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第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう (だいいちじバルカンせんそう)は、1912年 ねん 10月 がつ から1913年 ねん 5月 がつ まで行 おこな われた、オスマン帝国 ていこく に対 たい するバルカン同盟 どうめい (セルビア 、モンテネグロ 、ギリシャ 、ブルガリア )の戦争 せんそう である。バルカン連合 れんごう 軍 ぐん は、兵員 へいいん 数 すう ででも戦略 せんりゃく 的 てき にも劣勢 れっせい なオスマン軍 ぐん に勝利 しょうり し、迅速 じんそく な成功 せいこう を成 な し遂 と げた。戦争 せんそう の結果 けっか 、欧州 おうしゅう に残 のこ るオスマン帝国 ていこく の領地 りょうち は殆 ほとん ど連合 れんごう 軍 ぐん の手中 しゅちゅう に収 おさ められた。続 つづ いてアルバニア の独立 どくりつ にも結 むす び付 つ いた。成功 せいこう にもかかわらずブルガリアは和平 わへい とオスマンの脅威 きょうい が去 さ ったことで不満 ふまん を持 も ち、まもなく第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう を始 はじ め、今度 こんど は第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう の連合 れんごう 軍 ぐん と闘 たたか うことになった。
イングランドの地図 ちず 製作 せいさく 者 しゃ エドワード=スタンフォード によるバルカン半島 ばるかんはんとう の民族 みんぞく 構成 こうせい 地図 ちず
バルカン 諸国 しょこく はオスマン帝国 ていこく 支配 しはい 下 か のルメリア (いわゆる東 ひがし ルメリ自治 じち 州 しゅう )、トラキア 、マケドニア をめぐって緊張 きんちょう 関係 かんけい にあったが、19世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう に列強 れっきょう が介入 かいにゅう したため、いくぶん緊張 きんちょう は和 やわ らいでいた。列強 れっきょう はこれらの地域 ちいき に対 たい し、キリスト教徒 きりすときょうと 多数 たすう 派 は を保護 ほご し現状 げんじょう を維持 いじ しようとしていたのである。1867年 ねん までにセルビア とモンテネグロ は事実 じじつ 上 じょう 独立 どくりつ しており、1878年 ねん のベルリン条約 じょうやく でその独立 どくりつ が確認 かくにん された。1908年 ねん 7月 がつ に青年 せいねん トルコ革命 かくめい が発生 はっせい し、青年 せいねん トルコ党 とう がスルタンに対 たい して停止 ていし 中 ちゅう の憲法 けんぽう を復活 ふっかつ するよう要求 ようきゅう すると、オスマン帝国 ていこく の支配 しはい 力 りょく には疑問 ぎもん が持 も たれるようになった。
セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナ に対 たい して領土 りょうど 的 てき な野心 やしん を持 も っていた。ところが1908年 ねん 10月 がつ のボスニア危機 きき でオーストリア がこの地域 ちいき を正式 せいしき に領土 りょうど に組 く み込 こ んだ。このため、セルビアの野心 やしん は阻止 そし されることとなった。そのためセルビアはこの時期 じき 、南方 なんぽう に拡大 かくだい しようと考 かんが えた。一方 いっぽう 青年 せいねん トルコ党 とう は、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合 へいごう 後 ご 、ボスニアのムスリムをオスマン帝国 ていこく に移住 いじゅう させようとした。オスマン当局 とうきょく により移住 いじゅう の適地 てきち としてムスリムが少 すく ない北 きた マケドニアが選 えら ばれたが、この選択 せんたく こそが帝国 ていこく に破滅 はめつ をもたらした。移住 いじゅう 者 しゃ たちはその地域 ちいき に住 す んでいたアルバニア人 じん ムスリムとたやすく融合 ゆうごう した。1912年 ねん 春 はる にアルバニア人 じん たちが反乱 はんらん を起 お こすが、その前後 ぜんご の暴動 ぼうどう にボスニアからの移住 いじゅう 者 しゃ たちも参加 さんか した。政府 せいふ 軍 ぐん のアルバニア人 じん たちの中 なか からも反乱 はんらん に荷担 かたん するものが出 で た。
1912年 ねん 5月 がつ 、アルバニア人 じん 騎兵 きへい 部隊 ぶたい (ハミディ)の反乱 はんらん 軍 ぐん が、元 もと スルタンのアブデュルハミト2世 せい を復位 ふくい させようとして、青年 せいねん トルコ党 とう 軍 ぐん をスコピエ から追放 ついほう し、南方 みなかた マナスティル(現在 げんざい のビトラ )まで進出 しんしゅつ した。彼 かれ らに対 たい し青年 せいねん トルコ党 とう は1912年 ねん 6月 がつ 、広大 こうだい な地域 ちいき への影響 えいきょう 力 りょく ある自治 じち を認 みと めざるを得 え なかった。セルビアはアルバニアのカトリックやハミディの反乱 はんらん を軍事 ぐんじ 的 てき に援助 えんじょ し、主立 おもだ ったリーダーたちには秘密裏 ひみつり にエージェントを送 おく り、この反乱 はんらん を戦争 せんそう の口実 こうじつ にした。セルビア、モンテネグロ、ギリシア、ブルガリアは、すべて、1912年 ねん のアルバニア人 じん 反乱 はんらん が起 お こるよりも前 まえ からオスマン帝国 ていこく に対 たい する攻撃 こうげき の可能 かのう 性 せい について議論 ぎろん していた。そしてセルビアとモンテネグロの公的 こうてき な合意 ごうい は3月 がつ 7日 にち に調印 ちょういん されていた。1912年 ねん 10月 がつ 18日 にち 、セルビアのペータル1世 せい は宣言 せんげん を発 はっ した。「セルビアの人々 ひとびと へ」と題 だい した宣言 せんげん は、セルビア人 じん と同様 どうよう にアルバニア人 じん を支援 しえん するということを宣言 せんげん していた:
トルコ政府 せいふ は、自国 じこく の市民 しみん に対 たい する義務 ぎむ について何 なん ら関心 かんしん がないことを明 あき らかにしたうえ、どんな不満 ふまん や提案 ていあん に対 たい しても聞 き く耳 みみ を持 も とうとはしない。事態 じたい は収拾 しゅうしゅう がつかなくなっており、だれもがヨーロッパにおけるトルコの状況 じょうきょう に満足 まんぞく していない。それはセルビア人 じん にもギリシア人 じん にも、そしてアルバニア人 じん にとっても耐 た えがたいことになっている。よって、偉大 いだい なる神 かみ の名 な において、私 わたし は我 わ が勇気 ゆうき ある軍隊 ぐんたい に、我々 われわれ の同胞 どうほう を解放 かいほう しよりよい未来 みらい を保証 ほしょう するよう命 めい じた。かつてのセルビアにおいて、私 わたし の軍隊 ぐんたい はキリスト教徒 きりすときょうと のセルビア人 じん だけではなくムスリムのセルビア人 じん とも出会 であ うだろう。だが彼 かれ らは等 ひと しく我々 われわれ の親愛 しんあい なる同胞 どうほう である。また、キリスト教徒 きりすときょうと とムスリムのアルバニア人 じん とも出会 であ うだろう。彼 かれ らアルバニア人 じん たちと我 わ が民族 みんぞく は13世紀 せいき の間 あいだ 喜 よろこ びと悲 かな しみを分 わ かち合 あ ってきたのだ。彼 かれ らすべてに我々 われわれ は自由 じゆう 、親愛 しんあい 、平等 びょうどう をもたらそう。
同盟 どうめい を模索 もさく する際 さい 、セルビアはブルガリアとの契約 けいやく を取 と り決 き めるつもりでいた。この二 に 国 こく の合意 ごうい には、オスマンへの勝利 しょうり の暁 あかつき には、ブルガリアはクリヴァ・パランカ ーオフリド の線 せん よりも南 みなみ のマケドニアすべてを受 う け取 と ることと規定 きてい されていた。ブルガリアは、シャール山地 さんち の北 きた (すなわちコソヴォ )であればセルビアの拡大 かくだい を認 みと めることになっていた。その間 あいだ の地域 ちいき は「係争 けいそう 中 ちゅう 」であると合意 ごうい された;オスマン朝 ちょう との戦争 せんそう が勝利 しょうり に終 お わったときにロシアのツァーリによって仲裁 ちゅうさい されるだろう。戦争 せんそう が進 すす むに従 したが って明 あき らかになったのは、ペータル1世 せい 王 おう が宣言 せんげん したのと違 ちが って、アルバニア人 じん たちがセルビアを解放 かいほう 者 しゃ とは見 み なしていないし、セルビア軍 ぐん がアルバニア人 じん に対 たい する友好 ゆうこう という彼 かれ の宣言 せんげん を守 まも ることもなかった、ということだった。
1885年 ねん にブルガリアは東 ひがし ルメリアとの合同 ごうどう のためのクーデターを成功 せいこう させた。そのため、それ以降 いこう ブルガリアはその民族 みんぞく 的 てき 統一 とういつ が実現 じつげん するという夢 ゆめ を見 み るようになった。この目的 もくてき のため、ブルガリアは大 おお きな軍隊 ぐんたい を作 つく り上 あ げ、「バルカン諸国 しょこく のプロイセン」と自認 じにん するようになった。とはいえブルガリアには単独 たんどく でオスマン朝 ちょう との戦争 せんそう に勝利 しょうり する力 ちから はなかった。
ギリシアでは、軍 ぐん の将校 しょうこう たちが1909年 ねん 8月 がつ にクーデターを起 お こし、進歩 しんぽ 的 てき なエレフテリオス・ヴェニゼロス 政府 せいふ が樹立 じゅりつ された。ヴェニゼロスはクレタ島 とう で見 み せた政治 せいじ 手腕 しゅわん を買 か われていたのである。彼 かれ らはまた、1897年 ねん の希 まれ 土 ど 戦争 せんそう でのオスマン朝 ちょう による敗北 はいぼく から立 た ち直 なお ることを目指 めざ した。これを目的 もくてき として、フランス人 じん 軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん による緊急 きんきゅう の軍隊 ぐんたい 再 さい 構成 こうせい が行 おこな われていたが、バルカン諸国 しょこく での戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ したため中断 ちゅうだん した。ギリシアをバルカン同盟 どうめい に参加 さんか させようという議論 ぎろん が行 おこな われたが、ブルガリアはセルビアとのマケドニアについての取引 とりひき と全 まった く違 ちが い、領域 りょういき 獲得 かくとく の区分 くぶん についてギリシアと約束 やくそく を取 と り交 か わすことを一切 いっさい 拒否 きょひ した。ブルガリアは外交 がいこう 政策 せいさく によってセルビアがマケドニアを要求 ようきゅう するのを制限 せいげん しようとしていたが、一方 いっぽう でブルガリア軍 ぐん ならギリシア軍 ぐん よりも先 さき にエーゲマケドニアの大 だい 部分 ぶぶん と重要 じゅうよう 都市 とし サロニカ(テッサロニキ )を占領 せんりょう することができると信 しん じていたのだ。
1911年 ねん にイタリアはトリポリタニア 、すなわち現在 げんざい のリビア侵略 しんりゃく に乗 の り出 だ していた(伊 い 土 ど 戦争 せんそう )。それは即座 そくざ にエ え ーゲ海 げかい にあるドデカネス諸島 しょとう 占領 せんりょう につながった。イタリアがオスマン帝国 ていこく に対 たい し重大 じゅうだい な軍事 ぐんじ 的 てき 勝利 しょうり をおさめたので、バルカン諸国 しょこく もオスマンに対 たい する戦争 せんそう に勝利 しょうり できるだろうという想像 そうぞう を抱 だ いた。1912年 ねん の春 はる や夏 なつ までに、キリスト教徒 きりすときょうと のバルカン諸国 しょこく は軍事 ぐんじ 同盟 どうめい のネットワークを作 つく り上 あ げ、それらがいわゆるバルカン同盟 どうめい になっていった。
