第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく
シメオン1世 せい の治世 ちせい における最大 さいだい 版図 はんと
第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく (だいいちじブルガリアていこく、教会 きょうかい スラヴ語 ご :блъгарьско цѣсарьствиѥ , ロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき :blagarysko tsesarystviye、ブルガリア語 ご :Първа българска държава , ロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき :Pǎ́rva bǎ́lgarska dǎržáva、英語 えいご :First Bulgarian Empire)とは、7世紀 せいき から11世紀 せいき の間 あいだ の東南 とうなん ヨーロッパ に存在 そんざい したブルガール人 じん とスラヴ人 じん の国家 こっか 、そして後 のち にブルガリア人 じん 国家 こっか となった帝国 ていこく である。アスパルフ に率 ひき いられたブルガール人 じん の一派 いっぱ がバルカン半島 ばるかんはんとう 北東 ほくとう 部 ぶ へ南進 なんしん した後 のち の680年 ねん から681年 ねん に建国 けんこく された。コンスタンティノス4世 せい 率 ひき いる東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく (ビザンツ帝国 ていこく )の軍隊 ぐんたい にオングロスの戦 たたか い で勝利 しょうり したことで、彼 かれ らはドナウ川 がわ の南 みなみ に植民 しょくみん する権利 けんり について東 ひがし ローマ側 がわ の承認 しょうにん を得 え た。9世紀 せいき から10世紀 せいき の間 あいだ 、最盛 さいせい 期 き のブルガリアはドナウ大曲 おおまがり から黒海 こっかい 、そしてドニエプル川 がわ からアドリア海 あどりあかい へと拡大 かくだい し、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と競合 きょうごう する当 とう 地域 ちいき の重要 じゅうよう な勢力 せいりょく となった。第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく は中世 ちゅうせい の大 だい 部分 ぶぶん を通 つう じて、南 みなみ スラヴ・ヨーロッパの主要 しゅよう な文化 ぶんか 的 てき かつ精神 せいしん 的 てき な中心 ちゅうしん 地 ち となった。
帝国 ていこく がバルカン半島 ばるかんはんとう にてその地位 ちい を固 かた めると、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と時 とき には友好 ゆうこう 的 てき に、時 とき には敵対 てきたい 的 てき になった、何 なに 世紀 せいき にも及 およ ぶ長 なが い交流 こうりゅう の時代 じだい に入 はい った。ブルガリアは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく にとって北方 ほっぽう の最 さい 重要 じゅうよう 敵対 てきたい 国 こく として現 あらわ れ、ブルガリア・東 ひがし ローマ戦争 せんそう につながった。両 りょう 大国 たいこく は平和 へいわ と同盟 どうめい の時代 じだい も享受 きょうじゅ し、なかでも注目 ちゅうもく すべきはブルガリア軍 ぐん が包囲 ほうい 網 もう を破 やぶ ってウマイヤ朝 あさ の軍隊 ぐんたい を打 う ち破 やぶ ったコンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん であり、結果 けっか として東南 とうなん ヨーロッパへのアラブ人 じん 侵攻 しんこう を阻止 そし した。東 ひがし ローマの帝都 ていと コンスタンティノープル はブルガリア側 がわ に強 つよ い文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう を与 あた え、864年 ねん には最終 さいしゅう 的 てき なブルガリアのキリスト教化 きょうか (英語 えいご 版 ばん ) をももたらした。アヴァール 崩壊 ほうかい 後 ご のブルガリアは、北西 ほくせい のパンノニア平原 へいげん へとその領土 りょうど を広 ひろ げた。その後 ご はペチェネグ やクマン人 じん の進攻 しんこう と対決 たいけつ し、マジャル に決定的 けっていてき 勝利 しょうり を収 おさ めて彼 かれ らをパンノニア に永久 えいきゅう 的 てき に定住 ていじゅう させた。
帝国 ていこく において権力 けんりょく の座 ざ にあったブルガール人 じん とその他 た のスラヴ民族 みんぞく (トラキア人 じん )は次第 しだい に混血 こんけつ し、広 ひろ まっている古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご (古代 こだい ブルガリア語 ご )を導入 どうにゅう したことで、7世紀 せいき から10世紀 せいき にかけ徐々 じょじょ にブルガリア人 じん 国家 こっか を形成 けいせい した。10世紀 せいき 以降 いこう にはブルガリア人 じん (Bulgarian)という住民 じゅうみん の呼称 こしょう が流行 りゅうこう し、文献 ぶんけん と庶民 しょみん の言葉 ことば 遣 づか いの両面 りょうめん における地元民 じもとみん にとって不変 ふへん の名称 めいしょう となった。古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご の識字 しきじ 率 りつ 向上 こうじょう は、近隣 きんりん 文化 ぶんか への南 みなみ スラヴ人 じん の同化 どうか を防 ふせ ぐ効果 こうか を有 ゆう した一方 いっぽう 、確 たし かなブルガリア人 じん のアイデンティティ形成 けいせい を促 うなが した。
キリスト教 きりすときょう 導入 どうにゅう 後 ご 、ブルガリアはスラヴ・ヨーロッパの文化 ぶんか 的 てき 中枢 ちゅうすう となった。その一流 いちりゅう の文化 ぶんか 的 てき 地位 ちい はグラゴル文字 もじ の導入 どうにゅう に伴 ともな ってさらに強化 きょうか され、都 と のプレスラフ (英語 えいご 版 ばん ) におけるその直後 ちょくご の初期 しょき キリル文字 もじ (英語 えいご 版 ばん ) の発明 はつめい と、古 こ ブルガリア語 ご にて制作 せいさく された文学 ぶんがく は間 ま もなく北方 ほっぽう へ広 ひろ がり始 はじ めた。古 こ ブルガリア語 ご は東 ひがし ヨーロッパ の大 だい 部分 ぶぶん のリングワ・フランカ となり、古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご として知 し られるようになった。927年 ねん には、完全 かんぜん に独立 どくりつ したブルガリア総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ が公式 こうしき に認 みと められた。
9世紀 せいき 末 まつ から10世紀 せいき 初頭 しょとう の間 あいだ 、シメオン1世 せい は東 ひがし ローマに対 たい する一連 いちれん の勝利 しょうり を達成 たっせい した。その後 ご 彼 かれ は皇帝 こうてい の称号 しょうごう を認 みと められ、最大限 さいだいげん にまで自国 じこく の拡大 かくだい を進 すす めた。917年 ねん のアケロオスの戦 たたか い にて東 ひがし ローマ軍 ぐん を殲滅 せんめつ した後 のち 、ブルガリア軍 ぐん は923年 ねん と924年 ねん にコンスタンティノープルを包囲 ほうい した。東 ひがし ローマ側 がわ は最終 さいしゅう 的 てき に回復 かいふく し、1014年 ねん に「ブルガリア人殺 ひとごろ し」バシレイオス2世 せい の下 した 、クレディオンの戦 たたか い でブルガリア人 じん に完敗 かんぱい を負 お わせた。1018年 ねん までには最後 さいご のブルガリア人 じん の拠点 きょてん が東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に降伏 ごうぶく し、第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく は滅亡 めつぼう した。
ブルガリア帝国 ていこく の歴史 れきし は、講和 こうわ と戦乱 せんらん を長 なが きにわたり繰 く り返 かえ したブルガリア・東 ひがし ローマ戦争 せんそう とほとんどの時期 じき にて重 かさ なり、その初期 しょき はブルガリア独自 どくじ の神 かみ 々を信仰 しんこう していたことによる宗教 しゅうきょう 的 てき 対立 たいりつ という側面 そくめん があった。ブルガリア人 じん の起源 きげん 、トルコ系 けい ブルガール人 じん は7世紀 せいき にドナウ川 がわ 以南 いなん とバルカン山脈 さんみゃく の間 あいだ のドナウ盆地 ぼんち に定住 ていじゅう し、スラヴ人 じん と混血 こんけつ してプリスカ を都 と に第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく を築 きず いた。
