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北マケドニアの歴史 - Wikipedia コンテンツにスキップ

きたマケドニアの歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

きたマケドニアの歴史れきし(きたマケドニアのれきし、マケドニア:Историја на Република Македонија)では、マケドニア地方ちほう北西ほくせい位置いちするきたマケドニア歴史れきしについてべる。

古代こだい[編集へんしゅう]

マケドニア地域ちいきには、ふるくからひと居住きょじゅうしており、イリュリアじんトラキアじんなどの部族ぶぞく割拠かっきょしていた。紀元前きげんぜん4世紀せいきから紀元前きげんぜん3世紀せいきにかけて、現在げんざいマケドニア共和国まけどにあきょうわこく相当そうとうするマケドニア地域ちいき北部ほくぶマケドニア王国おうこく支配しはいとなっていった。マケドニア王国おうこくアレクサンドロス3せい時代じだい最大さいだい版図はんととなるが、その死後しごくに分裂ぶんれつし、紀元前きげんぜん2世紀せいきには西にしから勢力せいりょく拡大かくだいしたマ帝国まていこく支配しはいとなっていった。紀元前きげんぜん146ねん、この地域ちいき正式せいしきマ帝国まていこくマケドニアぞくしゅう一部いちぶとされた。マ帝国まていこく東西とうざいかれると、マケドニアはひがしマ帝国まていこく一部いちぶとなった[1]

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

サムイルによってプレスパてられた聖堂せいどうあと。ここにはサムイルのはかがある。

マケドニア地域ちいきにはきたから西にしゴートぞくフンぞくアヴァールじんそしてスラヴじんなどが侵入しんにゅうかえした。7世紀せいき初頭しょとうには、この地域ちいきおおくはスラヴじん居住きょじゅう地域ちいきとなっていた。スラヴじんたちは、それぞれことなる時期じき段階だんかいてきにこの地域ちいきはいってきた。スラヴじん居住きょじゅう地域ちいきは、げんギリシャりょうテッサロニキなどをふくむ、マケドニア地域ちいきのほぼ全域ぜんいき拡大かくだいしていった[1]680ねんころクベルひきいられたブルガールじん一派いっぱがマケドニアに流入りゅうにゅうした。

オフリド出身しゅっしんせいクリメントは、キュリロス・メトディオス兄弟きょうだい弟子でしとして、ボリス1せい支援しえんした、スラヴじんへのキリスト教きりすときょう布教ふきょうつとめた。写真しゃしんはオフリドのせいクリメント聖堂せいどうЦрква "Пресвета Богородица - Перивлептос")におさめられているきよしクリメントのイコン

9世紀せいき後半こうはんテッサロニキ出身しゅっしんキュリロスメトディオス兄弟きょうだいによって聖書せいしょがスラヴ翻訳ほんやくされた。9世紀せいき北方ほっぽうから侵入しんにゅうひがしマ帝国まていこく衝突しょうとつしながら勢力せいりょく拡大かくだいしていっただいいちブルガリア帝国ていこくは、9世紀せいきまつシメオン1せいのときに最盛さいせいむかえ、マケドニア地方ちほうもその版図はんとおさめられた。キュリロスとメトディオスの弟子でしたちにはスラヴ聖書せいしょもちい、ブルガリア帝国ていこく支援しえんした、スラヴじんたちにキリスト教きりすときょう布教ふきょうしていった。シメオンの死後しごブルガリア帝国ていこく次第しだい衰退すいたいし、マケドニア地方ちほうふたたひがしマ帝国まていこく支配しはいとなった[1]

1355ねんのウロシュ4せい死後しごまもなく、セルビアじん帝国ていこくはん独立どくりつてき地方ちほう領主りょうしゅ割拠かっきょする状態じょうたいとなった。

978ねん、マケドニア出身しゅっしんサムイルはこのひがしローマにたいする反乱はんらんこした。シメオンはこの地方ちほうオフリド首都しゅととしてブルガリア帝国ていこく再建さいけんし、かれのもとで再度さいどブルガリア帝国ていこく急速きゅうそく拡大かくだいむかえた。しかし、1014ねんにサムイルが死去しきょするとブルガリア帝国ていこくはそのちからうしない、1018ねんには完全かんぜん滅亡めつぼうし、ふたたひがしローマの支配しはいかえした[1]

その、この地方ちほうきたこったセルビアじん地方ちほう国家こっか乱立らんりつやその地方ちほう領主りょうしゅ群雄割拠ぐんゆうかっきょ状態じょうたいて、12世紀せいきすえごろからは新興しんこう勢力せいりょくだいブルガリア帝国ていこくセルビア王国おうこく、そしてラテン帝国ていこくニカイア帝国ていこくといった十字軍じゅうじぐん国家こっかあいだ勢力せいりょくあらそいがひろげられる[1]

十字軍じゅうじぐん退しりぞけて復活ふっかつしたひがしマ帝国まていこくやブルガリア帝国ていこくは、十字軍じゅうじぐん勢力せいりょく侵入しんにゅうによる荒廃こうはいひがしから伸張しんちょうしてきたトルコじんなどによって国力こくりょくとしており、その背後はいごをぬってセルビア王国おうこくステファン・ウロシュ3せいデチャンスキした大幅おおはば領土りょうど拡大かくだい成功せいこうした。セルビア王国おうこくはマケドニア地方ちほう全域ぜんいき支配しはいにおさめた。その息子むすこステファン・ウロシュ4せいドゥシャンしたでセルビアは絶頂ぜっちょうむかえ、ウロシュ4せいスコピエ首都しゅととして同地どうちにて1345ねん、「セルビアじんとローマじん皇帝こうてい」として戴冠たいかん皇帝こうてい即位そくいする。しかし、ウロシュ4せい死後しごはセルビアは地方ちほう領主りょうしゅ割拠かっきょする状態じょうたいとなり、1371ねんマリツァがわたたかなどをてマケドニアはオスマン帝国ていこく支配しはいとなった[1]

オスマン帝国ていこく統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

初期しょきオスマン時代ときよ[編集へんしゅう]

スコピエ建造けんぞうされたバザール。16世紀せいきごろ発展はってんした。オスマン帝国ていこく統治とうちではトルコや中近東ちゅうきんとうのようなバザールや、オスマン様式ようしきモスクハンマームなどがてられた。

オスマン帝国ていこく統治とうちでは、一定いってい平等びょうどうあつかいとえにイスラム教徒きょうと信仰しんこう維持いじすることがみとめられていた。オスマン帝国ていこく支配しはいでは、強制きょうせいてき改宗かいしゅう一部いちぶとどまっており、マケドニアでもおおくの人々ひとびと正教会せいきょうかい信仰しんこう維持いじしていた。一方いっぽうで、イスラム教徒きょうと税制ぜいせい出世しゅっせなどのてん不利ふりあつかいをけており、これらを回避かいひするためにイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうするものもいた。また、オスマン帝国ていこく宗教しゅうきょうてき寛容かんようのために、スペインなどで苛烈かれつ弾圧だんあつけていたユダヤじんがオスマン帝国ていこくりょうとなったマケドニアにだい規模きぼ流入りゅうにゅうし、この地域ちいきのユダヤじん人口じんこう増加ぞうかした[1]