列強 れっきょう 、特 とく にフランスとオーストリア・ハンガリーはこれらの同盟 どうめい に対 たい し戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ を思 おも いとどまらせようとしたが、失敗 しっぱい した。9月の終 お わりに、同盟 どうめい とオスマン帝国 ていこく は軍隊 ぐんたい を動員 どういん した。まず、モンテネグロが9月25日 にち (ユリウス暦 れき )/10月8日 にち に宣戦 せんせん 布告 ふこく を行 おこな った。受 う け入 い れようのない最後 さいご 通牒 つうちょう をオスマン宮廷 きゅうてい に10月 がつ 13日 にち に送 おく ったあと、ブルガリア、セルビア、ギリシアも10月 がつ 17日 にち に帝国 ていこく に宣戦 せんせん した。おおよそ200-300人 にん のジャーナリストが世界中 せかいじゅう から訪 おとず れ、1912年 ねん 11月にバルカン諸国 しょこく における戦争 せんそう を取材 しゅざい した。
第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 前 まえ のバルカン半島 ばるかんはんとう
戦争 せんそう が始 はじ まった時 とき のオスマン帝国 ていこく の戦闘 せんとう 態勢 たいせい は、全体 ぜんたい で将校 しょうこう 1万 まん 2024人 にん 、兵士 へいし 32万 まん 4718人 にん 、動物 どうぶつ 4万 まん 7960匹 ひき 、大砲 たいほう 2318門 もん 、機関 きかん 銃 じゅう 388丁 ちょう を擁 よう していた。ここから全部 ぜんぶ で将校 しょうこう 920人 にん と兵士 へいし 4万 まん 2607人 にん が、師団 しだん を離 はな れた任務 にんむ を与 あた えられ、残 のこ りの将兵 しょうへい 29万 まん 3206人 にん が、4軍 ぐん に分 わ けられた。[ 2] 反対 はんたい に拡大 かくだい する戦争 せんそう 前 まえ の秘密 ひみつ の解決 かいけつ 策 さく が続 つづ く中 なか でスラヴ系 けい の3ヶ国 かこく 連合 れんごう (ブルガリア、セルビア、モンテネグロ)は、戦争 せんそう の努力 どりょく (サンジャク戦 せん 区 く におけるセルビアとモンテネグロ、マケドニア戦 せん 区 く とトラキア戦 せん 区 く におけるブルガリアとセルビア)を整合 せいごう する大 だい 規模 きぼ な計画 けいかく を導 みちび き出 だ した。ブルガリア軍 ぐん の大半 たいはん (34万 まん 6182人 にん )は、トラキアのオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん 9万 まん 6273人 にん と守備 しゅび 隊 たい 約 やく 2万 まん 6000人 にん と戦 たたか いながらトラキアを目指 めざ していた。[ 3] 残 のこ りのオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん 約 やく 20万 まん 人 にん が[ 4] 、セルビア軍 ぐん (セルビア側 がわ のセルビア軍 ぐん 23万 まん 4000人 にん とブルガリア軍 ぐん 4万 まん 8000人 にん )やギリシャ軍 ぐん (11万 まん 5000人 にん )と戦 たたか いながらマケドニアに配備 はいび され、ヤニナ (トルコ語 ご 名 めい :ヤニヤ、現 げん ヨアニナ 、エピルスのギリシャ軍 ぐん に対 たい するもの)とシュコドラ (古名 こみょう :スクタリ、トルコ語 ご 名 めい :イスケンデリイェまたはイシュコダラ、現 げん シュコダル、北 きた アルバニアのモンテネグロ軍 ぐん に対 たい するもの)の要塞 ようさい 都市 とし 周辺 しゅうへん の独立 どくりつ 守備 しゅび 隊 たい と共 とも にワルダルとマケドニアのオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん に分割 ぶんかつ された。
ブルガリアは大 だい 規模 きぼ で良 よ く訓練 くんれん され装備 そうび の整 ととの った軍隊 ぐんたい を擁 よう する4ヶ国 かこく で最大 さいだい の軍事 ぐんじ 大国 たいこく であった。[ 5] ブルガリアは人口 じんこう 430万 まん 人 にん から全部 ぜんぶ で59万 まん 9878人 にん を動員 どういん した。[ 6] ブルガリア陸軍 りくぐん は9個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん 、1個 いっこ 騎兵 きへい 師団 しだん 、1116個 こ 砲 ほう 兵隊 へいたい を擁 よう していた。[ 5] 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん は実質 じっしつ 的 てき な指揮 しき 権 けん は副長 ふくちょう ミハイル=サヴォフ将軍 しょうぐん の手 て にあったとはいえブルガリア王 おう であった。黒海 こっかい 沿岸 えんがん での作戦 さくせん を制限 せいげん されていたブルガリアは、水雷 すいらい 艇 てい 6艇 てい という小規模 しょうきぼ な海軍 かいぐん も所有 しょゆう していた。[ 7]
ブルガリアの戦争 せんそう 目的 もくてき は、トラキア とマケドニア であった。3個 こ 軍 ぐん から構成 こうせい され、トラキアに主要 しゅよう な部隊 ぶたい を配備 はいび していた。第 だい 1軍 ぐん (7万 まん 9370人 にん )は3個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん を擁 よう するヴァシル・クチンチェフ 将軍 しょうぐん が指揮 しき し、トゥンジャ川 がわ 沿 そ いに作戦 さくせん を行 おこな う目的 もくてき でヤンボル の南 みなみ に配備 はいび されていた。第 だい 2軍 ぐん (12万 まん 2748人 にん )は2個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん と1個 いっこ 歩兵 ほへい 旅団 りょだん を擁 よう するニコラ・イワノフ将軍 しょうぐん が指揮 しき し、第 だい 1軍 ぐん の西 にし に配備 はいび され、強力 きょうりょく なアドリアノープル(現 げん エディルネ )要塞 ようさい を捕獲 ほかく することを任務 にんむ としていた。計画 けいかく によると、第 だい 3軍 ぐん (9万 まん 4884人 にん )はラトコ・ディミトリエフ 将軍 しょうぐん が指揮 しき し、第 だい 1軍 ぐん の東 ひがし と後方 こうほう に配備 はいび され、オスマン軍 ぐん 側 がわ からは見 み えない騎兵 きへい 師 し 団 だん により援護 えんご されていた。第 だい 3軍 ぐん には3個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん があり、ストランジャ山 さん を横切 よこぎ りクルク・キリセ (ブルガリア語 ご 名 めい :ローゼングラト、現 げん クルクラーレリ )要塞 ようさい を奪取 だっしゅ することを任務 にんむ としていた。第 だい 2師団 しだん (4万 まん 9180人 にん )と第 だい 7師団 しだん (4万 まん 8523人 にん )は、西 にし トラキア と東 ひがし マケドニアでそれぞれ作戦 さくせん 行動 こうどう を行 おこな う独立 どくりつ した任務 にんむ を与 あた えられていた。
ブルガリア軍 ぐん より数 すう の上 うえ ではかなり劣 おと っていたが、セルビア軍 ぐん の強 つよ さは、無視 むし できないものであった。セルビアは前 ぜん 国防 こくぼう 大臣 だいじん ラドミル・プトニク の実戦 じっせん 的 てき な指揮 しき の下 した で砲 ほう 228門 もん 、10個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん 、2個 こ 独立 どくりつ 旅団 りょだん 、1個 いっこ 騎兵 きへい 師団 しだん を擁 よう する約 やく 23万 まん 人 にん を(人口 じんこう 291万 まん 2000人 にん のうち)動員 どういん した。[ 6] 戦前 せんぜん の図上 ずじょう 演習 えんしゅう でセルビアの高級 こうきゅう 指揮 しき 部 ぶ はオスマン帝国 ていこく ワルダル軍 ぐん に対 たい する決定的 けっていてき な戦闘 せんとう を行 おこな うのに相応 ふさわ しい場所 ばしょ がスコピエ前面 ぜんめん のオヴチェ・ポーリェ (Ovče Polje, Ovče Pole, トルコ語 ご 名 めい :Ovçebol, オスマン語 ご 旧名 きゅうめい :Ofçabolu)と呼 よ ばれる丘陵 きゅうりょう であると踏 ふ んでいた。それ故 こ 、師団 しだん と独立 どくりつ 旅団 りょだん が、ノヴィ・パザル郡 ぐん のモンテネグロと協同 きょうどう していたとはいえ、スコピエ方面 ほうめん に優位 ゆうい に3個 こ 軍団 ぐんだん を形成 けいせい していた。
スコピエ方面 ほうめん の中心 ちゅうしん を形成 けいせい する第 だい 1軍 ぐん (13万 まん 2000人 にん )は、ペータル・ボヨヴィッチ 将軍 しょうぐん が指揮 しき し、数 かず の上 うえ では最大 さいだい の軍 ぐん であった。第 だい 2軍 ぐん (7万 まん 4000人 にん )はステパ・ステパノヴィッチ 将軍 しょうぐん が指揮 しき し、1個 いっこ セルビア師団 しだん と1個 いっこ ブルガリア(第 だい 7リラ)師団 しだん からなっていた。軍 ぐん の左翼 さよく を形成 けいせい し、ストラツィン村 むら 方面 ほうめん に向 む かっていた。ブルガリア師団 しだん を含 ふく んでいたのは、戦前 せんぜん のセルビア軍 ぐん とブルガリア軍 ぐん の協定 きょうてい によるものであるが、ブルガリアの高級 こうきゅう 指揮 しき 部 ぶ の指揮 しき のみを受 う けるこの師団 しだん は、戦争 せんそう が始 はじ まったとたんステパノヴィッチ将軍 しょうぐん の命令 めいれい に従 したが うことを止 と めた。第 だい 3軍 ぐん (7万 まん 6000人 にん )はボジダル・ヤンコヴィッチ 将軍 しょうぐん が指揮 しき し、軍 ぐん の右翼 うよく に位置 いち し、コソヴォを解放 かいほう する任務 にんむ を帯 お び、予想 よそう されるオヴチェ・ポーリェでの戦 たたか いに参加 さんか することになった。セルビアとオーストリア=ハンガリー国境 こっきょう にまたがる北西 ほくせい セルビアにはミハイル・ジフコヴィッチ将軍 しょうぐん のイバル軍 ぐん (2万 まん 5000人 にん )とミリヴォイェ・アンジェルコヴィッチ中佐 ちゅうさ のヤヴォル旅団 りょだん (1万 まん 2000人 にん )の2個 こ 部隊 ぶたい が集結 しゅうけつ していた。
ギリシャ海軍 かいぐん の旗艦 きかん だった装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 「イェロギオフ・アヴェロフ 」の現在 げんざい の艦 かん 影 かげ 。第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 時 じ 、参戦 さんせん 国 こく の海軍 かいぐん の中 なか で最 さい 新鋭 しんえい の軍艦 ぐんかん であり、エ え ーゲ海 げかい での戦闘 せんとう では決定的 けっていてき な役割 やくわり を果 は たした。