アスパルフによる建国 けんこく 当初 とうしょ のブルガリア帝国 ていこく 領 りょう (黄色 おうしょく )とテルヴェルによる領土 りょうど 拡大 かくだい (橙色 だいだいいろ )
5世紀 せいき 末 すえ から6世紀 せいき 初頭 しょとう にかけてバルカン半島 ばるかんはんとう に到来 とうらい したスラヴ人 じん 諸 しょ 族 ぞく は6世紀 せいき 後半 こうはん にブルガリア地域 ちいき に定住 ていじゅう し始 はじ め、ブルガリア原住民 げんじゅうみん として知 し られるトラキア人 じん と徐々 じょじょ に混血 こんけつ していった。7世紀 せいき 末 まつ ごろになるとスラヴ人 じん 諸 しょ 族 ぞく は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく による同化 どうか 政策 せいさく とアヴァールの侵入 しんにゅう という危機 きき の板挟 いたばさ みに遭 あ うようになり、これを受 う けてバルカン半島 ばるかんはんとう の7つの諸 しょ 族 ぞく (Seven Slavic tribes )とセヴェリ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) は軍事 ぐんじ 連合 れんごう を発足 ほっそく させた。建国 けんこく 者 しゃ アスパルフ らブルガール人 じん も同 どう 時期 じき に小 しょう スキタイ(英語 えいご 版 ばん ) に侵入 しんにゅう しており、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい コンスタンティノス4世 せい は、ブルガールとスラヴが同盟 どうめい を組 く む可能 かのう 性 せい を恐 おそ れ、680年 ねん に陸軍 りくぐん をスラヴ人 じん に差 さ し向 む け、皇帝 こうてい 自 みずか らが率 ひき いるドナウ川 がわ の水軍 すいぐん はブルガール人 じん の地 ち に進軍 しんぐん した。ブルガール人 じん らはオングロスの要塞 ようさい に数日 すうじつ 間 あいだ 籠城 ろうじょう したところ、東 ひがし ローマ軍 ぐん は皇帝 こうてい が足 あし の痛 いた みを訴 うった えたことで退陣 たいじん したため、これを追撃 ついげき したブルガール人 じん は大 だい 勝利 しょうり を収 おさ めた(オングロスの戦 たたか い)。第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく の建国 けんこく は、ブルガール人 じん がこれを機 き にドナウ川 がわ を越 こ えてヴァルナ まで到達 とうたつ し、バルカンの北東 ほくとう 部 ぶ を占拠 せんきょ したこと、そしてその近辺 きんぺん に居住 きょじゅう していたスラヴ人 じん らが彼 かれ らと軍事 ぐんじ 協定 きょうてい を結 むす んだことが起源 きげん である。アスパルフを頂点 ちょうてん とするブルガール人 じん が支配 しはい 者 しゃ 層 そう に立 た った一方 いっぽう 、スラヴ人 じん 諸 しょ 族 ぞく も体制 たいせい 内 ない で独自 どくじ 性 せい を維持 いじ していた国家 こっか 連合 れんごう であった。少数 しょうすう 派 は で文化 ぶんか も遅 おく れがちだったブルガール人 じん は後 のち にスラヴ人 じん と同化 どうか し、8世紀 せいき 以降 いこう には同一 どういつ の文化 ぶんか を持 も つブルガリア人 じん となったが、主要 しゅよう な言語 げんご はスラヴ語 ご であった。翌 よく 681年 ねん の夏 なつ 、東 ひがし ローマはブルガリアと講和 こうわ 条約 じょうやく を結 むす び、アスパルフに毎年 まいとし 貢 みつぎ 納 おさめ することが取 と り決 き められたことで、ブルガール人 じん 国家 こっか は法的 ほうてき にも認 みと められた。685年 ねん には、アヴァール支配 しはい を逃 のが れたティモク川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) のスラヴ人 じん もブルガリアに合流 ごうりゅう した。
アスパルフの死後 しご はその息子 むすこ テルヴェル (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :700〜721年 ねん )が君主 くんしゅ となり、彼 かれ は705年 ねん に東 ひがし ローマ皇位 こうい を追 お われていたユスティニアノス2世 せい の復権 ふっけん を後押 あとお ししたことで、「カエサル 」の称号 しょうごう と北 きた トラキア(英語 えいご 版 ばん ) のザゴリア (英語 えいご 版 ばん ) を与 あた えられた。しかし708年 ねん 、ユスティニアノスはブルガリアとの友好 ゆうこう 関係 かんけい を捨 す ててアンキアロスの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) に挑 いど み、敗北 はいぼく した。テルヴェルはその後 ご 、711年 ねん と716年 ねん の2度 ど に及 およ びトラキアを通過 つうか してコンスタンティノープル にまで進軍 しんぐん させ、テオドシオス3世 せい と東 ひがし ローマ・ブルガリア条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) を結 むす び国境 こっきょう を画定 かくてい させた。これによってトラキア北部 ほくぶ がブルガリア側 がわ に割譲 かつじょう されたほか、経済 けいざい 的 てき な取 と 極 きょく もその条項 じょうこう に含 ふく まれた。続 つづ く717年 ねん のコンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん では、ブルガリアは東 ひがし ローマから莫大 ばくだい な報酬 ほうしゅう を得 え ることで同盟 どうめい を組 く み、テルヴェル指揮 しき の下 した にウマイヤ朝 あさ の攻勢 こうせい を撃退 げきたい した。
内情 ないじょう 不安 ふあん と生存 せいぞん 競争 きょうそう [ 編集 へんしゅう ]
セヴァル (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :738〜753年 ねん )の死 し とともにドゥロ家 か (英語 えいご 版 ばん ) は滅亡 めつぼう し、ブルガリアは国 くに が破滅 はめつ の淵 ふち にある長 なが い政治 せいじ 的 てき 危機 きき に陥 おちい った。15年 ねん の間 あいだ に7人 にん の君主 くんしゅ が治 おさ めたが、その全員 ぜんいん が殺害 さつがい された。この時代 じだい の残存 ざんそん 史料 しりょう は東 ひがし ローマのもののみであり、ブルガリアにおけるその後 ご の政情 せいじょう 不安 ふあん を東 ひがし ローマ側 がわ の視点 してん のみから示 しめ す[ 18] 。それらの史料 しりょう は、755年 ねん まで支配 しはい 的 てき であった東 ひがし ローマとの平和 へいわ 的 てき 関係 かんけい を求 もと める派閥 はばつ と好戦 こうせん 的 てき な派閥 はばつ が権力 けんりょく 闘争 とうそう をしていると記 しる す[ 18] 。史料 しりょう は東 ひがし ローマとの関係 かんけい をこの内部 ないぶ 抗 こう 争 そう の主要 しゅよう な問題 もんだい として示 しめ し、ブルガリアの支配 しはい 者 しゃ 層 そう にとってより重要 じゅうよう であった可能 かのう 性 せい のある他 ほか の理由 りゆう には触 ふ れていない[ 18] 。政治 せいじ 的 てき に支配 しはい するブルガール人 じん とより多数 たすう 派 は のスラヴ人 じん の関係 かんけい がこの争 あらそ いの主要 しゅよう 課題 かだい であったとされるが、対立 たいりつ 派閥 はばつ の目的 もくてき についての証拠 しょうこ はない[ 19] 。
