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だいいちブルガリア帝国ていこく

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ブルガリア帝国ていこく > だいいちブルガリア帝国ていこく
だいいちブルガリア帝国ていこく
  • Блъгарьско цѣсарьствиѥ
東ローマ帝国
大ブルガリア (中世)
681ねん - 1018ねん 東ローマ帝国
ブルガリア帝国の位置
シメオン1せい治世ちせいにおける最大さいだい版図はんと
公用こうよう ブルガール[1]
スラヴ祖語そご
中世ちゅうせいギリシア[2][3][4]
古代こだい教会きょうかいスラヴ(893ねん以降いこう[5]
宗教しゅうきょう テングリスラヴ・ペイガニズム英語えいごばん(681〜864ねん
ブルガリア正教せいきょう(864ねん以降いこう
首都しゅと プリスカ
プレスラフ英語えいごばん(893〜971ねん[6]
スコピエ
オフリド
ビトラ(〜1018ねん
ハーン、のちに皇帝こうてい
681ねん - 700ねん アスパルフ初代しょだい
803ねん - 814ねんクルムだい16だい
852ねん - 889ねんボリス1せいだい20だい
893ねん - 927ねんシメオン1せいだい22だい
976ねん - 1014ねんサムイルだい26だい
1015ねん - 1018ねんイヴァン・ヴラディスラフ英語えいごばん最後さいご
面積めんせき
850ねん[7]400,000km²
950ねん[8]240,000km²
変遷へんせん
オングロスのたたか 680ねん
ひがしマ帝国まていこくによる国家こっか承認しょうにん681ねん
ブルガリアのキリスト教化きょうか英語えいごばん864ねん
古代こだい教会きょうかいスラヴ国語こくごとして導入どうにゅう893ねん
シメオン1せいツァーリ皇帝こうてい即位そくい913ねん
滅亡めつぼう1018ねん
現在げんざい ブルガリア
ギリシャの旗 ギリシャ
アルバニアの旗 アルバニア
北マケドニア共和国の旗 きたマケドニア
 ルーマニア
セルビアの旗 セルビア
ブルガリア歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。
オドリュサイ王国おうこく(460 BC-46 AD)
トラキア
だいブルガリア(632-668)
だいいちブルガリア帝国ていこく(681-1018)
だいブルガリア帝国ていこく(1185-1396)
オスマン時代ときよ(1396-1878)
民族みんぞく覚醒かくせい(1762-1878)
ブルガリア公国こうこく(1878-1908)
ブルガリア王国おうこく(1908-1946)
ブルガリア人民じんみん共和きょうわこく(1946-1990)
ブルガリア共和きょうわこく(1990-現在げんざい

ブルガリア ポータル

だいいちブルガリア帝国ていこく(だいいちじブルガリアていこく、教会きょうかいスラヴблъгарьско цѣсарьствиѥ, マ字まじ表記ひょうき:blagarysko tsesarystviye、ブルガリアПърва българска държава, マ字まじ表記ひょうき:Pǎ́rva bǎ́lgarska dǎržáva、英語えいご:First Bulgarian Empire)とは、7世紀せいきから11世紀せいきあいだ東南とうなんヨーロッパ存在そんざいしたブルガールじんスラヴじん国家こっか、そしてのちブルガリアじん国家こっかとなった帝国ていこくである。アスパルフひきいられたブルガールじん一派いっぱバルカン半島ばるかんはんとう北東ほくとう南進なんしんしたのち680ねんから681ねん建国けんこくされた。コンスタンティノス4せいひきいるひがしマ帝国まていこく(ビザンツ帝国ていこく)の軍隊ぐんたいオングロスのたたか勝利しょうりしたことで、かれらはドナウがわみなみ植民しょくみんする権利けんりについてひがしローマがわ承認しょうにんた。9世紀せいきから10世紀せいきあいだ最盛さいせいのブルガリアはドナウ大曲おおまがりから黒海こっかい、そしてドニエプルがわからアドリア海あどりあかいへと拡大かくだいし、ひがしマ帝国まていこく競合きょうごうするとう地域ちいき重要じゅうよう勢力せいりょくとなった[9]だいいちブルガリア帝国ていこく中世ちゅうせいだい部分ぶぶんつうじて、みなみスラヴ・ヨーロッパの主要しゅよう文化ぶんかてきかつ精神せいしんてき中心ちゅうしんとなった。

帝国ていこくバルカン半島ばるかんはんとうにてその地位ちいかためると、ひがしマ帝国まていこくときには友好ゆうこうてきに、ときには敵対てきたいてきになった、なに世紀せいきにもおよなが交流こうりゅう時代じだいはいった。ブルガリアはひがしマ帝国まていこくにとって北方ほっぽうさい重要じゅうよう敵対てきたいこくとしてあらわれ、ブルガリア・ひがしローマ戦争せんそうにつながった。りょう大国たいこく平和へいわ同盟どうめい時代じだい享受きょうじゅし、なかでも注目ちゅうもくすべきはブルガリアぐん包囲ほういもうやぶってウマイヤあさ軍隊ぐんたいやぶったコンスタンティノープル包囲ほういせんであり、結果けっかとして東南とうなんヨーロッパへのアラブじん侵攻しんこう阻止そしした。ひがしローマの帝都ていとコンスタンティノープルはブルガリアがわつよ文化ぶんかてき影響えいきょうあたえ、864ねんには最終さいしゅうてきブルガリアのキリスト教化きょうか英語えいごばんをももたらした。アヴァール崩壊ほうかいのブルガリアは、北西ほくせいパンノニア平原へいげんへとその領土りょうどひろげた。そのペチェネグクマンじん進攻しんこう対決たいけつし、マジャル決定的けっていてき勝利しょうりおさめてかれらをパンノニア永久えいきゅうてき定住ていじゅうさせた。

帝国ていこくにおいて権力けんりょくにあったブルガールじんとそののスラヴ民族みんぞくトラキアじん)は次第しだい混血こんけつし、ひろまっている古代こだい教会きょうかいスラヴ古代こだいブルガリア)を導入どうにゅうしたことで、7世紀せいきから10世紀せいきにかけ徐々じょじょにブルガリアじん国家こっか形成けいせいした。10世紀せいき以降いこうにはブルガリアじん(Bulgarian)という住民じゅうみん呼称こしょう流行りゅうこうし、文献ぶんけん庶民しょみん言葉ことばづかいの両面りょうめんにおける地元民じもとみんにとって不変ふへん名称めいしょうとなった。古代こだい教会きょうかいスラヴ識字しきじりつ向上こうじょうは、近隣きんりん文化ぶんかへのみなみスラヴじん同化どうかふせ効果こうかゆうした一方いっぽうたしかなブルガリアじんのアイデンティティ形成けいせいうながした。

キリスト教きりすときょう導入どうにゅう、ブルガリアはスラヴ・ヨーロッパの文化ぶんかてき中枢ちゅうすうとなった。その一流いちりゅう文化ぶんかてき地位ちいグラゴル文字もじ導入どうにゅうともなってさらに強化きょうかされ、プレスラフ英語えいごばんにおけるその直後ちょくご初期しょきキリル文字もじ英語えいごばん発明はつめいと、ブルガリアにて制作せいさくされた文学ぶんがくもなく北方ほっぽうひろがりはじめた。ブルガリアひがしヨーロッパだい部分ぶぶんリングワ・フランカとなり、古代こだい教会きょうかいスラヴとしてられるようになった。927ねんには、完全かんぜん独立どくりつしたブルガリアそう主教しゅきょう公式こうしきみとめられた。

