初代 しょだい モンテネヴォーソ大公 たいこう ガブリエーレ・ダンヌンツィオ (Gabriele d'Annunzio[1] , Principe di Montenevoso 、1863年 ねん 3月12日 にち - 1938年 ねん 3月1日 にち )は、イタリア の詩人 しじん 、作家 さっか 、劇 げき 作家 さっか 。ファシスト 運動 うんどう の先駆 せんく とも言 い える政治 せいじ 的 てき 活動 かつどう を行 おこな ったことで有名 ゆうめい 。なお日本 にっぽん ではダヌンツィオ 、ダンヌンチオ 、ダヌンチオ とも表記 ひょうき する。
ガブリエーレ・ダンヌンツィオはペスカーラ にて、富裕 ふゆう 地主 じぬし (かつ同市 どうし の市長 しちょう )の息子 むすこ として生 う まれる。その早熟 そうじゅく の才 ざい は早 はや くから認 みと められ、彼 かれ はプラート のチコニーニ寄宿 きしゅく 学校 がっこう (イタリア語 ご 版 ばん ) に進 すす む。そこで彼 かれ は、16歳 さい にして処女 しょじょ 詩集 ししゅう Primo vere (早春 そうしゅん 、1879年 ねん )を出版 しゅっぱん 。これは後 ご のノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう 作家 さっか ジョズエ・カルドゥッチ のOdi barbare に影響 えいきょう を受 う けた作品 さくひん である。1881年 ねん にはローマ大学 だいがく ラ・サピエンツァ校 こう に進学 しんがく 、様々 さまざま な文芸 ぶんげい グループに参加 さんか 、また地元 じもと 紙 し に記事 きじ や評論 ひょうろん を寄稿 きこう する。彼 かれ の最初 さいしょ の小説 しょうせつ Il Piacere (快楽 かいらく の子 こ 、1889年 ねん )もこの時 とき 出版 しゅっぱん され、多作 たさく な文学 ぶんがく 活動 かつどう の出発 しゅっぱつ 点 てん となる。
1883年 ねん にマリア・ハルドゥイン・ディ・ガレーゼと結婚 けっこん し3人 にん の息子 むすこ を儲 もう けるが、1891年 ねん には離婚 りこん 。のち1894年 ねん には有名 ゆうめい な女優 じょゆう エレオノーラ・ドゥーゼ との愛人 あいじん 関係 かんけい が始 はじ まり、それは大 おお きなスキャンダルになった。ダンヌンツィオはドゥーゼが主役 しゅやく を演 えん じるよういくつかの演劇 えんげき 、例 たと えばLa Città morta (死 し 都 と 、1898年 ねん )やFrancesca da Rimini (フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年 ねん )を書 か いた[2] が、この激 はげ しい男女 だんじょ 関係 かんけい は1910年 ねん に終 おわ りを告 つ げる。
1897年 ねん には3年 ねん 任期 にんき の下院 かいん 議員 ぎいん に選出 せんしゅつ され、そこでは無所属 むしょぞく として過 す ごした。1910年 ねん にはその放縦 ほうしょう な生活 せいかつ から多額 たがく の債務 さいむ を負 お い、債権 さいけん 者 しゃ から逃 のが れるためフランス に逃亡 とうぼう した。フランスでは作曲 さっきょく 家 か クロード・ドビュッシー と意気投合 いきとうごう 、聖 せい 史劇 しげき 『聖 せい セバスティアンの殉教 じゅんきょう 』(1911年 ねん )が生 う まれた。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の開戦 かいせん とともにイタリアに帰国 きこく したダンヌンツィオは、大衆 たいしゅう に向 む けて連合 れんごう 国 こく 側 がわ に立 た っての参戦 さんせん を訴 うった える演説 えんぜつ を行 おこな う。彼 かれ 自身 じしん は志願 しがん して戦闘 せんとう 機 き パイロットとして参戦 さんせん 、飛行 ひこう 中 ちゅう の事故 じこ で片目 かため の視力 しりょく を失 うしな う。1918年 ねん 8月 がつ 9日 にち には第 だい 87戦闘 せんとう 機 き 中隊 ちゅうたい を率 ひき い、700マイルの往復 おうふく 飛行 ひこう を行 おこな いウィーン にプロパガンダ 用 よう のビラを撒布 さんぷ するという業 ごう を演 えん じた(ダンヌンツィオのウィーン上空 じょうくう 飛行 ひこう (英語 えいご 版 ばん ) )。またこの大戦 たいせん 中 ちゅう 、イタリア軍 ぐん に義勇 ぎゆう 兵 へい として参加 さんか 従軍 じゅうぐん した日本人 にっぽんじん 下位 かい 春吉 はるきち と意気投合 いきとうごう し、親交 しんこう を深 ふか めた。