一方 いっぽう 、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい コンスタンティノス5世 せい は755年 ねん から反 はん ブルガリア政策 せいさく を打 う ち出 だ したことで国境 こっきょう 地帯 ちたい での要塞 ようさい 建設 けんせつ と貢 みつぎ 納 おさめ 停止 ていし が命 めい じられ、20年 ねん 近 ちか くの間 あいだ に9度 ど ものブルガリア遠征 えんせい が実施 じっし された。コンスタンティノスはこの際 さい 、要塞 ようさい 付 つ きの国境 こっきょう 地帯 ちたい にシリア人 じん やアルメニア人 じん のキリスト教徒 きりすときょうと を移住 いじゅう させたが、その要塞 ようさい の貢 みつぎ 納金 のうきん 要求 ようきゅう をブルガリアが拒否 きょひ した756年 ねん にはマルケラエの戦 たたか い (756年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) が勃発 ぼっぱつ し、ブルガリア側 がわ は敗北 はいぼく したもののコンスタンティノープル付近 ふきん まで攻 せ め込 こ んだ。東 ひがし ローマ軍 ぐん はバルカン山脈 さんみゃく 以北 いほく には進 すす めず、その戦果 せんか も限定 げんてい 的 てき なものであった一方 いっぽう 、防戦 ぼうせん に甘 あま んじていたブルガリア側 がわ はこの戦役 せんえき が落 お ち着 つ くとテレリグ (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :768〜777年 ねん )の下 した で反撃 はんげき に転 てん じた。テレリグは774年 ねん にスラヴ人 じん のベルジティ (英語 えいご 版 ばん ) という部族 ぶぞく に12,000人 にん を派兵 はへい し、この部族 ぶぞく を彼 かれ らと合同 ごうどう させて東 ひがし ローマに抗戦 こうせん させようと試 こころ みた。これは東 ひがし ローマ側 がわ の注意 ちゅうい をバルカン西部 せいぶ に向 む かわせるとともに、全 ぜん スラヴ人 じん をブルガリア帝国 ていこく に内包 ないほう しようとする建国 けんこく 以来 いらい の政策 せいさく でもあったが、テレリグは国内 こくない の反対 はんたい 勢力 せいりょく に謀 はか られたためコンスタンティノープルに亡命 ぼうめい し、現地 げんち でキリスト教徒 きりすときょうと となって東 ひがし ローマ皇族 こうぞく と結婚 けっこん した。彼 かれ の後継 こうけい となったカルダム (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :777〜803年 ねん )の治世 ちせい には内紛 ないふん も収 おさ まり、789年 ねん にはストルマ川 がわ 流域 りゅういき の東 ひがし ローマ軍 ぐん を追放 ついほう し、792年 ねん のマルケラエの戦 たたか い (792年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) でも東 ひがし ローマ軍 ぐん を圧倒 あっとう した。
クルム (在位 ざいい :803〜814年 ねん )はカルダムの政策 せいさく を継承 けいしょう しつつ、フランク王国 おうこく に敗 やぶ れ弱体 じゃくたい 化 か したアヴァール領 りょう の一部 いちぶ を獲得 かくとく することで、北西 ほくせい はティサ川 がわ 、北 きた はカルパチア山脈 さんみゃく 、北東 ほくとう はドニエストル川 がわ まで拡大 かくだい することに成功 せいこう した。ブルガリア軍 ぐん は808年 ねん にストルマ川 がわ 流域 りゅういき を再度 さいど 攻撃 こうげき し、その翌年 よくねん のセルディカ包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) にも勝利 しょうり した。
プリスカの戦 たたか いにて、クルムは東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ニケフォロス1世 せい を破 やぶ った。
プリスカの戦 たたか い後 ご 、クルムはニケフォロスの頭蓋骨 ずがいこつ で作 つく られた盃 さかずき を堪能 たんのう した。
809年 ねん にクルムがセルディカ (英語 えいご 版 ばん ) を占拠 せんきょ すると、東 ひがし ローマのニケフォロス1世 せい はその2年 ねん 後 ご にブルガリアへ進軍 しんぐん し、講和 こうわ を求 もと めるクルムの使者 ししゃ を無視 むし して都 と のプリスカを占拠 せんきょ した。その後 ご 宮廷 きゅうてい にあった財宝 ざいほう が略奪 りゃくだつ された後 のち 、東 ひがし ローマ軍 ぐん は都市 とし 全体 ぜんたい に放火 ほうか した。しかし、そこからバルカン山脈 さんみゃく を通過 つうか した際 さい の帰投 きとう 途中 とちゅう 、ブルガリア軍 ぐん の奇襲 きしゅう に遭 あ った東 ひがし ローマ軍 ぐん はプリスカの戦 たたか い にて全滅 ぜんめつ させられ、ニケフォロスの頭蓋骨 ずがいこつ は銀 ぎん の盃 さかずき となり、クルムはトラキア地方 ちほう に自由 じゆう に出入 でい りできるようになった。クルムは716年 ねん の条約 じょうやく に加 くわ えて更 さら なる講和 こうわ を結 むす ぼうと持 も ちかけたが拒否 きょひ されたため、812年 ねん に東 ひがし ローマ侵攻 しんこう を開始 かいし してメセンブリア やセルディカをはじめとする各 かく 都市 とし を次々 つぎつぎ と制圧 せいあつ した。翌年 よくねん のヴェルシニキアの戦 たたか い でも圧勝 あっしょう してコンスタンティノープルを包囲 ほうい し、トラキア東部 とうぶ はブルガリアにより荒 あ らされ、アドリアノープル市民 しみん はドナウ・デルタ の北 きた に強制 きょうせい 移住 いじゅう させられた。しかし、同年 どうねん に即位 そくい した東 ひがし ローマ皇帝 こうてい レオーン5世 せい がメセンブリアで勝利 しょうり したことで、コンスタンティノープルの包囲 ほうい には終止符 しゅうしふ を打 う たれた。クルムはブルガリアに戻 もど ると814年 ねん に死亡 しぼう したが、彼 かれ の遠征 えんせい は多 おお くのスラヴ人 じん 地域 ちいき を自国 じこく に組 く み入 い れることに成功 せいこう したほか、ブルガール人 じん とスラヴ人 じん を対等 たいとう な地位 ちい として、ブルガリアをスラヴ化 か させて単一 たんいつ 民族 みんぞく の共同 きょうどう 体 たい を作 つく ろうとした。
クルムの息子 むすこ オムルタグ (在位 ざいい :814〜831年 ねん )はクルム治世 ちせい 下 か の戦争 せんそう を精算 せいさん するため、黒海 こっかい 沿岸 えんがん のデベルト (英語 えいご 版 ばん ) からマリツァ川 がわ 、バルカン山脈 さんみゃく の山頂 さんちょう を通過 つうか してマクロリヴァダ要塞 ようさい までを国境 こっきょう とする30年間 ねんかん の有限 ゆうげん 条約 じょうやく を815年 ねん に結 むす んだ。彼 かれ によって翌 よく 816年 ねん に結 むす ばれた講和 こうわ 条約 じょうやく では、コンスタンティノープルにおける関税 かんぜい 率 りつ 減免 げんめん という貿易 ぼうえき 特権 とっけん と多額 たがく の賠償金 ばいしょうきん 支払 しはら いが取 と り決 き められ、両国 りょうこく 間 あいだ にはしばらく平和 へいわ な時期 じき が訪 おとず れた。818年 ねん になると、ブルガリア北西 ほくせい に居住 きょじゅう していた2つのスラヴ民族 みんぞく が反旗 はんき を翻 ひるがえ しフランク王国 おうこく の援助 えんじょ を求 もと めたため、827年 ねん から829年 ねん にかけて彼 かれ らを鎮圧 ちんあつ し従属 じゅうぞく させた。北東 ほくとう 部 ぶ ではハザール との戦闘 せんとう が起 お きてドニエプル川 がわ まで進軍 しんぐん した。オムルタグはキリスト教 きりすときょう の普及 ふきゅう により東 ひがし ローマの影響 えいきょう が広 ひろ まることを恐 おそ れていたため、東 ひがし ローマ軍 ぐん の捕虜 ほりょ には残虐 ざんぎゃく な対応 たいおう をし、キリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう した息子 むすこ からは相続 そうぞく 権 けん を剥奪 はくだつ した。彼 かれ はまた、焼 や き討 う ちされたプリスカとその宮廷 きゅうてい を再建 さいけん させて石造 せきぞう の城壁 じょうへき で守 まも らせ、カムチヤ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) やドナウ川 がわ 沿 ぞ いに離宮 りきゅう を設 もう けた。彼 かれ は貴族 きぞく 層 そう などの権力 けんりょく を退 しりぞ け中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か を進 すす めて法 ほう 制度 せいど の確立 かくりつ にも努 つと めたほか、トゥンジャ渓谷 けいこく 、シンジドゥナム(ベオグラード)、マケドニアなどに領土 りょうど を広 ひろ げるなどの功績 こうせき を残 のこ し、結果 けっか として歴代 れきだい 君主 くんしゅ のなかで彼 かれ に関 かん する碑文 ひぶん が最 もっと も多 おお く残 のこ されている。
オムルタグの後 のち を継 つ いだ末子 すえこ マラミル (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :831〜836年 ねん )と共同 きょうどう 統治 とうち 者 しゃ イスブル (英語 えいご 版 ばん ) の治世 ちせい 下 か には、30年 ねん 条約 じょうやく に違反 いはん した東 ひがし ローマの侵攻 しんこう が起 お きたため、ブルガリア軍 ぐん はプロバトゥム、ブルディズス、フィリッポポリスといった要塞 ようさい 地域 ちいき を陥落 かんらく させてトラキア北部 ほくぶ および東部 とうぶ の多 おお くを占拠 せんきょ した。マラミルの甥 おい プレシアン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :836〜852年 ねん )の時代 じだい には東 ひがし ローマ統治 とうち 下 か のスラヴ人 じん が反乱 はんらん を起 お こし、ブルガリア側 がわ がその一部 いちぶ 族 ぞく を支援 しえん して東 ひがし ローマ軍 ぐん に勝利 しょうり したほか、南西 なんせい バルカンのスラヴ人 じん をブルガリアに内包 ないほう した。
