうわこく
イギリスの旗 イギリス
イギリス領インドの旗 イギリスりょうインド
オーストラリアの旗 オーストラリア
カナダの旗 カナダ
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
指導しどうしゃ指揮しきかん
トランスヴァール共和国の旗 ポール・クルーガー イギリスの旗 ヴィクトリア女王じょおう
イギリスの旗 ソールズベリー侯爵こうしゃく
イギリスの旗 ホレイショ・ハーバート・キッチナー
カナダの旗 ウィルフリッド・ローリエ

だいボーア戦争せんそうは、独立どくりつボーアじん共和きょうわこくであるオレンジ自由じゆうこくおよトランスヴァール共和きょうわこくだいえい帝国ていこくあいだ戦争せんそう1899ねん10月11にち - 1902ねん5月31にち)。

イギリスは収容しゅうようしょ戦略せんりゃく焦土しょうど作戦さくせんなどを国際こくさいてき批判ひはんされながら長期ちょうきせんたたかき、最後さいごのボーアじんを1902ねん5がつ降伏ごうぶくさせた。同月どうげつフェリーニヒング条約じょうやくむすんで終戦しゅうせんした。これにより英国えいこく両国りょうこく併合へいごうした。そのもイギリスはきた進軍しんぐんし、ドイツりょう南西なんせいアフリカドイツりょうひがしアフリカ分断ぶんだんした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

オスマン債務さいむ管理かんりきょくにドイツの資本しほんんできてイギリスはエジプトへされつつあった。 トランスヴァール共和きょうわこく豊富ほうふかね鉱脈こうみゃく発見はっけんされたことにより、英国えいこくなんせんにんもの鉱山こうざん技師ぎしたちがケープ植民しょくみんから流入りゅうにゅうはじめた。外国がいこくじん殺到さっとうし、鉱山こうざんちかくに続々ぞくぞくいたことから、ヨハネスブルグまちはほとんどいちにしてスラムまちわってしまった。

これらの外国がいこくじんはボーアじんよりおおかったが、全体ぜんたいとしてみればトランスヴァール共和きょうわこく少数しょうすうのままだった。アフリカーナーたちはかれらに投票とうひょうけんあたえず、きむ産業さんぎょうたいしても重税じゅうぜいした。これにより、外国がいこくじんおよび英国えいこくじん鉱山こうざんぬしからボーアじん政府せいふ打倒だとう圧力あつりょくたかまっていた。

1895ねん、セシル・ローズはジェームソン (Jameson Raid) による武装ぶそうクーデターをくわだてるが、失敗しっぱいわった。

英国えいこくじんたいしての平等びょうどう待遇たいぐうは、ケープ植民しょくみんへの軍事ぐんじりょく大幅おおはば増強ぞうきょう正当せいとうするための口実こうじつとしてもちいられた。英国えいこく植民しょくみん重要じゅうようなリーダーたちのなかにもボーアじん共和きょうわこく併合へいごう支持しじするものがいたためである。このキーマンとされるのは、ケープ植民しょくみん知事ちじ高等こうとう弁務べんむかんアルフレッド・ミルナーきょう英国えいこく植民しょくみん地相ちそうジョゼフ・チェンバレン鉱業こうぎょうシンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などである。ボーアじんたちをとすことなど簡単かんたんだと確信かくしんしていたかれらは、ふたた戦争せんそうおこそうとしていた。

オレンジ自由じゆうこく大統領だいとうりょうマルチナス・ステイン (Martinus Steyn) は、1899ねん5月30にちブルームフォンテーンでトランスヴァール共和きょうわこく大統領だいとうりょうクルーガーおよびミルナーきょうとの会議かいぎひらいたが、交渉こうしょうはあっという決裂けつれつした。

1899ねん9がつ、チェンバレンはトランスヴァール共和きょうわこくたいし、だいえい帝国ていこく臣民しんみんへの完全かんぜん同等どうとう権利けんり付与ふよすることを要求ようきゅうする最後さいご通告つうこくおくった。だがクルーガー大統領だいとうりょうもまた、チェンバレンからの最後さいご通告つうこく受信じゅしんするまえに、かれほうからも最後さいご通告つうこくしていた。これは、48時間じかん以内いないにトランスバール共和きょうわこくおよびオレンジ自由じゆうこく全域ぜんいきからすべ英国えいこくぐん退去たいきょするようにもとめるものであった。

だい1フェーズ:ボーアぐん攻勢こうせい(1899ねん10がつ-12月)[編集へんしゅう]