彼 かれ の国家 こっか 主義 しゅぎ 的 てき 立場 たちば はこの大戦 たいせん の経験 けいけん により、より強固 きょうこ なものになった。彼 かれ はイタリア国内 こくない で広 ひろ く政治 せいじ 運動 うんどう を行 おこな い、イタリアが大戦 たいせん 中 ちゅう に得 え たヨーロッパの一等国 いっとうこく としての役目 やくめ を戦後 せんご も果 は たしていくべきだと主張 しゅちょう した。パリ講和 こうわ 会議 かいぎ で、フィウーメ (いわゆる未 み 回収 かいしゅう のイタリア の一部 いちぶ 。現 げん クロアチア 領 りょう のリエカ )をセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国 おうこく (後 ご のユーゴスラビア王国 おうこく )に割譲 かつじょう すべしとの結論 けつろん が出 だ されたことに激怒 げきど したダンヌンツィオは、1919年 ねん 9月12日 にち 、ロンキ・ディ・モンファルコーネ から、自 みずか らを「司令 しれい 官 かん 」(イタリア語 ご : Comandante )とする「軍団 ぐんだん 」(イタリア語 ご : Legionari )と称 しょう されるイタリア人 じん 武装 ぶそう 集団 しゅうだん を率 ひき いて進軍 しんぐん し(ロンキ進軍 しんぐん )、フィウーメ市 し を占拠 せんきょ 、アメリカ 、イギリス 、フランス3軍 ぐん から組織 そしき された守備 しゅび 軍 ぐん を追放 ついほう した。この時 とき のダンヌンツィオのスローガンが「全 すべ ての抑圧 よくあつ された人々 ひとびと の解放 かいほう 」であり、十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい を支持 しじ するというものだった。この行動 こうどう からダンヌンツィオはウラジーミル・レーニン に「革命 かくめい 家 か 」として絶賛 ぜっさん される[要 よう 出典 しゅってん ] 。
彼 かれ らはイタリアによるフィウーメ併合 へいごう を要求 ようきゅう した。これはイタリアの悲願 ひがん でもあったが、国際 こくさい 関係 かんけい の悪化 あっか を懸念 けねん してイタリア政府 せいふ は国境 こっきょう 線 せん を封鎖 ふうさ 、武装 ぶそう 組織 そしき の投降 とうこう を促 うなが した。そこでダンヌンツィオは1920年 ねん 1月 がつ に政府 せいふ 首班 しゅはん として元 もと イタリア社会党 しゃかいとう 員 いん でアンジェロ・オリベッティ (it:Angelo Oliviero Olivetti )とともに「Pagine libere」を書 か いた革命 かくめい 的 てき サンディカリスト のアルチェステ・デ・アンブリス (it:Alceste De Ambris )を任 にん じ、9月にデ・アンブリスによって後 のち のイタリア本国 ほんごく のファシスト国家 こっか 機構 きこう の先駆 せんく となるカルナーロ憲章 けんしょう (it:Carta del Carnaro )が発布 はっぷ 、フィウーメの独立 どくりつ を宣言 せんげん した(カルナーロ=イタリア執政 しっせい 府 ふ )。更 さら に彼 かれ は国際 こくさい 連盟 れんめい に対抗 たいこう する組織 そしき を計画 けいかく 、被 ひ 抑圧 よくあつ 民族 みんぞく (例 たと えばフィウーメのイタリア人 じん 、バルカン半島 ばるかんはんとう のスラブ人 じん 民族 みんぞく 分離 ぶんり 主義 しゅぎ 者 しゃ など)を糾合 きゅうごう することを構想 こうそう したが、これは失敗 しっぱい した。彼 かれ は1920年 ねん のイタリアとセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国 おうこく 間 あいだ のラパッロ条約 じょうやく (1922年 ねん の独 どく ソ間 あいだ の条約 じょうやく と異 こと なるので注意 ちゅうい )を無視 むし し、イタリア本国 ほんごく にまで宣戦 せんせん 布告 ふこく したが、イタリア海軍 かいぐん による艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき を受 う け、12月に投降 とうこう した。