洗礼 せんれい を受 う けるボリス1世 せい とその臣下 しんか 。ニコライ・パヴロヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) による絵画 かいが
プレシアンの後継 こうけい ボリス1世 せい (在位 ざいい :852〜889年 ねん )の時代 じだい には版図 はんと を大 おお きく広 ひろ げ、まず治世 ちせい 初期 しょき のスラヴ人 じん をめぐる東 ひがし ローマとの相次 あいつ ぐ戦闘 せんとう の結果 けっか として、856年 ねん の条約 じょうやく でロドピ山脈 さんみゃく とマケドニア地域 ちいき の領土 りょうど を認 みと めさせた。853年 ねん にはモラヴィア王国 おうこく のラスチスラフ や西 にし フランク王国 おうこく のシャルル2世 せい と同盟 どうめい を組 く み、クロアチア公国 こうこく と東 あずま フランク王国 おうこく に対 たい する戦役 せんえき を開始 かいし したが失敗 しっぱい した。ボリス1世 せい が東 あずま フランク王国 おうこく のルートヴィヒ2世 せい との同盟 どうめい を結 むす んだ後 のち の862年 ねん 、東 あずま フランクとブルガリアに挟 はさ まれたモラヴィア は両国 りょうこく に分割 ぶんかつ されることを恐 おそ れて東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に救援 きゅうえん を依頼 いらい し、東 ひがし ローマから布教 ふきょう も兼 か ねて宣教師 せんきょうし が送 おく られたがこの試 こころ みは失敗 しっぱい に終 お わった。しかし、国力 こくりょく が安定 あんてい 期 き に入 はい っていた東 ひがし ローマ側 がわ は864年 ねん に陸海 りくかい 軍 ぐん を国境 こっきょう 付近 ふきん へ投入 とうにゅう した一方 いっぽう 、当時 とうじ 飢饉 ききん に遭 あ っていたブルガリアは講和 こうわ を求 もと め、この申 もう し入 い れが受理 じゅり された。戦端 せんたん を開 ひら かない条件 じょうけん として、東 ひがし ローマはブルガリアに対 たい し、東 あずま フランクとの同盟 どうめい 破棄 はき とキリスト教 きょう 受容 じゅよう を求 もと め、後 のち にプリスカへ主教 しゅきょう が送 おく られてボリス1世 せい が洗礼 せんれい を受 う けることとなった。その洗礼 せんれい においては、ボリスが東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ミカエル3世 せい を代 だい 父 ちち を認 みと めることで、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく を宗主 そうしゅ として受 う け入 い れることとなった。彼 かれ は後 のち に退位 たいい して修道 しゅうどう 士 し になったほど敬虔 けいけん なキリスト教徒 きりすときょうと であり、ブルガリア貴族 きぞく のなかにも改宗 かいしゅう 者 しゃ はいたが、国内 こくない での東 ひがし ローマの影響 えいきょう が及 およ ぶことへの反発 はんぱつ も根強 ねづよ かったため、勃発 ぼっぱつ した反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ しプリスカがコンスタンティノープルから独立 どくりつ した総 そう 主教 しゅきょう を有 ゆう する形 かたち になるよう東 ひがし ローマ側 がわ へ申 もう し出 で た。これが棄却 ききゃく されたボリスはローマ教皇 きょうこう に新 あら たな宣教師 せんきょうし を送 おく るよう要請 ようせい したが、ブルガリア教会 きょうかい に対 たい する教皇 きょうこう の姿勢 しせい が東 ひがし ローマのものとあまり変 か わらなかったこともあり、結局 けっきょく は870年 ねん に広範 こうはん な自治 じち 権 けん を行使 こうし できる大 だい 主教 しゅきょう という妥協 だきょう 策 さく に甘 あま んじることとなった。
こうして本格 ほんかく 化 か したブルガリアのキリスト教化 きょうか の結果 けっか として東 ひがし ローマの属 ぞく 州 しゅう 由来 ゆらい の果樹 かじゅ が持 も ち込 こ まれたほか、スラヴ文字 もじ を簡略 かんりゃく 化 か したキリル文字 もじ が発明 はつめい された。キリル文字 もじ はブルガリアがギリシア人 じん やフランク人 じん に吸収 きゅうしゅう されることを妨 さまた げ、ブルガリア特有 とくゆう の文化 ぶんか を発展 はってん させる要因 よういん になった。また、オフリド はギリシア語 ご 文献 ぶんけん が翻訳 ほんやく されるスラヴ=キリスト教 きりすときょう 文化 ぶんか の中核 ちゅうかく として栄 さか え、東 ひがし ローマ様式 ようしき の教会 きょうかい がブルガリア各地 かくち に新設 しんせつ されるなど、ブルガリア帝国 ていこく は東 ひがし ローマ文化 ぶんか 圏 けん に取 と り込 こ まれた。キリスト教 きょう 導入 どうにゅう 以前 いぜん のブルガリアは「文明 ぶんめい 世界 せかい 」たるヨーロッパにおいて珍 めずら しく支配 しはい 者 しゃ 層 そう が未 いま だ異教 いきょう 信者 しんじゃ であったという特徴 とくちょう を有 ゆう し、既 すで にキリスト教化 きょうか が進 すす んでいた被 ひ 支配 しはい 者 しゃ 層 そう のスラヴ人 じん との間 あいだ の溝 みぞ が浮 う き彫 ぼ りになってきた点 てん も問題 もんだい 化 か していた。8世紀 せいき から9世紀 せいき の間 あいだ に領土 りょうど 拡大 かくだい を推 お し進 すす めたことで多 おお くのキリスト教徒 きりすときょうと の人民 じんみん がブルガリアに内包 ないほう され、捕虜 ほりょ として連行 れんこう された敵 てき 兵 へい もまたキリスト教徒 きりすときょうと であったため、異教 いきょう のブルガール人 じん は少数 しょうすう 派 は として追 お いやられていたのである。しかしボリスによる改宗 かいしゅう の結果 けっか 、スラヴ人 じん はキリスト教 きりすときょう 国家 こっか となったブルガリアを容易 ようい に受容 じゅよう できるようになった一方 いっぽう 、ブルガール人 じん もキリスト教 きりすときょう に異教 いきょう としての見方 みかた や懸念 けねん を持 も たなくなり、10世紀 せいき には両 りょう 民族 みんぞく の垣根 かきね を越 こ えて「ブルガリア人 じん 」が誕生 たんじょう した。ブルガリア教会 きょうかい が典礼 てんれい 語 ご として用 もち いるようになった古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご は、893年 ねん にブルガリア帝国 ていこく の公式 こうしき 語 ご となることが立法 りっぽう により定 さだ められた。
同 おな じく870年 ねん には、ボリスの息子 むすこ ヴラディーミル が軍隊 ぐんたい とともにセルビア公国 こうこく (中世 ちゅうせい 初期 しょき ) (英語 えいご 版 ばん ) へ侵攻 しんこう したが、返 かえ り討 う ちにされ捕虜 ほりょ となったため、ブルガリアは講和 こうわ を結 むす ぶことを余儀 よぎ なくされた。
ボリスは889年 ねん に退位 たいい して修道 しゅうどう 士 し となり、息子 むすこ ヴラディーミル(在位 ざいい :889〜893年 ねん )が即位 そくい したが、彼 かれ は東 ひがし ローマとの親交 しんこう よりも893年 ねん に東 あずま フランクのアルヌルフ と同盟 どうめい することを優先 ゆうせん し、さらにはキリスト教 きりすときょう ではない異教 いきょう を支援 しえん した。このためボリスは修道院 しゅうどういん を出 で てクーデターを画策 かくさく し、ヴラディーミルを追放 ついほう してシメオン1世 せい (在位 ざいい :893〜927年 ねん )を即位 そくい させた。コンスタンティノープルに留学 りゅうがく した経緯 けいい を持 も ち中世 ちゅうせい ギリシア語 ご を話 はな せたシメオンは、東 ひがし ローマにとっての脅威 きょうい であるとともに同国 どうこく を敬愛 けいあい していた。彼 かれ はプレスラフに遷都 せんと し、コンスタンティノープルを手本 てほん に城壁 じょうへき や教会 きょうかい のある都市 とし と宮廷 きゅうてい を建造 けんぞう させたほか、キリスト教 きょう の普及 ふきゅう に努 つと めてスラヴ語 ご を教会 きょうかい 語 ご および国語 こくご 化 か した。彼 かれ はその治世 ちせい において度々 どど 東 ひがし ローマとの戦端 せんたん を開 ひら き、多 おお くの戦闘 せんとう で勝利 しょうり を収 おさ めたが、コンスタンティノープルの制圧 せいあつ には至 いた らなかった。
第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく はシメオン1世 せい の下 した で最大 さいだい の版図 はんと を獲得 かくとく した。
アルフォンス・ミュシャ 作 さく のThe Morning Star of Slavonic Literatureに描 えが かれた皇帝 こうてい シメオン
