この項目 こうもく では、キエフ・ルーシについて説明 せつめい しています。その他 た のルーシについては「ルーシ 」をご覧 らん ください。
キエフ大公 たいこう 国 こく
Kievan Rus' Русь
(キエフ大公 たいこう 国 こく の旗 はた とされているもの)
(国 くに 章 あきら )
キエフ大公 たいこう 国 こく (キエフたいこうこく、古 こ 東 ひがし スラヴ語 ご : Роусь (ルーシ )、英 えい : Kyivan Rus')[1] [2] は、9世紀 せいき 後半 こうはん から13世紀 せいき 半 なか ばにかけて、東 ひがし ヨーロッパ および北 きた ヨーロッパ に存在 そんざい した国家 こっか 。東 ひがし スラヴ人 じん 、バルト人 じん およびフィンランド人 じん を含 ふく み、ヴァリャーグ の王子 おうじ リューリク によって創設 そうせつ されたリューリク朝 あさ の治世 ちせい 下 か で複数 ふくすう の公国 こうこく が緩 ゆる やかに連合 れんごう していた[3] [4] [5] 。 ベラルーシ 、ロシア 、ウクライナ の現代 げんだい の国家 こっか はいずれもキエフ大公 たいこう 国 こく を文化 ぶんか 的 てき な祖先 そせん とし[6] 、ベラルーシとロシアはそれ(ルーシ)に由来 ゆらい する名称 めいしょう である(そのため、キエフは「ロシアの都市 とし の母 はは 」とされている[7] )。リューリク朝 あさ は16世紀 せいき にロシア・ツァーリ国 こく となるまで大 だい 公国 こうこく の一部 いちぶ を支配 しはい し続 つづ けた[8] 。11世紀 せいき 半 なか ばの最大 さいだい 時 じ には、北 きた は白 しろ 海 うみ から南 みなみ は黒海 こっかい 、西 にし はヴィスワ川 がわ の源流 げんりゅう から東 ひがし はタマン半島 はんとう まで広 ひろ がり、東 ひがし スラヴ民族 みんぞく の大半 たいはん を束 たば ねた。
原初 げんしょ 年代 ねんだい 記 き によれば、東 ひがし スラヴの諸 しょ 地域 ちいき を現在 げんざい のキエフ大公 たいこう 国 こく に統合 とうごう し始 はじ めた最初 さいしょ の統治 とうち 者 しゃ はオレグ 大公 たいこう (879年 ねん -912年 ねん )である。彼 かれ は東 ひがし からのハザール人 じん の侵入 しんにゅう から貿易 ぼうえき を守 まも るため、ノヴゴロド からドニエプル川 がわ 流域 りゅういき に沿 そ って南 みなみ へ支配 しはい 地域 ちいき を広 ひろ げ[3] 、首都 しゅと をより戦略 せんりゃく 的 てき なキエフ に移 うつ した。スヴャトスラフ1世 せい (972年 ねん 没 ぼつ )は、ハザール人 じん と征服 せいふく 戦争 せんそう を行 おこな い、キエフ大公 たいこう 国 こく の領土 りょうど を初 はじ めて大 おお きく拡大 かくだい した。ウラジーミル大帝 たいてい (980年 ねん -1015年 ねん )は、自 みずか らの洗礼 せんれい によってキリスト教 きょう を導入 どうにゅう し、勅 みことのり 令 れい によってキエフとその周辺 しゅうへん のすべての住民 じゅうみん にキリスト教 きりすときょう を広 ひろ めた(これが、ロシア正教会 せいきょうかい の起点 きてん とされる[9] )。キエフ大公 たいこう 国 こく は賢者 けんじゃ ヤロスラフ1世 せい (1019年 ねん -1054年 ねん )の時代 じだい に最大 さいだい 規模 きぼ に達 たっ し、彼 かれ の息子 むすこ たちは彼 かれ の死後 しご すぐに最初 さいしょ の成文法 せいぶんほう である『ルースカヤプラウダ (「ルーシの正義 せいぎ 」)』を編纂 へんさん ・発行 はっこう した[10] 。
11世紀 せいき 後半 こうはん から12世紀 せいき にかけて衰退 すいたい し始 はじ め、様々 さまざま な地域 ちいき 勢力 せいりょく に分裂 ぶんれつ した[11] 。さらにコンスタンティノープル の衰退 すいたい [12] による東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との商業 しょうぎょう 関係 かんけい の崩壊 ほうかい 、それに伴 ともな う領土 りょうど 内 ない の通商 つうしょう 路 ろ の減少 げんしょう など、経済 けいざい 的 てき 要因 よういん によっても弱体 じゃくたい 化 か した。1240年代 ねんだい にモンゴルの侵攻 しんこう を受 う け、ついに国家 こっか は崩壊 ほうかい した。
中世 ちゅうせい 時代 じだい の史料 しりょう で確認 かくにん できるルーシの正式 せいしき な国名 こくめい は「ルーシ」のみである[注 ちゅう 1] 。ルーシとは、『サンベルタン年代 ねんだい 記 き 』の839年 ねん の記述 きじゅつ においてはヴァリャーグ を指 さ していた[13] 。後 のち にその意味 いみ は転 てん じ、狭義 きょうぎ にはキエフ地域 ちいき (ただしドレヴリャーネ族 ぞく ・ドレゴヴィチ族 ぞく の地 ち を除 のぞ く)、チェルニゴフ-セヴェルスキー 地域 ちいき (ただしラヂミチ族 ぞく ・ヴャチチ族 ぞく の地 ち を除 のぞ く)と、ペレヤスラヴリ地域 ちいき を指 さ していた(ルーシ (地名 ちめい ) 参照 さんしょう )。狭義 きょうぎ のルーシの用法 ようほう は、13世紀 せいき 直前 ちょくぜん まで用 もち いられており、たとえばノヴゴロド の史料 しりょう などにおいてその使用 しよう 例 れい が確認 かくにん できる[14] 。しかし、近世 きんせい 時代 じだい 以後 いご ルーシの政治 せいじ 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 遺産 いさん をめぐって東欧 とうおう 諸国 しょこく が争 あらそ ったことから、現在 げんざい の学術 がくじゅつ 文献 ぶんけん ではルーシの正式 せいしき な国号 こくごう の代 か わりに以下 いか のような人工 じんこう 的 てき な学術 がくじゅつ 用語 ようご が用 もち いられることが多 おお い。
キエフ・ルーシ[注 ちゅう 2]
19世紀 せいき 初頭 しょとう のロシア帝国 ていこく の歴史 れきし 学者 がくしゃ 、ニコライ・カラムジン が『ロシア国家 こっか の歴史 れきし 』において初 はじ めて用 もち いた概念 がいねん [注 ちゅう 3] 。大公 たいこう 座 ざ の置 お かれていた場所 ばしょ からこう呼 よ ばれる。近代 きんだい ・現代 げんだい の学術 がくじゅつ 文献 ぶんけん において広 ひろ く用 もち いられているが、中世 ちゅうせい ・近世 きんせい 時代 じだい の史料 しりょう では見 み られない。
ウクライナ=ルーシ
20世紀 せいき 初頭 しょとう のウクライナの歴史 れきし 学者 がくしゃ 、ミハイロ・フルシェフスキー が『ウクライナ=ルーシの歴史 れきし 』Kievan Rus'において初 はじ めて用 もち いられた概念 がいねん [16] 。ルーシ のあった土地 とち から命名 めいめい した。ウクライナ こそがルーシの後継 こうけい 者 しゃ であるとする主張 しゅちょう である。フルシェフスキーの系統 けいとう を汲 く む学者 がくしゃ が用 もち いる。
キエフ・ロシア
ロシア こそがルーシの後継 こうけい 者 しゃ であると主張 しゅちょう する、カラムジンの系統 けいとう を汲 く む学者 がくしゃ が用 もち いる概念 がいねん 。
ルーシ大公 たいこう 国 こく (~たいこうこく)
近世 きんせい のポーランド王国 おうこく とリトアニア大公 たいこう 国 こく の諸 しょ 年代 ねんだい 記 き に見 み られる概念 がいねん 。15世紀 せいき のリトアニア大公 たいこう 国 こく の内乱 ないらん 中 ちゅう にヴォルィーニ で興亡 こうぼう した大公 たいこう 国 こく 、また17世紀 せいき 半 なか ばドニプロ・ウクライナ で存在 そんざい したコサック国家 こっか の正式 せいしき な国号 こくごう に由来 ゆらい する。
キエフ国家 こっか (~こっか)
西欧 せいおう ・日本 にっぽん の学術 がくじゅつ 文献 ぶんけん に使用 しよう されている名称 めいしょう 。国民 こくみん 国家 こっか 史観 しかん の影響 えいきょう により生 しょう じた「ルーシ」と「ロシア」の用語 ようご の混合 こんごう を回避 かいひ するために用 もち いる。
8 -9世紀 せいき の東 ひがし スラヴ人 じん