9世紀せいきまつから10世紀せいき初頭しょとうあいだシメオン1せいひがしローマにたいする一連いちれん勝利しょうり達成たっせいした。そのかれ皇帝こうてい称号しょうごうみとめられ、最大限さいだいげんにまで自国じこく拡大かくだいすすめた。917ねんアケロオスのたたかにてひがしローマぐん殲滅せんめつしたのち、ブルガリアぐん923ねん924ねんにコンスタンティノープルを包囲ほういした。ひがしローマがわ最終さいしゅうてき回復かいふくし、1014ねんに「ブルガリア人殺ひとごろし」バシレイオス2せいしたクレディオンのたたかでブルガリアじん完敗かんぱいわせた。1018ねんまでには最後さいごのブルガリアじん拠点きょてんひがしマ帝国まていこく降伏ごうぶくし、だいいちブルガリア帝国ていこく滅亡めつぼうした。

歴史れきし

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ブルガリア帝国ていこく歴史れきしは、講和こうわ戦乱せんらんながきにわたりかえしたブルガリア・ひがしローマ戦争せんそうとほとんどの時期じきにてかさなり、その初期しょきはブルガリア独自どくじかみ々を信仰しんこうしていたことによる宗教しゅうきょうてき対立たいりつという側面そくめんがあった[10]。ブルガリアじん起源きげん、トルコけいブルガールじんは7世紀せいきにドナウがわ以南いなんバルカン山脈さんみゃくあいだのドナウ盆地ぼんち定住ていじゅうし、スラヴじん混血こんけつしてプリスカだいいちブルガリア帝国ていこくきずいた[10]

建国けんこく安定あんてい

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アスパルフによる建国けんこく当初とうしょのブルガリア帝国ていこくりょう黄色おうしょく)とテルヴェルによる領土りょうど拡大かくだい橙色だいだいいろ

5世紀せいきすえから6世紀せいき初頭しょとうにかけてバルカン半島ばるかんはんとう到来とうらいしたスラヴじんしょぞくは6世紀せいき後半こうはんにブルガリア地域ちいき定住ていじゅうはじめ、ブルガリア原住民げんじゅうみんとしてられるトラキアじん徐々じょじょ混血こんけつしていった[11]。7世紀せいきまつごろになるとスラヴじんしょぞくは、ひがしマ帝国まていこくによる同化どうか政策せいさくとアヴァールの侵入しんにゅうという危機きき板挟いたばさみにうようになり、これをけてバルカン半島ばるかんはんとうの7つのしょぞくSeven Slavic tribes)とセヴェリぞく英語えいごばん軍事ぐんじ連合れんごう発足ほっそくさせた[12]建国けんこくしゃアスパルフらブルガールじんどう時期じきしょうスキタイ英語えいごばん侵入しんにゅうしており、ひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノス4せいは、ブルガールとスラヴが同盟どうめい可能かのうせいおそれ、680ねん陸軍りくぐんをスラヴじんけ、皇帝こうていみずからがひきいるドナウがわ水軍すいぐんはブルガールじん進軍しんぐんした[12]。ブルガールじんらはオングロスの要塞ようさい数日すうじつあいだ籠城ろうじょうしたところ、ひがしローマぐん皇帝こうていあしいたみをうったえたことで退陣たいじんしたため、これを追撃ついげきしたブルガールじんだい勝利しょうりおさめた(オングロスのたたかい)[12]だいいちブルガリア帝国ていこく建国けんこくは、ブルガールじんがこれをにドナウがわえてヴァルナまで到達とうたつし、バルカンの北東ほくとう占拠せんきょしたこと、そしてその近辺きんぺん居住きょじゅうしていたスラヴじんらがかれらと軍事ぐんじ協定きょうていむすんだことが起源きげんである[13]。アスパルフを頂点ちょうてんとするブルガールじん支配しはいしゃそうった一方いっぽう、スラヴじんしょぞく体制たいせいない独自どくじせい維持いじしていた国家こっか連合れんごうであった[13]少数しょうすう文化ぶんかおくれがちだったブルガールじんのちにスラヴじん同化どうかし、8世紀せいき以降いこうには同一どういつ文化ぶんかつブルガリアじんとなったが、主要しゅよう言語げんごはスラヴであった[14]よく681ねんなつひがしローマはブルガリアと講和こうわ条約じょうやくむすび、アスパルフに毎年まいとしみつぎおさめすることがめられたことで、ブルガールじん国家こっか法的ほうてきにもみとめられた[13]685ねんには、アヴァール支配しはいのがれたティモクがわ英語えいごばんのスラヴじんもブルガリアに合流ごうりゅうした[13]

アスパルフの死後しごはその息子むすこテルヴェル英語えいごばん在位ざいい:700〜721ねん)が君主くんしゅとなり、かれ705ねんひがしローマ皇位こういわれていたユスティニアノス2せい復権ふっけん後押あとおししたことで、「カエサル」の称号しょうごうきたトラキア英語えいごばんザゴリア英語えいごばんあたえられた[15]。しかし708ねん、ユスティニアノスはブルガリアとの友好ゆうこう関係かんけいててアンキアロスのたたか英語えいごばんいどみ、敗北はいぼくした[15]。テルヴェルはその711ねん716ねんの2およびトラキアを通過つうかしてコンスタンティノープルにまで進軍しんぐんさせ、テオドシオス3せいひがしローマ・ブルガリア条約じょうやく英語えいごばんむす国境こっきょう画定かくていさせた[15]。これによってトラキア北部ほくぶがブルガリアがわ割譲かつじょうされたほか、経済けいざいてききょくもその条項じょうこうふくまれた[16]つづ717ねんのコンスタンティノープル包囲ほういせんでは、ブルガリアはひがしローマから莫大ばくだい報酬ほうしゅうることで同盟どうめいみ、テルヴェル指揮しきしたウマイヤあさ攻勢こうせい撃退げきたいした[17]

内情ないじょう不安ふあん生存せいぞん競争きょうそう

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セヴァル英語えいごばん在位ざいい:738〜753ねん)のとともにドゥロ英語えいごばん滅亡めつぼうし、ブルガリアはくに破滅はめつふちにあるなが政治せいじてき危機ききおちいった。15ねんあいだに7にん君主くんしゅおさめたが、その全員ぜんいん殺害さつがいされた。この時代じだい残存ざんそん史料しりょうひがしローマのもののみであり、ブルガリアにおけるその政情せいじょう不安ふあんひがしローマがわ視点してんのみからしめ[18]。それらの史料しりょうは、755ねんまで支配しはいてきであったひがしローマとの平和へいわてき関係かんけいもとめる派閥はばつ好戦こうせんてき派閥はばつ権力けんりょく闘争とうそうをしているとしる[18]史料しりょうひがしローマとの関係かんけいをこの内部ないぶこうそう主要しゅよう問題もんだいとしてしめし、ブルガリアの支配しはいしゃそうにとってより重要じゅうようであった可能かのうせいのあるほか理由りゆうにはれていない[18]政治せいじてき支配しはいするブルガールじんとより多数たすうのスラヴじん関係かんけいがこのあらそいの主要しゅよう課題かだいであったとされるが、対立たいりつ派閥はばつ目的もくてきについての証拠しょうこはない[19]