1899ねん10月12にち宣戦せんせん布告ふこくされ、ボーアぐんはそれ以降いこう1900ねん1がつまでのあいだにケープ植民しょくみんとナタール植民しょくみん最初さいしょ攻撃こうげき開始かいしした。ボーアぐんは、レディスミス(Ladysmith)、マフェキングロバート・ベーデン=パウエル指揮しき軍隊ぐんたいによって防衛ぼうえいされていた)およびキンバリー包囲ほういした。包囲ほういによる籠城ろうじょう生活せいかつすう週間しゅうかんおよぶと、これらのまち兵士へいし市民しみんにはたちまち食糧しょくりょう不足ふそくはじめた。包囲ほういされているこれらのまちは、継続けいぞくてき砲撃ほうげきにさらされ、街路がいろ非常ひじょう危険きけん地帯ちたいとなった。

このとしの12月中旬ちゅうじゅんは、英国えいこくぐんにとって非常ひじょう困難こんなん時期じきで、とくに1899ねん12月10にちから15にちは「暗黒あんこくいち週間しゅうかん」 (Black Week) とばれる。このいち週間しゅうかん英国えいこくぐんマゲルスフォンテーン (Magersfontein) 、ストームベルク (Stormberg) 、コレンゾー (Colenso) においてつづけざまに壊滅かいめつてき打撃だげきこうむった。

12月10にちストームベルクのたたか(en)において、英国えいこくぐん司令しれいかん、Sir William Gatacre将軍しょうぐんは、オレンジかわの50マイルみなみでの鉄道てつどうジャンクションをもどそうとしたが、オレンジ自由じゆう国軍こくぐん抵抗ていこうにあい、死傷ししょうしゃ135にん捕虜ほりょ600にんというだい損害そんがいこうむった。

英国えいこくぐんふくめて、当時とうじ世界せかい正規せいき軍隊ぐんたいでは、歩兵ほへい密集みっしゅうして横隊おうたい陣形じんけいんで攻撃こうげき前進ぜんしんするというのが普通ふつうのスタイルであった。それにたいしてボーアぐん主体しゅたい民兵みんぺい部隊ぶたい特定とくてい編制へんせいをもたず、連装れんそうしきライフルじゅう装備そうびした騎乗きじょう歩兵ほへい主体しゅたいであった。特定とくてい陣形じんけいまずに分散ぶんさんして展開てんかいし、てきちかづくとうまりて、ブッシュや地形ちけい起伏きふくたくみに利用りようしてかく命中めいちゅう精度せいどたか射撃しゃげきおこなったのである。

12月11にちのマゲルスフォンテーンのたたかい(en)では、ポール・サンフォード・メシュエン男爵だんしゃくメシュエン3せい)が指揮しきする14,000にん英国えいこくぐんが、キンバリーを攻略こうりゃくするために用意よういされた。ボーアぐん指揮しきかんであったデ・ラ・レイ (Koos de la Rey) とクロンジェ (Piet Cronje) は、英国えいこくぐんかたにはまった作戦さくせん行動こうどう逆手さかてり、軍事ぐんじ教則きょうそくにとらわれない場所ばしょ塹壕ざんごうり、射手しゃしゅ(ライフルマン)を配置はいちする作戦さくせん実行じっこうした。これがたり、キンバリー、そしてマフェキングを救出きゅうしゅつするはずだった英国えいこくぐん死者ししゃ120にん負傷ふしょうしゃ690にん壊滅かいめつてき打撃だげきけた。

しかし、暗黒あんこくいち週間しゅうかん最悪さいあくは、12月15にちのコレンゾーのたたかい(en)である。

レディスミス救出きゅうしゅつのためにツゲラ (Tugela) かわわたろうとしたレドバース・ブラー (Redvers Buller) の指揮しきする21,000にん英国えいこくぐんが、ルイス・ボータ(ボーサ)指揮しきする8,000にんのトランスヴァール共和きょうわ国軍こくぐんせされた。砲撃ほうげき正確せいかくなライフル射撃しゃげき組合くみあわせにより、ボーアぐんかわわたろうとしたすべての英国えいこくぐん撃退げきたいした。ボーアぐん犠牲ぎせいしゃ40にんたいして英国えいこくぐんは1,127にん犠牲ぎせいしゃし、さらわるいことには退却たいきゃくさい放置ほうちした大砲たいほう10もん鹵獲ろかくされるていたらくであった。

だい2フェーズ:英国えいこくぐん攻勢こうせい(1900ねん1がつから9がつ[編集へんしゅう]

