平塚ひらつからいてう

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平塚ひらつか らいてう
平塚ひらつか らいてう
誕生たんじょう 平塚ひらつか あきら(ひらつか はる)
1886ねん2がつ10日とおか
東京とうきょう麹町こうじまち三番さんばんまちげん東京とうきょう千代田ちよだ三番さんばんまち
死没しぼつ (1971-05-24) 1971ねん5月24にち(85さいぼつ
東京とうきょう渋谷しぶや千駄ヶ谷せんだがや
墓地ぼち 春秋しゅんじゅうえん墓地ぼち川崎かわさき
職業しょくぎょう 思想家しそうか評論ひょうろん作家さっか
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
代表だいひょうさく元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでん』(1971)
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平塚ひらつか らいてう(ひらつか らいちょう、1886ねん明治めいじ19ねん2がつ10日とおか - 1971ねん昭和しょうわ46ねん5月24にち)は、日本にっぽん思想家しそうか評論ひょうろん作家さっかフェミニスト女性じょせい解放かいほう運動うんどういえ本名ほんみょう平塚ひらつか あきら(ひらつか はる)。

人物じんぶつ概要がいよう[編集へんしゅう]

平塚ひらつかは、とくに、大正たいしょうから昭和しょうわにかけ、婦人ふじん参政さんせいけんひとし女性じょせい権利けんり獲得かくとく奔走ほんそうした活動かつどう一人ひとりとしてられるが、結局けっきょく、その実現じつげんは、だい大戦たいせん連合れんごう国軍こくぐん日本にっぽんにおける占領せんりょう政策せいさく実施じっし機関きかんGHQ主導しゅどうによる「日本にっぽん戦後せんご改革かいかく」をたなければならなかった[1]

しかし、1911ねん明治めいじ44ねん)9がつ平塚ひらつか25さいとき雑誌ざっし青鞜せいとう」を創刊そうかんしたさい、その創刊そうかんいわい、みずからがせた文章ぶんしょう表題ひょうだい元始げんし女性じょせい太陽たいようであった』は、女性じょせい権利けんり獲得かくとく運動うんどう象徴しょうちょうする言葉ことばひとつとして、なが人々ひとびと記憶きおくのこることとなった[2][3]

だい世界せかい大戦たいせんこうおも反戦はんせん平和へいわ運動うんどう参加さんかした。日本女子大にほんじょしだい学校がっこうげん日本女子大学にほんじょしだいがく家政学部かせいがくぶそつ[2]2005ねん平成へいせい17ねん)にどう大学だいがく平塚ひらつからいてうしょう創設そうせつした[4]

なお、氏名しめい表記ひょうき漢字かんじで、「平塚ひらつか 雷鳥らいちょう」としたり、「平塚ひらつか 明子あきこ(らいてう)」として評論ひょうろん俎上そじょうがることもある[5]。また、1908ねん明治めいじ41ねん)3がつ平塚ひらつか22さいとき塩原しおばらで、森田もりた草平そうへい心中しんちゅうの未遂みすい事件じけん塩原しおばら事件じけん)をこし、自身じしんひろられると[注釈ちゅうしゃく 1]本名ほんみょうの「平塚ひらつか あきら」の活動かつどうするなど、時期じきによっても平塚ひらつか氏名しめい表記ひょうきことなる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

1886ねん明治めいじ19ねん2がつ10日とおか東京とうきょう東京とうきょう麹町こうじまち土手どて三番さんばんまちげん東京とうきょう千代田ちよだ五番ごばんまち)に3にん姉妹しまいすえむすめ平塚ひらつかあきら(ひらつかはる)として、裕福ゆうふく家庭かていまれる。まれつき声帯せいたいよわく、こえにくい体質たいしつだった。ちち平塚ひらつかじょう二郎じろう明治めいじ政府せいふ高級こうきゅう官吏かんり会計検査院かいけいけんさいん勤務きんむ)、のちにいちだか講師こうしつとめた。はは光沢こうたく(つや)の両親りょうしん徳川とくがわさんきょうのひとつ田安たやすおく医師いし飯島いいじま夫婦ふうふ養子ようしとなった。両親りょうしん教育きょういく熱心ねっしんであった[7]

学生がくせい時代じだい[編集へんしゅう]

東京とうきょう女子じょし高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく高等こうとう女学校じょがっこう時代じだい

幼少ようしょうは、1887ねん明治めいじ20ねん)から1ねんはん欧米おうべい視察しさつ巡遊じゅんゆうしたちち影響えいきょうで、ハイカラ自由じゆう欧米おうべいてき環境かんきょうそだった。しかし、1892ねん明治めいじ25ねん)に富士見ふじみ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん千代田ちよだ区立くりつ富士見ふじみ小学校しょうがっこう)に入学にゅうがくしてまもなく、ちち従来じゅうらい欧米おうべいてき家風かふうり、国粋こくすい主義しゅぎてき家庭かてい教育きょういくほどこすようになった[注釈ちゅうしゃく 2]

1894ねん明治めいじ27ねん)、平塚ひらつか本郷ほんごう駒込こまごめあけぼのまちげん文京ぶんきょう本駒込ほんこまごめいち丁目ちょうめ丁目ちょうめあたり)に引越ひっこし、あきら本郷ほんごう公立こうりつ誠之せいし尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん文京ぶんきょう区立くりつ誠之せいし小学校しょうがっこう)に転入てんにゅう1898ねん明治めいじ31ねん)に誠之せいし小学校しょうがっこう高等こうとう卒業そつぎょうし、ちち意思いし当時とうじ国粋こくすい主義しゅぎ教育きょういくのモデルこうだった東京とうきょう女子じょし高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく高等こうとう女学校じょがっこうげんちゃ水女子大学みずじょしだいがく附属ふぞく高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがくさせられ、良妻賢母りょうさいけんぼ主義しゅぎ教育きょういく不満ふまんち、級友きゅうゆうと「海賊かいぞくぐみ」を結成けっせいし、修身しゅうしん道徳どうとく)の授業じゅぎょうをボイコットしたこともあった[7]

1903ねん明治めいじ36ねん)に「女子じょしひととして、婦人ふじんとして、国民こくみんとして教育きょういくする」という教育きょういく方針ほうしんあこがれて日本女子大にほんじょしだい学校がっこうげん日本女子大学にほんじょしだいがく家政学部かせいがくぶに「女子じょしには女学校じょがっこう以上いじょう学問がくもん必要ひつようない」というちち説得せっとくして入学にゅうがく。しかし、翌年よくねんにち戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、徐々じょじょ国家こっか主義しゅぎてき教育きょういく度合どあいがつよくなり、そのなかにおちゃみず時代じだいおな思想しそう見出みいだすと大学だいがく生活せいかつにひどく幻滅げんめつした。このころから、自分じぶん葛藤かっとう理由りゆうもとめるために宗教しゅうきょうしょ哲学てつがくしょなどの読書どくしょ没頭ぼっとうする。1905ねん明治めいじ38ねん)にはぜん存在そんざいり、日暮里にっぽりにあるぜん道場どうじょうりょう忘庵」(げん人間にんげんぜん道場どうじょう)にかよはじめるようになった。ぜん公案こうあん修行しゅぎょう見性けんしょうゆるされ、さとりをひらいた証明しょうめいとしてとしかおる(えくん)ぜんというみちごうさずかっている。1906ねん明治めいじ39ねん)に日本女子大にほんじょしだい学校がっこう卒業そつぎょうりょう忘庵でぜん修行しゅぎょうをしながら、二松学舎にしょうがくしゃげん二松學舍大学にしょうがくしゃだいがく)、女子じょし英学えいがくじゅくげん津田塾大学つだじゅくだいがく)で漢文かんぶん英語えいごまなび、1907ねん明治めいじ40ねん)にはさらに成美せいび高等こうとう英語えいご女学校じょがっこうかようようになった。

成美せいび高等こうとう英語えいご女学校じょがっこうでテキストとして使つかわれたゲーテの『わかきウェルテルのなや』ではじめて文学ぶんがくれ、文学ぶんがく目覚めざめる。東京帝大とうきょうていだいだし新任しんにん教師きょうし生田長江いくたちょうこう師事しじし、生田いくた森田もりた草平そうへい主催しゅさいする課外かがい文学ぶんがく講座こうざねや秀文ひでふみ学会がっかい」に参加さんかするようになった。生田いくたすすめで処女しょじょ小説しょうせつあい末日まつじつ」をげ、それをんだ森田もりた才能さいのうたか評価ひょうかする手紙てがみあかりおくったことがきっかけで、二人ふたり恋仲こいなかになった。

心中しんちゅうの未遂みすい騒動そうどう一躍いちやく知名度ちめいど上昇じょうしょう[編集へんしゅう]

22さいとき1908ねん明治めいじ41ねん)2がつ1にち森田もりたはじめてのデートをするが、同年どうねん3がつ21にち塩原しおばらから日光にっこうける尾頭峠おかしらとうげ付近ふきん山中さんちゅうゆきなか心中しんちゅうの未遂みすい警察けいさつから救助きゅうじょされるという塩原しおばら事件じけんあるいは煤煙ばいえん事件じけんこし、一躍いちやく有名ゆうめいになる[注釈ちゅうしゃく 3][7]。「参加さんかしていた文学ぶんがく研究けんきゅうかい講師こうしかつ夏目なつめ漱石そうせき弟子でしだった森田もりた草平そうへい家出いえでし、栃木とちぎ那須なす雪山ゆきやまにいたところを警察けいさつ保護ほごされた」という事実じじつはスキャンダルとしおおきくほうじられ、バッシングにさらされた[7]。そのため、日本女子大にほんじょしだい学校がっこうさくらかえでかい名簿めいぼからあかり抹消まっしょうしている。その、1992ねん平成へいせい4ねん)に復活ふっかつする(『日本女子大学にほんじょしだいがく学園がくえん事典じてん』)。

らいてうの誕生たんじょう[編集へんしゅう]

あかりは、塩原しおばら事件じけん生田長江いくたちょうこうつよいすすめで、日本にっぽん最初さいしょ女性じょせいによる女性じょせいのための文芸ぶんげい青鞜せいとう[注釈ちゅうしゃく 4]製作せいさくはいった。資金しきんははからの援助えんじょで「いつかるであろうむすめあかり結婚けっこん資金しきん」をくずしたもの。その資金しきんもと青鞜せいとうしゃげ、企画きかくあかり同窓生どうそうせい同年代どうねんだい女性じょせいり、あきらおもにプロデュースにまわった。

表紙ひょうし長沼ながぬま智恵ちえ[注釈ちゅうしゃく 5]えがき、与謝野よさの晶子あきこが「やまうごる」の一節いっせつ有名ゆうめいな「そぞろごと」というせた。あかりは『元始げんし女性じょせい太陽たいようであつた - 青鞜せいとう発刊はっかんさいして』という創刊そうかんくことになり、その原稿げんこうげたさいに、はじめて「らいてう[注釈ちゅうしゃく 6]という筆名ひつめいもちいた。ペンネーム「らいてう」は塩原しおばら事件じけんのち傷心しょうしんときのために一時期いちじきごした長野ながのけんしんかれたとりの「雷鳥らいちょう」から名付なづけている[7]