人口 じんこう 266万 まん 6千 せん 人 にん のギリシャは、バルカン同盟 どうめい の主要 しゅよう 三 さん 国 こく では最 さい 弱 じゃく とみなされていた。最 もっと も小規模 しょうきぼ な陸軍 りくぐん しか持 も たず、しかも16年 ねん 前 まえ の希 まれ 土 ど 戦争 せんそう ではオスマン軍 ぐん の前 まえ にあっけなく破 やぶ れ去 さ っていたからである。しかし、ギリシャの海軍 かいぐん は有力 ゆうりょく であり、オスマン軍 ぐん のアジア側 がわ からヨーロッパ側 がわ への増援 ぞうえん 部隊 ぶたい の海上 かいじょう 輸送 ゆそう を阻止 そし しうる能力 のうりょく を、バルカン同盟 どうめい 各国 かっこく の中 なか で唯一 ゆいいつ 持 も っていた。これはバルカン同盟 どうめい 側 がわ にとって極 きわ めて重要 じゅうよう な要素 ようそ であった。「ギリシャは兵力 へいりょく 60万 まん 人 にん 分 ぶん の貢献 こうけん が可能 かのう である」と、同盟 どうめい 加入 かにゅう 交渉 こうしょう のため派遣 はけん されたギリシャの大使 たいし はソフィアで語 かた っている。いわく「20万 まん 人 にん が野戦 やせん に動員 どういん でき、そして艦隊 かんたい によってオスマン軍 ぐん 40万 まん 人 にん のサロニカ・ガリポリ半島 はんとう 間 あいだ への上陸 じょうりく を食 く い止 と められる」と[ 7] 。
開戦 かいせん 当時 とうじ 、ギリシャ陸軍 りくぐん は、1911年 ねん から始 はじ まったフランスの軍事 ぐんじ 援助 えんじょ の下 した で再建 さいけん 途中 とちゅう であった。動員 どういん 後 ご 、ギリシャ陸軍 りくぐん は2個 こ 軍 ぐん に分割 ぶんかつ された。うちテッサリア軍 ぐん は、王 おう 太子 たいし (後 ご のコンスタンティノス1世 せい )を軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 、パナギオティス・ダングリス Panagiotis Danglis 中将 ちゅうじょう を参謀 さんぼう 長 ちょう とする建前 たてまえ であったが、実際 じっさい の組織 そしき 運用 うんよう や作戦 さくせん 上 じょう の意思 いし 決定 けってい はイオアニス・メタクサス 少佐 しょうさ (後 のち に将軍 しょうぐん )が担 にな っていた。隷下 れいか には7個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん と1個 いっこ 騎兵 きへい 連隊 れんたい 、4個 こ 独立 どくりつ エウゾネス (en ) 大隊 だいたい があり、兵力 へいりょく 約 やく 10万 まん 人 にん であった。テッサリア軍 ぐん の任務 にんむ は、要塞 ようさい 化 か されたオスマン帝国 ていこく 国境 こっきょう を突破 とっぱ してマケドニア中部 ちゅうぶ および南部 なんぶ に進撃 しんげき し、サロニカとモナスティル(現 げん ビトラ )を占領 せんりょう することにあった。
もうひとつのイピロス軍 ぐん は、8個 こ 大隊 だいたい 編制 へんせい の計 けい 10,000-13,000人 にん から成 な り、コンスタンティノス・サプンツァキス Konstantinos Sapountzakis 中将 ちゅうじょう を軍 ぐん 司令 しれい 官 かん としてイピロス へと侵攻 しんこう する任務 にんむ が与 あた えられた。といっても高度 こうど に要塞 ようさい 化 か されたイピロスの中心 ちゅうしん 都市 とし ヨアニナ の攻略 こうりゃく までは難 むずか しいため、当面 とうめん はオスマン軍 ぐん を牽制 けんせい してひきつけることが目的 もくてき とされ、テッサリア軍 ぐん の任務 にんむ 完了 かんりょう 後 ご に増援 ぞうえん を得 え る計画 けいかく であった。
ギリシャ海軍 かいぐん は、おびただしい数 かず の新型 しんがた 艦 かん の輸入 ゆにゅう と1911年 ねん からのイギリスの援助 えんじょ 下 か での改装 かいそう により、比較的 ひかくてき 近代 きんだい 的 てき な戦力 せんりょく を持 も っていた。主力 しゅりょく は1910年 ねん 進水 しんすい の高速 こうそく の装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 「イェロギオフ・アヴェロフ 」であった。また、1912年 ねん と1906年 ねん にそれぞれ8隻 せき ずつ建造 けんぞう した近代 きんだい 的 てき な駆逐 くちく 艦 かん も保有 ほゆう していた。その他 た の主力 しゅりょく 艦 かん は旧式 きゅうしき ではあったが、これらの訓練 くんれん が行 い き届 とど いた新鋭 しんえい 艦 かん の存在 そんざい によってエ え ーゲ海 げかい での制海権 せいかいけん を確保 かくほ することができていた[ 8] 。艦艇 かんてい の大半 たいはん はエ え ーゲ海 げかい 艦隊 かんたい に属 ぞく し、優 すぐ れた提督 ていとく であるパヴロス・クンドゥリオティス (en ) 少将 しょうしょう の指揮 しき 下 か にあった。別 べつ に、駆逐 くちく 艦 かん や水雷 すいらい 艇 てい から成 な るいくつかの小規模 しょうきぼ な任務 にんむ 部隊 ぶたい が、エ え ーゲ海 げかい やイオニア海 かい でのオスマン帝国 ていこく の小 しょう 艦船 かんせん 掃討 そうとう のため編成 へんせい された。
モンテネグロ人 じん は鍛 きた え抜 ぬ かれた経験 けいけん 豊 ゆた かな戦士 せんし として名高 なだか いが[ 6] 、モンテネグロ軍 ぐん は小規模 しょうきぼ で旧式 きゅうしき な状態 じょうたい であった。モンテネグロは、動員 どういん が完了 かんりょう した10月 がつ 第 だい 1週 しゅう の時点 じてん で、44,500人 にん の兵力 へいりょく を25万 まん 人 にん の人口 じんこう から整 ととの えた。118門 もん の火砲 かほう と3万 まん 6千 せん 丁 ちょう の小銃 しょうじゅう 、44丁 ちょう の機関 きかん 銃 じゅう を装備 そうび しており[ 9] 、各 かく 3個 こ 旅団 りょだん 編制 へんせい の4個 こ 師団 しだん を構成 こうせい した。名目 めいもく 上 じょう の統帥 とうすい 権 けん 者 しゃ は国王 こくおう ニコラ1世 せい で、実際 じっさい の最高 さいこう 指揮 しき は総 そう 参謀 さんぼう 長 ちょう のLazarović将軍 しょうぐん が担当 たんとう した。モンテネグロの主要 しゅよう な戦争 せんそう 目的 もくてき はシュコドラ県 けん の主要 しゅよう 都市 とし の占領 せんりょう で、ついでノヴィ・パザル への作戦 さくせん が予定 よてい された。
トゥルグート・レイス級 きゅう 装甲 そうこう 艦 かん の「バルバロス・ハイレッディン 」(オスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん 旗艦 きかん )。本 ほん 艦 かん 及 およ び同型 どうけい の「トゥルグート・レイス 」の2隻 せき は元 もと ドイツ海軍 かいぐん の前 ぜん 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん で、強力 きょうりょく な装甲 そうこう とギリシャ艦 かん 「アヴェロフ」を上回 うわまわ る主砲 しゅほう を備 そな えていたが、最高 さいこう 速力 そくりょく において5ノット も遅 おそ かった。
1912年 ねん 当時 とうじ 、オスマン帝国 ていこく は困難 こんなん に直面 ちょくめん していた。総 そう 人口 じんこう は2600万 まん 人 にん を誇 ほこ ったが、そのうちヨーロッパ側 がわ に居住 きょじゅう するのは613万 まん 人 にん のみで、しかも兵役 へいえき に適 てき さないキリスト教徒 きりすときょうと が多 おお くを占 し めており、イスラム教徒 きょうと は230万 まん 人 にん に過 す ぎなかった。アジア側 がわ からヨーロッパ側 がわ へ兵力 へいりょく を移送 いそう しようにも、交通 こうつう 網 もう の整備 せいび は不十分 ふじゅうぶん で、特 とく にアジア側 がわ で整備 せいび が遅 おく れていた。したがって海上 かいじょう 輸送 ゆそう に頼 たよ るしか無 な い状態 じょうたい であったが、これもエ え ーゲ海 げかい に展開 てんかい するギリシャ海軍 かいぐん の存在 そんざい に脅 おびや かされていた。そのうえ伊 い 土 ど 戦争 せんそう がリビア 及 およ びエ え ーゲ海 げかい のドデカネス諸島 しょとう を戦場 せんじょう に継続 けいぞく 中 ちゅう で、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん は対 たい イタリアの防衛 ぼうえい 戦 せん に重点 じゅうてん を置 お かねばならなかった。伊 い 土 ど 戦争 せんそう の停戦 ていせん は第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ 後 ご の10月 がつ 15日 にち になってからであったため、それまでのバルカン半島 ばるかんはんとう 情勢 じょうせい の緊張 きんちょう の高 たか まりにもかかわらず、オスマン帝国 ていこく は有力 ゆうりょく な増援 ぞうえん 部隊 ぶたい を事前 じぜん にバルカン半島 ばるかんはんとう に配備 はいび することはできなかったのだった[ 10] 。
オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の戦力 せんりょく 発揮 はっき は、青年 せいねん トルコ人 じん 革命 かくめい と1909年 ねん の反動 はんどう クーデター「3月31日 にち 事件 じけん 」という国内 こくない 騒乱 そうらん によっても妨 さまた げられていた。ドイツの支援 しえん により陸軍 りくぐん の近代 きんだい 化 か 努力 どりょく が行 おこな われつつあったが、いまだ完成 かんせい にはいたっていなかった[ 6] 。常備 じょうび 軍 ぐん 「ニザーム」は優秀 ゆうしゅう な装備 そうび と十分 じゅうぶん な訓練 くんれん が施 ほどこ され、常備 じょうび 師 し 団 だん へと編成 へんせい されていたが、これを補完 ほかん するレディフ (予備 よび ) 部隊 ぶたい は砲兵 ほうへい を典型 てんけい として装備 そうび が不完全 ふかんぜん で練度 れんど も低 ひく かった。
オスマン帝国 ていこく 陸軍 りくぐん はヨーロッパ側 がわ にマケドニア、ワルダル、トラキアの3個 こ 軍 ぐん を置 お き、計 けい 1,203門 もん の野戦 やせん 砲 ほう と1,115門 もん の要塞 ようさい 砲 ほう を配備 はいび していた。西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん のマケドニア駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん には兵力 へいりょく 20万 まん 人 にん 以上 いじょう があって[ 4] 、ギリシャ及 およ びセルビア・モンテネグロの軍勢 ぐんぜい に対峙 たいじ し、トラキア駐留 ちゅうりゅう の第 だい 1軍 ぐん は11万 まん 5千 せん 人 にん 以上 いじょう の兵力 へいりょく でブルガリア陸軍 りくぐん に対抗 たいこう した[ 11] 。
トラキア駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん はナーズム・パシャを軍 ぐん 司令 しれい 官 かん として7個 こ 軍団 ぐんだん から成 な り、隷下 れいか に11個 いっこ 常備 じょうび 歩兵 ほへい 師団 しだん と13個 こ 予備 よび 師団 しだん 、1個 いっこ 師団 しだん 以上 いじょう の騎兵 きへい を擁 よう した。