一方いっぽうひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノス5せいは755ねんからはんブルガリア政策せいさくしたことで国境こっきょう地帯ちたいでの要塞ようさい建設けんせつみつぎおさめ停止ていしめいじられ、20ねんちかくのあいだに9ものブルガリア遠征えんせい実施じっしされた[20]。コンスタンティノスはこのさい要塞ようさいきの国境こっきょう地帯ちたいシリアじんアルメニアじんキリスト教徒きりすときょうと移住いじゅうさせたが[21]、その要塞ようさいみつぎ納金のうきん要求ようきゅうをブルガリアが拒否きょひした756ねんにはマルケラエのたたかい (756ねん)英語えいごばん勃発ぼっぱつし、ブルガリアがわ敗北はいぼくしたもののコンスタンティノープル付近ふきんまでんだ[22]ひがしローマぐんはバルカン山脈さんみゃく以北いほくにはすすめず、その戦果せんか限定げんていてきなものであった一方いっぽう防戦ぼうせんあまんじていたブルガリアがわはこの戦役せんえきくとテレリグ英語えいごばん在位ざいい:768〜777ねん)のした反撃はんげきてんじた[20]。テレリグは774ねんにスラヴじんベルジティ英語えいごばんという部族ぶぞくに12,000にん派兵はへいし、この部族ぶぞくかれらと合同ごうどうさせてひがしローマに抗戦こうせんさせようとこころみた[20]。これはひがしローマがわ注意ちゅういをバルカン西部せいぶかわせるとともに、ぜんスラヴじんをブルガリア帝国ていこく内包ないほうしようとする建国けんこく以来いらい政策せいさくでもあったが、テレリグは国内こくない反対はんたい勢力せいりょくはかられたためコンスタンティノープルに亡命ぼうめいし、現地げんちキリスト教徒きりすときょうととなってひがしローマ皇族こうぞく結婚けっこんした[20]かれ後継こうけいとなったカルダム英語えいごばん在位ざいい:777〜803ねん)の治世ちせいには内紛ないふんおさまり、789ねんにはストルマがわ流域りゅういきひがしローマぐん追放ついほうし、792ねんマルケラエのたたかい (792ねん)英語えいごばんでもひがしローマぐん圧倒あっとうした[23]

領土りょうど拡大かくだい

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クルム在位ざいい:803〜814ねん)はカルダムの政策せいさく継承けいしょうしつつ、フランク王国おうこくやぶ弱体じゃくたいしたアヴァールりょう一部いちぶ獲得かくとくすることで、北西ほくせいティサがわきたカルパチア山脈さんみゃく北東ほくとうドニエストルがわまで拡大かくだいすることに成功せいこうした[23]。ブルガリアぐん808ねんにストルマがわ流域りゅういき再度さいど攻撃こうげきし、その翌年よくねんセルディカ包囲ほういせん英語えいごばんにも勝利しょうりした[23]

プリスカのたたかいにて、クルムはひがしローマ皇帝こうていニケフォロス1せいやぶった。
プリスカのたたか、クルムはニケフォロスの頭蓋骨ずがいこつつくられたさかずき堪能たんのうした。

809ねんにクルムがセルディカ英語えいごばん占拠せんきょすると、ひがしローマのニケフォロス1せいはその2ねんにブルガリアへ進軍しんぐんし、講和こうわもとめるクルムの使者ししゃ無視むししてのプリスカを占拠せんきょした[24]。その宮廷きゅうていにあった財宝ざいほう略奪りゃくだつされたのちひがしローマぐん都市とし全体ぜんたい放火ほうかした[24]。しかし、そこからバルカン山脈さんみゃく通過つうかしたさい帰投きとう途中とちゅう、ブルガリアぐん奇襲きしゅうったひがしローマぐんプリスカのたたかにて全滅ぜんめつさせられ、ニケフォロスの頭蓋骨ずがいこつぎんさかずきとなり、クルムはトラキア地方ちほう自由じゆう出入でいりできるようになった[25]。クルムは716ねん条約じょうやくくわえてさらなる講和こうわむすぼうとちかけたが拒否きょひされたため、812ねんひがしローマ侵攻しんこう開始かいししてメセンブリアやセルディカをはじめとするかく都市とし次々つぎつぎ制圧せいあつした[26]翌年よくねんヴェルシニキアのたたかでも圧勝あっしょうしてコンスタンティノープルを包囲ほういし、トラキア東部とうぶはブルガリアによりらされ、アドリアノープル市民しみんドナウ・デルタきた強制きょうせい移住いじゅうさせられた[26]。しかし、同年どうねん即位そくいしたひがしローマ皇帝こうていレオーン5せいがメセンブリアで勝利しょうりしたことで、コンスタンティノープルの包囲ほういには終止符しゅうしふたれた[26]。クルムはブルガリアにもどると814ねん死亡しぼうしたが、かれ遠征えんせいおおくのスラヴじん地域ちいき自国じこくれることに成功せいこうしたほか、ブルガールじんとスラヴじん対等たいとう地位ちいとして、ブルガリアをスラヴさせて単一たんいつ民族みんぞく共同きょうどうたいつくろうとした[26]

クルムの息子むすこオムルタグ在位ざいい:814〜831ねん)はクルム治世ちせい戦争せんそう精算せいさんするため、黒海こっかい沿岸えんがんデベルト英語えいごばんからマリツァがわ、バルカン山脈さんみゃく山頂さんちょう通過つうかしてマクロリヴァダ要塞ようさいまでを国境こっきょうとする30年間ねんかん有限ゆうげん条約じょうやく815ねんむすんだ[26]かれによってよく816ねんむすばれた講和こうわ条約じょうやくでは、コンスタンティノープルにおける関税かんぜいりつ減免げんめんという貿易ぼうえき特権とっけん多額たがく賠償金ばいしょうきん支払しはらいがめられ、両国りょうこくあいだにはしばらく平和へいわ時期じきおとずれた[27]818ねんになると、ブルガリア北西ほくせい居住きょじゅうしていた2つのスラヴ民族みんぞく反旗はんきひるがえしフランク王国おうこく援助えんじょもとめたため、827ねんから829ねんにかけてかれらを鎮圧ちんあつ従属じゅうぞくさせた[28]北東ほくとうではハザールとの戦闘せんとうきてドニエプルがわまで進軍しんぐんした[28]。オムルタグはキリスト教きりすときょう普及ふきゅうによりひがしローマの影響えいきょうひろまることをおそれていたため、ひがしローマぐん捕虜ほりょには残虐ざんぎゃく対応たいおうをし、キリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした息子むすこからは相続そうぞくけん剥奪はくだつした[28]かれはまた、ちされたプリスカとその宮廷きゅうてい再建さいけんさせて石造せきぞう城壁じょうへきまもらせ、カムチヤがわ英語えいごばんやドナウがわ沿いに離宮りきゅうもうけた[28]かれ貴族きぞくそうなどの権力けんりょく退しりぞ中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめて[29]ほう制度せいど確立かくりつにもつとめたほか、トゥンジャ渓谷けいこく、シンジドゥナム(ベオグラード)、マケドニアなどに領土りょうどひろげるなどの功績こうせきのこし、結果けっかとして歴代れきだい君主くんしゅのなかでかれかんする碑文ひぶんもっとおおのこされている[30]

オムルタグののちいだ末子すえこマラミル英語えいごばん在位ざいい:831〜836ねん)と共同きょうどう統治とうちしゃイスブル英語えいごばん治世ちせいには、30ねん条約じょうやく違反いはんしたひがしローマの侵攻しんこうきたため、ブルガリアぐんはプロバトゥム、ブルディズス、フィリッポポリスといった要塞ようさい地域ちいき陥落かんらくさせてトラキア北部ほくぶおよび東部とうぶおおくを占拠せんきょした[31]。マラミルのおいプレシアン1せい英語えいごばん在位ざいい:836〜852ねん)の時代じだいにはひがしローマ統治とうちのスラヴじん反乱はんらんこし、ブルガリアがわがその一部いちぶぞく支援しえんしてひがしローマぐん勝利しょうりしたほか、南西なんせいバルカンのスラヴじんをブルガリアに内包ないほうした[32]