セルビア正教会せいきょうかいブルガリア正教会せいきょうかいといった民族みんぞくごとの正教会せいきょうかい組織そしきはそのちからうしない、廃止はいしされ、コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうちょうへと統合とうごうされていった。ミッレトせいもとで、せい教徒きょうと一括いっかつしてそう主教しゅきょうちょうにより管理かんりされ、マケドニアのスラヴじんあいだでは独自どくじの「マケドニアじん民族みんぞく意識いしきはまだまれていなかった。一方いっぽう、アルバニアじんあいだでは、よりおおくの人々ひとびとイスラム教いすらむきょう受容じゅようした。

ながいオスマン帝国ていこく支配しはい多様たよう民族みんぞく混在こんざいすすみ、マケドニア地域ちいきにはスラヴじんアルーマニアじんトルコじんアルバニアじんギリシャじんロマユダヤじんなどが居住きょじゅうしていた。この地域ちいきのスラヴじんはな言語げんごはブルガリアちかく、マケドニア地方ちほうのスラヴじんはブルガリアじんとみなされていた。

民族みんぞく復興ふっこう時代じだい[編集へんしゅう]

ブルガリア民族みんぞく復興ふっこう運動うんどうは、マケドニア地域ちいきでも展開てんかいされた。

18世紀せいきから19世紀せいきはいると、バルカンのしょ民族みんぞくあいだでは、独自どくじ民族みんぞく文化ぶんか復興ふっこう関心かんしんがもたれるようになった。ブルガリアじんあいだでは、聖職せいしょくしゃらを中心ちゅうしん中世ちゅうせいのブルガリア帝国ていこくかがやかしい歴史れきしかえされ、教会きょうかい文化ぶんかだつギリシャすすめられるブルガリア民族みんぞく復興ふっこう運動うんどうこった。ブルガリアじん聖職せいしょくしゃらはギリシャじんとのはげしい闘争とうそうすえ1850ねんブルガリア正教会せいきょうかい復活ふっかつさせた[1]今日きょうマケドニア共和国まけどにあきょうわこくめる地域ちいきだい部分ぶぶんは、そう主教しゅきょうちょうからふたたびブルガリア正教会せいきょうかい管掌かんしょうしたかれた。ブルガリアじん聖職せいしょくしゃ知識ちしきじん主導しゅどうした民族みんぞく復興ふっこう運動うんどうはマケドニア地域ちいきでも展開てんかいされ、教会きょうかいのブルガリアや、ブルガリアによる世俗せぞく教育きょういく学校がっこうふくあい文化ぶんか施設しせつチタリシテ設置せっちなどがすすめられた。

列強れっきょう諸国しょこく支援しえんけてセルビア王国おうこくギリシャ王国おうこくがオスマン帝国ていこくから独立どくりつたすと、この地域ちいきトルコじんとくせい教徒きょうとあいだではオスマン帝国ていこくからの分離ぶんりうごきが加速かそくした。

内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき指導しどうしゃ一人ひとりゴツェ・デルチェフ組織そしき指導しどうしゃ一人ひとりとしてイリンデン蜂起ほうき準備じゅんびすすめるが、蜂起ほうき決行けっこうまえひかえて殺害さつがいされ、みじか生涯しょうがいじた。

1878ねん戦争せんそうのちロシア帝国ていこくとオスマン帝国ていこくあいだサン・ステファノ条約じょうやくむすばれると、あたらしく成立せいりつしたブルガリア公国こうこくは、マケドニア地方ちほう全域ぜんいき領土りょうどとして獲得かくとくするとされた。しかし、いちはマケドニア全域ぜんいきがブルガリア公国こうこく領土りょうどとされたものの、ブルガリアの独立どくりつ支援しえんしたロシア帝国ていこく影響えいきょうりょく拡大かくだいおそれた列強れっきょう諸国しょこくによってブルガリアの領土りょうどは3分割ぶんかつされ、マケドニア地方ちほうはオスマン帝国ていこくりょうふくした[1]。マケドニアで最大さいだい人口じんこうっていたスラヴじんあいだでは、マケドニアの分離ぶんりとブルガリアへの併合へいごうもとめるうごきがつよまり、内部ないぶマケドニア・アドリアノープル革命かくめい組織そしきなどのはんオスマンの組織そしき形成けいせいされた。このころ、マケドニア地域ちいきのスラヴじんおおくはブルガリアじん自認じにんしていたが、一部いちぶではブルガリアじんとはことなる独自どくじマケドニアじん民族みんぞく自認じにん芽生めばはじめていた。

出身しゅっしんスコピエにたつマザー・テレサぞう人道的じんどうてき活動かつどう功績こうせき評価ひょうかされ、のちノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうする。

マケドニアを自国じこくりょうへとむことをねらっていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからは複数ふくすう組織そしきがマケドニア地方ちほう浸透しんとうしていった。これらの外来がいらい勢力せいりょくと、地元じもとのスラヴじん、そしてアルバニアじん地域ちいき一体いったいせいもとめるアルバニアじんは、武装ぶそうしてたがいを攻撃こうげきしあい、またオスマン帝国ていこく官憲かんけん攻撃こうげきした。それによって、マケドニア地域ちいき不安定ふあんてい混迷こんめいとなっていった。

1903ねん8がつ内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきゴツェ・デルチェフらの指導しどうした準備じゅんびすすめていたイリンデン蜂起ほうきこした(このとしのグレゴリオれき8がつ2にちはユリウスれきでは7がつ20日はつかせいエリヤのであり、イリンデンとはせいエリヤの意味いみする)。イリンデン蜂起ほうき失敗しっぱいわったものの、そのもこの地域ちいきのスラヴじんによるはんオスマン帝国ていこく闘争とうそうつづいた。

また、このころになると、ムスリム人口じんこうおおく、オスマン帝国ていこくとの親和しんわせいたかかったアルバニアじんあいだでも、プリズレン連盟れんめい中心ちゅうしんとして帝国ていこくからの自立じりつうごきがつよまっていった。1886ねんコルチャにてはつのアルバニア教育きょういくおこな公立こうりつ学校がっこう設置せっちされた。次第しだい一般人いっぱんじんあいだにもアルバニアじんとしての民族みんぞく意識いしき浸透しんとうしていった[1]。アルバニアじんたちは、ブルガリアやセルビア、ギリシャなどのあたらしい国々くにぐにがアルバニアじん土地とち分割ぶんかつ支配しはいすることを危惧きぐし、アルバニアじん地域ちいき統一とういつ一体いったいせい確保かくほもとめていた。1908ねん、アルバニアじん知識ちしきじんらはマケドニアのビトラにて、ラテン文字もじによるアルバニア正書法せいしょほう制定せいていした。

バルカン戦争せんそう[編集へんしゅう]

マケドニア分割ぶんかついろられているのが、オスマン帝国ていこく放棄ほうきした領土りょうど。このうち北西ほくせいがわ緑色みどりいろ部分ぶぶんきた隣接りんせつするセルビアの領土りょうどとなった。

1912ねんギリシャセルビアモンテネグロブルガリアの4こく同盟どうめいむすび、オスマン帝国ていこくとのあいだだいいちバルカン戦争せんそうこされた。このとき、内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきはブルガリアぐんがわについてオスマン帝国ていこくたたかった。だいいちバルカン戦争せんそうによって、オスマン帝国ていこくはマケドニア地域ちいきふくむ、バルカン半島ばるかんはんとう領土りょうどのほとんどを手放てばなすこととなった[1]講和こうわ会議かいぎによってロンドン条約じょうやくむすばれ、アルバニア公国こうこく独立どくりつみとめられたものの、マケドニア地域ちいき分割ぶんかつについては結論けつろんられなかった。

