ボーア戦争 せんそう 時代 じだい の南 みなみ アフリカ
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ボーア戦争 せんそう (ボーアせんそう、英語 えいご : Boer Wars 、アフリカーンス語 ご : Anglo-Boereoorloë )は、イギリス とオランダ 系 けい アフリカーナー (ボーア人 じん あるいはブール人 じん とも呼 よ ばれる)が南 みなみ アフリカの植民 しょくみん 地 ち 化 か を争 あらそ った、2回 かい にわたる戦争 せんそう 。南 みなみ アフリカ戦争 せんそう 、南 みなみ 阿 おもね 戦争 せんそう 、ブール戦争 せんそう ともいう[1] 。
第 だい 一 いち 次 じ ボーア戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ ボーア戦争 せんそう とは、トランスヴァール共和 きょうわ 国 こく をイギリス が併合 へいごう しようとした戦争 せんそう (1880年 ねん 12月16日 にち - 1881年 ねん 3月23日 にち )のこと。そのためトランスヴァール戦争 せんそう (Transvaal War) とも呼 よ ばれる。
19世紀 せいき 、17世紀 せいき ごろからケープ植民 しょくみん 地 ち に入植 にゅうしょく していたオランダ 系 けい 移民 いみん の子孫 しそん であるボーア人 じん たちは、アフリカ 南部 なんぶ の支配 しはい 権 けん を巡 めぐ ってイギリスと激 はげ しく対立 たいりつ していた。
イギリスのケープ占領 せんりょう とオランダの植民 しょくみん 地 ち 譲渡 じょうと により、ボーア人 じん は新天地 しんてんち を求 もと めてアフリカ大陸 たいりく 内部 ないぶ へ更 さら なる植民 しょくみん を開始 かいし し、ズールー族 ぞく を駆逐 くちく して1839年 ねん にナタール共和 きょうわ 国 こく を建設 けんせつ する。しかし、これは1843年 ねん のイギリス軍 ぐん の侵攻 しんこう により潰 つい える。ボーア人 じん は更 さら に内陸 ないりく 部 ぶ へ移動 いどう し、1852年 ねん にトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく を、1854年 ねん にオレンジ自由 じゆう 国 こく を設立 せつりつ 。イギリスも両国 りょうこく を承認 しょうにん した。
1860年代 ねんだい 以降 いこう 、トランスヴァール東部 とうぶ で金 きむ 鉱 こう が、オレンジ自由 じゆう 国 こく ではダイヤモンド 鉱山 こうざん が発見 はっけん されると、白人 はくじん の鉱山 こうざん 技師 ぎし が大量 たいりょう に流入 りゅうにゅう しはじめた。イギリスはこの技師 ぎし たちの保護 ほご を大義名分 たいぎめいぶん としてオレンジ自由 じゆう 国 こく を領有 りょうゆう 化 か する(この技師 ぎし たちの中 なか には、後 のち にデ・ビアス 社 しゃ を創設 そうせつ するセシル・ローズ も含 ふく まれていた)。
内陸 ないりく にあったトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく は、海 うみ を求 もと めてズールー王国 おうこく 方面 ほうめん へ進出 しんしゅつ しようとした。しかし、この動 うご きを警戒 けいかい したイギリスはトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく の併合 へいごう を宣言 せんげん し、ボーア人 じん はこれに抵抗 ていこう して1880年 ねん 12月16日 にち 、ポール・クルーガー を司令 しれい 官 かん として大 だい 英 えい 帝国 ていこく に宣戦 せんせん を布告 ふこく 。両国 りょうこく は戦争 せんそう 状態 じょうたい へ突入 とつにゅう する。
この戦 たたか いにおいてボーア人 じん たちはカーキ色 しょく の農作業 のうさぎょう 服 ふく 姿 すがた であったのに対 たい して、英国 えいこく 軍 ぐん の軍服 ぐんぷく は鮮紅 せんこう 色 しょく であったため、ボーア人 じん 狙撃 そげき 手 しゅ の格好 かっこう の標的 ひょうてき となったという。