らいてうらによるあお踏社の発起人ほっきにんかいは6がつ1にち、『青鞜せいとう』は1911ねん明治めいじ44ねん)9がつ創刊そうかんされ、男女だんじょりょう極端きょくたん反響はんきょうこした。女性じょせい読者どくしゃからは手紙てがみ殺到さっとうし、ときには平塚ひらつかたずねてくる読者どくしゃもいたほどだったが、その一方いっぽう男性だんせい読者どくしゃあるいは新聞しんぶんつめたい視線しせんで、青鞜せいとうしゃ揶揄やゆする記事きじき、ときには平塚ひらつかいしまれるほどだった。なお同年どうねん9がつ金子かねこ筑水ちくすい日本にっぽんではじめてエレン・ケイ紹介しょうかいしており(「現実げんじつきょう」『太陽たいよう』)、そのケイに関心かんしんったらいてうがたずねてきた河井酔茗かわいすいめいはなしたところ、よい茗から「いまもり鴎外おうがいさんのしょでも其話がた」とわれたという。らいてうは「そののち、ケイの思想しそうが、わたくしの、もののかんがかた生活せいかつうえにも変化へんかをもたらした。」と、51ねん鴎外おうがい回想かいそうぶんいた(「鴎外おうがい夫妻ふさい青鞜せいとう」『文芸ぶんげい』1962ねん8がつ[注釈ちゅうしゃく 7]

奥村おくむら博史ひろふみとの出会であいと扶養ふよう[編集へんしゅう]

ひだりから小林こばやし哥津かつ岩野いわの清子きよこ中野なかの初子はつこ荒木あらき郁子いくこ保持ほじけん平塚ひらつからいてう(1913ねん

青鞜せいとう創刊そうかんよく1912ねん明治めいじ45ねん)5がつ5にち読売新聞よみうりしんぶんが「あたらしいおんな」の連載れんさい開始かいしし、だいいちかい与謝野よさの晶子あきこのパリきをげた。よく6にちには、晶子あきこ出発しゅっぱつ様子ようすを「ソコへ足早あしばやけたのは青鞜せいとう同人どうじん平塚ひらつか明子あきこ中略ちゅうりゃく列車れっしゃなかはいって叮嚀ていねい挨拶あいさつ交換こうかんしてる。」などとほうじた(総勢そうぜい500めい見送みおくった)。よく6がつの『中央公論ちゅうおうこうろん』(与謝野よさの晶子あきこ特集とくしゅうごう)では、鴎外おうがいによって「樋口ひぐち一葉かずはさんがくなってから、女流じょりゅうのすぐれたひとすとなると、どうしても此人であらう。中略ちゅうりゃくじょだが、晶子あきこさんとならしょうすることが出来できるかとおもふのは、平塚ひらつか明子あきこさんだ。下略げりゃく[注釈ちゅうしゃく 8]とまでひょうされた[注釈ちゅうしゃく 9]

もっとも、青鞜せいとうしゃあつまる女性じょせいが「五色ごしきさけ事件じけん」や「吉原よしはら登楼とうろう事件じけん[注釈ちゅうしゃく 10]、「らいてうとべにきち同性愛どうせいあい事件じけん」などの事件じけんこすと、平塚ひらつかには投石とうせき相次あいついだ。しかし、らいてうはそれをさほどかいせず、「ビールを一番いちばん沢山たくさんむだのはやはりらいてうだった」と編集へんしゅう後記こうきいて社会しゃかい挑発ちょうはつするだけの余裕よゆうがあった。そのうちに「あたらしいおんな」というレッテルをられるようになった。 すると、らいてうは『中央公論ちゅうおうこうろん』の1913ねん大正たいしょう2ねん)1がつごうに「わたしあたらしいおんなである」という文章ぶんしょう掲載けいさいする[10]同時どうじ婦人ふじんろん系統けいとうてて勉強べんきょうはじめ、同年どうねんの『青鞜せいとう』のすべてのごうには、付録ふろくとして婦人ふじん問題もんだい特集とくしゅうむようになった。しかし、『青鞜せいとう』の1913ねん2がつごう付録ふろく福田ふくだ英子えいこが「共産きょうさんせいおこなわれたあかつきには、恋愛れんあい結婚けっこん自然しぜん自由じゆうになりましょう」とき、「安寧あんねい秩序ちつじょがいすもの」として発禁はっきんしょせられると、らいてうはちちいかりをい、いえ独立どくりつする準備じゅんびはじめることになった。

青鞜せいとうしゃは『青鞜せいとう』のほかにも1912ねん大正たいしょう元年がんねんまつ岡本おかもとかの詩集ししゅう『かろきねたみ』を皮切かわきりに、よく1913ねん3がつに『青鞜せいとう小説しょうせつしゅう』などを出版しゅっぱんしている。『あお踏』1912ねん5がつ-10月に評論ひょうろんえんまど」を発表はっぴょう、1913ねん5がつにらいてうの処女しょじょ評論ひょうろんしゅうえんまどより』もているが、出版しゅっぱん直後ちょくご5がつに「家族かぞく制度せいど破壊はかいし、風俗ふうぞく壊乱かいらんするもの」として発禁はっきんしょせられている。同書どうしょは1913ねん6がつ『※<外字がいじ。とざし>あるまどにて』と改題かいだいして刊行かんこうされた。

平塚ひらつかおっと奥村おくむら博史ひろふみ。1914ねんなつ伊豆いず土肥どい温泉おんせんにて。

また、時期じき並行へいこうして、1912ねんなつの26さいとき茅ヶ崎ちがさき画家がか志望しぼう美術びじゅつ学校がっこうかよう5さい年下としした青年せいねん奥村おくむら博史ひろふみ出会であい、青鞜せいとうしゃ自体じたいんだ騒動そうどうののちに事実じじつこん夫婦ふうふ別姓べっせい)で同居どうきょはじめている(息子むすこまれたのち婚姻こんいんとどけ提出ていしゅつし、結婚けっこん[11]。らいてうはその顛末てんまつを『青鞜せいとう』の編集へんしゅう後記こうきじょう読者どくしゃ報告ほうこくし、同棲どうせいはじめた直後ちょくご1914ねん大正たいしょう3ねん)2がつごうでは『独立どくりつするにいて両親りょうしんに』という私信ししんを『青鞜せいとう誌上しじょう発表はっぴょうしている。ここで、パートナーは画家がか奥村おくむらひろしで「共同きょうどう生活せいかつ」ということを公表こうひょうした。結婚けっこん制度せいどへの反発はんぱつから、入籍にゅうせきはせず、奥村おくむらをもうけている。奥村おくむら病弱びょうじゃくかつはあまりれず、家計かけいはらいてうの原稿げんこう収入しゅうにゅうたのみのヒモ状態じょうたいであったため、経済けいざいてき苦労くろうおおかった。これは、後述こうじゅつ出産しゅっさん育児いくじへのくに支援しえんかたについて、与謝野よさの晶子あきこらとはげしい「母性ぼせい保護ほごろんそう」をひろげることにつながっている[7]

独立どくりつ奥村おくむらとの家庭かてい生活せいかつ[注釈ちゅうしゃく 11]と『青鞜せいとう』での活動かつどう両立りょうりつ困難こんなんになりはじめると、1915ねん大正たいしょう4ねん)1がつごうから伊藤いとう野枝のえに『青鞜せいとう』の編集へんしゅうけんゆずった。『青鞜せいとう』は従来じゅうらい文芸ぶんげい雑誌ざっし+αあるふぁとはべつの、いてえば「無政府むせいふ主義しゅぎしゃ論争ろんそう」として活気かっきいたが、その1ねんには、伊藤いとう野枝のえ交際こうさいはじめた大杉おおすぎさかえが、以前いぜんより大杉おおすぎ交際こうさいしていた神近かみちか市子いちこされる日蔭ひかげ茶屋ちゃや事件じけんがあり、休刊きゅうかんすることになった。

奥村おくむらとのあいだには2長男ちょうなん長女ちょうじょ)をもうけたが、らいてうは従来じゅうらい結婚けっこん制度せいどや「いえ制度せいどをよしとせず、平塚ひらつかから分家ぶんけして戸主こしゅとなり、2人ふたり子供こども私生児しせいじとしてみずからの戸籍こせきれている[注釈ちゅうしゃく 12][注釈ちゅうしゃく 13]

らいてうは1917ねん発表はっぴょうした原稿げんこう避妊ひにん可否かひろんず」において優生ゆうせいがく肯定こうていてきげ、産児さんじ制限せいげん重要じゅうようせいいた[12]

与謝野よさの晶子あきことの母性ぼせい保護ほご論争ろんそう[編集へんしゅう]

青鞜せいとう』の編集へんしゅうけん譲渡じょうと奥村おくむら看病かんびょう子育こそだてなどにわれていたが、1918ねん大正たいしょう7ねん)、婦人ふじん公論こうろん3がつごう与謝野よさの晶子あきこが『女子じょし徹底てっていした独立どくりつ』(国家こっか母性ぼせい保護ほご要求ようきゅうするのは依頼いらい主義しゅぎにすぎない)という論文ろんぶん発表はっぴょうすると、これにき、同誌どうし5がつごうで『母性ぼせい保護ほご主張しゅちょう依頼いらい主義しゅぎか』(恋愛れんあい自由じゆう母性ぼせい確立かくりつがあってこそ女性じょせい自由じゆう独立どくりつ意味いみつ)という反論はんろん発表はっぴょうした。すると、山川やまかわ菊栄きくえがこの論争ろんそうくわわり、同誌どうし9がつごうで『与謝野よさの平塚ひらつか2論争ろんそう』(しん母性ぼせい保護ほご社会しゃかい主義しゅぎこくでのみ可能かのう)という論文ろんぶん発表はっぴょう。その山田やまだわかなどが論争ろんそうくわわると一躍いちやく社会しゃかいてき現象げんしょうになった。(母性ぼせい保護ほご論争ろんそう

この論争ろんそうなか1919ねん大正たいしょう8ねん)の同誌どうし1がつごうで、らいてうは『現代げんだい家庭かてい婦人ふじんなやみ』(家庭かてい婦人ふじんにも労働ろうどう対価たいかはらわれてしかるべき、その権利けんりはあるはず)を発表はっぴょうしている。同年どうねんなつには愛知あいちけん繊維せんい工場こうじょう視察しさつし、そのさい女性じょせい労働ろうどうしゃ現状げんじょう衝撃しょうげきけ、その帰途きとしん婦人ふじん協会きょうかい設立せつりつ構想こうそうかためている。

しん婦人ふじん協会きょうかい[編集へんしゅう]

しん婦人ふじん協会きょうかい」のメンバー。前列ぜんれつひだりから、菊池きくちミツ、せきしなおくむめお塚本つかもと仲子なかこ後列こうれつひだりから、坂本さかもと真琴まこと佐々木ささき伊都子いつこ平塚ひらつからいてう、田中たなか芳子よしこ田島たじまひで島野しまの初子はつこ
前列ぜんれつひだりから、市川いちかわ房枝ふさえ氏名しめいしょうおくむめお西川にしかわ文子ふみこ平塚ひらつからいてう。1920ねん7がつ18にち撮影さつえい