ブルガリアはマケドニア地方ちほう全域ぜんいき自国じこくりょうとすることをもとめたが、マケドニアの分割ぶんかつ支配しはいもとめたセルビア、ギリシャのあいだ対立たいりつこり、よく1913ねんだいバルカン戦争せんそうへと発展はってんした。セルビアとギリシャは協力きょうりょくしてブルガリアに対抗たいこうし、またブルガリアは背後はいごからオスマン帝国ていこくとルーマニアからも攻撃こうげきけた。ブルガリアは敗北はいぼくまれ、ブカレスト条約じょうやくによってマケドニア地域ちいき分割ぶんかつめられた。それによると、マケドニア地域ちいき南部なんぶ5わりはギリシャ、西北せいほく4わりはセルビア(のちユーゴスラビア王国おうこく)が確保かくほし、ブルガリアは1わり確保かくほするにとどまった。マケドニアの自治じちやブルガリアへの併合へいごうもとめたおおくのスラヴじんや、アルバニアじん地域ちいき統一とういつもとめたアルバニアじんたちのねがいは無視むしされ、その大半たいはんはギリシャとセルビアによって分割ぶんかつされることとなった。このときにセルビアとなった地域ちいきが、のちのマケドニア共和国まけどにあきょうわこく領土りょうどである。

セルビアおよびユーゴスラビア統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

1800ねんからのバルカン半島ばるかんはんとう変遷へんせん。この2世紀せいきあいだ、バルカンでははげしく国境こっきょう変動へんどうしてきた。

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

ギリシャりょう、セルビアりょうのマケドニアでは、ブルガリアの支援しえんけた抵抗ていこう運動うんどう活発かっぱつこった。内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきはブルガリアを拠点きょてんとしてマケドニア地方ちほう浸透しんとうしてギリシャやセルビアへの攻勢こうせいつづけた。だいいち世界せかい大戦たいせんでは、セルビアはオーストリア戦争せんそうになった。ブルガリアはこれをにセルビアりょうマケドニアを確保かくほすることをねらい、オーストリアやドイツとともに中央ちゅうおう同盟どうめいがわについた。内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきはブルガリアぐん協力きょうりょくしてセルビアとたたかい、一時いちじはセルビアりょうマケドニアを蹂躙じゅうりんしセルビアぐんとう成果せいかげたが、やがて反抗はんこうにあって戦線せんせん膠着こうちゃくした。1918ねん中央ちゅうおう同盟どうめいがわ諸国しょこく敗戦はいせん濃厚のうこうとなるなか、セルビアと同盟どうめいしゃフランスによってマケドニア地方ちほうさい制圧せいあつされ、セルビアによる統治とうち回復かいふくされた。

ブルガリアは敗北はいぼくしてマケドニア併合へいごうゆめついえた。ブルガリアと連合れんごうこくとの講和こうわ条約じょうやくとしてヌイイ条約じょうやくむすばれ、そのなかでブルガリアは、あらたにセルビアやギリシャへの領土りょうど割譲かつじょうすることがめられた。このときセルビアに割譲かつじょうされた領土りょうどなかには、マケドニア地方ちほうストルミツァ周辺しゅうへんふくまれていた。これによって、ストルミツァ地域ちいきはこれ以降いこう、セルビアりょうマケドニアの一部いちぶくわえられることとなった。

また、ギリシャりょうマケドニアのスラヴじん住民じゅうみん交換こうかん対象たいしょうとなった。このとき、すべてのスラヴじん母国ぼこくはブルガリアとされ、自身じしんをギリシャじん宣誓せんせいしたもの以外いがいはすべてブルガリアへと追放ついほうされた。他方たほう、ユーゴスラビアとなったセルビアりょうマケドニアのスラヴじんはセルビアじんとみなされ、とく住民じゅうみん交換こうかんおこなわれなかった。

せんあいだ[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんわると、セルビアはセルビアじん・クロアチアじん・スロヴェニアじん王国おうこくへと改組かいそされ、のちに「ユーゴスラビア王国おうこく」となるが、セルビアりょうマケドニアではその内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきによる抵抗ていこう運動うんどうつづいた。ブルガリアの政府せいふはセルビアとの緊張きんちょう緩和かんわ模索もさくしたが、内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきブルガリアりょうマケドニア拠点きょてんとしてはん独立どくりつてき権力けんりょくきずき、セルビアとの融和ゆうわ模索もさくしたブルガリア首相しゅしょうアレクサンドル・スタンボリスキ暗殺あんさつ、セルビアの官憲かんけんたいするゲリラ攻撃こうげきつづけた。1929ねんアレクサンダル1せいによって王国おうこく名前なまえが「ユーゴスラビア王国おうこく」にあらためられたとき地方ちほう区分くぶん再編さいへんされ、セルビアりょうマケドニア地域ちいきヴァルダルしゅう一部いちぶとされた。

このころ内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきは、コミンテルンへの接触せっしょくはかり、ブルガリアから独立どくりつした統一とういつマケドニアと「バルカン共産きょうさん主義しゅぎ連邦れんぽう構想こうそう支持しじする左派さはと、ブルガリア民族みんぞく主義しゅぎ立場たちばファシズムへの傾倒けいとうつよめる右派うは分裂ぶんれつしていた。左派さは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき連合れんごうしょうし、のちユーゴスラビア共産党きょうさんとう合流ごうりゅうした。右派うは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき指導しどうしゃイヴァン・ミハイロフは、クロアチア極右きょくう民族みんぞく主義しゅぎ勢力せいりょくウスタシャや、イタリアのファシストとの連携れんけいつよめていった。1934ねん内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきは、ウスタシャとうとの協力きょうりょくした、ユーゴスラビアおうアレクサンダル1せい暗殺あんさつした。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこくによるユーゴスラビア分割ぶんかつ。ユーゴスラビアりょうマケドニアのだい部分ぶぶんはブルガリアの統治とうちとなる一方いっぽう、アルバニアじんおお北西ほくせいはアルバニアを保護ほごにおくイタリアの支配しはいとなった。

だい世界せかい大戦たいせんこると、ナチス・ドイツ中心ちゅうしんとする枢軸すうじくこくユーゴスラビアに侵攻しんこうした。ブルガリアはマケドニア併合へいごうもとめ、ふたたびドイツと同盟どうめいむすび、枢軸すうじくこく一員いちいんとなっていた。また、これに先立さきだ1939ねんからアルバニアはイタリアの保護ほごりょうとなっていた。また、ハンガリーやルーマニアも枢軸すうじくこく一員いちいんであり、この時点じてんでユーゴスラビアを国々くにぐにのほとんどが枢軸すうじくこくとなっていた。枢軸すうじくぐんかく方面ほうめんからユーゴスラビアに攻勢こうせいをかけるなか、マケドニアではブルガリアからドイツおよびブルガリアぐんが、またアルバニアからイタリアとアルバニアのぐん侵入しんにゅうした。マケドニアのブルガリアへの統合とうごう歓迎かんげいする内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき右派うはは、このブルガリアと協力きょうりょくしてこの戦闘せんとう参加さんかした。

ユーゴスラビアりょうマケドニアの4ぶんの3ほどはブルガリアにあたえられ、アルバニアじんおお北西ほくせいはイタリアが支配しはいするアルバニアの統治とうちかれた。右派うは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきは、ブルガリアによる占領せんりょう統治とうち協力きょうりょくする。また、左派さはあいだでもブルガリアを侵略しんりゃくしゃとみなすことに反対はんたいするものあらわれた。これによってブルガリアは、ベルリン会議かいぎ以来いらい念願ねんがんであったマケドニア併合へいごう実現じつげんする。