フィウーメ占拠 せんきょ 事件 じけん 後 ご のダンヌンツィオはガルダ湖 こ 畔 ほとり の自宅 じたく に隠退 いんたい し、著作 ちょさく 活動 かつどう を行 おこな った。しかしフィウーメ時代 じだい の側近 そっきん との連絡 れんらく を保 たも っており、政界 せいかい に隠然 いんぜん たる勢力 せいりょく を持 も っていた。彼 かれ はムッソリーニ に多大 ただい の影響 えいきょう を与 あた えたのは事実 じじつ だが、彼 かれ 自身 じしん は後 ご のファシスト政権 せいけん に直接 ちょくせつ 関与 かんよ したことはなかった。1922年 ねん のファシスト党 とう によるローマ進軍 しんぐん の前後 ぜんご には、彼 かれ の声望 せいぼう を利用 りよう してファシスト党 とう の行動 こうどう を抑制 よくせい しようとする動 うご きがあり、ダンヌンツィオとその側近 そっきん も同様 どうよう の考 かんが えを持 も っていた。8月3日 にち にはファシスト行動 こうどう 隊 たい に占拠 せんきょ されたミラノ で演説 えんぜつ を行 おこな っているが、その演説 えんぜつ はむしろファシスト党 とう の行動 こうどう に反対 はんたい するものであった。しかし美 うつく しいがレトリックに富 と み、難解 なんかい な彼 かれ の演説 えんぜつ はむしろファシスト党 とう を激励 げきれい する物 もの と受 う け止 と められ、ファシスト党 とう も「英雄 えいゆう が我々 われわれ を支持 しじ した」とおおいに利用 りよう した。ダンヌンツィオは旧 きゅう 敵 てき であり、野党 やとう の領袖 りょうしゅう であったフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ 元 もと 首相 しゅしょう に呼 よ びかけ、ムッソリーニとの三 さん 者 しゃ 会談 かいだん を開催 かいさい する合意 ごうい を取 と り付 つ けた。ところが8月 がつ 13日 にち にダンヌンツィオが自宅 じたく の窓 まど から転落 てんらく して重傷 じゅうしょう を負 お ったため、この三 さん 者 しゃ 会談 かいだん は実現 じつげん しなかった。ダンヌンツィオは生涯 しょうがい この事故 じこ の詳細 しょうさい について語 かた らなかったため、真相 しんそう は不明 ふめい である。9月にはけがから回復 かいふく し、ムッソリーニと何 なん 度 ど か会談 かいだん しているが、ファシスト党 とう はダンヌンツィオを出 だ し抜 ぬ き、政権 せいけん 掌握 しょうあく を実現 じつげん した。
ムッソリーニは国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう であるダンヌンツィオを尊重 そんちょう してみせたが、実際 じっさい の権力 けんりょく は一切 いっさい 渡 わた さなかった。1924年 ねん には国王 こくおう より"it:Principe di Montenevoso (モンテネヴォソ公爵 こうしゃく )"[9] の称号 しょうごう を送 おく られている。1937年 ねん にはイタリア王立 おうりつ アカデミー の総裁 そうさい に就任 しゅうにん 、1938年 ねん 3月1日 にち 、自宅 じたく で脳卒中 のうそっちゅう により死去 しきょ 。ムッソリーニにより国葬 こくそう され、ガルドーネ・リヴィエーラ の別荘 べっそう に設 もう けられた霊廟 れいびょう に埋葬 まいそう された[1] 。