シメオンがブルガリア・東 ひがし ローマ戦争 せんそう (894-896年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) を開始 かいし した一因 いちいん として、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい レオーン6世 せい がブルガリアの商品 しょうひん 取引 とりひき をコンスタンティノープルからサロニカ(テッサロニキ )へ移動 いどう させたことで、ブルガリア商人 しょうにん の利益 りえき が損 そこ なわれた点 てん が挙 あ げられている。それに対 たい するシメオンの改善 かいぜん 要求 ようきゅう は無視 むし されたため894年 ねん に東 ひがし トラキアに派兵 はへい した一方 いっぽう 、東 ひがし ローマ側 がわ はハンガリーのマジャル人 じん と手 て を結 むす んで反撃 はんげき した。シメオンは和平 わへい 交渉 こうしょう にて時間 じかん を稼 かせ ぐ間 あいだ 、マジャル人 じん の東方 とうほう のペチェネグ と同盟 どうめい しハンガリーを挟 はさ み撃 う ちにすることでブルガロフュゴンの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) などに勝利 しょうり し、貢 みつぎ 納金 のうきん とトラキアを戦利 せんり 品 ひん として得 え た。904年 ねん の講和 こうわ 条約 じょうやく ではこのほか、ブルガリア軍 ぐん が占領 せんりょう したストランジャ山脈 さんみゃく (英語 えいご 版 ばん ) 以南 いなん 、アルバニアの大 だい 部分 ぶぶん の領有 りょうゆう が認 みと められ、結果 けっか としてブルガリアの国境 こっきょう はサロニカの北 きた わずか20キロに達 たっ した。ブルガリア・東 ひがし ローマ戦争 せんそう が一旦 いったん 落 お ち着 つ くと都 と のプレスラフではブルガリア特有 とくゆう の文化 ぶんか が花開 はなひら き、シメオンは多 おお くの文学 ぶんがく 者 しゃ を宮殿 きゅうでん に招待 しょうたい した一方 いっぽう 、この黄金 おうごん 時代 じだい には東 ひがし ローマのみならずヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく との貿易 ぼうえき にもよって大 おお きな繁栄 はんえい を享受 きょうじゅ できるようになった。貿易 ぼうえき 特権 とっけん における貢 みつぎ 納金 のうきん が滞 とどこお った913年 ねん には、彼 かれ はコンスタンティノープルにまで進撃 しんげき し(ブルガリア・東 ひがし ローマ戦争 せんそう (913-927年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) )、彼 かれ の娘 むすめ とコンスタンティノス7世 せい を結婚 けっこん させること、コンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう による皇帝 こうてい としての戴冠 たいかん を要求 ようきゅう した。この際 さい シメオンが金銭 きんせん や領地 りょうち よりも戴冠 たいかん を希望 きぼう したのは、彼 かれ が東 ひがし ローマの価値 かち 観 かん に影響 えいきょう されて国王 こくおう よりも上位 じょうい に立 た ちたいと考 かんが え、またそれを理解 りかい していた証拠 しょうこ であった。コンスタンティノープル城壁 じょうへき 外 がい で開催 かいさい された戴冠 たいかん 式 しき 以降 いこう 、シメオンはハーンではなくツァーリ (皇帝 こうてい )を自称 じしょう し、その印章 いんしょう にも「バシレウス」という東 ひがし ローマ人 じん による皇帝 こうてい の呼称 こしょう を使 つか った。
キリスト教徒 きりすときょうと を虐殺 ぎゃくさつ するブルガリア兵 へい (10世紀 せいき )
しかし914年 ねん 、それを屈辱 くつじょく 的 てき と見 み なした東 ひがし ローマ貴族 きぞく により条約 じょうやく が破棄 はき されたため、ブルガリア軍 ぐん は再度 さいど トラキア東部 とうぶ に侵攻 しんこう してアドリアノープルなどの要塞 ようさい を占拠 せんきょ した。917年 ねん 、レオン・フォカス (英語 えいご 版 ばん ) の陸軍 りくぐん はブルガリア国境 こっきょう へ、後 のち に東 ひがし ローマ皇帝 こうてい となるロマノス1世 せい レカペノス の海軍 かいぐん はペチェネグを派兵 はへい するために黒海 こっかい からドナウ・デルタに進軍 しんぐん した。しかし、ペチェネグのみならずマジャルもブルガリアと同盟 どうめい しており、東 ひがし ローマ軍 ぐん はアケロオスの戦 たたか い で連合 れんごう 軍 ぐん に惨敗 ざんぱい させられた。この結果 けっか 、シメオンはコリントス湾 わん までのバルカン半島 ばるかんはんとう 全域 ぜんいき を獲得 かくとく し、コンスタンティノープル占領 せんりょう をも目指 めざ してファーティマ朝 あさ との同盟 どうめい 締結 ていけつ を試 こころ みたが、これには失敗 しっぱい した。この同盟 どうめい の企図 きと には、陸上 りくじょう からではコンスタンティノープルを落 お とせないブルガリアは充分 じゅうぶん な海軍 かいぐん 力 りょく を有 ゆう していなかったため、強力 きょうりょく な海軍 かいぐん を擁 よう するファーティマ朝 あさ に接近 せっきん したかったという事情 じじょう があった。924年 ねん にはロマノス・レカペノスがシメオンと講和 こうわ を結 むす び、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい の下 もと という条件 じょうけん で彼 かれ の皇帝 こうてい 位 い を承認 しょうにん することとなり、彼 かれ は「ブルガリア人 じん とローマ人 じん の皇帝 こうてい 」を自称 じしょう した。一方 いっぽう シメオンは、917年 ねん にセルビアにも侵攻 しんこう してそのペタル・ゴイニコヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) を捕 と らえたため(ブルガリア・セルビア戦争 せんそう (917-924年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) )、新 あら たな公 おおやけ 位 い にはパヴレ・ブラノヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) が即位 そくい した。東 ひがし ローマはパヴレをブルガリアに向 む けさせたため、シメオンは921年 ねん にパヴレを退位 たいい させてザハリエ・プリビスラヴレヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) を即位 そくい させたが、ザハリエはシメオンとの同盟 どうめい を破棄 はき した。ブルガリア軍 ぐん はチャスラヴ・クロニミロヴィチ を擁立 ようりつ して924年 ねん にセルビアを制圧 せいあつ 、ザハリエは脱 だっ したが、逃亡 とうぼう 先 さき のクロアチア王 おう トミスラヴ が援軍 えんぐん を派遣 はけん したことでブルガリア側 がわ は撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた。
926年 ねん にはシメオンがブルガリア大 だい 主教 しゅきょう を総 そう 主教 しゅきょう に格上 かくあ げし、ブルガリア正教会 せいきょうかい をコンスタンティノープルから独立 どくりつ させたが、その翌年 よくねん に死亡 しぼう しペタル1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :927〜968年 ねん )が即位 そくい した後 のち も、東 ひがし ローマ側 がわ はペタルも皇帝 こうてい と扱 あつか い毎年 まいとし のように黄金 おうごん を贈 おく った。これにより、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく にとってのキリスト教 きりすときょう 国 こく の序列 じょれつ において、ブルガリアは特殊 とくしゅ な地位 ちい にあると見 み なされるようになり、晩餐 ばんさん 会 かい などでは名誉 めいよ な席次 せきじ が割 わ り当 あ てられた。また、ブルガリア帝国 ていこく は安全 あんぜん 保障 ほしょう を獲得 かくとく しつつも、東 ひがし ローマの統治 とうち 下 か には加 くわ わらないことを宣言 せんげん し、東 ひがし ローマ側 がわ も全 ぜん キリスト教徒 きりすときょうと を保護 ほご する皇帝 こうてい を頂点 ちょうてん に置 お くという政治 せいじ 理論 りろん を理屈 りくつ づけした。40年間 ねんかん という期限 きげん 付 つ きの講和 こうわ 条約 じょうやく が再 ふたた び結 むす ばれたことでこうした見返 みかえ りを得 え たブルガリアであったが、912年 ねん 以降 いこう に獲得 かくとく した領土 りょうど については返還 へんかん し904年 ねん の条約 じょうやく に基 もと づいて国境 こっきょう が画定 かくてい された。しかし、シメオンに忠実 ちゅうじつ だった派閥 はばつ の間 あいだ では不満 ふまん が生 しょう じており、彼 かれ の息子 むすこ ヨアンやミハイル (英語 えいご 版 ばん ) などが反乱 はんらん を引 ひ き起 お こしたため国力 こくりょく は弱 よわ まり、943年 ねん ごろには北西 ほくせい のマジャルと北東 ほくとう のペチェネグの侵略 しんりゃく に晒 さら された。