ASNOM議長ぎちょうとなったメトディヤ・アンドノフ=チェント

やがて、クロアチアじんヨシップ・ブロズ・ティトーひきいる共産きょうさん主義しゅぎしゃパルチザンによる枢軸すうじくこくたいする抵抗ていこう運動うんどうつよまると、ブルガリアから独立どくりつした統一とういつマケドニア実現じつげん志向しこうした左派さは勢力せいりょくは、パルチザンと協力きょうりょくして枢軸すうじくこく抵抗ていこうした。1944ねん枢軸すうじくこくたいする統一とういつてき抵抗ていこう指導しどうする機関きかんとしてマケドニア人民じんみん解放かいほうはんファシスト会議かいぎ(ASNOM)が組織そしきされ、プロホル・プチニスキだい1かい会合かいごうひらかれた。会合かいごうおこなわれたのは、かつてのイリンデン蜂起ほうきおな8がつ2にちであり、こののちにマケドニアの歴史れきしうえでの重要じゅうよう記念きねんだい2のイリンデンの」となった。会合かいごうでは、大戦たいせんはユーゴスラビアを連邦れんぽう国家こっかとして再興さいこうすること、そしてマケドニアは連邦れんぽうわくない独自どくじ国家こっかつことがさだめられた。また、それまでセルビアじんとみなされてきたマケドニア地域ちいきのスラヴじん公式こうしきに「マケドニアじん」と規定きていし、その母語ぼごは「マケドニア」であるとした。会合かいごうには、左派さは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき連合れんごう出身しゅっしんしゃ参加さんかしている。ASNOMは終戦しゅうせんまでのあいだのマケドニアの人民じんみん代表だいひょうする、臨時りんじ政府せいふ最高さいこう機関きかんとされた。ASNOMの議長ぎちょうには、プリレプ出身しゅっしんメトディヤ・アンドノフ=チェント就任しゅうにんした。

イタリアは1943ねんに、ブルガリアも1944ねん降伏ごうぶくすると、この地域ちいきはドイツぐん占領せんりょうかれた。イヴァン・ミハイロフひきいる右派うは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきはしかし、さらなる流血りゅうけつ混乱こんらんけるため、ドイツぐんとの協力きょうりょくこばんだ。ミハイロフはそのイタリアにのがれる。1944ねん後半こうはんまでに、ユーゴスラビアりょうマケドニア地域ちいき大半たいはんはパルチザンによって解放かいほうされていった。

社会しゃかい主義しゅぎ時代じだい[編集へんしゅう]

ユーゴスラビア連邦れんぽう構成こうせいこくとして成立せいりつしたマケドニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

ユーゴスラビア連邦れんぽうしたでは、ブルガリアじんとはことなるマケドニアじん意識いしき涵養かんようされ、またスコピエ方言ほうげん基礎きそとしたマケドニア正書法せいしょほう確立かくりつされた。

ティトーのパルチザンによってユーゴスラビア全域ぜんいき制圧せいあつされると、社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいをとる連邦れんぽう国家こっかとしてユーゴスラビアさい出発しゅっぱつすることとなった。マケドニア人民じんみん解放かいほうはんファシスト会議かいぎ(ASNOM)の決定けっていしたがい、ユーゴスラビアりょうマケドニアはマケドニア人民じんみん共和きょうわこくとなった。ASNOMの議長ぎちょうであったメトディヤ・アンドノフ=チェントは、マケドニア人民じんみん共和きょうわこく最初さいしょ大統領だいとうりょうとなったが、チェントらはマケドニアによりおおきな権限けんげんもとめ、連邦れんぽうからの離脱りだつ企図きとしたとして粛清しゅくせいされた。このほかにも、かつて内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきぞくしていたものや、連邦れんぽう分権ぶんけん、マケドニアの独立どくりつのぞんだとされたもの粛清しゅくせい対象たいしょうとなり、逮捕たいほされ、投獄とうごくされたり処刑しょけいされたりした。よりティトーに忠実ちゅうじつものがマケドニアの政治せいじ中核ちゅうかくになうようになった。

ユーゴスラビアはギリシャ共産党きょうさんとう支援しえんしてギリシャ内戦ないせん介入かいにゅうし、ユーゴスラビアりょうマケドニアはかれらの拠点きょてんとなった。ソビエト連邦れんぽうヨシフ・スターリンは、ギリシャが資本しほん主義しゅぎ陣営じんえいとなることに同意どういし、ギリシャ内戦ないせんへの介入かいにゅうけたが、ソ連それん傀儡かいらいとなることをきらい、バルカン半島ばるかんはんとう全域ぜんいき共産きょうさん主義しゅぎ連邦れんぽう国家こっかとすることを目指めざしていたティトーは、スターリンとの対立たいりつふかめていった[1]1949ねんにティトーとスターリンは完全かんぜん決別けつべつし、ユーゴスラビアがコミンフォルムから追放ついほうされるにいたり、ギリシャ内戦ないせんへの介入かいにゅうつづけることは困難こんなんとなった。ユーゴスラビアはギリシャ共産党きょうさんとうへの支援しえん中止ちゅうしし、ギリシャの共産きょうさん不可能ふかのうとなった。また、ブルガリアやアルバニアはスターリンに忠実ちゅうじつ立場たちば維持いじしたため、ユーゴスラビアがギリシャ、ブルガリアアルバニアとともにバルカン共産きょうさん主義しゅぎ連邦れんぽうきずくことができなくなった。これによって、分断ぶんだんされたマケドニア地域ちいきさい統合とうごうされるのぞみはたれた。

ユーゴスラビアはそのソ連それん批判ひはんして独自どくじ体制たいせい構築こうちくかう。ユーゴスラビアは西側にしがわ諸国しょこくとの関係かんけい改善かいぜんすすめ、地方ちほう分権ぶんけん経済けいざい自主じしゅ管理かんりすすめた。ユーゴスラビアはブルガリアとうワルシャワ条約じょうやく機構きこう諸国しょこくとの関係かんけい断絶だんぜつする一方いっぽう1953ねんにはギリシャ、トルコと親善しんぜんおよび安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやくむすんだ。ユーゴスラビアは1963ねん1974ねん憲法けんぽう改正かいせいおこない、そのたびに構成こうせい共和きょうわこく権限けんげん強化きょうかされ分権ぶんけんすすめられた。マケドニアは1963ねんよりマケドニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく国名こくめいあらためた。マケドニアは独自どくじ憲法けんぽう議会ぎかい政府せいふ内務省ないむしょうち、また連邦れんぽう軍隊ぐんたいであるユーゴスラビア連邦れんぽうぐんとはことなる独自どくじ領土りょうど防衛ぼうえいぐんもみとめられた。共和きょうわこく連邦れんぽう政府せいふ対等たいとうとされ、内政ないせいかんするほとんどの権限けんげんにするようになった。

1963ねんにはスコピエで大震災だいしんさい発生はっせいし、死者ししゃ1,100にんした。

ユーゴスラビアの分権ぶんけん自主じしゅ管理かんりすすめられるにつれ、それぞれの地域ちいき特色とくしょくかした独自どくじ政治せいじ経済けいざい運営うんえいはばひろがっていった。地理ちりてき西側にしがわ諸国しょこくちかく、観光かんこう資源しげんにもめぐまれるクロアチアやスロベニアは、製造せいぞうぎょう観光かんこうぎょうつうじて西側にしがわとの経済けいざいてきむすびつきをふかめ、またそれによってられたとみ連邦れんぽうつうじててい開発かいはつ地域ちいきのために使つかわれることに反発はんぱつち、連邦れんぽうたいする離反りはんてき傾向けいこうつよめていった。一方いっぽう、マケドニアはユーゴスラビア連邦れんぽうしたはじめて独自どくじ言語げんご民族みんぞくせいみとめられた経緯けいいや、てい開発かいはつ地域ちいきとして連邦れんぽうからの開発かいはつ援助えんじょ立場たちばにあったこともあり、連邦れんぽうたいする遠心えんしんりょく比較的ひかくてきちいさかった。

