(Translated by https://www.hiragana.jp/)
トルコ革命 - Wikipedia コンテンツにスキップ

トルコ革命かくめい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
トルコ革命かくめい

戦争せんそう:トルコ革命かくめい
年月日ねんがっぴ1919ねん5月19にち - 1922ねん10月11にち1923ねん7がつ24にち
場所ばしょアナトリア半島はんとう南西なんせいコーカサスジャズィーラひがしトラキア
結果けっかトルコだい国民こくみん議会ぎかい勝利しょうり
  • オスマン帝国ていこく打倒だとうしてあらたなトルコ共和きょうわこく樹立じゅりつ
  • ムスリムにわる「トルコ国民こくみん意識いしき形成けいせい
交戦こうせん勢力せいりょく
アンカラ政府せいふ

その:
アゼルバイジャン民主みんしゅ共和きょうわこく
アラス共和きょうわこく
クルディスタン王国おうこく英語えいごばん
支援しえんこく:
ロシアSFSR
ウクライナSSR
アゼルバイジャンSSR
ブハラPSR
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
フランスの旗 フランス共和きょうわこく
アフガニスタン首長しゅちょうこく

ギリシャ王国おうこく
フランスの旗 フランス共和きょうわこく

イギリスの旗 イギリス

アルメニア共和きょうわこく 支援しえんこく:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ロシアの旗 デニーキンの軍隊ぐんたい


イスタンブール政府せいふ


グルジア民主みんしゅ共和きょうわこく

指導しどうしゃ指揮しきかん
ムスタファ・ケマル・アタテュルク
フェヴズィ・チャクマク
イスメト・イノニュ
キャーズム・カラベキル
ファフレッティン・アルタイ英語えいごばん
アリ・フアト・ジェベソイ
レフェト・ベイ英語えいごばん
ヌーレッディン・パシャ
アリ・イフサン・サービス英語えいごばん
トパル・オスマン英語えいごばん
コンスタンティノス1せい
アレクサンドロス1せい
エレフテリオス・ヴェニゼロス
アナスタシオス・パプリアス英語えいごばん
ゲオルギオス・ハタジアネスチス英語えいごばん
レオニダス・パラスケヴォポウロス英語えいごばん
キモン・ディゲニス英語えいごばん
ニコラオス・トリクピス英語えいごばん
フランスの旗 アンリ・グロー英語えいごばん
ドラスタマット・カナヤン英語えいごばん
モヴセス・シリキヤン英語えいごばん
イギリスの旗 ジョージ・ミルン英語えいごばん

メフメト6せい
ダーマート・フェリト・パシャ英語えいごばん
スレイマン・シェフィク・パシャ英語えいごばん
アンザウル・アフメド・パシャ英語えいごばん

トルコ革命かくめい(トルコかくめい、トルコ独立どくりつ戦争せんそうとも)は、トルコにおいて、だいいち世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんしたのちオスマン帝国ていこく解体かいたい危機ききにおいて、アンカラ樹立じゅりつされただい国民こくみん議会ぎかい政府せいふ祖国そこく解放かいほう戦争せんそう勝利しょうり、オスマン帝国ていこく打倒だとうしてあらたにトルコ共和きょうわこく樹立じゅりつする過程かていおこなわれた一連いちれん運動うんどうムスタファ・ケマル・アタテュルクがその指導しどうしゃとなり、トルコ共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

トルコ革命かくめいによりトルコは共和きょうわせい宣言せんげんし、オスマン頂点ちょうてんとしイスラム教いすらむきょう国教こっきょうとする帝国ていこくからトルコ民族みんぞくによる近代きんだいてき西欧せいおうてき世俗せぞくてき国民こくみん国家こっかへの転換てんかんがはかられた。この革命かくめい結果けっか、トルコは中東ちゅうとう諸国しょこくにおいて支配しはいてきイデオロギーであったイスラムを政治せいじから分離ぶんりすることに成功せいこうし、国民こくみん国家こっか要件ようけんである均質きんしつされた国民こくみん国民こくみんによる自立じりつてき国民こくみん経済けいざい創出そうしゅつをかなりの程度ていど実現じつげんしたが、東部とうぶ経済けいざい開発かいはつおくれ、都市とし農村のうそん経済けいざい格差かくさなどの問題もんだい先送さきおくりにされ、クルドじん問題もんだいやイスラムの社会しゃかい参加さんかをめぐる軋轢あつれき21世紀せいきまでおおきな課題かだいとしてのこされた。

