セルビア公国こうこく (近代きんだい)

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セルビア公国こうこく
Кнежевина Србија (セルビア)
オスマン帝国 1815ねん - 1882ねん セルビア王国 (近代)
セルビアの国旗 セルビアの国章
国旗こっきくにあきら
国歌こっか: Востани Сербіє(セルビア
セルビアの位置
セルビア公国こうこく地図ちず(1878ねん
公用こうよう セルビア
宗教しゅうきょう セルビア正教せいきょう
首都しゅと クラグイェヴァツ(1818ねん - 1838ねん
ベオグラード(1838ねん - 1882ねん
クニャージ
1817ねん - 1839ねん ミロシュ・オブレノヴィッチ1せい
1868ねん - 1882ねんミラン・オブレノヴィッチ4せい
首相しゅしょう
1815ねん - 1816ねんPetar Nikolajević
1880ねん - 1882ねんMilan Piroćanac
面積めんせき
1815ねん24,440 [1]km²
1831ねん37,511km²
人口じんこう
1815ねん322,500 - 342,000にん
1834ねん702,000にん
1874ねん1,353,000にん
変遷へんせん
自治じちけん獲得かくとく 1817ねん11月6にち
セルビアこう世襲せしゅう承認しょうにん1830ねん
事実じじつじょう独立どくりつ1867ねん
ベオグラード遷都せんと1838ねん
ベルリン条約じょうやくにより完全かんぜん独立どくりつ1878ねん7がつ13にち
王政おうせい移行いこう1882ねん3がつ6にち
通貨つうかセルビア・ディナール
現在げんざいセルビアの旗 セルビア
セルビア歴史れきし
セルビアの鷲
この記事きじシリーズ一部いちぶです。
先史せんし時代じだい英語えいごばん

セルビア ポータル

セルビア公国こうこく(セルビアこうこく、セルビア : Кнежевина Србија)は、1817ねんから1882ねんにかけてバルカン半島ばるかんはんとう存在そんざいした国家こっか1878ねんまではオスマン帝国ていこく宗主そうしゅけんにあり、1882ねん君主くんしゅ正式せいしきに「国王こくおう」を宣言せんげんして王制おうせい移行いこうした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

自治じち公国こうこく時代じだい[編集へんしゅう]

カラジョルジェ指導しどうしゃとするだいいちセルビア蜂起ほうき1804ねん - 1813ねん)が戦争せんそう終結しゅうけつにより失敗しっぱいし、一時いちじてきオスマン帝国ていこくによる支配しはい復活ふっかつしたのち1815ねんぶた商人しょうにんミロシュ・オブレノヴィッチ指導しどうしゃとするだいセルビア蜂起ほうきこる。このだいセルビア蜂起ほうき結果けっか1817ねんにミロシュはオスマン帝国ていこくからセルビアのおおやけ地位ちいみとめられ、セルビア公国こうこく成立せいりつする。この時点じてんでのセルビア公国こうこくは、オスマン帝国ていこくのかつてのベオグラードけん(シュマディア地方ちほう)をその領域りょういきとして成立せいりつした。

その交渉こうしょう結果けっか1830ねんにセルビアは完全かんぜん自治じち承認しょうにんされ、オブレノヴィッチによるセルビアこう地位ちい世襲せしゅうみとめられた。また、1833ねんには領土りょうど拡大かくだいみとめられるとともに、宗主そうしゅこくオスマン帝国ていこくへのみつぎおさめさだめられた。一方いっぽう国内こくないでは中央ちゅうおう集権しゅうけん目指めざすミロシュと、従来じゅうらいからの村落そんらく自治じちによる分権ぶんけんてき体制たいせい維持いじしたい村落そんらくのリーダー(クネズばれる)などとの対立たいりつはげしさをし、政治せいじ混乱こんらんまねいていた。クネズなどのはんミロシュ立憲りっけんせい導入どうにゅうもとめ、憲法けんぽうによるおおやけ権力けんりょく制限せいげん分権ぶんけん維持いじ目指めざした。

ミロシュは憲法けんぽう制定せいてい抵抗ていこうつづけたが、1838ねん憲法けんぽうがオスマン帝国ていこくみことのりれいかたち公布こうふされると、翌年よくねんにはミロシュは退位たいい余儀よぎなくされ、息子むすこミラン・オブレノヴィッチ2せい譲位じょういした。しかしほどなくしてミランがくなったため、後継こうけいしゃ中央ちゅうおう集権しゅうけんかつぐオブレノヴィッチからすか、分権ぶんけんかつカラジョルジェヴィッチからすかでふたた混乱こんらんこる。いちはミランのおとうとミハイロ・オブレノヴィッチ3せいがセルビアこうとなったものの、1842ねんクーデターこり、カラジョルジェ・ペトロヴィッチの息子むすこであるアレクサンダル・カラジョルジェヴィッチがセルビアこうとなった。