ブルガリア帝国 ていこく の弱体 じゃくたい 化 か はマジャルや東 ひがし ローマなどとの継続 けいぞく 的 てき な戦役 せんえき という外的 がいてき 要因 よういん 、そして以下 いか のような国内 こくない での格差 かくさ 拡大 かくだい という内的 ないてき 要因 よういん が生 う んだものである。シメオン死後 しご のブルガリアでは皇帝 こうてい の権威 けんい 低下 ていか に伴 ともな って貴族 きぞく が土地 とち 所有 しょゆう 量 りょう を増 ふ やし、農民 のうみん への圧力 あつりょく が高 たか まったため彼 かれ らが政府 せいふ と教会 きょうかい に反乱 はんらん を起 お こすことがあり、パウロ派 は やボゴミル派 は の教義 きょうぎ の普及 ふきゅう がこれらの反乱 はんらん を後押 あとお ししていた。また、9世紀 せいき 後半 こうはん から10世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけてのブルガリア社会 しゃかい では階層 かいそう 化 か が進行 しんこう し、特権 とっけん を持 も つ聖職 せいしょく 者 しゃ や貴族 きぞく と重税 じゅうぜい や強制 きょうせい 労働 ろうどう に喘 あえ ぐ農民 のうみん との間 あいだ で格差 かくさ が拡大 かくだい していた。教会 きょうかい が君主 くんしゅ に奉仕 ほうし したことでその腐敗 ふはい も顕著 けんちょ になり、聖職 せいしょく 者 しゃ らの言行 げんこう に差異 さい が出 で てきたことが階級 かいきゅう 闘争 とうそう を煽 あお り、社会 しゃかい の不正 ふせい を糾弾 きゅうだん するボゴミル派 は のような異端 いたん を生 しょう じさせたのである。ボゴミル派 は の善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん では皇帝 こうてい やその従者 じゅうしゃ を神 かみ に嫌 きら われる存在 そんざい とし、腐敗 ふはい した教会 きょうかい の公的 こうてき な教義 きょうぎ や典礼 てんれい を否定 ひてい したため、国家 こっか や教会 きょうかい にとっての脅威 きょうい であった。
皇帝 こうてい ボリス2世 せい の肖像 しょうぞう 画 が
963年 ねん 、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい にニケフォロス2世 せい フォカス が即位 そくい するとペタルは条約 じょうやく を更新 こうしん したが、息子 むすこ のボリス2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) とロマン (英語 えいご 版 ばん ) を人質 ひとじち としてコンスタンティノープルに送 おく らされた。上述 じょうじゅつ の皇帝 こうてい 位 い 承認 しょうにん には、ブルガリアがトルコ系 けい 民族 みんぞく の侵入 しんにゅう を防 ふせ ぐことも期待 きたい されていたが、ペタルはそのための防衛 ぼうえい 力 りょく を行使 こうし しないどころか965年 ねん にマジャルと協定 きょうてい を結 むす び、マジャルはブルガリアを侵略 しんりゃく しない代 か わりにその東 ひがし ローマ進軍 しんぐん 時 じ のブルガリア通過 つうか を認 みと められた。これを受 う けた東 ひがし ローマ側 がわ は翌 よく 966年 ねん にブルガリアに侵攻 しんこう したが失敗 しっぱい したため、報酬 ほうしゅう を前払 まえばら いしてキエフ大公 たいこう 国 こく のスヴャトスラフ1世 せい に攻撃 こうげき させ(スヴャトスラフ1世 せい のブルガリア侵攻 しんこう )、ブルガリアは都 と のプレスラフを落 お とされた。病床 びょうしょう についたペタルに代 か わり即位 そくい したボリス2世 せい (在位 ざいい :969〜971年 ねん )は東 ひがし ローマに支援 しえん を請 こ うたが返信 へんしん がなかったため、逆 ぎゃく にスヴャトスラフと結託 けったく して東 ひがし ローマを攻撃 こうげき することとなった。しかしマジャルとペチェネグも巻 ま き込 こ んだにもかかわらず、連合 れんごう 軍 ぐん は970年 ねん のアルカディオポリスの戦 たたか い にて東 ひがし ローマに破 やぶ られた。翌 よく 971年 ねん 、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ヨハネス1世 せい ツィミスケス はバルカン山脈 さんみゃく を通過 つうか してプレスラフを落 お としブルガリアを降伏 ごうぶく させ、3ヵ月 かげつ に及 およ んだドゥロストロン要塞 ようさい 包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) でもスヴャトスラフのキエフ軍 ぐん から講和 こうわ 条約 じょうやく を引 ひ き出 だ した。隣国 りんごく に異教徒 いきょうと のロシア人 じん が居座 いすわ ることを吉 きち としなかった東 ひがし ローマ側 がわ は、ボリス2世 せい を救出 きゅうしゅつ しキエフ軍 ぐん を撃退 げきたい したが、ドナウ川 がわ 以南 いなん が元来 がんらい 東 ひがし ローマ領 りょう であったことを口実 こうじつ に彼 かれ はコンスタンティノープルへ連行 れんこう された。ブルガリア東部 とうぶ のモエシア は東 ひがし ローマの属 ぞく 州 しゅう となり、ドナウ川 がわ 北岸 ほくがん は西 にし メソポタミアという行政 ぎょうせい 単位 たんい となった。先代 せんだい による数々 かずかず の戦役 せんえき とも相 あい まって国力 こくりょく が疲弊 ひへい していたブルガリアは、こうして一時 いちじ 東 ひがし ローマの従属 じゅうぞく 国 こく となった。同 どう 971年 ねん に東 ひがし ローマとキエフ・ルーシが締結 ていけつ した条約 じょうやく ではボリス2世 せい の退位 たいい が決 き められ、ブルガリア教会 きょうかい は再 ふたた びコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の麾下 きか に入 はい った。
コメトプリ治世 ちせい 下 か のブルガリア領 りょう (緑 みどり )
戦乱 せんらん を免 まぬか れたブルガリア西部 せいぶ では捕虜 ほりょ となった皇族 こうぞく に代 か わって教会 きょうかい が権力 けんりょく 者 しゃ となり、コメス(伯爵 はくしゃく )ニコラス (英語 えいご 版 ばん ) の息子 むすこ らであったダヴィド、モセス、アアロン 、サムイル の4名 めい が統治 とうち した。976年 ねん 、コメトプリ (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる彼 かれ ら4名 めい は東 ひがし ローマに対 たい して戦端 せんたん を開 ひら き、最後 さいご に生 い き残 のこ ったサムイル(在位 ざいい :976〜1014年 ねん )が君主 くんしゅ となった(都 と :オフリド )。サムイルはバシレイオス2世 せい 率 ひき いる東 ひがし ローマ軍 ぐん を撃破 げきは し、ヘラスおよびペロポネソス地方 ちほう の軍事 ぐんじ 拠点 きょてん を次々 つぎつぎ と破壊 はかい していった。985年 ねん にラリサ を占拠 せんきょ した際 さい には「ブルガリア人 じん の皇帝 こうてい 」として戴冠 たいかん 式 しき を催 もよお し、その影響 えいきょう として現代 げんだい のブルガリア各地 かくち では彼 かれ の名 な を借 か りた街道 かいどう 名 めい が見 み られる。986年 ねん にはバシレイオスが反撃 はんげき を開始 かいし したがトラヤヌスの門 もん の戦 たたか い やセルディカ包囲 ほうい には失敗 しっぱい し、サムイルにブルガリア東部 とうぶ を攻撃 こうげき された。ブルガリア側 がわ は、バシレイオスから991年 ねん からの4年間 ねんかん にわたり毎年 まいとし 戦闘 せんとう を仕掛 しか けられたが、サムイルは995年 ねん にデュラキウムを、996年 ねん にはサロニカ、テッサリア 、ボイオーティア 、アッティカ を落 お とし、ペロポネソス半島 はんとう にまで到達 とうたつ した。しかし、997年 ねん のスペルヒオス川 がわ の戦 たたか い ではニケフォロス・ウラノス (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる東 ひがし ローマ軍 ぐん に敗 やぶ れた。東 ひがし ローマ側 がわ は南方 なんぽう のイスラム勢力 せいりょく に対抗 たいこう する必要 ひつよう が出 で てきたためにここで休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が結 むす ばれ、ブルガリア側 がわ は998年 ねん までの間 あいだ にセルビアに侵攻 しんこう しアドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん 部 ぶ 、ボスニア、そしてラシュカ を制圧 せいあつ した。
クレディオンの戦 たたか いでサムイル軍 ぐん を追 つい 走 はし する東 ひがし ローマ軍 ぐん (上 うえ )とサムイルの死 し (下 した )