トルコ革命かくめい展開てんかい

[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃ永田ながた雄三ゆうぞうによれば、トルコ革命かくめいはもっとも狭義きょうぎには1922ねんから1923ねんにかけておこなわれたオスマン帝国ていこく帝政ていせい廃止はいしとトルコ共和きょうわこく建国けんこく宣言せんげんという事件じけんすが、一般いっぱんてきにはそのつづくトルコの近代きんだい改革かいかくをもトルコ革命かくめいふくめる。もっとも広義こうぎには、終戦しゅうせん直後ちょくご1919ねんから1922ねんまであしかけ5ねんにわたってひろげられた占領せんりょうこくたいする祖国そこく解放かいほう運動うんどうもトルコ革命かくめい一部いちぶとみなされる。

祖国そこく解放かいほう戦争せんそう

[編集へんしゅう]
セーブル条約じょうやくしたのアナトリア

オスマン帝国ていこくムドロス休戦きゅうせん協定きょうていむすんで連合れんごうこく降伏ごうぶくしてだいいち世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくしたとき、広大こうだい帝国ていこくのうちアラブ地域ちいき連合れんごうこくによってほとんど占領せんりょうされていたが、アナトリア全域ぜんいきひがしトラキアルメリア一部いちぶ)、きたシリアアレッポジャズィーラげんイラク北部ほくぶ)のモースル依然いぜんとしてオスマンぐん勢力せいりょくのこっていた。しかし、休戦きゅうせん協定きょうてい発効はっこうすると連合れんごうこく休戦きゅうせん協定きょうてい条文じょうぶんたてに、戦時せんじちゅう列強れっきょうこく同士どうし協定きょうていしたがってオスマン帝国ていこく残存ざんそん領土りょうど進駐しんちゅうし、アナトリアはイギリスフランスイタリアギリシャによってかく方面ほうめんごとに分割ぶんかつ占領せんりょうされた。また、これに呼応こおうしてアナトリア半島はんとうないアルメニアじんギリシャじんなかから独立どくりつ運動うんどうすものがあらわれ、オスマン帝国ていこくのこされた領土りょうど中核ちゅうかくをなすトルコじん居住きょじゅう地帯ちたいでさえほとんど細切こまぎれに分断ぶんだんされようとしていた。

この状況じょうきょうたいしアナトリア各地かくちでも分割ぶんかつ反対はんたいする抵抗ていこう運動うんどうこりつつあったが、帝国ていこく政府せいふ王朝おうちょう保身ほしんはしって占領せんりょう政策せいさく迎合げいごうし、ムスタファ・ケマルじゅんしょうぐん監察かんさつかんとしてアナトリアに派遣はけんした。

ところがケマルにははんがあり、1919ねん5月19にちにアナトリア黒海こっかい沿岸えんがんサムスン上陸じょうりくすると、アナトリアに駐留ちゅうりゅうする帝国ていこくぐん活動かつどう結集けっしゅうして「アナトリア・ルメリア権利けんり擁護ようご委員いいんかい」をこした。同年どうねんまつ召集しょうしゅうされた帝都ていとイスタンブールにおける帝国ていこく議会ぎかい権利けんり擁護ようご委員いいんかい影響えいきょうはいり、よく1920ねん1がつ28にち帝国ていこくりょうのうちトルコじん多数たすうめる地域ちいき不可分ふかぶんであることをうたう「国民こくみん誓約せいやく」を採択さいたくした。

イギリスを中心ちゅうしんとする連合れんごうこく3月16にちにイスタンブールを占領せんりょうし、アナトリア西南せいなんゲ海げかい沿岸えんがん占領せんりょうするギリシャぐん抵抗ていこう運動うんどうつよ内陸ないりくかって進軍しんぐんさせるとともに、8がつ10日とおか帝国ていこく政府せいふセーヴル条約じょうやくむすんだ。この条約じょうやくではトルコ国家こっかのこされるのはアナトリア北部ほくぶの3ぶんの2にぎず、アナトリア東部とうぶにはアルメニアじん国家こっか建設けんせつすることをみとめた。きゅうロシア帝国ていこくりょうのアルメニア(げんアルメニア共和きょうわこくりょう)ではダシナクとうによるアルメニアだいいち共和きょうわこく建設けんせつされており、東部とうぶアナトリアにはすでにアルメニアぐん侵攻しんこうしていた。

