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きたマケドニア

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく
Република Северна Македонија
(マケドニア
Republika e Maqedonisë së Veriut
(アルバニア
北マケドニアの国旗 北マケドニアの国章
国旗こっき (くにあきら)
くに標語ひょうご:なし
国歌こっかДенес Над Македонија(マケドニア
今日きょう、マケドニアのうえ
北マケドニアの位置
公用こうよう マケドニアアルバニア
使つかわれる言語げんごとしてはおもに、トルコロマアルーマニアセルビア[※ 1]
首都しゅと スコピエ
最大さいだい都市とし スコピエ
政府せいふ
大統領だいとうりょう ゴルダナ・シルヤノフスカ=ダフコバ
首相しゅしょう フリスティヤン・ミツコスキ
面積めんせき
総計そうけい 25,333km2146
水面すいめんせきりつ 1.9%[1]
人口じんこう
総計そうけい2017ねん 208まん3000[2]ひと145
人口じんこう密度みつど 82.6[2]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2020ねん 6640おく900まん[3]マケドニア・デナール
GDP(MER
合計ごうけい2020ねん122おく8800まん[3]ドル(131
1人ひとりあたり 5,939.413[3]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2020ねん346おく9300まん[3]ドル(125
1人ひとりあたり 16,769.632[3]ドル
独立どくりつ
ユーゴスラビア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽう共和きょうわこくより)
宣言せんげん1991ねん9月8にち
承認しょうにん
国際こくさい連合れんごう加盟かめい
1993ねん4がつ8にち
げん国号こくごうへの改称かいしょう2019ねん2がつ12にち
通貨つうか マケドニア・デナールMKD
時間じかんたい UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1 MK / MKD
ccTLD .mk
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 389
  1. ^ 憲法けんぽう規定きていされる公用こうようはマケドニアのみであるが、地方自治体ちほうじちたいにおいては、少数しょうすう言語げんご話者わしゃ人口じんこうの2わりえる場合ばあい、その言語げんご自治体じちたいにおいてマケドニアとともに公用こうよう地位ちいみとめられる。これによって、自治体じちたいによってはマケドニア以外いがい言語げんご公用こうようとなっている。また、このうちアルバニアは、国家こっかレベルのじゅん公用こうようともされている。

きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく(きたマケドニアきょうわこく、マケドニア: Република Северна Македонијаアルバニア: Republika e Maqedonisë së Veriut)、通称つうしょうきたマケドニアマケドニア: Северна Македонијаアルバニア: Maqedonia e Veriut)は、東南とうなんヨーロッパバルカン半島ばるかんはんとう南部なんぶに1991ねん建国けんこくされた共和きょうわこく前身ぜんしんユーゴスラビア連邦れんぽう構成こうせいこくであった。みなみギリシャひがしブルガリア西にしアルバニアきたセルビアおよびコソボと、四方しほう他国たこくかこまれた内陸ないりくこくである。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくは、地理ちりてきにはマケドニアばれてきた地域ちいきうち北西ほくせいにあり、現在げんざいではマケドニア地域ちいき全体ぜんたいやく4わりめている。のこりのやく5わりはギリシャに、やく1わりはブルガリアにぞくしている。また、歴史れきしじょうきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく多数たすう民族みんぞくマケドニアじん自称じしょうしょうされるが、かれらはスラヴはなみなみスラヴじん一派いっぱであり、ギリシャけい言語げんごはなしていたとかんがえられる古代こだいマケドニア王国おうこく人々ひとびと直接ちょくせつ連続れんぞくせいはない。これらの理由りゆうから、1991ねん独立どくりつ当初とうしょ国名こくめいマケドニア共和国まけどにあきょうわこく)をめぐり、ギリシャとのあいだ後述こうじゅつするような国名こくめい論争ろんそう(マケドニア呼称こしょう問題もんだいしょうじた。

憲法けんぽううえ正式せいしき名称めいしょうは、マケドニアРепублика Северна Македонија (Republika Severna Makedonija)。通称つうしょう Северна Македонија(Severna Makedonija、セヴェルナ・マケドニア)。じゅん公用こうようアルバニアでの表記ひょうきRepublika e Maqedonisë së Veriut通称つうしょう Maqedonia e Veriut(マチェドニア・エ・ヴェリウト)。

公式こうしき英語えいご表記ひょうきめいは、Republic of North Macedonia略称りゃくしょうNorth Macedonia

日本語にほんごでの表記ひょうきは、きたマケドニアもしくはきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく。2019ねん2がつまではマケドニア、もしくはマケドニア共和国まけどにあきょうわこくであったが、前者ぜんしゃでは地域ちいきとしてのマケドニアと区別くべつがつかない。また日本にっぽん国連こくれん同様どうようマケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく国家こっか承認しょうにんおこなっており、行政ぎょうせい公文こうぶんしょなどにおける日本語にほんご表記ひょうきは「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」となっていたが、2020ねん4がつ1にちに「きたマケドニア」に変更へんこうされた[4]。かつて、日本にっぽんこく外務省がいむしょうではたんに「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国まけどにあきょうわこく」と簡略かんりゃくして表記ひょうきする部分ぶぶん部分ぶぶんてきられた。このほか日本語にほんごでのリリースを発表はっぴょうする機関きかんとして欧州おうしゅう連合れんごう在日ざいにち欧州おうしゅう委員いいんかい代表だいひょう)があるが、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)の加盟かめいこくであるギリシャがマケドニア共和国まけどにあきょうわこく正式せいしき呼称こしょうみとめていないため、通常つうじょう「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」で言及げんきゅうされた。

マケドニアばれる地域ちいき
  きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく
灰色はいいろせんない地理ちりじょうのマケドニア地方ちほう
赤色あかいろせんない古代こだいマケドニア王国おうこく大凡おおよそ

アレクサンドロス大王だいおう有名ゆうめい古代こだいマケドニア王国おうこく領地りょうち自国じこくにあったギリシャは、「本来ほんらいのマケドニアはギリシャである」と主張しゅちょうしている[5]実際じっさい、マケドニアとはきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくのほかにギリシャ(ギリシャりょうマケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)のそれぞれ一部いちぶにもまたがる地域ちいき名称めいしょうである。とくにギリシャりょうはマケドニア地方ちほうの5わりほどをめており、きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく領土りょうど全体ぜんたいの4わりたないことにくわえ、アイガイ(げんヴェルギナ)やペラテッサロニキなどの古代こだいマケドニア王国おうこく当時とうじ主要しゅよう都市としおおくもげんギリシャりょうである。このように、歴史れきしてき古代こだいマケドニアとの継承けいしょうせい、および地理ちりてきにマケドニア地方ちほう全体ぜんたいの4わりたないきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくが「マケドニア(共和きょうわこく)」と名乗なのることへの警戒けいかいかんから、このくにをマケドニアの名称めいしょうぶことをきらい、ヴァルダルスコピエなどと地名ちめい使つかってんだ。同時どうじに、1990年代ねんだいよりマケドニア共和国まけどにあきょうわこく国号こくごうあらためるよう要求ようきゅうした。これにたいしてマケドニア共和国まけどにあきょうわこくがわは、共和きょうわこくにはギリシャりょうマケドニアへの領土りょうどてき野心やしんがないことを説明せつめいし、国名こくめい自国じこくめる権利けんりみとめられるべきであると主張しゅちょうした。

きたマケドニアがマケドニアという国名こくめい独立どくりつした1991ねん以降いこう、ギリシャはマケドニアに経済けいざい制裁せいさいし、マケドニアという国号こくごう古代こだいマケドニアと類似るいじしたヴェルギナのほしもちいた国旗こっき、「周辺しゅうへんこくむマケドニアじん権利けんり擁護ようごする」という内政ないせい干渉かんしょうてき憲法けんぽう条項じょうこうの3つをあらためるよう圧力あつりょくくわえた。このため、マケドニアは国際こくさいてき暫定ざんてい呼称こしょうえ、国旗こっきをヴェルギナのほしとは無関係むかんけいのものにあらため、ギリシャりょうマケドニアへの領土りょうどてき野心やしん明確めいかく否定ひていする憲法けんぽう改正かいせいおこない、1995ねん経済けいざい制裁せいさい解除かいじょされた。この当時とうじのマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊ほうかいによってかつてのユーゴスラビアという市場いちばうしなっただけでなく、ユーゴスラビア紛争ふんそうともなってきた隣接りんせつするセルビア経済けいざい混迷こんめいしたうえ国際こくさいてき経済けいざい制裁せいさいかれていた。また、冷戦れいせん終結しゅうけつによって東西とうざい隣接りんせつするアルバニアおよびブルガリア経済けいざい混乱こんらん状態じょうたいにあるなか、うみたないマケドニアにとって、みなみ隣接りんせつするギリシャの経済けいざい制裁せいさい威力いりょく絶大ぜつだいであった。