洗礼せんれいけるボリス1せいとその臣下しんかニコライ・パヴロヴィチ英語えいごばんによる絵画かいが

プレシアンの後継こうけいボリス1せい在位ざいい:852〜889ねん)の時代じだいには版図はんとおおきくひろげ、まず治世ちせい初期しょきのスラヴじんをめぐるひがしローマとの相次あいつ戦闘せんとう結果けっかとして、856ねん条約じょうやくロドピ山脈さんみゃくとマケドニア地域ちいき領土りょうどみとめさせた[33]853ねんにはモラヴィア王国おうこくラスチスラフ西にしフランク王国おうこくシャルル2せい同盟どうめいみ、クロアチア公国こうこくあずまフランク王国おうこくたいする戦役せんえき開始かいししたが失敗しっぱいした[33]。ボリス1せいあずまフランク王国おうこくルートヴィヒ2せいとの同盟どうめいむすんだのち862ねんあずまフランクとブルガリアにはさまれたモラヴィア両国りょうこく分割ぶんかつされることをおそれてひがしマ帝国まていこく救援きゅうえん依頼いらいし、ひがしローマから布教ふきょうねて宣教師せんきょうしおくられたがこのこころみは失敗しっぱいわった[34]。しかし、国力こくりょく安定あんていはいっていたひがしローマがわは864ねん陸海りくかいぐん国境こっきょう付近ふきん投入とうにゅうした一方いっぽう当時とうじ飢饉ききんっていたブルガリアは講和こうわもとめ、このもうれが受理じゅりされた[35]戦端せんたんひらかない条件じょうけんとして、ひがしローマはブルガリアにたいし、あずまフランクとの同盟どうめい破棄はきとキリストきょう受容じゅようもとめ、のちにプリスカへ主教しゅきょうおくられてボリス1せい洗礼せんれいけることとなった[36]。その洗礼せんれいにおいては、ボリスがひがしローマ皇帝こうていミカエル3せいだいちちみとめることで、ひがしマ帝国まていこく宗主そうしゅとしてれることとなった[37]かれのち退位たいいして修道しゅうどうになったほど敬虔けいけんキリスト教徒きりすときょうとであり、ブルガリア貴族きぞくのなかにも改宗かいしゅうしゃはいたが、国内こくないでのひがしローマの影響えいきょうおよぶことへの反発はんぱつ根強ねづよかったため、勃発ぼっぱつした反乱はんらん鎮圧ちんあつしプリスカがコンスタンティノープルから独立どくりつしたそう主教しゅきょうゆうするかたちになるようひがしローマがわもう[38]。これが棄却ききゃくされたボリスはローマ教皇きょうこうあらたな宣教師せんきょうしおくるよう要請ようせいしたが、ブルガリア教会きょうかいたいする教皇きょうこう姿勢しせいひがしローマのものとあまりわらなかったこともあり[39]結局けっきょく870ねん広範こうはん自治じちけん行使こうしできるだい主教しゅきょうという妥協だきょうさくあまんじることとなった[40]

こうして本格ほんかくしたブルガリアのキリスト教化きょうか結果けっかとしてひがしローマのぞくしゅう由来ゆらい果樹かじゅまれたほか、スラヴ文字もじ簡略かんりゃくしたキリル文字もじ発明はつめいされた[40]。キリル文字もじはブルガリアがギリシアじんやフランクじん吸収きゅうしゅうされることをさまたげ、ブルガリア特有とくゆう文化ぶんか発展はってんさせる要因よういんになった[41]。また、オフリドはギリシア文献ぶんけん翻訳ほんやくされるスラヴ=キリスト教きりすときょう文化ぶんか中核ちゅうかくとしてさかえ、ひがしローマ様式ようしき教会きょうかいがブルガリア各地かくち新設しんせつされるなど、ブルガリア帝国ていこくひがしローマ文化ぶんかけんまれた[42]。キリストきょう導入どうにゅう以前いぜんのブルガリアは「文明ぶんめい世界せかい」たるヨーロッパにおいてめずらしく支配しはいしゃそういま異教いきょう信者しんじゃであったという特徴とくちょうゆうし、すでにキリスト教化きょうかすすんでいた支配しはいしゃそうのスラヴじんとのあいだみぞりになってきたてん問題もんだいしていた[43]。8世紀せいきから9世紀せいきあいだ領土りょうど拡大かくだいすすめたことでおおくのキリスト教徒きりすときょうと人民じんみんがブルガリアに内包ないほうされ、捕虜ほりょとして連行れんこうされたてきへいもまたキリスト教徒きりすときょうとであったため、異教いきょうのブルガールじん少数しょうすうとしていやられていたのである[44]。しかしボリスによる改宗かいしゅう結果けっか、スラヴじんキリスト教きりすときょう国家こっかとなったブルガリアを容易ようい受容じゅようできるようになった一方いっぽう、ブルガールじんキリスト教きりすときょう異教いきょうとしての見方みかた懸念けねんたなくなり、10世紀せいきにはりょう民族みんぞく垣根かきねえて「ブルガリアじん」が誕生たんじょうした[45]。ブルガリア教会きょうかい典礼てんれいとしてもちいるようになった古代こだい教会きょうかいスラヴは、893ねんにブルガリア帝国ていこく公式こうしきとなることが立法りっぽうによりさだめられた[41]

おなじく870ねんには、ボリスの息子むすこヴラディーミル軍隊ぐんたいとともにセルビア公国こうこく (中世ちゅうせい初期しょき)英語えいごばん侵攻しんこうしたが、かえちにされ捕虜ほりょとなったため、ブルガリアは講和こうわむすぶことを余儀よぎなくされた[46]

黄金おうごん

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ボリスは889ねん退位たいいして修道しゅうどうとなり、息子むすこヴラディーミル(在位ざいい:889〜893ねん)が即位そくいしたが、かれひがしローマとの親交しんこうよりも893ねんあずまフランクのアルヌルフ同盟どうめいすることを優先ゆうせんし、さらにはキリスト教きりすときょうではない異教いきょう支援しえんした[47]。このためボリスは修道院しゅうどういんてクーデターを画策かくさくし、ヴラディーミルを追放ついほうしてシメオン1せい在位ざいい:893〜927ねん)を即位そくいさせた[48]。コンスタンティノープルに留学りゅうがくした経緯けいい中世ちゅうせいギリシアはなせたシメオンは、ひがしローマにとっての脅威きょういであるとともに同国どうこく敬愛けいあいしていた[49]かれはプレスラフに遷都せんとし、コンスタンティノープルを手本てほん城壁じょうへき教会きょうかいのある都市とし宮廷きゅうてい建造けんぞうさせたほか[49]、キリストきょう普及ふきゅうつとめてスラヴ教会きょうかいおよび国語こくごした[50]かれはその治世ちせいにおいて度々どどひがしローマとの戦端せんたんひらき、おおくの戦闘せんとう勝利しょうりおさめたが、コンスタンティノープルの制圧せいあつにはいたらなかった[51]

だいいちブルガリア帝国ていこくはシメオン1せいした最大さいだい版図はんと獲得かくとくした[52]
アルフォンス・ミュシャさくのThe Morning Star of Slavonic Literatureにえがかれた皇帝こうていシメオン

