トルコ革命 かくめい (トルコかくめい、トルコ独立 どくりつ 戦争 せんそう とも)は、トルコ において、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に敗戦 はいせん した後 のち のオスマン帝国 ていこく 解体 かいたい の危機 きき において、アンカラ に樹立 じゅりつ された大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい 政府 せいふ が祖国 そこく 解放 かいほう 戦争 せんそう に勝利 しょうり 、オスマン帝国 ていこく を打倒 だとう して新 あら たにトルコ共和 きょうわ 国 こく を樹立 じゅりつ する過程 かてい で行 おこな われた一連 いちれん の運動 うんどう 。ムスタファ・ケマル・アタテュルク がその指導 しどう 者 しゃ となり、トルコ共和 きょうわ 国 こく の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。
トルコ革命 かくめい によりトルコは共和 きょうわ 制 せい を宣言 せんげん し、オスマン家 か を頂点 ちょうてん としイスラム教 いすらむきょう を国教 こっきょう とする帝国 ていこく からトルコ民族 みんぞく による近代 きんだい 的 てき ・西欧 せいおう 的 てき ・世俗 せぞく 的 てき な国民 こくみん 国家 こっか への転換 てんかん がはかられた。この革命 かくめい の結果 けっか 、トルコは中東 ちゅうとう 諸国 しょこく において支配 しはい 的 てき なイデオロギー であったイスラムを政治 せいじ の場 ば から分離 ぶんり することに成功 せいこう し、国民 こくみん 国家 こっか の要件 ようけん である均質 きんしつ 化 か された国民 こくみん と自 じ 国民 こくみん による自立 じりつ 的 てき な国民 こくみん 経済 けいざい の創出 そうしゅつ をかなりの程度 ていど に実現 じつげん したが、東部 とうぶ の経済 けいざい 開発 かいはつ の遅 おく れ、都市 とし と農村 のうそん の経済 けいざい 格差 かくさ などの問題 もんだい は先送 さきおく りにされ、クルド人 じん 問題 もんだい やイスラムの社会 しゃかい 参加 さんか をめぐる軋轢 あつれき が21世紀 せいき まで大 おお きな課題 かだい として残 のこ された。
歴史 れきし 学者 がくしゃ の永田 ながた 雄三 ゆうぞう によれば、トルコ革命 かくめい はもっとも狭義 きょうぎ には1922年 ねん から1923年 ねん にかけて行 おこな われたオスマン帝国 ていこく の帝政 ていせい の廃止 はいし とトルコ共和 きょうわ 国 こく の建国 けんこく 宣言 せんげん という事件 じけん を指 さ すが、一般 いっぱん 的 てき にはその後 ご に続 つづ くトルコの近代 きんだい 化 か 改革 かいかく をもトルコ革命 かくめい に含 ふく める。もっとも広義 こうぎ には、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の1919年 ねん から1922年 ねん まで足 あし かけ5年 ねん にわたって繰 く り広 ひろ げられた占領 せんりょう 国 こく に対 たい する祖国 そこく 解放 かいほう 運動 うんどう もトルコ革命 かくめい の一部 いちぶ とみなされる。
セーブル条約 じょうやく 下 した のアナトリア
オスマン帝国 ていこく がムドロス休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を結 むす んで連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく して第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に敗北 はいぼく したとき、広大 こうだい な帝国 ていこく のうちアラブ地域 ちいき は連合 れんごう 国 こく によってほとんど占領 せんりょう されていたが、アナトリア の全域 ぜんいき と東 ひがし トラキア (ルメリア の一部 いちぶ )、北 きた シリア のアレッポ 、ジャズィーラ (現 げん イラク 北部 ほくぶ )のモースル は依然 いぜん としてオスマン軍 ぐん の勢力 せいりょく 下 か に残 のこ っていた。