マケドニアは1993ねんに「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」(英語えいご表記ひょうき:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称りゃくしょうFYROM」または「FYR Macedonia」) [6]国際こくさい社会しゃかいにおける暫定ざんていてき呼称こしょうとして国際こくさい連合れんごう加盟かめいした。これ以後いごおおくの国々くにぐに国際こくさいてき組織そしきは、この暫定ざんてい名称めいしょうでマケドニアとの関係かんけいった。しかし、2008ねん11月の時点じてんで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく[1]ロシア連邦れんぽうなどやく125かこく国々くにぐには、暫定ざんてい名称めいしょうの「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」ではなく、憲法けんぽうじょう国名こくめいである「マケドニア共和国まけどにあきょうわこく」のでこのくに外交がいこう関係かんけいむすんでいる。

2008ねん、マケドニアとアルバニア、クロアチア北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)加盟かめいについてルーマニア首都しゅとブカレストにてNATO加盟かめいこくあいだ議論ぎろんたれた。このとき、クロアチアおよびアルバニアの加盟かめい承認しょうにんされた一方いっぽう、マケドニアの加盟かめいはギリシャの拒否きょひによって否認ひにんされた。このことはマケドニア国内こくないはげしいいかりをみ、「ブカレスト」は「ひどい仕打しうち」の同義語どうぎごとみなされるようになった。マケドニアがわ国名こくめいかんして一定いってい譲歩じょうほをするわりに、国民こくみんくにあらわ形容詞けいようしとしてたんに「マケドニアの」または「マケドニアじん」とばれることをのぞんだが、ギリシャがわはこれらを否定ひていし、すべ統一とういつてき変更へんこうされなければならないとして譲歩じょうほしめさなかった。マケドニアがわは、国名こくめい問題もんだいかんして国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ提訴ていそした[7]

しかし、2017ねん発足ほっそくしたゾラン・ザエフ政権せいけんはNATOやEU加盟かめい目指めざすため従来じゅうらい強硬きょうこう姿勢しせいあらため、これをギリシャがわ好感こうかん呼称こしょう問題もんだい解決かいけつする機運きうんたかまり、2018ねん1がつには両国りょうこく外相がいしょう会談かいだん作業さぎょう部会ぶかい設置せっち決定けっていされ、国連こくれんによる仲介ちゅうかい再開さいかいされる見通みとおしとなった[8]。2018ねん2がつ、ゾラン・ザエフ首相しゅしょうあたらしい国名こくめいあんとして「きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく(Republic of North Macedonia)」「うえマケドニア共和国まけどにあきょうわこく(Republic of Upper Macedonia)」「ヴァルダル・マケドニア共和きょうわこく(Republic of Vardar Macedonia)」および「マケドニア・スコピエ共和きょうわこく(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つががっていることをあきらかにした[9]

2018ねん6がつ12にち、マケドニアは国名こくめいきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくとすることでギリシャとの政府せいふあいだ合意ごういプレスパ合意ごうい英語えいごばん)が成立せいりつ[10]、17にちには両国りょうこく外相がいしょう暫定ざんていてき合意ごうい文書ぶんしょ署名しょめいした[11][12]正式せいしき決定けっていには両国りょうこく議会ぎかい了承りょうしょうされることが必要ひつようとなった[10]が、両国りょうこく国内こくないには改名かいめい反対はんたいする世論せろん存在そんざいした[13]。マケドニアでは議会ぎかい最大さいだい野党やとう合意ごうい非難ひなん[12]、またイヴァノフ大統領だいとうりょう承認しょうにん拒否きょひする方針ほうしん表明ひょうめいした[14]。ギリシャでも議会ぎかい最大さいだい野党やとう合意ごういたいする支持しじ表明ひょうめい[15]、またアテネ国会こっかいまえ[16]、および署名しょめい式典しきてんひらかれた両国りょうこく国境こっきょうちかサラデス英語えいごばん周辺しゅうへん[12]において、抗議こうぎデモにたい警察けいさつ催涙さいるいだんなどで鎮圧ちんあつにあたる事態じたいとなった。

マケドニアでの国民こくみん投票とうひょう同年どうねん9がつ30にち実施じっしされたが、野党やとうがわがボイコットをびかけたこともあり、投票とうひょうりつやく37%にとどまり成立せいりつ条件じょうけんの50%を下回したまわったため無効むこうとなった[17]今回こんかい投票とうひょう結果けっか法的ほうてき拘束こうそくりょくたないことから、ザエフ首相しゅしょうつづ改名かいめい手続てつづきをすすめ、野党やとう同意どういしなければそう選挙せんきょ早期そうき実施じっしする意向いこう表明ひょうめいした[18]議会ぎかい承認しょうにんプロセスではりょう国内こくない野党やとう勢力せいりょくくずしなどがおこなわれ、まず2019ねん1がつ11にちにマケドニア議会ぎかい国名こくめい変更へんこうのために必要ひつよう憲法けんぽう改正かいせいあん承認しょうにん[19]同年どうねん1がつ25にちにはギリシャ議会ぎかい改名かいめい合意ごうい承認しょうにんされ、呼称こしょう問題もんだいはマケドニアの国名こくめい変更へんこう決着けっちゃくした[20]。2月12にち改名かいめい発効はっこうし、よく13にちには国名こくめい変更へんこう国際こくさい連合れんごう通知つうちした[21]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

古代こだいのマケドニア地域ちいきには、ふるくからひと居住きょじゅうしており、イリュリアじんトラキアじん[注釈ちゅうしゃく 1]などの部族ぶぞく割拠かっきょしていた。紀元前きげんぜん4世紀せいきから紀元前きげんぜん3世紀せいきにかけて、現在げんざいきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく相当そうとうするマケドニア地域ちいき北部ほくぶマケドニア王国おうこく支配しはいとなっていった。マケドニア王国おうこくアレクサンドロス3せい(いわゆる「アレキサンダー大王だいおう」)の時代じだいに、アジアエジプトおよ最大さいだい版図はんととなるが、その死後しごくに分裂ぶんれつ紀元前きげんぜん2世紀せいきには西にしから勢力せいりょく拡大かくだいしたマ帝国まていこく支配しはいとなっていった。紀元前きげんぜん146ねん、この地域ちいき正式せいしきマ帝国まていこくマケドニアぞくしゅう一部いちぶとされた。マ帝国まていこく東西とうざいかれると、マケドニアはひがしマ帝国まていこく一部いちぶとなった[22]

サムイルによってプレスパてられた聖堂せいどうあと。ここにはサムイルのはかがある。

中世ちゅうせいのマケドニア地域ちいきには、きたから西にしゴートぞくフンぞくアヴァールそしてスラヴじんなどが侵入しんにゅうかえした。7世紀せいき初頭しょとうには、この地域ちいきおおくはスラヴじん居住きょじゅう地域ちいきとなっていた。スラヴじんたちは、それぞれことなる時期じき段階だんかいてきにこの地域ちいきはいってきた。スラヴじん居住きょじゅう地域ちいきは、げんギリシャりょうテッサロニキなどをふくむ、マケドニア地域ちいきのほぼ全域ぜんいき拡大かくだいしていった[22]680ねんごろ、クベル英語えいごばんひきいられたブルガールじん一派いっぱがマケドニアに流入りゅうにゅうした。

9世紀せいき後半こうはん、テッサロニキ出身しゅっしんキュリロスメトディオス兄弟きょうだいによってキリスト教きりすときょう聖書せいしょがスラヴ翻訳ほんやくされた。9世紀せいき北方ほっぽうから侵入しんにゅうしてひがしマ帝国まていこく衝突しょうとつしながら勢力せいりょく拡大かくだいしていっただいいちブルガリア帝国ていこくは、9世紀せいきまつシメオン1せいとき最盛さいせいむかえ、マケドニア地方ちほうもその版図はんとおさめられた。キュリロスとメトディオスの弟子でしたちにはスラヴ聖書せいしょもちい、ブルガリア帝国ていこく支援しえんした、スラヴじんたちにキリスト教きりすときょう布教ふきょうしていった。シメオンの死後しご、ブルガリア帝国ていこく次第しだい衰退すいたいし、マケドニア地方ちほうふたたひがしマ帝国まていこく支配しはいとなった[22]