1980ねんにティトーが死去しきょし、さらに経済けいざい不振ふしんおちいるようになると、ユーゴスラビアない先進せんしん地域ちいきでは連邦れんぽうたいする離反りはん傾向けいこう一層いっそうつよまっていった。またセルビアでも、分権ぶんけんすすめられた結果けっか歴史れきしてき経緯けいい人口じんこう比率ひりつくらべてセルビアの地位ちい不当ふとうひくあつかわれているとかんじ、連邦れんぽう制度せいど不満ふまんつのらせていた。セルビア大統領だいとうりょうスロボダン・ミロシェヴィッチはこうした不満ふまん利用りようして権力けんりょく拡大かくだいはかり、セルビア民族みんぞく主義しゅぎへの傾倒けいとうつよめていった。

1990年代ねんだい以降いこう[編集へんしゅう]

連邦れんぽう解体かいたい無血むけつ独立どくりつ[編集へんしゅう]

1990ねん連邦れんぽうからの離反りはんもっと強硬きょうこうすすめたスロベニアの共産きょうさん主義しゅぎしゃは、ユーゴスラビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい離脱りだつし、独自どくじ左翼さよく政党せいとうとなった。これによってユーゴスラビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい解体かいたいされていった。セルビア、クロアチアでも民族みんぞく主義しゅぎ伸張しんちょうするなか冷戦れいせん終結しゅうけつ影響えいきょうけて、ユーゴスラビアでは戦後せんごはじめての複数ふくすう政党せいとうせいによる民主みんしゅ選挙せんきょおこなわれた[2]。マケドニア同様どうようにユーゴスラビアの構成こうせいこくであったスロベニアクロアチアでは独立どくりつ志向しこうする勢力せいりょく圧倒的あっとうてき勝利しょうりおさめた。ボスニア・ヘルツェゴビナでも民族みんぞく主義しゅぎ勢力せいりょく圧倒的あっとうてき勝利しょうりおさめた。マケドニアでは、民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとうとしてよみがえった内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき・マケドニア国家こっか統一とういつ民主党みんしゅとう(VMRO-DPMNE)が小差しょうさ共産きょうさんけい勢力せいりょく勝利しょうりしたものの、多数たすう形成けいせいするにはいたらなかった[1][2]。マケドニア議会ぎかいでは、キロ・グリゴロフ超党派ちょうとうは大統領だいとうりょうとして選出せんしゅつすることで各党かくとう合意ごういした[2]。グリゴロフはティトーとともにユーゴスラビア人民じんみん解放かいほう戦争せんそうたたかったパルチザンの闘士とうしであり、そののマケドニアや連邦れんぽう全体ぜんたいでもおおきな影響えいきょうりょく保持ほじしてきた古参こさん政治せいじである。

連邦れんぽう構成こうせいする各国かっこく次々つぎつぎ憲法けんぽうあらため、社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい正式せいしき放棄ほうきすすめているなか1991ねんにはマケドニアでも憲法けんぽう改正かいせいおこなわれ、正式せいしき共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせい放棄ほうき国名こくめいからは「社会しゃかい主義しゅぎ」のかたりをはずし、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく改称かいしょうされた。マケドニア大統領だいとうりょうキロ・グリゴロフは、連邦れんぽう解体かいたい危機きき直面ちょくめんしているなか完全かんぜん独立どくりつもとめるクロアチア、スロベニアと、はん官憲かんけん革命かくめいによって連邦れんぽうりをはか連邦れんぽう維持いじ主張しゅちょうしていたセルビアなどのあいだにたち、危機きき回避かいひのための仲介ちゅうかい努力どりょくつづけた。

しかしスロベニアやクロアチアはもはや連邦れんぽうまる意思いしはなく、1991ねん6がつ独立どくりつ宣言せんげんした。これをけてマケドニアでも独立どくりつ準備じゅんびすすめられ、1991ねん9月8にち大統領だいとうりょうキロ・グリゴロフした、マケドニアは独立どくりつ宣言せんげんした。独立どくりつこくとなったマケドニアは、古代こだいマケドニア王朝おうちょうのシンボルであるヴェルギナのほし(ヴェルギナの太陽たいようともいう)をえがいた国旗こっき制定せいていした。

スロベニアではじゅう日間にちかん戦争せんそう、クロアチアではクロアチア紛争ふんそうという独立どくりつ戦争せんそう発生はっせいし、またボスニア・ヘルツェゴビナでも民族みんぞくごと組織そしき武装ぶそうすすめられていたなか、グリゴロフは独立どくりつ宣言せんげんをノミナルなものにめ、連邦れんぽうがわ要求ようきゅうには諾々だくだくしたがい、武力ぶりょく衝突しょうとつ回避かいひさい優先ゆうせんとした。グリゴロフは、ユーゴスラビア人民じんみんぐん保有ほゆうする兵器へいきをマケドニアがわあたえず、すべてセルビアがわることをみとめるのとえにユーゴスラビア人民じんみんぐん撤退てったいみとめさせ、1992ねん3がつにはユーゴスラビア人民じんみんぐん撤退てったい実現じつげんされた[3]

マケドニアと国境こっきょうせっするセルビアりょうコソボ自治じちしゅうではアルバニアじん権利けんりうばうセルビアの政策せいさくたいし、アルバニアじんおおくはいぜん暴力ぼうりょく抵抗ていこうつづけていた。マケドニアにも人口じんこうの2わりえるアルバニアじんんでおり、散発さんぱつてきなデモや衝突しょうとつきていたものの、この時点じてんではまだコソボ、マケドニアのいずれでもアルバニアじん問題もんだい武力ぶりょく衝突しょうとつきざしはられなかった。しかし1992ねん11月、マケドニア大統領だいとうりょうキロ・グリゴロフは紛争ふんそう予防よぼうのために国際こくさい連合れんごう平和へいわ維持いじ活動かつどう(PKO)をマケドニアとセルビア(コソボ)との国境こっきょう地帯ちたい派遣はけんするようもとめた。国連こくれんPKOは通常つうじょう紛争ふんそう地帯ちたい派遣はけんされるものであり、紛争ふんそうきていないところに予防よぼうてき配置はいちされることは前例ぜんれいのないことであったが、このもとめにしたがって12月、国際こくさい連合れんごう保護ほごぐん(UNPROFOR)がセルビアとの国境こっきょう地帯ちたい予防よぼうてき展開てんかいされることとなった。このことはのちに、予防よぼう外交がいこう成功せいこうした先行せんこうれいとなった[3]

スロベニア、クロアチアが武力ぶりょく衝突しょうとつ独立どくりつし、ボスニア・ヘルツェゴビナではボスニア・ヘルツェゴビナ内戦ないせんという長期ちょうきにわたる悲惨ひさん内戦ないせんひろげられたなか、マケドニアはこのとき、唯一ゆいいつユーゴスラビアから流血りゅうけつなしで独立どくりつ達成たっせいした国家こっかとなった。きゅうユーゴスラビア地域ちいき各地かくち紛争ふんそうつづなかにあって、マケドニアは「平和へいわのオアシス」と賞賛しょうさんされた。