さら英国えいこくぐんは、レディスミスを攻略こうりゃくするためのスピオン・コップ (Spion Kop) のたたかい(en)(1900ねん1がつ19にちから24にち)でふたたやぶれ、ビューラーは再度さいどコレンゾーのツゲラがわ西側にしがわわたろうとして、ボータひきいるボーアぐんとの激戦げきせんすえ、1,000にん犠牲ぎせいしゃした(このときのボーアぐんがわ犠牲ぎせいしゃやく300にん)(en)。ビューラーは2がつ5にちに、Vaal Krantzでふたたびボータのぐん攻撃こうげきして(en)、今度こんど敗北はいぼくする。

1900ねん2がつ14にち増援ぞうえん到着とうちゃくするまで、ロバーツきょう指揮しき英国えいこくぐん駐屯ちゅうとんぐんすくすための反攻はんこう開始かいしすることはできなかった。最終さいしゅうてきにキンバリーは、2がつ15にちジョン・フレンチ将軍しょうぐん騎兵きへい部隊ぶたいによって解放かいほうされた。

パールデベルク (Paardeberg) のたたかい(en)(1900ねん2がつ18にちから27にち)で、ロバーツきょうはついにボーアぐんやぶり、クロンジェ将軍しょうぐんと4,000にん兵士へいし捕虜ほりょとした。これによりボーアぐん弱体じゃくたいし、やっとのことで英国えいこくぐんはレディスミス解放かいほうへとこますすめることが可能かのうとなった。

マフェキング解放かいほうは、イギリス全土ぜんど熱狂ねっきょうてき祝賀しゅくがこした(このおまつさわぎを表現ひょうげんするためにマフェック (maffic) という単語たんごつくられたほど)。同年どうねん2がつ、イギリスはぐんさい集結しゅうけつさせると、西方せいほうから2つの共和きょうわこく攻略こうりゃく開始かいしし、3月13にちにはオレンジ自由じゆうこく首都しゅとブルームフォンテーン陥落かんらくし、6月5にちにはトランスヴァール共和きょうわこく首都しゅとプレトリア占領せんりょうされた。

ほとんどのえい国民こくみんは2つの首都しゅと占領せんりょうによって、ほどなく終戦しゅうせんいたるだろうとかんがえていた。しかし、ボーアぐんあらたな拠点きょてんKroonstadで会合かいごうし、英国えいこく供給きょうきゅうもうおよび通信つうしんもう寸断すんだんするゲリラせん立案りつあんした。

このあらたな方針ほうしんによる最初さいしょ戦果せんかは、3月31にちクリスチャン・デ・ウェット (Christian De Wet) が指揮しきする1,500にんのボーアぐんがSanna's Post(ブルームフォンテーンのひがし23マイルにある給水きゅうすい設備せつび)において、英国えいこくぐん厳重げんじゅう警護けいごするキャラバンをせし、155にん犠牲ぎせいしゃ、428にん捕虜ほりょ、7ちょうじゅう、117だいのワゴンを捕獲ほかくしたものであった。

最後さいごの“フォーマルな”たたかいは、ロバーツきょうがプレトリア近郊きんこうでボーアぐん野戦やせんへい残党ざんとう攻撃こうげきした6月11にちから12にちダイアモンド・ヒル (Diamond Hill) のたたかい(en)であった。ロバーツきょうがダイアモンド・ヒルからのボーアぐん排除はいじょ成功せいこうしたにもかかわらず、ボーアぐん指揮しきかんボータはそれを敗北はいぼくなさなかった。何故なぜならボーアぐん犠牲ぎせいしゃやく50にんであったのにたいし、英国えいこくぐんは162にん犠牲ぎせいしゃしたからである。

こうして、“フォーマルな”戦争せんそうわりをげ、戦争せんそうあらたなステージにうつることとなった。

強制きょうせい収容しゅうようしょ[編集へんしゅう]

強制きょうせい収容しゅうようしょ収容しゅうようされたアフリカーナーの女性じょせい子供こども

1900ねん6がつごろより、英軍えいぐん司令しれいかんホレイショ・キッチナーは、ボーアぐん支配しはい地域ちいき強制きょうせい収容しゅうようしょ矯正きょうせいキャンプ)戦略せんりゃく展開てんかいはじめる。これによって12まんにんのボーアじん先住民せんじゅうみん黒人こくじん強制きょうせい収容しゅうようしょれられ、さらに焦土しょうど作戦さくせん敢行かんこう広大こうだい農地のうち農家のうかはらわれた。この収容しゅうようしょでは2まんにん死亡しぼうしたとされる。