ルーシ最古 さいこ の年代 ねんだい 記 き である『ルーシ原初 げんしょ 年代 ねんだい 記 き 』(『過 す ぎし年月 としつき の物語 ものがたり 』)によれば、ノヴゴロド (ホルムガルド)に拠 よ って最初 さいしょ のルーシ の国家 こっか (ルーシ・カガン国 こく )を建設 けんせつ したといわれるリューリク の子 こ 、イーゴリ を擁 よう した一族 いちぞく のオレグ が882年 ねん 頃 ごろ 、ドニエプル川 がわ 流域 りゅういき のキエフを占領 せんりょう して国家 こっか を建 た てたのが始 はじ まりであるとされている。なお、この国家 こっか を建設 けんせつ したと年代 ねんだい 記 き が記 しる している「海 うみ の向 む こうのヴァリャーグ 」がノルマン人 じん なのかそうでないのかには議論 ぎろん の余地 よち があるが、ノルマン人 じん が関与 かんよ していたことはほぼ間違 まちが いないとされている[17] (彼 かれ らの言語 げんご は古 こ ノルド語 ご であったが、次第 しだい に古 こ 東 ひがし スラヴ語 ご へと変遷 へんせん して行 い ったと推定 すいてい されている)。建国 けんこく 当初 とうしょ はまだキリスト教 きりすときょう 化 か もしておらず、ペルーン などの固有 こゆう の神 かみ 々を信仰 しんこう していた。一方 いっぽう でソ連 それん の学者 がくしゃ M・チホミロフは、「ルーシ」という名前 なまえ は9世紀 せいき から知 し られており、キエフを中心 ちゅうしん とした東 ひがし スラヴ人 じん ポリャーネ族 ぞく の国 くに の国号 こくごう であったと論 ろん じており、それがヴァリャーグによって征服 せいふく され大 だい 公国 こうこく として成立 せいりつ したという説 せつ もある。
建国 けんこく より10世紀 せいき までの歴代 れきだい 支配 しはい 者 しゃ 、すなわちオレグ 、イーゴリ1世 せい 、そしてその寡婦 かふ オリガ は周囲 しゅうい の東 ひがし スラヴ諸 しょ 民族 みんぞく を次々 つぎつぎ に支配 しはい 下 か に収 おさ めて勢力 せいりょく を拡大 かくだい 。また、南 みなみ に位置 いち する大国 たいこく 東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく とも数 すう 度 ど 戦 たたか い、帝国 ていこく の首都 しゅと ツァリグラード (ミクラガルド)を攻撃 こうげき した(ルーシ・ビザンツ戦争 せんそう )。いずれの戦 たたか いも当時 とうじ マケドニア王朝 おうちょう 支配 しはい 下 か で国力 こくりょく を上昇 じょうしょう させていた東 ひがし ローマに撃退 げきたい されているが、これらの接触 せっしょく を通 つう じて帝国 ていこく の首都 しゅと コンスタンティノポリスとキエフの間 あいだ には商人 しょうにん が行 い き来 き し、次第 しだい に東 ひがし ローマの文化 ぶんか やキリスト教 きりすときょう がルーシに流 なが れ込 こ むようになっていく。オリガに至 いた っては東 ひがし ローマ皇帝 こうてい コンスタンティノス7世 せい を代 だい 父 ちち としてキリスト教 きりすときょう の洗礼 せんれい を受 う けたといわれている。
オリガの息子 むすこ スヴャトスラフ1世 せい の時代 じだい 、キエフ大公 たいこう 国 こく は大 おお きく勢力 せいりょく を伸 の ばす。965年 ねん にはハザール・カン国 こく に大 だい 打撃 だげき を与 あた え、ハザールに貢 みつげ 納 おさめ していたヴォルガ川 がわ 上 うえ 流域 りゅういき のヴャチチ族 ぞく を服属 ふくぞく させた。さらにスヴャトスラフは南西 なんせい へ転戦 てんせん して、968年 ねん にはブルガリア帝国 ていこく に侵攻 しんこう 。一 いち 度 ど は撤退 てったい したが、971年 ねん に再度 さいど ブルガリアへ遠征 えんせい してこれを撃破 げきは 。そのまま東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく へ兵 へい を進 すす め、帝国 ていこく のヨーロッパ 側 がわ 領土 りょうど を明 あかり 渡 わた すように要求 ようきゅう するまでに至 いた った。しかし、皇帝 こうてい ヨハネス1世 せい ツィミスケス 率 ひき いる重 じゅう 装 そう 騎兵 きへい 軍団 ぐんだん と秘密 ひみつ 兵器 へいき 「ギリシアの火 ひ 」を装備 そうび した東 ひがし ローマ艦隊 かんたい に敗 やぶ れ、遠征 えんせい は失敗 しっぱい に終 お わった。スヴャトスラフは、二度 にど とバルカン半島 ばるかんはんとう へ現 あらわ れないという条件 じょうけん の和議 わぎ を結 むす んで帰国 きこく する途中 とちゅう の972年 ねん 、ドニエプル川 がわ の浅瀬 あさせ でペチェネグ人 じん に襲 おそ われ戦死 せんし した。
ウラジーミル聖 せい 公 おおやけ とヤロスラフ賢 けん 公 こう [ 編集 へんしゅう ]
黄金 おうごん の門 もん 。古代 こだい キエフへの入 い り口 くち 。
ヤロスラフ賢 けん 公 こう のコイン。三叉 みつまた の矛 ほこ の意匠 いしょう は現在 げんざい のウクライナの国 くに 章 あきら に引 ひ き継 つ がれている。
スヴャトスラフの死後 しご 、長男 ちょうなん のヤロポルク1世 せい が後 ご を継 つ いだが、980年 ねん に弟 おとうと のウラジーミル に追 お われ、ウラジーミルが支配 しはい 者 しゃ (ウラジーミル1世 せい )となった。ウラジーミルはスウェーデン でヴァリャーグ たちを従 したがえ 士 し 団 だん として雇用 こよう し、のちにヴァラング隊 たい として東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に贈 おく った。ウラジーミルは領土 りょうど を大 おお きく広 ひろ げ、キエフ大公 たいこう 国 こく はその最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。貴族 きぞく の反乱 はんらん に悩 なや まされていた東 ひがし ローマ皇帝 こうてい バシレイオス2世 せい へ援軍 えんぐん を派遣 はけん する見返 みかえ りとしてアンナ を妃 ひ に迎 むか え、キリスト教 きりすときょう を国教 こっきょう として導入 どうにゅう した。これによってルーシ はキリスト教 きりすときょう 世界 せかい の一員 いちいん となり、皇帝 こうてい と縁戚 えんせき 関係 かんけい を結 むす んだことによってキエフ大公 たいこう 国 こく の国際 こくさい 的 てき 地位 ちい も上昇 じょうしょう した。それまでは北欧 ほくおう との関係 かんけい も深 ふか く、ノルマン人 じん の植民 しょくみん の奨励 しょうれい など親 しん スカンディナヴィア政策 せいさく を行 おこな っていたが、キリスト教 きょう (正教会 せいきょうかい )を国教 こっきょう としたことで東 ひがし スラヴにおけるヴァリャーグ人 じん の時代 じだい が終 おわ り、キリスト教 きょう の時代 じだい が始 はじ まったといえる。
なおこのとき、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく からキリスト教 きょう を導入 どうにゅう したことにより、キエフ府 ふ 主教 しゅきょう はコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の影響 えいきょう 下 か に置 お かれることとなった。ここで成立 せいりつ した教会 きょうかい はウクライナ正教会 せいきょうかい 、ロシア正教会 せいきょうかい の母体 ぼたい になった。
1015年 ねん のウラジーミルの死後 しご 、後継 こうけい を巡 めぐ って争 あらそ いが起 お きる。長男 ちょうなん のスヴャトポルク1世 せい は機先 きせん を制 せい してボリス とグレブら弟 おとうと 達 たち を殺害 さつがい し、ポーランド王 おう ボレスワフ1世 せい を後 こう 盾 たて として一時 いちじ キエフ大公 たいこう の座 ざ につくが、ノヴゴロドにいた別 べつ の弟 おとうと ヤロスラフが大軍 たいぐん を率 ひき いてキエフを攻略 こうりゃく し、スヴャトポルクを追放 ついほう して大公 たいこう となった(ヤロスラフ1世 せい )。当初 とうしょ は弟 おとうと のムスチスラフの反乱 はんらん などに悩 なや まされたヤロスラフだが、やがて弟 おとうと と和解 わかい し、ペチェネグ人 じん を討 う ち、ポーランド王国 おうこく から奪 うば われていたヴォルイニ地方 ちほう を奪 うば い返 かえ した。またスウェーデンやハンガリー王国 おうこく などと縁戚 えんせき 関係 かんけい を結 むす ぶなど活発 かっぱつ な外交 がいこう を展開 てんかい した。なお、1043年 ねん には東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と対立 たいりつ し、コンスタンティノポリス へ遠征 えんせい を行 おこな ったが、これには失敗 しっぱい している。これがキエフ大公 たいこう 国 こく の最後 さいご の対 たい 東 ひがし ローマ遠征 えんせい となった。
内政 ないせい 面 めん でも、法典 ほうてん を整備 せいび し、キエフの街 まち を拡張 かくちょう し、教会 きょうかい を建設 けんせつ するなど文化 ぶんか の振興 しんこう にも尽 つ くした。これにより、ヤロスラフは「賢 けん 公 こう 」と呼 よ ばれている。
ヤロスラフ1世 せい は1054年 ねん に没 ぼっ した。死 し に際 さい してヤロスラフは、子供 こども たちを重要 じゅうよう な都市 とし へ配 はい して国家 こっか を安定 あんてい させようと図 はか ったが、かえって争 あらそ いが頻発 ひんぱつ した。また、ペチェネグ人 じん に代 か わってポロヴェツ族 ぞく によってルーシがたびたび攻撃 こうげき された。こうしてキエフ大公 たいこう の権威 けんい は低下 ていか し、諸公 しょこう が自立 じりつ 傾向 けいこう を強 つよ めることになった。
