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スロベニアの歴史れきし

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スロベニアの地図ちず

ほんこうではスロベニア歴史れきしについてべる。

スロベニアの歴史れきしについて

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スロベニア元来がんらい、ヨーロッパ西側にしがわ諸国しょこくとの関連かんれんふかくにである。スロベニアじん自体じたいみなみスラヴぞくすることになるが、スロベニアの作家さっかツァンカルが「(みなみスラブじんらとは)うえでは兄弟きょうだいであり、言葉ことば従兄弟いとこであり、文化ぶんかすう世紀せいきわたってまったべつそだちの果実かじつである。しかし、がカルニオラ(スロベニア)の農民のうみんチロル(オーストリア)の人々ひとびと親密しんみつであるほどに我々われわれ親密しんみつではない」[1]しるしたようにスロベニアが西側にしがわ諸国しょこくへのつながりをもつ意識いしきつよい。

先史せんし時代じだい

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スロベニアにおける人類じんるい歴史れきし旧石器時代きゅうせっきじだいムスティエ文化ぶんかになであったネアンデルタールじんからはじまる。リュブリャナ周辺しゅうへんでは先史せんし時代じだい住居じゅうきょあと発見はっけんされており、紀元前きげんぜん1400ねんころイリュリアじん (en定住ていじゅうかれらはギリシャ交流こうりゅうちながらケルトじんらと融合ゆうごうしていく[2]

ローマ時代じだい

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ローマ時代じだい遺跡いせき、リュブリャナ

やがてスロベニアはローマの支配しはいとなり、イリュリクムノリクムなどのぞくしゅうとされる。この地域ちいきには植民しょくみん都市としとして現在げんざいのエモナ(げんリュブリャナ)やポエトヴィオ(げんプトゥイ)などが建設けんせつされ、さらにシェンペーテルにはローマ時代じだいだい墓地ぼちあと存在そんざいする。このローマ占領せんりょう時代じだいキリスト教きりすときょう伝来でんらい5世紀せいきまで繁栄はんえいつづけた。しかし5世紀せいきなかごろ、フンぞく侵入しんにゅうしたことにより、都市とし破壊はかいされ、さらに6世紀せいきスラヴじん侵入しんにゅうむかえることとなる[2]

スロベニアじん定住ていじゅう

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536ねんスラヴじんスプリト周辺しゅうへんあらわれた。548ねんには現在げんざいアルバニアドゥラスまで南下なんかした記録きろくのこされている。さらにビザンツ帝国ていこく歴史れきしプロコピオステオファネス (enによれば、539ねん550ねん559ねんにイリュリアしゅうへスロベニアじん侵入しんにゅうしたことが記録きろくされている。しかし、こののち、567ねんアヴァールじん襲来しゅうらい、その周辺しゅうへんのゲルマン民族みんぞくらはイタリアへいやられることとなった。アヴァールじんはそこに定住ていじゅうするがイリュリクムノリクム周辺しゅうへんらはスラヴじんらが定住ていじゅうかれらはアヴァールじんらが背後はいごにいることたのみにイストリア半島はんとうやベネト地方ちほうまで侵攻しんこう、さらにオーストリアのドライヘーレンシュピツェやダッハシュタインハールシュタットまでいたこととなった。そのため、7世紀せいきにはサヴァがわドナウがわ周辺しゅうへんダルマチアはスラヴじんらが占領せんりょうすることとなった[3]

この時代じだい、フランクじんのサモがアヴァールじん抵抗ていこうするスラヴじん支援しえんしてこれを勝利しょうりさせ、さらにフランク王国おうこく、ゲルマンけいアレマンぞく (enランゴバルドぞくにも勝利しょうりしたうえサモ帝国ていこく (enひらいたとされているが、このなかにスロベニアじん(カランタン=スロベニアじん、アルプス・スロベニアじんとも)が支配しはいにあったとされている。このサモ帝国ていこくはサモが死去しきょしたことにより崩壊ほうかい、スロベニアじんふたたびアヴァールじん支配しはいとなった[4]

626ねんから630ねんあいだにスラヴじんらはアヴァールへの反乱はんらんこしてカランタニア公国こうこく (en創設そうせつ、サモ帝国ていこく一翼いちよくしたとかんがえられている。カランタニア公国こうこくはアヴァールじんとのたたかいをかえすこととなるが、745ねんバイエルン公国こうこく支援しえん要請ようせい、この支援しえんとともにキリスト教きりすときょう伝来でんらいすることとなり、ザルツブルク司教しきょう (en設置せっちされることとなった。しかし、キリストきょう無条件むじょうけんれられたわけではなく[5]772ねん、バイエルンのキリスト教きりすときょうによる教化きょうか活動かつどうへの反抗はんこうから反乱はんらん発生はっせい、バイエルン公国こうこくタシロ3せい (enおおやけはこれを鎮圧ちんあつした[4]

しかし、徐々じょじょフランク王国おうこくびてくることにより、クロアチアじんリューデヴィト・ポサヴスキ (enらとともにフランクとのたたかいをおこなったが、リューデヴィトはカランタニア公国こうこく廃止はいしした。これは778ねんカロリングあさフランク王国おうこくがフランク王国おうこく辺境へんきょうをバイエルン公国こうこくもととして設立せつりつされた辺境へんきょうはくりょうんだためであった。このため、スロベニアじんスロベニアこそ使つかことゆるされたものの、農奴のうどすこととなる[6][7]

フライジング写本しゃほん

さらに896ねんハンガリー王国おうこく成立せいりつしたことによりフランク王国おうこく隣接りんせつ地域ちいき要塞ようさい着手ちゃくしゅ、さらにフランク王国おうこく分裂ぶんれつするとあずまフランク王国おうこくおうオットー1せい952ねん、スロベニア一帯いったいふく地域ちいきをカランタニアおおやけりょうさだめたが、このことからスロベニアじんらはドラヴァがわまで進出しんしゅつすることとなる[# 1]。その、カランタニアおおやけりょうはエスト辺境へんきょうはくカリンティア辺境へんきょうはく (en、ドラヴァがわ流域りゅういき地方ちほうサヴァがわ流域りゅういき地方ちほう、イストリア地方ちほう分割ぶんかつされたがいずれもスロベニアじんらが定住ていじゅうしており、かみきよしマ帝国まていこくひがし国境こっきょう形成けいせい、クロアチアと分断ぶんだんされることとなった。そのかみきよしマ帝国まていこくりょうとして「カリンティア(スロベニア、コロシュカ)」、「スティリア(シュタイエルスカ) (en」、「カルニオラ(クランスカ) (en」のさん公国こうこくさい編成へんせいされることとなる[9]。なお、この時代じだい972ねんから1039ねんあいだに、キリストきょう伝道でんどうのためにかれた「ブリジンスキ・スポメニキ(フライジング写本しゃほん) (en」はスロベニア文章ぶんしょう記述きじゅつされており、ほかにも写本しゃほん存在そんざいする[10]

しかし13世紀せいきすえヴェネツィア共和きょうわこく勢力せいりょくばすことにより、イストリア半島はんとうアドリア海あどりあかい沿岸えんがん1727ねんまでヴェネツィア支配しはいすることとなった。そしてローマ教皇きょうこう計画けいかくにより、アクイレイアそう司教しきょう(it)がザルツブルク司教しきょう圧力あつりょくをかけたことによりカリンティア、スティリア、カルニオラらさん公国こうこくボヘミアおうオットカル2せい支配しはいすることとなった。こうしてスロベニアはオットカル2せいプシュミスルハプスブルク支配しはいすることとなるが、オットカル2せい1278ねんマルヒフェルトのたたか (enにおいてハプスブルクルドルフ1せい敗北はいぼくさん公国こうこくはハプスブルク支配しはいとなる[11]

アルプス・スラヴじん

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ゲルマン民族みんぞくのようにだい移動いどうせたアルプス・スラヴじんらはザドルガ基本きほんとした地縁ちえんてき共同きょうどうたいっており、長老ちょうろう(ズパン)がアヴァールじん交渉こうしょうおこない、ザドルガない裁判官さいばんかんやくたすなどしていた。のち裁判官さいばんかん役目やくめおこなことはなくなったが、長老ちょうろう中心ちゅうしんとして荘園しょうえんこととなる。のち農民のうみんしたアルプス・スラヴじんらはケルンテンシュタイアーマルク、クラインで特権とっけんてき農民のうみんそうである「エードリンガー」を形成けいせい自治じち裁判さいばんけんことができた。この特異とくいてき地域ちいきことかんしてはアヴァール、クロアチア、ランゴバルド、ローマにその出自しゅつじもとめられたがこの分野ぶんやかんしてはいまだに研究けんきゅうつづいているがそのこたえを見出みいだすことは困難こんなんとされている[12]

ハプスブルクによる支配しはい

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ウルリク2せい

オットカル1せい勝利しょうりしたルドルフ1せいさん公国こうこくをハプスブルク相続そうぞく領地りょうちとして息子むすこルドルフアルベルトおさめさせた。さらに1355ねんにはトリエステからモンファルコーネまでのアドリア海あどりあかい沿岸えんがんヴェネツィアよりうばい、スロベニアじん居住きょじゅう地域ちいきすべてハプスブルク支配しはいとなった。しかし15世紀せいきツェリェ伯爵はくしゃくいえちからをつけてスロベニア地域ちいきにおいてハプスブルク対抗たいこうすることとなり、1432ねんにはルクセンブルク婚姻こんいんむすぶことにより「かみきよしマ帝国まていこく貴族きぞく」となった。しかし1456ねんベオグラードにおいてフニャディ・ヤーノシュ息子むすこでハンガリーおうマーチャーシュ1せいあにフニャディ・ラースローによってツェリェはくウルリク2せい殺害さつがいされたことにより、スロベニアじん国家こっかのこ可能かのうせい消滅しょうめつ、ハプスブルク領土りょうどとなることとなったが、過去かこルドルフ4せいがドイツじんコチェーヴィエ地方ちほう入植にゅうしょくさせていたため、スロベニアじん居住きょじゅうはドイツじん居住きょじゅうかこまれることとなった。この状況じょうきょうだい世界せかい大戦たいせんまでつづこととなる。また、行政ぎょうせいめんなどではドイツ使用しようされることとなったが、スロベニア自体じたい禁止きんしされず、農民のうみんたちが使用しようしつづけることとなる[13]

ジッチェ修道院しゅうどういん

13世紀せいきから15世紀せいきにかけてのスロベニアは封建ほうけんせい確立かくりつしており、教会きょうかい関係かんけい領地りょうちおお存在そんざいした。とくに35もの修道院しゅうどういん付属ふぞく農園のうえん設立せつりつされたことにより、シトー修道しゅうどうかいのスティチナ修道院しゅうどういん(Cistercian Abbey Stična)やカルトジオ修道しゅうどうかい (enジッチェ修道院しゅうどういん (enなどがてられ、そのなかでもザルツブルクそう司教しきょうもっと勢力せいりょくおおきかった。また、おおくの修道院しゅうどういん設立せつりつしたことにより、文化ぶんかめんでも多大ただい影響えいきょうあたえることとなり、写本しゃほん(マニュスクリプト)製作せいさくされ、建築けんちくぶつとしてはロマネスク様式ようしきがブトゥイ、ブレスタニツァ (enポドスレダ (enゴシック様式ようしきマリボルツェリェクラーニリュトメルでそれぞれ建設けんせつされることとなる[13]

処刑しょけいされるグーベッツ[# 2]
だいトルコ戦争せんそうにおいて現在げんざいのスロベニアのでハプルブルクたたかうオスマン帝国ていこくぐん

15世紀せいきはいるとスロベニアの地域ちいきオスマン帝国ていこく襲来しゅうらいすることとなった。このため、ハプスブルク帝国ていこくはスロベニア地域ちいき騎馬きば軍団ぐんだん組織そしき、そしてさらにオスマン帝国ていこくとの国境こっきょう地帯ちたい軍政ぐんせい国境こっきょう地帯ちたい設置せっちした。この軍政ぐんせい国境こっきょう地帯ちたいはクロアチアの設置せっちされたため、スロベニアじんはこれにふくまれたわけではなかったが、ハプスブルク帝国ていこく貴族きぞくらが国境こっきょう地帯ちたい要塞ようさい建設けんせつするさい費用ひようをスロベニア農民のうみんらが負担ふたんすることとなり、農民のうみん反乱はんらん頻発ひんぱつすることとなる。1515ねん発生はっせいした農民のうみん反乱はんらんとく規模きぼおおきくスロベニアじん居住きょじゅう全体ぜんたいひろがったがこれは鎮圧ちんあつされることとなる。そして1572ねんから1573ねんにかけてスロベニアじん、クロアチアじんらが連合れんごうしたうえでハプスブルク帝国ていこくへの忠誠ちゅうせい放棄ほうきしてザグレブ首長しゅちょうへの忠誠ちゅうせいおこなえるよう要求ようきゅうしたがこれも成功せいこうせず、結局けっきょく1713ねんトールミン一揆いっきのように18世紀せいきまで農民のうみん一揆いっきつづくこととなる[15]

プリモシュ・トルーバル

1517ねん10月13にちマルティン・ルターが「95ヶ条かじょう論題ろんだい」をかかげたことによりプロテスタント活動かつどうはじまるが、このなみはスロベニアにまでおよぶこととなり、1520ねんだいにはトリエステグラーツリュブリャナルター活動かつどうはじまっていた。そのなか、プロテスタントへ改宗かいしゅうしたスロベニアじん司祭しさいプリモシュ・トルーバル (en迫害はくがいけるためにヴュルテンベルク (en避難ひなんしたが、「カテキズム(教理きょうり問答もんどうしゅう)」をスロベニア翻訳ほんやく、さらにスロベニア基本きほんてき文法ぶんぽうかんする書籍しょせき出版しゅっぱんしたが、これは19世紀せいきのスロベニアじんらの民族みんぞくてきアイデンティティのどころとなる。こののち、スロベニアではプロテスタント信者しんじゃ増加ぞうかしたことにより、トルーバルの「スロベニアじんのためのキリスト教きりすときょうてき秩序ちつじょ」、ユーリィ・ダルマティンの「聖書せいしょ全訳ぜんやく」などが出版しゅっぱんされることとなるが、これはスロベニアだけでなくキリル文字もじグラゴル文字もじでも出版しゅっぱんされクロアチアでも使用しようされた[16]

さらにトルーバルは30さつもの書物しょもつをスロベニア、クロアチアの一部いちぶ紹介しょうかいすることとなり、1555ねんには「マタイによる福音ふくいんしょ」を翻訳ほんやく1582ねんには「新約しんやく聖書せいしょ」の全部ぜんぶをスロベニア翻訳ほんやく、これらがスロベニアで普及ふきゅうすることとなったが、さらにかれ弟子でしユーリィ・ダルマティンは旧約きゅうやく聖書せいしょ翻訳ほんやくを、アダム・ボホリッチ (enはスロベニアはつ文法ぶんぽうしょふゆ余暇よか(Articae horulae succisivae)」を出版しゅっぱんした[17]