978ねん、マケドニア出身しゅっしんサムイルはこのひがしローマにたいする反乱はんらんこした。サムイルはこの地方ちほうオフリド首都しゅととしてブルガリア帝国ていこく再建さいけんし、かれした再度さいどブルガリア帝国ていこく急速きゅうそく拡大かくだいむかえた。しかし、1014ねんにサムイルが死去しきょするとブルガリア帝国ていこくはそのちからうしない、1018ねんには完全かんぜん滅亡めつぼうし、ふたたひがしローマの支配しはいかえした[22]。その、この地方ちほうきたこったセルビアじん地方ちほう国家こっか乱立らんりつやその地方ちほう領主りょうしゅ群雄割拠ぐんゆうかっきょ状態じょうたいて、12世紀せいきすえごろには新興しんこう勢力せいりょくだいブルガリア帝国ていこくセルビア王国おうこく、そしてラテン帝国ていこくニカイア帝国ていこくといった十字軍じゅうじぐん国家こっかあいだ勢力せいりょくあらそいがひろげられる[22]

十字軍じゅうじぐん退しりぞけて復活ふっかつしたひがしマ帝国まていこくやブルガリア帝国ていこくは、ひがしから伸張しんちょうしてきたオスマン帝国ていこくによって国力こくりょくとた。その間隙かんげきいてセルビア王国おうこくステファン・ウロシュ3せいデチャンスキした大幅おおはば領土りょうど拡大かくだい成功せいこうし、マケドニア地方ちほう全域ぜんいき支配しはいおさめた。その息子むすこステファン・ウロシュ4せいドゥシャンしたでセルビアは絶頂ぜっちょうむかえ、ウロシュ4せいスコピエ首都しゅととして同地どうちにて1345ねん、「セルビアじんとローマじん皇帝こうてい」として戴冠たいかん皇帝こうてい即位そくいする。しかし、ウロシュ4せい死後しごはセルビアは地方ちほう領主りょうしゅ割拠かっきょする状態じょうたいとなり、1371ねんマリツァがわたたかなどをてマケドニアはオスマン帝国ていこく支配しはいとなった[22]

オスマン帝国ていこく統治とうち時代じだいには、支配しはい人々ひとびと分類ぶんるい言語げんご民族みんぞくではなく、宗教しゅうきょう所属しょぞくいていた。これらの人々ひとびと帰属きぞく意識いしきキリスト教きりすときょう正教会せいきょうかい信仰しんこうかれ、マケドニアじんという民族みんぞく意識いしき民族みんぞく名称めいしょう存在そんざいしなかった。教会きょうかい管轄かんかつコンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょう(コンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょう)であった。ながいオスマン帝国ていこく支配しはい多様たよう民族みんぞく混在こんざいすすみ、マケドニア地域ちいきにはスラヴじんアルーマニアじんトルコじんアルバニアじんギリシャじんロマユダヤじんなどが居住きょじゅうしていた。この地域ちいきのスラヴじんはな言語げんごブルガリアちかく、マケドニア地方ちほうのスラヴじんはブルガリアじんとみなされていた。

19世紀せいきセルビア王国おうこくギリシャ王国おうこくがオスマン帝国ていこくから独立どくりつたすと、この地域ちいきトルコじんとくせい教徒きょうとあいだではオスマン帝国ていこくからの分離ぶんりうごきが加速かそくした。1878ねんブルガリア公国こうこく成立せいりつすると、いちはマケドニア全域ぜんいきがブルガリア公国こうこく領土りょうどとされたものの、ブルガリアの独立どくりつ支援しえんしたロシア帝国ていこく影響えいきょうりょく拡大かくだいおそれた列強れっきょう諸国しょこくによってブルガリアの領土りょうどは3分割ぶんかつされ、マケドニア地方ちほうはオスマン帝国ていこくりょうふくした。マケドニアで最大さいだい人口じんこうっていたスラヴじんあいだでは、マケドニアの分離ぶんりとブルガリアへの併合へいごうもとめるうごきがつよまり、内部ないぶマケドニア・アドリアノープル革命かくめい組織そしきなどのはんオスマン帝国ていこく組織そしき形成けいせいされた。このころ、マケドニア地域ちいきのスラヴじんおおくはブルガリアじん自認じにんしていたが、ブルガリアじんとはことなる独自どくじマケドニアじんとしての民族みんぞく自認じにん芽生めばはじめていた。

内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきゴツェ・デルチェフらの指導しどうした武装ぶそう蜂起ほうきすすめ、1903ねん8がつイリンデン蜂起ほうき英語えいごばんこした(このとしグレゴリオれき8がつ2にちは、ユリウスれきでは7がつ20日はつかきよしエリヤであり、イリンデンとはせいエリヤの意味いみする)。イリンデン蜂起ほうき失敗しっぱいわったものの、この地域ちいきのスラヴじんによるはんオスマン帝国ていこく闘争とうそうつづき、また、比較的ひかくてきオスマン帝国ていこくへの親和しんわせいたかかったアルバニアじんあいだでもプリズレン連盟れんめい中心ちゅうしんにオスマン帝国ていこくからの自立じりつもとめるうごきがたかまった。また、マケドニアを自国じこくりょうへとむことをねらっていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数ふくすう組織そしきがマケドニア地方ちほう浸透しんとうしていった。1912ねんだいいちバルカン戦争せんそうとき内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきはブルガリアぐんがわについてオスマン帝国ていこくたたかった。だいいちバルカン戦争せんそうによって、オスマン帝国ていこくはマケドニア地域ちいき手放てばなすこととなったが、マケドニア地方ちほう全域ぜんいき自国じこくりょうとすることをもとめたブルガリアと、マケドニアの分割ぶんかつ支配しはいもとめたセルビア、ギリシャのあいだ対立たいりつこり、よく1913ねんだいバルカン戦争せんそうへと発展はってんした。

マケドニア分割ぶんかついろられているのが、オスマン帝国ていこく放棄ほうきした領土りょうど。このうち北西ほくせいがわ緑色みどりいろ部分ぶぶんきた隣接りんせつするセルビアの領土りょうどとなった。

セルビアおよびユーゴスラビア統治とうち時代じだいについて記述きじゅつする。だいバルカン戦争せんそうではマケドニア地域ちいき南部なんぶ5わりはギリシャ、西北せいほく4わりはセルビア(ユーゴスラビア王国おうこく)が奪取だっしゅし、ブルガリアは1わり確保かくほするにとどまった。このときのセルビアりょうマケドニアが、のちのきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく領土りょうどとなった。ギリシャりょう、セルビアりょうのマケドニアでは、ブルガリアの支援しえんけた抵抗ていこう運動うんどう活発かっぱつこったが、だいいち世界せかい大戦たいせん中央ちゅうおう同盟どうめいがわについたブルガリアが敗北はいぼくすると、ヌイイ条約じょうやくによりギリシャりょうマケドニアのスラヴじん住民じゅうみん交換こうかん対象たいしょうとなった。このときすべてのスラヴじん母国ぼこくはブルガリアとされ、自身じしんをギリシャじん宣誓せんせいしたもの以外いがいすべてブルガリアへと追放ついほうされた。他方たほう、ユーゴスラビアとなったセルビアりょうマケドニアではその内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきによる抵抗ていこう運動うんどうつづき、1934ねんにはユーゴスラビアおうアレクサンダル1せい暗殺あんさつした。

だい世界せかい大戦たいせんとき枢軸すうじくこくユーゴスラビアに侵攻しんこうした。枢軸すうじくがわについたブルガリアはユーゴスラビアりょうマケドニアのだい部分ぶぶん支配しはいおさめ、マケドニア併合へいごうゆめ実現じつげんする。マケドニアのブルガリアへの統合とうごう歓迎かんげいする内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき右派うははブルガリアによる占領せんりょう統治とうち協力きょうりょくするが、ブルガリアから独立どくりつした統一とういつマケドニア実現じつげん志向しこうした左派さは勢力せいりょくは、ヨシップ・ブロズ・チトーひきいる共産きょうさん主義しゅぎしゃパルチザンとして枢軸すうじくこく抵抗ていこうした。1944ねんには枢軸すうじくこくたいする抵抗ていこう勢力せいりょくマケドニア人民じんみん解放かいほうはんファシスト会議かいぎした統一とういつされた。

ユーゴスラビア連邦れんぽう構成こうせいこくとして成立せいりつしたマケドニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

だい世界せかい大戦たいせんでブルガリアが敗退はいたいし、ユーゴスラビアがマケドニア北西ほくせい支配しはい回復かいふくすると、ユーゴスラビアはチトーの指導しどうした共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいをとる連邦れんぽう国家こっかとなった。マケドニア人民じんみん解放かいほうはんファシスト会議かいぎ決定けっていしたがって、ユーゴスラビアりょうマケドニアはマケドニア人民じんみん共和きょうわこく1963ねんよりマケドニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく)となった。ユーゴスラビア連邦れんぽうしたでは、ブルガリアじんとはことなるマケドニアじん意識いしき涵養かんようされ、またスコピエ方言ほうげん基礎きそとしたマケドニア正書法せいしょほう確立かくりつされた。