この傾向 けいこう は1113年 ねん に大公 たいこう となったウラジーミル2世 せい モノマフ とその子 こ ムスチスラフ1世 せい の時代 じだい にいったん食 く い止 と められる。ウラジーミルはポロヴェツとの戦 たたか いで戦果 せんか を上 あ げ、キエフ大公 たいこう 国 こく 全体 ぜんたい の統一 とういつ を回復 かいふく した。
しかし、1132年 ねん のムスチスラフの死後 しご は再 ふたた び諸公 しょこう の争 あらそ いが頻発 ひんぱつ し、キエフはリューリク家 か の血 ち を引 ひ く諸公 しょこう 達 たち の争奪 そうだつ 戦 せん の場所 ばしょ となって破壊 はかい された。十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい と、それによる地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき の活発 かっぱつ 化 か でドニエプル川 がわ 経由 けいゆ の交易 こうえき が衰退 すいたい し、内乱 ないらん やポロヴェツとの度重 たびかさ なる戦争 せんそう でキエフの街 まち とキエフ地方 ちほう は荒廃 こうはい 。人々 ひとびと は北東 ほくとう のノヴゴロドやモスクワ などへ移住 いじゅう していった。
これによりルーシは完全 かんぜん に分裂 ぶんれつ し、北東 ほくとう ルーシのノヴゴロド公国 こうこく 、ウラジーミル・スーズダリ大公 たいこう 国 こく や南西 なんせい ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公 たいこう 国 こく などが割拠 かっきょ する時代 じだい に入 はい ることとなる。
モンゴルのルーシ侵攻 しんこう 後期 こうき の1240年 ねん 、モンゴル帝国 ていこく 軍 ぐん が南 みなみ ルーシを制圧 せいあつ し、キエフ大公 たいこう 国 こく は事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい した。
(本 ほん 小節 しょうせつ のキリル文字 もじ 表記 ひょうき はウクライナ語 ご による。なお、リンク先 さき のページ名 めい の、カタカナ表記 ひょうき の転写 てんしゃ 元 もと はその限 かぎ りではない。)
大公 たいこう (ヴェリーキー・クニャージ ・великий князь )
公 おおやけ (クニャージ ・князь )
聖職 せいしょく 者 しゃ (コンスタンチノープル総 そう 主教 しゅきょう に属 ぞく すキエフ府 ふ 主教 しゅきょう 区 く )
軍人 ぐんじん
従 したがえ 士 し (ドルジーナ ・дружина )
老 ろう (大 だい )友 とも 隊 たい [要 よう 出典 しゅってん ] (старша (велика) дружина )
老 ろう 仁 じん (良仁 よしひと )[要 よう 出典 しゅってん ] 、貴族 きぞく (старшие мужи, бояри, боляри ):公 おおやけ の評定 ひょうじょう 衆 しゅ 、政務 せいむ ・軍事 ぐんじ の担当 たんとう 者 しゃ 。大将 たいしょう [要 よう 出典 しゅってん ] (ヴォエヴォダ ・воєвода )、代官 だいかん (ポサードニク ・посадник )、千 せん 人 にん 長 ちょう (トィシャツキー ・тисяцький )、百 ひゃく 人 にん 長 ちょう (соцький )、十 じゅう 人 にん 長 ちょう (десяцький )などの役職 やくしょく に任命 にんめい された。
若 わか (小 しょう )友 とも 隊 たい [要 よう 出典 しゅってん ] (молодша (мала)дружина )
行政 ぎょうせい 官 かん
平民 へいみん (Проста чадь )
町人 ちょうにん (людье градские ):基本 きほん 的 てき に公 おおやけ や貴族 きぞく の城 しろ ないし館 かん の周 まわ りの町 まち (ポサード ・посад )に住 す む。自治 じち 組織 そしき を持 も ち、ヴェーチェ (віче )と呼 よ ばれる町内 ちょうない 会議 かいぎ で行政 ぎょうせい を営 いとな む。
農民 のうみん (スメルド ・смерди )
隷属 れいぞく 民 みん - チェリャヂ (челядь )、ホロープ(холопи )、ザークプ (закупи )、リャドヴィチ (рядовичі ):公 おおやけ 、貴族 きぞく 、聖職 せいしょく 者 しゃ に属 ぞく して雑務 ざつむ を行 おこな う。自宅 じたく や家族 かぞく を持 も つことが許 ゆる されていた。
その他 た 、特殊 とくしゅ な状況 じょうきょう 下 か に置 お かれた人々 ひとびと を指 さ す用語 ようご :イズゴイ 、ベルラドニキ
キエフ大公 たいこう 国 こく は、その政権 せいけん 下 した に、東 ひがし スラヴ人 じん 、フィン・ウゴル人 じん 、バルト人 じん の諸 しょ 部族 ぶぞく の住 す む広大 こうだい な地域 ちいき を組 く み込 こ んでいた。各地 かくち の都市 とし を軸 じく とする諸 しょ 公国 こうこく の長 ちょう はクニャージ (公 おおやけ )といい、ルーシの地 ち 全域 ぜんいき (キエフ大公 たいこう 国 こく )を統 す べるキエフの公 おおやけ は、ヴェリーキー・クニャージ (大公 たいこう )[注 ちゅう 4] の称号 しょうごう を帯 お びた。しかしこの称号 しょうごう は、しばしば他者 たしゃ に僭称 せんしょう されることがあった。また、大公 たいこう ・公 おおやけ の権力 けんりょく は相続 そうぞく 制 せい であったが、キエフ大公 たいこう 国 こく 初期 しょき には末子 まっし 相続 そうぞく ・兄弟 きょうだい 相続 そうぞく が伝統 でんとう 的 てき な相続 そうぞく 法 ほう として採用 さいよう されており、多 おお くの相続 そうぞく 争 あらそ いを引 ひ き起 お こした[21] 。ヤロスラフ1世 せい (キエフ大公 たいこう 在位 ざいい :1016年 ねん - 1054年 ねん )は長子 ちょうし 相続 そうぞく の採用 さいよう を提唱 ていしょう し[21] 、またウラジーミル・モノマフ らはリューベチ諸公 しょこう 会議 かいぎ (1097年 ねん )を開催 かいさい し[22] 、相続 そうぞく に端 はし を発 はっ するルーシ諸公 しょこう の内紛 ないふん をとどめようとしたが、大局 たいきょく 的 てき には相続 そうぞく 争 あらそ いがやむことはなかった。12世紀 せいき 半 なか ばにはキエフ大公 たいこう 国 こく は分裂 ぶんれつ 期 き を迎 むか え、約 やく 15の公国 こうこく が形成 けいせい された。中 なか にはさらに内部 ないぶ に分 ぶん 領 りょう 公国 こうこく を抱 かか える公国 こうこく もあった。各 かく 公国 こうこく はリューリク朝 あさ に連 つら なる者 もの が公 おおやけ の座 ざ にあった。このうちの有力 ゆうりょく な血統 けっとう は、チェルニゴフ公国 こうこく のオレグ一門 いちもん (ru) (始祖 しそ :オレグ・スヴャトスラヴィチ )、スモレンスク公国 こうこく のロスチスラフ一門 いちもん (始祖 しそ :ロスチスラフ・スヴャトスラヴィチ )、ヴォルィーニ公国 こうこく のイジャスラフ一門 いちもん (始祖 しそ :イジャスラフ・ムスチスラヴィチ )、スーズダリ公国 こうこく のユーリー一門 いちもん (始祖 しそ :ユーリー・ドルゴルーキー )であった[注 ちゅう 5] 。
プスコフ のヴェーチェ (アポリナリー・ヴァスネツォフ ・1909年 ねん )
支配 しはい 地 ち の管理 かんり には、公 おおやけ 以外 いがい にはボヤーレ (貴族 きぞく )とドルジーナ (従 したがえ 士 し 団 だん ・親衛隊 しんえいたい )が参加 さんか した。ドルジーナは公 おおやけ に属 ぞく し主 おも に軍事 ぐんじ 行為 こうい に従事 じゅうじ するものたちであるが、ポヤーレと雇用 こよう 関係 かんけい を結 むす ぶドルジーナもいた。12世紀 せいき のキエフ大公 たいこう 国 こく の分裂 ぶんれつ 期 き には、政治 せいじ 権力 けんりょく は公 おおやけ とドルジーナのうちの上位 じょうい 層 そう の手 て から、力 ちから を増 ま してきていたボヤーレの手 て に渡 わた った。ボヤーレは、その始祖 しそ はキエフ大公 たいこう をはじめとする公 おおやけ たちと同 おな じリューリク朝 あさ の出身 しゅっしん 者 しゃ であったが、この時期 じき には既 すで に公家 くげ とは別 べつ の家門 かもん を成 な していた。