このため、ハプスブルク帝国ていこくは「対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかく」をびかけ、教皇きょうこうちょうトリエントこう会議かいぎ開催かいさいしたうえイエズスかい設立せつりつウィーン進出しんしゅつさせ、さらにはリュブリャナなどの主要しゅよう都市とし神学校しんがっこう(コレギウム)設立せつりつおこなった。ハプスブルク帝国ていこくはプロテスタント牧師ぼくし職人しょくにんらをなんせんにん追放ついほうし、さらにプロテスタントの文献ぶんけんすべてを禁止きんしはらったが、そのためにスロベニア出版しゅっぱんぶつ事実じじつじょう消滅しょうめつすることとなる。そのため、あらたなバロック芸術げいじゅつがスロベニアにひろがることとなり、16世紀せいきすえにはカトリック勝利しょうりおさめることとなる。そして、17世紀せいきはいるとリュブリャナ、ゴリツァなどにバロック様式ようしき教会きょうかい建築けんちくされ、その装飾そうしょくにイタリアの彫刻ちょうこくたちが参加さんかすることとなる[18]。ただし、スロベニアはイエズスかい設立せつりつした高等こうとう学校がっこう演劇えんげきや、リュブリャナ、ゴリツァでの聖職せいしょくしゃ会合かいごうではスロベニア使用しようされることおお存在そんざいした[19]

マルコ・ポフリン

18世紀せいきなかばになるとハプスブルク帝国ていこく史上しじょうはつ人口じんこう調査ちょうさおこなわれたが、このとき、スロベニアじんとされた人々ひとびとは100まんにんたなかった。しかし、マリア・テレジア時代じだい交通こうつうもう発達はったつ、マリボル、ツェリェ、リュブリャナを経由けいゆしてトリエステにいた重要じゅうようみち整備せいびされた。そのため、亜麻あま絹織物きぬおりものなどの手工業しゅこうぎょう発達はったつ農業のうぎょう関係かんけいちかられられることとなり、カルニオラでは1771ねん農業のうぎょう学校がっこう設立せつりつされ、ジャガイモ栽培さいばいなどあらたな農業のうぎょうれられた[20]。さらに政府せいふ義務ぎむ教育きょういくれい発令はつれい、スロベニア地域ちいき学校がっこうではスロベニアによる授業じゅぎょうおこなわれ、「対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかく」で事実じじつじょう消滅しょうめつしていたスロベニア印刷物いんさつぶつ出版しゅっぱんされることとなり[20]1715ねんにはボホリッチによる「文法ぶんぽうしょ」が出版しゅっぱんされ、1768ねんにはマルコ・ポフリン (enによって「クラインスカ・グラマティカ(Kraynska grammatica、カルニオラ文法ぶんぽう)」も出版しゅっぱんされることとなる[19]

しかし、マリア・テレジア死去しきょしたことにより、ヨーゼフ2せい親政しんせい開始かいし行政ぎょうせい機関きかん使用しようする言語げんごドイツ規定きていしたことにより状況じょうきょう変化へんか学校がっこうにおいてもドイツ教育きょういく優先ゆうせんされた[# 3]。しかし1781ねん、「農奴のうど解放かいほうれい」が発令はつれいされたことにより、農奴のうどせい廃止はいしされ、個人こじん義務ぎむ緩和かんわされたことにより、スロベニアじん中産ちゅうさん階級かいきゅうのぼことができる状況じょうきょうとなった[22]

さらにマリア・テレジア、ヨーゼフ2せい時代じだい啓蒙けいもうてき絶対ぜったい主義しゅぎ導入どうにゅうされたことによりスロベニアにも知識ちしきじんそうまれることとなり、1781ねん、「アカデミア・オペロソルム・ラバセンシス (en」がリュブリャナで設立せつりつされ、これに類似るいじしたいくつかの組織そしき各地かくち形成けいせいされ[23]1779ねんから1782ねんあいだにバロック・スタイルの詩歌しかあつめた「ピサニツェ(Pisanice od lepih umetnosti、復活ふっかつさいたまご)」がヤネズ・ダマスツェン神父しんぷ(本名ほんみょう、フェリックス・デヴ)(sl)によって出版しゅっぱんされたが、このなかにはスロベニアの農民のうみんうたった「幸福こうふくなカルニオラじん」もふくまれている[24]

民族みんぞく意識いしきたかまり

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ジーガ・ツォイス

ヨーゼフ2せい中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめたが、それにともな地方ちほう政府せいふへの限定げんていてきながらも権限けんげん委譲いじょうされることとなった。そして、ロマン主義しゅぎ活動かつどう開始かいしされたことにより、ドイツじんヨハン・ゴットフリート・ヘルダーはスラヴじんらにもみずからの言葉ことばふるつたわる風習ふうしゅう伝承でんしょう(フォークロア)を研究けんきゅうして発展はってんさせることをびかけた。そのため、スロベニアじんらもこの活動かつどう反応はんのうした。そのため、鉱山こうざん経営けいえいしゃジーガ・ツォイス男爵だんしゃく (en支援しえんもと作家さっかグループが形成けいせいされ、そのなかには言語げんご学者がくしゃイェルネイ・コピタル (en聖職せいしょくしゃヴァレンティン・ヴォドニック (enらが参加さんかしていた。コピタルはスロベニア方言ほうげん統一とういつおこない、さらにドイツ要素ようそ排除はいじょしたスロベニア文法ぶんぽうしょ出版しゅっぱん、さらにはセルビア・クロアチア改革かいかくしゃヴーク・カラジッチ共同きょうどう作業さぎょうすすめてスロベニア音声おんせいがくてき正書法せいしょほう確立かくりつさせた。このため、スロベニア整備せいびされることとなり、のちにスロベニア最大さいだい詩人しじんといわれるフランツェ・プレシェーレンらがまれることとなる[25]

さらに「農業のうぎょう実務じつむ協会きょうかい」が政府せいふ支援しえんした形成けいせいされたがこの組織そしきではラテン語らてんご使用しようされ、さらにスロベニアけい学識がくしきしゃあらわれることとなる。ヤネス・ジーガ・ヴァレンティン・ポポヴィッチ(sl)は「海洋かいよう研究けんきゅう」をドイツあらわし、ユーリィ・ヴェガ (enは「対数たいすうがく大全たいぜん (en」をラテン語らてんごあらわした。さらにスロベニア以外いがいでもその活動かつどうひろがることとなり、ブルターニュベルシャザール・アケ (enは「カルニオラ地誌ちし(Plantae alpinae carniolicae)」を出版しゅっぱん、スロベニアにおける言葉ことばちがい、方言ほうげん文化ぶんかてき地域ちいきてき特徴とくちょう研究けんきゅうされた[26]

せいニコラウスだい聖堂せいどう(リュブリャナ司教しきょう)

そして教会きょうかいでもヤンセン主義しゅぎ(厳格げんかく主義しゅぎ)ユトレヒトからつたわったことにより、リュブリャナ司教しきょう (enはその影響えいきょうけ、K・J・ヘルベシュタイン司教しきょうはこれを熱心ねっしん支持しじ、その影響えいきょうけた人々ひとびとらは聖書せいしょ翻訳ほんやくおこなったが、この翻訳ほんやく作業さぎょう分野ぶんやへも波及はきゅうした。そのため、おおやけきょう要理ようり福音ふくいんしょ講話こうわ祈祷きとうしょ旧約きゅうやく聖書せいしょ詩篇しへんなどが翻訳ほんやくされ、スロベニア文語ぶんご成立せいりつ多大ただい貢献こうけんおさめることとなり、さらにスロベニアじん知識ちしきそうにも影響えいきょうあたえることとなった[27]

イリリアもろしゅう(Illyrian Provinces)

この文学ぶんがくめんまれたこの活動かつどうはやがて政治せいじにも影響えいきょうおよぼすこととなり、どう時期じき発生はっせいしたフランス革命かくめい思想しそうてき影響えいきょうけたヴァレンティン・ヴォドニックはスロベニアはつ新聞しんぶんしゃ1797ねん設立せつりつ、「ルブランスケ・ノヴィツェ(リュブリャナ新聞しんぶん)(sl)」を発行はっこうした。さらにフランスはナポレオン・ボナパルト登場とうじょうによりその領土りょうど拡大かくだいつづけ、スロベニアもその領域りょういきしたが、ナポレオンはスロベニアに関心かんしんっていたため、1805ねん1809ねんとハプスブルク帝国ていこくとのたたかいのさいにはドイツフランス語ふらんすごなどで各地かくち習慣しゅうかん尊重そんちょうするという宣言せんげんぶん作成さくせいしているが、このなかにはスロベニア作成さくせいされたものもふくまれていた。1809ねん、ナポレオンはウィーン条約じょうやくによりカルニオラ、カリンティア西部せいぶゴリツィアイストリア半島はんとう、クロアチアの一部いちぶダルマチアドゥブロヴニクをハプスブルク帝国ていこくより割譲かつじょうけ、「フランスりょうイリュリアもろしゅう」を形成けいせい州都しゅうとリュブリャナにおかれることとなった[28]

フランスりょうイリュリアもろしゅうとなったことにより農奴のうどせいこそ廃止はいしされなかったが、この地域ちいきではフランスしき行政ぎょうせい制度せいどナポレオン憲法けんぽう適用てきようされることとなった。そのため、スロベニア使用しよう推奨すいしょうされ、行政ぎょうせい機関きかんにもスロベニアじんらが登用とうようされることとなり、さらにフランス語ふらんすご習得しゅうとくしているものすくないという理由りゆう役所やくしょでもスロベニア使用しようされることみとめられた。そして知識ちしきじんらもフランスの政策せいさく共感きょうかんしめし、ヴォドニックは「イリリアの再生さいせい」というをナポレオンにささげ、さらに1810ねんにはグラーツで「スロベニアじん協会きょうかい」が設立せつりつされることとなり、その2ねんにはグラーツの高等こうとう学校がっこうにおいて「スラヴ研究けんきゅう講座こうざ」が設置せっちされることとなる[28]

スタンコ・ヴラーズ

このなか、スロベニアでもイリュリア運動うんどう (en活発かっぱつすることとなり、スロベニアクロアチアカイ方言ほうげん (enちかことからスロベニア、クロアチア、そしてみなみスラヴけいしょ言語げんご統一とういつ提案ていあんしたものも存在そんざいした。このなかもっと代表だいひょうてき人物じんぶつとしてスタンコ・ヴラース(sl)がげられるが、かれはプレーシェンやクロアチアのリュデヴィト・ガイ (enらとを親交しんこうち、スロベニア、クロアチア混合こんごうした「イリュリア」で発表はっぴょうしたが、結局けっきょく、これは結果けっかのこことができなかった[29]

フランス占領せんりょうでスロベニアでは民族みんぞく意識いしきたかまることとなったが、その一方いっぽうで「コンコルダート」が適用てきようされ、さらに軍事ぐんじ支出ししゅつのための増税ぞうぜい徴兵ちょうへいせい負担ふたんなどがいられることとなっていた。しかし、1815ねん、ナポレオンがやぶれたことにより、ウィーン条約じょうやくむすばれるとスロベニアはふたたびハプスブルク帝国ていこくりょうとなった。ダルマチアとラグーザはオーストリアに併合へいごうされ、イストリアカリンティアカルニオラ (enなどはあらたにイリュリア王国おうこく (en形成けいせいすることとなり、オーストリアの一部いちぶすこととなった。また、クロアチアスラヴォニアハンガリーりょうしている[28]

ヤネス・ブライワイス

ハプスブルク帝国ていこくにおいてクレメンス・メッテルニヒ政権せいけんになこととなると行政ぎょうせいめん教育きょういくめんにおいてふたたびドイツ要素ようそつよまることとなり、スロベニアじん作家さっからも政府せいふかんされることとなった。これはメッテルニヒが旧来きゅうらい国際こくさい秩序ちつじょ維持いじしたいとかんがえていたためであったが、この政策せいさくにより、ハプスブルク帝国ていこくない民族みんぞく感情かんじょう抑圧よくあつされることとなる。しかし、ウィーンで1848ねん革命かくめい勃発ぼっぱつするまでのフォアメルツ (enばれるこの期間きかん、スロベニアでは作家さっかたちがスロベニアにおける文学ぶんがく創作そうさく活動かつどう水準すいじゅんたかめるための努力どりょくおこなっており、さらにはヤネス・ブライワイス (enが「ノヴィツェ(ニュース) (en」という新聞しんぶん発行はっこう、この新聞しんぶん経済けいざい農業のうぎょう問題もんだいだけでなく政治せいじ問題もんだいまで記事きじにした。また、工業こうぎょうめんにおいては最初さいしょ手工業しゅこうぎょう開始かいしされた時期じきでもあり、繊維せんいぎょう製糖せいとうぎょうでは蒸気じょうき機関きかん導入どうにゅうされることとなった[30]

オーストリア=ハンガリー帝国ていこく皇帝こうてい直轄ちょっかつりょう(キュステンラント)、1897ねん

1848ねん革命かくめい時期じき、スロベニアじんらはみずからの権利けんり拡大かくだいのための活動かつどう開始かいししたが、農民のうみんたちは議会ぎかい封建ほうけんせい廃止はいし決定けっていされた時点じてん革命かくめい興味きょうみうしなっていた。しかし、結社けっしゃ「スロベニア」が結成けっせいされたうえ言語げんご境界きょうかい内部ないぶにスロベニアじん土地とちあつめて「しゅう(ラント)」を形成けいせいして民族みんぞく権利けんり保障ほしょう、スロベニアがドイツイタリア対等たいとうであること、すべての言語げんご学校がっこう教育きょういくにおいて使用しようされることを150まんにんのスロベニアじんにおいて1848ねん4がつ宣言せんげんした。しかし、この宣言せんげん一部いちぶちいさなグループの支持しじたものの、封建ほうけん領主りょうしゅやドイツのリベラルな中産ちゅうさん階級かいきゅう反対はんたい、それにたいしてスロベニアじんらはフランクフルト国民こくみん議会ぎかいではスロベニアじん参加さんかする意味いみがないとして参加さんか拒否きょひした。このとき、法律ほうりつヨシブ・クラーニェは「世界せかい一人ひとりたりともスロベニアじんたいしてぬのがこわいのなら自殺じさつすればいなどとことはできない」と発言はつげんしている。1849ねん、ハプスブルク帝国ていこくはイリュリア王国おうこく廃止はいししてカルニオラ、カリンティア、キュステンラント (enを「クローンレンダー(Kronland、皇帝こうてい直轄ちょっかつ) (en」としたうえ限定げんていてき自治じちけんあたえた身分みぶんせい議会ぎかいいたが、アレキサンダー・フォン・バッハ (en時代じだい自治じちけんいちじるしく制限せいげんけることとなる。その最中さいちゅう1853ねん、スロベニア文学ぶんがく作品さくひん出版しゅっぱんおこなうために「モホリェヴァ・ドルージュバ(せいエルマゴール協会きょうかい)」(sl)が設立せつりつされている[31]

1860ねん10月、勅書ちょくしょくだされることによりあらたな憲法けんぽう制定せいていされたが、スロベニアじんらは地方ちほう議会ぎかいから排除はいじょされることにより少数しょうすうドイツじんらが権力けんりょくにぎった。そのため、スロベニアじん圧倒的あっとうてき多数たすうであったカルニオラしゅうにおいてもスロベニアしるされた議会ぎかい報告ほうこくしょ閲覧えつらん申請しんせいおこなわれても拒否きょひされるような状態じょうたいであった。さらに1867ねんハンガリー王国おうこく独立どくりつしたことによりオーストリア=ハンガリー帝国ていこく形成けいせいされてハンガリーじんらがドイツじん対等たいとう地位ちいこととなったが、スロベニアじんらにはなんら影響えいきょうがなかった。しかし、選挙せんきょほうなん改正かいせいされたことにより、民主みんしゅ主義しゅぎ徐々じょじょれられたことによりこれらの問題もんだい政治せいじてき課題かだいとして表現ひょうげんされはじめたため、1867ねん選挙せんきょほう改正かいせいによりスロベニア民族みんぞくとう結成けっせい許可きょかされた[32]