1880年 ねん 12月16日 にち 、ポチェフストルーム の古 ふる い砦 とりで にボーア人 じん が立 た てこもり、戦闘 せんとう が開始 かいし 。続 つづ いて12月20日 にち にはブロンコーストプルートの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で、プレトリア へ向 む かっていたアンストラザー中佐 ちゅうさ 率 ひき いる第 だい 94歩兵 ほへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) 約 やく 250名 めい がボーア人 じん に降伏 ごうぶく 。1881年 ねん 1月 がつ 28日 にち にはレイングス・ネック (英語 えいご 版 ばん ) にて、大 だい 規模 きぼ な戦闘 せんとう が発生 はっせい した。(レイングス・ネックの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) )この戦 たたか いでは砲兵 ほうへい が一斉 いっせい 砲撃 ほうげき でボーア人 じん の動 うご きを封 ふう じた後 のち に、騎兵 きへい を突撃 とつげき させる戦法 せんぽう を英国 えいこく 軍 ぐん は取 と った。しかし、地 ち の利 り を持 も つボーア人 じん は砲撃 ほうげき による被害 ひがい をほとんど受 う けず、突撃 とつげき してきた騎兵隊 きへいたい に銃撃 じゅうげき を加 くわ えた。また、共 とも に前進 ぜんしん していた歩兵 ほへい にも攻撃 こうげき し、大 だい 損害 そんがい を与 あた えた。特 とく に、第 だい 58歩兵 ほへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) は35-40%もの死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した。この戦 たたか いでは、コリー少将 しょうしょう の参謀 さんぼう 士官 しかん のジェームス・ラスコム・プール 少佐 しょうさ や、ロバート・エルウェス (英語 えいご 版 ばん ) 中尉 ちゅうい 、エドワード・インマン 中尉 ちゅうい や、ドルフィン中尉 ちゅうい なども戦死 せんし するといった被害 ひがい も被 こうむ った。更 さら に2月 がつ 8日 にち 、シャインスホーフタの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でも敗北 はいぼく 。そして最終 さいしゅう 的 てき に2月 がつ 27日 にち 、マジュバ・ヒルの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で英国 えいこく 軍 ぐん はボーア人 じん に惨敗 ざんぱい 。この戦 たたか いで英国 えいこく 軍 ぐん の指揮 しき 官 かん である、コリー少将 しょうしょう が戦死 せんし するほか多大 ただい な犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ した。これにより1881年 ねん 3月23日 にち 、プレトリア協定 きょうてい (英語 えいご 版 ばん ) が結 むす ばれ、イギリスはトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ を再度 さいど 承認 しょうにん することとなり、戦争 せんそう は終結 しゅうけつ したものの大 だい 英 えい 帝国 ていこく の面目 めんぼく は丸 まる つぶれとなった。
第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ ボーア戦争 せんそう は、独立 どくりつ ボーア人 じん 共和 きょうわ 国 こく であるオレンジ自由 じゆう 国 こく 及 およ びトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく と大 だい 英 えい 帝国 ていこく の間 あいだ の戦争 せんそう (1899年 ねん 10月11日 にち - 1902年 ねん 5月31日 にち )。
イギリスは収容 しゅうよう 所 しょ 戦略 せんりゃく ・焦土 しょうど 作戦 さくせん などを国際 こくさい 的 てき に批判 ひはん されながら長期 ちょうき 戦 せん を戦 たたか い抜 ぬ き、最後 さいご のボーア人 じん を1902年 ねん 5月 がつ に降伏 ごうぶく させた。同月 どうげつ 、フェリーニヒング条約 じょうやく を結 むす んで終戦 しゅうせん した。これにより英国 えいこく は両国 りょうこく を併合 へいごう した。その後 ご もイギリスは北 きた へ進軍 しんぐん し、ドイツ領 りょう 南西 なんせい アフリカ とドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカ を分断 ぶんだん した。