また、市民 しみん によって構成 こうせい されるヴェーチェ (民 みん 会 かい )が各 かく 都市 とし に組織 そしき されていた。945年 ねん にイスコルテニ のドレヴリャーネ族 ぞく は、ダーニ (貢 みつぎ 税 ぜい )を求 もと めた公 おおやけ のイーゴリを殺害 さつがい するが、この殺害 さつがい に至 いた るまでの討議 とうぎ は『原初 げんしょ 年代 ねんだい 記 き 』に記述 きじゅつ されており、討議 とうぎ は既 すで にヴェーチェが機能 きのう していたことを示 しめ すものであるとみなす説 せつ がある[23] 。ヴェーチェは自由 じゆう 民 みん 階級 かいきゅう の戸主 こしゅ である成人 せいじん 男子 だんし に参加 さんか 権 けん がある直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい であり、事項 じこう の決定 けってい は全員 ぜんいん 一致 いっち を原則 げんそく としていた[24] 。開催 かいさい は鐘 かね を打 う ち鳴 な らすことで住民 じゅうみん に周知 しゅうち させ、時 とき には公 おおやけ や貴族 きぞく に対 たい する蜂起 ほうき をも引 ひ き起 お こした[25] 。
公 おおやけ ・貴族 きぞく ・民 みん 会 かい は、キエフ大公 たいこう 国 こく を構成 こうせい する各 かく 公国 こうこく において、それぞれ異 こと なる権力 けんりょく バランスを作 つく り上 あ げていた。以下 いか はその例 れい である。
キエフ公国 こうこく
公 おおやけ の二 に 頭 とう 体制 たいせい が行 おこな われるいくつかのケースが見 み られたが、キエフ公国 こうこく のボヤーレは内紛 ないふん の白熱 はくねつ 化 か を防 ふせ ぐための支援 しえん を行 おこな い、他 た 公国 こうこく からの干渉 かんしょう に対 たい して立 た ち回 まわ った(キエフ大公 たいこう 位 い に食指 しょくし をのばしたユーリー・ドルゴルーキー は、キエフ のボヤーレによって毒殺 どくさつ されたという推測 すいそく がある)。また、キエフのボヤーレ階級 かいきゅう は、ムスチスラフ1世 せい の子孫 しそん に好意 こうい を抱 だ いていたが[26] 、公 おおやけ を選 えら ぶ際 さい には、キエフのボヤーレらの見解 けんかい は外部 がいぶ からの圧力 あつりょく に抗 こう しきれないことがあった。一方 いっぽう 、キエフのヴェーチェは12世紀 せいき 半 なか ばに衰退 すいたい した[27] 。
ノヴゴロド公国 こうこく
キエフとは対照 たいしょう 的 てき にヴェーチェが12世紀 せいき 半 なか ばに活動 かつどう の全盛期 ぜんせいき を迎 むか え、以降 いこう も長期 ちょうき に渡 わた って機能 きのう していた[27] 。ノヴゴロドのヴェーチェは民事 みんじ ・軍事 ぐんじ に関 かか わる事項 じこう の決定 けってい や、公 おおやけ の任免 にんめん ・罷免 ひめん をも決定 けってい した。また、ヴェーチェによる共和 きょうわ 制 せい の施行 しこう によって、ノヴゴロドではリューリク朝 あさ 出身 しゅっしん 者 しゃ のヴォチナ(世襲 せしゅう 領地 りょうち )(ru) が発展 はってん することはなかった。なお、ノヴゴロド大 だい 主教 しゅきょう の候補者 こうほしゃ はヴェーチェによって建議 けんぎ され、大 だい 主教 しゅきょう が追放 ついほう されたという出来事 できごと も記録 きろく されている。
ウラジーミル・スーズダリ大公 たいこう 国 こく
公 おおやけ の権限 けんげん を強化 きょうか しようとしたウラジーミル大公 たいこう アンドレイ・ボゴリュブスキー による独裁 どくさい 政治 せいじ と、それを除 のぞ こうとするボヤーレのクチコ(ru) ・下位 かい 層 そう のドルジーナとが対立 たいりつ する事件 じけん が起 お きた[28] 。しかしアンドレイの死 し (1174年 ねん )の後 のち 、ボヤーレ側 がわ は敗北 はいぼく し、公 おおやけ 個人 こじん の権力 けんりょく が大幅 おおはば に増大 ぞうだい することになった。とはいえ、その後 ご 14世紀 せいき の直前 ちょくぜん まで、ウラジーミル・スーズダリ大公 たいこう 国 こく ではヴェーチェに関 かん する言及 げんきゅう が見出 みいだ されることから、ヴェーチェは権力 けんりょく 闘争 とうそう の中 なか において大 おお きな役割 やくわり を担 にな うことになったと推測 すいそく される[29] 。
ガーリチ公国 こうこく
ボヤーレの中 なか から公 おおやけ を選出 せんしゅつ するということが起 お きた[30] 。
また、唯一 ゆいいつ の、ルーシ全体 ぜんたい が関与 かんよ する政治 せいじ 機構 きこう としては、諸公 しょこう 会議 かいぎ が残 のこ っていた。それは主 おも にポロヴェツ族 ぞく との戦 たたか いに関 かん する事項 じこう を扱 あつか った。なお、教会 きょうかい は府 ふ 主教 しゅきょう を長 ちょう として、比較的 ひかくてき 統一 とういつ 性 せい を保 たも っていた(地域 ちいき 的 てき な聖人 せいじん ・聖 せい 遺物 いぶつ の出現 しゅつげん と、それに対 たい する礼拝 れいはい 行為 こうい を除 のぞ く)。
年代 ねんだい 記 き の挿絵 さしえ に描 えが かれたルーシの軍隊 ぐんたい (『ラジヴィウ年代 ねんだい 記 き 』)
9世紀 せいき から10世紀 せいき のキエフ大公 たいこう 国 こく の軍隊 ぐんたい は、ドルジーナ 部隊 ぶたい とオポリチェニエ(ru) (民兵 みんぺい )部隊 ぶたい を主軸 しゅじく として構成 こうせい されていた(さらに遊牧民 ゆうぼくみん の傭兵 ようへい 部隊 ぶたい を加 くわ えて3種類 しゅるい とみなす文献 ぶんけん もある[19] )。この時期 じき のドルジーナは公 おおやけ との契約 けいやく に基 もと づく傭兵 ようへい 的 てき 性格 せいかく を帯 お びており、主要 しゅよう 構成 こうせい 員 いん はヴァリャーグ (たとえば、12-13世紀 せいき のノヴゴロドにおいて傭兵 ようへい として雇用 こよう されていた[31] )、またバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん からの移住 いじゅう 者 しゃ 、地元民 じもとみん などであった。給与 きゅうよ は銀 ぎん 、金 きむ 、毛皮 けがわ によって支払 しはら われていた。ドルジーナの雇用 こよう にかかる費用 ひよう は歴史 れきし 家 か によって見解 けんかい が分 わ かれているが、通常 つうじょう 、勇士 ゆうし は年 とし に8-9キエフ・グリヴナ (ディルハム 銀貨 ぎんか 200枚 まい 以上 いじょう に相当 そうとう )を受 う け取 と っていたのに対 たい し、11世紀 せいき 初 はじ め以降 いこう の一般 いっぱん 兵卒 へいそつ は北部 ほくぶ グリヴナ1枚 まい のみを得 え ていたとみなされている(地域 ちいき による貨幣 かへい 価値 かち の違 ちが いについては(ru) 、#貨幣 かへい 参照 さんしょう )。それに加 くわ えて、ドルジーナは公 おおやけ の負担 ふたん によって扶養 ふよう されていた。それは初 はじ めはストロヴァニエ(食事 しょくじ ・祝宴 しゅくえん [32] )の形 かたち で出現 しゅつげん したが、後 のち にコルムレニエ(扶持 ふち 制 せい [33] )(ru) という、ポリュージエ (巡回 じゅんかい 徴 ちょう 貢 みつぎ )による住民 じゅうみん からの租税 そぜい と、国際 こくさい 交易 こうえき から得 え た資金 しきん とから支払 しはら う形 かたち に変化 へんか した[注 ちゅう 6] 。また、キエフ大公 たいこう は下位 かい のドルジーナ層 そう から構成 こうせい された400名 めい の部隊 ぶたい を個人 こじん 的 てき に抱 かか えていた。
国家 こっか 経営 けいえい に関 かん する有事 ゆうじ の際 さい のヴォエヴォダ (軍事 ぐんじ 司令 しれい 官 かん )は、しばしばボヤーレの中 なか から抜擢 ばってき ・任命 にんめい され、公 おおやけ に同行 どうこう した。摂政 せっしょう オリガ ・スヴャトスラフ1世 せい ・ヤロポルク1世 せい の3代 だい にわたって仕 つか えたスヴェネリド(ru) 、ウラジーミル1世 せい 揮下のドブルィニャ(ru) などである。
時代 じだい が下 くだ り、各 かく 公国 こうこく の貴族 きぞく や土地 とち に根付 ねつ く連隊 れんたい へと、ドルジーナの分 ぶん 層 そう 化 か が始 はじ まると(ドルジーナ#社会 しゃかい 的 てき 身分 みぶん ・公 おおやけ との関係 かんけい 参照 さんしょう )、軍隊 ぐんたい は封建 ほうけん 的 てき オポリチェニエ(民兵 みんぺい )を基本 きほん とするようになった。彼 かれ らは都市 とし 、都市 とし の管区 かんく 、スロボダ の防衛 ぼうえい のために用 もち いられた。なお、ノヴゴロド公国 こうこく のドルジーナは、事実 じじつ 上 じょう 、公国 こうこく の政権 せいけん に雇用 こよう された存在 そんざい であった。またノヴゴロドには主教 しゅきょう ・市民 しみん が組織 そしき したトィシャチ部隊 ぶたい (トィシャツキー (千 せん 人 にん 長 ちょう )を長 ちょう とする民兵 みんぺい 部隊 ぶたい )や、ボヤーレ所属 しょぞく の民兵 みんぺい 部隊 ぶたい も存在 そんざい した。