第 だい 1軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - 第 だい 2歩兵 ほへい 師団 しだん (1個 いっこ 連隊 れんたい 欠 かけ )、第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん 、第 だい 1地域 ちいき 師団 しだん
第 だい 2軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - 第 だい 4歩兵 ほへい 師団 しだん (1個 いっこ 連隊 れんたい 欠 かけ )、第 だい 5歩兵 ほへい 師団 しだん 、ウシャク予備 よび 師団 しだん
第 だい 3軍団 ぐんだん :4個 こ 師団 しだん - 第 だい 7・第 だい 8・第 だい 9歩兵 ほへい 師団 しだん (各 かく 1個 いっこ 連隊 れんたい 欠 かけ )、カラヒサール予備 よび 師団 しだん
第 だい 4軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - 第 だい 12歩兵 ほへい 師団 しだん (1個 いっこ 連隊 れんたい 欠 かけ )、イズミト予備 よび 師団 しだん 、ブルサ予備 よび 師団 しだん
第 だい 17軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - サムスン、エレーリ、イズミル の各 かく 予備 よび 師団 しだん
アドリアノープル (今日 きょう のエディルネ)要塞 ようさい 地帯 ちたい :6個 こ 師団 しだん 強 きょう - 第 だい 10・第 だい 11歩兵 ほへい 師団 しだん 、アドリアノープル、ババエスキ、ギュムルジネ (今日 きょう のコモティニ ) の各 かく 予備 よび 師団 しだん 、要塞 ようさい 師団 しだん 、第 だい 4歩兵 ほへい 連隊 れんたい 、第 だい 12騎兵 きへい 連隊 れんたい
クルジャアリ (今日 きょう のクルジャリ )支隊 したい :2個 こ 師団 しだん 強 きょう - クルジャアリ予備 よび 師団 しだん 、クルジャアリ防衛 ぼうえい 師団 しだん 、第 だい 36歩兵 ほへい 連隊 れんたい
独立 どくりつ 騎兵 きへい 師団 しだん 、第 だい 5軽 けい 騎兵 きへい 旅団 りょだん
西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん (マケドニア駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん 及 およ びワルダル駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん )は10個 こ 軍団 ぐんだん 編制 へんせい で、隷下 れいか に32個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん と2個 こ 騎兵 きへい 師団 しだん を擁 よう した。
ワルダル駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん は、対 たい セルビア戦 せん 用 よう で、スコピエに司令 しれい 部 ぶ を置 お いていた。ハレプリ・ゼキ・パシャを軍 ぐん 司令 しれい 官 かん とし、5個 こ 軍団 ぐんだん 編制 へんせい で、以下 いか のように18個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん と1個 いっこ 騎兵 きへい 師団 しだん 、2個 こ 独立 どくりつ 騎兵 きへい 旅団 りょだん から成 な っていた。
第 だい 5軍団 ぐんだん :4個 こ 師団 しだん - 第 だい 13・第 だい 15・第 だい 16歩兵 ほへい 師団 しだん 、イシティプ (今日 きょう のシュティプ)予備 よび 師団 しだん
第 だい 6軍団 ぐんだん :4個 こ 師団 しだん - 第 だい 17・第 だい 18歩兵 ほへい 師団 しだん 、モナスティル (今日 きょう のビトラ)予備 よび 師団 しだん 、ドラマ予備 よび 師団 しだん
第 だい 7軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - 第 だい 19歩兵 ほへい 師団 しだん 、ウスクブ予備 よび 師団 しだん 、プリシュティネ予備 よび 師団 しだん
第 だい 2軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - ウシャク、デニズリ、イズミル予備 よび 師団 しだん
サンジャク軍団 ぐんだん :4個 こ 師団 しだん - 第 だい 20歩兵 ほへい 師団 しだん (1個 いっこ 連隊 れんたい 欠 かけ )、第 だい 60歩兵 ほへい 師団 しだん 、ミトロヴィチャ (今日 きょう のミトロヴィツァ )予備 よび 師団 しだん 、タシュルジャ (今日 きょう のプリェヴリャ )予備 よび 師団 しだん 、フェリゾヴィク支隊 したい 、タシュルジャ支隊 したい
独立 どくりつ 騎兵 きへい 師団 しだん 、第 だい 7騎兵 きへい 旅団 りょだん 、第 だい 8騎兵 きへい 旅団 りょだん
マケドニア駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん は、アリ・ルザー・パシャを軍 ぐん 司令 しれい 官 かん とし、司令 しれい 部 ぶ をサロニカに置 お いた。隷下 れいか 部隊 ぶたい は14個 こ 師団 しだん で、5個 こ 軍団 ぐんだん を構成 こうせい し、以下 いか のようにギリシャとブルガリア、モンテネグロの軍勢 ぐんぜい に対抗 たいこう した。
対 たい ギリシャ:7個 こ 師団 しだん
第 だい 8軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - 第 だい 22歩兵 ほへい 師団 しだん 、ナスリチ予備 よび 師団 しだん 、アイドゥン予備 よび 師団 しだん
ヤニヤ (今日 きょう のヨアニナ )軍団 ぐんだん :3個 こ 師団 しだん - 第 だい 23歩兵 ほへい 師団 しだん 、ヤニヤ予備 よび 師団 しだん 、ビザニ要塞 ようさい 師団 しだん
独立 どくりつ 部隊 ぶたい - セラーニク予備 よび 師団 しだん 、カラブルン支隊 したい
対 たい ブルガリア(西南 せいなん マケドニア地域 ちいき )
ウストゥルマ 軍団 ぐんだん :2個 こ 師団 しだん - 第 だい 14歩兵 ほへい 師団 しだん 、セレズ (今日 きょう のセレス )予備 よび 師団 しだん 、ネヴレコプ (今日 きょう のゴツェ・デルチェフ )支隊 したい
対 たい モンテネグロ:4個 こ 師団 しだん 強 きょう
イシュコドラ軍団 ぐんだん :2個 こ 師団 しだん 強 きょう - 第 だい 24歩兵 ほへい 師団 しだん 、エルバサン予備 よび 師団 しだん 、イシュコドラ要塞 ようさい 地帯 ちたい 、イペキ (今日 きょう のペヤ )支隊 したい
独立 どくりつ 軍団 ぐんだん :2個 こ 師団 しだん - 第 だい 21歩兵 ほへい 師団 しだん 、ピールゼリン (今日 きょう のプリズレン )予備 よび 師団 しだん
動員 どういん 計画 けいかく によると、西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん の総 そう 兵力 へいりょく は59万 まん 8千 せん 人 にん であった。しかし、動員 どういん 作業 さぎょう の遅 おく れと貧弱 ひんじゃく な鉄道 てつどう 輸送 ゆそう 力 りょく のために実数 じっすう はこれを下回 したまわ り、西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん の参謀 さんぼう によると、開戦 かいせん 時点 じてん では20万 まん 人 にん のみが使用 しよう 可能 かのう であった[ 4] 。開戦 かいせん 後 ご にも補充 ほじゅう はされたものの、戦闘 せんとう による消耗 しょうもう もあったため、西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん の定数 ていすう が満 み たされることは無 な かった。このほか、戦時 せんじ 中 ちゅう にはシリア 駐留 ちゅうりゅう の常備 じょうび 軍 ぐん と予備 よび 軍 ぐん を派遣 はけん することが計画 けいかく された[ 4] 。しかし、ギリシャ海軍 かいぐん が制海権 せいかいけん を握 にぎ ったため、これらの増援 ぞうえん 部隊 ぶたい 派遣 はけん は実現 じつげん しなかった。陸路 りくろ での派遣 はけん も試 こころ みられたが、ほとんどは間 ま に合 あ わなかった。
オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ は、ドイツ軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん の助言 じょげん を受 う けて、12パターンの仮想 かそう 敵国 てきこく の組 く み合 あ わせに対 たい して反撃 はんげき 作戦 さくせん 計画 けいかく の立案 りつあん に取 と り組 く んでいた。このうちのブルガリア、ギリシャ、セルビア及 およ びモンテネグロとの交戦 こうせん を想定 そうてい した第 だい 5計画 けいかく は、検討 けんとう がかなり進 すす んだ段階 だんかい にあり、地域 ちいき ごとの作戦 さくせん 計画 けいかく 立案 りつあん のために各 かく 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ へと伝達 でんたつ 済 ず みであった[ 12] 。
モンテネグロは、1912年 ねん 10月 がつ 8日 にち (ユリウス暦 れき 9月 がつ 25日 にち )にオスマン帝国 ていこく に対 たい し宣戦 せんせん 布告 ふこく し、第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう が開始 かいし された。
オスマン軍 ぐん の陣地 じんち を突破 とっぱ するブルガリア軍 ぐん を描 えが いた「銃剣 じゅうけん で」。チェコの画家 がか ヤロスラフ・ヴェシン (en )作 さく 。
トラキア戦線 せんせん のオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん は、敵 てき 戦力 せんりょく の見積 みつ もりに関 かん するインテリジェンス 上 うえ の誤 あやま りから、危機 きき に陥 おちい っていた。オスマン帝国 ていこく 側 がわ は、マケドニア戦線 せんせん に関 かん するブルガリアとセルビアの政治 せいじ 上 じょう 及 およ び軍事 ぐんじ 上 じょう の秘密 ひみつ 協定 きょうてい に気付 きづ いておらず、マケドニア戦線 せんせん に主力 しゅりょく を配備 はいび したままであった。当時 とうじ のオスマン帝国 ていこく 政府 せいふ に最 もっと も強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を有 ゆう した一人 ひとり であるドイツ大使 たいし のハンス・ヴァンゲンハイム (en )は、オスマン帝国 ていこく 側 がわ の情勢 じょうせい 判断 はんだん について、ブルガリア軍 ぐん の主力 しゅりょく はセルビア軍 ぐん とともにマケドニア戦線 せんせん に投入 とうにゅう されると予想 よそう している旨 むね を、10月21日 にち にベルリンへと報告 ほうこく している。その後 ご 、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん のアブドゥッラー・パシャの司令 しれい 部 ぶ は、トラキアのアドリアノープル(エディルネ )東方 とうほう で遭遇 そうぐう するだろうブルガリア軍 ぐん の戦力 せんりょく を、3個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん と支援 しえん 騎兵 きへい だけと推定 すいてい していた[ 13] 。軍事 ぐんじ 史家 しか エドワード・エリクソンによれば、こうしたオスマン帝国 ていこく 側 がわ の想定 そうてい は、バルカン同盟 どうめい の戦争 せんそう 目的 もくてき に対 たい する分析 ぶんせき 結果 けっか に基 もと づくものであったと思 おも われる。しかし、これはトラキアのオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん にとっては致命 ちめい 的 てき な判断 はんだん であり、絶望 ぜつぼう 的 てき な戦力 せんりょく 比 ひ でブルガリア軍 ぐん 主力 しゅりょく を迎 むか え撃 う たねばならない結果 けっか となった[ 14] 。また、この誤 あやま った情勢 じょうせい 判断 はんだん は、トラキア戦線 せんせん におけるオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の初期 しょき の戦略 せんりゃく 方針 ほうしん が、破滅 はめつ 的 てき なばかりに攻撃 こうげき 的 てき となったことの原因 げんいん でもあった。