しかし、休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が発効 はっこう すると連合 れんごう 国 こく は休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の条文 じょうぶん を盾 たて に、戦時 せんじ 中 ちゅう の列強 れっきょう 国 こく 同士 どうし の協定 きょうてい に従 したが ってオスマン帝国 ていこく の残存 ざんそん 領土 りょうど に進駐 しんちゅう し、アナトリアはイギリス 、フランス 、イタリア 、ギリシャ によって各 かく 方面 ほうめん ごとに分割 ぶんかつ 占領 せんりょう された。また、これに呼応 こおう してアナトリア半島 はんとう 内 ない のアルメニア人 じん やギリシャ人 じん の中 なか から独立 どくりつ 運動 うんどう に乗 の り出 だ すものが現 あら われ、オスマン帝国 ていこく は残 のこ された領土 りょうど の中核 ちゅうかく をなすトルコ人 じん の居住 きょじゅう 地帯 ちたい でさえほとんど細切 こまぎ れに分断 ぶんだん されようとしていた。
この状況 じょうきょう に対 たい しアナトリア各地 かくち でも分割 ぶんかつ に反対 はんたい する抵抗 ていこう 運動 うんどう が起 お こりつつあったが、帝国 ていこく 政府 せいふ は王朝 おうちょう の保身 ほしん に走 はし って占領 せんりょう 政策 せいさく に迎合 げいごう し、ムスタファ・ケマル 准 じゅん 将 しょう を軍 ぐん 監察 かんさつ 官 かん としてアナトリアに派遣 はけん した。
ところがケマルには反 はん 意 い があり、1919年 ねん 5月19日 にち にアナトリア黒海 こっかい 沿岸 えんがん のサムスン に上陸 じょうりく すると、アナトリアに駐留 ちゅうりゅう する帝国 ていこく 軍 ぐん や活動 かつどう 家 か を結集 けっしゅう して「アナトリア・ルメリア権利 けんり 擁護 ようご 委員 いいん 会 かい 」を起 お こした。同年 どうねん 末 まつ に召集 しょうしゅう された帝都 ていと イスタンブール における帝国 ていこく 議会 ぎかい も権利 けんり 擁護 ようご 委員 いいん 会 かい の影響 えいきょう 下 か に入 はい り、翌 よく 1920年 ねん 1月 がつ 28日 にち 、帝国 ていこく 領 りょう のうちトルコ人 じん が多数 たすう を占 し める地域 ちいき が不可分 ふかぶん であることをうたう「国民 こくみん 誓約 せいやく 」を採択 さいたく した。
イギリスを中心 ちゅうしん とする連合 れんごう 国 こく は3月16日 にち にイスタンブールを占領 せんりょう し、アナトリア西南 せいなん 部 ぶ エ え ーゲ海 げかい 沿岸 えんがん を占領 せんりょう するギリシャ軍 ぐん を抵抗 ていこう 運動 うんどう の強 つよ い内陸 ないりく に向 む かって進軍 しんぐん させるとともに、8月 がつ 10日 とおか に帝国 ていこく 政府 せいふ とセーヴル条約 じょうやく を結 むす んだ。この条約 じょうやく ではトルコ国家 こっか に残 のこ されるのはアナトリア北部 ほくぶ の3分 ぶん の2に過 す ぎず、アナトリア東部 とうぶ にはアルメニア人 じん の国家 こっか を建設 けんせつ することを認 みと めた。旧 きゅう ロシア帝国 ていこく 領 りょう のアルメニア(現 げん アルメニア共和 きょうわ 国 こく 領 りょう )ではダシナク党 とう によるアルメニア第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく が建設 けんせつ されており、東部 とうぶ アナトリアには既 すで にアルメニア軍 ぐん が侵攻 しんこう していた。
これに対 たい し抵抗 ていこう 運動 うんどう の権利 けんり 擁護 ようご 委員 いいん 会 かい はイスタンブールから逃 のが れてきた帝国 ていこく 議会 ぎかい の議員 ぎいん に権利 けんり 擁護 ようご 委員 いいん 会 かい の支部 しぶ で選出 せんしゅつ された議員 ぎいん をあわせ、4月 がつ 23日 にち にアンカラ で「大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい 」を開 ひら いた。大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい はムスタファ・ケマルを議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ し、議長 ぎちょう を指導 しどう 者 しゃ として独自 どくじ の内閣 ないかく と政府 せいふ を持 も つ政府 せいふ に発展 はってん する。
アンカラの大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい 政府 せいふ はロシア のソビエト 政権 せいけん と連絡 れんらく をとり、1920年 ねん 中 ちゅう にキャーズム・カラベキル 将軍 しょうぐん 率 ひき いる東部 とうぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん がダシナク党 とう のアルメニア軍 ぐん を撃退 げきたい 、東部 とうぶ アナトリアを確保 かくほ した。