国名こくめい問題もんだい国家こっか承認しょうにん[編集へんしゅう]

1991ねん-1995ねん国旗こっき

マケドニア共和国まけどにあきょうわこく独立どくりつしたとき連邦れんぽうからの平穏へいおん脱退だったい、アルバニアじん問題もんだいならんで直面ちょくめんしたもうひとつのおおきな政治せいじ問題もんだいに、共和きょうわこく国名こくめい民族みんぞく自認じにんしょ外国がいこくからの国家こっか承認しょうにんかんするものがあった。国名こくめいを「マケドニア」とし、憲法けんぽうによるその主要しゅよう民族みんぞくを「マケドニアじん」、言語げんごを「マケドニア」としたことにかんして、みなみ隣接りんせつするギリシャからの反発はんぱつけた。

ギリシャにとって、その国名こくめいはギリシャりょうマケドニアにたいする領土りょうどてき野心やしんうたがわせるものであった。またあたらしいマケドニア共和国まけどにあきょうわこく憲法けんぽうでは、外国がいこくたいする内政ないせい干渉かんしょう否定ひていする一方いっぽうで、ヌイイ条約じょうやくによる住民じゅうみん交換こうかんまぬかれるためにみずからをギリシャじん宣誓せんせいしたギリシャりょうのスラヴじん念頭ねんとういたものとおもわれる、「周辺しゅうへん諸国しょこくむマケドニアじん」への言及げんきゅうがあった。さらに、ギリシャけい文化ぶんか古代こだいマケドニア王国おうこくとの直接ちょくせつ歴史れきしてきつながりをたないマケドニア共和国まけどにあきょうわこくヴェルギナのほしえがいた国旗こっきや「マケドニア」の呼称こしょう使用しようすることによって、ギリシャの歴史れきし隣国りんごくうばわれる感情かんじょういだかせた。

ギリシャは、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく呼称こしょうを、自国じこく領土りょうど民族みんぞくせい歴史れきしたいする脅威きょういかんじ、国名こくめい憲法けんぽうあらためるようもとめた。マケドニア共和国まけどにあきょうわこくがこの要求ようきゅうおうじないと、ギリシャはマケドニア共和国まけどにあきょうわこく国家こっか承認しょうにんこばみ、また国際こくさいてき機関きかんへの加入かにゅう阻止そしする方針ほうしんをとった。欧州共同体おうしゅうきょうどうたい(EC)はギリシャの立場たちば支持しじし、欧州共同体おうしゅうきょうどうたいとしてマケドニア共和国まけどにあきょうわこく承認しょうにんしないことを決定けっていした。1992ねん1がつ15にち欧州共同体おうしゅうきょうどうたいがクロアチア、スロベニアの独立どくりつ承認しょうにんしたとき、ブルガリアのみがこれらの国々くにぐにとともにマケドニア共和国まけどにあきょうわこく国家こっか承認しょうにんした。ブルガリアはマケドニア共和国まけどにあきょうわこく承認しょうにんするはじめてのくにとなったが、そのもギリシャの強硬きょうこう反発はんぱつによって、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく国際こくさい機関きかんへの参加さんかこばまれ、また同国どうこくたいする国家こっか承認しょうにん少数しょうすうとどまった。

国際こくさい連合れんごうによって提案ていあんされた「マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく」の呼称こしょうも、マケドニア共和国まけどにあきょうわこくがわ容易よういにはれがたいものであったが、「国名こくめい問題もんだい解決かいけつされるまでの暫定ざんていてきなものとして」この名称めいしょう使つかうことに同意どういし、1993ねん4がつにようやく国連こくれん加盟かめいみとめられる。こののち国際こくさいてき機関きかんへの加盟かめい外国がいこくからの国家こっか承認しょうにん進展しんてんおくれた。1994ねん2がつにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国家こっか承認しょうにんをするが、ギリシャはマケドニア共和国まけどにあきょうわこく国旗こっき憲法けんぽうあらためるようもとめ、マケドニアにたいする経済けいざい制裁せいさい実施じっしした。

きたのセルビア(当時とうじユーゴスラビア連邦れんぽう共和きょうわこく。コソボもセルビアの自治じちしゅうであった)はユーゴスラビア紛争ふんそう当事とうじこくとして国際こくさいてき経済けいざい制裁せいさいかれていた。また西にしのアルバニアは欧州おうしゅう最貧さいひんこくであり、また体制たいせい転換てんかんともなって経済けいざい混乱こんらんなかにあった。ブルガリアも冷戦れいせん終結しゅうけつにともなって共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせい放棄ほうきしたばかりで経済けいざいてきには低迷ていめいつづけていた。元来がんらいユーゴスラビアの市場いちばへの依存いぞんたかかったマケドニア共和国まけどにあきょうわこく経済けいざいがこのような状況じょうきょうによって打撃だげき苦境くきょうおちいっているなか、ギリシャの経済けいざい制裁せいさいはマケドニア経済けいざい壊滅かいめつてき影響えいきょうあたえた。ギリシャによる経済けいざい制裁せいさいは、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく要求ようきゅうれて国旗こっき憲法けんぽうあらためる1996ねんまでつづけられた。マケドニア共和国まけどにあきょうわこく国内こくないそう生産せいさん(GDP)は、独立どくりつから1996ねんまで一貫いっかんしてマイナス成長せいちょうであった。

コソボ紛争ふんそう余波よは[編集へんしゅう]

2001ねん大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたボリス・トライコフスキ

マケドニア国内こくないへの紛争ふんそう波及はきゅう予防よぼうするためにセルビアとの国境こっきょう地帯ちたい派遣はけんされていた国際こくさい連合れんごう保護ほごぐん(UNPROFOR)は、その国際こくさい連合れんごう予防よぼう展開てんかいぐん(UNPREDEP)へとがれ、マケドニア国内こくない展開てんかいしていた。ユーゴスラビア人民じんみんぐん撤退てったい兵器へいきげ、国際こくさい社会しゃかいへの参加さんかおくれ、そしてきびしい経済けいざい状況じょうきょうによって、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく防衛ぼうえい体制たいせいは「警察けいさつ程度ていど」しかないといわれるほど貧弱ひんじゃくなものであった。マケドニア共和国まけどにあきょうわこく紛争ふんそう波及はきゅうしなかったのは、この国際こくさい連合れんごう保護ほごぐんによるところもおおきかった。

1998ねん11月、それまで首相しゅしょうにあった左派さはマケドニア社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい(SDSM)のブランコ・ツルヴェンコフスキわり、はじめて右派うは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき・マケドニア国家こっか統一とういつ民主党みんしゅとう(VMRO-DPMNE)のリュブチョ・ゲオルギエフスキ首相しゅしょうとなった。VMRO-DPMNEは、2つある有力ゆうりょくなアルバニアじん政党せいとうのうち、それまで連立れんりつ与党よとうにあった民主みんしゅ繁栄はんえいとうわって、より民族みんぞく主義しゅぎしょくつよアルバニアじん民主党みんしゅとう連立れんりつんだ。1998ねん1がつ、ゲオルギエフスキのしん政権せいけんは、援助えんじょきんほっして中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)を国家こっか承認しょうにんし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく断交だんこうした。これにおこった中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく国連こくれん安保理あんぽりで、1999ねん2がつのUNPREDEPの任期にんき延長えんちょうこばんだ。これによってUNPREDEPは任期にんきれとなり、マケドニア共和国まけどにあきょうわこくから撤退てったいせざるをなくなった。大統領だいとうりょうのキロ・グリゴロフは、しん政権せいけん非難ひなんした。