ブルガリア軍 ぐん の攻勢 こうせい とチャタルジャへの進撃 しんげき [ 編集 へんしゅう ]
トラキア戦線 せんせん において、ブルガリア軍 ぐん は兵力 へいりょく 346,182人 にん を投入 とうにゅう し、トラキア東部 とうぶ のオスマン帝国 ていこく 第 だい 1軍 ぐん 105,000人 にん および西部 せいぶ のクルジャアリ支隊 したい 24,000人 にん と戦 たたか った。ブルガリア軍 ぐん の戦闘 せんとう 序列 じょれつ は、トラキア東部 とうぶ には第 だい 1軍 ぐん (ヴァシル・クチンチェフ中将 ちゅうじょう )、第 だい 2軍 ぐん (ニコラ・イワノフ中将 ちゅうじょう )、第 だい 3軍 ぐん (ラトコ・ディミトリエフ中将 ちゅうじょう )の計 けい 297,002人 にん 、西部 せいぶ には第 だい 2師団 しだん (スティリヤン・コヴァチェフ将軍 しょうぐん )基幹 きかん の49,180人 にん (うち常備 じょうび 軍 ぐん 33,180人 にん 、その他 た 16,000人 にん )であった[ 15] 。
最初 さいしょ の大 おお きな戦闘 せんとう は、アドリアノープル とクルク・キリセ (今日 きょう のクルクラーレリ )を結 むす ぶ防衛 ぼうえい ラインで起 お きた。ブルガリア第 だい 1軍 ぐん と第 だい 3軍 ぐん の計 けい 174,254人 にん が、オスマン帝国 ていこく の東部 とうぶ 軍 ぐん 96,273人 にん を[ 16] [ 15] 、ゲチケンリ、スュルオール、ペトラ近郊 きんこう で打 う ち破 やぶ った。この地域 ちいき にいたオスマン帝国 ていこく 第 だい 15軍団 ぐんだん は、ギリシャ軍 ぐん の上陸 じょうりく 作戦 さくせん に備 そな えるためとしてガリボリ半島 はんとう へと急遽 きゅうきょ 引 ひ き抜 ぬ かれてしまったが、実際 じっさい にはそのような上陸 じょうりく 作戦 さくせん は実行 じっこう されなかった。第 だい 15軍団 ぐんだん の転出 てんしゅつ によりアドリアノープルとディメトカ (en )の間 あいだ が無防備 むぼうび となってしまったため、代 か わりに東部 とうぶ 軍 ぐん 隷下 れいか の第 だい 4軍団 ぐんだん が配置 はいち された。これら2個 こ 軍団 ぐんだん の東部 とうぶ 軍 ぐん の戦闘 せんとう 序列 じょれつ からの離脱 りだつ の結果 けっか 、トラキア戦線 せんせん のオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん は2つに分断 ぶんだん されてしまった[ 17] 。アドリアノープルの要塞 ようさい 部隊 ぶたい 61,250人 にん は孤立 こりつ してしまい、アドリアノープルの戦 たたか い (en )とクルクラーレリの戦 たたか い (en )では、ブルガリア第 だい 3軍 ぐん に圧倒 あっとう されて、さしたる抵抗 ていこう もできないまま敗北 はいぼく した[ 17] 。ギリシャ海軍 かいぐん がエ え ーゲ海 げかい の制海権 せいかいけん を握 にぎ っていたため、戦争 せんそう 計画 けいかく にあったシリアおよびパレスチナからの軍団 ぐんだん の海上 かいじょう 輸送 ゆそう は実行 じっこう できなかった[ 18] 。ギリシャ海軍 かいぐん は、3個 こ 軍団 ぐんだん というオスマン帝国 ていこく 陸軍 りくぐん の有力 ゆうりょく な戦力 せんりょく を無力 むりょく 化 か したことで、間接 かんせつ 的 てき ながら決定的 けっていてき な役割 やくわり を、最 さい 重要 じゅうよう な緒戦 しょせん であるトラキア戦線 せんせん に関 かん して果 は たしたのである[ 18] 。さらに、ギリシャ海軍 かいぐん は、マケドニアでの作戦 さくせん が峠 とうげ を越 こ えた後 のち 、ブルガリア第 だい 7師団 しだん “Rila”に属 ぞく する48,000人 にん のブルガリア兵 へい をマケドニアからトラキアに急速 きゅうそく 輸送 ゆそう することで、より直接的 ちょくせつてき な貢献 こうけん もしている。
クルクラーレリの戦 たたか いの後 のち 、ブルガリア軍 ぐん 上層 じょうそう 部 ぶ は数日 すうじつ 間 あいだ 待機 たいき を命 めい じたため、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん はルレブルガズ-カラアーチ-ブナルヒサールを結 むす ぶ新 あら たな防衛 ぼうえい 線 せん を構築 こうちく することができた。しかし、ブルガリア軍 ぐん は、第 だい 1軍団 ぐんだん と第 だい 3軍団 ぐんだん の歩兵 ほへい 107,386人 にん と騎兵 きへい 3,115騎 き 、機関 きかん 銃 じゅう 116丁 ちょう と火砲 かほう 360門 もん の戦力 せんりょく で攻撃 こうげき を再開 さいかい すると、増援 ぞうえん を受 う けて歩兵 ほへい 126,000人 にん と騎兵 きへい 3500騎 き 、機関 きかん 銃 じゅう 96丁 ちょう と火砲 かほう 342門 もん を集 あつ めていたオスマン軍 ぐん を撃破 げきは し[ 19] 、マルマラ海 うみ に到達 とうたつ した。この会戦 かいせん は、ヨーロッパでは普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 以来 いらい 最大 さいだい の戦 たたか いであり、また第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん まではこれを超 こ える規模 きぼ の戦 たたか いは無 な かった[ 19] 。敗 やぶ れたオスマン軍 ぐん は、チャタルジャ に最終 さいしゅう 防衛 ぼうえい 線 せん を引 ひ き、首都 しゅと イスタンブール のある半島 はんとう 防衛 ぼうえい を図 はか った。アジア側 がわ からの増援 ぞうえん 部隊 ぶたい も到着 とうちゃく したおかげで、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん はブルガリア軍 ぐん の進撃 しんげき を阻止 そし することに成功 せいこう した。この防衛 ぼうえい 線 せん の陣地 じんち は、1877年 ねん の露 ろ 土 ど 戦争 せんそう 中 なか からドイツ人 じん 技師 ぎし フォン・ブルーム・パシャ(von Bluhm Pasha)の設計 せっけい で建設 けんせつ されていたものであったが、1912年 ねん 当時 とうじ にはすでに老朽 ろうきゅう 化 か していると思 おも われていた[ 20] 。
これらの戦 たたか いの間 あいだ 、ブルガリアの第 だい 2トラキア師団 しだん 指揮 しき 下 か の4,9180人 にん は、ハスコヴォ縦隊 じゅうたい とロドピ縦隊 じゅうたい に分 わ かれて、エ え ーゲ海 げかい へと進撃 しんげき していた。対 たい するオスマン軍 ぐん のクルジャアリ支隊 したい (クルジャアリ予備 よび 師団 しだん 、クルジャアリ防衛 ぼうえい 師団 しだん および第 だい 36連隊 れんたい の計 けい 24,000人 にん )は、サロニカとデデアーチ(現 げん ・アレクサンドルーポリ )を結 むす ぶ鉄道 てつどう 線 せん をまたぐ400kmの戦線 せんせん を防衛 ぼうえい する任務 にんむ を与 あた えられていたが、満足 まんぞく な抵抗 ていこう はできなかった。11月26日 にち には、オスマン側 がわ 司令 しれい 官 かん のヤーヴェル・パシャが部下 ぶか の将兵 しょうへい 10,131人 にん とともに捕虜 ほりょ となった。クルジャアリ支隊 したい の降伏 ごうぶく は、ギリシャ軍 ぐん のサロニカ占領 せんりょう と合 あ わせ、マケドニア戦線 せんせん のオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん のトラキア駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん からの完全 かんぜん な分断 ぶんだん へとつながった。
1912年 ねん 11月17日 にち (ユリウス暦 れき 11月 がつ 4日 にち )、ブルガリア軍 ぐん はチャタルジャ防衛 ぼうえい 線 せん への総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし した。このときロシア政府 せいふ は、ブルガリアに対 たい して、もしもイスタンブールを占領 せんりょう するようなことがあればブルガリアに対 たい して開戦 かいせん する旨 むね の警告 けいこく を発 はっ していたが、それにもかかわらず攻撃 こうげき は断行 だんこう された。これは、ブルガリアの指導 しどう 者 しゃ たちに現実 げんじつ 的 てき な思考 しこう が欠 か けていたことを示 しめ す兆候 ちょうこう であった。ブルガリア軍 ぐん の攻撃 こうげき 兵力 へいりょく は176,351人 ひとり と火砲 かほう 462門 もん で、守備 しゅび するオスマン軍 ぐん の140,571人 ひとり と火砲 かほう 316門 もん [ 21] よりも優勢 ゆうせい であったが、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん は攻撃 こうげき を撃退 げきたい することに成功 せいこう した。
1912年 ねん 12月3日 にち (ユリウス暦 れき 11月 がつ 20日 はつか )にオスマン帝国 ていこく とブルガリアの間 あいだ で休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が成立 せいりつ し、その後 ご にセルビアとモンテネグロも続 つづ いた。ロンドンで講和 こうわ 交渉 こうしょう が始 はじ められた。ギリシャも交渉 こうしょう には参加 さんか したが、内心 ないしん では講和 こうわ に応 おう じるつもりは無 な く、エピルス方面 ほうめん での作戦 さくせん を継続 けいぞく していた。その後 ご 、1913年 ねん 2月 がつ 5日 にち (ユリウス暦 れき 1月 がつ 23日 にち )にオスマン帝国 ていこく でエンヴェル・パシャ によるクーデターが発生 はっせい し、キャーミル・パシャ (en )政権 せいけん が倒 たお されると、講和 こうわ 交渉 こうしょう は決裂 けつれつ した。2月16日 にち 、休戦 きゅうせん 期間 きかん が終 お わり、再 ふたた び戦闘 せんとう が始 はじ まった。
オスマン帝国 ていこく の反撃 はんげき の失敗 しっぱい とアドリアノープルの陥落 かんらく [ 編集 へんしゅう ]