1963ねんにはスコピエ大震災だいしんさいマケドニアばん発生はっせいし、死者ししゃ1,100にんした。ユーゴ時代じだいは、きたマケドニア、セルビア、クロアチア地域ちいきは、チトー[注釈ちゅうしゃく 2]統治とうちのもと分裂ぶんれつせずに統合とうごうたもった。また、ユーゴとはべつ独立どくりつこくであったアルバニアは、しん中国ちゅうごくくにとしてられ、国連こくれんにアルバニア決議けつぎあん提出ていしゅつするなどした。

1991ねん-1995ねん国旗こっき

1990ねん冷戦れいせん終結しゅうけつ影響えいきょうけ、ユーゴスラビアでは戦後せんごはじめての複数ふくすう政党せいとうせいによる民主みんしゅ選挙せんきょおこなわれた[23]。マケドニアでも国名こくめいから「社会しゃかい主義しゅぎ」のかたりはずし、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく改称かいしょうされた。マケドニア同様どうようにユーゴスラビアの構成こうせいこくであったスロベニアクロアチアでは独立どくりつ志向しこうする勢力せいりょく圧倒的あっとうてき勝利しょうりおさめ、ユーゴスラビアからの独立どくりつ宣言せんげんした。

これをけてマケドニアでも独立どくりつ準備じゅんびすすめられ、1991ねん9月8にち、マケドニア大統領だいとうりょうキロ・グリゴロフした、マケドニアは独立どくりつ宣言せんげんした。

独立どくりつこくとなったマケドニアは、古代こだいマケドニア王朝おうちょうのシンボルであるヴェルギナのほし(「ヴェルギナの太陽たいよう」ともいう)をえがいた国旗こっき制定せいていした。ユーゴスラビア連邦れんぽうぐん保有ほゆうする兵器へいきをマケドニアがわあたえず、すべてセルビアがわることを条件じょうけんに、1992ねん3がつにはユーゴスラビア連邦れんぽうぐん撤退てったい実現じつげんされた[24]

1993ねん1がつ国連こくれん加盟かめい申請しんせいするが、ギリシャとのあいだで「国名こくめい論争ろんそう」が勃発ぼっぱつし、4がつ暫定ざんてい国名こくめい「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」で国連こくれん加盟かめい承認しょうにんされた。しかし、ギリシャは納得なっとくせず、1994ねん2がつ経済けいざい封鎖ふうさされた。このとき国旗こっき変更へんこうし、憲法けんぽう一部いちぶ改正かいせいした。1995ねんにはギリシャの経済けいざい封鎖ふうさ解除かいじょされた。

1998ねんそう選挙せんきょ結果けっか共産きょうさん主義しゅぎ時代じだい政権せいけんとうであったマケドニア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめいながれをマケドニア社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいわり、中道右派ちゅうどううは政党せいとう転向てんこうした内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき・マケドニア国家こっか統一とういつ民主党みんしゅとう中心ちゅうしんとする連立れんりつ政権せいけん成立せいりつ1999ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではどうとうボリス・トライコフスキ首相しゅしょうとなった。

前述ぜんじゅつのように、マケドニアからはおおきな衝突しょうとつなしにセルビアじん勢力せいりょく(ユーゴスラビアぐん)が撤退てったいし、ユーゴスラビア紛争ふんそう前半ぜんはん激戦げきせんとなったクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナくらべて平穏へいおん独立どくりつ達成たっせいした。しかし、1990年代ねんだい後半こうはん隣接りんせつするセルビアりょうコソボ自治じちしゅう発生はっせいしたコソボ紛争ふんそうによって、セルビアがわ勢力せいりょく迫害はくがいおそれたアルバニアじん難民なんみん大量たいりょうマケドニア共和国まけどにあきょうわこくながんだ。セルビアがコソボ自治じちしゅうから撤退てったいしたのちかれらのおおくはコソボへと帰還きかんしていった。

2001ねん、マケドニア国内こくない人口じんこうの2わりきょうめるアルバニアじんたいする待遇たいぐう不満ふまんものたちによって、武装ぶそう勢力せいりょく民族みんぞく解放かいほうぐん」が結成けっせいされた。民族みんぞく解放かいほうぐんコソボ解放かいほうぐんふかいつながりが指摘してきされる武装ぶそう勢力せいりょくで、コソボ紛争ふんそうわって自由じゆうになったコソボ解放かいほうぐん武器ぶき人員じんいんおおふくまれている。2月の民族みんぞく解放かいほうぐん蜂起ほうきによってこったマケドニア紛争ふんそうは、8がつにアルバニアじんとの権力けんりょく分有ぶんゆうや、アルバニアでの高等こうとう教育きょういくなどをふくむ、アルバニアじん民族みんぞくてき権利けんり拡大かくだいみとめる和平わへい合意ごうい文書ぶんしょオフリド合意ごうい)が調印ちょういんされて終結しゅうけつした。和平わへい監視かんしのためにNATOぐん駐留ちゅうりゅう開始かいしした。同年どうねん11がつには、オフリド合意ごういもとづいて議会ぎかい憲法けんぽう改正かいせい可決かけつされた[23]

2002ねん9月のそう選挙せんきょでは、マケドニア社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい政権せいけん奪還だっかんし、民族みんぞく解放かいほうぐん改組かいそしたアルバニアじん政党せいとう民主みんしゅ統合とうごう連合れんごう」と連立れんりつ政権せいけんんだ。そのもアルバニアけい武装ぶそう勢力せいりょくによるテロ事件じけんや、警察けいさつとの衝突しょうとつ散発さんぱつてきこったが、治安ちあん回復かいふくし、平穏へいおん推移すいいをみせている。2006ねん2008ねんそう選挙せんきょでは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき勝利しょうりおさめたが、つねにアルバニアじん政党せいとうとの連立れんりつ政権せいけんんでおり、アルバニアじん政党せいとうとマケドニアじん政党せいとうによる権力けんりょく分有ぶんゆう定着ていちゃくしつつある。アルバニア教育きょういくをはじめとするアルバニアじん民族みんぞくてき権利けんりまもられており、国内こくないのマケドニアじんとアルバニアじん関係かんけい比較的ひかくてき良好りょうこうである[23]

2008ねん2がつには、隣接りんせつするコソボ独立どくりつ宣言せんげんした。マケドニアのアルバニアじん中心ちゅうしんにコソボの独立どくりつ承認しょうにんするうごきがつよまった結果けっか同年どうねん10がつマケドニア共和国まけどにあきょうわこくはコソボの独立どくりつ承認しょうにんし、2009ねん正式せいしき外交がいこう関係かんけい樹立じゅりつされた。

2019ねん1がつには国名こくめいきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくとすることが決定けってい。2月12にち改名かいめい発効はっこうした。2020ねん3月27にちNATO加盟かめいした。

政治せいじ

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きたマケドニア議会ぎかい議事堂ぎじどう

きたマケドニアは共和きょうわせい議院ぎいんないかくせい採用さいようする立憲りっけん国家こっかである。現行げんこう憲法けんぽうは1991ねん11月17にち制定せいていされ、同月どうげつ20にち施行しこうされたものである(そのすう改正かいせいている)。

行政ぎょうせい

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国家こっか元首げんしゅである大統領だいとうりょう国民こくみん直接ちょくせつ選挙せんきょ選出せんしゅつされ、任期にんきは5ねん、3せん禁止きんしされている。大統領だいとうりょう元首げんしゅとしてきたマケドニアを代表だいひょうし、形式けいしきてき国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんおよび治安ちあん評議ひょうぎかい議長ぎちょうつとめる。しかし、その権限けんげんは、儀礼ぎれいてきなものにかぎられている。実際じっさい政治せいじ行政府ぎょうせいふたる内閣ないかくひきいる。そう選挙せんきょはつ議会ぎかい首相しゅしょう選出せんしゅつされ、その議会ぎかいにより閣僚かくりょう選出せんしゅつおこなわれる。

議会ぎかい

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きたマケドニア議会ぎかい一院制いちいんせいで、定数ていすうは123である。議員ぎいん比例ひれい代表だいひょうせいにより選出せんしゅつされ、任期にんきは4ねんである。

政党せいとう

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きたマケドニアでは複数ふくすう政党せいとうせい機能きのうしている。おも政党せいとうには中道右派ちゅうどううは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき・マケドニア国家こっか統一とういつ民主党みんしゅとう(VMRO-DPMNE)と中道ちゅうどう左派さはマケドニア社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい(SDSM)の2とうがある[23]きたマケドニアのアルバニアじん代表だいひょうする政党せいとうは、アルバニアじん民主党みんしゅとうと、民族みんぞく解放かいほうぐんから改組かいそした民主みんしゅ統合とうごう連合れんごうの2とうがある。