通常 つうじょう 、軍事 ぐんじ 遠征 えんせい は数 すう 名 めい の公 おおやけ の軍勢 ぐんぜい からなる連合 れんごう 軍 ぐん によって行 おこな われた。年代 ねんだい 記 き の記述 きじゅつ によればその軍勢 ぐんぜい は1万 まん -2万 まん 人 にん 、ルーシ全体 ぜんたい での兵力 へいりょく は総勢 そうぜい 2万 まん -4万 まん 人 にん に達 たっ した。
13世紀 せいき の都市 とし 建築 けんちく 物 ぶつ の遺構 いこう (ベラルーシ ・ブレスト )
キエフ・ルーシ期 き における都市 とし (ゴロド :ロシア語 ご : Город )の数 かず は、年代 ねんだい 記 き や他 た の史料 しりょう をもとに判断 はんだん すると、確実 かくじつ に増加 ぞうか していたといえる[34] 。一般 いっぱん に都市 とし は城壁 じょうへき に囲 かこ まれており、南部 なんぶ のステップ 地帯 ちたい の近 ちか くでは、さらに要塞 ようさい 化 か を施 ほどこ された都市 とし が多 おお かった[35] 。9世紀 せいき から10世紀 せいき には25、11世紀 せいき には64、12世紀 せいき には135の都市 とし に関 かん する言及 げんきゅう がある。13世紀 せいき にはさらに47の都市 とし の名 な がみられる。1230年代 ねんだい 後半 こうはん にモンゴル帝国 ていこく のバトゥ の侵略 しんりゃく を受 う けるまでに、各 かく 公国 こうこく に平均 へいきん して20から25の都市 とし があり、総計 そうけい では300に上 のぼ る都市 とし があった[34] [注 ちゅう 7] 。また、それ以外 いがい に、防衛 ぼうえい 設備 せつび を付加 ふか された名 な のない集落 しゅうらく が1,000以上 いじょう あった。都市 とし とそのような集落 しゅうらく の比 ひ は1:3から1:7だったと推測 すいそく される。年代 ねんだい 記 き 上 じょう は、これらの要塞 ようさい 化 か された集落 しゅうらく は都市 とし とみなされておらず、おそらくポゴスト かスロボダ とみなされていた[34] 。当時 とうじ の西欧 せいおう に比 くら べ、ルーシにおける都市 とし 人口 じんこう の割合 わりあい は高 たか く、総 そう 人口 じんこう のうち13-15%が都市 とし に住 す んでいたと推測 すいそく されている[36] 。
見解 けんかい のひとつによれば、モンゴルのルーシ侵攻 しんこう 以前 いぜん の都市 とし の発展 はってん 段階 だんかい は、3つの時期 じき に分類 ぶんるい されている。すなわち、第 だい 1期 き :10世紀 せいき 半 なか ば - 11世紀 せいき 前半 ぜんはん 、第 だい 2期 き :11世紀 せいき 後半 こうはん - 12世紀 せいき 前半 ぜんはん 、第 だい 3期 き :12世紀 せいき 後半 こうはん - モンゴルの侵攻 しんこう 期 き (1237年 ねん - 1240年 ねん )である。第 だい 1期 き にはドニエプル川 がわ ・ヴォルホフ川 がわ に沿 そ って多数 たすう の都市 とし が作 つく られた。第 だい 2期 き はルーシが諸 しょ 公国 こうこく に分裂 ぶんれつ し、また封建 ほうけん 化 か が進 すす んだ時期 じき であるため、地方 ちほう に位置 いち する小規模 しょうきぼ な都市 とし の役割 やくわり が増加 ぞうか した。第 だい 3期 き は各 かく 都市 とし と文化 ぶんか が最大限 さいだいげん に発展 はってん した時期 じき である[37] 。
大都市 だいとし は手 て の込 こ んだ防御 ぼうぎょ 設備 せつび を有 ゆう していた。都市 とし の中心 ちゅうしん 部 ぶ はデティネツ によって保護 ほご されていた。また重要 じゅうよう な地域 ちいき は防壁 ぼうへき で覆 おお われており、有事 ゆうじ の際 さい には都市 とし 民 みん のみならず、近郊 きんこう の人々 ひとびと をも守 まも ることができた[37] [38] 。このような都市 とし は公 おおやけ の屋敷 やしき を兼 か ねた居城 きょじょう となっていた。また、キエフ 、ノヴゴロド 、リャザン 、スモレンスク などの都市 とし には一般 いっぱん 市民 しみん の屋敷 やしき もあった[39] 。大 だい 部分 ぶぶん の都市 とし は都市 とし 計画 けいかく に基 もと づき建設 けんせつ されており、原則 げんそく 的 てき に、川 かわ 沿 ぞ いに1-2本 ほん の街路 がいろ が配置 はいち され、小路 こうじ がそれに交差 こうさ していた。また、11-13世紀 せいき のルーシの都市 とし の特徴 とくちょう として、教会 きょうかい ・寺院 じいん が都市 とし の必須 ひっす 建築 けんちく 物 ぶつ であったということがあげられる。各 かく 都市 とし には2-3から数 かず ダース の教会 きょうかい があった。修道院 しゅうどういん は都市 とし の外 そと に立 た てられていた[38] 。
モンゴルの侵攻 しんこう 直前 ちょくぜん のキエフの人口 じんこう は35,000-50,000人 にん と推定 すいてい されており[36] 、中世 ちゅうせい 有数 ゆうすう の大都市 だいとし であった。しかし、モンゴル軍 ぐん の攻撃 こうげき を受 う けて壊滅 かいめつ し、キエフや、同 おな じくキエフ・ルーシ期 き の中心 ちゅうしん 的 てき 都市 とし であったチェルニゴフ ・ペレヤスラヴリ といった都市 とし は衰退 すいたい した[40] 。
ルーシ北部 ほくぶ のグリヴナ 。レニングラード州 しゅう コポリエ村 むら (ru) 出土 しゅつど 。
東 ひがし スラヴ民族 みんぞく の地 ち での貨幣 かへい は、北 きた ・東 ひがし ヨーロッパと、イスラム諸国 しょこく との交易 こうえき が開始 かいし された8世紀 せいき - 9世紀 せいき の境目 さかいめ に流通 りゅうつう しはじめた。貨幣 かへい のための鉱石 こうせき の埋蔵 まいぞう 量 りょう が乏 とぼ しかったため、積極 せっきょく 的 てき な銀貨 ぎんか の輸入 ゆにゅう が行 おこな われた。830年代 ねんだい から、カフカス・中央 ちゅうおう アジア への交易 こうえき 路 ろ を介 かい して、イスラム諸国 しょこく で鋳造 ちゅうぞう されたディルハム 貨幣 かへい が流入 りゅうにゅう した[41] 。9世紀 せいき の最初 さいしょ の3分 ぶん の1期 き には、キエフ大公 たいこう 国内 こくない に貨幣 かへい が普及 ふきゅう していた。
10世紀 せいき 後半 こうはん には、南北 なんぼく の異 こと なる国際 こくさい 市場 いちば を背景 はいけい とする2つの貨幣 かへい 制度 せいど が発生 はっせい した。キエフ ・チェルニゴフ ・スモレンスク などのルーシ南部 なんぶ においては、ディルハム貨幣 かへい から切 き り取 と られた1.63gの貨幣 かへい が流通 りゅうつう していた。これは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のリトラ(en) の200分 ぶん の1に相当 そうとう した。一方 いっぽう ルーシ北部 ほくぶ では似 に たような切抜 きりぬ き貨幣 かへい が使用 しよう されたが、重 おも さは1.04gで、グリヴナ の200分 ぶん の1に相当 そうとう した。また、ルーシ北部 ほくぶ で銀貨 ぎんか の重 おも さを測定 そくてい するために使 つか われた、秤 ばかり の球状 きゅうじょう の分銅 ふんどう が出土 しゅつど している。
イスラム諸国 しょこく の弱体 じゃくたい 化 か により、10世紀 せいき 末 まつ に東方 とうほう からの貨幣 かへい の流入 りゅうにゅう が衰 おとろ えると[42] 、上記 じょうき の貨幣 かへい は物品 ぶっぴん 貨幣 かへい に取 と って代 か わられた。この時期 じき に相当 そうとう するウラジーミル1世 せい 、スヴャトポルク1世 せい の治世 ちせい には、固有 こゆう の貨幣 かへい の鋳造 ちゅうぞう が企画 きかく されたが、原材料 げんざいりょう の不足 ふそく によってまもなく中止 ちゅうし された[41] 。
ルーシ北部 ほくぶ ではディルハムの代 だい 用品 ようひん として、ドイツ ・イギリス ・スカンジナビア からデナリウス が持 も ち込 こ まれ、12世紀 せいき 初頭 しょとう まで流通 りゅうつう していた[41] 。
8-11世紀 せいき の交易 こうえき 路 ろ 。青 あお :ヴァリャーグからギリシアへの道 みち 、赤 あか :ヴォルガ交易 こうえき 路 ろ (英語 えいご 版 ばん ) 。
交易 こうえき は公国 こうこく の経済 けいざい 活動 かつどう の主要 しゅよう な要素 ようそ であり、対外 たいがい 交易 こうえき は非常 ひじょう に発達 はったつ していた。ドニエプル川 がわ を軸 じく とした水路 すいろ は、ルーシと東 ひがし ローマをつないでいた。さらに商人 しょうにん たちはキエフからモラヴィア 、ボヘミア 、ポーランド 、ドイツ南部 なんぶ へ、ノヴゴロド やポロツク からはバルト海 ばるとかい を経 へ てスカンジナビアやポメレリア 、その西 にし へと出 で かけていた[43] 。
主要 しゅよう な交易 こうえき 路 ろ には以下 いか のものがあった。