2月 がつ 20日 はつか 、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん は、チャタルジャと南方 なんぽう のガリボリ半島 はんとう の2方向 ほうこう から反撃 はんげき を始 はじ めた。ガリボリ半島 はんとう で孤立 こりつ していた約 やく 3万 まん 人 にん のオスマン軍 ぐん のうち約 やく 15,000人 にん が、火砲 かほう 36門 もん に支援 しえん されて、南方 なんぽう のボラユル(ガリボリ半島 はんとう の地峡 ちきょう 部 ぶ の都市 とし )へ出撃 しゅつげき 。これと同時 どうじ に第 だい 10軍団 ぐんだん に属 ぞく する19,858人 にん と火砲 かほう 48門 もん がシャルキョイ (en 、現 げん テキルダー県 けん の都市 とし )に上陸 じょうりく した。この2つの攻撃 こうげき は海軍 かいぐん 艦艇 かんてい の支援 しえん も受 う けていた。オスマン帝国 ていこく 側 がわ の狙 ねら いは、包囲 ほうい 陣 じん に圧力 あつりょく をかけることで間接 かんせつ 的 てき にアドリアノープルを助 たす けることにあった。当面 とうめん の敵 てき 兵力 へいりょく は10,000人 にん と火砲 かほう 78門 もん であった[ 22] 。このほかにこの地域 ちいき にはブルガリア軍 ぐん の新 しん 編成 へんせい した第 だい 4軍 ぐん (スティリヤン・コヴァチェフ en 将軍 しょうぐん )の92,289人 にん が展開 てんかい していたのであるが、オスマン側 がわ は気付 きづ いていなかったようである。幅 はば 1800mと狭 せま い地峡 ちきょう へのオスマン軍 ぐん の攻撃 こうげき は、厚 あつ い霧 きり と強力 きょうりょく なブルガリア軍 ぐん の砲撃 ほうげき 及 およ び機関 きかん 銃弾 じゅうだん によって阻止 そし された。そして、ブルガリア軍 ぐん の逆襲 ぎゃくしゅう により撃退 げきたい され、その日 ひ の終 お わりには元 もと の位置 いち に戻 もど ることになった。その間 あいだ にシャルキョイへ上陸 じょうりく したオスマン帝国 ていこく 第 だい 10軍 ぐん は、2月 がつ 23日 にち (ユリウス暦 れき 2月 がつ 10日 とおか )までは前進 ぜんしん を続 つづ けられたが、ブルガリア軍 ぐん のコヴァチェフ将軍 しょうぐん の送 おく った増援 ぞうえん 部隊 ぶたい によって阻止 そし された。両 りょう 軍 ぐん とも損害 そんがい は軽 かる かった。ボラユル方面 ほうめん での攻撃 こうげき が失敗 しっぱい すると、2月 がつ 24日 にち にオスマン帝国 ていこく 第 だい 10軍 ぐん は元 もと の輸送 ゆそう 船 せん へと乗船 じょうせん して、ガリボリ半島 はんとう へと撤退 てったい した。
他方 たほう 、チャタルジャで行 おこな われた、ブルガリア側 がわ 主力 しゅりょく の第 だい 1軍 ぐん 及 およ び第 だい 3軍 ぐん に対 たい する反撃 はんげき は、わずか1個 いっこ 師団 しだん のみで開始 かいし された。当初 とうしょ の狙 ねら いはガリボリ半島 はんとう ・シャルキョイ方面 ほうめん での反攻 はんこう を支援 しえん するため、ブルガリア軍 ぐん をひきつけることにあった。ところが、この攻撃 こうげき は思 おも いがけない成功 せいこう を収 おさ めた。戦線 せんせん の北部 ほくぶ でブルガリア軍 ぐん は15kmも後退 こうたい させられ、南部 なんぶ では20km以上 いじょう も押 お し込 こ まれて第 だい 二 に 線 せん 陣地 じんち への撤退 てったい を余儀 よぎ なくされたのだ。ガリボリ半島 はんとう 方面 ほうめん での反攻 はんこう が失敗 しっぱい に終 お わると、オスマン軍 ぐん はチャタルジャ線 せん を離 はな れるのを嫌 きら って部隊 ぶたい を停止 ていし させたのであるが、ブルガリア軍 ぐん は数日 すうじつ 経 た ってからようやく敵 てき の攻撃 こうげき が止 や んだのに気付 きづ いた。2月15日 にち までに再 ふたた び戦線 せんせん は膠着 こうちゃく 状態 じょうたい となったが、休戦 きゅうせん 発効 はっこう までの間 あいだ は衝突 しょうとつ が続 つづ いた。この攻勢 こうせい は、オスマン軍 ぐん がブルガリア軍 ぐん に大 だい 損害 そんがい を与 あた えて戦術 せんじゅつ 的 てき 勝利 しょうり を収 おさ めた。もっとも、戦略 せんりゃく 的 てき にみるとガリボリ半島 はんとう 方面 ほうめん での攻撃 こうげき は失敗 しっぱい し、アドリアノープルの救援 きゅうえん も実現 じつげん しなかったことから、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の敗北 はいぼく と言 い える。
アドリアノープル攻略 こうりゃく へ向 む かう攻 おさむ 城 しろ 砲 ほう 部隊 ぶたい (1912年 ねん 11月3日 にち )
シャルキョイ-ボラユル方面 ほうめん での反攻 はんこう の失敗 しっぱい が、アドリアノープルの運命 うんめい を決 き めた。3月11日 にち 、バルカン同盟 どうめい 軍 ぐん の最後 さいご のアドリアノープル総 そう 攻撃 こうげき (en )が始 はじ まった。ゲオルギ・ヴァゾフ (Georgi Vazov )将軍 しょうぐん 率 ひき いるブルガリア第 だい 2軍 ぐん の153,700人 にん と、セルビア軍 ぐん 2個 こ 師団 しだん 計 けい 47,275人 にん が、多大 ただい な犠牲 ぎせい を払 はら いながらアドリアノープル市街 しがい を占領 せんりょう した。同盟 どうめい 軍 ぐん 側 がわ の損害 そんがい は、ブルガリア軍 ぐん 8,093人 にん とセルビア軍 ぐん 1,462人 にん に上 のぼ った[ 23] 。ブルガリア軍 ぐん の包囲 ほうい 戦 せん 開始 かいし 以来 いらい の総 そう 損害 そんがい は18,282人 にん にも達 たっ した。オスマン軍 ぐん の損害 そんがい は、包囲 ほうい 戦 せん 開始 かいし 以来 いらい で戦死 せんし 者 しゃ 13,000人 にん で、負傷 ふしょう 者 しゃ 数 すう は不明 ふめい 、19,750人 にん が捕虜 ほりょ となった[ 24] 。R.C. HallとE.J. Ericksonによれば、この厖大 ぼうだい な死傷 ししょう 者 しゃ は必 かなら ずしも必要 ひつよう ではなかったのではないかという。彼 かれ らによると、損害 そんがい が多数 たすう となった原因 げんいん は主 おも に政治 せいじ 的 てき 判断 はんだん と、フェルディナンド1世 せい たちブルガリアの指導 しどう 者 しゃ たちの一部 いちぶ が国家 こっか の威信 いしん を過度 かど に意識 いしき したことにある。もし急 いそ がず包囲 ほうい を続 つづ けていても、食糧 しょくりょう 不足 ふそく からアドリアノープルはいずれ陥落 かんらく を免 まぬか れなかったはずである。この戦 たたか いのもたらした最大 さいだい の影響 えいきょう は、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の指揮 しき 官 かん たちが、戦争 せんそう の主導 しゅどう 権 けん を手 て にすることをあきらめたということにある。以後 いご 、オスマン軍 ぐん の戦 たたか いぶりは常 つね に精彩 せいさい を欠 か くことになった[ 25] 。
第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう でのギリシャ軍 ぐん の行動 こうどう 。ただし、国境 こっきょう 線 せん は第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう 後 ご のもの。
オスマン帝国 ていこく のインテリジェンスは、ギリシャの作戦 さくせん 方針 ほうしん についての予測 よそく でも、破滅 はめつ 的 てき なほどの誤 あやま ちを犯 おか していた。オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の参謀 さんぼう たちは、ギリシャ軍 ぐん の侵攻 しんこう は、マケドニア 戦線 せんせん とイピロス 戦線 せんせん の双方 そうほう から同 どう 戦力 せんりょく で行 おこな われるものと予想 よそう していた。そのため、オスマン帝国 ていこく 第 だい 2軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は、隷下 れいか 7個 こ 師団 しだん を、それぞれイピロスとマケドニア南部 なんぶ にいるヤンヤ軍団 ぐんだん と第 だい 8軍団 ぐんだん へ均等 きんとう に振 ふ り分 わ けていた。これは西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん にとって致命 ちめい 的 てき な決断 けつだん だった。マケドニア戦線 せんせん の主要 しゅよう 3拠点 きょてん の戦略 せんりゃく 的 てき 中核 ちゅうかく であるサロニカの早期 そうき 陥落 かんらく を招 まね き、その時点 じてん で敗北 はいぼく を事実 じじつ 上 じょう 決定 けってい してしまったのである。対 たい するギリシャ軍 ぐん は、同 おな じく7個 こ 師団 しだん を持 も っていたが、その全 すべ てをマケドニア戦線 せんせん のオスマン帝国 ていこく 第 だい 8軍団 ぐんだん にぶつけ、イピロス戦線 せんせん には計 けい 1個 いっこ 師団 しだん 相当 そうとう の独立 どくりつ 大隊 だいたい 群 ぐん を向 む けたにすぎなかったのであった。当然 とうぜん 、ギリシャ軍 ぐん は、オスマン帝国 ていこく 第 だい 8軍団 ぐんだん に対 たい して優位 ゆうい に立 た ったのであった[ 26] 。
イェニジェの戦 たたか い におけるギリシャ軍 ぐん 歩兵 ほへい 。
宣戦 せんせん 布告 ふこく と同時 どうじ に、ギリシャのテッサリア軍 ぐん は王 おう 太子 たいし に率 ひき いられて北部 ほくぶ へと進軍 しんぐん し、サランダポロンの戦 たたか い でオスマン軍 ぐん の防衛 ぼうえい 線 せん を突破 とっぱ 、サランタポロ (en 、現在 げんざい のラリサ県 けん の都市 とし )へと向 む かった。1912年 ねん 11月2日 にち (ユリウス暦 れき 10月 がつ 20日 はつか )のイェニジェの戦 たたか い でもギリシャ軍 ぐん が勝利 しょうり を収 おさ めた後 のち 、オスマン軍 ぐん サロニカ守備 しゅび 隊 たい 26,000人 にん は降伏 ごうぶく し、同年 どうねん 11月 がつ 9日 にち (ユリウス暦 れき 10月 がつ 27日 にち )にサロニカ市 し は陥落 かんらく した。かくてオスマン側 がわ では、ウストゥルマ軍団 ぐんだん と第 だい 8軍団 ぐんだん の司令 しれい 部 ぶ および2個 こ 正規 せいき 師団 しだん (第 だい 14師団 しだん ・第 だい 22師団 しだん )、4個 こ 予備 よび 師団 しだん (サロニカ、ドラマ、ナスリチ、セレズ)が戦線 せんせん から脱落 だつらく した。しかもサロニカは西部 せいぶ 軍 ぐん 集団 しゅうだん の主 しゅ たる兵器 へいき 集積 しゅうせき 所 しょ であったため、70門 もん の火砲 かほう と30丁 ちょう の機関 きかん 銃 じゅう 、70,000丁 ちょう の小銃 しょうじゅう までもが失 うしな われた。オスマン側 がわ の記録 きろく によると、マケドニア南部 なんぶ での戦死 せんし 者 しゃ は15,000人 にん 、人的 じんてき 損害 そんがい は全部 ぜんぶ で41,000にも及 およ んだ[ 4] 。マケドニアのオスマン軍 ぐん の壊滅 かいめつ は、北 きた でセルビア軍 ぐん と交戦 こうせん 中 ちゅう のワルダル軍 ぐん の運命 うんめい をも決 けっ した。サロニカの陥落 かんらく でワルダル軍 ぐん は戦略 せんりゃく 的 てき に孤立 こりつ 状態 じょうたい となり、補給 ほきゅう も増援 ぞうえん も断 た たれて、壊滅 かいめつ を待 ま つのみとなったのである。