これにたい抵抗ていこう運動うんどう権利けんり擁護ようご委員いいんかいはイスタンブールからのがれてきた帝国ていこく議会ぎかい議員ぎいん権利けんり擁護ようご委員いいんかい支部しぶ選出せんしゅつされた議員ぎいんをあわせ、4がつ23にちアンカラで「だい国民こくみん議会ぎかい」をひらいた。だい国民こくみん議会ぎかいはムスタファ・ケマルを議長ぎちょう選出せんしゅつし、議長ぎちょう指導しどうしゃとして独自どくじ内閣ないかく政府せいふ政府せいふ発展はってんする。

東部とうぶ戦線せんせん

[編集へんしゅう]

アンカラのだい国民こくみん議会ぎかい政府せいふロシアソビエト政権せいけん連絡れんらくをとり、1920ねんちゅうキャーズム・カラベキル将軍しょうぐんひきいる東部とうぶ方面ほうめんぐんがダシナクとうのアルメニアぐん撃退げきたい東部とうぶアナトリアを確保かくほした。

南部なんぶ戦線せんせん

[編集へんしゅう]

南部なんぶではキリキア駐留ちゅうりゅうしてその領有りょうゆうをねらうフランスぐんとの戦闘せんとうになった。1920ねん5がつから1921ねん10がつまでつづいた戦争せんそうはトルコも勝利しょうりおさめることができなかったが、21ねん10がつアンカラ条約じょうやくむすび、よく1922ねんからフランスぐんはトルコのみなみ確保かくほしていたフランス委任いにん統治とうちりょうシリア撤退てったいはじめた。

西部せいぶ戦線せんせん

[編集へんしゅう]

西部せいぶ戦線せんせんでは、1921ねんにケマルの腹心ふくしんイスメト西部せいぶ方面ほうめんそう司令しれいかん任命にんめいされてアンカラ政府せいふ攻勢こうせいてんじ、2にわたってギリシャぐん撃退げきたいしたが、コンスタンティノス1せい国王こくおうみずか指揮しきって態勢たいせいなおしたギリシャぐん逆襲ぎゃくしゅうによりアンカラ西部せいぶ要衝ようしょうエスキシェヒルうばわれた。

この非常ひじょう事態じたいたいし1921ねんなつ、ケマルは議会ぎかいからぜんぐん指揮しきけん付与ふよされると、サカリヤがわたたかいでギリシャぐん敗走はいそうさせた。よく1922ねん9月9にち、アンカラのだい国民こくみん議会ぎかい政府せいふぐん西南せいなんアナトリアの拠点きょてん都市としイズミル奪還だっかんし、ギリシャぐんをアナトリアから駆逐くちくした。

オスマン帝国ていこく廃絶はいぜつ

[編集へんしゅう]

ギリシャぐん敗走はいそう連合れんごうこくはセーヴル条約じょうやく放棄ほうきし、ローザンヌふたた講和こうわおこなうことをだい国民こくみん議会ぎかい帝国ていこく政府せいふ通告つうこくした。ケマルらのアンカラ政府せいふ帝国ていこく政府せいふ廃絶はいぜつしてみずからがトルコ国家こっか代表だいひょうする単独たんどく政府せいふとなる必要ひつようかんじ、1922ねん11月1にち、スルタンせいとカリフせい分離ぶんりし、スルタンせいのみを廃止はいしすることをだい国民こくみん議会ぎかいにおいて決議けつぎした。こうしてカリフとしてのオスマン帝国ていこく君主くんしゅのこしたまま、世俗せぞく政治せいじおこな政府せいふとしてのオスマン帝国ていこく滅亡めつぼうし、最後さいご皇帝こうていとなったメフメト6せい亡命ぼうめいした。帝国ていこく政府せいふ祖国そこく解放かいほう戦争せんそうちゅう王朝おうちょう保全ほぜんのみをはかって占領せんりょうこく迎合げいごうし、アンカラ政府せいふ攻撃こうげきする布告ふこくおこなったりしていたためすでにトルコじん支持しじうしない、廃止はいし反対はんたいするこえもほとんどなかった。