大統領だいとうりょうもVMRO-DPMNEとSDSMのりょうとうから輩出はいしゅつされており、2019ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、SDSMの推薦すいせんするステボ・ペンダロフスキがVMRO-DPMNEの推薦すいせんする大学だいがく教授きょうじゅゴルダナ・シルヤノフスカ=ダフコバやぶってはつ当選とうせんたした[25]。しかし、2024ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではシルヤノフスカ=ダフコバがペンダロフスキをくだし、大統領だいとうりょう就任しゅうにんした[26]

司法しほう

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司法しほうけん裁判所さいばんしょによって行使こうしされ、裁判所さいばんしょ制度せいど司法しほう最高さいこう裁判所さいばんしょ憲法けんぽう裁判所さいばんしょ[27] および共和党きょうわとう司法しほう評議ひょうぎかい主導しゅどうしている。

議会ぎかい裁判官さいばんかんを31にん任命にんめいすることができる。うち22にん最高裁判所さいこうさいばんしょ、9にん憲法けんぽう裁判所さいばんしょ配属はいぞくされている。最高さいこう裁判所さいばんしょ裁判官さいばんかんは、7にん法律ほうりつ専門せんもんから構成こうせいされる司法しほう評議ひょうぎかいによって指名しめいされたうえで、議会ぎかいによって任命にんめいされる。憲法けんぽう裁判所さいばんしょ裁判官さいばんかんは9ねん任期にんきとなっており、議会ぎかいによって任命にんめいされる。ただし、任期にんき更新こうしん不可ふかとされている。

国際こくさい関係かんけい

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ひだりから)クロアチア首相しゅしょうイーヴォ・サナデル、アメリカ大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュ、アルバニア首相しゅしょうサリ・ベリシャ、マケドニア首相しゅしょうニコラ・グルエフスキ。クロアチア、アルバニア、マケドニアの3こくはアドリア・グループとして協力きょうりょくしてNATOりを目指めざしたが、マケドニアのNATO加盟かめいはギリシャの拒絶きょぜつった。

東欧とうおう南欧なんおうとの関係かんけい

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マケドニアの独立どくりつ最初さいしょ承認しょうにんしたのはひがし隣国りんごくブルガリアであった。歴史れきしてきにブルガリアは、マケドニアじんはブルガリアじん、マケドニアブルガリア一部いちぶであるとみなし、マケドニアをふくむマケドニア地域ちいき全体ぜんたいへの領土りょうどてき執着しゅうちゃくつづけてきた[23]。ブルガリアはマケドニアの独立どくりつみとめる立場たちばをとりつつ、その民族みんぞく言語げんご独自どくじせいには否定ひていてき見解けんかいかえ表明ひょうめいしている[23]。そのため、マケドニアでは、ブルガリアはマケドニアの存在そんざいそのものをおどかしかねないものとして警戒けいかいされている。しかし一方いっぽうで、周辺しゅうへん地域ちいき緊張きんちょう関係かんけいなやまされるマケドニアにとってブルガリアは最大さいだい擁護ようごしゃでもあり、両国りょうこく関係かんけい複雑ふくざつである。きたマケドニアのNATO加盟かめい実現じつげんしたが、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)加盟かめい前述ぜんじゅつ言語げんご問題もんだい理由りゆうとしたブルガリアの反対はんたいけている。これにたいして、ザエフ首相しゅしょうは「EUの価値かちかんはんしている」と反論はんろんしている[28]

マケドニアは、1990年代ねんだい前半ぜんはんユーゴスラビア崩壊ほうかいともなうユーゴスラビア連邦れんぽうからの独立どくりつさいして、戦禍せんかまれることなく平和へいわてき独立どくりつたした唯一ゆいいつ国家こっかである[注釈ちゅうしゃく 3]。そのため、連邦れんぽう解体かいたい反対はんたい立場たちばにあったセルビアや、そのきゅうユーゴスラビア諸国しょこくたいする国民こくみん感情かんじょうは、きゅうユーゴスラビア諸国しょこく国民こくみんくらべるとおだやかである。

2008ねん10月にセルビアが自国じこくりょうかんがえるコソボを、マケドニアは国家こっかとして承認しょうにんした。セルビア共和国せるびあきょうわこくはこれをれられないとし、マケドニアに駐在ちゅうざいする大使たいし召還しょうかんするとともに、セルビアに駐在ちゅうざいするマケドニアの大使たいしペルソナ・ノン・グラータとして国外こくがい追放ついほうした。そのマケドニアはあたらしい大使たいしをセルビアに着任ちゃくにんさせた。

きたマケドニアには、人口じんこうの2わりから3わり程度ていどのアルバニアじん居住きょじゅうしており、アルバニアおよびコソボをんでのだいアルバニア主義しゅぎ伸張しんちょう国土こくど統一とういつおびやかす問題もんだいとして警戒けいかいされている。1997ねん暴動ぼうどう混乱こんらん状態じょうたいおちいったアルバニアでは、コソボ独立どくりつもとめるアルバニアじん武装ぶそう勢力せいりょくコソボ解放かいほうぐん」が拠点きょてんもうけ、人員じんいんあつめ、またぐん施設しせつから略奪りゃくだつされた武器ぶきあつめていたとかんがえられている。コソボ紛争ふんそうわると、その武器ぶき人員じんいん一部いちぶがマケドニアのアルバニアじん武装ぶそう勢力せいりょく民族みんぞく解放かいほうぐん」にもたらされたとかんがえられている。このようなことから、アルバニアおよびコソボの安定あんていきたマケドニアにとって死活しかつてき問題もんだいとなっている。マケドニアは、2008ねん2がつにコソボが独立どくりつすると、10月に同国どうこく国家こっか承認しょうにんした。2009ねんには両国りょうこくあいだ外交がいこう関係かんけい樹立じゅりつされた。

みなみのギリシャとは先述せんじゅつしたマケドニア呼称こしょう問題もんだいかかえていたほか、スラヴけいの「マケドニアじん」という民族みんぞく自認じにんや、「マケドニア」という言語げんご呼称こしょう問題もんだいとなっている。ギリシャには、だいいち世界せかい大戦たいせんヌイイ条約じょうやくさだめる住民じゅうみん交換こうかんによってギリシャからブルガリアに追放ついほうされるのをのがれるために、自身じしんをギリシャじん宣誓せんせいしてギリシャりょうマケドニアとどまった少数しょうすうのスラヴじんんでいる。このスラヴじんなかでも、1991ねんマケドニア共和国まけどにあきょうわこく独立どくりつ以降いこう自身じしんを「マケドニアじん」とかんがえる人々ひとびとあらわれている。ギリシャでは公式こうしきにはスラヴけい「マケドニアじん」という少数しょうすう民族みんぞく存在そんざいみとめられておらず、かれらの民族みんぞくてき文化ぶんかてき権利けんり追求ついきゅう両国りょうこくあいだ問題もんだいとなっている。

また、マケドニア国内こくないではギリシャりょうやブルガリアりょうふくめた統一とういつマケドニアかんする議論ぎろんおおられ、右派うは政党せいとう内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき・マケドニア国家こっか統一とういつ民主党みんしゅとうもかつてはこれを党是とうぜふくめていた。ギリシャは、マケドニアが独立どくりつしばらくその国名こくめいあきらめないこととあわせて、マケドニアが潜在せんざいてきにギリシャりょうマケドニアにたいする領土りょうどてき野心やしんつことを警戒けいかいした。

ギリシャは国名こくめい言語げんご民族みんぞく呼称こしょうなどにかんする問題もんだいかかえている一方いっぽうで、これらの問題もんだい解決かいけつされれば地域ちいき安定あんてい繁栄はんえいのために、マケドニア共和国まけどにあきょうわこくのNATOおよび欧州おうしゅう連合れんごう加盟かめいのぞましいとしている。ギリシャはドイツとならんでマケドニアの最大さいだい貿易ぼうえき相手あいてこくであり、両国りょうこく経済けいざいふかむすびつきをっている。マケドニアとギリシャをむす幹線かんせん道路どうろ建設けんせつすすめられ、マケドニアはギリシャから多数たすう投資とうしんでいる。きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくはギリシャとくらべると物価ぶっか賃金ちんぎんやすく、ギリシャけの生産せいさん拠点きょてん、あるいはギリシャからショッピング・観光かんこうともなっている。

地域ちいき統合とうごう

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きたマケドニアはちゅうおう自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうてい南東なんとうおう協力きょうりょくプロセス加盟かめいしており、ユーゴスラビア崩壊ほうかいあたらしいバルカン諸国しょこく地域ちいき協力きょうりょく体制たいせい枠組わくぐみにくわわっている。2021ねん7がつまつには、ひとやモノ、かね自由じゆう移動いどう保障ほしょうする経済けいざいけん構想こうそう「オープンバルカン・イニシアチブ」のげをセルビアおよびアルバニアとともに提唱ていしょうした[29]。またNATOおよび欧州おうしゅう連合れんごう(EU)加盟かめい目指めざしてきた。