ムスリムとの戦闘 せんとう が落 お ち着 つ いた東 ひがし ローマ側 がわ は1001年 ねん から攻撃 こうげき を再開 さいかい し、プレスラフ、プリスカ、ドゥロストロン、テッサリアを次々 つぎつぎ に占拠 せんきょ してブルガリア南部 なんぶ の要塞 ようさい も陥落 かんらく させた。1002年 ねん にはドナウ川 がわ 沿 ぞ いのヴィディン 要塞 ようさい を8ヵ月 かげつ かけて攻略 こうりゃく し、1004年 ねん のスコピエの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でもブルガリアに勝利 しょうり した。この度重 たびかさ なる攻撃 こうげき でブルガリア側 がわ は国境 こっきょう 防衛 ぼうえい と反撃 はんげき の用意 ようい ができなかったが、1009年 ねん から1013年 ねん にかけての東 ひがし ローマ軍 ぐん は南 みなみ イタリアに出兵 しゅっぺい したため束 つか の間 ま の休息 きゅうそく が取 と れた。1014年 ねん 、クレディオンの戦 たたか い では東 ひがし ローマ側 がわ が、テッサロニキのドゥークスに対 たい してはブルガリアがそれぞれ勝利 しょうり を収 おさ めた。クレディオン戦後 せんご には、ブルガリア人 じん 捕虜 ほりょ を100人 にん につき1人 にん のみ片目 かため を残 のこ し、その他 た 全員 ぜんいん の両目 りょうめ をくり抜 ぬ くという刑罰 けいばつ に処 しょ し母国 ぼこく へ送還 そうかん させたと伝 つた えられているが、これについては創作 そうさく だとする見方 みかた もある。この直後 ちょくご にサムイルが死亡 しぼう するとガヴリル・ラドミル (英語 えいご 版 ばん ) がビトラ で皇位 こうい に就 つ いたが、この地 ち も間 ま もなく落 お とされ、1015年 ねん にはガヴリルを殺 ころ してイヴァン・ヴラディスラフ (英語 えいご 版 ばん ) が即位 そくい した。同年 どうねん のオフリド攻防 こうぼう 戦 せん では都 と を一時 いちじ 占領 せんりょう されるも、東 ひがし ローマ軍 ぐん を撃退 げきたい した。そして東 ひがし ローマ軍 ぐん がオフリドに迫 せま った1018年 ねん 、イヴァンがデュラキオン で戦死 せんし し妻 つま のマリア (英語 えいご 版 ばん ) が降伏 ごうぶく 宣言 せんげん を出 だ したことで、ブルガリアは遂 つい に東 ひがし ローマ領 りょう に組 く み込 こ まれた。
ブルガリア貴族 きぞく のなかの東 ひがし ローマ抗戦 こうせん 派 は は現代 げんだい のアルバニア へと脱 だっ して抵抗 ていこう したが、やがて東 ひがし ローマ軍 ぐん に降伏 ごうぶく した。ブルガリア全土 ぜんど は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のテマ制 せい の下 した で再編 さいへん され、オフリド、後 のち にセルディカに総督 そうとく 府 ふ が設置 せっち されたほか、ブルガリアの総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ はオフリド大 だい 主教 しゅきょう 区 く に格下 かくさ げとなった。
ブルガリアの宮廷 きゅうてい にある財宝 ざいほう は略奪 りゃくだつ されたものの、マリアとその子息 しそく らはバシレイオスの元 もと に受 う け入 い れられ、彼女 かのじょ はゾーステー・パトリキアの称号 しょうごう を与 あた えられたほか、多 おお くのブルガリア人 じん 貴族 きぞく らも東 ひがし ローマの爵位 しゃくい を授与 じゅよ されコンスタンティノープルに向 む かった。バシレイオスはブルガリア人 じん 男性 だんせい 貴族 きぞく と東 ひがし ローマ人 じん 女性 じょせい の、一方 いっぽう で女性 じょせい 貴族 きぞく と東 ひがし ローマ人 じん 男性 だんせい の婚姻 こんいん をそれぞれ促 うなが すことで、戦後 せんご の両国 りょうこく 出身 しゅっしん 者 しゃ の円滑 えんかつ な関係 かんけい 構築 こうちく を目指 めざ した。彼 かれ はまた、ブルガリア人 じん による金銭 きんせん でなく物納 ぶつのう による税 ぜい の支払 しはら いという慣習 かんしゅう の続行 ぞっこう も認 みと めていたがその負担 ふたん は重 おも く、スラヴ語 ご の文献 ぶんけん は廃棄 はいき され典礼 てんれい 用語 ようご もギリシア語 ご にされるなどギリシア化 か 政策 せいさく が進 すす み、後 ご のミカエル4世 せい の治世 ちせい における浪費 ろうひ のために納税 のうぜい 方法 ほうほう が現金 げんきん に切 き り替 か わると、ブルガリア人 じん は反乱 はんらん を起 お こすことになった。その後 ご 、イサキオス2世 せい アンゲロス の治世 ちせい にもブルガリア人 じん の反乱 はんらん が起 お きると、12世紀 せいき 当時 とうじ の歴史 れきし 家 か ニケタス・コニアテス はバシレイオスの業績 ぎょうせき を振 ふ り返 かえ り、彼 かれ をヴルガロクトノス(ブルガリア人殺 ひとごろ し)と呼 よ んだ。
7世紀 せいき から部族 ぶぞく 間 あいだ の自治 じち 的 てき 連合体 れんごうたい だったブルガリアは、9世紀 せいき 前半 ぜんはん ごろに部族 ぶぞく が解体 かいたい して中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か した。国家 こっか のトップはカナ・ウビギ(大 だい 汗 あせ )の称号 しょうごう を持 も ち、長子 ちょうし 相続 そうぞく を原則 げんそく として神権 しんけん による絶対 ぜったい 的 てき 権力 けんりょく を手 て にしていた。その象徴 しょうちょう は王冠 おうかん や杖 つえ のほか、宝珠 ほうしゅ 、黄金 おうごん の剣 けん 、赤 あか いマントと長靴 ながぐつ などであり、キリスト教 きょう 普及 ふきゅう 前 まえ は皇帝 こうてい が大 だい 祭司 さいし も兼 か ねた。一部 いちぶ の統治 とうち 権 けん は大 だい 貴族 きぞく の最高 さいこう 位 い カフカンが有 ゆう し、共同 きょうどう の支配 しはい 者 しゃ だった当初 とうしょ からやがて大 だい 汗 あせ の最高 さいこう 顧問 こもん にまで格上 かくあ げされ、このほかにも都 と を統治 とうち するイチルグボイラ (英語 えいご 版 ばん ) といった多 おお くの官位 かんい が存在 そんざい した。
ıYıのシンボルはドゥロ家 か と第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく に関連付 かんれんづ けられる。
中世 ちゅうせい ブルガリアにてスラヴ族 ぞく とブルガール族 ぞく の共同 きょうどう 体 たい だった当初 とうしょ の社会 しゃかい は解体 かいたい されて封建 ほうけん 制 せい が主体 しゅたい となり、9世紀 せいき から10世紀 せいき にかけて「ムジ」と呼 よ ばれた貴族 きぞく と軍 ぐん 官僚 かんりょう 、総 そう 主教 しゅきょう や修道院 しゅうどういん 長 ちょう といった高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ 、「ポヴィンニキ」と呼 よ ばれた民衆 みんしゅう や低位 ていい 聖職 せいしょく 者 しゃ からなる社会 しゃかい 階級 かいきゅう が成立 せいりつ した。貴族 きぞく らは一定 いってい の軍事 ぐんじ または行政 ぎょうせい 職 しょく を務 つと め、大抵 たいてい は世襲 せしゅう 制 せい であった。民衆 みんしゅう のなかでは共同 きょうどう 体 たい の成員 せいいん であった自由 じゆう 農民 のうみん が最多 さいた の割合 わりあい を占 し めたが、土地 とち を持 も たない農民 のうみん や没落 ぼつらく した職人 しょくにん は貧民 ひんみん 層 そう として貴族 きぞく の土地 とち で奉仕 ほうし したり農奴 のうど となり、封建 ほうけん 領主 りょうしゅ の農奴 のうど は「パリツィ」、高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ や修道院 しゅうどういん の農奴 のうど は「クリリツィ」と呼 よ ばれた。教会 きょうかい は特殊 とくしゅ な位置付 いちづ けを占 し めたことで高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ や修道院 しゅうどういん に多 おお くの特権 とっけん をもたらした一方 いっぽう 、農民 のうみん とともに生活 せいかつ していた教区 きょうく 司祭 しさい などは彼 かれ らと同様 どうよう に納税 のうぜい や賦役 ふえき の義務 ぎむ を負 お っていた。最下 さいか 層 そう の奴隷 どれい は戦争 せんそう の捕虜 ほりょ であり、主 おも に家僕 かぼく や大工 だいく として務 つと めたほか、東 ひがし ローマへの輸出 ゆしゅつ 品 ひん として扱 あつか われることもあった。