ルーシからは、毛皮 けがわ 、蝋 ろう 、蜂蜜 はちみつ 、樹脂 じゅし 、麻 あさ とリネン 、銀製 ぎんせい 品 ひん 、スレート 製 せい 自動 じどう 紡車 、武器 ぶき 、彫刻 ちょうこく した骨 ほね などを輸出 ゆしゅつ した。一方 いっぽう 、奢侈 しゃし 品 ひん 、果物 くだもの 、香辛料 こうしんりょう 、塗料 とりょう などが輸入 ゆにゅう された[43] 。
公 おおやけ はルーシの商人 しょうにん の利益 りえき の保護 ほご のため、外国 がいこく と特別 とくべつ な条約 じょうやく を結 むす ぼうとした。東 ひがし ローマとの条約 じょうやく で時 とき に顕著 けんちょ なものは、12世紀 せいき 末 まつ - 13世紀 せいき 初頭 しょとう の『ルースカヤ・プラウダ 』(ルーシ法典 ほうてん )である。この法典 ほうてん には、戦争 せんそう その他 た による損害 そんがい からルーシの商人 しょうにん の財産 ざいさん を守 まも るためのいくつかの指針 ししん が記 しる されている[43] 。
何人 なんにん かの歴史 れきし 家 か は、キエフ大公 たいこう 国 こく の初期 しょき における交易 こうえき は、ヴァリャーグ とギリシャ人 じん の間 あいだ の交易 こうえき の副次的 ふくじてき な要素 ようそ に過 す ぎないとみなしている[44] 。一方 いっぽう 、キエフ大公 たいこう 国 こく 成立 せいりつ 初期 しょき にあたる9世紀 せいき - 10世紀 せいき の交易 こうえき と交易 こうえき に関 かん する法律 ほうりつ は劇的 げきてき に発展 はってん しており、8世紀 せいき - 10世紀 せいき の東欧 とうおう において、ルーシより東方 とうほう からの銀貨 ぎんか の流入 りゅうにゅう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えていたとみなす説 せつ もある[45] [46] [47] 。
ポリュージエ。945年 ねん 、ドレヴャーネ族 ぞく から徴収 ちょうしゅう するイーゴリ1世 せい 。 クラヴディー・レベデフ(ru) 画 が
初期 しょき の租税 そぜい は、部族 ぶぞく の小 しょう 政権 せいけん が支払 しはら う貢物 みつぎもの の形式 けいしき で出現 しゅつげん した。このような税 ぜい はダーニ (貢 みつぎ 税 ぜい )と呼 よ ばれた。課税 かぜい の単位 たんい はドゥムと呼 よ ばれ、大抵 たいてい の場合 ばあい 、家族 かぞく もしくはかまど を課税 かぜい 対象 たいしょう の1単位 たんい とした。なお、たとえばヴャチチ族 ぞく などに対 たい しては犂 すき 1つにつき税 ぜい を徴収 ちょうしゅう した記録 きろく もある。慣例 かんれい 的 てき な税 ぜい の額 がく は、1ドゥムにつき毛皮 けがわ 1枚 まい であった。収税 しゅうぜい 形式 けいしき はポリュージエ と呼 よ ばれる形式 けいしき であり、公 こう がドルジーナ とともに、11月から4月 がつ の間 あいだ に国民 こくみん を訪問 ほうもん して税 ぜい を徴収 ちょうしゅう する、というものであった[注 ちゅう 8] 。
いくつかの課税 かぜい 管区 かんく があり、たとえばキエフの管区 かんく の範囲 はんい は、ドレヴリャーネ族 ぞく 、ドレゴヴィチ族 ぞく 、クリヴィチ族 ぞく 、ラヂミチ族 ぞく 、セヴェリャーネ族 ぞく の地 ち に広 ひろ がっていた。ノヴゴロド管区 かんく では約 やく 3,000グリヴナが集 あつ められていた。支配 しはい 者 しゃ 階級 かいきゅう にあるのは、ルーシ族 ぞく と呼 よ ばれる、年収 ねんしゅう の10分 ぶん の1を公 おおやけ に支払 しはら っていた民族 みんぞく 的 てき グループであった。
946年 ねん 、ドレヴリャーネ族 ぞく の蜂起 ほうき を鎮圧 ちんあつ した後 のち に、大公 たいこう 妃 ひ オリガ は税 ぜい の徴収 ちょうしゅう について整理 せいり し、税制 ぜいせい の改革 かいかく を行 おこな った。オリガはウロク を定 さだ め、ポリュージエの拠点 きょてん 上 じょう にポゴスト を設置 せっち した。ポゴストには管理人 かんりにん が住 す み、税 ぜい を集 あつ めて運 はこ ぶ役目 やくめ を担 にな った。納税 のうぜい を終 お えた人々 ひとびと は、公 おおやけ の印章 いんしょう の押 お された粘土 ねんど 製 せい の証 あかし を受 う け取 と った。このような課税 かぜい 形式 けいしき と課税 かぜい 自体 じたい はポヴォズと呼 よ ばれた[注 ちゅう 9] 。オリガの改革 かいかく は、大公 たいこう の政権 せいけん への中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か と、部族 ぶぞく の長 ちょう の弱体 じゃくたい 化 か に作用 さよう した。
金 きむ ・宝石 ほうせき などを用 もち いた首飾 くびかざ り (12世紀 せいき -13世紀 せいき 初頭 しょとう )
封建 ほうけん 制 せい の発達 はったつ とともに、職人 しょくにん 団体 だんたい の一部 いちぶ は農村 のうそん を離 はな れ、領主 りょうしゅ に従属 じゅうぞく した。彼 かれ らは都市 とし や要塞 ようさい へ移 うつ り、ポサード を形成 けいせい した[48] 。12世紀 せいき までに、およそ60種 しゅ 以上 いじょう の専門 せんもん 職 しょく が登場 とうじょう したと見積 みつ もられている[注 ちゅう 10] 。
職人 しょくにん の一部 いちぶ は金属 きんぞく 加工 かこう 業 ぎょう に関 かん する手工業 しゅこうぎょう を営 いとな んでおり、溶接 ようせつ 、鋳造 ちゅうぞう 、鍛造 たんぞう 、鍛 きたえ 接 せっ 、焼 や き入 い れ の技術 ぎじゅつ を応用 おうよう した生産 せいさん 品 ひん が、その技術 ぎじゅつ 水準 すいじゅん の高 たか さを証明 しょうめい している。職人 しょくにん たちは150種 しゅ 以上 いじょう の鉄 てつ ・銅 どう 製品 せいひん を生産 せいさん した。これらの生産 せいさん 品 ひん は、都市 とし と農村 のうそん との間 あいだ の物流 ぶつりゅう を促進 そくしん させる上 じょう で、大 おお きな役割 やくわり を演 えん じた。また、宝石 ほうせき 工 こう は非鉄 ひてつ 金属 きんぞく の貨幣 かへい の鋳造 ちゅうぞう 技術 ぎじゅつ を有 ゆう していた。人々 ひとびと は職人 しょくにん を通 とお して、農具 のうぐ ・工具 こうぐ 類 るい (犂 すき 、斧 おの 、鑿 など)、武具 ぶぐ 類 るい (盾 たて 、鎖 くさり かたびら、槍 やり 、兜 かぶと 、剣 けん など)、生活 せいかつ 用品 ようひん (鍵 かぎ など)、装飾 そうしょく 品 ひん (金 きむ 、銀 ぎん 、青銅 せいどう 、銅 どう などで作 つく られた)などを用立 ようだ てた[48] 。
都市 とし の職人 しょくにん は注文 ちゅうもん に応 おう じる形 かたち でも、市場 いちば で販売 はんばい する形 かたち でも商品 しょうひん の生産 せいさん を行 おこな った。ボリス・ルィバコフ(ru) は、都市 とし と農村 のうそん での産業 さんぎょう を分類 ぶんるい した。すなわち都市 とし では鉄 てつ 工業 こうぎょう ・小 しょう 鍛冶 たんや 業 ごう 、兵器 へいき 産業 さんぎょう 、鍛造 たんぞう ・鋳造 ちゅうぞう 業 ぎょう 、伸 しん 線 せん (針金 はりがね )・宝石 ほうせき 細工 ざいく ・陶器 とうき ・琺瑯 ほうろう ・ガラス製品 せいひん 産業 さんぎょう などが発達 はったつ した。一方 いっぽう 農村 のうそん では、鍛冶 たんや ・宝石 ほうせき 細工 ざいく ・陶器 とうき ・木材 もくざい 加工 かこう ・皮革 ひかく 加工 かこう ・織物 おりもの 業 ぎょう などの産業 さんぎょう が発達 はったつ したと述 の べている[49] 。種々 しゅじゅ の製品 せいひん によって、ルーシの名 な は当時 とうじ のヨーロッパで広 ひろ く知 し られるところとなっていた。たとえば、12世紀 せいき 以前 いぜん のフランスにおいては、絹織物 きぬおりもの を「ルーシ物 ぶつ 」と呼 よ んでいた[50] 。
その産業 さんぎょう の発達 はったつ 段階 だんかい は以下 いか の段階 だんかい を踏 ふ んでいる。第 だい 1の段階 だんかい は10世紀 せいき から12世紀 せいき の20-30年代 ねんだい ごろまでの2世紀 せいき 以上 いじょう に渡 わた る。この時期 じき は産出 さんしゅつ する製品 せいひん の数 かず は限 かぎ られ、製品 せいひん は非常 ひじょう に高価 こうか であった。注文 ちゅうもん に応 おう じる形 かたち での生産 せいさん は拡大 かくだい したが、市場 いちば で自由 じゆう に販売 はんばい することは未 いま だ限定 げんてい 的 てき であった。しかしこの時期 じき に、新 あたら しい生産 せいさん の基礎 きそ 的 てき な技術 ぎじゅつ が蓄積 ちくせき されていった。考古学 こうこがく 的 てき 発掘 はっくつ 調査 ちょうさ の結果 けっか は、職人 しょくにん たちの進歩 しんぽ が、キエフ大公 たいこう 国 こく の産業 さんぎょう 技術 ぎじゅつ を当時 とうじ の西欧 せいおう ・東欧 とうおう と同 おな じ水準 すいじゅん まで押 お し上 あ げたことを結論 けつろん 付 つ けている[51] 。