しん婦人ふじん協会きょうかいは、1919ねん大正たいしょう8ねん)11月24にちに、市川いちかわ房枝ふさえおくむめおらの協力きょうりょくのもと、らいてうにより協会きょうかい設立せつりつ発表はっぴょうされ、「婦人ふじん参政さんせいけん運動うんどう」と「母性ぼせい保護ほご」を要求ようきゅうし、女性じょせい政治せいじてき社会しゃかいてき自由じゆう確立かくりつさせるための日本にっぽんはつ婦人ふじん運動うんどう団体だんたいとして設立せつりつされた[注釈ちゅうしゃく 14]協会きょうかい機関きかん女性じょせい同盟どうめい」ではふたたびらいてうが創刊そうかん執筆しっぴつしん婦人ふじん協会きょうかいは「衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょほう改正かいせい」、「治安ちあん警察けいさつほうだい5じょう修正しゅうせい」、「花柳病かりゅうびょう患者かんじゃたいする結婚けっこん制限せいげんなみ離婚りこん請求せいきゅう」の請願せいがんしょ提出ていしゅつとく治安ちあん警察けいさつほうだいじょう改正かいせい運動うんどう女性じょせい集会しゅうかい結社けっしゃ権利けんり獲得かくとく)にちかられた。

しかし、1921ねん大正たいしょう10ねん)に過労かろうくわえ、房枝ふさえとの対立たいりつもあり協会きょうかい運営うんえいから退しりぞく。また、伊藤いとう野枝のえさかい真柄まがら山川やまかわ菊栄きくえなどの社会しゃかい主義しゅぎしゃあか瀾会結成けっせいし、『しん婦人ふじん協会きょうかいあか瀾会』(『太陽たいよう大正たいしょう10ねん7がつごう)を皮切かわきりにしん婦人ふじん協会きょうかいおよびらいてうを攻撃こうげきする。らいてうがり、房枝ふさえ渡米とべいしたのちしん婦人ふじん協会きょうかい坂本さかもと真琴まことおくむめおらを中心ちゅうしん積極せっきょくてき運動うんどう継続けいぞくし、1922ねん大正たいしょう11ねん)に治安ちあん警察けいさつほうだい5じょう2こう改正かいせい成功せいこう。しかし、その活動かつどう停滞ていたいし、よく1923ねん大正たいしょう12ねんまつ解散かいさん。らいてうは文筆ぶんぴつ生活せいかつはいった。

1930年代ねんだい[編集へんしゅう]

世界せかい恐慌きょうこう時代じだいになると消費しょうひ組合くみあい運動うんどうとうにも尽力じんりょく高群たかむれ逸枝いつえらの政府せいふけい雑誌ざっし婦人ふじん戦線せんせん』へ参加さんかする。

戦後せんご[編集へんしゅう]

1955ねん

だい世界せかい大戦たいせんは、日本にっぽん共産党きょうさんとうシンパサイザーとして活動かつどう[14]婦人ふじん運動うんどうとも反戦はんせん平和へいわ運動うんどう推進すいしんした。1950ねん昭和しょうわ26ねん)6がつ来日らいにちしたアメリカのダレス特使とくしへ、全面ぜんめん講和こうわもとめた「日本にっぽん女性じょせい平和へいわへの要望ようぼうしょ」を連名れんめい提出ていしゅつ翌年よくねん12がつにはたいにち平和へいわ条約じょうやくおよ日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく反対はんたいして「さい軍備ぐんび反対はんたい婦人ふじん委員いいんかい」を結成けっせい1953ねん昭和しょうわ28ねん)4がつ5にち日本にっぽん婦人ふじん団体だんたい連合れんごうかい結成けっせい初代しょだい会長かいちょう就任しゅうにん[15]同年どうねん12がつ国際こくさい民主みんしゅ婦人ふじん連盟れんめいふく会長かいちょう就任しゅうにん1955ねん昭和しょうわ30ねん)、世界せかい平和へいわアピールななにん委員いいんかい結成けっせい参加さんかどうかい委員いいんとなる。

1960ねん昭和しょうわ35ねん)、連名れんめいで「完全かんぜん軍縮ぐんしゅく支持しじ安保あんぽ条約じょうやく廃棄はいきうったえる声明せいめい発表はっぴょう

1962ねん昭和しょうわ37ねん)10がつ19にち平塚ひらつかいわさきちひろ野上のかみ弥生子やよこ羽仁はに説子せつこきし輝子てるこくわさわ洋子ようこ櫛田くしたふき深尾ふかお須磨子すまこ壺井つぼいさかえら32にん女性じょせいびかけにより「しん日本にっぽん婦人ふじんかい」が結成けっせいされた[16][17]

1964ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ18にちに、1941ねん入籍にゅうせきしたおっと奥村おくむら東京とうきょう世田谷せたがや関東かんとう中央ちゅうおう病院びょういん急性きゅうせい骨髄こつづいせい白血病はっけつびょう死去しきょ[18]

1970ねん昭和しょうわ45ねん)6がつにも市川いちかわらととも日米にちべい安保あんぽ廃棄はいきのアピールを発表はっぴょうする。またベトナム戦争せんそう勃発ぼっぱつすると反戦はんせん運動うんどう展開てんかい1966ねん昭和しょうわ41ねん)「ベトナムはないのかい」を結成けっせい1970ねん昭和しょうわ45ねん)7がつには「ベトナムはは保健ほけんセンター」を設立せつりつする。「おんなたちはみないちにんひとり天才てんさいである」と宣言せんげんする孤高ここう行動こうどうとして、らいてうは終生しゅうせい婦人ふじん運動うんどうおよび反戦はんせん平和へいわ運動うんどう献身けんしんした。

さい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

自伝じでんさくかるも、1970ねん昭和しょうわ45ねん)に胆嚢たんのう胆道たんどうがんわずらい、東京とうきょう千駄ヶ谷せんだがや代々木よよぎ病院びょういん入院にゅういん。らいてうは入院にゅういん口述こうじゅつ筆記ひっき執筆しっぴつつづけていたが、1971ねん昭和しょうわ46ねん5月24にち入院にゅういんさき逝去せいきょ享年きょうねん86(まん85さいぼつ)。法名ほうみょうあかりおうないのち[19]命日めいにちの5がつ24にち筆名ひつめいをそのままらいてうばれている。13さいまで同居どうきょしていたまごによると、肉親にくしんから姿すがたは、世間せけん一般いっぱんの「らいてう」ぞうとはだいぶことなり、「身長しんちょうやく145センチでどう世代せだいくらべても小柄こがらこえちいさく内向ないこうてき言葉ことばすくないひとだった」と内実ないじつかたっている[20]

エピソード[編集へんしゅう]

わかい「つばめ」の由来ゆらい[編集へんしゅう]

相手あいて女性じょせいよりも年下としした恋人こいびと」をつばめぶのは、奥村おくむらがらいてうとわかれることを決意けついしたさい手紙てがみ一節いっせつ

しずかな水鳥みずとりたちが仲良なかよあそんでいるところへいちのツバメがんできて平和へいわみだしてしまった。わかいツバメはいけ平和へいわのためにっていく」

を、らいてうが『青鞜せいとうじょう発表はっぴょうし、一種いっしゅ流行りゅうこうになったことに由来ゆらいする。

菜食さいしょく主義しゅぎ[編集へんしゅう]

1951ねんに、アーネスト・スウィフト[注釈ちゅうしゃく 15]世界せかい菜食さいしょく主義しゅぎしゃ目録もくろくつくさいに、らいてうにわせがあり目録もくろく追加ついかされたが、らいてうが36、37さいころ頭痛ずつう嘔吐おうときた心地ここちもせず、なおせる医者いしゃくすりもなくこまっていたところに、石塚いしづかひだりげんしょくやしなえ二木ふたき謙三けんぞう玄米げんまいしょくについてみ、そしてってはなしき、食生活しょくせいかつあやまりをさとり、以来いらい30ねんちか実践じっせんしてきた[21]

家族かぞく[編集へんしゅう]

  • ちち平塚ひらつかじょう二郎じろう - もと紀州きしゅうはんで、東京とうきょう外語がいご学校がっこうまなび、参事院さんじいん書記官しょきかんとなる。1886ねん会計検査院かいけいけんさいんうつり、翌年よくねんより1ねんはんにわたり欧米おうべい視察しさつ。のちに第一高等学校だいちこうとうがっこうドイツ講師こうし兼任けんにん[22]
  • おっと奥村おくむら博史ひろふみ(1889-1964)- 洋画ようが神奈川かながわけん藤沢ふじさわまれ。奥村おくむら加賀かが前田まえだはん藩士はんしだったが、明治維新めいじいしん開拓かいたくみんとして北海道ほっかいどう余市よいちうつり、呉服ごふく行商ぎょうしょうなどでざいし、博史ひろふみ父親ちちおやが40さいにして隠棲いんせいとしてわか後妻ごさい故郷こきょうである藤沢ふじさわ転居てんきょした[22]博史ひろふみは18さい上京じょうきょうし、木下きのした藤次郎とうじろう日本にっぽん水彩すいさい画会がかい研究所けんきゅうじょ美術びじゅつ学校がっこう)にかよっているときにらいてうと[11][22]新劇しんげき運動うんどう参加さんかし、1913ねん上山うえやま草人そうじんひきいる近代きんだいげき協会きょうかいファウスト公演こうえん帝劇ていげき出演しゅつえんし、以来いらいしばしば舞台ぶたい[22]二科展にかてんで「灰色はいいろうみ入選にゅうせん[23]。1914ねんにらいてうと結婚けっこんし、事実じじつこんであったものの、息子むすこまれたのち婚姻こんいんとどけして夫婦ふうふとなった[11]。2をもうけ、1925ねん成城学園せいじょうがくえん美術びじゅつ講師こうしとなる(おし大岡おおおか昇平しょうへいらがいる)[22]武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつあたらしきむら美術びじゅつにも所属しょぞく[22]ゆびたまき制作せいさくしゃとしてもられ1933ねん工芸こうげい部門ぶもん受賞じゅしょうくに画会がかい会員かいいんとなる[23]結婚けっこんまもなく結核けっかく発病はつびょう南湖みなみこいん入院にゅういんし、退院たいいん本名ほんみょうの「ひろし」から「博史ひろふみ」に改名かいめい著書ちょしょ自伝じでんてき小説しょうせつ『めぐりあい』(現代げんだいしゃ、1956)など。らいてうのはか博史ひろふみ没後ぼつごてられたものであり、彼女かのじょかれともねむっている。
  • 長女ちょうじょあけぼのせい(あけみ、1915-1993)- 妊娠にんしんちゅうにらいてうは、森田もりた草平そうへいとの心中しんちゅうの未遂みすい事件じけんあつかった連載れんさいとうげ」を執筆しっぴつしていたが、つわりにより中断ちゅうだん奥村おくむら入院にゅういんちゅうあけぼのせいまれた。私立しりつ滝野川たきのがわ幼稚園ようちえんから那須なすぐん佐久山さくやままち佐久山さくやま尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく富士ふじぜん小学校しょうがっこう成城せいじょう小学校しょうがっこう転校てんこう[22]近江学園おうみがくえん職員しょくいん社会しゃかい学者がくしゃ築添つきぞえ正二しょうじ結婚けっこん著書ちょしょに『母子ぼし随筆ずいひつ』(平塚ひらつからいてう,あけぼのせい共著きょうちょ. もも書院しょいん, 1948)。再生さいせい不良ふりょうせい貧血ひんけつから肺炎はいえん併発へいはつし、同居どうきょしていたむすめ美可みか看取みとられぼっ[24]
  • 長男ちょうなん奥村おくむら敦史あつし(あつふみ、1917-2015)- 早稲田大学わせだだいがく理工学部りこうがくぶ機械きかい工学科こうがっか教授きょうじゅ。『材料ざいりょう力学りきがく』、『メカニックス入門にゅうもん』、『わたくしは永遠えいえん失望しつぼうしない 写真しゃしんしゅう平塚ひらつからいてう-じん生涯しょうがい』などの編著へんちょしょがある。老衰ろうすいによりまん97さいにてぼつ[25]
  • まご奥村おくむら直史なおふみ(1945年生ねんせい)- 敦史あつしで、らいてうのまご[26]早稲田大学わせだだいがくだい一文学部哲学科心理学専修卒業後、病院びょういん心理しんり療法りょうほうとして勤務きんむののち、東洋とうよう学園がくえん大学だいがく非常勤ひじょうきん講師こうし。1973ねん-2007ねん日本にっぽん臨床りんしょう心理しんり学会がっかい運営うんえい委員いいん。『平塚ひらつからいてうーまごかた素顔すがお』(平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ 2011)[27]、『平塚ひらつからいてう その思想しそうまごから素顔すがお』(平凡社へいぼんしゃライブラリー 2021)を上梓じょうし