シメオンがブルガリア・ひがしローマ戦争せんそう (894-896ねん)英語えいごばん開始かいしした一因いちいんとして、ひがしローマ皇帝こうていレオーン6せいがブルガリアの商品しょうひん取引とりひきをコンスタンティノープルからサロニカ(テッサロニキ)へ移動いどうさせたことで、ブルガリア商人しょうにん利益りえきそこなわれたてんげられている[48]。それにたいするシメオンの改善かいぜん要求ようきゅう無視むしされたため894ねんひがしトラキアに派兵はへいした一方いっぽう[48]ひがしローマがわはハンガリーのマジャルじんむすんで反撃はんげきした[51]。シメオンは和平わへい交渉こうしょうにて時間じかんかせあいだ、マジャルじん東方とうほうペチェネグ同盟どうめいしハンガリーをはさちにすることでブルガロフュゴンのたたか英語えいごばんなどに勝利しょうりし、みつぎ納金のうきんとトラキアを戦利せんりひんとして[53][51]904ねん講和こうわ条約じょうやくではこのほか、ブルガリアぐん占領せんりょうしたストランジャ山脈さんみゃく英語えいごばん以南いなん、アルバニアのだい部分ぶぶん領有りょうゆうみとめられ、結果けっかとしてブルガリアの国境こっきょうはサロニカのきたわずか20キロにたっした[54]。ブルガリア・ひがしローマ戦争せんそう一旦いったんくとのプレスラフではブルガリア特有とくゆう文化ぶんか花開はなひらき、シメオンはおおくの文学ぶんがくしゃ宮殿きゅうでん招待しょうたいした一方いっぽう、この黄金おうごん時代じだいにはひがしローマのみならずヴェネツィア共和きょうわこくとの貿易ぼうえきにもよっておおきな繁栄はんえい享受きょうじゅできるようになった[55]貿易ぼうえき特権とっけんにおけるみつぎ納金のうきんとどこおった913ねんには、かれはコンスタンティノープルにまで進撃しんげきし(ブルガリア・ひがしローマ戦争せんそう (913-927ねん)英語えいごばん)、かれむすめコンスタンティノス7せい結婚けっこんさせること、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうによる皇帝こうていとしての戴冠たいかん要求ようきゅうした[56]。このさいシメオンが金銭きんせん領地りょうちよりも戴冠たいかん希望きぼうしたのは、かれひがしローマの価値かちかん影響えいきょうされて国王こくおうよりも上位じょういちたいとかんがえ、またそれを理解りかいしていた証拠しょうこであった[56]。コンスタンティノープル城壁じょうへきがい開催かいさいされた戴冠たいかんしき以降いこう、シメオンはハーンではなくツァーリ皇帝こうてい)を自称じしょうし、その印章いんしょうにも「バシレウス」というひがしローマじんによる皇帝こうてい呼称こしょう使つかった[56]

キリスト教徒きりすときょうと虐殺ぎゃくさつするブルガリアへい(10世紀せいき

しかし914ねん、それを屈辱くつじょくてきなしたひがしローマ貴族きぞくにより条約じょうやく破棄はきされたため、ブルガリアぐん再度さいどトラキア東部とうぶ侵攻しんこうしてアドリアノープルなどの要塞ようさい占拠せんきょした[54]。917ねんレオン・フォカス英語えいごばん陸軍りくぐんはブルガリア国境こっきょうへ、のちひがしローマ皇帝こうていとなるロマノス1せいレカペノス海軍かいぐんはペチェネグを派兵はへいするために黒海こっかいからドナウ・デルタに進軍しんぐんした[54]。しかし、ペチェネグのみならずマジャルもブルガリアと同盟どうめいしており[57]ひがしローマぐんアケロオスのたたか連合れんごうぐん惨敗ざんぱいさせられた[58]。この結果けっか、シメオンはコリントスわんまでのバルカン半島ばるかんはんとう全域ぜんいき獲得かくとくし、コンスタンティノープル占領せんりょうをも目指めざしてファーティマあさとの同盟どうめい締結ていけつこころみたが、これには失敗しっぱいした[58]。この同盟どうめい企図きとには、陸上りくじょうからではコンスタンティノープルをとせないブルガリアは充分じゅうぶん海軍かいぐんりょくゆうしていなかったため、強力きょうりょく海軍かいぐんようするファーティマあさ接近せっきんしたかったという事情じじょうがあった[57]924ねんにはロマノス・レカペノスがシメオンと講和こうわむすび、ひがしローマ皇帝こうていもとという条件じょうけんかれ皇帝こうてい承認しょうにんすることとなり[59]かれは「ブルガリアじんとローマじん皇帝こうてい」を自称じしょうした[51]一方いっぽうシメオンは、917ねんにセルビアにも侵攻しんこうしてそのペタル・ゴイニコヴィチ英語えいごばんらえたため(ブルガリア・セルビア戦争せんそう (917-924ねん)英語えいごばん)、あらたなおおやけにはパヴレ・ブラノヴィチ英語えいごばん即位そくいした[57]ひがしローマはパヴレをブルガリアにけさせたため、シメオンは921ねんにパヴレを退位たいいさせてザハリエ・プリビスラヴレヴィチ英語えいごばん即位そくいさせたが、ザハリエはシメオンとの同盟どうめい破棄はきした[57]。ブルガリアぐんチャスラヴ・クロニミロヴィチ擁立ようりつして924ねんにセルビアを制圧せいあつ、ザハリエはだっしたが、逃亡とうぼうさきのクロアチアおうトミスラヴ援軍えんぐん派遣はけんしたことでブルガリアがわ撤退てったい余儀よぎなくされた[52]

926ねんにはシメオンがブルガリアだい主教しゅきょうそう主教しゅきょう格上かくあげし、ブルガリア正教会せいきょうかいをコンスタンティノープルから独立どくりつさせたが[60]、その翌年よくねん死亡しぼうペタル1せい英語えいごばん在位ざいい:927〜968ねん)が即位そくいしたのちも、ひがしローマがわはペタルも皇帝こうていあつか毎年まいとしのように黄金おうごんおくった[59]。これにより、ひがしマ帝国まていこくにとってのキリスト教きりすときょうこく序列じょれつにおいて、ブルガリアは特殊とくしゅ地位ちいにあるとなされるようになり、晩餐ばんさんかいなどでは名誉めいよ席次せきじてられた[61]。また、ブルガリア帝国ていこく安全あんぜん保障ほしょう獲得かくとくしつつも、ひがしローマの統治とうちにはくわわらないことを宣言せんげんし、ひがしローマがわぜんキリスト教徒きりすときょうと保護ほごする皇帝こうてい頂点ちょうてんくという政治せいじ理論りろん理屈りくつづけした[59]。40年間ねんかんという期限きげんきの講和こうわ条約じょうやくふたたむすばれたことでこうした見返みかえりをたブルガリアであったが、912ねん以降いこう獲得かくとくした領土りょうどについては返還へんかんし904ねん条約じょうやくもとづいて国境こっきょう画定かくていされた[62]。しかし、シメオンに忠実ちゅうじつだった派閥はばつあいだでは不満ふまんしょうじており、かれ息子むすこヨアンやミハイル英語えいごばんなどが反乱はんらんこしたため国力こくりょくよわまり、943ねんごろには北西ほくせいのマジャルと北東ほくとうのペチェネグの侵略しんりゃくさらされた[63]

衰退すいたい崩壊ほうかい

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ブルガリア帝国ていこく弱体じゃくたいはマジャルやひがしローマなどとの継続けいぞくてき戦役せんえきという外的がいてき要因よういん、そして以下いかのような国内こくないでの格差かくさ拡大かくだいという内的ないてき要因よういんんだものである[64]。シメオン死後しごのブルガリアでは皇帝こうてい権威けんい低下ていかともなって貴族きぞく土地とち所有しょゆうりょうやし、農民のうみんへの圧力あつりょくたかまったためかれらが政府せいふ教会きょうかい反乱はんらんこすことがあり、パウロボゴミル教義きょうぎ普及ふきゅうがこれらの反乱はんらん後押あとおししていた[65]。また、9世紀せいき後半こうはんから10世紀せいき前半ぜんはんにかけてのブルガリア社会しゃかいでは階層かいそう進行しんこうし、特権とっけん聖職せいしょくしゃ貴族きぞく重税じゅうぜい強制きょうせい労働ろうどうあえ農民のうみんとのあいだ格差かくさ拡大かくだいしていた[66]教会きょうかい君主くんしゅ奉仕ほうししたことでその腐敗ふはい顕著けんちょになり、聖職せいしょくしゃらの言行げんこう差異さいてきたことが階級かいきゅう闘争とうそうあおり、社会しゃかい不正ふせい糾弾きゅうだんするボゴミルのような異端いたんしょうじさせたのである[66]。ボゴミル善悪ぜんあく二元論にげんろんでは皇帝こうていやその従者じゅうしゃかみきらわれる存在そんざいとし、腐敗ふはいした教会きょうかい公的こうてき教義きょうぎ典礼てんれい否定ひていしたため、国家こっか教会きょうかいにとっての脅威きょういであった[67]