オスマン債務 さいむ 管理 かんり 局 きょく にドイツの資本 しほん が割 わ り込 こ んできてイギリスはエジプトへ押 お し出 だ されつつあった。
トランスヴァール共和 きょうわ 国 こく で豊富 ほうふ な金 かね の鉱脈 こうみゃく が発見 はっけん されたことにより、英国 えいこく の何 なん 千 せん 人 にん もの鉱山 こうざん 技師 ぎし たちがケープ植民 しょくみん 地 ち から流入 りゅうにゅう を始 はじ めた。外国 がいこく 人 じん が殺到 さっとう し、鉱山 こうざん 近 ちか くに続々 ぞくぞく と住 す み着 つ いたことから、ヨハネスブルグ の街 まち はほとんど一 いち 夜 や にしてスラム 街 まち と変 か わってしまった。
これらの外国 がいこく 人 じん はボーア人 じん より多 おお かったが、全体 ぜんたい としてみればトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく の少数 しょうすう 派 は のままだった。アフリカーナーたちは彼 かれ らに投票 とうひょう 権 けん を与 あた えず、金 きむ 産業 さんぎょう に対 たい しても重税 じゅうぜい を課 か した。これにより、外国 がいこく 人 じん および英国 えいこく 人 じん の鉱山 こうざん 主 ぬし からボーア人 じん 政府 せいふ 打倒 だとう の圧力 あつりょく が高 たか まっていた。
1895年 ねん 、セシル・ローズはジェームソン (Jameson Raid ) による武装 ぶそう クーデターを企 くわだ てるが、失敗 しっぱい に終 お わった。
英国 えいこく 人 じん に対 たい しての不 ふ 平等 びょうどう な待遇 たいぐう は、ケープ植民 しょくみん 地 ち への軍事 ぐんじ 力 りょく の大幅 おおはば な増強 ぞうきょう を正当 せいとう 化 か するための口実 こうじつ として用 もち いられた。英国 えいこく 植民 しょくみん 地 ち の重要 じゅうよう なリーダーたちの中 なか にもボーア人 じん 共和 きょうわ 国 こく の併合 へいごう を支持 しじ する者 もの がいたためである。このキーマンとされるのは、ケープ植民 しょくみん 地 ち の知事 ちじ (高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん )アルフレッド・ミルナー 卿 きょう 、英国 えいこく 植民 しょくみん 地相 ちそう ジョゼフ・チェンバレン 、鉱業 こうぎょう シンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などである。ボーア人 じん たちを攻 せ め落 お とすことなど簡単 かんたん だと確信 かくしん していた彼 かれ らは、再 ふたた び戦争 せんそう を引 ひ き起 おこ そうとしていた。
オレンジ自由 じゆう 国 こく の大統領 だいとうりょう マルチナス・ステイン (Martinus Steyn) は、1899年 ねん 5月30日 にち にブルームフォンテーン でトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく の大統領 だいとうりょう クルーガー及 およ びミルナー卿 きょう との会議 かいぎ を開 ひら いたが、交渉 こうしょう はあっという間 ま に決裂 けつれつ した。
1899年 ねん 9月 がつ 、チェンバレンはトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく に対 たい し、大 だい 英 えい 帝国 ていこく 臣民 しんみん への完全 かんぜん に同等 どうとう な権利 けんり を付与 ふよ することを要求 ようきゅう する最後 さいご 通告 つうこく を送 おく った。だがクルーガー大統領 だいとうりょう もまた、チェンバレンからの最後 さいご 通告 つうこく を受信 じゅしん する前 まえ に、彼 かれ の方 ほう からも最後 さいご 通告 つうこく を出 だ していた。これは、48時間 じかん 以内 いない にトランスバール共和 きょうわ 国 こく およびオレンジ自由 じゆう 国 こく の全域 ぜんいき から全 すべ て英国 えいこく 軍 ぐん を退去 たいきょ するように求 もと めるものであった。