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

  • えんまどより』東雲しののめどう書店しょてん、1913ねん5がつ 
    • えんまどより』(復刻ふっこくばん出版しゅっぱん叢書そうしょ青鞜せいとう』のおんなたち だい1かん〉、1985ねん11月。 
    • えんまどより』(複製ふくせいばん大空おおぞらしゃ叢書そうしょ女性じょせいろん 8〉、1995ねん6がつISBN 9784756800176 
  • 『扃あるまどにて』東雲しののめどう、1913ねん6がつNDLJP:911678 
  • 現代げんだい婦人ふじん生活せいかつ日月じつげつしゃ反響はんきょう叢書そうしょ だい2へん〉、1914ねん11月。NDLJP:913472 
  • 『らいてうだいさん文集ぶんしゅう 現代げんだい男女だんじょへ』南北社なんぼくしゃ、1917ねん12月。NDLJP:908624 
  • 婦人ふじん子供こども権利けんり天佑てんゆうしゃ、1919ねん12月。 
    • うえしょう一郎いちろう へん婦人ふじん子供こども権利けんり山崎やまざき朋子ともこ解説かいせつ久山ひさやましゃ日本にっぽんどもの権利けんり叢書そうしょ 9〉、1995ねん10がつISBN 9784906563166 
  • 女性じょせい言葉ことばきょうぶんしゃ、1926ねん9がつNDLJP:1018755 
  • 『らいてう随筆ずいひつしゅう くもくさにん小山こやま書店しょてん、1933ねん7がつ 
  • はは言葉ことばかたなこう書院しょいん子供こども研究けんきゅう教育きょういく叢書そうしょ 7〉、1937ねん2がつ 
  • 『わたくしのあるいたみちしん評論ひょうろんしゃ、1955ねん3がつ 
  • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでんじょう大月書店おおつきしょてん、1971ねん8がつ 
  • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでんした大月書店おおつきしょてん、1971ねん9がつ 
  • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでんつづけ戦後せんごへん)、大月書店おおつきしょてん、1972ねん10がつ 
  • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでんかん大月書店おおつきしょてん、1973ねん11月。 
    • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでん』 1かん大月書店おおつきしょてん国民こくみん文庫ぶんこ〉、1992ねん3がつISBN 9784272888115 
    • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでん』 2かん大月書店おおつきしょてん国民こくみん文庫ぶんこ〉、1992ねん3がつISBN 9784272888122 
    • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでん』 3かん大月書店おおつきしょてん国民こくみん文庫ぶんこ〉、1992ねん3がつISBN 9784272888139 
    • 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった 平塚ひらつからいてう自伝じでん』 4かん大月書店おおつきしょてん国民こくみん文庫ぶんこ〉、1992ねん3がつISBN 9784272888146 
  • 『むしろ女人にょにんせい礼拝れいはいせよ 平塚ひらつからいてうしんせい道徳どうとく論集ろんしゅう人文書院じんぶんしょいん、1977ねん7がつ 
  • 岩見いわみ照代てるよへん解説かいせつ へん平塚ひらつからいてう』日本にっぽん図書としょセンター作家さっか自伝じでん 8〉、1994ねん10がつISBN 9784820580096 
  • 米田よねだ佐代子さよこ へんきんいろの自画像じがぞう 平塚ひらつからいてうことばの花束はなたば大月書店おおつきしょてん、2005ねん5がつISBN 9784272350193 

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

  • 平塚ひらつからいてう、平塚ひらつかあけぼのせい母子ぼし随筆ずいひつもも書院しょいん、1948ねん3がつ 

監修かんしゅう[編集へんしゅう]

  • 『われらははなれば 平和へいわいのははたちの手記しゅき平塚ひらつからいてう・櫛田くしたふき監修かんしゅう青銅せいどうしゃ、1951ねん12月。 

翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

作品さくひんしゅう[編集へんしゅう]

著作ちょさくしゅう[編集へんしゅう]