このスロベニア民族みんぞくとうはそれまで「リベラル」と「保守ほしゅ」にかれていた派閥はばつが「統一とういつスロベニア (en」を形成けいせいする目的もくてきあつまったものであり、さらに1861ねん以降いこう、トリエステでスロベニアまもるため発生はっせいした活動かつどうにより読者どくしゃ協会きょうかい「チタルニツェ」が結成けっせいされることとなった。1867ねん選挙せんきょではカルニオラのしゅう議会ぎかい(ラントターク)で史上しじょうはつとなるスロベニアじんらが多数たすうめる事態じたいいたった。さらに、この直前ちょくぜんひろしおう戦争せんそうやぶれたオーストリア=ハンガリー帝国ていこくはスロベニアじんらの居住きょじゅう地域ちいきをイタリアへ割譲かつじょうするという問題もんだい発生はっせいしたことにより、1868ねんから1871ねんにかけて「ターボル」とばれる集会しゅうかいがスロベニアじん居住きょじゅう全体ぜんたい開催かいさいされ、「統一とういつスロベニア」への支持しじおこなった。そのため、1892ねんにはキリスト教きりすときょう運動うんどう関係かんけいした農民のうみんらがあつまったカトリック民族みんぞくとう (enが、さらに1894ねんには進歩しんぽ民族みんぞくとう結成けっせいされた[33]

カトリック民族みんぞくとう1899ねんにローマ教皇きょうこうレオ13せいした「レールム・ノヴァルム(かいみことのり) (en」の実現じつげん要求ようきゅうして政治せいじにもおおきな影響えいきょうこととなったが、その一方いっぽう少数しょうすうであるリベラル都市とし中産ちゅうさん階級かいきゅう中心ちゅうしん支持しじあつめ、リュブリャナ大学だいがく設立せつりつ要求ようきゅうした。しかし、これらの活動かつどうおこなわれたにもかかわらず、「ライヒスラート(帝国ていこく議会ぎかい) (en」では議席ぎせき配分はいぶんによって不利益ふりえきけていた[# 4]。その状況じょうきょうなか、ドイツじんらはトリエステにいたる「ドイツじんはし」を維持いじするためにつよ圧力あつりょくをスロベニアにかけつづけた。そのため、カトリック民族みんぞくとうクロアチア権利けんりとう (enとの連携れんけい模索もさく、スロベニアの政治せいじらはクロアチアの政治せいじらにオーストリア=ハンガリー帝国ていこくにさらにスロベニアじん、クロアチアじんらスラヴじん国家こっか形成けいせいして「三重みえ帝国ていこくとする構想こうそう(トリアリズム)」をちかけた[# 5]。しかし、皇太子こうたいしフランツ・フェルディナントはこの構想こうそうについて考慮こうりょしてスロベニアじん除外じょがいしたクロアチアじん国家こっか形成けいせい方針ほうしんとして採用さいようしようとしたが、結局けっきょく、この構想こうそうは「ユーゴスラビア構想こうそう」へつながることとなり[36]たとえばクロアチア国民党こくみんとう (en指導しどうしゃヨシプ・シュトロスマイエル (en歴史れきしフラニョ・ラチュキ (enらはセルビア公国こうこく基礎きそとするみなみスラヴじんによる統一とういつ国家こっか構想こうそうしており、さらにクロアチアとセルビアの政治せいじらのあいだわされた「リエカ合意ごうい」と「ザダル決議けつぎ」によりクロアチア・セルビアじん連合れんごう形成けいせいされたが、このなかにはスロベニアもふくまれていた[37]

スロベニア文化ぶんか萌芽ほうが

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ジーガ・ツォイス男爵だんしゃくかん

19世紀せいきはいるとジーガ・ツォイス男爵だんしゃく登場とうじょうするがかれはスロベニアじんははちリュブリャナ中心ちゅうしん近郊きんこう邸宅ていたくでスロベニア振興しんこう活躍かつやくした。かれはオペラや演劇えんげき愛好あいこうであったが、外国がいこく作品さくひんをスロベニア翻訳ほんやく脚色きゃくしょくしたものを上演じょうえん1789ねん12月には「こな小屋こや(Die Feldmühle)」を「市長しちょうむすめ(sl)」としてまた、1781ねんには「フィガロの結婚けっこん」を「吉日きちじつまたはマティチェクの結婚けっこん(sl)」(ただし、検閲けんえつっかかったため1884ねんまで上演じょうえんされなかった)が導入どうにゅうされた。また、この脚色きゃくしょくおこなったアントン・リンハルト (en未完みかんわりはしたものの「カルニオラおよびオーストリアのみなみスラヴじん居住きょじゅう地域ちいき歴史れきしてき考察こうさつ(Versuch einer Geschichte von Krain und den übrigen Ländern der südlichen Slaven Oestérreiches)」をあらわしている。また、詩人しじんヴォドニックは「フランスりょうイリュリアしゅう」の時代じだい、フランスが初等しょとう教育きょういくレベルでの民族みんぞく教育きょういくおこない、あらゆる階層かいそう教育きょういくけさせようとしていたことから、初等しょとう教育きょういく管轄かんかつされる視学しがくかん任命にんめいされ、なんさつかのスロベニア文法ぶんぽうしょあらわしたうえで、さらには「クハルスケ・ブクヴェ(Kuharske bukve、スロベニアはつ料理りょうりほん)」や「バビシュトヴォ(Babištvo、助産婦じょさんぷのための手引てびきしょ)」をあらわしている[38]

スロベニア使用しようについては市民しみん日常にちじょうせつかつレベルまでおよんでおり、そのために1800ねんからスロベニア文法ぶんぽうしょ出版しゅっぱんされ、1808ねんには「カルニオラ、カリンティアおよびスティリア地方ちほうのスラヴ文法ぶんぽう(Grammatik der slavischen Sprache in Krain, Karnten und Steyemark)」が近代きんだいてき文法ぶんぽうしょとしてはじめて出版しゅっぱんされた。この作者さくしゃであるコピタルはウィーン大学だいがくでのスラヴ講座こうざ開設かいせつ尽力じんりょく(実際じっさい開設かいせつされたのは死後しごであった)、おおくの弟子でしそだてた。やがてその弟子でしのJ・N・プリミツは1812ねんにグラーツ高等こうとう学校がっこう開設かいせつすることとなり、一方いっぽうヴォドニックらの尽力じんりょく1817ねんにはリュブリャナで高等こうとう学校がっこう開設かいせつされた。しかし、さらに高度こうどなレベルでのスロベニアによる教育きょういくリュブリャナ大学だいがく開設かいせつされた1919ねんはじまることとなる[39]

フランツェ・プレシェーレン

さらに1806ねんヴォドニックはスロベニアはつ詩集ししゅう、「こころみのための(Pesmi za pokušino)」を出版しゅっぱんしたが、こののちにスロベニア最大さいだい詩人しじんフランツェ・プレシェーレン登場とうじょうすることとなる。プレシェーレンは1830ねん、スロベニアはつ文学ぶんがく評論ひょうろん「クランスカ・チュベリッツァ(カルニオラの蜂蜜はちみつ、Kranjska Čbelica)」の発行はっこうくわわり、1836ねんにはキリスト教きりすときょう布教ふきょう時代じだいうたった「サヴィツァのたき(Krst pri Savici)」を出版しゅっぱん、さらに現在げんざいスロベニアの国歌こっかとして使つかわれる歌詞かし1884ねんにプレシェーレンが作詞さくししたものであった。そして1847ねん、「ポエジエ(Poezije、詩集ししゅう意味いみ)」を出版しゅっぱん、これにプレシェーレンの大半たいはんふくまれており、スロベニアじん統一とういつ政治せいじ綱領こうりょう翌年よくねん発表はっぴょうされた。のちにこれはスロベニアとスロベニア文学ぶんがく代表だいひょうさくし、スロベニアじんにとっての民族みんぞくてきシンボルと[40]

ポエジエ(Poezije)

一方いっぽう、シュタイヤーマルクしゅうでは「クメティイスケ・イン・ロコデルスケ・ノヴィツェ(農民のうみん農業のうぎょう新聞しんぶん) (en1843ねん創刊そうかんされたが、この新聞しんぶん農民のうみん商人しょうにん職人しょくにん農村のうそん教育きょういく活動かつどうおこな聖職せいしょくしゃ教育きょういくしゃけの記事きじ掲載けいさいしたが、この新聞しんぶんはスロベニア全土ぜんどまれることとなり、プレシェーレンや愛国あいこくてき主張しゅちょうおこなったJ・V・コセスキ(Janez Vesel Koseski)の作品さくひん掲載けいさいされた。そして1861ねん、オーストリアしん憲法けんぽう公布こうふされると民衆みんしゅう教化きょうかちからそそぎ、スロベニアじんらの民族みんぞく意識いしき形成けいせい準備じゅんびおこなうこととなる[41]

1848ねん

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ヨーロッパちゅう席巻せっけんした「しょ国民こくみんはる」はハプスブルク帝国ていこくないをもんだ。とくにこのはん世紀せいき文化ぶんかめん中心ちゅうしん成長せいちょうげていたスロベニアではその影響えいきょう顕著けんちょであり、言語げんご文化ぶんか中心ちゅうしんにスロベニア民族みんぞく形成けいせいされることとなった。革命かくめい当初とうしょ、スロベニアのかく都市としでは平静へいせいたもっていたが、一部いちぶでは扇動せんどうてき行動こうどう発生はっせいしており、農村のうそんでは自警じけいだん組織そしきされた。しかし、徐々じょじょにスロベニアじんらの要求ようきゅうウィーン大学だいがく学生がくせいらによって「統一とういつスロベニア」の政治せいじ綱領こうりょうとしてまとげられ、これは1918ねんまで影響えいきょうりょくこととなる[42]

この「統一とういつスロベニア」政治せいじ綱領こうりょう首都しゅとをリュブリャナとして、すべてのスロベニアじん単一たんいつ行政ぎょうせい単位たんい統一とういつすることであったが、これまでチェコじんクロアチアじんらの自治じちけん要求ようきゅうよりもさらに革命かくめいてきなものであり、だいいち人民じんみん自決じけつけんだいにスロベニアをドイツ対等たいとうとすること、だいさん対外たいがい政策せいさくとしてスロベニアじんらがハプスブルク帝国ていこく中心ちゅうしんしていたドイツじんまれることにより同化どうかすることをけるためにオーストリアがドイツから独立どくりつたもこと要求ようきゅうしていた。結局けっきょく、この「統一とういつスロベニア」政治せいじ綱領こうりょうはスロベニア国家こっかのデザインを形作かたちづくこととなった[43]

だいいち世界せかい大戦たいせん

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コルフ宣言せんげん

1914ねん時点じてんでスロベニアの人々ひとびとオーストリア=ハンガリー帝国ていこく忠誠ちゅうせいちかっており、徴兵ちょうへいとどこおりなくすすみ、戦線せんせんでも勇敢ゆうかんたたかった。また、カトリック民族みんぞくとう もハプスブルクへの忠誠ちゅうせいちかったうえ支持しじしゃである農民のうみん中産ちゅうさん階級かいきゅうのための改革かいかくとなえていた。さらに1915ねん4がつ連合れんごうこくイタリア参戦さんせんうながすためにむすばれたロンドン協定きょうていにより、イストリアとダルマチアがイタリアにゆずられることになっていたが、これはそのむスロベニアじん脅威きょういした。そこでウィーンの帝国ていこく議会ぎかいはスロベニアじん、クロアチアじん議員ぎいんたちに帝国ていこくという枠組わくぐみは存在そんざいするものの、かれらを政治せいじ単位たんいとしてみとめる憲法けんぽう改正かいせいおこなこと決定けってい、さらに1917ねんにはカトリック民族みんぞくとう 党首とうしゅアントン・コロシェツ (en神父しんぷ中心ちゅうしんとして連合れんごう組織そしき結成けっせい、「5月13にち宣言せんげん(sl)」をおこなった。また、セルビア亡命ぼうめい政府せいふとクロアチアじんのロンドン亡命ぼうめい組織そしきユーゴスラビア委員いいんかい (enあいだでセルビアとクロアチアで統一とういつ国家こっか形成けいせい目指めざす「コルフ宣言せんげん (en」が1917ねん7がつ20日はつかおこなわれたが、このなかにスロベニアもふくまれていた。ただし、スロベニアはこれに積極せっきょくてき参加さんかしていたわけではなく、この情報じょうほういたスロベニアじん指導しどうしゃたちは動揺どうようしめし、コロシェツ神父しんぷのちにこのことをらされている[44]

スロベニアをくオーストリア=ハンガリー帝国ていこく補給ほきゅう部隊ぶたい

1918ねん10月、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく皇帝こうていカール1せい連邦れんぽう国家こっか宣言せんげんおこなったが、これによりスロベニアじん、クロアチアじん、セルビアじんらはみなみスラヴじんらの統一とういつ国家こっか樹立じゅりつ要求ようきゅう、1918ねん10月29にちスロベニアじん・クロアチアじん・セルビアじんこく成立せいりつしたうえ民族みんぞく評議ひょうぎかい(Narodni svet Slovencev, Hrvatov in Srbov)がザグレブ結成けっせいされ、コロシェツ神父しんぷがこの議長ぎちょう就任しゅうにんしたが、この評議ひょうぎかい11月3にち、オーストリアと連合れんごうこく休戦きゅうせん協定きょうていむすばれたさい、イタリア、セルビアあいだ地域ちいき唯一ゆいいつ政治せいじてき代表だいひょうであった[45]

戦後せんご民族みんぞく評議ひょうぎかい内部ないぶでも意見いけん対立たいりつしょうじ、さらにユーゴスラビア委員いいんかいとセルビア政府せいふとのあいだでもはげしい交渉こうしょうおこなわれたが、セルビア王国おうこく摂政せっしょうアレクサンダル・カラジョルジェヴィッチがこの機会きかいとらえ、セルビア国王こくおうペータル1せい国王こくおうとして「セルビア王国おうこく、スロベニア、クロアチア、セルビアの地域ちいき統合とうごうしたうえでセルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこく」の樹立じゅりつを1918ねん12月1にち宣言せんげんした[45]

しかしスロベニアは積極せっきょくてきにこれに参加さんかしたわけではなく、スロベニアの地域ちいきをイタリアにおびやかされるのをける唯一ゆいいつ方法ほうほうがこれしかなかったためであった[45]

ユーゴスラビア王国おうこく

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ユーゴスラビア王国おうこく成立せいりつしたとき、スロベニアじん100まんにん国民こくみんとなったが、王国おうこくはすぐさまイタリアの圧力あつりょくなやまされることとなった。イタリアはさきのロンドン協定きょうてい約束やくそくされた領土りょうどをあきらめておらず、ヴェルサイユでの議論ぎろん最中さいちゅう、リュブリャナへけて侵攻しんこうおこなったが、これはスロベニアじん将校しょうこう部隊ぶたいによって阻止そしされた[46]。さらに1919ねん1がつ27にちにはマリボルにおいてドイツけい住民じゅうみん自決じけつけんもとめてデモをおこなうとスロベニアぐんがこれに発砲はっぽうする事態じたいいたった「マリボルの流血りゅうけつ事件じけん発生はっせいするにまでいたっていた[47]