ダンヌンツィオは思想 しそう ・手法 しゅほう の両面 りょうめん においてイタリア・ファシズムの先駆 せんく であったとしばしば見 み 做される。彼 かれ 自身 じしん の政治 せいじ 信条 しんじょう は、デ・アンブリスと共同 きょうどう で起草 きそう したそのカルナーロ憲章 けんしょう によく現 あらわ れている。この憲法 けんぽう では協調 きょうちょう 組合 くみあい 主義 しゅぎ (コーポラティズム )による国家 こっか 観 かん がとられており、それらは労働 ろうどう 者 しゃ 、雇用 こよう 者 しゃ および自営業 じえいぎょう 者 しゃ ・専門 せんもん 家 か をそれぞれ代表 だいひょう する9つの組合 くみあい 、および(ダンヌンツィオの創始 そうし した)「優越 ゆうえつ した人間 にんげん 」(英雄 えいゆう 、詩人 しじん 、預言 よげん 者 しゃ 、超人 ちょうじん たち)を代表 だいひょう する第 だい 10の組合 くみあい からなるとした。またこの憲法 けんぽう では音楽 おんがく を国家 こっか の最高 さいこう 原理 げんり であると規定 きてい していた。
ムッソリーニがダンヌンツィオから模倣 もほう し習得 しゅうとく したのは、その独裁 どくさい 政治 せいじ の手法 しゅほう 、つまり、協調 きょうちょう 組合 くみあい 主義 しゅぎ による経済 けいざい 政策 せいさく 、大 だい 規模 きぼ で感情 かんじょう に訴 うった える大衆 たいしゅう 行事 ぎょうじ 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい を真似 まね たローマ式 しき 敬礼 けいれい 、聴衆 ちょうしゅう に対 たい する誇張 こちょう に満 み ちた質問 しつもん の問 と いかけ、黒 くろ シャツ隊 たい による反対 はんたい 者 しゃ への脅迫 きょうはく ・暴力 ぼうりょく 的 てき 弾圧 だんあつ など、である。
ダンヌンツィオはイタリアの拡張 かくちょう 主義 しゅぎ 的 てき 外交 がいこう 政策 せいさく を支持 しじ しており、エチオピア侵攻 しんこう を賞賛 しょうさん していた。
ダンヌンツィオはまた、政治 せいじ 的 てき 反対 はんたい 者 しゃ を拘束 こうそく して多量 たりょう のひまし油 ゆ を飲 の ませることで衰弱 すいじゃく させ、場合 ばあい によっては死 し に至 いた らしめるという拷問 ごうもん の創始 そうし 者 しゃ であるとも言 い われている。この方法 ほうほう はムッソリーニの黒 くろ シャツ隊 たい の常套 じょうとう 手段 しゅだん となる。
ダンヌンツィオの文学 ぶんがく は盛名 せいめい 期 き において、その高 たか い独創 どくそう 性 せい 、力強 ちからづよ さおよびデカダンス が高 たか く評価 ひょうか されていたし、同 どう 時代 じだい の全 ぜん ヨーロッパ文壇 ぶんだん 、また後世 こうせい のイタリア作家 さっか たちに多大 ただい の影響 えいきょう を与 あた えたのだが、その19世紀 せいき 末 すえ における作品 さくひん 群 ぐん は現在 げんざい では忘 わす れ去 さ られつつある感 かん があるし、また文学 ぶんがく 上 じょう の名声 めいせい は、彼 かれ の政治 せいじ 活動 かつどう の前 まえ に常 つね に曇 くも らされる運命 うんめい にあった。
彼 かれ は多作 たさく であった。代表 だいひょう 的 てき な小説 しょうせつ としては『快楽 かいらく の子 こ 』(Il Piacere、1889年 ねん )、『死 し の勝利 しょうり 』(Il Trionfo della Morte、1894年 ねん )、『巌 いわお の処女 しょじょ 』(Le Vergine delle Rocce、1896年 ねん )がある。また早 はや くから映画 えいが にも関心 かんしん を示 しめ した彼 かれ は、第 だい 二 に 次 じ ポエニ戦争 せんそう に題材 だいざい をとった無声 むせい 映画 えいが 『カビリア 』(1914年 ねん )のシナリオを作成 さくせい している。