だい3フェーズ:ゲリラせん(1900ねん9がつから1902ねん5がつ[編集へんしゅう]

英国えいこくは1900ねん9がつまでにトランスヴァール北部ほくぶのぞ両方りょうほう共和きょうわこく管理かんりしていた。しかし、かれらは分隊ぶんたい物理ぶつりてき存在そんざいするあいだ制御せいぎょするのみであった。分隊ぶんたいまちまたは地区ちくるとすぐに、その領域りょういきでの英国えいこく制御せいぎょえてった。25まんにん英国えいこくぐん兵士へいしでは2つの共和きょうわこくゆうする巨大きょだい領域りょういき効果こうかてき制御せいぎょするのは不可能ふかのうであった。英国えいこくぐん分隊ぶんたい同士どうし巨大きょだい距離きょりがあるため、ボーアぐん特別とくべつ攻撃こうげきたいコマンド部隊ぶたい)はかなり自由じゆううごまわることができた。ボーアじん指揮しきかんも、ゲリラせんのスタイルを採用さいようすることにめた。

特別とくべつ攻撃こうげきたいは、いつでも英国えいこくじんたい攻撃こうげきしてよいとの命令めいれいあたえられており、各人かくじん出身しゅっしん地区ちく派遣はけんされた。かれらの戦略せんりゃくは、てき可能かのうなかぎりの損害そんがいあたえ、てき増援ぞうえん到着とうちゃくするまえ移動いどうするというものであった。西にしトランスヴァールのボーアぐん特別とくべつ攻撃こうげきたいは、1901ねん9がつ以後いご非常ひじょう活発かっぱつ活動かつどうした。

いくつかの重要じゅうようたたかいが1901ねん9がつから1902ねん3月のあいだこった。

1901ねん9月30にち、Moedwilで、そして10月24にちドリエフォンテーン (Driefontein) で、デ・ラ・レイ将軍しょうぐんぐん英軍えいぐん攻撃こうげきするが、つよ抵抗ていこうい、退却たいきゃく余儀よぎなくされた。

1902ねん2がつには、つぎおおきなたたかいがこった。2月25にちにデ・ラ・レイが、WolmaranstadのちかくのYsterspruitで英軍えいぐん襲撃しゅうげきしたのである。デ・ラ・レイはてき分隊ぶんたい捕虜ほりょとし、かれひきいる部隊ぶたい相当そうとう長期間ちょうきかんにわたって活動かつどうできるだけの大量たいりょう弾薬だんやく鹵獲ろかくすることに成功せいこうした。

デ・ラ・レイのボーアぐんは、メシュエンきょう (Lord Methuen) にひきいられた英国えいこくぐんをVryburgからKlerksdorpまで追跡ついせきした。1902ねん3月7にちあさ、ボーアぐんはTweeboschで移動いどうしているメシュエンの後衛こうえい攻撃こうげきした。これにより英軍えいぐん混乱こんらんおちいり、メシュエンは負傷ふしょうしボーアぐん捕虜ほりょとなった。Tweeboschのたたかいは、デ・ラ・レイの勝利しょうりのうちの1つであったが、ボーアぐんのこの勝利しょうりは、英軍えいぐんのよりつよ反応はんのうすこととなってしまった。

1902ねん3がつ後半こうはんには、英軍えいぐんだい規模きぼ増援ぞうえん西にしトランスヴァールにおくられた。英国えいこくぐんちにった機会きかいは1902ねん4がつ11にち、Rooiwalでおとずれた。ここでGensのぐん合流ごうりゅうしたのである。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍しょうぐんぐん接触せっしょくした。英軍えいぐん兵士へいしやまがわ配置はいちされ、ボーアぐん騎馬きば攻撃こうげき十分じゅうぶん距離きょりって迎撃げいげきし、存分ぞんぶんたおした。これは、西にしトランスバール戦争せんそうさらにはアングロ・ボーア戦争せんそう最後さいごおおきな戦闘せんとうであった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Thomas Pakenham (1991). THE BOER WAR. Abacus. ISBN 0-349-10466-2 
  • 岡倉おかくら登志とし『ボーア戦争せんそう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2003ねんISBN 4-634-64700-1 
  • 瀬戸せと利春としはる「ボーア戦争せんそう かねとダイヤがこした帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう」『歴史れきしぐんぞう 2003ねん10がつごうだい61ごう学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、166-173ぺーじ 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 百科ひゃっか事典じてんマイペディアの解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]