12世紀 せいき 前 ぜん 葉 は (第 だい 1三 さん 半期 はんき )の末期 まっき に、発達 はったつ の第 だい 2段階 だんかい が訪 おとず れた。生産 せいさん 工程 こうてい の簡略 かんりゃく 化 か によって、著 いちじる しく生産 せいさん 合理 ごうり 化 か が進 すす み、生産 せいさん 品数 しなかず が急激 きゅうげき に拡大 かくだい した。織物 おりもの 生産 せいさん においては水平 すいへい 織機 しょっき (織機 しょっき 参照 さんしょう )が出現 しゅつげん し、生産 せいさん 能力 のうりょく が高 たか まった。金属 きんぞく 加工 かこう 業 ぎょう においては多層 たそう の鋼 はがね の刃 は の代 か わりに、鍛 きたえ 接 せっ された切 き っ先 さき を持 も つ均質 きんしつ 的 てき な刃 は が現 あらわ れた。同様 どうよう に各 かく 産業 さんぎょう 部門 ぶもん で製品 せいひん の量産 りょうさん 化 か に成功 せいこう した。特 とく に金属 きんぞく 加工 かこう 、木材 もくざい 加工 かこう 、宝石 ほうせき 細工 ざいく 、製靴 せいか などの分野 ぶんや において量産 りょうさん ・画一 かくいつ 的 てき な製品 せいひん が現 あらわ れた[51] 。また、この時期 じき には多 おお くの分野 ぶんや で専門 せんもん 職人 しょくにん が登場 とうじょう した。12世紀 せいき 末 まつ のいくつかの都市 とし では、専門 せんもん 職人 しょくにん の数 かず は100人 にん を超 こ えていた。製品 せいひん は都市 とし での販売 はんばい だけでなく、農村 のうそん へも流通 りゅうつう していった[52] 。
農民 のうみん たちは血縁 けつえん 的 てき に近 ちか い世帯 せたい が集 あつ まり農村 のうそん での共同 きょうどう 体 たい (ヴェルヴィ(ru) もしくはミール[注 ちゅう 11] )を形成 けいせい し、自分 じぶん たちの土地 とち と家畜 かちく を持 も ち生活 せいかつ していた。共同 きょうどう 体 たい では牧草 ぼくそう 地 ち や狩猟 しゅりょう 権 けん などを共有 きょうゆう し、納税 のうぜい やその他 た 公共 こうきょう の義務 ぎむ に関 かん しても負担 ふたん しあっていた。キエフ時代 じだい には森 もり のある地域 ちいき が主 おも に耕作 こうさく された。なぜなら農業 のうぎょう には水 みず が欠 か かせず、これら森林地帯 しんりんちたい には河川 かせん が存在 そんざい したからである。ただ、その土壌 どじょう は豊 ゆた かとはいえず、肥沃 ひよく な黒土 こくど はキエフの南西 なんせい にのみ存在 そんざい した。ルーシの領土 りょうど はほとんどが北緯 ほくい 50度 ど 以北 いほく に位置 いち し植物 しょくぶつ の生育 せいいく には向 む いていない[55] 。
このような環境 かんきょう のため焼畑 やきばた 農業 のうぎょう が一般 いっぱん 的 てき であった。耕作 こうさく のために樹皮 じゅひ を深 ふか く傷 きず 付 つ け木 ぎ を枯死 こし させ森林 しんりん を焼 や き払 はら った。残 のこ った灰 はい が土壌 どじょう を改善 かいぜん し数 すう 年間 ねんかん は豊 ゆた かな土壌 どじょう となった。土壌 どじょう がまた痩 や せてくると別 べつ の場所 ばしょ へ移動 いどう した。耕 こう 起 おこり にはソハ(ru) (ロシア語 ご : Соха )と呼 よ ばれるプラウ がよく使 つか われた。収穫 しゅうかく には鎌 かま を使 つか い、干草 ほしくさ を刈 か り取 と るのに大鎌 おおがま やマトックを使 つか った[56] 。
通常 つうじょう 、穀類 こくるい は森林 しんりん を切 き り開 ひら いた耕作 こうさく 地 ち で栽培 さいばい され、北方 ほっぽう ではライ麦 らいむぎ 、南 みなみ では雑穀 ざっこく 、さらに小麦 こむぎ 、ソバ 、えん麦 ばく 、大麦 おおむぎ なども補助 ほじょ 的 てき に栽培 さいばい された。他 ほか にもエンドウ やレンズマメ 、アマ 、麻 あさ も栽培 さいばい した。家畜 かちく はウマやウシ、ブタ、ヤギ、ヒツジ、家禽 かきん が一般 いっぱん 的 てき なものであった。農村 のうそん 付近 ふきん の森林 しんりん ではベリー や果実 かじつ 、ナッツ類 るい 、キノコ が採 と れた。川 かわ や湖 みずうみ 、渓流 けいりゅう で漁業 ぎょぎょう も行 おこな い、肉 にく や毛皮 けがわ を求 もと めて狩猟 しゅりょう も行 おこな った。蝋 ろう と蜂蜜 はちみつ を得 え るために養蜂 ようほう 箱 ばこ もあった[57] 。
スラヴ神話 しんわ のヴェレス神 しん の絵画 かいが (1990年 ねん )。
980年 ねん 、ウラジーミル1世 せい は、スラヴ民族 みんぞく の様々 さまざま な信仰 しんこう や祭祀 さいし ・祭礼 さいれい の文化 ぶんか を体系 たいけい 化 か することで、キエフ大公 たいこう 国 こく をスラヴ人 じん 全体 ぜんたい を代表 だいひょう する国 くに に発展 はってん させようと試 こころ みた。様々 さまざま な民間 みんかん 信仰 しんこう の神 かみ が列聖 れっせい され、キエフの周辺 しゅうへん の丘 おか にその神殿 しんでん が建設 けんせつ された 。しかし、987年 ねん には他 た の各 かく 宗教 しゅうきょう を調査 ちょうさ させたうえキリスト教 きりすときょう を導入 どうにゅう することになり、988年 ねん には本人 ほんにん も洗礼 せんれい を受 う けた。
書 か き残 のこ された史料 しりょう によって、キエフ・ルーシ期 き の伝承 でんしょう の豊富 ほうふ さと多様 たよう 性 せい が証明 しょうめい されている[60] 。その大 だい 部分 ぶぶん は年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ の儀式 ぎしき のための韻文 いんぶん である。すなわち、農業 のうぎょう に関 かん する祈 いの りに欠 か かすことのできない呪術 じゅじゅつ 、祈祷 きとう 、歌 うた である。他 た には婚礼 こんれい の歌 うた 、葬儀 そうぎ の哀歌 あいか 、労働 ろうどう の歌 うた 、酒宴 しゅえん の歌 うた 、トリズナ の歌 うた [注 ちゅう 12] なども含 ふく まれる。
勇士 ゆうし の行動 こうどう をうたう、ルーシの口承 こうしょう 英雄 えいゆう 叙事詩 じょじし をブィリーナ という。その出現 しゅつげん 時期 じき には諸説 しょせつ があるものの、キエフ・ルーシ期 き には既 すで に登場 とうじょう していたと考 かんが えられる[62] 。また、英雄 えいゆう 叙事詩 じょじし を物語 ものがた ることや、曲芸 きょくげい 、演奏 えんそう なども行 おこな う旅芸人 たびげいにん をスコモローフ というが、やはりキエフ・ルーシ期 き には既 すで に出現 しゅつげん しており、その出 だ し物 もの は貴族 きぞく たちを楽 たの しませていた[63] 。西欧 せいおう の騎士 きし の年代 ねんだい 記 き が、洗礼 せんれい と異教徒 いきょうと の討伐 とうばつ を主眼 しゅがん としているのに対 たい し、ルーシの英雄 えいゆう 叙事詩 じょじし や昔話 むかしばなし の勇士 ゆうし たちの行動 こうどう は、自 みずか らの領土 りょうど を守 まも ること、外敵 がいてき から解放 かいほう することを主眼 しゅがん としているという特徴 とくちょう があった。つまり、多分 たぶん に愛国 あいこく 主義 しゅぎ 的 てき な要素 ようそ をモチーフとしていた[64] 。
宗教 しゅうきょう 的 てき な伝承 でんしょう としては、古代 こだい ルーシの観念 かんねん を反映 はんえい した神話 しんわ が広範囲 こうはんい に広 ひろ まっていた。キリスト教 きょう が導入 どうにゅう (「ルーシの洗礼 せんれい (ru) 」)されると、教会 きょうかい は長年 ながねん に渡 わた って、教会 きょうかい からみて異教 いきょう の残滓 ざんし である忌 いま わしい慣習 かんしゅう 、悪鬼 あっき のような娯楽 ごらく 、冒涜 ぼうとく に値 あたい するものを排除 はいじょ しようとした。しかしこの種 たね の伝承 でんしょう は人々 ひとびと の風俗 ふうぞく の間 あいだ に保持 ほじ された。それは初期 しょき の宗教 しゅうきょう 的 てき な意味合 いみあ いを失 うしな い[60] 、儀式 ぎしき が娯楽 ごらく へと変質 へんしつ した[43] 、19-20世紀 せいき の直前 ちょくぜん まで残 のこ されていた。