さらにオーストリア南部なんぶのケルンテンしゅう国境こっきょう地帯ちたいはユーゴスラビアぐん占領せんりょうしていたが、オーストリアのケルンテンしゅう政府せいふはオーストリア政府せいふ忠告ちゅうこくかずに郷土きょうど防衛ぼうえいたい組織そしき、1918ねん12月5にちよりユーゴスラビアぐん攻撃こうげきおこなった。このいさかいの休戦きゅうせん交渉こうしょう1919ねん1がつ以降いこうおこなわれたがこの調査ちょうさ担当たんとうしたアメリカ調査ちょうさ委員いいんかいはオーストリアよりの状況じょうきょう報告ほうこくおこなったため、オーストリアがわ有利ゆうりすすんでいたが、これに苛立いらだったユーゴスラビアがわ4がつ29にち攻撃こうげき開始かいしした。初期しょきにおいては劣勢れっせいであったユーゴスラビアがわ正規せいきぐん投入とうにゅうしたことによりクラーゲンフルトを占領せんりょうするにまでいたったが、協商きょうしょうこく介入かいにゅう、ユーゴスラビアぐん排除はいじょされ、講和こうわ条約じょうやくむすばれた[48]

結局けっきょく連合れんごうこくクラーゲンフルト設置せっちされた委員いいんかい裁定さいていをゆだね、住民じゅうみん投票とうひょう1920ねん10がつ10日とおかおこなわれたが、クラーゲンフルトをふくむAゾーンではオーストリアへの帰属きぞくもとめるものがおおかったため、オーストリアへの帰属きぞく決定けってい、Aゾーン北方ほっぽうのBゾーンではこの結果けっかけたうえ投票とうひょうおこなわれなかった[49]。しかし、この一連いちれん出来事できごとにより民族みんぞくてききずつけられたスロベニアじんらによるオーストリアじん襲撃しゅうげきなどをふく抵抗ていこう活動かつどう発生はっせいした。このため、カラベンケ山地さんちがオーストリアとセルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこく国境こっきょうした。一方いっぽうでイタリアがわ国境こっきょうでは緊張きんちょうつづいており、1920ねん11月12にちラパロ条約じょうやくむすばれるまでことはなかった。しかし、イタリアのガブリエーレ・ダンヌンツィオ武力ぶりょく行使こうしおこなったことにより、クロアチアじん抗議こうぎがあったにもかかわらずフィウメはイタリアにぞくすることとなった[46]

1921ねん6月28にちヴィドダン憲法けんぽう制定せいていされることにより、セルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこく基礎きそ形成けいせいされた。しかし、スロベニアじん議員ぎいん26めい憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい棄権きけんしたように、スロベニアじん主張しゅちょうしていた連邦れんぽう主義しゅぎ採用さいようされることなくセルビアじん主張しゅちょうした中央ちゅうおう集権しゅうけん主義しゅぎ採用さいようされた[# 6]。スロベニア議員ぎいんらはおもにコロシェツ神父しんぷひきいるスロベニア人民じんみん党員とういんであったが、コロシェツは中央ちゅうおう政府せいふとの協力きょうりょくおこなことにより、内務ないむ大臣だいじんなんつとめることとなる[51]。そしてユーゴスラビアで経済けいざい危機ききが1931ねん発生はっせいすると翌年よくねんにはさらに状況じょうきょう悪化あっか、クロアチア農民のうみんらの暴動ぼうどう発生はっせいする事態じたいいたり、スロベニアでも兵士へいしによる反乱はんらん発生はっせいした[52]。さらに、クロアチアじん指導しどうしゃであるスチェパン・ラディチ議会ぎかいない銃撃じゅうげきされのち死亡しぼうしたことにより、国王こくおうアレクサンダル1せい王国おうこくない危機きき収拾しゅうしゅうのために首相しゅしょう就任しゅうにん事態じたい収拾しゅうしゅう奔走ほんそうするが、それもむすばずに辞任じにん、その3にちにアレクサンダル1せい独裁どくさいせいへの移行いこう表明ひょうめいすることとなる[51]

コロシェツはこのあらたな局面きょくめんにおいて「1932ねん宣言せんげん」をおこなことにより、スロベニアへの自治じちけん委譲いじょう、イタリア、オーストリア、ハンガリーにおいて少数しょうすう民族みんぞくしているスロベニアじん居住きょじゅう地域ちいき王国おうこくりょうとするために国境こっきょうせん修正しゅうせい要求ようきゅうしたが、イタリアがこれを挑発ちょうはつ行為こういとして非難ひなん国王こくおうアレクサンダル1せいはコロシェツを逮捕たいほツレスとう幽閉ゆうへいした。その、アレクサンダル1せい暗殺あんさつされたのち国政こくせいになうこととなったパブレこう指示しじのもと、ミラン・ストヤディノヴィッチ (en首相しゅしょう就任しゅうにんしたさいには、ストヤノディノヴィッチはスロベニア人民じんみんとうからの協力きょうりょくるためにコロシェツを政界せいかい復帰ふっきさせ、内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんさせた。しかし、ストヤディノヴィッチがローマ教皇きょうこうとの「コンコルダート(宗教しゅうきょう協約きょうやく締結ていけつおこなおうとしたが[# 7]セルビア正教会せいきょうかいによるだい規模きぼ反対はんたいキャンペーンがおこなわれ、コロシェツがスロベニアじんとクロアチアじん弾圧だんあつおこなったとして非難ひなんされた[54][53]

しかし、これらのしょ問題もんだい解決かいけつするため1939ねん8がつ、ストヤディノヴィッチの後任こうにん首相しゅしょうドラギシャ・ツヴェトコヴィッチ (enクロアチア農民のうみんとう (en指導しどうしゃヴラドコ・マチェク (enとのあいだで「スポラズム(協定きょうてい) (en」がむすばれ、ザグレブを州都しゅうととするクロアチア自治じちしゅう (en形成けいせいされた。このため、クロアチアにおける問題もんだいについては一定いってい成果せいかられたが、スロベニアでは「スポラズム」がむすばれなかったため、スロベニアでも自治じちもとめるこえたかまっていた[55]

スロベニア地域ちいき発展はってん

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スロベニア国立こくりつ博物館はくぶつかん

1919ねん、リュブリャナで大学だいがく開設かいせつされたスロベニアにおいては国立こくりつ博物館はくぶつかん (en国立こくりつ美術館びじゅつかん (en国立こくりつ劇場げきじょう (enがそれぞれ設立せつりつされた。さらに1928ねんにはラジオ・リュブリャナ (en開設かいせつされ、1938ねんには芸術げいじゅつ科学かがくアカデミー設立せつりつ、ハプスブルク時代じだいからつづいた文化ぶんかめんでの発展はってんつづいていた。さらに小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこうではセルビア・クロアチア教育きょういくおこなわれ、1939ねん時点じてんでユーゴスラビア全体ぜんたい識字しきじりつが60%と推測すいそくされるのにたいしてスロベニアでは92%にまでおよんでいた[56]

経済けいざいめんでもスロベニアは発展はってんげていた。1919ねんよりはじめられ土地とち改革かいかくによりドイツじんハンガリーじん地主じぬし追放ついほう、それらの土地とちもと兵士へいしらにあたえられるなどして小規模しょうきぼ地主じぬしらがまれた[57]。この小規模しょうきぼ地主じぬしらは強力きょうりょく協同きょうどう組合くみあい組織そしきした。さらにスロベニア人民じんみんとう中央ちゅうおう政府せいふ協力きょうりょくしたことにより、スロベニア農民のうみんらは地域ちいきくらべるとかなり有利ゆうり農業のうぎょう借入金かりいれきん制度せいど適用てきようされた。このため、スロベニアにおける商品しょうひんとして牛乳ぎゅうにゅう砂糖さとう、ジャガイモ、木材もくざいがユーゴスラビア全土ぜんど販売はんばいされることとなった。1930年代ねんだい世界せかい恐慌きょうこうときにはスロベニアじん一部いちぶがアメリカに移民いみんするなどしたが、だいいち世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜんでユーゴスラビア全体ぜんたい農業のうぎょう人口じんこう75%にたいしてスロベニアは55%であった[58]

さらにスロベニアでは工業こうぎょうがハプスブルク時代じだいよりすすんでいたが、セルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこく成立せいりつ以降いこう急速きゅうそく発展はってんすることとなり、中心ちゅうしんリュブリャナは重要じゅうよう拠点きょてんした。スロベニアでは元々もともと農産のうさん食品しょくひん関係かんけい繊維せんい関係かんけいでの工業こうぎょうすすんでいたが、さらにてつ非鉄ひてつ金属きんぞく分野ぶんや科学かがく製品せいひん分野ぶんや、そしてスロベニア全土ぜんど生産せいさんされていたホップ利用りようしたビール工場こうじょう発達はったつすることとなった。トルボヴリェでは石炭せきたん採掘さいくつ、ツェリェでは化学かがく製品せいひん、マリボルはスロベニアだい工業こうぎょう地帯ちたいとして発展はってん繊維せんい金属きんぞく化学かがく製品せいひんかみがユーゴスラビア全体ぜんたいわたることとなる[59]

スロベニアじん問題もんだい

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1921ねん時点じてんでスロベニアじんは105まん4せんにんがユーゴスラビア王国おうこく所属しょぞくしていたが、ほかにもイタリア、オーストリア、ハンガリーにもやく35まんにん所属しょぞくしており、少数しょうすう民族みんぞくしていた[60]

イタリアにおける問題もんだい

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1920ねん、イタリアのベニート・ムッソリーニが「外国がいこくじん排斥はいせきキャンペーン」を実行じっこうしたことにより、トリエステのスロベニア民族みんぞく会館かいかんちにうなど事態じたい悪化あっかしていた。また、1923ねんにはスロベニアに隣接りんせつするヴェネツィア・ジュリア学校がっこうではスロベニア教育きょういく禁止きんしされ、スロベニア抹殺まっさつはかられたため、おおくのスロベニアじんのヨーロッパ地域ちいきラテン・アメリカ移住いじゅうする事態じたい発生はっせいしていた。さらにムッソリーニはスラヴ起源きげん名称めいしょうまちむら名称めいしょう変更へんこう、スラヴけいせい家族かぞくにも改名かいめいをするよう圧力あつりょくをかけはじめたが、それだけではなくスロベニアじん組織そしき「エディノスト(統一とういつ)」も解散かいさんさせ、スロベニア新聞しんぶん弾圧だんあつさせた。このため、イタリアのスロベニアけい住民じゅうみんとイタリア政府せいふ関係かんけい悪化あっか、イタリアのファシストたちはスロベニアけい文化ぶんか経済けいざい組織そしき襲撃しゅうげきおこなったが、これにたいしてスロベニアじんらは「ボルバ(闘争とうそう)」を組織そしきして反対はんたいにファシストの建物たてもの人物じんぶつ襲撃しゅうげきした[61]

これらの状況じょうきょうなか、イタリアのスロベニアけい民族みんぞく主義しゅぎしゃらはユーゴスラビアへの併合へいごう要求ようきゅうしたが、イタリア政府せいふはこれを反逆はんぎゃく行為こういとして弾圧だんあつ、1927ねんから1943ねんあいだに544にんのスロベニアじんらが131かい裁判さいばんにかけられることとなり、10にん死刑しけい宣告せんこくされ処刑しょけいされた[61]

オーストリアにおける問題もんだい

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オーストリアのスロベニアじんらはイタリアよりも穏健おんけんであった。しかし、ウィーン政府せいふはスロベニアじんのドイツ同化どうか政策せいさく推進すいしん、ここにいたってスロベニアじんらはだつスロベニア民族みんぞく政策せいさくとしてこれを非難ひなんした。さらに1920ねん10がつ、スロベニアじん居住きょじゅうにおいて住民じゅうみん投票とうひょうおこなわれたが、このとき、セルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこくへの帰属きぞく希望きぼうした人々ひとびと要注意ようちゅうい人物じんぶつとしてかんされ、1920ねん国勢調査こくせいちょうさで8まん2000にんたスロベニアじんらは1923ねんには3まん7000にんにまでんでいた。1934ねん、オーストリア首相しゅしょうエンゲルベルト・ドルフースがスロベニアじん経済けいざいてき政治せいじてき組織そしき解散かいさんめいじたが、ナチス・ドイツが進出しんしゅつするにつれてそれは過激かげき迫害はくがい行為こういとなりスロベニアじんらの強制きょうせい移送いそう検討けんとうされる事態じたいにまでいた[62]

だい世界せかい大戦たいせん

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ユーゴスラビア王国おうこく周辺しゅうへん国々くにぐに枢軸すうじくがわ参加さんかしたことから枢軸すうじくがわへの参加さんか余儀よぎなくされていた。しかしそれに反対はんたいするドゥシャン・シモヴィッチ (en将軍しょうぐん1941ねん3月25にちから26にちにかけて、クーデターを決行けっこうした。このクーデターの結果けっか、それまでユーゴスラビアの政治せいじになってきたパヴレこう失脚しっきゃくわか国王こくおうペータル2せい親政しんせい中心ちゅうしんにスロベニアじん閣僚かくりょうも3にん入閣にゅうかくすることとなった。しかし、このクーデターによりユーゴスラビアが枢軸すうじくがわからの脱退だったいをしようとしていると判断はんだんしたドイツ総統そうとうアドルフ・ヒトラーはこれに激怒げきど、ユーゴスラビアの占領せんりょうめいじた[63]

1941ねん4がつ6にち、ドイツぐんブルガリア国境こっきょうよりセルビアへ侵攻しんこう、8にちにはオーストリア国境こっきょうよりスロベニアへ侵攻しんこうした。ドイツぐん素早すばやマリボルプトゥイツェリェ占領せんりょう、さらに11にちにはイタリアぐん侵攻しんこう開始かいしリュブリャナ占領せんりょうされた。ユーゴスラビア王国おうこく政府せいふ亡命ぼうめい余儀よぎなくされ、カイロ経由けいゆロンドン亡命ぼうめいすることとなったが、これにはスロベニアじん閣僚かくりょうしたがった[64]

一方いっぽう現地げんちのこされたスロベニア地域ちいき総督そうとく(バン)マルコ・ナトラチェンsl)は「民族みんぞく会議かいぎ」を結成けっせいして枢軸すうじくこく交渉こうしょうおこなおうとしたが、これはイタリアぐん数日すうじつ協力きょうりょくをしたのち解散かいさんさせられた。このとき、スロベニアにおいて民族みんぞく闘争とうそうつづけていたリュブリャナ市長しちょうイヴァン・フリーバル (en自殺じさつしている。結局けっきょく、スロベニアはイタリア、ドイツ、ハンガリー[# 8]によって分割ぶんかつされることとなり、ドイツはアルプス地域ちいきを、イタリアはリュブリャナをふくむザヴァかわ以南いなんを、ハンガリーはムルスカ・ソボタ周囲しゅういプレクムリェ地方ちほうをそれぞれ占領せんりょうした[64]