イェニジェの戦 せん の結果 けっか を知 し るや、ブルガリア軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は、リラ第 だい 7師団 しだん を北方 ほっぽう からイェニジェ (en )へと急派 きゅうは した。1週間 しゅうかん 後 ご に同 どう 師団 しだん は目的 もくてき 地 ち へと着 つ いたが、前日 ぜんじつ にギリシャ軍 ぐん が進駐 しんちゅう して守備 しゅび 隊 たい が降伏 ごうぶく した後 のち であった。その後 ご 、11月10日 にち までギリシャ軍 ぐん は占領 せんりょう 地 ち を拡大 かくだい し、ドイラン湖 こ (en )から、カヴァラ の西 にし のパンガイオン山 さん (en )まで制圧 せいあつ した。しかし、マケドニア西部 せいぶ では、ギリシャ軍 ぐん とセルビア軍 ぐん の司令 しれい 部 ぶ 間 あいだ の協力 きょうりょく が欠 か けていたため、1912年 ねん 11月15日 にち (ユリウス暦 れき 11月 がつ 2日 にち )のソロヴィッチの戦 たたか い でギリシャ軍 ぐん が敗 やぶ れて押 お し戻 もど されることになった。これは、ギリシャ第 だい 5師団 しだん が、オスマン帝国 ていこく 第 だい 6軍団 ぐんだん と遭遇 そうぐう 戦 せん になった戦 たたか いである。オスマン第 だい 6軍 ぐん はセルビア軍 ぐん とピルレペ (現 げん プリレプ )での戦 たたか いで負 ま けてアルバニアへ撤退 てったい 中 ちゅう の部隊 ぶたい であったが、ギリシャ軍 ぐん はその存在 そんざい を知 し らされておらず、第 だい 5師団 しだん は孤立 こりつ 状態 じょうたい に陥 おちい ってしまった。優勢 ゆうせい なオスマン軍 ぐん の反撃 はんげき がモナスティルに向 む けられ、ギリシャ軍 ぐん は撤退 てったい に追 お い込 こ まれた。結果 けっか 的 てき に、セルビア軍 ぐん がモナスティルからギリシャ軍 ぐん を叩 はた きだしてしまったといえる。
イピロス 戦線 せんせん では、ギリシャ軍 ぐん は劣勢 れっせい な兵力 へいりょく で開戦 かいせん を迎 むか えたが、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の消極 しょうきょく 的 てき な対応 たいおう のため、1912年 ねん 10月 がつ 21日 にち にプレヴェザ の占領 せんりょう に成功 せいこう し、ついでヨアニナ へ向 む かって北進 ほくしん を続 つづ けた。11月5日 にち にはケルキラ (コルフ)から出撃 しゅつげき したギリシャ軍 ぐん 小 しょう 部隊 ぶたい が、ヒマラ の海岸 かいがん に上陸 じょうりく し、さしたる抵抗 ていこう を受 う けずに占領 せんりょう した[ 27] 。さらに、11月20日 にち には、マケドニア西部 せいぶ から侵入 しんにゅう したギリシャ軍 ぐん がコルチャ へと入城 にゅうじょう した。しかしながら、ギリシャ軍 ぐん のイピロス戦線 せんせん の初期 しょき 兵力 へいりょく では、ビザニ に築 きず かれたドイツ式 しき 要塞 ようさい を攻 せ め落 お とすことはできず、ビザニ防衛 ぼうえい 線 せん に守 まも られたヨアニナへは進軍 しんぐん できなかった。ギリシャ軍 ぐん は停止 ていし して、マケドニア戦線 せんせん からの増援 ぞうえん 部隊 ぶたい を待 ま つことになった[ 28] 。
ビザニの戦 たたか い で戦闘 せんとう 中 ちゅう のギリシャ軍 ぐん 75mm野砲 やほう 。
マケドニア戦線 せんせん の決着 けっちゃく がつくと、ギリシャ軍 ぐん は、その主力 しゅりょく を王 おう 太子 たいし 自 みずか らが率 ひき いてイピロス戦線 せんせん へ転進 てんしん させた。そして、ビザニの戦 たたか い (en )でオスマン軍 ぐん の防衛 ぼうえい 線 せん を突破 とっぱ し、1913年 ねん 3月 がつ 6日 にち (ユリウス暦 れき 2月 がつ 22日 にち )にヨアニナを占領 せんりょう した。ビザニ攻 おさむ 城 しろ 戦 せん の最中 さいちゅう の1913年 ねん 2月 がつ 8日 にち 、ロシア人 じん パイロットのニコライ・サコフ (Николай Ставрович Саков)が操縦 そうじゅう するギリシャ軍 ぐん の複葉 ふくよう 機 き が、ビザニ要塞 ようさい の城壁 じょうへき を爆撃 ばくげき しようとした際 さい に、対空 たいくう 砲火 ほうか によって撃墜 げきつい された。これは、世界 せかい 戦 せん 史上 しじょう で初 はじ めての軍用 ぐんよう 飛行機 ひこうき の被 ひ 撃墜 げきつい 記録 きろく であった。サコフの機 き はプレヴェザ (レフカダ島 とう の北方 ほっぽう 対岸 たいがん )近 ちか くに不時着 ふじちゃく し、親 しん ギリシャの住民 じゅうみん に救助 きゅうじょ されて修理 しゅうり を行 おこな い、再 ふたた び離陸 りりく して基地 きち へと戻 もど った[ 29] 。ヨアニナの陥落 かんらく により、ギリシャ軍 ぐん はイピロス北部 ほくぶ (アルバニアの南部 なんぶ )へと侵攻 しんこう を続 つづ けることができ、同 どう 地域 ちいき を占領 せんりょう した。ギリシャ軍 ぐん の進軍 しんぐん が停止 ていし した時 とき 、その前線 ぜんせん は北方 ほっぽう のセルビア軍 ぐん の支配 しはい 地 ち まで間近 まぢか であった。
海上 かいじょう においては、ギリシャ艦隊 かんたい は開戦 かいせん 初日 しょにち から積極 せっきょく 的 てき な作戦 さくせん 行動 こうどう をとった。1912年 ねん 10月 がつ 6日 にち から10月 がつ 20日 はつか の間 あいだ に、エ え ーゲ海 げかい の東部 とうぶ と北部 ほくぶ に浮 う かぶほとんどの島々 しまじま を、ギリシャ海軍 かいぐん と陸軍 りくぐん の分遣 ぶんけん 隊 たい が占領 せんりょう した。そして、リムノス島 とう のマウドロス湾 わん に前進 ぜんしん 基地 きち を設営 せつえい し、ダーダネルス海峡 かいきょう を制圧 せいあつ 下 か に置 お いた。11月8日 にち には、ニコラオス・ヴォツィス (en )海軍 かいぐん 大尉 たいい を艇 てい 長 ちょう とするギリシャ水雷 すいらい 艇 てい 11号 ごう が、サロニカ港 こう に夜陰 やいん に紛 まぎ れて潜入 せんにゅう 、オスマン装甲 そうこう 艦 かん 「フェトヒ・ビュレント 」を撃沈 げきちん する戦果 せんか をあげて、大 おお いにギリシャ海軍 かいぐん の士気 しき を高 たか めた。
ヘレス岬 みさき 沖 おき 海戦 かいせん におけるギリシャ艦隊 かんたい を描 えが いた絵 え 。先頭 せんとう が「アヴェロフ」で、後 のち に続 つづ くのはイドラ級 きゅう 海防 かいぼう 戦艦 せんかん の各 かく 艦 かん 。
一方 いっぽう 、オスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん は、当初 とうしょ はダーダネルス海峡 かいきょう の内側 うちがわ に引 ひ きこもっていたが、陸上 りくじょう の戦況 せんきょう が悪化 あっか すると、増援 ぞうえん 部隊 ぶたい を緊急 きんきゅう 輸送 ゆそう するためにエ え ーゲ海 げかい への侵入 しんにゅう を試 こころ みた。その結果 けっか 、1912年 ねん 12月16日 にち (ユリウス暦 れき 12月 がつ 3日 にち )にヘレス岬 みさき 沖 おき 海戦 かいせん (en:Battle of Elli ) が起 お きたが、ギリシャ側 がわ 提督 ていとく のパヴロス・クンドゥリオティス (en ) 少将 しょうしょう の卓越 たくえつ した戦術 せんじゅつ 指揮 しき と、ギリシャ艦隊 かんたい 旗艦 きかん 「イェロギオフ・アヴェロフ 」の高速 こうそく 性能 せいのう の前 まえ に、オスマン帝国 ていこく 艦隊 かんたい は敗 やぶ れ去 さ った。
ギリシャ艦隊 かんたい による封鎖 ふうさ を突破 とっぱ するための次 つぎ の策 さく として、オスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん は、防護 ぼうご 巡洋艦 じゅんようかん 「ハミディイェ 」をエ え ーゲ海 げかい に潜入 せんにゅう させて、通商 つうしょう 破壊 はかい を行 おこな わせることを考 かんが えた。ギリシャ側 がわ で「ハミディイェ」に対抗 たいこう 可能 かのう な大型 おおがた 高速 こうそく 艦 かん は「アヴェロフ」しかないため、「アヴェロフ」を釣 つ りだして封鎖 ふうさ 艦隊 かんたい に隙 すき を作 つく ることができると期待 きたい したのである。出撃 しゅつげき した「ハミディイェ」はギリシャ側 がわ の警戒 けいかい 線 せん をすりぬけて、ギリシャの小港 こみなと シロス (en )を砲撃 ほうげき 、碇泊 ていはく 中 ちゅう の商船 しょうせん 1隻 せき を撃沈 げきちん した。その後 ご 、エ え ーゲ海 げかい から地中海 ちちゅうかい 東部 とうぶ へと進出 しんしゅつ するべく航行 こうこう を続 つづ けた「ハミディイェ」だったが、ギリシャの小 しょう 艦艇 かんてい に追 お われて紅海 こうかい へと逃 に げ込 こ んだ。ところがオスマン側 がわ の期待 きたい した「ハミディイェ」追撃 ついげき 命令 めいれい は、ギリシャのクンドゥリオティス少将 しょうしょう には下 くだ ったものの、彼 かれ はこの命令 めいれい を拒絶 きょぜつ してしまった。そのため、4日 にち 後 ご の1913年 ねん 1月 がつ 18日 にち (ユリウス暦 れき 1月 がつ 5日 にち )にオスマン主力 しゅりょく 艦隊 かんたい は再 ふたた びエ え ーゲ海 げかい への侵入 しんにゅう を試 こころ みたが、リムノス島 とう 沖 おき 海戦 かいせん (en:Battle of Lemnos (1913) )で「アヴェロフ」以下 いか のギリシャ艦隊 かんたい に阻止 そし されてしまったのだった。リムノス島 とう 沖 おき 海戦 かいせん での敗北 はいぼく を最後 さいご に、オスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん はダーダネルス海峡 かいきょう 突破 とっぱ を断念 だんねん し、ギリシャのエ え ーゲ海 げかい での制海権 せいかいけん が確立 かくりつ された。後 のち に、ブルガリア第 だい 2軍 ぐん 司令 しれい 官 かん イワノフ将軍 しょうぐん は、ギリシャ海軍 かいぐん がバルカン同盟 どうめい の勝利 しょうり に関 かん して果 は たした役割 やくわり について、「全 ぜん ギリシャ艦隊 かんたい の活動 かつどう は、同盟 どうめい 軍 ぐん の勝利 しょうり の最 もっと も重要 じゅうよう な要素 ようそ であった」と指摘 してき している[ 30] 。
オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん が立 た てこもったシュコドラ の城壁 じょうへき 。
ラドミル・プトニク 将軍 しょうぐん (後 のち に公爵 こうしゃく )指揮 しき するセルビア軍 ぐん は、ワルダル・マケドニア(現在 げんざい のマケドニア共和国 まけどにあきょうわこく 領域 りょういき )で3度 ど の決定的 けっていてき 勝利 しょうり を収 おさ め、この地域 ちいき のオスマン軍 ぐん を巧 たく みに撃滅 げきめつ 、第 だい 一 いち の戦争 せんそう 目的 もくてき であるマケドニア北部 ほくぶ 占領 せんりょう を達成 たっせい した。また、セルビア軍 ぐん は、モンテネグロ軍 ぐん のサンジャク 制圧 せいあつ を支援 しえん し、ブルガリアに対 たい してもアドリアノープル攻略 こうりゃく 戦 せん 支援 しえん のため2個 こ 師団 しだん を派遣 はけん した。セルビア軍 ぐん のマケドニア方面 ほうめん での最後 さいご の作戦 さくせん は、アルバニア中部 ちゅうぶ へ撤退 てったい しようとするオスマン帝国 ていこく ワルダル軍 ぐん の残党 ざんとう の阻止 そし だった。このモナスティルの戦 たたか い の後 のち 、セルビア首相 しゅしょう のニコラ・パシッチ (en:Nikola Pašić )は、プトニク将軍 しょうぐん に対 たい し、他国 たこく に先 さき んじてサロニカを攻略 こうりゃく するよう指示 しじ した。しかし、賢明 けんめい にもプトニク将軍 しょうぐん はこの指示 しじ を拒否 きょひ し、代 か わりに軍 ぐん をアルバニアへと西進 せいしん させた。プトニクは、サロニカを巡 めぐ ってギリシャとブルガリアが衝突 しょうとつ することを予想 よそう し、そうさせることがセルビアのワルダル・マケドニア支配 しはい には好都合 こうつごう と読 よ んだのであった。