第 だい 1フェーズ:ボーア軍 ぐん の攻勢 こうせい (1899年 ねん 10月 がつ -12月)[ 編集 へんしゅう ]
1899年 ねん 10月12日 にち に宣戦 せんせん が布告 ふこく され、ボーア軍 ぐん はそれ以降 いこう 、1900年 ねん 1月 がつ までの間 あいだ にケープ植民 しょくみん 地 ち とナタール植民 しょくみん 地 ち に最初 さいしょ の攻撃 こうげき を開始 かいし した。ボーア軍 ぐん は、レディスミス (Ladysmith)、マフェキング (ロバート・ベーデン=パウエル 指揮 しき 下 か の軍隊 ぐんたい によって防衛 ぼうえい されていた)およびキンバリー を包囲 ほうい した。包囲 ほうい による籠城 ろうじょう 生活 せいかつ が数 すう 週間 しゅうかん に及 およ ぶと、これらの街 まち の兵士 へいし と市民 しみん にはたちまち食糧 しょくりょう が不足 ふそく し始 はじ めた。包囲 ほうい されているこれらの街 まち は、継続 けいぞく 的 てき な砲撃 ほうげき にさらされ、街路 がいろ は非常 ひじょう な危険 きけん 地帯 ちたい となった。
この年 とし の12月中旬 ちゅうじゅん は、英国 えいこく 軍 ぐん にとって非常 ひじょう に困難 こんなん な時期 じき で、特 とく に1899年 ねん の12月10日 にち から15日 にち は「暗黒 あんこく の一 いち 週間 しゅうかん 」 (Black Week ) と呼 よ ばれる。この一 いち 週間 しゅうかん で英国 えいこく 軍 ぐん はマゲルスフォンテーン (Magersfontein) 、ストームベルク (Stormberg) 、コレンゾー (Colenso) において続 つづ けざまに壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を被 こうむ った。
12月10日 にち のストームベルクの戦 たたか い (en )において、英国 えいこく 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん 、Sir William Gatacre将軍 しょうぐん は、オレンジ川 かわ の50マイル南 みなみ での鉄道 てつどう ジャンクションを取 と り戻 もど そうとしたが、オレンジ自由 じゆう 国軍 こくぐん の抵抗 ていこう にあい、死傷 ししょう 者 しゃ 135人 にん 、捕虜 ほりょ 600人 にん という大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った。
英国 えいこく 軍 ぐん を含 ふく めて、当時 とうじ の世界 せかい の正規 せいき な軍隊 ぐんたい では、歩兵 ほへい が密集 みっしゅう して横隊 おうたい 陣形 じんけい を組 く んで攻撃 こうげき 前進 ぜんしん するというのが普通 ふつう のスタイルであった。それに対 たい してボーア軍 ぐん の主体 しゅたい は民兵 みんぺい 部隊 ぶたい で特定 とくてい の編制 へんせい をもたず、連装 れんそう 式 しき ライフル銃 じゅう を装備 そうび した騎乗 きじょう 歩兵 ほへい が主体 しゅたい であった。特定 とくてい の陣形 じんけい を組 く まずに分散 ぶんさん して展開 てんかい し、敵 てき に近 ちか づくと馬 うま を降 お りて、ブッシュや地形 ちけい の起伏 きふく を巧 たく みに利用 りよう して身 み を隠 かく し命中 めいちゅう 精度 せいど の高 たか い射撃 しゃげき を行 おこな ったのである。
12月11日 にち のマゲルスフォンテーンの戦 たたか い(en )では、ポール・サンフォード・メシュエン 男爵 だんしゃく (メシュエン3世 せい )が指揮 しき する14,000人 にん の英国 えいこく 軍 ぐん が、キンバリーを攻略 こうりゃく するために用意 ようい された。ボーア軍 ぐん 指揮 しき 官 かん であったデ・ラ・レイ (Koos de la Rey) とクロンジェ (Piet Cronje) は、英国 えいこく 軍 ぐん の型 かた にはまった作戦 さくせん 行動 こうどう を逆手 さかて に取 と り、軍事 ぐんじ 教則 きょうそく にとらわれない場所 ばしょ に塹壕 ざんごう を掘 ほ り、射手 しゃしゅ (ライフルマン)を配置 はいち する作戦 さくせん を実行 じっこう した。これが図 ず に当 あ たり、キンバリー、そしてマフェキングを救出 きゅうしゅつ するはずだった英国 えいこく 軍 ぐん は死者 ししゃ 120人 にん 、負傷 ふしょう 者 しゃ 690人 にん を出 だ す壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を受 う けた。