ドイツ占領せんりょう地域ちいきではヒトラーのドイツ命令めいれいもと、2つの地域ちいき分割ぶんかつカルニオラ (en北部ほくぶは「オーバークライン」(州都しゅうとクラーゲンフルト)、スティリアの一部いちぶは「ウンターシュタイヤーマルク」(州都しゅうとグラーツ)が設定せっていされたが、学校がっこう閉鎖へいさされたうえ公共こうきょうでのスロベニア使用しよう禁止きんし、16000にんがドイツ、もしくはクロアチアへ強制きょうせい移住いじゅうされた。ただし、この政策せいさくかんしてイギリス外務省がいむしょうポーランドとは状況じょうきょうちがうと声明せいめい発表はっぴょうしている。一方いっぽうでイタリア占領せんりょう地域ちいきではヴェネツィア・ジュリアに関連かんれんする地域ちいきをドイツが占領せんりょう地域ちいきふくめたうえでイタリア王国おうこくりょうリュブリャナしゅうとしてすべてのスロベニアじん統合とうごう制限せいげんつきの自治じちあたえるという政策せいさくもと行動こうどうしていた。その一方いっぽうでユーゴスラビア王国おうこくにおいて少数しょうすう民族みんぞくしていたドイツけい、イタリアけい、ハンガリーけい人々ひとびとはこの占領せんりょう熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいムードでれ、母国ぼこく一部いちぶになったことを祝福しゅくふくした[66]

スロベニアは分割ぶんかつ占領せんりょうされることとなったがリュブリャナのロジュマン司教しきょうはイタリアとの協調きょうちょう路線ろせんるべく努力どりょくはらっていた。しかし、イタリアぐんがリュブリャナを占領せんりょうした1週間しゅうかんの1941ねん4がつ27にち、イタリアの占領せんりょう反対はんたいするキリスト教きりすときょう社会党しゃかいとう左派さは愛国あいこくてき自由じゆう主義しゅぎしゃあつまった青年せいねん体育たいいく文化ぶんか組織そしきソコル(たか) (en」、共産きょうさん主義しゅぎしゃらが結集けっしゅう、「はん帝国ていこく主義しゅぎ戦線せんせん(Protiimperialistična fronta)」が発足ほっそくした。とく共産党きょうさんとうは1941ねん6月22にちにドイツがソ連それん宣戦せんせん布告ふこくするとソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう書記しょきちょうヨシフ・スターリンびかけにおうじてパルチザン活動かつどう開始かいし、スロベニアにおける抵抗ていこう活動かつどう本格ほんかくすることとなった[67]

はん帝国ていこく主義しゅぎ戦線せんせん」は「解放かいほう戦線せんせん(OF)(sl)」に名称めいしょう変更へんこうされたのち活動かつどう綱領こうりょう発表はっぴょうしたが、パルチザンはスロベニア・ナショナリズムを基本きほんとして様々さまざま主義しゅぎ主張しゅちょう勢力せいりょくらが連合れんごうしていくものとされ、教会きょうかい自由じゆう保障ほしょうするなど穏健おんけんてき綱領こうりょうであったが、1941ねん9月16にちに「スロベニア民族みんぞく解放かいほう委員いいんかい (en」が設立せつりつされるにいたり、スロベニアじん居住きょじゅうするすべての地域ちいき影響えいきょうつこととなった。このなか共産きょうさん党員とういんたちは革命かくめいこすことかんがえており、解放かいほう戦線せんせんなか枢軸すうじくこくたたかうだけでなく、スロベニアにおける対敵たいてき協力きょうりょくしゃ根絶こんぜつ主張しゅちょうしたが、ロジュマン司教しきょうふく聖職せいしょくしゃらをふく人々ひとびとはこれがスロベニアじん同士どうし内戦ないせんいたることをおそれていたが、これはイタリアぐん指導しどうした、「はくまもるだん」と「ドモブランツィ(祖国そこく防衛ぼうえいしゃ) (en」とばれる武装ぶそう集団しゅうだん結成けっせいされパルチザンとの戦闘せんとうくわわっていたためであった(のちはくまもるだんはドモブランツィに吸収きゅうしゅうされる)。さらにリュブリャナはイタリアぐんによってなんじゅうもの軍事ぐんじ警戒けいかいせん設定せっていされており、これに攻撃こうげき仕掛しかけること危険きけん行為こういであったうえアルベとうをはじめとして各地かくち強制きょうせい収容しゅうようしょ設置せっちしていた[68]

解放かいほう戦線せんせん枢軸すうじくぐん占領せんりょうするスロベニアじん居住きょじゅう全体ぜんたい抵抗ていこう活動かつどう開始かいしした。しかし、きたアフリカでドイツぐん敗北はいぼくしたことにより、バルカン半島ばるかんはんとう連合れんごうぐん上陸じょうりくおこなうという雰囲気ふんいき形成けいせいされるとユーゴスラビア共産党きょうさんとう指導しどうおよ指導しどうしゃヨシップ・ブロズ・チトー反共はんきょう主義しゅぎしゃ強化きょうかされる可能かのうせい発生はっせいしたことにより懸念けねんはじめた。とくにスロベニアでは共産党きょうさんとうスロベニア支部しぶちょうエドヴァルト・カルデリ (enらはキリスト教きりすときょう社会党しゃかいとう態度たいど不安ふあんいており、枢軸すうじくこくへのたたかいがよわまるおそれをいていた。そのため、1943ねん3月1にち解放かいほう戦線せんせんは「ドロミテ宣言せんげん」を発表はっぴょうして共産きょうさん主義しゅぎしゃ解放かいほう戦線せんせんにおける主導しゅどうけんにぎったうえキリスト教きりすときょう社会党しゃかいとう自由党じゆうとう独自どくじ政治せいじ活動かつどうみとめることを宣言せんげんした[69]

1943ねん9がつ、イタリアが連合れんごうこく休戦きゅうせんもうれることとなるが、10月4にち解放かいほう戦線せんせんコチェーヴィエで「人民じんみん議会ぎかい(sl)」を開催かいさいクロアチアどく立国りっこくしていた沿岸えんがん地方ちほうをスロベニアへ併合へいごうすること、スロベニアはしょ民族みんぞくとともに国家こっか連合れんごう形成けいせいすることを宣言せんげんした。その、チトーが11月23にち開催かいさいした「ユーゴスラビア民族みんぞく解放かいほうはんファシスト会議かいぎ(AVNOJ)」で報告ほうこくされた。「ユーゴスラビア民族みんぞく解放かいほうはんファシスト会議かいぎ」は臨時りんじ政府せいふとしての機能きのうたすこととなったが、これは事実じじつじょう、チトーらが実権じっけんにぎっており、会議かいぎでは国王こくおう帰国きこく禁止きんし、ユーゴスラビアを連邦れんぽう国家こっか編成へんせいすること、チトーにユーゴスラビアぐん元帥げんすい称号しょうごうあたえられることなどが決定けっていされた。スロベニア代表だいひょうにはヨシプ・ヴィドマール (en就任しゅうにんしていたが、共産きょうさん主義しゅぎしゃ主導しゅどうけんにぎられているうえにヴィドマールはあらたにまれるユーゴスラビア政府せいふがスロベニアじん行政ぎょうせいなどの分野ぶんや自治じちみとめられることを確信かくしんしていると発言はつげんしたにぎなかった[70]

イタリアが降伏ごうぶくしたことにより、イタリアぐん武器ぶき装備そうび放棄ほうきされることとなったが、これはパルチザンがわただけではなく、枢軸すうじくぐんへの協力きょうりょくおこなった反共はんきょう民兵みんぺい組織そしきにもることとなった。このため、ドイツぐんはイタリアぐん占領せんりょうしていた地域ちいき占領せんりょうするために「ドモブランツィ」を利用りようしたがこれはパルチザンとの内戦ないせんこととなった。チトーはロンドンに亡命ぼうめいしていたユーゴスラビア王国おうこく政府せいふ交渉こうしょうおこない、1944ねん9月、「チトー=ジュバシッチ協定きょうてい (en」に同意どうい連合れんごうこくからの援助えんじょこととなった[# 9]。このため、スロベニア・パルチザンらはチトーひきいるユーゴスラビアぐん連合れんごうぐん協力きょうりょくしたうえでスロベニアを解放かいほう、リュブリャナは解放かいほう戦線せんせん占領せんりょうした[# 10][71]

ドモブランツィはドイツぐん撤退てったいしたことにより、カリンティアに逃亡とうぼうしたが、そのなか女性じょせい子供こどもらをふくすうせんにんはユーゴスラビアへもどったところをチトー・パルチザンらによって拘束こうそくされ、ツェリェ近郊きんこうテハリエ (enコチェーヴィエ近郊きんこうコチェウスカ・レカ(sl)などで処刑しょけいされたが、2ねんたった1945ねん時点じてんでもその地域ちいき農民のうみんらが「大地だいちが、ためいきをついている」としゅうただよこと苦情くじょうとしてもうてるほどのものであった[72]

一方いっぽう、ドイツ敗戦はいせんによりふたた少数しょうすう民族みんぞくとなったドイツけいとイタリアけい住民じゅうみんんでいた土地とち追放ついほうされ、それぞれオーストリアやイタリア本国ほんごくへと避難ひなんしていった。イストリア半島はんとうではイタリアけい住民じゅうみんがパルチザンによって虐殺ぎゃくさつされ、「フォイベ」とばれる洞穴どうけつ殺害さつがいされた住民じゅうみん遺体いたい遺棄いきされた。

1945ねん5がつ時点じてんでスロベニアじん150まんにんのうち、5まん1000にん死亡しぼう、そのうち戦死せんしが41%の2まん1000にん占領せんりょうしゃ殺害さつがいされたのが3まんにん推測すいそくされている[73]

ユーゴスラビア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽう共和きょうわこく

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1945ねん5月5にち、イタリアりょうヴェネツィア・ジュリアしゅう共産党きょうさんとう指導しどうしゃ解放かいほう戦線せんせん書記しょきちょうであるボリス・キドリッチ (en中心ちゅうしんとするスロベニア政府せいふがリュブリャナで樹立じゅりつされた。一方いっぽうでチトーを首班しゅはんとするだいチトー政権せいけんベオグラード3月7にち樹立じゅりつされていたが、リュブリャナでは「合法ごうほうせいをあまりにしない」をモットーとする政治せいじ警察けいさつ人民じんみん保安ほあん(OZNA) (en」による粛清しゅくせいおこなわれていた。そのため、ドイツけい人々ひとびと財産ざいさん没収ぼっしゅうされたうえ追放ついほうけ、聖職せいしょくしゃらを中心ちゅうしんとする人々ひとびとてきたいして協力きょうりょくおこなった事実じじつ有無うむかかわらず、裁判さいばんにかけられおおくの人々ひとびと有罪ゆうざいとされたが、そのかず不明ふめいである[74]

解放かいほう戦線せんせん大戦たいせんちゅうざいした農民のうみん対敵たいてき協力きょうりょくしゃなどから没収ぼっしゅうした資産しさんもと復興ふっこう措置そちったが、銀行ぎんこうにまでそのおよび、さらに8がつ25にちにはすべての報道ほうどう機関きかん資産しさん解放かいほう戦線せんせん管理かんりにおかれる「報道ほうどうほう」が制定せいてい野党やとうらはみずからの主張しゅちょうべる機会きかいうばわれていた。さらに中央ちゅうおう政府せいふ参加さんかしていた国王こくおうがわ閣僚かくりょうなつ辞任じにんすると11月にそう選挙せんきょ実施じっしされたが、これは西側にしがわ連合れんごうこく異議いぎもうてない程度ていどこのましくない人物じんぶつ選挙せんきょからの排除はいじょおこなった。そのため、共産党きょうさんとうは90%の支持しじこととなり[# 11]憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい召集しょうしゅうされると王政おうせい廃止はいし連邦れんぽうせい基礎きそいたユーゴスラビア連邦れんぽう人民じんみん共和きょうわこく樹立じゅりつ宣言せんげんされ、スロベニアもそのうちいちこくとなった[# 12][75]

しかし1918ねん、ユーゴスラビア王国おうこく成立せいりつしたさい問題もんだいとなった国境こっきょうせん今回こんかい問題もんだいしょうじることとなった。1945ねん5がつ1にち、チトー・パルチザンはイギリスぐんよりもさきにトリエステに侵攻しんこうしており、イタリアりょうヴェネツィア・ジュリアしゅうすべてとみなみカリンティアしゅう北部ほくぶ地域ちいき割譲かつじょう要求ようきゅうしたが、イギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領だいとうりょうハリー・S・トルーマンらは地中海ちちゅうかい共産きょうさん主義しゅぎしゃ拠点きょてんことのぞんでおらず、イギリスぐんとユーゴスラビアぐんあいだ緊張きんちょうはしこととなった。しかし、ソ連それん共産党きょうさんとう西側にしがわ連合れんごうこくイタリア共産党きょうさんとうとの衝突しょうとつのぞまなかったため、ユーゴスラビアぐんへトリエストからの撤退てったいするよう命令めいれい、1945ねん6月12にち、ユーゴスラビアぐん撤退てったいした。そのため、イギリスぐんがトリエステを占領せんりょうしたため、ヴェネツィア・ジュリアしゅう一部いちぶだけがユーゴスラビアりょうとなることとなった。一方いっぽうでスロベニアじん構成こうせいされた部隊ぶたいコペル(イタリアめいカポディストリア)とその周辺しゅうへんプリモーリェ(プリモールスカ)の占領せんりょうおこなっていた。この結果けっか1946ねん10月にむすばれたパリ協定きょうていによりトリエステを中心ちゅうしんとした地域ちいきはイギリスぐんアメリカぐん統治とうちすることとなり、コペル、ブーイェをふく地域ちいきはユーゴスラビアが統治とうちすることとなり、この境界きょうかいせんでは厳戒げんかい態勢たいせいかれることとなった[76]

一方いっぽう、カリンティアでは5月19にちえいべいぐん合同ごうどう司令しれいがユーゴスラビアぐんおよびパルチザン部隊ぶたいたいして撤退てったいおこなうよう最終さいしゅう通告つうこくきつけたため、すみやかにユーゴスラビアがわはこれにおうじた。結局けっきょく、カリンティアの行政ぎょうせいけんはイギリスぐんにぎこととなり、国境こっきょうせんは1919ねん当時とうじ同一どういつとされたが、スロベニアじんらはこれをれるほかなかった[77]

スロベニアにおいてはエドワルド・カルデリやボリス・キドリッチらが重要じゅうよう役割やくわりたしたが、「内部ないぶへのてき」にたいする闘争とうそうがユーゴスラビアない実行じっこうされた。しかし、そこにはレジスタンス活動かつどうくわわりダッハウ強制きょうせい収容しゅうようしょおくられたスロベニア共産党きょうさんとういんふくまれ、1948ねん3がつ裁判さいばんにかけられてはん共産きょうさん主義しゅぎしゃとして死刑しけいなどの重罪じゅうざいしょされたが、これはオスマン帝国ていこく圧制あっせいやロシアてき慣習かんしゅうよりもユーゴスラビアが西側にしがわちかいとかんがえていたスロベニア知識ちしきじんらを失望しつぼうさせることとなった[78]

ユーゴスラビア民族みんぞく解放かいほうはんファシスト会議かいぎ綱領こうりょうもとに、ユーゴスラビアでは農業のうぎょう改革かいかくすすめられ、農地のうち所有しょゆう上限じょうげん個人こじんは35ヘクタール団体だんたいが10ヘクタールにさだめられおおくのだい土地とち所有しょゆうしゃ追放ついほうされた。スロベニアではだい規模きぼ土地とち所有しょゆうしていたドイツじん、リュブリャナ司教しきょう、カトリック教会きょうかいがその対象たいしょうとなったが、これはユーゴスラビア人口じんこう半分はんぶんめる農民のうみんたちの関心かんしんせることと、まずしい農民のうみんゆたかな農民のうみん対立たいりつさせることに主眼しゅがんかれており、結局けっきょく、スロベニアにおける平均へいきん土地とち所有しょゆう面積めんせき増加ぞうかさまたげられることとなった[78]