南部 なんぶ ではキリキア に駐留 ちゅうりゅう してその領有 りょうゆう をねらうフランス軍 ぐん との戦闘 せんとう になった。1920年 ねん 5月 がつ から1921年 ねん 10月 がつ まで続 つづ いた戦争 せんそう はトルコも勝利 しょうり を収 おさ めることができなかったが、21年 ねん 10月 がつ にアンカラ条約 じょうやく を結 むす び、翌 よく 1922年 ねん からフランス軍 ぐん はトルコの南 みなみ に確保 かくほ していたフランス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう シリア へ撤退 てったい を始 はじ めた。
西部 せいぶ 戦線 せんせん では、1921年 ねん にケマルの腹心 ふくしん イスメト が西部 せいぶ 方面 ほうめん 総 そう 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい されてアンカラ政府 せいふ が攻勢 こうせい に転 てん じ、2度 ど にわたってギリシャ軍 ぐん を撃退 げきたい したが、コンスタンティノス1世 せい 国王 こくおう が自 みずか ら指揮 しき を執 と って態勢 たいせい を立 た て直 なお したギリシャ軍 ぐん の逆襲 ぎゃくしゅう によりアンカラ西部 せいぶ の要衝 ようしょう エスキシェヒル を奪 うば われた。
この非常 ひじょう 事態 じたい に対 たい し1921年 ねん 夏 なつ 、ケマルは議会 ぎかい から全 ぜん 軍 ぐん の指揮 しき 権 けん を付与 ふよ されると、サカリヤ川 がわ の戦 たたか いでギリシャ軍 ぐん を敗走 はいそう させた。翌 よく 1922年 ねん 9月9日 にち 、アンカラの大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい 政府 せいふ 軍 ぐん は西南 せいなん アナトリアの拠点 きょてん 都市 とし イズミル を奪還 だっかん し、ギリシャ軍 ぐん をアナトリアから駆逐 くちく した。
ギリシャ軍 ぐん の敗走 はいそう を見 み て連合 れんごう 国 こく はセーヴル条約 じょうやく を放棄 ほうき し、ローザンヌ で再 ふたた び講和 こうわ を行 おこな うことを大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい と帝国 ていこく 政府 せいふ に通告 つうこく した。ケマルらのアンカラ政府 せいふ は帝国 ていこく 政府 せいふ を廃絶 はいぜつ して自 みずか らがトルコ国家 こっか を代表 だいひょう する単独 たんどく の政府 せいふ となる必要 ひつよう を感 かん じ、1922年 ねん 11月1日 にち 、スルタン制 せい とカリフ制 せい を分離 ぶんり し、スルタン制 せい のみを廃止 はいし することを大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい において決議 けつぎ した。こうしてカリフ としてのオスマン帝国 ていこく の君主 くんしゅ を残 のこ したまま、世俗 せぞく 政治 せいじ を行 おこな う政府 せいふ としてのオスマン帝国 ていこく は滅亡 めつぼう し、最後 さいご の皇帝 こうてい となったメフメト6世 せい は亡命 ぼうめい した。帝国 ていこく 政府 せいふ は祖国 そこく 解放 かいほう 戦争 せんそう 中 ちゅう に王朝 おうちょう の保全 ほぜん のみを図 はか って占領 せんりょう 国 こく の意 い に迎合 げいごう し、アンカラ政府 せいふ を攻撃 こうげき する布告 ふこく を行 おこな ったりしていたため既 すで にトルコ人 じん の支持 しじ を失 うしな い、廃止 はいし に反対 はんたい する声 こえ もほとんどなかった。
1923年 ねん 、アンカラ政府 せいふ は連合 れんごう 国 こく との間 あいだ にローザンヌ条約 じょうやく を締結 ていけつ し、トルコ国家 こっか の独立 どくりつ 承認 しょうにん とともに関税 かんぜい 自主権 じしゅけん 回復 かいふく 、治外法権 ちがいほうけん 撤廃 てっぱい など不 ふ 平等 びょうどう な国際 こくさい 関係 かんけい を廃止 はいし することに成功 せいこう した。一連 いちれん の成功 せいこう で救国 きゅうこく の英雄 えいゆう としての地位 ちい を確実 かくじつ なものとしたケマルは次第 しだい に強 つよ い指導 しどう 力 りょく を発揮 はっき するようになり、同年 どうねん 10月29日 にち 、大 だい 国民 こくみん 議会 ぎかい に共和 きょうわ 制 せい 宣言 せんげん を可決 かけつ させ、自 みずか らは大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。