このときアレクサンダルをかついでクーデターをおこなった勢力せいりょくは、1838ねん憲法けんぽう擁護ようごかかげたことから護憲ごけんとう英語えいごばんばれる。護憲ごけんとうによる政治せいじのもとで、ようやくセルビアにも安定あんていおとずれ、近代きんだいてき国家こっか制度せいど整備せいびすすめられることになった。この護憲ごけんとう時代じだいには国立こくりつ銀行ぎんこう設立せつりつ民法みんぽう導入どうにゅうなどがおこなわれ、官僚かんりょうせい近代きんだいてき学校がっこう制度せいど整備せいびされた。近代きんだいてき学校がっこう卒業そつぎょうし、官僚かんりょうとなった人々ひとびと従来じゅうらい政治せいじになであった地方ちほう名望めいぼうわるあらたなエリートとなり、やがて自由じゆう主義しゅぎてき指向しこうかれらがあらたな政治せいじ勢力せいりょくとして登場とうじょうしてくることになる。

また、1844ねんには外務がいむ大臣だいじんイリヤ・ガラシャニンによって「ナチェルターニェ Načertanije」(「覚書おぼえがき」)とばれる秘密ひみつ文書ぶんしょ作成さくせいされた。「ナチェルターニェ」でしめされた方針ほうしんとは、ちか将来しょうらいにオスマン帝国ていこく崩壊ほうかいすると仮定かていしたうえで、そのさいにはロシアオーストリア介入かいにゅうふせぎつつ、中世ちゅうせいセルビア王国おうこく領域りょういきもとづいたセルビアじん一大いちだい独立どくりつ国家こっかを、セルビア公国こうこくみずからの建設けんせつしようとするものである。「ナチェルターニェ」はチャルトリスキ亡命ぼうめいポーランドじん支援しえんけて作成さくせいされたといわれ、以後いごのセルビア外交がいこう指針ししんとなった。

この「ナチェルターニェ」でしめされている政治せいじ思想しそうは、当時とうじまだオスマン帝国ていこく支配しはいにあったボスニアヘルツェゴビナ、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく領域りょういきにあったヴォイヴォディナなどに存在そんざいするセルビアじんコミュニティをセルビアの領域りょういき併合へいごうしようというものであり、このような政治せいじ思想しそうを「だいセルビア主義しゅぎ」という。この思想しそうはやがてカトリック信仰しんこうするクロアチアじんムスリムであるボシュニャクといった、宗教しゅうきょうことなるものの言語げんごをほぼおなじくするすべてのみなみスラブじんコミュニティの統合とうごう目指めざ思想しそうへと発展はってんしていく。

分権ぶんけんかつがれておおやけいたアレクサンダルだが、徐々じょじょ中央ちゅうおう集権しゅうけん指向しこうするようになり、ふたた地方ちほう分権ぶんけん不満ふまんたかまっていった。1858ねん議会ぎかい召集しょうしゅうされると、かつてとはことなり分権ぶんけんはオブレノヴィッチのもとに集結しゅうけつし、アレクサンダルの廃位はいいとミロシュ・オブレノヴィッチの復位ふくい決定けっていした。1860ねんにはミロシュののちぎ、ミハイロがふたたびセルビアこうとなる。分権ぶんけん支持しじのもとでふたたおおやけたオブレノヴィッチであったが、ミハイロは実際じっさいには専制せんせいてき中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめてゆく。

ミハイロは将来しょうらい完全かんぜん独立どくりつ見据みすえた軍備ぐんび増強ぞうきょうはかるとともに、たいオスマン帝国ていこくせん意識いしきして1866ねんモンテネグロと、のちにはギリシアとも同盟どうめいむすんだほか、ルーマニアとは友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつした。また、1867ねんにはセルビア領内りょうない駐屯ちゅうとんしていた最後さいごのオスマンぐん部隊ぶたい撤退てったいさせることに成功せいこうした。ほかにもブルガリアじん独立どくりつ運動うんどうへの支援しえんや、クロアチアの民族みんぞく政党せいとうとの接触せっしょくなどの積極せっきょくてき外交がいこう展開てんかいした。一方いっぽう国内こくないでは強権きょうけんてき政治せいじ姿勢しせいたいする反感はんかんつのり、1868ねんにミハイロは暗殺あんさつされた。また、ミハイロがすすめた近隣きんりんこくとの同盟どうめい死後しごほとんどが形骸けいがいした。