1946ねん以降いこうカ年かねん計画けいかく実施じっしされることとなり、スロベニアでは重工業じゅうこうぎょうへの転換てんかんおこないながら生産せいさんすうさんばいにすることが期待きたいされたため、すべてのおも銀行ぎんこう工場こうじょう運輸うんゆ流通りゅうつう商業しょうぎょう貿易ぼうえき国有こくゆう地方ちほう小規模しょうきぼ商店しょうてん協同きょうどう組合くみあい一部いちぶとしてまれるなどすべてのめんでの国有こくゆうすすんだ。さらに教育きょういく方面ほうめんでも改革かいかくすすみ、マルクス主義まるくすしゅぎ教育きょういく文化ぶんか活動かつどう導入どうにゅうされることとなった[79]

ところが1948ねん6月28にちコミンフォルムがチトーとユーゴスラビアを非難ひなんし、ユーゴスラビアはソ連それんとの関係かんけい断絶だんぜつすることになるが、ユーゴスラビアでは「スターリンてき要素ようそ」やその支持しじしゃなどは粛清しゅくせいされアドリア海あどりあかいゴリ・オトクとう強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた。そしてソ連それんよりも「マルクス主義まるくすしゅぎてき」であるしん制度せいど導入どうにゅうされたが、その理論りろんはスロベニアじんのE・カルデリが存在そんざいしており、かれ生産せいさん手段しゅだん労働ろうどうしゃ優先ゆうせんけん存在そんざいしており、労働ろうどうしゃは「労働ろうどうしゃ評議ひょうぎかい」を組織そしきするものとしていた。このコミンフォルム決議けつぎさい、スロベニアじん強力きょうりょくにチトーを支持しじしたが、これは西側にしがわへの接近せっきん視野しやれたものであった[80]

だが、コミンフォルムからの除名じょめいによりユーゴスラビアのカ年かねん計画けいかく深刻しんこく影響えいきょうけることとなり、中央ちゅうおう政府せいふ地方ちほう分権ぶんけんおこなったが、これによりスロベニアもその恩恵おんけいけることとなり、5ヵ年かねん計画けいかく沿った政策せいさく実行じっこう、これはスロベニアの工業こうぎょう発展はってん端緒たんしょとなり、ユーゴスラビアでも重要じゅうよう地位ちいめることになった[# 13][77]

この雰囲気ふんいきなか1960ねんだいのユーゴスラビアは相対そうたいてき自由じゆうくにとなり、制限せいげんはあるものの政治せいじてき議論ぎろん可能かのうとなっていた。しかし、1959ねんシュタイエルスカ地方ちほうのトルボヴリェ鉱山こうざん発生はっせいした労働ろうどう争議そうぎ収拾しゅうしゅうさくめぐり、実力じつりょく行使こうし鎮圧ちんあつ主張しゅちょうする中央ちゅうおう政府せいふ対話たいわ重視じゅうしするスロベニア政府せいふあいだ深刻しんこく対立たいりつしょうじていた。さらにユーゴスラビアを経済けいざい危機ききおそうとその対処たいしょ方法ほうほうでも両者りょうしゃ対立たいりつすることとなった。これは資本しほん蓄積ちくせき貧弱ひんじゃくなまま工業こうぎょう生産せいさん急激きゅうげきびたため、生産せいさんのバランスが崩壊ほうかいしたことによるが中央ちゅうおう政府せいふは「ザドルガ」を解散かいさん個人こじん農家のうか創設そうせつするための資金しきん融資ゆうしおこなわざるをなくなっており、協同きょうどう組合くみあいへの加入かにゅう廃止はいしされた。結局けっきょく1966ねん7がつアレクサンダル・ランコヴィッチ (en内相ないしょう失脚しっきゃくしたことにより、トルボヴリェ鉱山こうざんストライキ以降いこう中央ちゅうおう政府せいふ対立たいりつしていたスロベニア政府せいふにおける勝利しょうりとみなされた[81]


1954ねん10月、イタリアとユーゴスラビアのあいだでロンドン議定ぎていしょ合意ごうい、それまでユーゴスラビアぐん占領せんりょうしていたコペル、ブーイェをふく地域ちいきはユーゴスラビアへ併合へいごう、イギリスぐん、アメリカぐん占領せんりょうしていたトリエステを中心ちゅうしんとした地域ちいきはイタリアへの併合へいごう決定けっていされた。このため、コペルこうはスロベニアの主権しゅけんおよぶこととなり、ブーイェからミルナがわ (enまでの地域ちいきはクロアチアへ併合へいごうされた。この国境こっきょうせん1975ねん、イタリアとユーゴスラビアでむすばれたオージモ条約じょうやくにより最終さいしゅうてき決定けっていする。一方いっぽう、カリンティア地方ちほうオーストリア国家こっか条約じょうやく (enにより、1938ねん当時とうじ国境こっきょうせん保証ほしょうされることとなったため、オーストリアのスロベニアけい少数しょうすう民族みんぞく権利けんり名目めいもくじょうみとめられたが、スロベニアの愛国あいこくしゃたちには失望しつぼうはしることとなった[82]

1963ねんしん憲法けんぽう制定せいていされることにより自主じしゅ管理かんり行政ぎょうせい組織そしき制度せいど、これによりかく共和きょうわこく自由じゆう裁量さいりょうみとめられたため、スロベニア政府せいふ中央ちゅうおう政府せいふ南部なんぶ共和きょうわこく分配ぶんぱいする補助ほじょきん制度せいど批判ひはんした。ほかにも地方ちほう行政ぎょうせいめんでも自主じしゅ管理かんり制度せいどもととした改革かいかくおこなわれ、さらには経済けいざい改革かいかくなか西側にしがわ諸国しょこくへの出稼でかせぎが容認ようにんされた。このため、人口じんこう増加ぞうかにより失業しつぎょう増加ぞうかしていたスロベニアにおいておおくの人々ひとびとがドイツ各地かくち出国しゅっこく、さらに出稼でかせぎにでた人々ひとびと送金そうきんすることにより、スロベニアの経済けいざい好転こうてんさせることとなり、生活せいかつ水準すいじゅん向上こうじょうすることとなった。しかし、かく共和きょうわこく経済けいざい改革かいかくすすめられたことにより、共和きょうわこく同士どうし競争きょうそうしょうじることとなったが、それにともないスロベニアのエリートそう出現しゅつげん、スロベニア政府せいふ首相しゅしょうスタネ・カウチッチ(Stane Kavčič)はエレクトロニクスやサービスぎょう中心ちゅうしんとした近代きんだい産業さんぎょう構造こうぞう変化へんかさせることにより西側にしがわとの関係かんけいふかめることを構想こうそうしたが、これは中央ちゅうおう政府せいふによって妨害ぼうがいされ、カウチッチは労働ろうどうしゃ階級かいきゅう敵対てきたいする人物じんぶつでスロベニアの分離ぶんり独立どくりつおこなおうとしているとして失脚しっきゃくした[83]

こうした共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい(ユーゴスラビア共産党きょうさんとう)ないでの対立たいりつによりチトーはかく共和きょうわこくへの大幅おおはば権限けんげん委譲いじょう決断けつだん1974ねん憲法けんぽう (enにより「自由じゆう連合れんごうした生産せいさんしゃによる直接ちょくせつ民主みんしゅ主義しゅぎ」とかく共和きょうわこく自治じちおおきなはしらとされた。しかし、オイルショックしょうじたことにより、経済けいざい危機ききがユーゴスラビアをおそうと北部ほくぶスロベニアクロアチア南部なんぶマケドニアモンテネグロおよコソボ自治じちしゅうあいだ格差かくさはさらに拡大かくだいインフレがユーゴスラビアをおそことになり貿易ぼうえき赤字あかじが15おくドルにまで到達とうたつ対外たいがい債務さいむ返済へんさいばし、失業しつぎょう増加ぞうかられるようになった[84]

1972ねん、スロベニアではリベラル敗北はいぼくしたことにより保守ほしゅ体制たいせいつづいていたが、経済けいざいめんでの近代きんだいすすんでおり、スロベニアの国民総生産こくみんそうせいさんはユーゴスラビア平均へいきんの2ばいたっしていた[# 14]。しかし、スロベニアの製品せいひんもユーゴスラビアない席巻せっけんしてはいたが国際こくさい市場いちば進出しんしゅつするには困難こんなんしょうじており、農業のうぎょうめんにおいても古典こてんてき自給自足じきゅうじそく中心ちゅうしんとしていたため、農産物のうさんぶつ価格かかく高騰こうとうするという問題もんだいかかえていた[86]。また、このことから1965ねん創設そうせつされ、南部なんぶ共和きょうわこくやす利子りしれができる「発展はってんのための連邦れんぽう基金ききん」はスロベニア、クロアチアが南部なんぶ共和きょうわこくやしなっている状態じょうたいであるとしていた[87]

1980ねん5月4にち、チトーがリュブリャナの病院びょういん死去しきょしチトーの遺体いたいはベオグラードへ移送いそうされることとなるが、ユーゴスラビアというわくないでのスロベニア共和きょうわこく活動かつどうわりをげようとしていた[85]

独立どくりつへのみち

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1969ねん西側にしがわ諸国しょこくからダルマチア海岸かいがん観光かんこうおとずれる人々ひとびと多数たすうのぼり、その94%がスロベニア経由けいゆおとずれていたことからスロベニア首都しゅとリュブリャナからイタリア、オーストリア国境こっきょうとをむす高速こうそく道路どうろ建設けんせつされることが決定けってい世界銀行せかいぎんこうから総額そうがく3400まんドルにおよ融資ゆうしけることとなった。しかし、中央ちゅうおう政府せいふはこれをマケドニア、コソボ、モンテネグロなど南部なんぶ地域ちいきへの使用しようすること決定けっていした。このため、スロベニア政府せいふはこれにだい規模きぼ集会しゅうかいひらいて抗議こうぎしたが、チトーおよびカルデリはスロベニアが中央ちゅうおう政府せいふ圧力あつりょくをかけているとして批判ひはんした[# 15]。しかし、スロベニア政府せいふ代表だいひょうはこれにたいして共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめいない古参こさん幹部かんぶらが実務じつむてき官僚かんりょう主義しゅぎ勢力せいりょく形成けいせいしたことにより、中央ちゅうおう集権しゅうけんおこなおうとしていると反論はんろんした。この「自動車じどうしゃどう事件じけん(ハイウェイ事件じけんとも)」によりスロベニアじんがユーゴスラビアの現状げんじょう満足まんぞくしていないことがあらわれていた[89]

1979ねんカルデリが死去しきょしたことによりスロベニアでは権力けんりょく闘争とうそうしょうじていたが、1982ねん、ユーゴスラビアでの教育きょういくプログラムを共通きょうつうさせることをセルビアが提案ていあんしたことによりユーゴスラビアない緊張きんちょうはしった[# 16]。スロベニアはこの共通きょうつう民族みんぞくてきアイデンティティを侵害しんがいするものとして、1971ねんに「クロアチアのはる (en」とばれる民族みんぞく運動うんどう経験けいけんしていたクロアチアとともにセルビアへ抗議こうぎおこなった[88]

チトー死後しご、ユーゴスラビアの国家こっか元首げんしゅ連邦れんぽう幹部かんぶかい議長ぎちょう輪番りんばんつとめることになったが、これにより中央ちゅうおう集権しゅうけん主義しゅぎしゃはん中央ちゅうおう集権しゅうけん主義しゅぎしゃとのあいだでのこうそう勃発ぼっぱつ民族みんぞく主義しゅぎしゃ做された人々ひとびと裁判さいばんにかけられた[# 17]。さらに1981ねんコソボ自治じちしゅうプリシュティナ大学だいがく (enでアルバニアけい学生がくせい蜂起ほうき、これは鉱山こうざん労働ろうどうしゃなどにまで波及はきゅう深刻しんこく問題もんだいした。このためユーゴスラビア連邦れんぽうぐん投入とうにゅうされたが、このさわぎで1,000にん以上いじょう死亡しぼうしたとされている。スロベニアではこのアルバニアじんらをれ、リュブリャナなどではコソボからの難民なんみん商店しょうてんやカフェなどを開店かいてんするなどして生活せいかつすることとなった[90]

1986ねんセルビア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくスロボダン・ミロシェヴィッチ掌握しょうあく、「すべてのセルビアじん同一どういつくにむこと」を主張しゅちょうしてクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビアじんらをセルビアへ統合とうごうする「だいセルビア」の構想こうそうりだすとさらに問題もんだい深刻しんこくすることとなった。このため、スロベニアでは作家さっか学生がくせいたちががり、だい12かい社会しゃかい主義しゅぎ青年せいねん同盟どうめい大会たいかいではチトーへの個人こじん崇拝すうはいではなく、市民しみん社会しゃかい実現じつげん目標もくひょうにすることをイデオロギーとして採用さいようすることを主張しゅちょうした。これにはぐんとう警告けいこくしたにもかかわらず世論せろん支持しじたがこれよりもユーゴスラビア南部なんぶ共和きょうわこくたいする不満ふまんほうがさらにたかまっていた。さらにユーゴスラビアないでは1979ねんはじまっただいオイル・ショック影響えいきょうしのびよっており、1982ねん以降いこう消費しょうひしゃ物価ぶっか年率ねんりつ9%で上昇じょうしょう物価ぶっか水準すいじゅんは1989ねん時点じてんで1954ねんの13,85ばいにまでたっしていた。この不満ふまんはスロベニア全体ぜんたいひろがりをせ、中央ちゅうおう集権しゅうけん経済けいざいへの失望しつぼうたかまっていた[91]

ミラン・クーチャン

1987ねん、スロベニアのリベラル知識ちしきじんとカトリックけい知識ちしきじんらが共同きょうどうして「ノヴァ・レヴィヤ(しん評論ひょうろん) (en」が創刊そうかんされ、いちとう独裁どくさい廃止はいし民主みんしゅ主義しゅぎ市場いちば経済けいざい導入どうにゅう、ユーゴスラビアを国家こっか連合れんごう改変かいへんしたうえでそのわくないでのスロベニアの独立どくりつなどをじくとするスロベニア民族みんぞく綱領こうりょう発表はっぴょうした。これにたいしてスロベニア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい議長ぎちょうミラン・クーチャン (en反対はんたいしないことを表明ひょうめいしたため、スロベニアと中央ちゅうおう政府せいふあいだ対立たいりつしょうじ、輪番りんばんせい国家こっか元首げんしゅにスロベニア議長ぎちょう就任しゅうにんすることを拒否きょひしたが、これはさらにスロベニアと中央ちゅうおう政府せいふとの対立たいりつ激化げきかさせただけにすぎなかった[92]

そのためユーゴスラビア連邦れんぽうぐんはスロベニアの雑誌ざっしムラディーナ(青春せいしゅん (en」の編集へんしゅうしゃらが雑誌ざっしない連邦れんぽうぐん批判ひはんおこなったさい機密きみつ文書ぶんしょ使用しようしていたと主張しゅちょう1988ねんかれらを裁判さいばんにかけた[# 18]。この裁判さいばんはリュブリャナでひらかれたにもかかわらず、スロベニアではなくセルビア・クロアチア使用しようされたため、スロベニアの人々ひとびとは「ノヴァ・レヴィヤ」で発表はっぴょうされた綱領こうりょうへの支持しじおこなうようになった。そのため中央ちゅうおう政府せいふは1988ねん8がつ連邦れんぽう憲法けんぽう一部いちぶ改正かいせいかく共和きょうわこくへの制限せいげんつよめることとなった[93]