しかし、暗黒 あんこく の一 いち 週間 しゅうかん の最悪 さいあく の日 ひ は、12月15日 にち のコレンゾーの戦 たたか い(en )である。
レディスミス救出 きゅうしゅつ のためにツゲラ (Tugela) 川 かわ を渡 わた ろうとしたレドバース・ブラー (Redvers Buller) の指揮 しき する21,000人 にん の英国 えいこく 軍 ぐん が、ルイス・ボータ (ボーサ)指揮 しき する8,000人 にん のトランスヴァール共和 きょうわ 国軍 こくぐん に待 ま ち伏 ぶ せされた。砲撃 ほうげき と正確 せいかく なライフル射撃 しゃげき の組合 くみあわ せにより、ボーア軍 ぐん は川 かわ を渡 わた ろうとした全 すべ ての英国 えいこく 軍 ぐん を撃退 げきたい した。ボーア軍 ぐん の犠牲 ぎせい 者 しゃ 40人 にん に対 たい して英国 えいこく 軍 ぐん は1,127人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ し、更 さら に悪 わる いことには退却 たいきゃく の際 さい に放置 ほうち した大砲 たいほう 10門 もん を鹵獲 ろかく される体 てい たらくであった。
第 だい 2フェーズ:英国 えいこく 軍 ぐん の攻勢 こうせい (1900年 ねん 1月 がつ から9月 がつ )[ 編集 へんしゅう ]
更 さら に英国 えいこく 軍 ぐん は、レディスミスを攻略 こうりゃく するためのスピオン・コップ (Spion Kop) の戦 たたか い(en )(1900年 ねん 1月 がつ 19日 にち から24日 にち )で再 ふたた び敗 やぶ れ、ビューラーは再度 さいど コレンゾーのツゲラ川 がわ 西側 にしがわ を渡 わた ろうとして、ボータ率 ひき いるボーア軍 ぐん との激戦 げきせん の末 すえ 、1,000人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ した(この時 とき のボーア軍 ぐん 側 がわ の犠牲 ぎせい 者 しゃ は約 やく 300人 にん )(en )。ビューラーは2月 がつ 5日 にち に、Vaal Krantzで再 ふたた びボータの軍 ぐん を攻撃 こうげき して(en )、今度 こんど も敗北 はいぼく する。
1900年 ねん 2月 がつ 14日 にち に増援 ぞうえん が到着 とうちゃく するまで、ロバーツ卿 きょう 指揮 しき 下 か の英国 えいこく 軍 ぐん が駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん を救 すく い出 だ すための反攻 はんこう を開始 かいし することはできなかった。最終 さいしゅう 的 てき にキンバリーは、2月 がつ 15日 にち にジョン・フレンチ 将軍 しょうぐん の騎兵 きへい 部隊 ぶたい によって解放 かいほう された。
パールデベルク (Paardeberg) の戦 たたか い(en )(1900年 ねん 2月 がつ 18日 にち から27日 にち )で、ロバーツ卿 きょう はついにボーア軍 ぐん を打 う ち破 やぶ り、クロンジェ将軍 しょうぐん と4,000人 にん の兵士 へいし を捕虜 ほりょ とした。これによりボーア軍 ぐん は弱体 じゃくたい 化 か し、やっとのことで英国 えいこく 軍 ぐん はレディスミス解放 かいほう へと駒 こま を進 すす めることが可能 かのう となった。
マフェキング解放 かいほう は、イギリス全土 ぜんど に熱狂 ねっきょう 的 てき な祝賀 しゅくが を引 ひ き起 お こした(このお祭 まつ り騒 さわ ぎを表現 ひょうげん するためにマフェック (maffic) という単語 たんご が作 つく られたほど)。同年 どうねん 2月 がつ 、イギリスは軍 ぐん を再 さい 集結 しゅうけつ させると、西方 せいほう から2つの共和 きょうわ 国 こく の攻略 こうりゃく を開始 かいし し、3月13日 にち にはオレンジ自由 じゆう 国 こく の首都 しゅと ブルームフォンテーン が陥落 かんらく し、6月5日 にち にはトランスヴァール共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと プレトリア が占領 せんりょう された。