その後 ご 、列強 れっきょう の干渉 かんしょう を受 う けてセルビア軍 ぐん はアルバニア北部 ほくぶ およびサンジャクから撤収 てっしゅう することになったが、モンテネグロ軍 ぐん のシュコドラ攻囲 こうい 戦 せん (en )の支援 しえん のため重砲 じゅうほう は残置 ざんち された。1913年 ねん 4月 がつ 23日 にち 、ついに兵糧 ひょうろう が切 き れたオスマン軍 ぐん が開城 かいじょう に応 おう じ、シュコドラ は陥落 かんらく した。
ロンドン条約 じょうやく の締結 ていけつ により、1913年 ねん 5月30日 にち に第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう は終結 しゅうけつ した。この講和 こうわ の結果 けっか 、停戦 ていせん 時点 じてん での前線 ぜんせん がスタトゥス・クオ に基 もと づいて新 しん 国境 こっきょう 線 せん となり、エネズ (en )とミディエ(現 げん クユキョイ en 、古名 こみょう :ミディア、クルクラーレリ県 けん の都市 とし )を結 むす ぶ線 せん より西側 にしがわ のオスマン帝国 ていこく 領 りょう は、すべてバルカン同盟 どうめい に割譲 かつじょう された。また、ロンドン条約 じょうやく では、アルバニア の独立 どくりつ も承認 しょうにん された。アルバニアの国土 こくど の大半 たいはん を占領 せんりょう 下 か においていたギリシャとセルビアの両国 りょうこく は、不承不承 ふしょうぶしょう ながら撤兵 てっぺい に同意 どうい した。
一方 いっぽう 、マケドニア の処分 しょぶん を巡 めぐ っては、ブルガリアとセルビア、ギリシャが対立 たいりつ して結論 けつろん に達 たっ しなかった。北部 ほくぶ マケドニアに関 かん してはブルガリアとセルビア、南部 なんぶ マケドニアに関 かん してはブルガリアとギリシャの主張 しゅちょう が食 く い違 ちが っていた。ブルガリアは軍事 ぐんじ 的 てき 手段 しゅだん による解決 かいけつ をも辞 じ さず、その軍隊 ぐんたい の動員 どういん 解除 かいじょ に応 おう じなかった。ブルガリアとの武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ の兆 きざ しに、ギリシャとセルビアは双方 そうほう の相違 そうい 点 てん について妥協 だきょう することにし、1913年 ねん 5月 がつ 1日 にち に軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を結 むす んだ。5月19日 にち には相互 そうご 友好 ゆうこう 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく が締結 ていけつ された。こうして、第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう の舞台 ぶたい が整 ととの ったのであった。
戦争 せんそう に至 いた る過程 かてい は列強 れっきょう 諸国 しょこく の関心 かんしん をあまり引 び かないで進行 しんこう したが、列強 れっきょう 諸国 しょこく も東方 とうほう 問題 もんだい に関 かん して建前 たてまえ 上 じょう は一応 いちおう の共通 きょうつう 意識 いしき を持 も っており、バルカン諸国 しょこく に対 たい して厳 きび しい警告 けいこく を発 はっ することにした。しかし、内心 ないしん では、列強 れっきょう 各国 かっこく はそれぞれにバルカン地域 ちいき について利害 りがい 対立 たいりつ があり、異 こと なった外交 がいこう 戦略 せんりゃく 上 じょう の対応 たいおう を採 と っていった。そのため、建前 たてまえ に基 もと づいた共同 きょうどう 警告 けいこく の効果 こうか は打 う ち消 け され、戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ 阻止 そし や終結 しゅうけつ 実現 じつげん には結 むす びつかなかった。
ロシア帝国 ていこく は、バルカン同盟 どうめい 結成 けっせい の原動力 げんどうりょく であり、バルカン同盟 どうめい を自己 じこ の仮想 かそう 敵国 てきこく であるオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく と戦 たたか う場合 ばあい の重要 じゅうよう な駒 こま と位置 いち づけていた[ 31] 。しかし、ロシアは、ブルガリアがトラキアとイスタンブールまでも獲得 かくとく を計画 けいかく していることには気 き づいていなかった。実 じつ は、これらの地域 ちいき はロシア自身 じしん も長年 ながねん に渡 わた って狙 ねら っていた領土 りょうど だったのである。ちなみに、ロシアがフランスおよびイギリスとの三 さん 国 こく 協商 きょうしょう を強化 きょうか してきたのは、これらの地域 ちいき 獲得 かくとく のためで、後 のち には中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく との第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん まで招 まね く原因 げんいん となるのである。
フランス第 だい 三 さん 共和 きょうわ 国 こく は、1912年 ねん 時点 じてん ではドイツとの戦争 せんそう 準備 じゅんび は不十分 ふじゅうぶん であると考 かんが えていたため、戦争 せんそう には総 そう じて消極 しょうきょく 的 てき な姿勢 しせい であった。フランスは、同盟 どうめい 国 こく のロシアに対 たい しては、仮 かり にバルカン同盟 どうめい の行動 こうどう がきっかけでロシアとオーストリアが開戦 かいせん した場合 ばあい 、参戦 さんせん する能力 のうりょく は無 な いと伝 つた えていた。しかしながら、フランスは、バルカンでの戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ 阻止 そし のための国際 こくさい 行動 こうどう に、イギリスを引 ひ き入 い れることはできなかった。
イギリス帝国 ていこく は、公式 こうしき にはオスマン帝国 ていこく 存続 そんぞく の親身 しんみ な支援 しえん 者 しゃ であったが、背後 はいご では密 ひそ かにギリシャのバルカン同盟 どうめい 入 い りを勧 すす めていた。イギリスは、ギリシャを同盟 どうめい 入 い りさせることで、ロシアの影響 えいきょう 力 りょく に対抗 たいこう しようと考 かんが えていたのである。また、ロシアのトラキア領有 りょうゆう を容認 ようにん する一方 いっぽう 、ブルガリアに対 たい してもトラキア獲得 かくとく を後押 あとお しし、ロシアよりも優先 ゆうせん させるとの保障 ほしょう を与 あた えていた。
オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく は、アドリア海 あどりあかい からの出口 でぐち 確保 かくほ を目指 めざ し、南方 なんぽう のオスマン支配 しはい 地 ち への領土 りょうど 拡大 かくだい を目論 もくろ んでいた。そのため、これらバルカン半島 ばるかんはんとう 地域 ちいき での領土 りょうど 拡大 かくだい を狙 ねら う国々 くにぐに すべてと対立 たいりつ 関係 かんけい にあった。また、内政 ないせい でも、ハプスブルク家 か は、ドイツ系 けい ・ハンガリー系 けい による二 に 重 じゅう 帝国 ていこく 支配 しはい に反発 はんぱつ するスラブ系 けい 住民 じゅうみん が相当 そうとう 数 すう に上 のぼ るという問題 もんだい を抱 かか えていた。オーストリアは、オーストリア領 りょう のボスニア・ヘルツェゴビナ獲得 かくとく 意欲 いよく をあらわにしているセルビアを敵国 てきこく とし、さらにスラブ系 けい 住民 じゅうみん の扇動 せんどう 工作 こうさく を行 おこな うロシアの最大 さいだい の手先 てさき とみなしていた。しかし、オーストリアは、ドイツに断固 だんこ たる対応 たいおう で協同 きょうどう 歩調 ほちょう を取 と らせることができなかった。はじめこそ、ドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい は、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公 たいこう に対 たい し、オーストリア支援 しえん のためなら世界 せかい 大戦 たいせん も辞 じ さないと伝 つた えていたが、オーストリア国民 こくみん は世界 せかい 大戦 たいせん にはためらいを覚 おぼ えた。最終 さいしゅう 的 てき に、ドイツ帝国 ていこく は、1912年 ねん 12月8日 にち の戦争 せんそう 評議 ひょうぎ 会 かい (en )において、少 すく なくとも1914年 ねん 半 なか ばまでは戦争 せんそう 準備 じゅんび が完成 かんせい しないとの結論 けつろん を出 だ し、オーストリアへもこれを通告 つうこく することにした。その結果 けっか 、セルビアが10月18日 にち のオーストリアの最後 さいご 通牒 つうちょう を受 う け入 い れてアルバニアから撤退 てったい したとき、オーストリアは何 なん らかの実力 じつりょく 行動 こうどう を採 と ることは不可能 ふかのう な状況 じょうきょう だったのである。
ドイツ帝国 ていこく は、オスマン帝国 ていこく の内政 ないせい にまで深 ふか くかかわっており、建前 たてまえ 上 じょう はオスマン帝国 ていこく に対 たい する戦争 せんそう には反対 はんたい の立場 たちば であった。しかし、ドイツはブルガリアを中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく に加 くわ えようと画策 かくさく しており、「ヨーロッパの病人 びょうにん 」(en )と揶揄 やゆ される弱体 じゃくたい 化 か したオスマン帝国 ていこく に替 か えて、親 しん 独 どく 的 てき な大 だい ブルガリアをかつてのブルガリア公国 こうこく の版図 はんと で確立 かくりつ する構想 こうそう も検討 けんとう しつつあった。この大 だい ブルガリア構想 こうそう は、ドイツ系 けい のブルガリア国王 こくおう フェルディナント の存在 そんざい と、その反 はん ロシア的 てき 感情 かんじょう に基 もと づいたものである。
結論 けつろん として、1914年 ねん のサラエボ事件 じけん で再燃 さいねん したオーストリアとセルビアの緊張 きんちょう 関係 かんけい が、オーストリア最後 さいご 通牒 つうちょう で頂点 ちょうてん となった7月 がつ 危機 きき に際 さい し、列強 れっきょう 諸国 しょこく のいずれも十分 じゅうぶん な戦備 せんび は無 な い状態 じょうたい で第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん へと突入 とつにゅう していったのであった。
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