2019ねん2がつきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくへの国号こくごう変更へんこうで、NATOとEUの加盟かめいこくであるギリシャによる反対はんたい解消かいしょうしたため、NATO加盟かめいこくとマケドニアは2019ねん2がつ6にち、マケドニアを30番目ばんめのNATO加盟かめいこくとする議定ぎていしょ署名しょめい[30]、2020ねん3がつ27にち正式せいしき加盟かめいした[31]一方いっぽうで、EUへの加盟かめいについては国名こくめい変更へんこうの2019ねん10がつのEU首脳しゅのう会議かいぎでフランスに加盟かめいこばまれた[32]が、2020ねん3がつには加盟かめい交渉こうしょうはいることで合意ごういしている[33]

2005ねん、マケドニアは「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」ので、正式せいしき欧州おうしゅう連合れんごう加盟かめい候補こうほこくとなった。ニコラ・グルエフスキ首相しゅしょうは2014ねんごろの加盟かめい目指めざすとしていたが、2008ねん後半こうはん欧州おうしゅう連合れんごう議長ぎちょうこくとなったフランスのニコラ・サルコジ大統領だいとうりょうは、マケドニアの欧州おうしゅう連合れんごうへの参加さんかには国名こくめい問題もんだい解決かいけつ前提ぜんていとなるとかえ表明ひょうめいし、マケドニアの国民こくみん政府せいふ関係かんけいしゃ失望しつぼうさせた。国名こくめい問題もんだいは2019ねん解決かいけつしたが、バルカン半島ばるかんはんとう諸国しょこくがEUに加盟かめいすることで移民いみん西欧せいおう諸国しょこく流入りゅうにゅうしやすくなり、移民いみん反対はんたいかかげる政党せいとう増長ぞうちょうしかねないと懸念けねんするフランスやオランダデンマークなどはその加盟かめい交渉こうしょうりに反対はんたいつづけた。2020ねん2がつには加盟かめい候補こうほこく改革かいかくおくれれば交渉こうしょうめられるといった加盟かめい手続てつづきの改革かいかくあん欧州おうしゅう委員いいんかい提示ていじし、フランスなどが評価ひょうか。3月24にち加盟かめい交渉こうしょうりすることが決定けっていした[33]

2008ねん、NATOはアルバニアおよびクロアチアの加盟かめいみとめる一方いっぽう、マケドニアの加盟かめいはギリシャの拒否きょひけん行使こうしによって否定ひていされた。マケドニアはクロアチア、アルバニアと同時どうじのNATO加盟かめい勧告かんこくされており、マケドニアにたいする加盟かめい拒否きょひ国内こくないはげしいいかりをんだ。アメリカは「マケドニア共和国まけどにあきょうわこく」の呼称こしょうみとめており、このときのアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領だいとうりょうアフガニスタンイラクにもぐん派兵はへいしている同盟どうめいこくマケドニアのNATO加盟かめいつよ支持しじしている。

一方いっぽうロシアバルカン半島ばるかんはんとうでのNATO加盟かめいこく増加ぞうか妨害ぼうがいするため、マケドニア国内こくないたいして、ギリシャとの和解わかいおよび米国べいこくやNATO、EUにたいする反感はんかんたかめる政治せいじ世論せろん工作こうさく展開てんかいしていると報道ほうどうされている(ロシアは否定ひてい[34]

2020ねん3がつ27にち、30番目ばんめ加盟かめいこくとしてNATOに加盟かめいした[35]

たいにち関係かんけい

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ちゅうにちきたマケドニア大使館たいしかん

地理ちり

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マケドニアの地図
マケドニアの地図ちず
コラプさん

きたマケドニアは欧州おうしゅう南東なんとうバルカン半島ばるかんはんとう中央ちゅうおう位置いちし、欧州おうしゅうとアジア、きたアフリカの中継ちゅうけい地点ちてんでもある[36]。また、国土こくどだい部分ぶぶん山地さんち内陸ないりくこくでもある。きたコソボおよびセルビアひがしブルガリアみなみギリシャ西にしアルバニア国境こっきょうせっし、いずれもたか山脈さんみゃくつらなる高山たかやま地帯ちたいである。最高さいこう地点ちてんはアルバニア国境こっきょうコラプさん標高ひょうこう2764m)。国土こくど中央ちゅうおうには北西ほくせいから南東なんとうヴァルダルがわながれ、ギリシャりょうへとつづいている。ヴァルダルがわまわりには急峻きゅうしゅん渓谷けいこくきざまれ、この渓谷けいこくにはきたからのつめたいふうながみ、ギリシャりょうへとける。このつよ北風きたかぜヴァルダリスばれている。南西なんせいのアルバニアおよびギリシャとの国境こっきょう地帯ちたいにはオフリドプレスパという2つのみずうみがある。北西ほくせいからコソボ南部なんぶ一帯いったいにはシャール山脈さんみゃく英語えいごばんがあり、この山脈さんみゃく山々やまやまバルカン半島ばるかんはんとうもっとたかやまかぞえられ、標高ひょうこう2,500m (8,202ft) をえるやまが30存在そんざいしている。

きたマケドニアは、地中海ちちゅうかいせい気候きこう高山こうざんせい気候きこう中間ちゅうかんにある。ヴァルダルがわ渓谷けいこく標高ひょうこうひくく、地中海ちちゅうかいせい気候きこうちかい。ここでは夏季かきには最高さいこう気温きおんが40たっすることもある。一方いっぽう高山たかやま地帯ちたい冷涼れいりょうであり、冬季とうきふかゆきざされる。

現在げんざいきたマケドニアにはガリチツァ国立こくりつ公園こうえんマブロヴォ国立こくりつ公園こうえん英語えいごばんペリスター国立こくりつ公園こうえん英語えいごばんおよびシャール山脈さんみゃく国立こくりつ公園こうえんの4つの国立こくりつ公園こうえん存在そんざいしている。

生態せいたいけい

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動物どうぶつしょう

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植物しょくぶつしょう

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きたマケドニアの植生しょくせい地図ちず
緑色みどりいろ部分ぶぶん森林しんりんであり、くにだい部分ぶぶんおおっていることが覗える

きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく植物しょくぶつやく210存在そんざいしており、920ぞくのぼる。同国どうこく植物しょくぶつしょうやく3,700しゅ植物しょくぶつ構成こうせいされている。

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん

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きたマケドニアには、しゅうけん相当そうとうするような中間ちゅうかん地方自治体ちほうじちたい設置せっちされていない。きたマケドニアはオプシュティナопштина)とばれる基礎きそ自治体じちたい分割ぶんかつされ、そのかず2013ねん以降いこう、80自治体じちたいとなっている。首都しゅとスコピエ単独たんどく自治体じちたいではなく、10の独立どくりつしたオプシュティナによって構成こうせいされている。これとはべつに8つの地方ちほうрегион)が存在そんざいするが、こちらには行政ぎょうせいけんがなく統計とうけいじょう使用しようにとどまっている。

主要しゅよう都市とし

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きたマケドニアの主要しゅよう都市とし

きたマケドニアのおも都市とし自治体じちたい
都市とし 都市とし
人口じんこう
あきら 自治体じちたい
人口じんこう
スコピエ 444,000 506,926
ビトラ 80,000 95,385
クマノヴォ 71,000 105,484
プリレプ 68,000 76,768
テトヴォ 60,000 86,580
オフリド 51,000 55,749
ヴェレス 48,000 55,108
ゴスティヴァル 46,000 81,042
シュティプ 42,000 47,796
ストルミツァ 40,000 54,676
コチャニ 27,000 38,092
ラドヴィシュ英語えいごばん 16,223 28,244