しかしスロベニアの世論せろんたかまりによりスロベニア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい、スロベニア社会しゃかい青年せいねん同盟どうめいらはその影響えいきょうけ、スロベニア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい議長ぎちょう、ミラン・クーチャンは尽力じんりょくせた。ユーゴスラビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい指導しどうしゃ中央ちゅうおう集権しゅうけんつよめるためにスロベニア世論せろん操作そうさこころみたが、スロベニアですす自由じゆうめることはできなかった。1989ねん1がつ、「スロベニア民主みんしゅ同盟どうめい (en成立せいりつしたうえで7がつスロベニア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい (en指導しどう勢力せいりょくしての役割やくわり放棄ほうきしたことにより「民主みんしゅ同盟どうめい」は正式せいしき存在そんざいみとめられることとなった。それに付随ふずいしてリュブリャナではセルビア指導しどうしゃミロシェヴィッチがコソボ自治じちしゅうさん連邦れんぽうぐん投入とうにゅうしたうえ自治じちしゅう自治じちけん剥奪はくだつしてセルビア共和国せるびあきょうわこくへの統合とうごうおこなうなどのちょう民族みんぞく主義しゅぎてき政策せいさく反感はんかんつのっていた。1989ねん2がつ、リュブリャナでコソボのアルバニアけい住民じゅうみんとスロベニアじんらの連帯れんたいひょうするためのだい集会しゅうかい開催かいさいされたがこれをミロシェヴィッチが組織そしきてき手法しゅほう対抗たいこう、リュブリャナでセルビアじんらによるだい集会しゅうかい開催かいさいしようとした[# 19]。しかし、これはスロベニア政府せいふによって禁止きんしされたため、セルビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい (enはスロベニアへの経済けいざい制裁せいさいびかけた[95]

1989ねん5がつ、スロベニアの野党やとう勢力せいりょくみなみスラヴ民族みんぞく共存きょうぞんしながらも「スロベニア民族みんぞく主権しゅけん国家こっか」の樹立じゅりつ目的もくてきとして「5がつ宣言せんげん」を発表はっぴょうした。これにたいして中央ちゅうおう政府せいふ圧力あつりょく強力きょうりょくにかけたが9がつにスロベニア議会ぎかい共和きょうわこく憲法けんぽう改正かいせい発議はつぎ国際こくさいてき主権しゅけんがスロベニアにぞくすること規定きていすることが目的もくてきであったが、いちとう独裁どくさいせい時代じだいえらばれた議員ぎいんらはすべ賛成さんせい決議けつぎされた。このため、スロベニアの独立どくりつ規定きていされ時間じかん方法ほうほうだけが問題もんだいとなった。スロベニア政府せいふはスロベニアが連邦れんぽうないでの特別とくべつ地位ちいとなることをのぞんでいたが、野党やとう勢力せいりょくらはユーゴスラビアを国家こっか連合れんごうにすることをのぞんでいた。さらに政治せいじてき組織そしきとしてスロベニア政府せいふ既存きそん組織そしき社会しゃかい主義しゅぎ同盟どうめいない複数ふくすう派閥はばつ活動かつどうすることをのぞんでいたが、野党やとう勢力せいりょく複数ふくすう政党せいとうせいによるしん民主みんしゅ主義しゅぎもとめた。このため、1989ねん11がつまつ、スロベニア政府せいふ世論せろん絶大ぜつだいなる支持しじもと中央ちゅうおう政府せいふもとめていたデノミネーション(しんディナール導入どうにゅう)や給与きゅうよ凍結とうけつじくとする経済けいざい政策せいさく拒否きょひ、これに対応たいおうしてセルビアおよびモンテネグロはスロベニアへの経済けいざい制裁せいさいおこなったが、スロベニアはおなじく独立どくりつ目指めざすクロアチアと協力きょうりょくして対抗たいこうした。さらにスロベニアの野党やとうであるスロベニア民主みんしゅ同盟どうめい社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい (enスロベニア農民のうみん同盟どうめい (enキリスト教民主党きりすときょうみんしゅとう (enスロベニアみどりとう (enらが連合れんごうして野党やとう連合れんごうデモス(DEMOS) (en結成けっせい共産党きょうさんとう対抗たいこうした[96]

そして独立どくりつ

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1991ねんにベオグラードで開催かいさいされただい14かい共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい大会たいかいでクロアチアとスロベニアの共産きょうさん主義しゅぎしゃたちはこれまでの教条きょうじょうこと主張しゅちょうしたが、これがれられなかったため、クロアチア代表だいひょうとスロベニア代表だいひょうらは大会たいかい会場かいじょうから退場たいじょう、スロベニア代表だいひょうらはユーゴスラビア共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめいとは無関係むかんけいであると宣言せんげんした[94]。ミロシェヴィッチは大会たいかいをそのままつづけようとしたが、今度こんどはクロアチア代表だいひょうだん抗議こうぎおこなわれ1がつ23にち大会たいかい中断ちゅうだんされたまま無期むき延期えんきとなった。中央ちゅうおう政府せいふ首相しゅしょうアンテ・マルコヴィッチ (enはユーゴスラビアは継続けいぞくするが共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい政治せいじ舞台ぶたいよりったと宣言せんげんしたがすでにセルビアを代表だいひょうとする中央ちゅうおう集権しゅうけんとスロベニア、クロアチアらを代表だいひょうとする独立どくりつかれていた[97]

ロイゼ・ペテルレ

これが明確めいかくあらわれていたのが1990ねん4がつおこなわれたはつ自由じゆう選挙せんきょであり、スロベニアでは野党やとう連合れんごう「デモス」が55%の得票とくひょうりつ獲得かくとくのこりの得票とくひょうりつをそれまで存在そんざいしていた共産党きょうさんとうけいである民主みんしゅ改革かいかくとうなどさん政党せいとうかたちとなっていた[# 20]首相しゅしょうにはキリスト教民主党きりすときょうみんしゅとう党首とうしゅロイゼ・ペテルレ (en選出せんしゅつされ、同時どうじ共和きょうわこく大統領だいとうりょう直接ちょくせつ選挙せんきょおこなわれたうえでスロベニアに複数ふくすう政党せいとうせい暴力ぼうりょく行為こういしに導入どうにゅうした改革かいかく共産きょうさん主義しゅぎしゃミラン・クーチャンが59%の得票とくひょうりつ当選とうせんしていた。これらはつ自由じゆう選挙せんきょではハンガリーけいやイタリアけい少数しょうすう民族みんぞくらにもいち議席ぎせきずつてがあり、スロベニアの人々ひとびとがスロベニアの独立どくりつ目指めざす「デモス」を支持しじしていたことがあきらかになった[99]。これらの結果けっかけて大統領だいとうりょうクーチャンは共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい辞表じひょう提出ていしゅつ、デモスの代表だいひょうしゃらに組閣そかく要請ようせいした[100]

スロベニア共和きょうわこく首相しゅしょうペテレルはスロベニアの民主みんしゅてき平和へいわてき独立どくりつ達成たっせいするためにスロベニアの政治せいじてき民族みんぞくてき政策せいさくまとげユーゴスラビア連邦れんぽう政府せいふとの交渉こうしょうおこなうことをかんがえており[101]、1990ねん12月の議会ぎかいにおいてスロベニアの独立どくりつとユーゴスラビアからの離脱りだつについて国民こくみん投票とうひょうおこなこと決定けっていした[102]一方いっぽうでスロベニア国内こくないでは過去かこの「ドモブランツィ」と「パルチザン」らの和解わかい課題かだいとしてのこっていたがこれは盛大せいだい記念きねん式典しきてん1991ねん6月開催かいさいされたことにより清算せいさんかっていた。しかし、連邦れんぽう政府せいふはこの問題もんだいはなまったわせておらず、すでに独立どくりつへの意思いし明確めいかくにしていたスロベニア、クロアチアからすこしでも領土りょうど獲得かくとくするための行動こうどう開始かいしした。このため、クロアチアのセルビアじんらはユーゴスラビア連邦れんぽうぐん協力きょうりょくうえでリーカ地方ちほうからきたダルマチアにかけてクロアチア政府せいふ政策せいさく拒否きょひアドリア海あどりあかいへつながる交通こうつう遮断しゃだんするなどをおこなっていた[101]

スロベニアでは7がつ2にちから国会こっかいにおいてソ連邦それんぽうバルトさんこくれいにならい共和きょうわ国法こくほう連邦れんぽうほう優先ゆうせんするなどの「主権しゅけん宣言せんげん」をおこない、さらに9月28にちには国防こくぼうかんする分野ぶんやなどすべての分野ぶんや共和きょうわこく掌握しょうあくするとした憲法けんぽう修正しゅうせい採択さいたくされ、領土りょうど防衛ぼうえいたいがスロベニア政府せいふ指揮しきとなり[103]、10月8にちにはしん通貨つうかトラール導入どうにゅうされた[104][# 21]。これにたいしてユーゴスラビア連邦れんぽう幹部かんぶかい議長ぎちょうボリサヴ・ヨーヴィッチ (en連邦れんぽう政府せいふ権限けんげんおかすとはげしく非難ひなんした。しかし、スロベニア大統領だいとうりょうクーチャンと首相しゅしょうペテルレはこれにたいして12月23にちおこな国民こくみん投票とうひょうにおいてユーゴスラビアとスロベニアがあらたな関係かんけい確立かくりつするべきがどうかについてしんこと決定けってい、リュブリャナ教区きょうくのシュシュタル大司教だいしきょうもこれを支持しじした。しかし連邦れんぽう政府せいふ首相しゅしょうアンテ・マルコヴィッチはスロベニアが憲法けんぽう違反いはんおかしており、必要ひつよう対抗たいこう処置しょちると脅迫きょうはくした[103]

結局けっきょく投票とうひょうおこなわれ、有権者ゆうけんしゃ150まんにんうち、89%が参加さんか、そのうちの88.5%がスロベニアが主権しゅけんこと、スロベニアが独立どくりつすることへの支持しじしており、さらにはスロベニア以外いがいむスロベニアじん以外いがい人々ひとびともこれに賛成さんせいしていた。これにたいしてスロベニアの独立どくりつをあくまでもみとめるのないセルビア共和国せるびあきょうわこく政府せいふ連邦れんぽう政府せいふがセルビアの影響えいきょうにあることを証明しょうめいするために16おくドル相当そうとうのディナール紙幣しへい印刷いんさつしたが、これはユーゴスラビアの経済けいざい致命ちめいてき打撃だげきあたえるという皮肉ひにく結果けっかわった[106]

スロベニアは国民こくみん投票とうひょう発表はっぴょうした半年はんとし猶予ゆうよ期間きかんぎた1991ねん6月25にち、リュブリャナの議会ぎかいにてスロベニア共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんした。しかし、連邦れんぽう政府せいふはこれをみとめず、さらには国際こくさい社会しゃかいにおいても連邦れんぽう政府せいふ意向いこう支持しじする可能かのうせい存在そんざいしていた[# 22]。さらには連邦れんぽう政府せいふ首相しゅしょうマルコヴィッチは独断どくだんでオーストリア、イタリアとのそれぞれの国境こっきょう確保かくほ命令めいれい、スロベニアを孤立こりつさせようとした。しかしスロベニアはこれを事前じぜん察知さっち、8まんにん動員どういんしてこれにそなえていた[107]

じゅう日間にちかん戦争せんそう

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6月26にち、リュブリャナの議事堂ぎじどうぜん広場ひろばユーゴスラビア国旗こっきスロベニア国旗こっきえられたが、27にち前日ぜんじつ展開てんかいしていた連邦れんぽうぐんはリュブリャナ空港くうこう封鎖ふうさばくげきくわえることにより軍事ぐんじ作戦さくせん開始かいしされた。連邦れんぽうぐん最初さいしょにオーストリア国境こっきょうつぎにイタリア国境こっきょうでそれぞれ配置はいちされていたスロベニアじん警察官けいさつかんやスロベニアじん税関ぜいかん職員しょくいん攻撃こうげき、マリボル北方ほっぽうのシェンティリのまちでは激戦げきせんわされた[108]

これにたい欧州共同体おうしゅうきょうどうたい素早すばや反応はんのうしたがフランスイギリスがユーゴスラビアの維持いじ支持しじイタリアドイツオーストリアハンガリーらはスロベニアの独立どくりつ承認しょうにんおこなったうえでの即時そくじ停戦ていせん支持しじするなど混乱こんらんせていた。6月28にちルクセンブルクイタリアオランダ外相がいしょうらは連邦れんぽうぐんがスロベニアない存在そんざいする連邦れんぽうぐん基地きち撤収てっしゅうしたのちにスロベニアから撤退てったいすること、スロベニアとクロアチアの独立どくりつを3ヶ月かげつ凍結とうけつしたうえ連邦れんぽう政府せいふ交渉こうしょうおこなこと輪番りんばんせい国家こっか元首げんしゅ着任ちゃくにん拒否きょひされていたクロアチアのスティエパン・メシッチ選出せんしゅつすることの3つをじく妥協だきょうあん提案ていあんした。これら妥協だきょうあんもと交渉こうしょうかさねられ[109]7がつ7にち、ついに連邦れんぽうぐんはこの妥協だきょうあんれ、スロベニアからの撤退てったい開始かいし、スロベニアの独立どくりつ事実じじつじょうのものとなった[110]

このたたかいでスロベニアでは54めい連邦れんぽうがわはそれ以上いじょう死者ししゃ物的ぶってき損害そんがいこととなり、さらにはセルビアじん以外いがい将兵しょうへいらの脱走だっそう発生はっせいしていた。結局けっきょく、スロベニアの独立どくりつについてはECの立会たちあいのした、クロアチア沿岸えんがんのブリオニとう継続けいぞくすることとなった。ユーゴスラビア連邦れんぽうぐん撤退てったい完了かんりょうしたのち、スロベニアは事実じじつじょう独立どくりつ状態じょうたいしており、独自どくじ通貨つうかのトラルを発行はっこう12月28にちにはしん憲法けんぽう制定せいていされ複数ふくすう政党せいとうせい大統領だいとうりょうせい採択さいたくされた[111]

ヤネス・ドルノウシェク

このしん憲法けんぽう沿ったそう選挙せんきょ1992ねん12月に実施じっしされ10以上いじょう政党せいとう議席ぎせきこととなったが、だいいちとう自由民主党じゆうみんしゅとう獲得かくとくしたうえ連立れんりつ与党よとう形成けいせい首相しゅしょうには自由民主党じゆうみんしゅとう党首とうしゅヤネス・ドルノウシェク選出せんしゅつ大統領だいとうりょうにはミラン・クーチャンがえらばれたが、スロベニアにはおおきな課題かだい存在そんざいしていた[112]