ほとんどの英 えい 国民 こくみん は2つの首都 しゅと 占領 せんりょう によって、ほどなく終戦 しゅうせん に至 いた るだろうと考 かんが えていた。しかし、ボーア軍 ぐん は新 あら たな拠点 きょてん Kroonstadで会合 かいごう し、英国 えいこく の供給 きょうきゅう 網 もう および通信 つうしん 網 もう を寸断 すんだん するゲリラ戦 せん を立案 りつあん した。
この新 あら たな方針 ほうしん による最初 さいしょ の戦果 せんか は、3月31日 にち 、クリスチャン・デ・ウェット (Christian De Wet) が指揮 しき する1,500人 にん のボーア軍 ぐん がSanna's Post(ブルームフォンテーンの東 ひがし 23マイルにある給水 きゅうすい 設備 せつび )において、英国 えいこく 軍 ぐん が厳重 げんじゅう に警護 けいご するキャラバンを待 ま ち伏 ぶ せし、155人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ 、428人 にん の捕虜 ほりょ 、7丁 ちょう の銃 じゅう 、117台 だい のワゴンを捕獲 ほかく したものであった。
最後 さいご の“フォーマルな”戦 たたか いは、ロバーツ卿 きょう がプレトリア近郊 きんこう でボーア軍 ぐん 野戦 やせん 兵 へい の残党 ざんとう を攻撃 こうげき した6月11日 にち から12日 にち のダイアモンド・ヒル (Diamond Hill) の戦 たたか い(en )であった。ロバーツ卿 きょう がダイアモンド・ヒルからのボーア軍 ぐん の排除 はいじょ に成功 せいこう したにもかかわらず、ボーア軍 ぐん の指揮 しき 官 かん ボータはそれを敗北 はいぼく と見 み なさなかった。何故 なぜ ならボーア軍 ぐん の犠牲 ぎせい 者 しゃ が約 やく 50人 にん であったのに対 たい し、英国 えいこく 軍 ぐん は162人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ したからである。
こうして、“フォーマルな”戦争 せんそう は終 お わりを告 つ げ、戦争 せんそう は新 あら たなステージに移 うつ ることとなった。
強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ [ 編集 へんしゅう ]
強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に収容 しゅうよう されたアフリカーナーの女性 じょせい と子供 こども
1900年 ねん 6月 がつ ごろより、英軍 えいぐん 司令 しれい 官 かん のホレイショ・キッチナー は、ボーア軍 ぐん 支配 しはい 地域 ちいき で強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ (矯正 きょうせい キャンプ)戦略 せんりゃく を展開 てんかい し始 はじ める。これによって12万 まん 人 にん のボーア人 じん 、先住民 せんじゅうみん 黒人 こくじん が強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に入 い れられ、さらに焦土 しょうど 作戦 さくせん を敢行 かんこう 。広大 こうだい な農地 のうち と農家 のうか が焼 や き払 はら われた。この収容 しゅうよう 所 しょ では2万 まん 人 にん が死亡 しぼう したとされる。
第 だい 3フェーズ:ゲリラ戦 せん (1900年 ねん 9月 がつ から1902年 ねん 5月 がつ )[ 編集 へんしゅう ]