経済けいざい

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首都しゅとスコピエ

きたマケドニアは、ユーゴスラビア時代じだいてい開発かいはつ地域ちいきとして、連邦れんぽうから開発かいはつ資金しきん恩恵おんけいけていた。ユーゴスラビアが解体かいたいされると、連邦れんぽうからの援助えんじょられなくなったことにくわえて、ユーゴスラビアという市場いちばうしなったことや体制たいせい転換てんかんをめぐる混乱こんらんによって、経済けいざいおおきくんだ。きた隣接りんせつするセルビアは紛争ふんそう当事とうじこくとなって国際こくさいてき制裁せいさいかれた。西にし隣国りんごくアルバニアは冷戦れいせん独自どくじ鎖国さこく政策せいさくったことからヨーロッパの最貧さいひんこくとなっており、また独立どくりつ社会しゃかい主義しゅぎ冷戦れいせん体制たいせい崩壊ほうかいによってひがしのブルガリアも経済けいざいてき混乱こんらん最中さいちゅうにあった。うみたないマケドニアのみなみ隣国りんごくであるギリシャは、呼称こしょう問題もんだい理由りゆうにマケドニアにたいして経済けいざい制裁せいさいおこない、国内こくない経済けいざい壊滅かいめつてき影響えいきょうけた。マケドニアの国内こくないそう生産せいさん(GDP)は1996ねんまでマイナス成長せいちょうとなった。2003ねんごろからは周辺しゅうへん諸国しょこく経済けいざい混乱こんらん一段落いちだんらくし、また一連いちれんのユーゴスラビア紛争ふんそう終結しゅうけつ、ギリシャとの関係かんけい改善かいぜん努力どりょくすすめられた結果けっか、マケドニア経済けいざい毎年まいとし平均へいきんして4%程度ていど成長せいちょうつづけた。しかし、政治せいじてき不安ふあんによって2017ねん成長せいちょうりつは0%とんでいる[1]。2003ねんには世界せかい貿易ぼうえき機関きかん(WTO)への加盟かめいたした。また、きたマケドニアはオフリドなどの観光かんこう資源しげんめぐまれており、観光かんこう開発かいはつにもちかられている。

2007ねん推計すいけいでは、雇用こようしゃの19.6%は農業のうぎょう中心ちゅうしんとしただいいち産業さんぎょう、30.4%はだい産業さんぎょう、50%はだいさん産業さんぎょう従事じゅうじしている。たいGDPでは、だいいち産業さんぎょうは11.9%、だい産業さんぎょうは28.2%、だいさん産業さんぎょうは59.9%となっており、だいさん産業さんぎょうおおきな比率ひりつめている。2007ねん失業しつぎょうりつは34.9%となっているが、これにふくまれていないやみ経済けいざいはGDPの20%ほどをめているとかんがえられる。主要しゅよう輸出ゆしゅつ品目ひんもく食品しょくひん飲料いんりょう(ワインなど)、繊維せんい鉄鋼てっこうてつなどである。輸入ゆにゅう品目ひんもく機械きかい自動車じどうしゃ化学かがく製品せいひん燃料ねんりょう食品しょくひんなどである。主要しゅよう貿易ぼうえき相手あいてこくはドイツ、ブルガリア、セルビアである[1]

2016ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ以降いこう、マケドニアはインターネットにおけるフェイクニュース一大いちだい作成さくせい発信はっしんげんとしてられるようになった。きっかけはヴェレスで30さいだい兄弟きょうだい銀行ぎんこう高級こうきゅうしゃけてすうせんドルをし、「健康けんこう食品しょくひんのサイトでかせいだ」といううわさひろまって、追随ついずいするものえたためであるという[37]。フェイクニュースの作成さくせい流布るふおこなわれている背景はいけいには、ユーゴスラビア解体かいたい以来いらい経済けいざい低迷ていめいくるしむマケドニア国民こくみんが「どうすればかせげるかをかんがつづけ」るようになり、モラルが崩壊ほうかいしたためと指摘してきされている[38]

交通こうつう

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基本きほんとなる交通こうつうシステムは道路どうろ右側みぎがわ通行つうこう免許めんきょしょう取得しゅとく可能かのう年齢ねんれいは18さい、レンタカーの利用りよう可能かのう年齢ねんれいは24さいからとなっている[39]

道路どうろ

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鉄道てつどう

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航空こうくう

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民族みんぞく宗教しゅうきょう

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住民じゅうみんマケドニアじんが58%、アルバニアじんが24.2%、トルコじんが3.8%、ロマじんが2.7%、セルビアじんが1.8%、そのが2.3%である[40]世界銀行せかいぎんこうによる推計すいけいでは、人口じんこうめるロマじん割合わりあいやく9%からやく11%にたっするとみられている[41]

民族みんぞく構成こうせいきたマケドニア)
マケドニアじん
  
64%
アルバニアじん
  
25%
トルコじん
  
4%
その
  
7%

マケドニアじんは5世紀せいきから7世紀せいきごろにこのうつんだスラヴじん子孫しそんであり、スラヴけいのマケドニアはなす。マケドニアブルガリアきわめて類似るいじしており、ブルガリアじんからはマケドニアじん・マケドニアはブルガリアじん・ブルガリア一部いちぶであるとみなされている。マケドニアじんおおくはみずからをブルガリアじんとはことなる独自どくじ言語げんごった独自どくじ民族みんぞくであるとかんがえている。

マケドニアの民族みんぞく分布ぶんぷ

アルバニアじんおもアルバニアはなし、おおくはイスラム教徒きょうとである。アルバニアインド・ヨーロッパ語族ごぞくぞくするものの、アルバニアのみでひとつのかたり形成けいせいしており、周囲しゅうい言語げんごとの類似るいじせいひくい。アルバニア古代こだいイリュリア関連かんれんがあるとかんがえられており、アルバニアじんみずからを、古来こらいよりこのんでいたイリュリアじん末裔まつえいであるとかんがえている。アルバニアじん一般いっぱんに、マケドニアじんくらべて出生しゅっしょうりつたか[23]、マケドニアにおけるアルバニアじん人口じんこう比率ひりつ増大ぞうだいつづけている。また、アルバニアじんはアルバニアおよびコソボで人口じんこう多数たすうめており、かれらがだいアルバニア主義しゅぎになとなることが警戒けいかいされている。現代げんだいきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくのアルバニアじん有力ゆうりょく政治せいじたちは、いずれもだいアルバニア主義しゅぎ明確めいかく否定ひていしている[23]

トルコじん14世紀せいきオスマン帝国ていこくがこの進出しんしゅつしたのちうつんできた人々ひとびと子孫しそんである。かれらのおおくはトルコはなすムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国ていこくでは人々ひとびと宗教しゅうきょうによって区別くべつしていたため、時代じだいによっては、トルコはなさず、トルコじんいていないものもイスラム教徒きょうとであれば「トルコじん」とみなされることがある。近代きんだい以降いこうでもこのようなイスラム教徒きょうとみずからの民族みんぞく自認じにんを「トルコじん」としていることもある。また、スラヴはなすイスラム教徒きょうと一部いちぶは、みずからを「トルベシュ」「ポマク」「ゴーラじん」「ムスリムじん」あるいは「ボシュニャクじん」と規定きていしている。また、「イスラムの信仰しんこうつが、民族みんぞくてきにはマケドニアじん」とかんがえるものもいる。

ロマは9世紀せいきごろから、西にしアジアみなみアジアよりバルカン半島ばるかんはんとううつんだ民族みんぞくである。かれらは職人しょくにん大道芸だいどうげいひと演奏えんそうなどの職業しょくぎょう主体しゅたいとする独特どくとく移住いじゅうがた生活せいかつおくっていた。ロマのおおくは正教会せいきょうかいかイスラムの信仰しんこうっているものの、独自どくじ民間みんかん信仰しんこうあわっていることがおおい。スコピエのシュト・オリザリ地区ちくはロマが人口じんこう多数たすうめ、ロマ公用こうよう指定していされている。

アルーマニアじんきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくやギリシャりょうマケドニアにおお民族みんぞくである。かれらのはなアルーマニアはインド・ヨーロッパ語族ごぞくロマンスぞくし、とくルーマニアとの類似るいじせいたかい。かれらにはだい世界せかい大戦たいせんまえまでルーマニア支援しえんけ、アルーマニア学校がっこう運営うんえいされていた。かれらはルーマニアじんきんえん民族みんぞくかんがえられており、その起源きげんはこの地方ちほうマ帝国まていこく支配しはいにあったときにラテンした人々ひとびとであるとかんがえられている。

住民じゅうみん母語ぼごとしている言語げんごマケドニア公用こうよう)が68%、アルバニアが25%、トルコが3%、セルビア・クロアチアが2%、そのが2%である。マケドニア憲法けんぽうにより公用こうようとされている一方いっぽうで、地方自治体ちほうじちたい(オプシュティナ)において話者わしゃ人口じんこうが2わりえる言語げんごは、マケドニアとともにその自治体じちたい公用こうようとされる。この規定きていにより、自治体じちたいによってはアルバニアトルコロマアルーマニアセルビアがマケドニアとともに公用こうよう指定していされているほか、2019ねん以降いこうアルバニア国家こっかレベルのじゅん公用こうようとなっている[42][43]。マケドニアのほか、少数しょうすう言語げんご話者わしゃ母語ぼご教育きょういくける機会きかい保障ほしょうされており、アルバニアやトルコによる教育きょういくおこなわれている。