彼 かれ の著作 ちょさく はフランス象徴 しょうちょう 派 は 文学 ぶんがく の強 つよ い影響 えいきょう を受 う けており、激 はげ しい暴力 ぼうりょく や異常 いじょう な心理 しんり 状態 じょうたい の描写 びょうしゃ が、壮麗 そうれい な空想 くうそう 場面 ばめん によって彩 いろど られていることを特徴 とくちょう とする。小説 しょうせつ における代表 だいひょう 作品 さくひん の一 ひと つで、発表 はっぴょう 時 じ に大 おお きな話題 わだい を呼 よ んだIl Fuoco (炎 ほのお 、1900年 ねん )では、彼 かれ は自分 じぶん 自身 じしん をニーチェ 的 てき 超人 ちょうじん "Stelio Effrena"として描 えが き、女優 じょゆう エレオノーラ・ドゥーゼとの虚実 きょじつ 取 と り混 ま ぜた愛情 あいじょう 関係 かんけい を記 しる している。また彼 かれ の短編 たんぺん にはモーパッサン の影響 えいきょう もみられる。
彼 かれ の小説 しょうせつ の心理 しんり 的 てき インスピレーションは、フランス、ロシア 、北欧 ほくおう 諸国 しょこく あるいはドイツ など様々 さまざま の文学 ぶんがく にその出発 しゅっぱつ 点 てん を得 え ており、特 とく に初期 しょき の作品 さくひん にあっては独創 どくそう 性 せい には乏 とぼ しい。その創作 そうさく 力 りょく は深 ふか く鋭 するど いが、常 つね に狭 せま く個人 こじん 的 てき であった。例 たと えば彼 かれ の描 えが く主人公 しゅじんこう はいつでも同 おな じタイプの人物 じんぶつ であり、それが人生 じんせい のそれぞれの段階 だんかい でそれぞれの問題 もんだい に直面 ちょくめん した、というに過 す ぎない。しかし彼 かれ の欠陥 けっかん のない文体 ぶんたい 、語彙 ごい 力 りょく の豊富 ほうふ さに比肩 ひけん しうる同 どう 時代 じだい の作家 さっか は存在 そんざい しなかった。後期 こうき の作品 さくひん では、ダンヌンツィオはイタリアの昔日 せきじつ の栄光 えいこう の歳月 さいげつ にその題材 だいざい を求 もと めることが多 おお くなる。
戯曲 ぎきょく も手掛 てが け、神 かみ 曲 きょく に材 ざい を取 と った『フランチェスカ・ダ・リミニ』はザンドナイ によりオペラ化 か された。近年 きんねん メトロポリタン歌劇 かげき 場 じょう を始 はじ め、欧米 おうべい の劇場 げきじょう で上演 じょうえん される機会 きかい が増 ふ えている。
Il Vittoriale degli Italiani
ダンヌンツィオの生涯 しょうがい と作品 さくひん はIl Vittoriale degli Italiani(it )と名付 なづ けられた博物館 はくぶつかん に記念 きねん されている。この博物館 はくぶつかん 自体 じたい 、彼 かれ が構想 こうそう し1923年 ねん からその死 し に至 いた るまで発展 はってん させたものであり、ガルダ湖 こ の南西 なんせい 、ガルドーネ・リヴィエーラ にある彼 かれ の別荘 べっそう に隣接 りんせつ している。現在 げんざい では同 どう 博物館 はくぶつかん は軍事 ぐんじ 博物館 はくぶつかん 、図書館 としょかん 、文学 ぶんがく ・歴史 れきし のアーカイヴ、劇場 げきじょう そして霊廟 れいびょう の複 ふく 合体 がったい になっており、また、ダンヌンツィオがウィーン 飛行 ひこう 作戦 さくせん に用 もち いたSVA-5機 き および魚雷 ぎょらい 艇 てい MAS96も保存 ほぞん している。
ペスカーラにあるダンヌンツィオの生家 せいか もまた博物館 はくぶつかん として一般 いっぱん 公開 こうかい されている。
ダンヌンツィオとイタリア歌曲 かきょく [ 編集 へんしゅう ]
同 どう 時代 じだい のイタリアの作曲 さっきょく 家 か たちもまた、ダンヌンツィオの詩才 しさい に魅了 みりょう された。トスティ 、レスピーギ はじめ、有名 ゆうめい 、無名 むめい あわせて50人 にん 以上 いじょう が彼 かれ の詩 し に曲 きょく 付 づ けしたという。中 なか でもトスティは、この若 わか き詩人 しじん をまだ高等 こうとう 専門 せんもん 学校 がっこう 在学 ざいがく 中 ちゅう の1880年 ねん から寵愛 ちょうあい し、詩 し への作曲 さっきょく は1916年 ねん のトスティの死 し に至 いた るまで続 つづ いた。