皇帝こうていボリス2せい肖像しょうぞう

963ねんひがしローマ皇帝こうていニケフォロス2せいフォカス即位そくいするとペタルは条約じょうやく更新こうしんしたが、息子むすこボリス2せい英語えいごばんロマン英語えいごばん人質ひとじちとしてコンスタンティノープルにおくらされた[68]上述じょうじゅつ皇帝こうてい承認しょうにんには、ブルガリアがトルコけい民族みんぞく侵入しんにゅうふせぐことも期待きたいされていたが[69]、ペタルはそのための防衛ぼうえいりょく行使こうししないどころか965ねんにマジャルと協定きょうていむすび、マジャルはブルガリアを侵略しんりゃくしないわりにそのひがしローマ進軍しんぐんのブルガリア通過つうかみとめられた[70]。これをけたひがしローマがわよく966ねんにブルガリアに侵攻しんこうしたが失敗しっぱいしたため[70]報酬ほうしゅう前払まえばらいしてキエフ大公たいこうこくスヴャトスラフ1せい攻撃こうげきさせ(スヴャトスラフ1せいのブルガリア侵攻しんこう)、ブルガリアはのプレスラフをとされた[71]病床びょうしょうについたペタルにわり即位そくいしたボリス2せい在位ざいい:969〜971ねん)はひがしローマに支援しえんうたが返信へんしんがなかったため、ぎゃくにスヴャトスラフと結託けったくしてひがしローマを攻撃こうげきすることとなった[70]。しかしマジャルとペチェネグもんだにもかかわらず、連合れんごうぐん970ねんアルカディオポリスのたたかにてひがしローマにやぶられた[70]よく971ねんひがしローマ皇帝こうていヨハネス1せいツィミスケスはバルカン山脈さんみゃく通過つうかしてプレスラフをとしブルガリアを降伏ごうぶくさせ、3ヵ月かげつおよんだドゥロストロン要塞ようさい包囲ほういせん英語えいごばんでもスヴャトスラフのキエフぐんから講和こうわ条約じょうやくした[72]隣国りんごく異教徒いきょうとのロシアじん居座いすわることをきちとしなかったひがしローマがわは、ボリス2せい救出きゅうしゅつしキエフぐん撃退げきたいしたが、ドナウがわ以南いなん元来がんらいひがしローマりょうであったことを口実こうじつかれはコンスタンティノープルへ連行れんこうされた[73]。ブルガリア東部とうぶモエシアひがしローマのぞくしゅうとなり、ドナウがわ北岸ほくがん西にしメソポタミアという行政ぎょうせい単位たんいとなった[74]先代せんだいによる数々かずかず戦役せんえきともあいまって国力こくりょく疲弊ひへいしていたブルガリアは、こうして一時いちじひがしローマの従属じゅうぞくこくとなった[60]どう971ねんひがしローマとキエフ・ルーシが締結ていけつした条約じょうやくではボリス2せい退位たいいめられ、ブルガリア教会きょうかいふたたびコンスタンティノープルそう主教しゅきょう麾下きかはいった[60]

コメトプリ治世ちせいのブルガリアりょうみどり

戦乱せんらんまぬかれたブルガリア西部せいぶでは捕虜ほりょとなった皇族こうぞくわって教会きょうかい権力けんりょくしゃとなり、コメス(伯爵はくしゃくニコラス英語えいごばん息子むすこらであったダヴィド、モセス、アアロンサムイルの4めい統治とうちした[74]976ねんコメトプリ英語えいごばんばれるかれら4めいひがしローマにたいして戦端せんたんひらき、最後さいごのこったサムイル(在位ざいい:976〜1014ねん)が君主くんしゅとなった(オフリド[74]。サムイルはバシレイオス2せいひきいるひがしローマぐん撃破げきはし、ヘラスおよびペロポネソス地方ちほう軍事ぐんじ拠点きょてん次々つぎつぎ破壊はかいしていった[75]985ねんラリサ占拠せんきょしたさいには「ブルガリアじん皇帝こうてい」として戴冠たいかんしきもよおし、その影響えいきょうとして現代げんだいのブルガリア各地かくちではかれりた街道かいどうめいられる[76]986ねんにはバシレイオスが反撃はんげき開始かいししたがトラヤヌスのもんたたかやセルディカ包囲ほういには失敗しっぱいし、サムイルにブルガリア東部とうぶ攻撃こうげきされた[77]。ブルガリアがわは、バシレイオスから991ねんからの4年間ねんかんにわたり毎年まいとし戦闘せんとう仕掛しかけられたが[78]、サムイルは995ねんにデュラキウムを、996ねんにはサロニカ、テッサリアボイオーティアアッティカとし、ペロポネソス半島はんとうにまで到達とうたつした[77]。しかし、997ねんスペルヒオスがわたたかではニケフォロス・ウラノス英語えいごばんひきいるひがしローマぐんやぶれた[78]ひがしローマがわ南方なんぽうのイスラム勢力せいりょく対抗たいこうする必要ひつようてきたためにここで休戦きゅうせん協定きょうていむすばれ、ブルガリアがわ998ねんまでのあいだにセルビアに侵攻しんこうアドリア海あどりあかい沿岸えんがん、ボスニア、そしてラシュカ制圧せいあつした[77]

クレディオンのたたかいでサムイルぐんついはしするひがしローマぐんうえ)とサムイルのした

ムスリムとの戦闘せんとういたひがしローマがわ1001ねんから攻撃こうげき再開さいかいし、プレスラフ、プリスカ、ドゥロストロン、テッサリアを次々つぎつぎ占拠せんきょしてブルガリア南部なんぶ要塞ようさい陥落かんらくさせた[79]1002ねんにはドナウがわ沿いのヴィディン要塞ようさいを8ヵ月かげつかけて攻略こうりゃくし、1004ねんスコピエのたたか英語えいごばんでもブルガリアに勝利しょうりした[80]。この度重たびかさなる攻撃こうげきでブルガリアがわ国境こっきょう防衛ぼうえい反撃はんげき用意よういができなかったが、1009ねんから1013ねんにかけてのひがしローマぐんみなみイタリアに出兵しゅっぺいしたためつか休息きゅうそくれた[80]。1014ねんクレディオンのたたかではひがしローマがわが、テッサロニキのドゥークスにたいしてはブルガリアがそれぞれ勝利しょうりおさめた[78]。クレディオン戦後せんごには、ブルガリアじん捕虜ほりょを100にんにつき1にんのみ片目かためのこし、その全員ぜんいん両目りょうめをくりくという刑罰けいばつしょ母国ぼこく送還そうかんさせたとつたえられているが[81]、これについては創作そうさくだとする見方みかたもある[82]。この直後ちょくごにサムイルが死亡しぼうするとガヴリル・ラドミル英語えいごばんビトラ皇位こういいたが、このもなくとされ、1015ねんにはガヴリルをころしてイヴァン・ヴラディスラフ英語えいごばん即位そくいした[80]同年どうねんのオフリド攻防こうぼうせんでは一時いちじ占領せんりょうされるも、ひがしローマぐん撃退げきたいした[80]。そしてひがしローマぐんがオフリドにせまった1018ねん、イヴァンがデュラキオン戦死せんしつまマリア英語えいごばん降伏ごうぶく宣言せんげんしたことで[78][83]、ブルガリアはついひがしローマりょうまれた[84]