1923ねん、アンカラ政府せいふ連合れんごうこくとのあいだローザンヌ条約じょうやく締結ていけつし、トルコ国家こっか独立どくりつ承認しょうにんとともに関税かんぜい自主権じしゅけん回復かいふく治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいなど平等びょうどう国際こくさい関係かんけい廃止はいしすることに成功せいこうした。一連いちれん成功せいこう救国きゅうこく英雄えいゆうとしての地位ちい確実かくじつなものとしたケマルは次第しだいつよ指導しどうりょく発揮はっきするようになり、同年どうねん10月29にちだい国民こくみん議会ぎかい共和きょうわせい宣言せんげん可決かけつさせ、みずからは大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

これにたいし、強引ごういん共和きょうわせい宣言せんげん可決かけつさせたこと、カリフが国家こっか元首げんしゅとされなかったことにたいする批判ひはんこったが、ケマルはこれを強権きょうけんてきさえむと、1924ねん3月3にちにはカリフせい廃止はいし英語えいごばん可決かけつさせた。オスマン人間にんげんすべ追放ついほうされ、翌年よくねんこったカリフの復活ふっかつもとめるクルドじん反乱はんらん(シャイフ・サイードの反乱はんらん)も鎮圧ちんあつした。つづいて祖国そこく解放かいほう戦争せんそう独立どくりつ法廷ほうてい復活ふっかつにより議会ぎかいないはんケマル排斥はいせきされ、専権せんけんたケマルのもと、新生しんせいトルコ共和きょうわこくはオスマン帝国ていこく残滓ざんしはらしょ改革かいかくす。

トルコ共和きょうわこく改革かいかく

[編集へんしゅう]
アルファベット改革かいかくまえ公開こうかいされた1927ねんからの地図ちずでのトルコの擬人ぎじん

1924ねんのカリフせい廃止はいしとともに、ワクフ管理かんりするワクフしょう廃止はいしシャリーア廃止はいし憲法けんぽう制定せいてい、イスラム学院がくいんメドレセ)の閉鎖へいさおこなわれ、政治せいじ教育きょういく世俗せぞくがはかられた。1925ねんには神秘しんぴ主義しゅぎ教団きょうだん修行しゅぎょうじょう閉鎖へいさされ、フェズ廃止はいしされて着衣ちゃくい西洋せいよう強要きょうようされた。

つづいて民法みんぽう改正かいせいされ、一夫多妻いっぷたさいせいきんじられた。さらにアラビア文字もじヒジュラれき廃止はいしされ、トルコ表記ひょうきにはラテン文字もじこよみにはグレゴリオれきもちいることがさだめられた。1928ねんだつイスラム改革かいかく集大成しゅうたいせいとして憲法けんぽうのイスラムを国教こっきょうさだめる条項じょうこう削除さくじょされた。しかし、宗教しゅうきょう政府せいふから一切いっさいはなされたわけではなく、イスラムを政府せいふ意図いとおよ範囲はんい管理かんりするために宗務庁しゅうむちょう設立せつりつされ、モスククルアーン(コーラン)のきをおしえる学校がっこうがその管轄かんかつかれた。オスマン帝国ていこく皇帝こうていがカリフとして金曜日きんようび集団しゅうだん礼拝れいはいおこなっていたアヤソフィアも1934ねんには同日どうじつ「アタテュルク」の名字みょうじたケマルによって宗教しゅうきょうてき博物館はくぶつかん転用てんようされた。