これに対 たい し、強引 ごういん に共和 きょうわ 制 せい 宣言 せんげん を可決 かけつ させたこと、カリフが国家 こっか 元首 げんしゅ とされなかったことに対 たい する批判 ひはん が起 お こったが、ケマルはこれを強権 きょうけん 的 てき に押 お さえ込 こ むと、1924年 ねん 3月3日 にち にはカリフ制 せい の廃止 はいし (英語 えいご 版 ばん ) も可決 かけつ させた。オスマン家 か の人間 にんげん は全 すべ て追放 ついほう され、翌年 よくねん に起 お こったカリフの復活 ふっかつ を求 もと めるクルド人 じん の反乱 はんらん (シャイフ・サイードの反乱 はんらん )も鎮圧 ちんあつ した。続 つづ いて祖国 そこく 解放 かいほう 戦争 せんそう 時 じ の独立 どくりつ 法廷 ほうてい の復活 ふっかつ により議会 ぎかい 内 ない の反 はん ケマル派 は が排斥 はいせき され、専権 せんけん を得 え たケマルのもと、新生 しんせい トルコ共和 きょうわ 国 こく はオスマン帝国 ていこく の残滓 ざんし を振 ふ り払 はら う諸 しょ 改革 かいかく に乗 の り出 だ す。
アルファベット改革 かいかく の前 まえ に公開 こうかい された1927年 ねん からの地図 ちず でのトルコの擬人 ぎじん 化 か
1924年 ねん のカリフ制 せい の廃止 はいし とともに、ワクフ を管理 かんり するワクフ省 しょう の廃止 はいし 、シャリーア の廃止 はいし と憲法 けんぽう の制定 せいてい 、イスラム学院 がくいん (メドレセ )の閉鎖 へいさ が行 おこな われ、政治 せいじ と教育 きょういく の世俗 せぞく 化 か がはかられた。1925年 ねん には神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 教団 きょうだん の修行 しゅぎょう 場 じょう が閉鎖 へいさ され、フェズ が廃止 はいし されて着衣 ちゃくい の西洋 せいよう 化 か が強要 きょうよう された。
続 つづ いて民法 みんぽう が改正 かいせい され、一夫多妻 いっぷたさい 制 せい が禁 きん じられた。さらにアラビア文字 もじ とヒジュラ暦 れき が廃止 はいし され、トルコ語 ご の表記 ひょうき にはラテン文字 もじ 、暦 こよみ にはグレゴリオ暦 れき を用 もち いることが定 さだ められた。1928年 ねん 、脱 だつ イスラム化 か 改革 かいかく の集大成 しゅうたいせい として憲法 けんぽう のイスラムを国教 こっきょう と定 さだ める条項 じょうこう が削除 さくじょ された。しかし、宗教 しゅうきょう が政府 せいふ から一切 いっさい 切 き り離 はな されたわけではなく、イスラムを政府 せいふ の意図 いと の及 およ ぶ範囲 はんい で管理 かんり するために宗務庁 しゅうむちょう が設立 せつりつ され、モスク やクルアーン (コーラン)の読 よ み書 か きを教 おし える学校 がっこう がその管轄 かんかつ 下 か に置 お かれた。オスマン帝国 ていこく の皇帝 こうてい がカリフとして金曜日 きんようび の集団 しゅうだん 礼拝 れいはい を行 おこ なっていたアヤソフィア も1934年 ねん には同日 どうじつ 「アタテュルク」の名字 みょうじ を得 え たケマルによって非 ひ 宗教 しゅうきょう 的 てき な博物館 はくぶつかん へ転用 てんよう された。
経済 けいざい の面 めん では、当初 とうしょ はオスマン帝国 ていこく 末期 まっき から現 あら われつつあった民族 みんぞく 資本 しほん の育成 いくせい をはかり、トルコ勧業 かんぎょう 銀行 ぎんこう (Türkiye İş Bankası) の設立 せつりつ 、産業 さんぎょう 奨励 しょうれい 法 ほう の制定 せいてい が行 おこな われた。トルコはこうして私企業 しきぎょう による国民 こくみん 経済 けいざい の樹立 じゅりつ を目指 めざ したが、大 おお きな成果 せいか があがらないまま、1929年 ねん の世界 せかい 大 だい 恐慌 きょうこう に巻 ま き込 こ まれた。恐慌 きょうこう はトルコ経済 けいざい を支 ささ えた農産物 のうさんぶつ の輸出 ゆしゅつ に大 だい 打撃 だげき を与 あた えたが、これをきっかけにトルコ共和 きょうわ 国 こく はソビエト連邦 れんぽう の計画 けいかく 経済 けいざい の影響 えいきょう を受 う けた「国家 こっか 資本 しほん 主義 しゅぎ 」政策 せいさく に転換 てんかん した。1930年代 ねんだい のトルコは国立 こくりつ 銀行 ぎんこう を次々 つぎつぎ に設立 せつりつ するとともに、外国 がいこく 系 けい 企業 きぎょう を買収 ばいしゅう して国営 こくえい 企業 きぎょう を建設 けんせつ し、国家 こっか 資本 しほん による国民 こくみん 経済 けいざい の創出 そうしゅつ を押 お し進 すす めた。