その

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ブルガリア貴族きぞくのなかのひがしローマ抗戦こうせん現代げんだいアルバニアへとだっして抵抗ていこうしたが、やがてひがしローマぐん降伏ごうぶくした[83]。ブルガリア全土ぜんどひがしマ帝国まていこくテマせいした再編さいへんされ、オフリド、のちにセルディカに総督そうとく設置せっちされたほか、ブルガリアのそう主教しゅきょうはオフリドだい主教しゅきょう格下かくさげとなった[83]

ブルガリアの宮廷きゅうていにある財宝ざいほう略奪りゃくだつされたものの、マリアとその子息しそくらはバシレイオスのもとれられ、彼女かのじょはゾーステー・パトリキアの称号しょうごうあたえられたほか、おおくのブルガリアじん貴族きぞくらもひがしローマの爵位しゃくい授与じゅよされコンスタンティノープルにかった[78]。バシレイオスはブルガリアじん男性だんせい貴族きぞくひがしローマじん女性じょせいの、一方いっぽう女性じょせい貴族きぞくひがしローマじん男性だんせい婚姻こんいんをそれぞれうながすことで、戦後せんご両国りょうこく出身しゅっしんしゃ円滑えんかつ関係かんけい構築こうちく目指めざした[85]かれはまた、ブルガリアじんによる金銭きんせんでなく物納ぶつのうによるぜい支払しはらいという慣習かんしゅう続行ぞっこうみとめていたが[85]その負担ふたんおもく、スラヴ文献ぶんけん廃棄はいきされ典礼てんれい用語ようごもギリシアにされるなどギリシア政策せいさくすす[86]ミカエル4せい治世ちせいにおける浪費ろうひのために納税のうぜい方法ほうほう現金げんきんわると、ブルガリアじん反乱はんらんこすことになった[87]。そのイサキオス2せいアンゲロス治世ちせいにもブルガリアじん反乱はんらんきると、12世紀せいき当時とうじ歴史れきしニケタス・コニアテスはバシレイオスの業績ぎょうせきかえり、かれをヴルガロクトノス(ブルガリア人殺ひとごろし)とんだ[88]

政治せいじ

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行政ぎょうせい

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7世紀せいきから部族ぶぞくあいだ自治じちてき連合体れんごうたいだったブルガリアは、9世紀せいき前半ぜんはんごろに部族ぶぞく解体かいたいして中央ちゅうおう集権しゅうけんした[89]国家こっかのトップはカナ・ウビギ(だいあせ)の称号しょうごうち、長子ちょうし相続そうぞく原則げんそくとして神権しんけんによる絶対ぜったいてき権力けんりょくにしていた[89]。その象徴しょうちょう王冠おうかんつえのほか、宝珠ほうしゅ黄金おうごんけんあかいマントと長靴ながぐつなどであり、キリストきょう普及ふきゅうまえ皇帝こうていだい祭司さいしねた[89]一部いちぶ統治とうちけんだい貴族きぞく最高さいこうカフカンがゆうし、共同きょうどう支配しはいしゃだった当初とうしょからやがてだいあせ最高さいこう顧問こもんにまで格上かくあげされ、このほかにも統治とうちするイチルグボイラ英語えいごばんといったおおくの官位かんい存在そんざいした[90]

社会しゃかい構造こうぞう階級かいきゅう

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ıYıのシンボルはドゥロだいいちブルガリア帝国ていこく関連付かんれんづけられる。

中世ちゅうせいブルガリアにてスラヴぞくとブルガールぞく共同きょうどうたいだった当初とうしょ社会しゃかい解体かいたいされて封建ほうけんせい主体しゅたいとなり、9世紀せいきから10世紀せいきにかけて「ムジ」とばれた貴族きぞくぐん官僚かんりょうそう主教しゅきょう修道院しゅうどういんちょうといった高位こうい聖職せいしょくしゃ、「ポヴィンニキ」とばれた民衆みんしゅう低位ていい聖職せいしょくしゃからなる社会しゃかい階級かいきゅう成立せいりつした[91]貴族きぞくらは一定いってい軍事ぐんじまたは行政ぎょうせいしょくつとめ、大抵たいてい世襲せしゅうせいであった[91]民衆みんしゅうのなかでは共同きょうどうたい成員せいいんであった自由じゆう農民のうみん最多さいた割合わりあいめたが、土地とちたない農民のうみん没落ぼつらくした職人しょくにん貧民ひんみんそうとして貴族きぞく土地とち奉仕ほうししたり農奴のうどとなり、封建ほうけん領主りょうしゅ農奴のうどは「パリツィ」、高位こうい聖職せいしょくしゃ修道院しゅうどういん農奴のうどは「クリリツィ」とばれた[91]教会きょうかい特殊とくしゅ位置付いちづけをめたことで高位こうい聖職せいしょくしゃ修道院しゅうどういんおおくの特権とっけんをもたらした一方いっぽう農民のうみんとともに生活せいかつしていた教区きょうく司祭しさいなどはかれらと同様どうよう納税のうぜい賦役ふえき義務ぎむっていた[91]最下さいかそう奴隷どれい戦争せんそう捕虜ほりょであり、おも家僕かぼく大工だいくとしてつとめたほか、ひがしローマへの輸出ゆしゅつひんとしてあつかわれることもあった[89]

経済けいざい

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ブルガリアじんおも農業のうぎょう畜産ちくさんぎょう一部いちぶ地域ちいきではブドウなどの果実かじつ栽培さいばいして生計せいけいてており、すきうすひがしローマから輸入ゆにゅうされた水車みずぐるまもちいていた[92]初期しょきには自給自足じきゅうじそく主流しゅりゅうだった経済けいざいも、やがて手工業しゅこうぎょう農業のうぎょう分離ぶんりされまち貿易ぼうえきはじめられた[92]。その中心ちゅうしん町村ちょうそん市場いちば定期ていきであり、とく修道院しゅうどういんにて祭日さいじつひらかれたものでは外国がいこく商人しょうにん参入さんにゅうするだい規模きぼなものであった[92]ひがしローマには奴隷どれい亜麻あまあさ製品せいひん蜂蜜はちみつろう獣皮じゅうひなどを輸出ゆしゅつし、きぬ衣服いふく金糸きんし織物おりものたからたまイコンなどを輸入ゆにゅうした[92]。モラヴィア、フランク王国おうこく、マジャルからはドナウがわつうじてしお農作物のうさくもつを、ロシアからは毛皮けがわ奴隷どれい輸入ゆにゅうし、ウマぎん陶器とうき宝石ほうせきなどをそれぞれに輸出ゆしゅつした[92]

都市とし計画けいかく

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最初さいしょプリスカはじゅう防衛ぼうえいせんかこまれた、外城とじょうやく23平方へいほうキロ、内城うちじろやく0.5平方へいほうキロ[93]およ巨大きょだい要塞ようさいであり、ほり土手どてでできた外側そとがわなかには市民しみん住宅じゅうたくが、石灰岩せっかいがん城壁じょうへき内部ないぶには宮廷きゅうていがあり、君主くんしゅとその家族かぞく居住きょじゅうしていた[94]だい規模きぼ建造けんぞうぶつはブルガールしき伝統でんとうによりてられたが、ひがしローマやアナトリア半島はんとう様式ようしきにも影響えいきょうされており、プリスカ以外いがいにもプレスラフやブルガリア北東ほくとうなどに存在そんざいしていた[95]。シメオンにより28ねんもの歳月さいげつついやして建設けんせつされた帝都ていとプレスラフはたかいし城壁じょうへきじゅう防衛ぼうえいせん構成こうせいするものであり、内城うちじろには宮廷きゅうてい外城とじょうには教会きょうかい商店しょうてん工房こうぼうなどをふくみ3.5平方へいほうキロの面積めんせきゆうした[96]