  • 青鞜せいとう大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 1〉、1983ねん6がつISBN 9784272300914 
収録しゅうろく幽愁ゆうしゅう, 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった―『青鞜せいとう発刊はっかんさいして, はな芙蓉ふよう, ヘッダについて, 編集へんしゅうざつ感想かんそう(『青鞜せいとうだい3ごう編集へんしゅう後記こうき), 高原こうげんあき, ノラさんに, えんまどより, よんがつ評論ひょうろんさん, んだ「マグダ」, 田中たなか王堂おうどうの『哲人てつじん主義しゅぎ』, えんまどより, おんなとしての樋口ひぐち一葉かずは女史じょし, 靄のおび, 『恋愛れんあい結婚けっこん』(エレン・ケイちょ連載れんさいにあたって, いち年間ねんかん, 婦人ふじんたちへ, 民衆みんしゅう政府せいふあたらしきものと, 赤城あかぎよりNに, 「動揺どうよう」にあらわれた野枝のえさん, あたらしいおんな, しょ名士めいしのいわゆる「婦人ふじん問題もんだい」について, わがまなこ, ヴィヴィとそのはは生活せいかつ, 編集へんしゅうしつより, 独立どくりつするについて両親りょうしんに, 荒木あらき郁子いくこの『むすめ』をんで, 書籍しょせき紹介しょうかい批評ひひょう性的せいてき特徴とくちょう』(ハベロック・エリスちょ小倉おぐら清三郎せいさぶろうやく), 『女性じょせいあいだ同性どうせい恋愛れんあい』(エリスちょ野母のもやく)の序言じょげん, 西川にしかわ文子ふみこの『婦人ふじん解放かいほうろん』をひょうす, しょうかんさん, 田村たむら俊子としこの「炮烙のけい」の竜子りゅうこについて, 婦人ふじん生活せいかつおもんじない社会しゃかい, たびなな日間にちかん, 森田もりた草平そうへいに, 最近さいきん感想かんそう, 『青鞜せいとうだいさん周年しゅうねんにおける雑感ざっかん, 御宿おんじゅくより, 談話だんわえて『生活せいかつ記者きしゃに, いわゆる職業しょくぎょう婦人ふじんについて, 田村たむら俊子としこさん, エレン・ケイ女史じょし, 我国わがくににおける婦人ふじん問題もんだい世界せかいてき地位ちい
  • 母性ぼせい主張しゅちょうについて』大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 2〉、1983ねん8がつISBN 9784272300921 
収録しゅうろく:『青鞜せいとう』とわたし―『青鞜せいとう』を野枝のえさんにおゆずりするについて, 小倉おぐら清三郎せいさぶろうに―「性的せいてき生活せいかつ婦人ふじん問題もんだい」をんで, 個人こじんとしての生活せいかつせいとしての生活せいかつとのあいだ争闘そうとうについて, 処女しょじょ真価しんか, とうげ, 明治めいじまつねんより大正たいしょう初頭しょとう婦人ふじん問題もんだい, 『あい争闘そうとう』にあらわれたる両性りょうせい問題もんだい, 南湖みなみこより(1), ははとなりて, 母性ぼせい主張しゅちょうについて, 現代げんだい女学校じょがっこう教育きょういくたいする女学生じょがくせいとしての不平ふへい, 南湖みなみこより(2), 南湖みなみこより(3), 南湖みなみこより(4), 差別さべつてきせい道徳どうとくについて, 厄年やくどし, 産児さんじすう制限せいげん問題もんだい, わたしっている神近かみちか市子いちこさん, いわゆる自由じゆう恋愛れんあいとその制限せいげん, 今日きょう政局せいきょくたいして, ははとしてのいち年間ねんかん, 青年せいねん男女だんじょ交際こうさいについて, 矢島やじま楫子かじこ婦人ふじん矯風きょうふうかい事業じぎょうろんず, 伊藤いとう野枝のえさんのあるかれたみち, 避妊ひにん可否かひろんず, 売笑ばいしょう問題もんだいについて, 井上いのうえ哲次郎てつじろう良夫よしおけんちちなんず, 母性ぼせい保護ほご主張しゅちょう依頼いらい主義しゅぎにあらず, 嘉悦かえつ孝子こうし女史じょしごと, いまいち母性ぼせい保護ほご問題もんだいについて与謝野よさの晶子あきこよせす, 老死ろうし, 「とその前後ぜんご」をて、
  • 社会しゃかい改造かいぞうたいする婦人ふじん使命しめい大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 3〉、1983ねん10がつISBN 9784272300938 
収録しゅうろく婦人ふじん再婚さいこんろん, 結婚けっこん道徳どうとくてき基礎きそ, 婦人ふじん労働ろうどう問題もんだい種族しゅぞく問題もんだい, 現代げんだい家庭かてい婦人ふじんなやみ, 戦後せんご婦人ふじん問題もんだい婦人ふじん労働ろうどう問題もんだい種族しゅぞく問題もんだい, 永遠えいえんゆめ世界せかいへ, 「れいかい」のことと「つばめ」というおこり, くに婦人ふじん参政さんせいけん問題もんだいについて, 女工じょこうこく日本にっぽん, くににおける女工じょこう問題もんだい, 名古屋なごや地方ちほう女工じょこう生活せいかつ, 現行げんこうほうじょう婦人ふじん, 流行りゅうこうたいする婦人ふじん覚悟かくご, 男女だんじょ同一どういつ賃銀ちんぎん要求ようきゅうについて, 婦人ふじん団結だんけつのぞむ―関西かんさい婦人ふじんかい連合れんごうかいにおいて, 卑劣ひれつなる男子だんし態度たいど, しん婦人ふじん協会きょうかい議会ぎかい運動うんどうについて与謝野よさの晶子あきこにおこたえいたします, 婦人ふじん自身じしんにかえれ, 『女性じょせい同盟どうめい創刊そうかんごう宣言せんげん, 社会しゃかい改造かいぞうたいする婦人ふじん使命しめい―『女性じょせい同盟どうめい創刊そうかんえて, 花柳病かりゅうびょう男子だんし結婚けっこん制限せいげんほう制定せいていかんする請願せいがん運動うんどう, 花柳病かりゅうびょうぜんしゅ学的がくてき結婚けっこん制限せいげんほう, 北陸ほくりくより関西かんさいへ, 治安ちあん警察けいさつほうだいじょう修正しゅうせい花柳病かりゅうびょう男子だんし結婚けっこん制限せいげん, 婦人ふじん労働ろうどう問題もんだいたいするひとつの立場たちば, 議会ぎかい運動うんどうについて, 婦人ふじん時代じだいがきました―大阪おおさか覚醒かくせい婦人ふじん大会たいかいにおいて, 波紋はもん感想かんそう), だい1かい総会そうかいさい過去かこいちねんはん回想かいそうして, 軍備ぐんび縮小しゅくしょう問題もんだい―ハーディング提議ていぎについて, 柳原やなぎはら燁子さん, 川村かわむら警保局長きょくちょう言葉ことば, おんなとして生活せいかつするうえにおいて現行げんこうほうたいしてかんじたこと, 離婚りこんしえないなやみ, 五条ごじょう修正しゅうせいあん通過つうか祝賀しゅくが演説えんぜつかいせて, 家庭かてい改造かいぞう根本ねもとよし, しん婦人ふじん協会きょうかい回顧かいこ, あかるいいろよりもくらいろ, 震災しんさい雑記ざっきらへ, 都市とし経営けいえいかか女性じょせいまえ, 自然しぜんおんな伊藤いとう野枝のえさん, しん帝都ていとのために, いわゆる恋愛れんあい三角さんかく関係かんけいについての考察こうさつ
  • 『むしろせい礼拝れいはいせよ』大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 4〉、1983ねん12月。ISBN 9784272300945 
収録しゅうろく:この社会しゃかいあくこわろしさをれ, 婦人ふじん参政さんせいけん運動うんどう将来しょうらい, ははとしてのわたくしの生活せいかつ, ひとむかしまえ婦人ふじんかい, むしろせい礼拝れいはいせよ, 生命せいめいからはなされつつある現代げんだい女性じょせい, あるはは手紙てがみ富本とみもと一枝かずえさんに, はるまど雑筆ざっぴつ, 佐久山さくやまみて, 参禅さんぜんしていたころ, エミール・ルカの『エロス』をみて, 青春せいしゅん危機ききこころせよ―大磯おおいそ心中しんちゅうの事件じけんについて, 三宅みやけやすさん, おのれとかたる, 市川いちかわ房枝ふさえさんのこと, ある女流じょりゅう教育きょういく言葉ことば, ある子供こども, 家庭かてい仕事しごと職業しょくぎょうとみる, はるた, 竹林たけばやし, ぐりはな, はな, 童心どうしん, 長髪ちょうはつについて, ある子供こども, ゆうやけそら, ある子供こども, 烏山からすやまより, 烏山からすやまより, 百舌もずこえ, 烏山からすやまより, 田中たなか芳子よしこさんの近業きんぎょう, 山川やまかわ菊栄きくえさん, ちいさき生命せいめい, だんおもえ, おくむめおさんのこと, 深草ふかくささと, わだちのおと(1), しいたげられたる現代げんだい母性ぼせい, ただひとりを, 千駄ヶ谷せんだがやみて, あの時分じぶんひとたち, タゴールの婦人ふじんろんみて, なぜ女性じょせい作家さっか活躍かつやくしないか, 農村のうそん婦人ふじん生活せいかつ健康けんこう, わたしおおきくなったら, しんかた, むぎ, 母性ぼせい萌芽ほうが, うれしいあめ, 子供こども成城せいじょう小学校しょうがっこうれたことについて, 烏山からすやまより, 烏山からすやまより, つま俸給ほうきゅう, 三宅みやけやす創作そうさくなか女性じょせいについて, 子供こどもせたい映画えいが, ある日記にっき, わたくしたちの貧乏びんぼうについて, エレン・ケイ女史じょし, 高群たかむれ逸枝いつえさん, 高群たかむれ逸枝いつえさんの『恋愛れんあいそうせい』をむ, ひとりいて, かえるなく, して, むすめのころのおもいで, はは感謝かんしゃ, わたくしの断髪だんぱつ, せんのこと, 職業しょくぎょう婦人ふじん連盟れんめいについて, 父兄ふけい一人ひとりとして―高等こうとう女学校じょがっこう設置せっち問題もんだいについての私見しけん, おんな立場たちばから生田長江いくたちょうこう婦人ふじん解放かいほうろんひょうす, きぬたむらてたわたしたちのいえ, わだちのおと(2), 無産むさん政党せいとうせん運動うんどう, 無産むさん政党せいとう無産むさん婦人ふじん団体だんたい, 転換期てんかんきてる日本にっぽん婦人ふじん参政さんせいけん運動うんどう, モダンガールについて, わが性教育せいきょういくについて, かくあるべきモダンガール, 青鞜せいとうしゃのこと, らのなつやすみ, 学校がっこう生活せいかつそつえたおじょうさんたちへ, 母性ぼせいあい主唱しゅしょう, 世界せかい女性じょせい―エレン・ケイ, 女子じょし教育きょういくにおける母性ぼせい主義しゅぎについて, 青鞜せいとうしゃはどんな役目やくめをしたでしょう, しん婦人ふじん団体だんたいへの待望たいぼう, 政治せいじてき進出しんしゅつ時代じだい, 分裂ぶんれつまえ自我じが, うみのおもいで, きぬたむらみて, 靴下くつしたつくろい, 男女だんじょ共学きょうがく, 映画えいがたいするはは態度たいど, おんなだか問題もんだいについて文部もんぶ当局とうきょくへ, おっとしたがうべきかおやしたがうべきか
  • 婦人ふじん戦線せんせん参加さんかして』大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 5〉、1984ねん2がつISBN 9784272300952 