せいパンテレイモン修道院しゅうどういんオフリド

宗教しゅうきょう正教会せいきょうかいが70%、イスラム教いすらむきょうが29%、そのが1%である。

マケドニアの領域りょういきバルカン戦争せんそう以降いこうセルビアの領土りょうどまれると、くに地域ちいきごとに教会きょうかい組織そしき原則げんそくとなっている正教会せいきょうかい慣習かんしゅうしたがい、この地域ちいきセルビア正教会せいきょうかい管轄かんかつとなった。だい世界せかい大戦たいせん以降いこう共産きょうさん主義しゅぎしゃによるユーゴスラビア連邦れんぽう政府せいふによって、マケドニアのだつセルビアすすめられ、共産きょうさん主義しゅぎしゃ政府せいふ指導しどうした1958ねんにマケドニア地域ちいき正教会せいきょうかい組織そしきマケドニア正教会せいきょうかいとして分離ぶんりされ、セルビア正教会せいきょうかい下位かいぞくする自治じち教会きょうかいとなった。1967ねん、マケドニア正教会せいきょうかいはセルビア正教会せいきょうかいからの完全かんぜん独立どくりつ宣言せんげんした。マケドニアがユーゴスラビアから分離ぶんりすると、りょう教会きょうかい対立たいりつ表面ひょうめんし、セルビア正教会せいきょうかいはマケドニア正教会せいきょうかい独立どくりつみとめず、自治じち教会きょうかい地位ちいふくするようもとめている。マケドニア正教会せいきょうかいはこれに反発はんぱつしてセルビア正教会せいきょうかいとの交流こうりゅうち、セルビア正教会せいきょうかい非難ひなんしている。マケドニアがわでセルビア正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいふくすることに同意どういした主教しゅきょうらはマケドニア正教会せいきょうかいり、独自どくじにセルビア正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいとして正統せいとうオフリドだい主教しゅきょう組織そしきし、マケドニア正教会せいきょうかい対立たいりつしている。

婚姻こんいん

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婚姻こんいん伝統でんとうてきには女性じょせい婚姻こんいんおっとせい女性じょせいがた改姓かいせいするが、おっとせい改姓かいせいすることも、改姓かいせいしないことも(夫婦ふうふ別姓べっせい)、ふくあいせいもちいることもできる[44]

教育きょういく

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義務ぎむ教育きょういくは9年間ねんかんとなっている。きたマケドニアは欧州おうしゅう連合れんごう(EU)に加盟かめいしていないが、加盟かめいこく教育きょういく制度せいど関連かんれんシステムの均質きんしつともな目的もくてきボローニャ・プロセス順守じゅんしゅする立場たちばとなっている。

保健ほけん

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治安ちあん

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きたマケドニアの治安ちあん安定あんていしているとはいがたい状況じょうきょうとなっている。社会しゃかい荒廃こうはいしている影響えいきょうもあり、スリったくり窃盗せっとうなどの一般いっぱん犯罪はんざい多発たはつしており、とく子供こどもによる集団しゅうだんスリの被害ひがい相次あいついでいることから注意ちゅうい警戒けいかいさけばれている[45]

また、近年きんねんにおいてはテロリズムから事件じけん相次あいついでこっており、2014ねんには政府せいふ庁舎ちょうしゃへの襲撃しゅうげき事件じけん英語えいごばん、2015ねんにはクマノヴォにおいて武装ぶそうテロ集団しゅうだんとの衝突しょうとつ事件じけん英語えいごばん発生はっせいしているてんから、公的こうてき機関きかんにおけるテロ対策たいさく正常せいじょう機能きのうしていないめん目立めだちがちで、その危険きけんせい大変たいへん深刻しんこくなレベルの事態じたいおちいっている。

ほう執行しっこう機関きかん

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内務省ないむしょうロシアばん英語えいごばん国家こっか警察けいさつロシアばん英語えいごばん主体しゅたいとなっている。

人権じんけん

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マスコミ

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テレビ放送ほうそう新聞しんぶんならび雑誌ざっし国営こくえい企業きぎょう営利えいり企業きぎょう両方りょうほうによって運営うんえいされている。同国どうこく憲法けんぽうにおいては報道ほうどう自由じゆう表現ひょうげん自由じゆう保証ほしょうするものとなっているが、それにはんしてきたマケドニアのほとんどのジャーナリスト社会しゃかいてき地位ちい経済けいざいてき地位ちいがかなりひくく、その影響えいきょうからかれらの労働ろうどう社会しゃかいてき権利けんりかぎられたものとなっている。

通信つうしん

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文化ぶんか

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世界せかい遺産いさん

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きたマケドニア単独たんどくでの世界せかい遺産いさん条約じょうやく承継しょうけいは1997ねんであり、世界せかい遺産いさんセンターでの当初とうしょ国名こくめい表記ひょうきは、マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこくであった[46]

しょく文化ぶんか

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文学ぶんがく

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音楽おんがく

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映画えいが

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建築けんちく

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クルシェヴォ英語えいごばんにある「イリンデン英語えいごばん」。
イリンデン蜂起ほうき英語えいごばんたいする記念きねんとしてもうけられたもので、ユーゴスラビア時代じだい同国どうこく代表だいひょうする建築けんちくぶつとしてられている。

きたマケドニアは建築けんちく文化ぶんか歴史れきしながくにひとつにかぞげられている。きたマケドニアにおける最古さいこ建築けんちくしん石器せっき時代じだいさかのぼり、巨石きょせき文化ぶんか関連かんれんした構造こうぞうぶつ構成こうせいされているものが主体しゅたいとなっている。また、近代きんだいにおいては「イリンデン英語えいごばん」などのスポメニック代表だいひょうされるユーゴスラビア時代じだいモダニズム建築けんちくブルータリズムもとづいた建築けんちくぶつおおのこされているいちめんわせる。とくに1963ねんスコピエ地震じしん以降いこうのスコピエでは復興ふっこう計画けいかく建設けんせつされたすうおおくのブルータリズム建築けんちくられる[47]

祝祭日しゅくさいじつ

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祝祭日しゅくさいじつ
日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ
1がつ6にち クリスマスイブ マケドニア正教せいきょうユリウスれきによる)
1がつ7にち クリスマス マケドニア正教せいきょう(ユリウスれきによる)
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ 犠牲ぎせいさい イスラム教徒きょうとのみ
3月8にち 女性じょせい
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ きよしだい金曜日きんようび マケドニア正教せいきょう復活ふっかつさい直前ちょくぜん金曜日きんようび
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ 復活ふっかつさい マケドニア正教せいきょう
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ 光明こうみょう月曜日げつようび マケドニア正教せいきょう復活ふっかつさい翌日よくじつ
5月1にち メーデー
8がつ2にち 革命かくめい記念きねん
9月8にち 独立記念日どくりつきねんび
10月11にち パルチザンの
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ ラマダン イスラム教徒きょうとのみ

スポーツ

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サッカー

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きたマケドニアでもヨーロッパ諸国しょこく同様どうように、サッカー圧倒的あっとうてき人気にんきスポーツとなっており、1992ねんにプロサッカーリーグのプルヴァ・リーガ創設そうせつされた。リーグ優勝ゆうしょうクラブは、UEFAチャンピオンズリーグ予選よせん参加さんかできる。マケドニアサッカー連盟れんめい(FFM)によって構成こうせいされるサッカーきたマケドニア代表だいひょうは、これまでFIFAワールドカップには出場しゅつじょうである。しかし、UEFA欧州おうしゅう選手権せんしゅけんには2021ねん大会たいかい悲願ひがんはつ出場しゅつじょうたした[48]

代表だいひょうチームのエースであり主将しゅしょうでもあったゴラン・パンデフくに英雄えいゆうとして絶大ぜつだい人気にんきほこり、インテル・ミラノ時代じだいには2009-10シーズントレブル達成たっせいしたチームの主力しゅりょくであった[49]。パンデフのほかにも、フリーキック名手めいしゅとして名高なだかエニス・バルディ同国どうこく代表だいひょうである。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 古代こだいバルカン半島ばるかんはんとう居住きょじゅうしていた民族みんぞくである
  2. ^ チトー(1892-1980)は、1948ねんにスターリンと絶縁ぜつえんしたため、コミンフォルムを追放ついほうされた。また、東欧とうおうではチトー主義しゅぎしゃりが実行じっこうされた
  3. ^ 早期そうき独立どくりつ達成たっせいしたスロベニアでも、じゅう日間にちかん戦争せんそうばれる武力ぶりょく衝突しょうとつがあり、死傷ししょうしゃている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 久保くぼ慶一けいいちかれた国家こっかきゅうユーゴ地域ちいき民主みんしゅ民族みんぞく問題もんだい有信ありのぶどうだかぶんしゃ日本にっぽん東京とうきょう、2003ねん10がつISBN 978-4-8420-5551-0 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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政府せいふ
日本にっぽん政府せいふ
観光かんこう
EU関連かんれん
その