文化 ぶんか 的 てき には、イスラムに代 か わる国民 こくみん 統合 とうごう と西洋 せいよう 化 か 改革 かいかく を支 ささ えるイデオロギーが必要 ひつよう となった。そのために革命 かくめい の英雄 えいゆう としてのムスタファ・ケマルに対 たい する個人 こじん 崇拝 すうはい が起 お こり、1934年 ねん の創 そう 姓 せい 法 ほう 制定 せいてい によるトルコ人 じん の姓 せい の義務付 ぎむづ けにともない、ケマルには議会 ぎかい によって「父 ちち なるトルコ人 じん 」を意味 いみ する「アタテュルク」の姓 せい が贈 おく られた。革命 かくめい を貫 つらぬ く共和 きょうわ 主義 しゅぎ 、民族 みんぞく 主義 しゅぎ 、階級 かいきゅう 闘争 とうそう の否定 ひてい を意味 いみ する人民 じんみん 主義 しゅぎ 、世俗 せぞく 主義 しゅぎ 、国家 こっか 資本 しほん 主義 しゅぎ エタティズム、帝国 ていこく 主義 しゅぎ への抵抗 ていこう やケマル主義 しゅぎ の継続 けいぞく を意味 いみ する革命 かくめい 主義 しゅぎ などの原理 げんり はまとめて「6本 ほん の矢 や 」と呼 よ ばれるようになり、共和 きょうわ 人民 じんみん 党 とう 一 いち 党 とう 支配 しはい 下 か での絶対 ぜったい の国是 こくぜ とされた。また、それまでトルコ人 じん としての意識 いしき が希薄 きはく であった国民 こくみん に、トルコ国家 こっか を構成 こうせい するトルコ国民 こくみん としての意識 いしき を植 う え付 つ けるために、学校 がっこう では中央 ちゅうおう アジアからの移住 いじゅう やアナトリアの古代 こだい 文明 ぶんめい をトルコ民族 みんぞく と結 むす びつける「トルコ史 し テーゼ」に基 もと づくトルコ民族 みんぞく 史 し が教育 きょういく されるようになっていった。
これら一連 いちれん の改革 かいかく により、ケマル・アタテュルクの亡 な くなった1938年 ねん までにトルコ国民 こくみん による国民 こくみん 国家 こっか と国民 こくみん 経済 けいざい の創出 そうしゅつ がかなりの段階 だんかい まで進 すす み、トルコ革命 かくめい は一定 いってい の成功 せいこう を収 おさ めたと評価 ひょうか される。
しかし、国民 こくみん 経済 けいざい 創出 そうしゅつ の過程 かてい では農村 のうそん よりも都市 とし 、農民 のうみん や労働 ろうどう 者 しゃ よりも地主 じぬし や民族 みんぞく 資本 しほん 家 か のみが経済 けいざい 的 てき に優遇 ゆうぐう され、特 とく にトルコ国民 こくみん の大 だい 多数 たすう を占 し める地方 ちほう の農民 のうみん の地位 ちい はあまり改善 かいぜん されなかった。トルコ革命 かくめい を積極 せっきょく 的 てき に支持 しじ したのは実際 じっさい には一 いち 握 にぎ りの都市 とし のエリート層 そう に過 す ぎず、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を経 へ て多党 たとう 制 せい が導入 どうにゅう されると、アタテュルクの遺 のこ した共和 きょうわ 人民 じんみん 党 とう よりもイスラムの尊重 そんちょう や自由 じゆう 経済 けいざい の導入 どうにゅう を説 と く保守 ほしゅ 的 てき 知識 ちしき 人 じん を中核 ちゅうかく とし、地主 じぬし や資本 しほん 家 か の利害 りがい を代表 だいひょう する民主党 みんしゅとう にむしろ国民 こくみん の支持 しじ が集 あつ まった。1950年 ねん に民主党 みんしゅとう が政権 せいけん を奪 うば うと国家 こっか 資本 しほん 主義 しゅぎ や世俗 せぞく 化 か の路線 ろせん は大幅 おおはば に緩 ゆる められ、トルコ革命 かくめい の敷 し いたトルコ共和 きょうわ 国 こく の基本 きほん 路線 ろせん は変容 へんよう を遂 と げていった。
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