収録しゅうろく現代げんだい教育きょういく, 相続そうぞくほう改正かいせいあんについて、その, せん運動うんどうしゃへ―ぜん婦人ふじん団体だんたいよ、せんをその綱領こうりょうかかげたる無産むさん政党せいとう応援おうえんせよ, じゅうねんまえのわたくし, 児童じどう映画えいが問題もんだい入学にゅうがく制度せいど問題もんだい, 婦人ふじん雑誌ざっしあく傾向けいこうについて, 知識ちしき婦人ふじんについての考察こうさつ, せん運動うんどうをいかにみちびくべきか, 政友せいゆうかいせんあんたいする全国ぜんこく婦人ふじん同盟どうめい声明せいめい批評ひひょう, ひろし太平洋たいへいよう婦人ふじん会議かいぎささえ問題もんだい, 二業にぎょう許可きょか問題もんだい, たいささえ問題もんだい婦人ふじんかい, きぬたむらより, 中学ちゅうがく制度せいど改善かいぜんあんたいする私見しけん, 傍聴ぼうちょう雑感ざっかん, 救護きゅうごほう母子ぼし保護ほごほう・その, おやごころ、ごころ, 母性ぼせいあい要求ようきゅうする産児さんじ制限せいげん, バーナード・ショウの社会しゃかい主義しゅぎ解説かいせつ, 最近さいきん雑感ざっかんさん, しんせい道徳どうとくのカオス, 恋愛れんあい殉死じゅんしろん, 寺内てらうち綾子あやこさんの殉死じゅんし, 婦人ふじん緊縮きんしゅく運動うんどう, せん時代じだい日本にっぽん婦人ふじん, ある対話たいわ, 小学校しょうがっこう時代じだいのおもいでひとつ, 婦人ふじん戦線せんせん参加さんかして, かえりみて, さんじゅうねんまえわたし, 明治めいじから大正たいしょうへ、女流じょりゅう雄弁ゆうべんかいうごき, いち反動はんどう女性じょせい, きぬたむら雑草ざっそう, 麻雀まーじゃんきょう時代じだい, むしろ母子ぼし保護ほごほう制定せいていせよ, もうけない商売しょうばい消費しょうひ組合くみあいについて, 母性ぼせいにそそぐなみだ, 本能ほんのうとしての協同きょうどうしん発展はってん, 中産ちゅうさん家庭かてい婦人ふじん消費しょうひ組合くみあい運動うんどう, 制服せいふくについて, らの疑問ぎもん, 不死ふしについて, 明日あした女性じょせい要求ようきゅうされるひとつの資格しかく, わたくしの教育きょういくてき生活せいかつ環境かんきょうとしての自由学園じゆうがくえん, 世帯せたいづかれにやつれたつまわりて, 育児いくじ社会しゃかい思想しそうさい吟味ぎんみせよ, 協同きょうどう組合くみあい組織そしきによる病院びょういん設立せつりつ, 産児さんじ調節ちょうせつ相談そうだんしょ, ラジオと婦人ふじん生活せいかつ, 中年ちゅうねん婦人ふじん健康けんこう, ちかははとなるわかともへ, 上方かみがたおんな, おさむぜんについて, 男性だんせいふる感情かんじょう, ひゃくごう記念きねんむかえて創刊そうかん当時とうじおもかたる, ミセス羽仁はにの『みどりごのしん』をむ, 銀座ぎんざ商店しょうてんがいのデパート身売みうり, ははをとれ、悲嘆ひたんあらしなかで―むら々に医療いりょう組合くみあいとう, 消費しょうひ組合くみあい婦人ふじん位置いち, むすめこいけられたとき, むすめ結婚けっこんについて, 青年せいねんつじじゅん, ということ, 祖先そせんかたる, ニュースのなかから問題もんだいひろって―おんな共産きょうさん党員とういんへの抗議こうぎ, ニュースのなかから問題もんだいひろって―百貨店ひゃっかてんおんな店員てんいん採用さいよう条件じょうけん, ニュースのなかから問題もんだいひろって―よわかった令嬢れいじょうはこにゅうむすめ」のおおいことよ, ニュースのなかから問題もんだいひろって―市政しせい浄化じょうか女性じょせい, 女性じょせい共産きょうさん党員とういんとそのせい利用りよう, 結婚けっこんするむすめに, あさよるしん調整ちょうせい, 竜胆りんどうはなう, 友達ともだち遺書いしょ, 今井いまい邦子くにこさんの『あかねそう』をむ, 女性じょせい読書どくしょ, 憶いなかとりたち, ほん議会ぎかいなに期待きたいするか, むしろよろこばしき結婚けっこん解消かいしょう, かた徳郎よしおのこと, 欲望よくぼう解放かいほうから統制とうせいへ, しんのゴミさらい, 第一歩だいいっぽあやまったおんな, 三峰山みうねやま
  • むすめはは遺産いさんかたる』大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 6〉、1984ねん4がつISBN 9784272300969 
収録しゅうろく友松ともまつ円諦えんたいをめぐる浄土じょうど問題もんだいについて, 現実げんじつ生活せいかつしょするみち, むすめははむすめ時代じだいかたる, 学校がっこう暴力ぼうりょく行為こうい, またしてもかたむけるくび, かおがみたい優良ゆうりょう国民こくみん, 列車れっしゃない飲酒いんしゅ, 教育きょういくてき暴力ぼうりょく解決かいけつ, 叱責しっせきよりもおやごころ, 武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつの『日本にっぽんえられた人々ひとびと』, わたくしの郷里きょうり, 公民こうみん教育きょういく徹底てってい, 子女しじょ家出いえで問題もんだい, 消費しょうひしゃ中央ちゅうおう市場いちば紛争ふんそう消費しょうひ組合くみあい問題もんだい, ははつとめをえた寡婦かふかた, 軍人ぐんじんかん, 公娼こうしょう廃止はいし, 残忍ざんにん以上いじょう, 『婦人ふじん公論こうろん周年しゅうねんさいして女性じょせいへの言葉ことば, 窪川くぼかわ稲子いねこさんへ―「こわろしき矛盾むじゅん」をみて, 教員きょういん恋愛れんあい, 今井いまい邦子くにこ夫人ふじんの『和琴わごんしょう』をむ, ちからうちへ, 年齢ねんれいおもう, 肉親にくしん離反りはん, 孤独こどくか、再婚さいこんか, 怪我けが功名こうみょう, よめしゅうとおっと, こえのみではかえれない, 結婚けっこん離婚りこん中川なかがわ善之助ぜんのすけ新著しんちょ妻妾さいしょうろん』をむ, 教員きょういん精神せいしん薄弱はくじゃくしゃか, まずまんきょう和協わきょうせよ, せい目覚めざめるころのおも, 女性じょせい感激かんげき, きぬたむらみて, 男性だんせい恋愛れんあいかん女性じょせいかん, たすからぬ消費しょうひしゃ, かえらぬむすめ, 「母親ははおや」の反省はんせい, よりひろ視野しやがあるはず, 最近さいきん婦人ふじん雑誌ざっして, 梅雨つゆ孟宗もうそうりん, 職業しょくぎょう婦人ふじんとお化粧けしょう, 「いたるちち」の問題もんだい, 共同きょうどう炊事すいじはいかが, 最初さいしょ記憶きおく, 責任せきにん父親ちちおやに, おんな勝気かちき, 青鞜せいとう時代じだい, ははであるよろこび, むすめはは遺産いさんかたる, 『新生しんせい』のおんな主人公しゅじんこう長谷川はせがわこまさんについて, 「母子ぼし保護ほごほう」によせす, ひとつの解決かいけつさく, おんな感想かんそう, われらなにすべきか?, 少女しょうじょとそのははおくる, たべもの, むすめ結婚式けっこんしきのぞみて, あめふじ, 「すわること」と「あるくこと」, せいなないくさん, わかははたちへ―しょくやしなえほうについて, おべい問題もんだい, Y夫人ふじんゆめ, 民族みんぞく優生ゆうせい保護ほごほう関連かんれんして, こん議会ぎかい婦人ふじん, 最近さいきん発見はっけん, 戦争せんそう産児さんじ, 花菖蒲はなあやめくころ, 目白めじろおも, 混食こんしょくについて, 高群たかむれ逸枝いつえの『女性じょせいせんろくひゃくねん』, よしかんもと雷鳥らいちょう, たびちゅう雑記ざっき, 馬場ばば孤蝶こちょう先生せんせいしのびて, しん政治せいじ体制たいせい婦人ふじん, 日記にっきしょう, 女子じょし国民こくみんふくへの要望ようぼう, 結婚けっこん家庭かてい子供こども, ちちしのびて, わが少女しょうじょ, ははむすめ会話かいわ, 玄米げんまいしょく体験たいけんかたる, 小貝川こかいがわ通信つうしん
  • わたし永遠えいえん失望しつぼうしない』大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう 7〉、1984ねん6がつISBN 9784272300976 
収録しゅうろく婦人ふじん代議士だいぎしに, あなた自身じしんれ, 学校がっこうたころのわたくし, しん平和へいわ運動うんどう, わたくしのゆめ実現じつげんしたか, 陰陽いんよう調和ちょうわ, 雷鳥らいちょうじく, 民族みんぞく未来みらいのために, 「婦人ふじん大会たいかいにおける表彰ひょうしょうこたえて, このごろの婦人ふじん傾向けいこうについて, むかし女学生じょがくせいいま女学生じょがくせい, 平和へいわのつばさ, 初対面しょたいめん印象いんしょう, 婦人ふじんむかえて, 女流じょりゅう作家さっかるまで, 武装ぶそうこく日本にっぽん女性じょせい講和こうわ問題もんだいについての希望きぼう要項ようこう, 武装ぶそう平和へいわ, 日本にっぽんはは立場たちば, 朝鮮ちょうせん動乱どうらんわたしたち女性じょせい覚悟かくご, 憲法けんぽうまもりぬこう, 世界せかい平和へいわへのみち, 婦人ふじん団体だんたい国連こくれん研究けんきゅう, 窮極きゅうきょく平和へいわざして, 人類じんるいひと言葉ことばを!, せん行使こうし周年しゅうねんむかえて, 晶子あきこ先生せんせいとわたくし, 昭和しょうわ婦人ふじん解放かいほう運動うんどう太平洋戦争たいへいようせんそう突入とつにゅうするまで, 高村たかむら光太郎こうたろう智恵子ちえこ夫妻ふさい, ひとつの世界せかい建設けんせつ, 婦人ふじん少年しょうねんきょく廃止はいし反対はんたい声明せいめいしょ草案そうあん), 『われらははなれば』まえがき, 人類じんるい平和へいわへの意志いし, 危機きき新年しんねんつ, 武装ぶそうこく日本にっぽん女性じょせいより米国べいこく上院じょういん議員ぎいん諸氏しょしうったえる, 戦争せんそう放棄ほうき日本にっぽん婦人ふじん, はたら女性じょせいへのいちきゅうねん課題かだい, ははこそ平和へいわちから, 婦人ふじんむかえて, わたくしたちの菜食さいしょく主義しゅぎ, 真実しんじつはやく, 予備よびたい婦人ふじん部隊ぶたい, こうりょうさんをおむかえして, 平和へいわのぞぜん女性じょせいうったえる, ひだりしゃ中心ちゅうしんのたたかい, 婦人ふじんしんちかうこと, “婦人ふじん世界せかい大会たいかい”のよびかけにこたえる, 投票とうひょうにのぞむ覚悟かくご, 貴重きちょう国際こくさいてきセンス, てんしたにはらぬものなし, ひとつにむすちから, 平和へいわへのみのり, いちきゅうよんねん婦人ふじん運動うんどう方向ほうこう, 今年ことしはたいへんなとし, ちかごろおそろしいことのひとつ, 収穫しゅうかくをめざして―いちきゅうよんねん婦人ふじん課題かだい, あの感激かんげきのなかで―日本にっぽん婦人ふじん大会たいかいえて, 吉田よしだ首相しゅしょうへ―年賀状ねんがじょうたいするお返事へんじんで, 国際こくさい婦人ふじんデーにおもう, 平和へいわだい集会しゅうかいへのよびかけ, いちねんあゆみをかえりみて, 女性じょせい政治せいじ, 近所きんじょづきあい, しん中国ちゅうごくくにけいぶしまねかれて, 婦人ふじん党内とうないかく宣言せんげん, 世界せかいによい政治せいじを―文化ぶんかおもう, 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくのみなさんへ, いさおあきらさんをおむかえして, 逗子ずし海岸かいがん, アンナ・コズローワさんへ, 洋装ようそうのおもいで, 日本にっぽん母親ははおや大会たいかいおめでとう, 主婦しゅふ解放かいほうろん石垣いしがき福田ふくだ両氏りょうし婦人ふじんろんをめぐって, ぼうつきぼう, 年頭ねんとう所感しょかん, 庶民しょみんのなかにまれるちから, 今年ことし婦人ふじん課題かだい, 日本にっぽん婦人ふじんいちねんあゆみをかたる, 砂川すなかわ基地きち拡張かくちょうおもう, 婦人ふじん参政さんせい成果せいか, “将来しょうらい”をえら重大じゅうだい機会きかい, 大山おおやま先生せんせいおも, 青鞜せいとう運動うんどう背景はいけい, 魅力みりょくあるお人柄ひとがら, どもの世紀せいき, 今年ことしこそわたし念願ねんがんたっせられるとしとしなければならない, 良書りょうしょのすすめ―平井ひらいきよしちょあいせい』, ウィーン集会しゅうかい成功せいこういのって, ことしこそかく実験じっけん停止ていしを, 高村たかむら智恵子ちえこさんの印象いんしょう, わか婦人ふじん期待きたいする, 福田ふくだ英子えいこさんのおもいで, 好日こうじつしょう, しょくやしなえきる, むかし産制さんせいさえ罪悪ざいあく, きよらかなつよさ―猿橋さるはし勝子かつこさん, 婦人ふじん運動うんどうねんをかえりみて, おんなくにかえる―除幕じょまくしき祝辞しゅくじ, 鴎外おうがい夫妻ふさいと『青鞜せいとう』, 鴎外おうがい先生せんせいについて, 野卑やひ攻撃こうげきかねて, 世界せかい婦人ふじんいのり, 奥村おくむら博史ひろふみ裸婦らふ素描そびょうについて, 自我じが確立かくりつへのたたかい, 最後さいご拠点きょてんだいきゅうじょう―“日本にっぽんをどう防衛ぼうえいするか”の質問しつもんにこたえて, 憲法けんぽうまもりぬく覚悟かくご, 「ベトナムはないのかい」によせてひとこと, はたらひとびととともにちからづよい運動うんどうを―世界せかいたかまるベトナム戦争せんそう反対はんたい行動こうどう, 中立ちゅうりつのあかし、朝鮮ちょうせんじん帰国きこく協定きょうてい, 人道的じんどうてき立場たちばまもれ―在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん帰国きこく継続けいぞくを, しんからの支持しじ協力きょうりょくを―ベトナム戦争せんそうわらせるためのふたつの国際こくさい会議かいぎ, きたばく全面ぜんめん停止ていしをむかえて, おりにふれて, 婦人ふじんのすべてのひょう安保あんぽ廃棄はいき政党せいとう
  • 写真しゃしん書簡しょかん年譜ねんぷ著作ちょさく目録もくろく大月書店おおつきしょてん平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう まき〉、1984ねん11月。ISBN 9784272300983 
収録しゅうろく写真しゃしんしゅう, 書簡しょかんしゅう, 書簡しょかんしゅう注解ちゅうかい, 平塚ひらつからいてう年譜ねんぷ小林こばやし登美枝とみえ), 平塚ひらつからいてう著作ちょさく目録もくろく