日本 にっぽん における受容 じゅよう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん では明治 めいじ 時代 じだい に上田 うえだ 敏 さとし らによって早 はや くから紹介 しょうかい され、英訳 えいやく ・仏 ふつ 訳 やく ・独 どく 訳 やく を通 とお して広 ひろ く読 よ まれ、当時 とうじ 社会 しゃかい 現象 げんしょう となっていた「煩悶 はんもん 青年 せいねん 」たちを虜 とりこ にした[10] 。なかでも『死 し の勝利 しょうり 』は日本 にっぽん 文壇 ぶんだん に衝撃 しょうげき を与 あた え、ダンヌンツィオ流 りゅう 恋愛 れんあい の実践 じっせん と言 い われた森田 もりた 草平 そうへい ・平塚 ひらつか らいてう の心中 しんちゅうの 未遂 みすい 事件 じけん を引 ひ き起 お こし、事件 じけん をもとにしベストセラーになった森田 もりた の『煤煙 ばいえん (小説 しょうせつ ) 』には『死 し の勝利 しょうり 』の影響 えいきょう が強 つよ く見 み られた[10] 。戦後 せんご は政治 せいじ 的 てき 活動 かつどう により色 いろ 者 しゃ 扱 あつか いされ、同 おな じ日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい の盟友 めいゆう であるトーマス・マン と異 こと なりほとんど埋 うず もれた状態 じょうたい になった。世紀 せいき が変 か わったころから再 さい 評価 ひょうか が進 すす み、重要 じゅうよう な作品 さくひん の新訳 しんやく がいくつか行 おこな われている。
三島 みしま 由紀夫 ゆきお の『岬 みさき にての物語 ものがたり 』(1946年 ねん )は、生田長江 いくたちょうこう 訳 わけ 『死 し の勝利 しょうり 』[11] を下敷 したじ きにしていると、筒井 つつい 康隆 やすたか は、著書 ちょしょ 『ダンヌンツィオに夢中 むちゅう 』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1989年 ねん /中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1996年 ねん )で述 の べている。三島 みしま 自身 じしん による唯一 ゆいいつ の翻訳 ほんやく 出版 しゅっぱん は、池田 いけだ 弘太郎 こうたろう [12] との共 とも 訳 やく で『聖 せい セバスチァンの殉教 じゅんきょう 』(美術 びじゅつ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1966年 ねん /国書刊行会 こくしょかんこうかい 〈クラテール叢書 そうしょ 〉、1988年 ねん )である。これら作品 さくひん 上 じょう の関係 かんけい のみでなく、楯 だて の会 かい の制服 せいふく や行動 こうどう にダンヌンツィオの影響 えいきょう [13] を見 み る者 もの も多 おお い。
三島 みしま が自決 じけつ 間際 まぎわ に、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち の本部 ほんぶ 庁舎 ちょうしゃ バルコニー からおこなった演説 えんぜつ (三島 みしま 事件 じけん 参照 さんしょう )は、フィウーメ占拠 せんきょ 時 じ のダンヌンツィオが取 と った行動 こうどう の模倣 もほう であると、たびたび指摘 してき [14] されている。筒井 つつい 康隆 やすたか 『ダンヌンツィオに夢中 むちゅう 』は、これらの論考 ろんこう ・指摘 してき に基 もと づいている。
藤澤 ふじさわ 道郎 みちお 「ダヌンツィオとローマ進軍 しんぐん 一 いち 九 きゅう 二 に 二 に 年 ねん 八 はち 月 がつ 〜十 じゅう 月 がつ のダヌンツィオの政治 せいじ 行動 こうどう 」『イタリア学会 がっかい 誌 し 』第 だい 32巻 かん 、イタリア学会 がっかい 、1983年 ねん 、1-15頁 ぺーじ 、NAID 110002959213 。
ルーシー・ヒューズ=ハレット『ダンヌンツィオ 誘惑 ゆうわく のファシスト』 柴野 しばの 均 ひとし 訳 わけ 、白水 しろみず 社 しゃ 、2017年 ねん
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