ブルガリア人 じん は主 おも に農業 のうぎょう や畜産 ちくさん 業 ぎょう 、一部 いちぶ 地域 ちいき ではブドウ などの果実 かじつ を栽培 さいばい して生計 せいけい を立 た てており、鋤 すき や臼 うす 、東 ひがし ローマから輸入 ゆにゅう された水車 みずぐるま を用 もち いていた。初期 しょき には自給自足 じきゅうじそく が主流 しゅりゅう だった経済 けいざい も、やがて手工業 しゅこうぎょう と農業 のうぎょう が分離 ぶんり され町 まち で貿易 ぼうえき が始 はじ められた。その中心 ちゅうしん は町村 ちょうそん の市場 いちば や定期 ていき 市 し であり、特 とく に修道院 しゅうどういん にて祭日 さいじつ に開 ひら かれたものでは外国 がいこく 商人 しょうにん も参入 さんにゅう する大 だい 規模 きぼ なものであった。東 ひがし ローマには奴隷 どれい 、亜麻 あま 、麻 あさ 製品 せいひん 、蜂蜜 はちみつ 、蝋 ろう 、獣皮 じゅうひ などを輸出 ゆしゅつ し、絹 きぬ の衣服 いふく 、金糸 きんし 織物 おりもの 、宝 たから 玉 たま 、イコン などを輸入 ゆにゅう した。モラヴィア、フランク王国 おうこく 、マジャルからはドナウ川 がわ を通 つう じて塩 しお や農作物 のうさくもつ を、ロシアからは毛皮 けがわ や奴隷 どれい を輸入 ゆにゅう し、ウマ や銀 ぎん 、陶器 とうき や宝石 ほうせき などをそれぞれに輸出 ゆしゅつ した。
最初 さいしょ の都 と プリスカは二 に 重 じゅう の防衛 ぼうえい 線 せん に囲 かこ まれた、外城 とじょう 約 やく 23平方 へいほう キロ、内城 うちじろ 約 やく 0.5平方 へいほう キロに及 およ ぶ巨大 きょだい な要塞 ようさい であり、堀 ほり と土手 どて でできた外側 そとがわ の中 なか には市民 しみん の住宅 じゅうたく が、石灰岩 せっかいがん の城壁 じょうへき の内部 ないぶ には宮廷 きゅうてい があり、君主 くんしゅ とその家族 かぞく が居住 きょじゅう していた。大 だい 規模 きぼ な建造 けんぞう 物 ぶつ はブルガール式 しき の伝統 でんとう により建 た てられたが、東 ひがし ローマやアナトリア半島 はんとう の様式 ようしき にも影響 えいきょう されており、プリスカ以外 いがい にもプレスラフやブルガリア北東 ほくとう 部 ぶ などに存在 そんざい していた。シメオンにより28年 ねん もの歳月 さいげつ を費 つい やして建設 けんせつ された帝都 ていと プレスラフは高 たか い石 いし の城壁 じょうへき が二 に 重 じゅう の防衛 ぼうえい 線 せん を構成 こうせい するものであり、内城 うちじろ には宮廷 きゅうてい 、外城 とじょう には教会 きょうかい や商店 しょうてん 、工房 こうぼう などを含 ふく み3.5平方 へいほう キロの面積 めんせき を有 ゆう した。
オフリド、プレスパ (英語 えいご 版 ばん ) 、プリレプ 、ビトラにおいて10世紀 せいき 末 まつ から造 つく られた宮殿 きゅうでん や城砦 じょうさい は、プレスラフの基本 きほん 様式 ようしき に倣 なら いつつ東 ひがし ローマ風 ふう の影響 えいきょう がさらに強 つよ まっていた。市民 しみん の住宅 じゅうたく は小屋 こや や横穴 よこあな 式 しき 住居 じゅうきょ が主流 しゅりゅう であったが、都市 とし 部 ぶ には石造 せきぞう のものも存在 そんざい した。
中世 ちゅうせい 初期 しょき のブルガリア文化 ぶんか は7世紀 せいき から9世紀 せいき 半 なか ばまでの異教 いきょう 中心 ちゅうしん の時期 じき と、それ以降 いこう から12世紀 せいき ごろまでのキリスト教 きりすときょう に影響 えいきょう された時期 じき に分 わ けることが可能 かのう である。前者 ぜんしゃ はブルガール人 じん とスラヴ人 じん が別々 べつべつ にそれぞれの文化 ぶんか を継承 けいしょう していたが、後者 こうしゃ では東 ひがし ローマの文明 ぶんめい に影響 えいきょう されながら発展 はってん し、特 とく にスラヴ人 じん にとって啓蒙 けいもう の拠 よ り所 どころ となった。
初期 しょき キリスト教 きりすときょう のレリーフ
ブルガリアの建築 けんちく には石 いし 彫 ほ や石 いし 製 せい レリーフ が多 おお く使 つか われており、特 とく にキリスト教 きりすときょう 普及 ふきゅう 以前 いぜん のそれらは独特 どくとく なデザインを持 も つ。8世紀 せいき 初頭 しょとう のマダラの騎士 きし 像 ぞう は中世 ちゅうせい ブルガリアを代表 だいひょう する遺物 いぶつ であり、世界 せかい 遺産 いさん にも登録 とうろく されている[ 99] 。騎士 きし 像 ぞう は縦 たて 2.6メートル、横 よこ 3メートルほどの規模 きぼ で、像 ぞう の上 うえ にテルヴェル、左下 ひだりした にコルミソシュ、右 みぎ 下 か にオムルタグに関 かん する碑文 ひぶん がそれぞれ刻 きざ まれ、像 ぞう そのものはテルヴェルをモデルにしたとされている。プレスラフの宮廷 きゅうてい や教会 きょうかい ではライオン やゾウ 、ウサギ といった動物 どうぶつ の彫刻 ちょうこく が制作 せいさく され、同様 どうよう のものがスタラ・ザゴラ とソゾポル でも発見 はっけん された。プレスパ湖 こ のバシリカ やオフリドのハギア・ソフィア教会 きょうかい の装飾 そうしょく は様式 ようしき 化 か した一方 いっぽう 、キリスト教 きょう が広 ひろ まるとクジャク やグリフォン のレリーフ、十字架 じゅうじか など東 ひがし ローマ様式 ようしき の影響 えいきょう を石 いし 彫 ほ に及 およ ぼした。都 と がオフリドに遷ると石 いし 彫 ほ は廃 すた れ、代 か わりに絵画 かいが が発展 はってん した。
900年 ねん ごろの聖 せい テオドロス(英語 えいご 版 ばん ) の陶製 とうせい イコン
中世 ちゅうせい ブルガリア初期 しょき の絵画 かいが は動物 どうぶつ や船 ふね 、道具 どうぐ 、人間 にんげん とその生活 せいかつ などを表 あらわ した、プリスカやプレスラフの城壁 じょうへき に刻 きざ まれた線画 せんが のほか、セルディカ、オフリド、プレスパなどの教会 きょうかい にあった壁画 へきが である。シメオンの治世 ちせい 下 か では宮廷 きゅうてい や教会 きょうかい の装飾 そうしょく 物 ぶつ として陶器 とうき が多 おお く採用 さいよう され、修道院 しゅうどういん の工房 こうぼう で作 つく られた。タイルは植物 しょくぶつ や幾何 きか 学 がく 模様 もよう で彩 いろど られ、聖書 せいしょ の一節 いっせつ をキリル文字 もじ で記 しる した場合 ばあい もあり、聖人 せいじん の陶製 とうせい イコンは9世紀 せいき 半 なか ばの東 ひがし ローマ様式 ようしき の伝統 でんとう を受 う けたものである。
9世紀 せいき 末 まつ から10世紀 せいき 前半 ぜんはん にはプレスラフとオフリドの修道院 しゅうどういん で装飾 そうしょく や図解 ずかい を伴 ともな う写本 しゃほん が熱心 ねっしん に作 つく られ、現代 げんだい ではほとんど失 うしな われたがそれに倣 なら ったロシアの写本 しゃほん には装飾 そうしょく が多 おお く散見 さんけん される。この装飾 そうしょく の起源 きげん は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の様式 ようしき にあるが、プレスラフの陶器 とうき のスタイルや色 いろ 使 づか いを流用 りゅうよう したものもあった。
オフリドのクリメント のイコン
ブルガリア帝国 ていこく 誕生 たんじょう から間 あいだ もない頃 ころ は中世 ちゅうせい ギリシア語 ご とギリシア文字 もじ 、なかでもそのアンシアル体 たい が使 つか われており、ギリシア文字 もじ でブルガール語 ご が表記 ひょうき される場合 ばあい もあった。
やがてブルガール・スラヴ人 じん 社会 しゃかい において、東 ひがし ローマ教会 きょうかい のキュリロスとメトディウス の兄弟 きょうだい とその弟子 でし らによりスラヴ文字 もじ が広 ひろ まった。ボリス1世 せい 庇護 ひご の下 した 、彼 かれ らはオフリドのある現代 げんだい のマケドニア地域 ちいき や都 と のプリスカなどを拠点 きょてん にスラヴ語 ご 典礼 てんれい のための聖職 せいしょく 者 しゃ 教育 きょういく を担 にな った。彼 かれ らはグラゴル文字 もじ を作 つく ったが、現地 げんち で普及 ふきゅう していたアンシアル体 たい をベースにキリル文字 もじ も発明 はつめい し、読 よ み書 か きが容易 たやす かったこともありそれがグラゴル文字 もじ を置 お き換 か えていった。弟子 でし の1人 ひとり であったオフリドのクリメント は、異教徒 いきょうと 住民 じゅうみん をキリスト教 きょう へ改宗 かいしゅう させてスラヴ語 ご 典礼 てんれい を実施 じっし するためのブルガリア人 じん 聖職 せいしょく 者 しゃ を育成 いくせい した。オフリドのナウム (英語 えいご 版 ばん ) は、プリスカの大 だい バシリカ近郊 きんこう に学校 がっこう を開設 かいせつ して典礼 てんれい 書 しょ や他 た の文献 ぶんけん を翻訳 ほんやく し普及 ふきゅう させ、クリメントが主教 しゅきょう に着任 ちゃくにん すると彼 かれ はオフリドに移 うつ ってクリメントの業務 ぎょうむ を引 ひ き継 つ いだ。
判明 はんめい しているもののみ示 しめ す。
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