英国 えいこく は1900年 ねん 9月 がつ までにトランスヴァール北部 ほくぶ を除 のぞ く両方 りょうほう の共和 きょうわ 国 こく を管理 かんり していた。しかし、彼 かれ らは分隊 ぶんたい が物理 ぶつり 的 てき に存在 そんざい する間 あいだ を制御 せいぎょ するのみであった。分隊 ぶんたい が町 まち または地区 ちく を去 さ るとすぐに、その領域 りょういき での英国 えいこく の制御 せいぎょ は消 き えて行 い った。25万 まん 人 にん の英国 えいこく 軍 ぐん 兵士 へいし では2つの共和 きょうわ 国 こく が有 ゆう する巨大 きょだい な領域 りょういき を効果 こうか 的 てき に制御 せいぎょ するのは不可能 ふかのう であった。英国 えいこく 軍 ぐん の分隊 ぶんたい 同士 どうし に巨大 きょだい な距離 きょり があるため、ボーア軍 ぐん の特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい (コマンド部隊 ぶたい )はかなり自由 じゆう に動 うご き回 まわ ることができた。ボーア人 じん 指揮 しき 官 かん も、ゲリラ戦 せん のスタイルを採用 さいよう することに決 き めた。
特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい は、いつでも英国 えいこく 人 じん に対 たい し攻撃 こうげき してよいとの命令 めいれい を与 あた えられており、各人 かくじん の出身 しゅっしん 地区 ちく に派遣 はけん された。彼 かれ らの戦略 せんりゃく は、敵 てき に可能 かのう なかぎりの損害 そんがい を与 あた え、敵 てき の増援 ぞうえん が到着 とうちゃく する前 まえ に移動 いどう するというものであった。西 にし トランスヴァールのボーア軍 ぐん 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい は、1901年 ねん 9月 がつ 以後 いご 非常 ひじょう に活発 かっぱつ に活動 かつどう した。
いくつかの重要 じゅうよう な戦 たたか いが1901年 ねん 9月 がつ から1902年 ねん 3月の間 あいだ に起 お こった。
1901年 ねん 9月30日 にち 、Moedwilで、そして10月24日 にち 、ドリエフォンテーン (Driefontein) で、デ・ラ・レイ 将軍 しょうぐん の軍 ぐん は英軍 えいぐん を攻撃 こうげき するが、強 つよ い抵抗 ていこう に遭 あ い、退却 たいきゃく を余儀 よぎ なくされた。
1902年 ねん 2月 がつ には、次 つぎ の大 おお きな戦 たたか いが起 お こった。2月25日 にち にデ・ラ・レイが、Wolmaranstadの近 ちか くのYsterspruitで英軍 えいぐん を襲撃 しゅうげき したのである。デ・ラ・レイは敵 てき の分隊 ぶんたい を捕虜 ほりょ とし、彼 かれ の率 ひき いる部隊 ぶたい が相当 そうとう の長期間 ちょうきかん にわたって活動 かつどう できるだけの大量 たいりょう の弾薬 だんやく を鹵獲 ろかく することに成功 せいこう した。
デ・ラ・レイのボーア軍 ぐん は、メシュエン卿 きょう (Lord Methuen) に率 ひき いられた英国 えいこく 軍 ぐん をVryburgからKlerksdorpまで追跡 ついせき した。1902年 ねん 3月7日 にち の朝 あさ 、ボーア軍 ぐん はTweeboschで移動 いどう しているメシュエンの後衛 こうえい を攻撃 こうげき した。これにより英軍 えいぐん は混乱 こんらん に陥 おちい り、メシュエンは負傷 ふしょう しボーア軍 ぐん の捕虜 ほりょ となった。Tweeboschの戦 たたか いは、デ・ラ・レイの勝利 しょうり のうちの1つであったが、ボーア軍 ぐん のこの勝利 しょうり は、英軍 えいぐん のより強 つよ い反応 はんのう を引 ひ き出 だ すこととなってしまった。
1902年 ねん 3月 がつ の後半 こうはん には、英軍 えいぐん の大 だい 規模 きぼ な増援 ぞうえん が西 にし トランスヴァールに送 おく られた。英国 えいこく 軍 ぐん が待 ま ちに待 ま った機会 きかい は1902年 ねん 4月 がつ 11日 にち 、Rooiwalで訪 おとず れた。ここでGensの軍 ぐん と合流 ごうりゅう したのである。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍 しょうぐん の軍 ぐん と接触 せっしょく した。英軍 えいぐん 兵士 へいし は山 やま の側 がわ に配置 はいち され、ボーア軍 ぐん の騎馬 きば 攻撃 こうげき を十分 じゅうぶん な距離 きょり を持 も って迎撃 げいげき し、存分 ぞんぶん に打 う ち倒 たお した。これは、西 にし トランスバール戦争 せんそう 、更 さら にはアングロ・ボーア戦争 せんそう の最後 さいご の大 おお きな戦闘 せんとう であった。