経済けいざいめんでは、当初とうしょはオスマン帝国ていこく末期まっきからあらわれつつあった民族みんぞく資本しほん育成いくせいをはかり、トルコ勧業かんぎょう銀行ぎんこう (Türkiye İş Bankası) の設立せつりつ産業さんぎょう奨励しょうれいほう制定せいていおこなわれた。トルコはこうして私企業しきぎょうによる国民こくみん経済けいざい樹立じゅりつ目指めざしたが、おおきな成果せいかがあがらないまま、1929ねん世界せかいだい恐慌きょうこうまれた。恐慌きょうこうはトルコ経済けいざいささえた農産物のうさんぶつ輸出ゆしゅつだい打撃だげきあたえたが、これをきっかけにトルコ共和きょうわこくソビエト連邦れんぽう計画けいかく経済けいざい影響えいきょうけた「国家こっか資本しほん主義しゅぎ政策せいさく転換てんかんした。1930年代ねんだいのトルコは国立こくりつ銀行ぎんこう次々つぎつぎ設立せつりつするとともに、外国がいこくけい企業きぎょう買収ばいしゅうして国営こくえい企業きぎょう建設けんせつし、国家こっか資本しほんによる国民こくみん経済けいざい創出そうしゅつすすめた。

文化ぶんかてきには、イスラムにわる国民こくみん統合とうごう西洋せいよう改革かいかくささえるイデオロギーが必要ひつようとなった。そのために革命かくめい英雄えいゆうとしてのムスタファ・ケマルにたいする個人こじん崇拝すうはいこり、1934ねんそうせいほう制定せいていによるトルコじんせい義務付ぎむづけにともない、ケマルには議会ぎかいによって「ちちなるトルコじん」を意味いみする「アタテュルク」のせいおくられた。革命かくめいつらぬ共和きょうわ主義しゅぎ民族みんぞく主義しゅぎ階級かいきゅう闘争とうそう否定ひてい意味いみする人民じんみん主義しゅぎ世俗せぞく主義しゅぎ国家こっか資本しほん主義しゅぎエタティズム、帝国ていこく主義しゅぎへの抵抗ていこうやケマル主義しゅぎ継続けいぞく意味いみする革命かくめい主義しゅぎなどの原理げんりはまとめて「6ほん」とばれるようになり、共和きょうわ人民じんみんとういちとう支配しはいでの絶対ぜったい国是こくぜとされた。また、それまでトルコじんとしての意識いしき希薄きはくであった国民こくみんに、トルコ国家こっか構成こうせいするトルコ国民こくみんとしての意識いしきけるために、学校がっこうでは中央ちゅうおうアジアからの移住いじゅうやアナトリアの古代こだい文明ぶんめいをトルコ民族みんぞくむすびつける「トルコテーゼ」にもとづくトルコ民族みんぞく教育きょういくされるようになっていった。

これら一連いちれん改革かいかくにより、ケマル・アタテュルクのくなった1938ねんまでにトルコ国民こくみんによる国民こくみん国家こっか国民こくみん経済けいざい創出そうしゅつがかなりの段階だんかいまですすみ、トルコ革命かくめい一定いってい成功せいこうおさめたと評価ひょうかされる。

しかし、国民こくみん経済けいざい創出そうしゅつ過程かていでは農村のうそんよりも都市とし農民のうみん労働ろうどうしゃよりも地主じぬし民族みんぞく資本しほんのみが経済けいざいてき優遇ゆうぐうされ、とくにトルコ国民こくみんだい多数たすうめる地方ちほう農民のうみん地位ちいはあまり改善かいぜんされなかった。トルコ革命かくめい積極せっきょくてき支持しじしたのは実際じっさいにはいちにぎりの都市としのエリートそうぎず、だい世界せかい大戦たいせん多党たとうせい導入どうにゅうされると、アタテュルクののこした共和きょうわ人民じんみんとうよりもイスラムの尊重そんちょう自由じゆう経済けいざい導入どうにゅう保守ほしゅてき知識ちしきじん中核ちゅうかくとし、地主じぬし資本しほん利害りがい代表だいひょうする民主党みんしゅとうにむしろ国民こくみん支持しじあつまった。1950ねん民主党みんしゅとう政権せいけんうばうと国家こっか資本しほん主義しゅぎ世俗せぞく路線ろせん大幅おおはばゆるめられ、トルコ革命かくめいいたトルコ共和きょうわこく基本きほん路線ろせん変容へんようげていった。

トルコ革命かくめい題材だいざいとした文学ぶんがく作品さくひん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]