オフリド、プレスパ英語えいごばんプリレプ、ビトラにおいて10世紀せいきまつからつくられた宮殿きゅうでん城砦じょうさいは、プレスラフの基本きほん様式ようしきならいつつひがしローマふう影響えいきょうがさらにつよまっていた[97]市民しみん住宅じゅうたく小屋こや横穴よこあなしき住居じゅうきょ主流しゅりゅうであったが、都市としには石造せきぞうのものも存在そんざいした[97]

文化ぶんか

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中世ちゅうせい初期しょきのブルガリア文化ぶんかは7世紀せいきから9世紀せいきなかばまでの異教いきょう中心ちゅうしん時期じきと、それ以降いこうから12世紀せいきごろまでのキリスト教きりすときょう影響えいきょうされた時期じきけることが可能かのうである[94]前者ぜんしゃはブルガールじんとスラヴじん別々べつべつにそれぞれの文化ぶんか継承けいしょうしていたが、後者こうしゃではひがしローマの文明ぶんめい影響えいきょうされながら発展はってんし、とくにスラヴじんにとって啓蒙けいもうどころとなった[94]

いし

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初期しょきキリスト教きりすときょうのレリーフ

ブルガリアの建築けんちくにはいしいしせいレリーフおお使つかわれており、とくキリスト教きりすときょう普及ふきゅう以前いぜんのそれらは独特どくとくなデザインを[98]。8世紀せいき初頭しょとうマダラの騎士きしぞう中世ちゅうせいブルガリアを代表だいひょうする遺物いぶつであり、世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされている[99]騎士きしぞうたて2.6メートル、よこ3メートルほどの規模きぼで、ぞううえにテルヴェル、左下ひだりしたにコルミソシュ、みぎにオムルタグにかんする碑文ひぶんがそれぞれきざまれ、ぞうそのものはテルヴェルをモデルにしたとされている[100]。プレスラフの宮廷きゅうてい教会きょうかいではライオンゾウウサギといった動物どうぶつ彫刻ちょうこく制作せいさくされ、同様どうようのものがスタラ・ザゴラソゾポルでも発見はっけんされた[101]プレスパバシリカやオフリドのハギア・ソフィア教会きょうかい装飾そうしょく様式ようしきした一方いっぽう、キリストきょうひろまるとクジャクグリフォンのレリーフ、十字架じゅうじかなどひがしローマ様式ようしき影響えいきょういしおよぼした[101]がオフリドに遷るといしすたれ、わりに絵画かいが発展はってんした[101]

絵画かいが

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900ねんごろのせいテオドロス英語えいごばん陶製とうせいイコン

中世ちゅうせいブルガリア初期しょき絵画かいが動物どうぶつふね道具どうぐ人間にんげんとその生活せいかつなどをあらわした、プリスカやプレスラフの城壁じょうへききざまれた線画せんがのほか、セルディカ、オフリド、プレスパなどの教会きょうかいにあった壁画へきがである[101]。シメオンの治世ちせいでは宮廷きゅうてい教会きょうかい装飾そうしょくぶつとして陶器とうきおお採用さいようされ、修道院しゅうどういん工房こうぼうつくられた[101]。タイルは植物しょくぶつ幾何きかがく模様もよういろどられ、聖書せいしょ一節いっせつをキリル文字もじしるした場合ばあいもあり、聖人せいじん陶製とうせいイコンは9世紀せいきなかばのひがしローマ様式ようしき伝統でんとうけたものである[101]

9世紀せいきまつから10世紀せいき前半ぜんはんにはプレスラフとオフリドの修道院しゅうどういん装飾そうしょく図解ずかいともな写本しゃほん熱心ねっしんつくられ、現代げんだいではほとんどうしなわれたがそれにならったロシアの写本しゃほんには装飾そうしょくおお散見さんけんされる[102]。この装飾そうしょく起源きげんひがしマ帝国まていこく様式ようしきにあるが、プレスラフの陶器とうきのスタイルやいろ使づかいを流用りゅうようしたものもあった[102]

文字もじ

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オフリドのクリメントのイコン

ブルガリア帝国ていこく誕生たんじょうからあいだもないころ中世ちゅうせいギリシアギリシア文字もじ、なかでもそのアンシアルたい使つかわれており、ギリシア文字もじブルガール表記ひょうきされる場合ばあいもあった[103]

やがてブルガール・スラヴじん社会しゃかいにおいて、ひがしローマ教会きょうかいキュリロスとメトディウス兄弟きょうだいとその弟子でしらによりスラヴ文字もじひろまった[104]。ボリス1せい庇護ひごしたかれらはオフリドのある現代げんだいのマケドニア地域ちいきのプリスカなどを拠点きょてんにスラヴ典礼てんれいのための聖職せいしょくしゃ教育きょういくになった[104]かれらはグラゴル文字もじつくったが、現地げんち普及ふきゅうしていたアンシアルたいをベースにキリル文字もじ発明はつめいし、きが容易たやすかったこともありそれがグラゴル文字もじえていった[103]弟子でし1人ひとりであったオフリドのクリメントは、異教徒いきょうと住民じゅうみんをキリストきょう改宗かいしゅうさせてスラヴ典礼てんれい実施じっしするためのブルガリアじん聖職せいしょくしゃ育成いくせいした[104]オフリドのナウム英語えいごばんは、プリスカのだいバシリカ近郊きんこう学校がっこう開設かいせつして典礼てんれいしょ文献ぶんけん翻訳ほんやく普及ふきゅうさせ、クリメントが主教しゅきょう着任ちゃくにんするとかれはオフリドにうつってクリメントの業務ぎょうむいだ[104]

系図けいず

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判明はんめいしているもののみしめす。

ドゥロ

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クブラト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バトバヤン
くろブルガール)
 
コトレグ
ヴォルガ・ブルガール
 
アスパルフ
ブルガリア帝国ていこく建国けんこく
 
クベール
(マケドニア)
 
アルツェク
みなみイタリア)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ペタル・デリャン
(ペタル2せい
 
プレシアン2せい
 
アルシアヌス
 

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
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  8. ^ Bakalov, Georgi (2011) (ブルガリア). Средновековие и съвременност/Middle ages and the modern times, page 222: original quote in Bulgarian: "В средата на 10 век Българската държавна територия покрива площ от 240 000 кв км., което нарежда Дунавска България сред шестте най-големи европейски държави, наред с Византия, Киевска Рус, Волжка България, Франция и Свещената Римска империя.". Sofia University"St Kliment Ohridski". ISBN 978-954-07-2935-0 
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参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
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  • 井上いのうえ, 浩一こういち栗生沢くりゅうざわ, 猛夫たけお「ビザンツ せんねん帝国ていこくのあゆみ」『世界せかい歴史れきし 11 ビザンツとスラヴ』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1998ねん 
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  • 中谷なかたに, こう『ビザンツ帝国ていこく せんねん興亡こうぼう皇帝こうていたち』中公新書ちゅうこうしんしょ、2020ねん 
  • ハリス, ジョナサン ちょ井上いのうえ浩一こういち やく『ビザンツ帝国ていこく 生存せいぞん戦略せんりゃくいちせんねん白水しろみずしゃ、2018ねん 
  • ヘリン, ジュディス ちょ高田たかだ良太りょうた やく「ビザンツの多様たようせい」『ビザンツ おどろくべき中世ちゅうせい帝国ていこく井上いのうえ浩一こういちかんやく)、白水しろみずしゃ、2010ねん 
  • 森安もりやす, 達也たつや今井いまい, 淳子じゅんこ『ブルガリア 風土ふうど歴史れきし恒文社こうぶんしゃ、1981ねん 

関連かんれん項目こうもく

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