評論ひょうろんしゅう[編集へんしゅう]

  • 小林こばやし登美枝とみえ米田よねだ佐代子さよこ へん平塚ひらつからいてう評論ひょうろんしゅう岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1987ねん5がつISBN 9784003317211 
収録しゅうろく元始げんし女性じょせい太陽たいようであった, 婦人ふじんたちに, 扃あるまどにて, あたらしいおんな, 独立どくりつするについて両親りょうしんに, 「個人こじん」としての生活せいかつと「せい」としての生活せいかつとのあいだ争闘そうとうについて(野枝のえさんに), 母性ぼせい主張しゅちょうについて与謝野よさの晶子あきこあずかう, ははとしてのいち年間ねんかん, 与謝野よさの嘉悦かえつへ, 母性ぼせい保護ほご問題もんだいについてふたた与謝野よさの晶子あきこよせす, 婦人ふじん労働ろうどう問題もんだい種族しゅぞく問題もんだい, 現代げんだい家庭かてい婦人ふじんなやみ, 社会しゃかい改造かいぞうたいする婦人ふじん使命しめい, 軍備ぐんび縮小しゅくしょう問題もんだい, 家庭かてい改造かいぞう根本ねもとよし, 都市とし経営けいえいかか女性じょせいまえ, 子供こども教育きょういくのことなど(一枝かずえさんに), 家庭かてい仕事しごと職業しょくぎょうる, 子供こども成城せいじょう小学しょうがくれたことについて, して, かくあるべきモダンガアル, せん運動うんどうしゃへ, 婦人ふじん戦線せんせん参加さんかして, ははつとめをえた寡婦かふかた, 職業しょくぎょう婦人ふじんとお化粧けしょう, わたくしのゆめ実現じつげんしたか, 「婦人ふじん大会たいかいにおける表彰ひょうしょうこたえて, 武装ぶそうこく日本にっぽん女性じょせい講和こうわ問題もんだいについての希望きぼう要項ようこう, 人類じんるいひと言葉ことばを!, ひとつの世界せかい建設けんせつ, わたくしたちの菜食さいしょく主義しゅぎ, 主婦しゅふ解放かいほうろん, 庶民しょみんなかうまれるちから, どもの世紀せいき, 世界せかい婦人ふじんいのり, 憲法けんぽうまもりぬく覚悟かくご

論文ろんぶん[編集へんしゅう]

  • 昭和しょうわ婦人ふじん解放かいほう運動うんどう じょう 太平洋戦争たいへいようせんそう突入とつにゅうするまで」『女性じょせい改造かいぞうだい6かんだい5ごう改造かいぞうしゃ、1951ねん5がつ、34-38ぺーじNAID 40001870318 
  • 昭和しょうわ婦人ふじん解放かいほう運動うんどう 太平洋戦争たいへいようせんそう突入とつにゅうするまで」『女性じょせい改造かいぞうだい6かんだい7ごう改造かいぞうしゃ、1951ねん7がつ、38-45ぺーじNAID 40001870416 
  • 人類じんるい平和へいわへの意志いし」『婦人ふじん公論こうろんだい38かんだい1ごう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1952ねん1がつ、68-72ぺーじNAID 40003329079 
  • 米国べいこく上院じょういん議員ぎいんおくつたさい軍備ぐんび反対はんたいのアピールについて」『世界国家せかいこっかだい6かんだい3ごう国際こくさい平和へいわ協会きょうかい、1952ねん3がつ、20-21ぺーじNAID 40002118721 
  • 平和へいわにいのる」『随筆ずいひつだい1かんだい9ごう産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ、1952ねん9がつ、33-35ぺーじNAID 40001991646 
  • 「アジアの平和へいわ婦人ふじんで――いさおあきらさんをおむかえして」『改造かいぞうだい36かんだい1ごう改造かいぞうしゃ、1955ねん1がつ、70-73ぺーじNAID 40000380650 
  • 主婦しゅふ解放かいほうろん」『婦人ふじん公論こうろんだい40かんだい10ごう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1955ねん10がつNAID 40003326786 
  • 庶民しょみんなかうまれるちから」『婦人ふじん公論こうろんだい41かんだい1ごう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1956ねん1がつNAID 40003326883 
  • 「「青鞜せいとうしゃ」のころ(座談ざだんかい)」『世界せかいだい122ごう岩波書店いわなみしょてん、1956ねん2がつ、115-131ぺーじNAID 40002093680 
  • 「「青鞜せいとうしゃ」のころ(座談ざだんかい)」『世界せかいだい123ごう岩波書店いわなみしょてん、1956ねん3がつ、133-144ぺーじNAID 40002093711 
  • 平塚ひらつからいてう 戦後せんご日記にっき(1953-58)」『平塚ひらつからいてうのかい紀要きようだい12ごう平塚ひらつからいてうのかい、2019ねん8がつ、28-63ぺーじNAID 40021994752 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 関川せきかわ夏央なつお谷口たにぐちジロー『『っちゃん』の時代じだい凛冽りんれつたり近代きんだいなお生彩せいさいあり明治めいじじん双葉社ふたばしゃ、1897ねん6がつISBN 9784575930597 
  • 小林こばやし登美枝とみえ平塚ひらつからいてう あい反逆はんぎゃく青春せいしゅん大月書店おおつきしょてん、1977ねん3がつ 
  • 瀬戸内せとうち晴美はるみ青鞜せいとう上巻じょうかん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1984ねん10がつISBN 9784120013362 
  • 瀬戸内せとうち晴美はるみ青鞜せいとう下巻げかん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1984ねん10がつISBN 9784120013379 
  • 佐々木ささき英昭ひであき『「あたらしいおんな」の到来とうらい 平塚ひらつからいてうと漱石そうせき名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1994ねん10がつISBN 9784815802431 
  • 高橋たかはし由佳利ゆかり晶子あきこ反乱はんらん 天才てんさい歌人かじん与謝野よさの晶子あきこ生涯しょうがい集英社しゅうえいしゃ〈Queens'comics〉、2006ねん3がつISBN 9784088653327 
  • らいてう研究けんきゅうかい へん『わたくしは永遠えいえん失望しつぼうしない 写真しゃしんしゅう平塚ひらつからいてうじん生涯しょうがい奥村おくむら敦史あつし監修かんしゅう、ドメス出版しゅっぱん、2011ねん9がつISBN 9784810707540 
  • 坂口さかぐち昌弘まさひろ文人ぶんじんたちの俳句はいく本阿弥書店もくあみしょてん、2014ねん8がつISBN 9784776811077 

映画えいが[編集へんしゅう]

  • ドキュメンタリー映画えいが平塚ひらつからいてうの生涯しょうがい 元始げんし女性じょせい太陽たいようであった』(原作げんさく羽田はた澄子すみこ - 平塚ひらつからいてうの記録きろく映画えいがをつくるかい企画きかく自由じゆう工房こうぼう製作せいさく、2001ねん

テレビドラマ[編集へんしゅう]