この課題かだいはスロベニア独立どくりつ承認しょうにんことであったが、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア(当時とうじ)、ポーランド、さらにローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいらは積極せっきょくてきであったがのヨーロッパ諸国しょこく消極しょうきょくてきであり、とくにイタリアは1945ねんから46ねん手放てばなしていたイタリアけい住民じゅうみん財産ざいさん補償ほしょう問題もんだいかかげ、さらにフランスはしんセルビアてき観念かんねんから連邦れんぽう支持しじ、イギリスはこれに距離きょりいていた。これらの状況じょうきょうなか、ドイツがECに圧力あつりょくをかけたことにより1992ねん1がつ15にち、スロベニア、クロアチアの独立どくりつ承認しょうにん、これを契機けいき諸国しょこく両国りょうこく承認しょうにんおこなうようになり、1992ねん5月22にち最終さいしゅうてき国連こくれん加盟かめいこくとなった[112]

独立どくりつのスロベニア

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国内こくない

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1992ねん4がつしん憲法けんぽう準備じゅんび過程かていなか民営みんえい方針ほうしんめぐっていさかいがしょうじたため、DEMOSは崩壊ほうかいすることとなった。さらに自国じこく評価ひょうかめぐり、かく派閥はばつ対立たいりつ構造こうぞうられることとなった[# 23]。1992ねん12ねん正式せいしきにDEMOSが崩壊ほうかいしたのち選挙せんきょ共産きょうさん主義しゅぎ同盟どうめいけい自由民主党じゆうみんしゅとう社会しゃかい民主みんしゅ連合れんごうリスト (enらと社会しゃかい民主党みんしゅとう (enキリスト教民主党きりすときょうみんしゅとう (enらが政権せいけんになうこととなった[114]

1992ねんには企業きぎょう民営みんえいかんする法案ほうあん通過つうか、スロベニアにおいてユーゴスラビア時代じだいからつづ企業きぎょう民営みんえい拍車はくしゃがかかることとなり、1993ねんから1997ねんあいだにスロベニアの国有こくゆう企業きぎょうのほぼすべてである1500企業きぎょう所有しょゆう移転いてんされ1998ねん11月の時点じてんで1369しゃ民営みんえいされた[115]

国外こくがい

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1989ねんよりECへの加盟かめい表明ひょうめいしていたスロベニアは1991ねん独立どくりつ達成たっせいしたことにより、EC/EUへの加盟かめい最大さいだい目標もくひょうしていた。そのため、EUの標準ひょうじゅん基準きじゅんをスロベニアに導入どうにゅうするために「EUへの待合室まちあいしつ」である欧州おうしゅう自由じゆう貿易ぼうえき連合れんごう(EFTA)加盟かめい、EC/EU加盟かめいけてその体制たいせいととのえた。さらにはユーゴスラビアからの独立どくりつのためにうしなった市場いちばをヨーロッパにもと[# 24]1996ねんにはちゅうおう自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうてい(CEFTA)加盟かめいした[117]

スロベニア憲法けんぽうだい68じょうでは外国がいこくじんによるスロベニアの土地とち購入こうにゅう禁止きんししていたが、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相しゅしょうだい世界せかい大戦たいせんうしなわれたイタリアの財産ざいさん保証ほしょうするようスロベニアにもとめていたことにより、問題もんだい表面ひょうめんした[# 25]のちスペイン仲介ちゅうかいたことにより解決かいけつかったが、この条文じょうぶんはEU加盟かめいへの障害しょうがいとなっていた。そのため、国民こくみん投票とうひょうおこなったうえでこの条文じょうぶん修正しゅうせいおこなわれ、スロベニアのEU加盟かめいへの障害しょうがいのぞかれることとなった[117]

さらにスロベニアは北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)への加盟かめい表明ひょうめいしており、1997ねん3月の世論せろん調査ちょうさではEU加盟かめい支持しじの53%を上回うわまわる64%の支持しじがあった。1997ねんポーランドハンガリーチェコルーマニアらとともにNATO加盟かめい寸前すんぜんにまでいたったが、これはアメリカ反対はんたいしたことによりこのとき実現じつげんしなかった[117]。しかし、1998ねんから1999ねんにかけて国連こくれん安保あんぽ理事りじかい常任じょうにん理事りじこくつとめることとなる。[119]

その民主みんしゅ市場いちばすすめたスロベニアは2004ねんにEU、NATOへの加盟かめいたした[# 26]。さらに2005ねんには欧州おうしゅう安全あんぜん保障ほしょう協力きょうりょく機構きこう(OSCE)議長ぎちょうこくつとめたのち2007ねんユーロ導入どうにゅう、さらに2008ねん1がつには東欧とうおう諸国しょこくはつのEU議長ぎちょうこく就任しゅうにんした[119]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、『オーストリア』によれば970ねんはじめてカランタニア辺境へんきょうりょう名前なまえ史料しりょうあらわれるとしており、中心ちゅうしんはヘンギストブルクにあったとしている[8]
  2. ^ 反乱はんらん鎮圧ちんあつされたのち、グーベッツはらえられえるかんむりをかぶらされることにより処刑しょけいされた[14]
  3. ^ これは首都しゅとウィーンで使用しようされていること政府せいふ中央ちゅうおう機関きかん使用しようされていることから指定していしたもので、ヨーゼフ2せい文学ぶんがくてきではなく実際じっさいてき問題もんだいから指定していしたものであった[21]
  4. ^ スロベニアじんらは6つのしゅう分断ぶんだんされており、多数たすうめているのはカルニオラだけで人口じんこうの93%をめていた。しかし、そののカリンティアでは21%、ゲルツ・グラディシュチャでは62%、トリエステでは30%、イストリアでは14%でしかなかった[34]
  5. ^ クロアチア権利けんりとう指導しどうしゃスタルチェヴィチはクロアチア、スロベニア、ダルマチアの連合れんごうから「だいクロアチア」の形成けいせいおこなったうえでオーストリア=ハンガリー帝国ていこく再編さいへんおこない、三重みえ帝国ていこくすることをのぞんでおり、皇太子こうたいしフランツ・フェルディナント はこの計画けいかく好感こうかんっていた[35]
  6. ^ 結局けっきょく、このヴィドダン憲法けんぽうはあまりにも集権しゅうけん主義しゅぎてきであるとしてクロアチア、スロベニアのしょ政党せいとう共産党きょうさんとう議会ぎかい反対はんたいとなえ、連邦れんぽうせい主張しゅちょうしていたクロアチア共和きょうわ農民のうみんとう出席しゅっせき拒否きょひしている[50]
  7. ^ これはスロベニアやクロアチアでだい多数たすうめるカトリック教徒きょうと懐柔かいじゅうおこなことと、イタリアとの関係かんけい改善かいぜんねらったものであった[53]
  8. ^ ハンガリーは1940ねん1がつ20日はつかにユーゴスラビアと「恒久こうきゅう友好ゆうこう条約じょうやく」をむすんでいた。しかし、ユーゴスラビアでクーデターが発生はっせいしたことにより、はんドイツてき国民こくみん感情かんじょうつよいハンガリー国内こくないとユーゴスラビア攻撃こうげき協力きょうりょくもとめるドイツとのあいだ首相しゅしょうテレキ・パールいたばさみにい、のち自殺じさつしている。この結果けっか、ハンガリーはユーゴスラビア攻撃こうげき参加さんかすることは拒否きょひしたが、ドイツぐん国内こくない通過つうか黙認もくにんすることになる。さらにクロアチアが独立どくりつしたことにより、きゅう自国じこくりょうであるヴォイヴォイディナ地域ちいきへの攻撃こうげきには参加さんかした[65]
  9. ^ この同意どういのため、それまで「スロベニアじん同盟どうめい」が王国おうこく政府せいふ支援しえんする対象たいしょうであったが、「スロベニア民族みんぞく委員いいんかい」がその対象たいしょうとなった[71]
  10. ^ このため、共産党きょうさんとう勢力せいりょくひろげることとなる[71]
  11. ^ この選挙せんきょでは共産党きょうさんとう推薦すいせんする候補者こうほしゃ名簿めいぼからそのひと支持しじするかどうかを表明ひょうめいするものであって、事実じじつじょう信任しんにん投票とうひょうであった。そのため、支持しじりつは90%であったにもかかわらず、投票とうひょうりつは88%であった[75]
  12. ^ このとき、スロベニア公用こうようとしてみとめられ、リュブリャナの司教しきょう中心ちゅうしんとして宗教しゅうきょう自由じゆうこととなる[75]
  13. ^ 豊富ほうふ石炭せきたん使用しようして鉱山こうざんぎょう機械きかい金属きんぞく繊維せんい化学かがく農業のうぎょう食品しょくひんかく分野ぶんや工業こうぎょうすすみ、ユーゴスラビア連邦れんぽう平均へいきん上回うわまわ生活せいかつ水準すいじゅんたもこととなり、ユーゴスラビア経済けいざい牽引けんいんりょく[77]
  14. ^ スロベニアはユーゴスラビア人口じんこうの8,5%をめるにすぎなかったが、国民総生産こくみんそうせいさんの18%、輸出ゆしゅつ総額そうがくの25%を生産せいさんしていた[85]
  15. ^ この時点じてんまでカルデリはスロベニアにおけるリベラルかんがえられていたが、スロベニアだけではなくセルビア、クロアチアの人々ひとびとうごきも制御せいぎょしようとしており、党内とうない地位ちい保全ほぜんにこだわりをせていた[88]
  16. ^ この共通きょうつう文学ぶんがく歴史れきし分野ぶんやにおいてどの著者ちょしゃえらぶか、どのようなテーマをあつかうかというてん問題もんだい発生はっせいしており、ユーゴスラビアないしょ民族みんぞくグループがそれぞれの民族みんぞく立場たちばった評価ひょうかくだしたためにさらに問題もんだいおおきくなることとなった。そして作家さっかグループらもセルビアが目指めざあらたな体制たいせい中央ちゅうおう集権しゅうけんてきなものであり時代じだい錯誤さくごであるとしてはげしい論争ろんそうひろげることとなった[88]
  17. ^ ぐんとう組織そしきにセルビアじんおおすぎると発言はつげんした歴史れきし学者がくしゃフラーニョ・トゥジマンや「イスラム」について言及げんきゅうした弁護士べんごしアリヤ・イゼトベゴヴィッチらが起訴きそされ有罪ゆうざいとされている[90]
  18. ^ これはユーゴスラビア連邦れんぽうぐんないでセルビア・クロアチアがしようされ、スロベニア使用しようされていないということ批判ひはんした記事きじであった[93]
  19. ^ これはヴォイヴォディナ自治じちしゅうモンテネグロ共和きょうわこく使用しようされた手法しゅほうで、セルビアじんによるだい集会しゅうかい開催かいさいさせたうえ連邦れんぽうぐん派遣はけんして政権せいけん掌握しょうあく、コソボ自治じちしゅうセルビア共和国せるびあきょうわこくさい統合とうごうされていた[94]
  20. ^ ただし、これらのさん政党せいとう共産党きょうさんとうけいいながらも市場いちば経済けいざい導入どうにゅう複数ふくすう政党せいとうせいなどを支持しじしていた[98]
  21. ^ このしん通貨つうか導入どうにゅうにはユーゴスラビアの経済けいざい過去かこのハイパーインフレから意図いともあった[104]。このねらいは成功せいこうしており、最大さいだい2000%にまでいたっていたインフレりつ最終さいしゅうてきに12%までは順調じゅんちょう低下ていかした[105]
  22. ^ フランスはだいいち世界せかい大戦たいせん以来いらいユーゴスラビアと友好ゆうこう関係かんけいむすんでおり、ユーゴスラビアの統一とういつ維持いじ主張しゅちょうするセルビアを支持しじ、アメリカ、ソ連それんもこの時点じてんではマルコヴィッチ首相しゅしょう経済けいざい自由じゆう積極せっきょくてき改革かいかくおこなえる対話たいわできる人物じんぶつ做していたため、ユーゴスラビアの維持いじのぞんでいた[107]
  23. ^ 戦後せんごスロベニアについての見解けんかい共産きょうさん主義しゅぎへの立場たちばめぐり、戦後せんごスロベニア肯定こうてい共産きょうさん主義しゅぎ肯定こうてい立場たちばるスロベニア共産きょうさん同盟どうめい原点げんてんとする社会しゃかい民主みんしゅ連合れんごうリスト (en自由民主党じゆうみんしゅとう国民党こくみんとう (en戦後せんごスロベニア肯定こうてい共産きょうさん主義しゅぎ否定ひてい立場たちば人民じんみんとう (en戦後せんごスロベニアの否定ひてい共産きょうさん主義しゅぎ否定ひてい立場たちばキリスト教民主党きりすときょうみんしゅとう (enさんかれた。このことから最初さいしょのグループを左派さはだいのグループを中道ちゅうどう最後さいごのグループを右派うはとする見解けんかい存在そんざいする[113]
  24. ^ 独立どくりつうしなったのは輸出ゆしゅつ総額そうがくの45.2%。そのためGDPが1991ねんに8.9%の低下ていか失業しつぎょうりつが1991ねんには7.3%。1993ねんには9.1%にまでたっしていたが、1993ねん以降いこう、EU諸国しょこくとの貿易ぼうえきさかんになったことにより、1996ねんには1990ねんのGDPを上回うわまわることとなる[116]
  25. ^ スロベニア国内こくないにおいても急進きゅうしんである社会しゃかい民主党みんしゅとうがこの撤廃てっぱいつよ反発はんぱつしめしていた[118]
  26. ^ EU加盟かめい先立さきだってシェンゲン協定きょうてい調印ちょういん、2007ねん12月21にちより実施じっしされた[120]

参照さんしょう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • エーリヒ・ツェルナーちょ リンツビヒラ裕美ひろみやく『オーストリアいろどりりゅうしゃ、2000ねんISBN 4-88202-580-9 
  • ジョルジュ・カステランちょ 萩原はぎはら直訳ちょくやく叢書そうしょ東欧とうおう8バルカン世界せかい火薬かやく平和へいわ地帯ちたいいろどりりゅうしゃ、2000ねんISBN 4-88202-687-2 
  • スティーブン・ベラーちょ 坂井さかいさかえ八郎はちろうかんやく 川瀬かわせ美保みほやく『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国ていこくかたなすい書房しょぼう、2001ねんISBN 4-88202-687-2 
  • しばむべひろし図説ずせつバルカンの歴史れきし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2001ねんISBN 4-309-76078-3 
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    • しばむべひろし「ユーゴスラビアからEUへ -スロベニアの歴史れきし」『外交がいこうフォーラム 2008ねん4がつごう』、都市とし出版しゅっぱん、2008ねん4がつ、48 - 51ぺーじISSN 09151281 
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    • 飯山いいやま常成つねなり世界せかい中央ちゅうおう舞台ぶたいにデビューしたスロベニア」『外交がいこうフォーラム 2008ねん4がつごう』、都市とし出版しゅっぱん、2008ねん4がつ、56 - 58ぺーじISSN 09151281 
  • 小山こやま洋司ようじスロヴェニアの国際こくさい競争きょうそうりょく小国しょうこく発展はってん戦略せんりゃく」『しょうけい論叢ろんそうだい42かんだい3ごう神奈川大学かながわだいがく、2006ねん12月、143-162ぺーじISSN 02868342NAID 1100064253212021ねん10がつ1にち閲覧えつらん 
  • 齋藤さいとうあつしスロヴェニアにおける政党せいとう政治せいじとポピュリズム : スロヴェニア社会しゃかい民主党みんしゅとう右派うは政党せいとうをめぐって」『スラヴ研究けんきゅうだい52ごう北海道大学ほっかいどうだいがくスラブ研究けんきゅうセンター、2005ねん、39-61ぺーじISSN 05626579NAID 1200014929632021ねん10がつ1にち閲覧えつらん