ミハイロが暗殺あんさつされたことにより、ミハイロの従弟じゅうてい息子むすこたるミラン・オブレノヴィッチ4せいあらたなセルビアこうとなった。よく1869ねん自由じゆう主義しゅぎヨヴァン・リスティッチ英語えいごばん中心ちゅうしんとなってしん憲法けんぽう制定せいていされ、これにより立法りっぽうけん一院制いちいんせい議会ぎかい毎年まいとし召集しょうしゅうされるようになった(それまでの議会ぎかい不定期ふていき開催かいさいであった)。しん憲法けんぽう議会ぎかい政治せいじ枠組わくぐみがさだめられたことは、近代きんだいてき政党せいとう誕生たんじょううなが結果けっかみ、こうしてしん憲法けんぽう保守ほしゅ自由じゆう主義しゅぎ対立たいりつ構図こうずがより明確めいかくかたちあらわれてくることになる。このような状況じょうきょうなかで、オスマン帝国ていこくとの戦争せんそうむかえることとなった。

独立どくりつ公国こうこく時代じだい[編集へんしゅう]

1875ねんヘルツェゴヴィナ蜂起ほうきこると、セルビアは資金しきん援助えんじょなどをおこなった。しかしオスマン帝国ていこくとの開戦かいせんをめぐって国内こくない政治せいじ対立たいりつこる。開戦かいせん消極しょうきょくてきおおやけ保守ほしゅたいし、自由じゆう主義しゅぎ積極せっきょくてき開戦かいせん主張しゅちょうした。最終さいしゅうてき自由じゆう主義しゅぎ主導しゅどうけんにぎり、1876ねんにオスマン帝国ていこく開戦かいせんしたが、戦力せんりょくおおきく休戦きゅうせん余儀よぎなくされた。しかしロシアが介入かいにゅうし、戦争せんそうはじまると状況じょうきょうわり、自由じゆう主義しゅぎ内閣ないかくのもとでふたた開戦かいせんする。結果けっか戦勝せんしょうこくとして、サン・ステファノ条約じょうやくルーマニア公国こうこくモンテネグロ公国こうこくとともにオスマン帝国ていこくからの完全かんぜん独立どくりつ領土りょうど拡大かくだいみとめられた。

ところがこの条約じょうやくは、イギリスオーストリア=ハンガリー帝国ていこく猛烈もうれつ反発はんぱつってされることとなった。1878ねん修正しゅうせいのためにベルリン会議かいぎひらかれ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの3公国こうこくあらためて独立どくりつこくみとめられた(ベルリン条約じょうやく)。セルビアはにオスマン帝国ていこくからニシュなどを獲得かくとくした。

ベルリン会議かいぎ結果けっか、セルビアに隣接りんせつするボスニアヘルツェゴビナがオーストリア=ハンガリーの占領せんりょうにおかれたが、ロシアの協力きょうりょくもありセルビアはオーストリア=ハンガリーに接近せっきんしていく。 1882ねんにはオーストリア=ハンガリーの承認しょうにんのもと、王制おうせい移行いこうセルビア王国おうこくとなった。

歴代れきだい君主くんしゅおおやけ[編集へんしゅう]

オブレノヴィッチ[編集へんしゅう]

  1. ミロシュ・オブレノヴィッチ1せい1817ねん - 1839ねん
  2. ミラン・オブレノヴィッチ2せい1839ねん
  3. ミハイロ・オブレノヴィッチ3せい1839ねん - 1842ねん

カラジョルジェヴィッチ[編集へんしゅう]

  1. アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ1842ねん - 1858ねん

オブレノヴィッチ[編集へんしゅう]

  1. ミロシュ・オブレノヴィッチ1せい復位ふくい1858ねん - 1860ねん
  2. ミハイロ・オブレノヴィッチ3せい復位ふくい1860ねん - 1868ねん
  3. ミラン・オブレノヴィッチ4せい1868ねん - 1889ねん)※1882ねん以降いこう国王こくおうミラン1せい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Michael R. Palairet (2002). The Balkan Economies C.1800-1914: Evolution Without Development, Cambridge University Press. pp. 16–. ISBN 978-0-521-52256-4.