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 自然しぜん主義しゅぎ高潮こうちょう 紳士しんし淑女しゅくじょ情死じょうし未遂みすい 情夫じょうふ文学ぶんがく小説しょうせつ 情婦じょうふ女子じょし大学だいがく卒業生そつぎょうせい」と、当時とうじ新聞しんぶん各紙かくしがスキャンダラスに報道ほうどうした[6]
  2. ^ ちち方針ほうしん転換てんかん鹿しかたて時代ときよ終焉しゅうえん時期じき符合ふごうする。
  3. ^ 後日ごじつ森田もりた草平そうへいはこの事件じけんもと小説しょうせつ煤煙ばいえん」をいたため「煤煙ばいえん事件じけん」のがある。
  4. ^ 青鞜せいとう』は18世紀せいきイギリスの女性じょせいサロンブルー・ストッキングen:Blue Stockings Society (England)にちなんだ名前なまえである。
  5. ^ 日本女子大にほんじょしだい学校がっこう時代じだいあかりとテニス一緒いっしょで、ダブルスんでいた。
  6. ^ 雷鳥らいちょう高山こうざんとりで「孤独こどくとり」「冬山ふゆやまとり」ともばれていた。塩原しおばら事件じけんこと意識いしきしてけた筆名ひつめいだとわれている。
  7. ^ ただし、らいてうは、鴎外おうがい先生せんせいについておもすことはエレン・ケイの紹介しょうかいです。(先生せんせいはおそらくケイを日本にっぽん紹介しょうかいされた最初さいしょほうでしょう)それは、ほんのみじかいケイとその著書ちょしょ紹介しょうかいでしたけれど、これがわたしのケイにしたしむ最初さいしょのきっかけとなり、下略げりゃく」といていた。ちなみに1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月、石坂いしざか養平ようへいがケイを紹介しょうかいする「自由じゆう離婚りこんせつ」を『帝国ていこく文学ぶんがく』に発表はっぴょうすると、早速さっそくケイの著作ちょさく恋愛れんあい結婚けっこん』を購入こうにゅうし、ケイに傾倒けいとうしてった[8]
  8. ^ 下略げりゃくした文章ぶんしょうは「領分りょうぶん作品さくひんいらしいが、らいてうの青鞜せいとういてゐる批評ひひょうるに、おとこ批評ひひょうにはあのくらい明快めいかいふで哲学てつがくじょうことひと一人ひとりい。立脚りっきゃくてん奈何いかんべつとして、いてゐること八面玲瓏はちめんれいろうである。おとこ批評ひひょう哲学てつがくじょう問題もんだいとなると、だれだれねこ小判こばんだ。」
  9. ^ らいてうは、鴎外おうがい回想かいそうをいくつかのこした。「たとえば、「青鞜せいとう」―ブリュウ・ストッキングという非常ひじょうによかったとめていられたということが、まずだれからかつたえられたのでした。後日ごじつ、「青鞜せいとう」は鴎外おうがいのつけただなどもっぱらつたえられたのは、あるいはこれが転化てんかしたものかもしれません。奥様おくさまもりしげおんなさんが「青鞜せいとう」の賛助さんじょいんでしたから、雑誌ざっし毎号まいごう手許てもととどいているからでもありましょうけれど、中略ちゅうりゃくとにかく「青鞜せいとう」とともに先生せんせい見守みまもられているのだというような気持きもちをある期間きかんもっていたものでした。そしてこれらのことは漱石そうせき婦人ふじんたいする態度たいど、その無関心むかんしんさと、理解りかいさとくらべてなにというちがかたでしょう。」[9]。なお後述こうじゅつのとおり、「しん婦人ふじん協会きょうかい」の設立せつりつかんしても、鴎外おうがい言及げんきゅうした。
  10. ^ 前者ぜんしゃは、当時とうじ未成年みせいねんちくべにきち(おたけ・べによし、のちの富本とみもと一枝かずえ)がバー「メイゾンおおとり」にき「青鞜せいとう」への広告こうこく出稿しゅっこう依頼いらいしたところ、五色ごしきのカクテルをきょうされた事件じけん後者こうしゃは、らいてう、ちくべにきち中野なかの初子はつこの3にんが、べにきち叔父おじ画家がかちくちく(おたけ・ちくは)にれられて吉原よしはら遊郭ゆうかく花魁おいらん見物けんぶつをした事件じけん
  11. ^ 奥村おくむら病弱びょうじゃくで、その直後ちょくご結核けっかく発症はっしょうしている。
  12. ^ 1941ねん。(昭和しょうわ16ねん)に長男ちょうなん兵役へいえきまえにして軍隊ぐんたいない私生児しせいじとして不利益ふりえきかぶらないようにというかんがえから奥村おくむらせきはいっている。
  13. ^ 当時とうじ制度せいどでは、ちち認知にんちしてちち戸籍こせきれれば「嫡出ちゃくしゅつ」にぐ「庶子しょし」としてみとめられたが、はは戸籍こせきれた場合ばあいはそれもみとめられなかった。
  14. ^ 1962ねん、らいてうはもり鴎外おうがい回想かいそうぶんつぎのようにいた。「「しん婦人ふじん協会きょうかい」という婦人ふじん組織そしきつくりをはじめたとき、「青鞜せいとう」の場合ばあいちがい、こんどはおとこ方々かたがたにも賛助さんじょいんをおねがいすることにしましたが、そのときもちろん鴎外おうがい先生せんせいをそのなかくわえるのをわすれませんでした。で、協会きょうかい趣意しゅいしょ綱領こうりょう規約きやく草案そうあん先生せんせいあてのわたくしの手紙てがみをもって、市川いちかわ房枝ふさえさんに先生せんせい団子だんござかたくってもらいました。中略ちゅうりゃく当時とうじ市川いちかわさんはまだ無名むめいわか婦人ふじんでしたが、すぐおくださって、賛助さんじょいんになることを承諾しょうだくされ、はげましの言葉ことばくださったうえに、ご自分じぶんすずりってきて、朱墨しゅずみをすり、趣意しゅいしょから規約きやくまで詳細しょうさいにおとおして、それにこまかく朱筆しゅひつくわえてくださるのでした。これには市川いちかわさんもすこおどろきもし、またおおいに勇気ゆうきづけられもしたようでした。なぜなら、おなじことで市川いちかわさんが訪問ほうもんした有名ゆうめい婦人ふじんなかには賛成さんせいはおろか、らいてうは不道徳ふどうとくおんなで、社会しゃかいてき信用しんようがゼロだから、そんなおんな計画けいかくしても成功せいこうするはずがない。あなたもおやめなさいなどぎゃく説法せっぽうされたりして、わたくしをまだふからなかった市川いちかわさんはいささかしん動揺どうようをしていたときでしたから。」[13]
  15. ^ このページによると、イギリスの菜食さいしょく主義しゅぎ指導しどうしゃ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 「いま敗戦はいせん苦汁くじゅうとともに、わたくしたち女性じょせい掌上しょうじょうに、参政さんせいけん突如とつじょとしてこうからちてきた。まったく他力たりきてきに。連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう政策せいさく遂行すいこう、なんという運命うんめい皮肉ひにくだろう。ひさしくもとめてえられなかったものがあたえられたよろこびを、すなおに、ほがらかによろこびきれないものがむねにいっぱいつかえていた。」
    岩波いわなみ文庫ぶんこ平塚ひらつからいてう評論ひょうろんしゅう」pp.259-276「わたくしのゆめ実現じつげんしたか」(『女性じょせい改造かいぞう』1948ねん10がつごうより転載てんさい)のp.262より。
  2. ^ a b 女性じょせい平和へいわ運動うんどうのパイオニア 平塚ひらつからいてう
  3. ^ 青鞜せいとうだいいちかんいちごう”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション. 2024ねん2がつ4にち閲覧えつらん 本文ほんぶんは『元始げんし女性じょせいじつ太陽たいようであった』ではじまる。
  4. ^ 平塚ひらつか卒業そつぎょう100ねん記念きねんして創設そうせつされたしょう平塚ひらつからいてうしょう - 学校がっこう法人ほうじん 日本女子大学にほんじょしだいがく参照さんしょう
  5. ^ 平塚ひらつか明子あきこ(らいてう)」 長谷川時雨はせがわしぐれ しる[1]
  6. ^ [2]
  7. ^ a b c d e f 元祖がんそ「#わきまえないおんな」、その意外いがい素顔すがおとは 平塚ひらつからいてうぼつ後半こうはん世紀せいき遺族いぞく日記にっき公開こうかい(47NEWS)”. Yahoo!ニュース. 2021ねん10がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ 金子かねこ(1992)、p.316。
  9. ^ 鴎外おうがい先生せんせいについて」『文学ぶんがく散歩さんぽ』1962ねん10がつ。8月26にち執筆しっぴつ明記めいき
  10. ^ 下川しもかわ耿史『環境かんきょう年表ねんぴょう 明治めいじ大正たいしょうへん(1868-1926)』p.384 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2003ねん11月30日刊にっかん 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20522067
  11. ^ a b c 平塚ひらつからいてうとはどんなひと大正たいしょう時代じだい事実じじつこん選択せんたくした、時代じだい先端せんたん女性じょせい人生じんせい紹介しょうかい和樂わらくweb 日本にっぽん文化ぶんかくちマガジン”. 和樂わらくweb 日本にっぽん文化ぶんかくちマガジン. 2022ねん1がつ14にち閲覧えつらん
  12. ^ 平塚ひらつからいてう著作ちょさくしゅう2 母性ぼせい主張しゅちょうについて』大月書店おおつきしょてん、1983ねん8がつ
  13. ^ 金子かねこ(1992)、p.322。
  14. ^ 堀場ほりば清子きよこ青鞜せいとう時代じだい岩波書店いわなみしょてん、1988ねん
  15. ^ プロフィール | 日本にっぽん婦人ふじん団体だんたい連合れんごうかいだんれん
  16. ^ しん婦人ふじん紹介しょうかい”. しん日本にっぽん婦人ふじんかい. 2024ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  17. ^ 全国ぜんこく組織そしき婦人ふじん団体だんたい名簿めいぼ』 1981, pp. 10–11.
  18. ^ 奥村おくむら博史ひろふみ :: ひがしぶんけんアーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021ねん10がつ18にち閲覧えつらん
  19. ^ 大塚おおつかえいりょう文学ぶんがくしゃ掃苔ろく図書館としょかん』(はら書房しょぼう、2015ねん)p.195
  20. ^ 元祖がんそ「#わきまえないおんな」、その意外いがい素顔すがおとは 平塚ひらつからいてうぼつ後半こうはん世紀せいき遺族いぞく日記にっき公開こうかい(47NEWS)”. Yahoo!ニュース. 2021ねん10がつ18にち閲覧えつらん
  21. ^ 「わたくしたちの菜食さいしょく主義しゅぎ」『平塚ひらつからいてう評論ひょうろんしゅう岩波いわなみ文庫ぶんこ
  22. ^ a b c d e f g 影山かげやまのぼる平塚ひらつからいてうと奥村おくむら博史ひろふみ : あい共同きょうどう生活せいかつ成城せいじょう教育きょういく」『成城せいじょう文藝ぶんげいだい174かん成城大学せいじょうだいがく文芸ぶんげい学部がくぶ、2001ねん3がつ、104-59ぺーじISSN 0286-5718CRID 1050282677573499136 
  23. ^ a b 奥村おくむら博史ひろふみ おくむら ひろしコトバンク
  24. ^ はは築添つきぞえ美可みか平塚ひらつからいてうを記念きねんするかいニュース、1993
  25. ^ 山川やまかわひろし奥村おくむら 敦史あつし 名誉めいよ教授きょうじゅのご逝去せいきょいたんで」(PDF)『WME ニュースレター』だい43ごう早稲田わせだともかい編集へんしゅう事務じむきょく、2015ねん10がつ、p.6、2019ねん7がつ11にち閲覧えつらん 
  26. ^ 1/21 『平塚ひらつからいてう まごかた素顔すがお』の著者ちょしゃ 奥村おくむら直史なおふみさんをかこんで | 片山かたやまかおるといっしょにかえる小金井こがねいかい”. 2022ねん1がつ14にち閲覧えつらん
  27. ^ あお踏』創刊そうかん100周年しゅうねん記念きねん講演こうえんかい 静岡しずおか女性じょせい研究けんきゅうかい創立そうりつ35周年しゅうねん平塚ひらつからいてう-まごかた素顔すがお静岡しずおかけん男女だんじょ共同きょうどう参画さんかくセンター「あざれあ」、2012ねん3がつ24にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 1977ねん 小林こばやし登美枝とみえ平塚ひらつからいてう:あい反逆はんぎゃく青春せいしゅん大月書店おおつきしょてん
  • 1983ねん 小林こばやし登美枝とみえ平塚ひらつからいてう』(『Century books』『ひと思想しそう』71)、清水しみず書院しょいん
  • 1987ねん 井手いで文子ふみこ平塚ひらつからいてう:近代きんだい神秘しんぴ』(『新潮しんちょう選書せんしょ』)、新潮社しんちょうしゃ
  • 1988ねん 堀場ほりば清子きよこ青鞜せいとう時代じだい 平塚ひらつからいてうとあたらしいおんなたち』(『岩波いわなみ新書しんしょ』)、岩波書店いわなみしょてん
  • 金子かねこ幸代さちよ鴎外おうがいと〈女性じょせい〉』大東だいとう出版しゅっぱんしゃ、1992ねん
  • 1994ねん 小林こばやし登美枝とみえのかがやき:平塚ひらつからいてう・その戦後せんごしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ
  • 1994ねん 佐々木ささき英昭ひであき『「あたらしいおんな」の到来とうらい:平塚ひらつからいてうと漱石そうせき名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい
  • 1997ねん 中嶌なかじまくに岩淵いわぶち宏子ひろこ小林こばやし登美枝とみえ青木あおき生子いくこ無限むげん生成せいせい:らいてう・博史ひろふみ』「シリーズ・日本女子大学にほんじょしだいがく卒業生そつぎょうせい(2)、平塚ひらつからいてうとその学友がくゆうてんによせて、日本女子大学にほんじょしだいがく成瀬なるせ記念きねんかん
  • 2002ねん 米田よねだ佐代子さよこ平塚ひらつからいてう:近代きんだい日本にっぽんのデモクラシーとジェンダー』吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • 2006ねん 折井おりいよし耶子・女性じょせい歴史れきし研究けんきゅうかいへん)『しん婦人ふじん協会きょうかい研究けんきゅう』ドメス出版しゅっぱん
  • 日本女子大学にほんじょしだいがく平塚ひらつからいてう研究けんきゅうかい『らいてうをまなぶなかで』1,2 私学しがくばん
  • 2008ねん 出版しゅっぱん予定よてい 「あたらしいおんな研究けんきゅうかい企画きかく『「青鞜せいとう」と世界せかいの「あたらしいおんなたち」』出版しゅっぱんしゃ未定みてい
  • せん会館かいかん調査ちょうさ出版しゅっぱん へん全国ぜんこく組織そしき婦人ふじん団体だんたい名簿めいぼ財団ざいだん法人ほうじんせん会館かいかん、1981ねん8がつ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]