おなねん隣接りんせつするセルビアりょうコソボ自治じちしゅうでは、セルビアからの独立どくりつもとめるアルバニアじん組織そしきコソボ解放かいほうぐんとセルビアがわとの衝突しょうとつコソボ紛争ふんそう激化げきかしていた。アルバニアじんはじめとする大量たいりょう人々ひとびとが、セルビアがわ勢力せいりょく迫害はくがいおそれて難民なんみんとなり、隣接りんせつするマケドニア共和国まけどにあきょうわこくながんできた。マケドニア共和国まけどにあきょうわこく流入りゅうにゅうした難民なんみんかずは20まんにんえた。かれらを収容しゅうようする難民なんみんキャンプや野戦やせん病院びょういん設置せっちされたほか個人こじんてきにマケドニア国内こくない親族しんぞくとうたよかれらのいえせるものおおかった。1999ねん6がつ、セルビアがコソボ自治じちしゅうから撤退てったいしたのちかれらのおおくはコソボへと帰還きかんしていった。この1999ねんは、人口じんこう200まんにん程度ていどのマケドニアに20まんにんえる難民なんみん流入りゅうにゅうしたことや、セルビアとの交易こうえきいちじるしく困難こんなんとなったことによって、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく経済けいざいふたたびマイナス成長せいちょうとなった。

1999ねん11月、初代しょだい大統領だいとうりょうのキロ・グリゴロフの退任たいにんにより、VMRO-DPMNEのボリス・トライコフスキあたらしい大統領だいとうりょうえらばれた。

マケドニア紛争ふんそう[編集へんしゅう]

武装ぶそう蜂起ほうきしたアルバニアじん勢力せいりょく民族みんぞく解放かいほうぐん紋章もんしょうコソボ解放かいほうぐん紋章もんしょうとよくている。

1999ねんにコソボ紛争ふんそうわったとき、アルバニアじんによる武力ぶりょく闘争とうそうすすめたコソボ解放かいほうぐん公式こうしき武装ぶそう解除かいじょされ、解体かいたいされた。コソボからはセルビアの影響えいきょうりょく排除はいじょされ、国際こくさい連合れんごう保護ほごかれていた。このときのコソボ解放かいほうぐん武器ぶき兵員へいいんマケドニア共和国まけどにあきょうわこくながみ、このにおけるアルバニアじん武装ぶそう勢力せいりょく民族みんぞく解放かいほうぐんとなった。民族みんぞく解放かいほうぐんは、コソボ解放かいほうぐんおなUÇK頭文字かしらもじと、ほぼ同一どういつ紋章もんしょうっていた。マケドニア共和国まけどにあきょうわこくものなかにもこの組織そしきくわわるものもいた。かれらは、マケドニア共和国まけどにあきょうわこくでのアルバニアじん民族みんぞくてき権利けんり追求ついきゅうし、その待遇たいぐう不満ふまんっていた。

2001ねん2がつ民族みんぞく解放かいほうぐんはマケドニア北西ほくせい武装ぶそう蜂起ほうきした。民族みんぞく解放かいほうぐんによる武装ぶそう蜂起ほうきビトラクマノヴォへもし、きゅうユーゴスラビア諸国しょこくなか唯一ゆいいつ戦禍せんかのがれてきたマケドニアでも紛争ふんそうはじまった。マケドニア共和国まけどにあきょうわこく主要しゅような2つのアルバニアじん政党せいとうは、アルバニアじんたいするあく待遇たいぐう紛争ふんそうまねいたとして民族みんぞく解放かいほうぐんをテロリストとぶことを拒否きょひし、かれらにたいする一定いってい同調どうちょうをみせたものの、民族みんぞく解放かいほうぐんとの直接的ちょくせつてきなつながりは否定ひていし、また民族みんぞく解放かいほうぐんもこれらのアルバニアじん政党せいとう攻撃こうげき対象たいしょうとみなすとしていた[2]

2001ねん6がつマケドニア共和国まけどにあきょうわこくは、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく妨害ぼうがいによって国際こくさい社会しゃかいからの支援しえん十分じゅうぶんけられないことによる困難こんなんをかんがみ、ふたた台湾たいわん断交だんこうして中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの国交こっこう回復かいふくした。

同年どうねん8がつ主要しゅようこく調停ちょうていした、アルバニアじんとの権力けんりょく分有ぶんゆうや、ぐん警察けいさつにおけるアルバニアじん比率ひりつ拡大かくだい、アルバニアでの高等こうとう教育きょういくなどをふくむ、アルバニアじん民族みんぞくてき権利けんり拡大かくだいみとめることで和平わへい成立せいりつし、オフリド合意ごうい調印ちょういんされて紛争ふんそう終結しゅうけつした[2]民族みんぞく解放かいほうぐん武装ぶそう解除かいじょされて民主みんしゅ統合とうごう連合れんごう改組かいそし、民族みんぞく解放かいほうぐん指導しどうしゃアリ・アフメティがその党首とうしゅ就任しゅうにんした。

紛争ふんそう終結しゅうけつ[編集へんしゅう]

2007ねんのアドリア・グループの会合かいごうひだりから、クロアチア首相しゅしょうイーヴォ・サナデル、アメリカ大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュ、アルバニア首相しゅしょうサリ・ベリシャ、マケドニア首相しゅしょうニコラ・グルエフスキ。クロアチア、アルバニア、マケドニアの3こくはアドリア・グループとして協力きょうりょくしNATOりを目指めざしたが、マケドニアのNATO加盟かめいはギリシャの拒絶きょぜつった。

2002ねんそう選挙せんきょではマケドニア社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい勝利しょうりおさめた。民族みんぞく解放かいほうぐんから改組かいそした民主みんしゅ統合とうごう連合れんごうなどと連立れんりつ合意ごういし、社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいブランコ・ツルヴェンコフスキ首相しゅしょうかえいた。その政局せいきょく混乱こんらん2004ねんすえから社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいヴラド・ブチュコフスキ首相しゅしょうとなる。また、2004ねん大統領だいとうりょうトライコフスキ死去しきょともな大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、もと首相しゅしょう社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいのブランコ・ツルヴェンコフスキが大統領だいとうりょうとなった。

2006ねんそう選挙せんきょでは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき勝利しょうりおさめ、ふたたアルバニアじん民主党みんしゅとう連立れんりつんでニコラ・グルエフスキ首相しゅしょう就任しゅうにんした。グルエフスキ政権せいけんひきいるマケドニア共和国まけどにあきょうわこくは、アルバニア、クロアチアとともにNATO加盟かめい目指めざし3こく協力きょうりょくすすめてきた。2008ねん4がつにNATOの拡大かくだいかんしてブカレスト会合かいごうひらかれ、アルバニア、クロアチアの加盟かめい承認しょうにんされたものの、マケドニア共和国まけどにあきょうわこくはギリシャの拒否きょひって加盟かめい承認しょうにん見送みおくられた[4]

2008ねん2がつに、隣接りんせつするコソボ独立どくりつ宣言せんげんすると、アルバニアじん政党せいとうはコソボの即時そくじ承認しょうにんもとめた。これがれられないとアルバニアじん民主党みんしゅとう連立れんりつ政権せいけん離脱りだつして政権せいけん崩壊ほうかい、6がつそう選挙せんきょおこなわれた。そう選挙せんきょでは内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき中心ちゅうしんとする政党せいとう連合れんごう単独たんどく過半数かはんすうめるだい勝利しょうりおさめた[5]内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしきは、それまでの連立れんりつのパートナーであったアルバニアじん民主党みんしゅとうわって民主みんしゅ統合とうごう連合れんごう連立れんりつみ、グルエフスキの首相しゅしょう続投ぞくとうまった。

アルバニアじんからのコソボ独立どくりつ承認しょうにんへの圧力あつりょくがなおつづなか、2008ねん10がつには内部ないぶマケドニア革命かくめい組織そしき社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい民主みんしゅ統合とうごう連合れんごう、アルバニアじん民主党みんしゅとうの4とうはコソボの国家こっか承認しょうにん合意ごういし、これにもとづいてマケドニア共和国まけどにあきょうわこくはコソボの独立どくりつ承認しょうにんした。2009ねんマケドニア共和国まけどにあきょうわこく正式せいしきにコソボとの外交がいこう関係かんけい樹立じゅりつした。

紛争ふんそう終結しゅうけつ以降いこう政権せいけん交代こうたいおこなわれてもマケドニアじん政党せいとうとアルバニアじん政党せいとうつね連立れんりつみ、りょう民族みんぞくによる権力けんりょく分有ぶんゆう定着ていちゃくしつつある。アルバニア教育きょういくをはじめとするアルバニアじん民族みんぞくてき権利けんりまもられており、またアルバニアじん政党せいとうもマケドニアからの分離ぶんりやアルバニアへの統合とうごう志向しこうしていない。なお問題もんだいのこされているものの、国内こくないのマケドニアじんとアルバニアじん関係かんけい比較的ひかくてき良好りょうこうである[2]

国名こくめい問題もんだい終結しゅうけつ欧州統合おうしゅうとうごうへのみち [編集へんしゅう]

2017ねん発足ほっそくしたゾラン・ザエフ政権せいけんはギリシャとの呼称こしょう問題もんだい解決かいけつけて積極せっきょくてきはたらきかけ、2018ねん6月12にちにマケドニアは国名こくめいきたマケドニア共和国まけどにあきょうわこくとすることでギリシャとの合意ごうい(プレスパ合意ごうい)が成立せいりつ[6][7]同月どうげつ17にち署名しょめいした[8]。2018ねん9月30にちには、ギリシャとの合意ごういもとづいて「きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく」への国名こくめい変更へんこうなどの賛否さんぴ法的ほうてき拘束こうそくりょく国民こくみん投票とうひょう実施じっしされたが、投票とうひょうりつは30%だいにとどまり成立せいりつ必要ひつような50%にはとどかなかった。投票とうひょう結果けっかは、9わりちょう投票とうひょうしょ開票かいひょうえた段階だんかい賛成さんせい91.3%にたいし、反対はんたい5.7%だった。合意ごうい反対はんたいする野党やとうがわは、ボイコットをけていた[9]2019ねん1がつ11にち、マケドニア議会ぎかい国名こくめいを「きたマケドニア共和国まけどにあきょうわこく」に変更へんこうする憲法けんぽう改正かいせいあん承認しょうにんした。賛成さんせいひょう議会ぎかい定数ていすう120ちゅう81ひょうと、必要ひつような80ひょうわずかに上回うわまわった。同年どうねん1がつ25にち、ギリシャ議会ぎかいにおいても合意ごうい承認しょうにんされ[10]2がつ12にち改名かいめい発効はっこうした[11][7]

こうして国名こくめい問題もんだいによるギリシャとの対立たいりつ解消かいしょうされたため、きたマケドニアは長年ながねん目標もくひょうであったEUとNATO加盟かめいへのみちけることとなった。2019ねん2がつ6にちにはNATO加盟かめいこくがマケドニアを30番目ばんめのNATO加盟かめいこくとする議定ぎていしょ署名しょめい[12]2020ねん3月27にち正式せいしきにNATOに加盟かめいした[13]。 EUとは2020ねん3がつ24にち、EU各国かっこく欧州おうしゅう担当たんとうしょうらがきたマケドニアのEU加盟かめい交渉こうしょう開始かいし合意ごういし、同月どうげつ26にちにEU首脳しゅのうがこの方針ほうしん確認かくにんした[14][15]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m エドガー・ヘッシュわけ:佐久間さくまきよし (1995ねん5がつ). バルカン半島ばるかんはんとう. 日本にっぽん東京とうきょう: みすず書房しょぼう. ISBN 978-4-622-03367-7 
  2. ^ a b c d e f 久保くぼ慶一けいいち (2003ねん10がつ10日とおか). かれた国家こっかきゅうユーゴ地域ちいき民主みんしゅ民族みんぞく問題もんだい. 日本にっぽん東京とうきょう: 有信ありのぶどうだかぶんしゃ. ISBN 978-4-8420-5551-0 
  3. ^ a b 千田せんだよし (2002ねん11月21にち). なぜ戦争せんそうわらないか ユーゴ問題もんだい民族みんぞく紛争ふんそう国際こくさい政治せいじかんがえる. 日本にっぽん: みすず書房しょぼう. ISBN 4-622-07014-6 
  4. ^ NATO首脳しゅのう会談かいだん、グルジアとウクライナの加盟かめい先送さきおく”. AFP (2008ねん4がつ3にち). 2009ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  5. ^ マケドニアそう選挙せんきょ右派うは与党よとう圧勝あっしょう”. AFP (2008ねん4がつ3にち). 2009ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  6. ^ マケドニア国名こくめい変更へんこう合意ごうい四半世紀しはんせいき対立たいりつ解消かいしょう”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2018ねん6がつ13にち). 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  7. ^ a b マケドニアきゅうユーゴスラビア共和きょうわこく国名こくめい問題もんだい最終さいしゅうてき解決かいけつについて(外務がいむ報道ほうどうかん談話だんわ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  8. ^ マケドニア、しん国名こくめいでギリシャと合意ごうい署名しょめい EUなど加盟かめいみち」『Reuters』、2018ねん6がつ17にち2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  9. ^ マケドニア、国名こくめい変更へんこう国民こくみん投票とうひょう不成立ふせいりつ”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2018ねん10がつ1にち). 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  10. ^ ギリシャ議会ぎかい、マケドニアしん国名こくめい承認しょうにん 対立たいりつ終止符しゅうしふ”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2019ねん1がつ25にち). 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  11. ^ きたマケドニア」改名かいめい発効はっこう”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2019ねん2がつ13にち). 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  12. ^ NATO「マケドニア」を正式せいしき承認しょうにん、30カ国かこく体制たいせい”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2019ねん2がつ6にち). 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  13. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “NATOなとーきたマケドニアが加盟かめい 30かこく体制たいせい”. NHKニュース. 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん[リンク]
  14. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “EU きたマケドニア・アルバニアと加盟かめい交渉こうしょう開始かいし”. NHKニュース. 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん[リンク]
  15. ^ EU、えいきでさい拡大かくだい”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2020ねん3がつ26にち). 2020ねん4がつ19にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 久保くぼ慶一けいいち (2003ねん10がつ10日とおか). かれた国家こっかきゅうユーゴ地域ちいき民主みんしゅ民族みんぞく問題もんだい. 日本にっぽん東京とうきょう: 有信ありのぶどうだかぶんしゃ. ISBN 978-4-8420-5551-0 
  • 千田せんだよし (2002ねん11月21にち). なぜ戦争せんそうわらないか ユーゴ問題もんだい民族みんぞく紛争ふんそう国際こくさい政治せいじかんがえる. 日本にっぽん: みすず書房しょぼう. ISBN 4-622-07014-6