宗教 しゅうきょう 的 てき な意味合 いみあ いを持 も たない伝承 でんしょう としては、ことわざ 、慣用 かんよう 句 く 、なぞなぞなどがあった[60] 。文学 ぶんがく 作品 さくひん の著者 ちょしゃ は、自分 じぶん の著作 ちょさく の中 なか にこれらを使用 しよう した。また、多 おお くの口碑 こうひ や伝説 でんせつ が、記述 きじゅつ 文学 ぶんがく 作品 さくひん の中 なか に保持 ほじ されている。すなわち、先祖 せんぞ の部族 ぶぞく と公 おおやけ の王朝 おうちょう に関 かん するもの、都市 とし の創設 そうせつ 者 しゃ に関 かん するもの、異邦 いほう 人 じん との戦 たたか いに関 かん するものなどである。たとえば『イーゴリ軍記 ぐんき 』には、2-5世紀 せいき の出来事 できごと についての説話 せつわ が影響 えいきょう を与 あた えている[60] 。文字 もじ が普及 ふきゅう し、記述 きじゅつ 文学 ぶんがく 作品 さくひん が普及 ふきゅう した後 のち も伝承 でんしょう は発展 はってん をつづけ、キエフ・ルーシ期 き の文化 ぶんか の重要 じゅうよう な要素 ようそ として残 のこ った。伝承 でんしょう 文学 ぶんがく が長 なが く残 のこ ったのは、文章 ぶんしょう 語 ご としての言語 げんご (古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご )と、話 はな し言葉 ことば としての言語 げんご が並存 へいそん して用 もち いられたためである。古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご は、スラヴ語 ご 派 は に属 ぞく するルーシの人々 ひとびと にとって理解 りかい の容易 ようい な言語 げんご であり、元々 もともと の母語 ぼご と、場面 ばめん によって使 つか い分 わ けられていた[65] 。それは文学 ぶんがく 世界 せかい でも同様 どうよう であり、記述 きじゅつ 文学 ぶんがく と、口語 こうご の伝承 でんしょう 文学 ぶんがく において使 つか い分 わ けられ、両者 りょうしゃ が並立 へいりつ して存続 そんぞく する下地 したじ となった[66] 。さらに、キエフ・ルーシ期 き 以降 いこう の多 おお くの作家 さっか や詩人 しじん が、口承 こうしょう 文学 ぶんがく のテーマ やプロット 、蓄積 ちくせき された修辞 しゅうじ 技法 ぎほう を活用 かつよう した[60] 。たとえばミハイル・ロモノーソフ 、プーシキン 、エセーニン などの著名 ちょめい な詩人 しじん に関 かん しても、伝承 でんしょう による歌謡 かよう が、その詩情 しじょう の源泉 げんせん に流 なが れているという指摘 してき がある[67] 。
ノヴゴロド出土 しゅつど の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ
キリスト教 きりすときょう の導入 どうにゅう によって、識字 しきじ 力 ちから の幅広 はばひろ い層 そう への普及 ふきゅう ・記述 きじゅつ 文化 ぶんか の急激 きゅうげき な発達 はったつ が促進 そくしん された。カトリック が宗教 しゅうきょう 的 てき な場面 ばめん で用 もち いる言語 げんご を限定 げんてい したのに対 たい し[68] 、ルーシの地 ち での正教会 せいきょうかい は、キエフ大公 たいこう 国 こく の人々 ひとびと の母語 ぼご に非常 ひじょう に近 ちか い古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご での礼拝 れいはい を許容 きょよう した[65] からである。このことは母語 ぼご で読 よ み書 か きする力 ちから の発達 はったつ のために好 この ましい環境 かんきょう を作 つく り上 あ げた[60] 。
また、識字 しきじ 教育 きょういく は教会 きょうかい から発展 はってん した。教会 きょうかい ・修道院 しゅうどういん には学校 がっこう が併設 へいせつ された[64] 。しかし、教会 きょうかい が識字 しきじ 教育 きょういく 分野 ぶんや を独占 どくせん するには至 いた らなかった。識字 しきじ 力 りょく の国民 こくみん への浸透 しんとう に関 かん しては、ノヴゴロド などの都市 とし 部 ぶ から出土 しゅつど した白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が証明 しょうめい している。白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ は、手紙 てがみ 、覚 おぼ え書 が きや、字 じ を書 か く練習 れんしゅう そのものなどに用 もち いられており、文字 もじ が国家 こっか 的 てき な文章 ぶんしょう 、法律 ほうりつ 関係 かんけい の文章 ぶんしょう 、あるいは書物 しょもつ の作成 さくせい のためだけではなく、日常 にちじょう 生活 せいかつ の中 なか でも使用 しよう されていたことを示 しめ している。また、銘 めい の入 はい った工芸 こうげい 品 ひん も頻繁 ひんぱん に見 み られる。キエフ・ノヴゴロド・スモレンスク ・ウラジーミルなどの諸 しょ 都市 とし の教会 きょうかい の壁 かべ には、一般 いっぱん 市民 しみん が書 か きした文字 もじ が残 のこ っている[60] 。
『ラジヴィウ年代 ねんだい 記 き 』の中 なか の1ページ
ルーシの記述 きじゅつ 文学 ぶんがく の形成 けいせい 期 き の文学 ぶんがく 作品 さくひん における芸術 げいじゅつ 的 てき な表現 ひょうげん 技法 ぎほう や、思想 しそう ・主題 しゅだい の傾向 けいこう には、伝承 でんしょう や口承 こうしょう 詩 し が大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。また、キリスト教 きょう の採用 さいよう とともに、多 おお くの翻訳 ほんやく 作品 さくひん を通 とお して、正教会 せいきょうかい の高度 こうど な伝統 でんとう 文化 ぶんか の姿 すがた がルーシにもたらされた。それはルーシ独自 どくじ の伝統 でんとう 文学 ぶんがく 形成 けいせい のための基礎 きそ となった。なお、文明開化 ぶんめいかいか 期 き の日本 にっぽん と比 ひ するならば、既 すで に文字 もじ 文化 ぶんか を有 ゆう していた日本 にっぽん における翻訳 ほんやく 文学 ぶんがく の割合 わりあい は(比較的 ひかくてき )小 ちい さかったが、それまで文字 もじ 文化 ぶんか を持 も たなかったルーシにおいては、翻訳 ほんやく 文学 ぶんがく は初 はじ めて接 せっ した文字 もじ 文化 ぶんか であり、文学 ぶんがく 史上 しじょう 、与 あた えた影響 えいきょう はより大 おお きかったはずである、という指摘 してき がある[69] 。
加 くわ えて識字 しきじ 力 りょく の発達 はったつ が、キリスト教 きょう に関連 かんれん する文学 ぶんがく が発生 はっせい する下地 したじ を作 つく った。この時期 じき の文学 ぶんがく 作品 さくひん の特徴 とくちょう は、説教 せっきょう 集 しゅう 、聖 せい 人伝 ひとづて (ボリスとグレブ に関 かん する作品 さくひん など)、合戦 かっせん 譚 たん (『イーゴリ軍記 ぐんき 』など)といったジャンルにある。同時 どうじ に、ルーシ最初 さいしょ の年代 ねんだい 記 き (レートピシ )である『原初 げんしょ 年代 ねんだい 記 き 』が編纂 へんさん されている[70] 。12世紀 せいき 以降 いこう 、各 かく 公国 こうこく が乱立 らんりつ する時代 じだい となると、それぞれの公国 こうこく で、自国 じこく の正当 せいとう 性 せい や、地元 じもと の出来事 できごと を伝 つた える独自 どくじ の年代 ねんだい 記 き が編纂 へんさん された[71] 。また、新 あら たな文学 ぶんがく ジャンルである、生 い き方 かた を示 しめ す教 きょう 訓話 くんわ (『モノマフ公 こう の庭訓 ていきん 』(ru) など)が登場 とうじょう し、人々 ひとびと に好 この まれた。さらには公 おおやけ の権力 けんりょく のあり方 かた や、社会 しゃかい を問 と う作品 さくひん (『ダニール・ザトーチニクの祈願 きがん 』(ru) など)も現 あらわ れた[71] 。
キエフ・ルーシ期 き の著者 ちょしゃ たちは、著者 ちょしゃ の名 な を公表 こうひょう しないことを好 この んでいた[72] 。総 そう じて11-12世紀 せいき には80以上 いじょう の宗教 しゅうきょう 的 てき ・世俗 せぞく 的 てき な書物 しょもつ が編集 へんしゅう された。
古代 こだい スラヴ人 じん の住居 じゅうきょ は、社会 しゃかい 階層 かいそう によって異 こと なる様式 ようしき を持 も っていたと考 かんが えられる。インド・ヨーロッパ語族 ごぞく の社会 しゃかい には、支配 しはい 階級 かいきゅう となる戦士 せんし 層 そう と、農耕 のうこう 牧畜 ぼくちく を行 おこな う生産 せいさん 者 しゃ 層 そう のあいだに歴然 れきぜん とした階層 かいそう 差 さ があり、それが住居 じゅうきょ にも現 あらわ れていた。
同様 どうよう な差 さ は古代 こだい スラブ人 じん にもあった。8-10世紀 せいき ごろのスラヴ人 じん の遺跡 いせき には、半地 はんじ 下 か 式 しき の住居 じゅうきょ が多数 たすう 発見 はっけん されている。多 おお くは、1.5メートルから4メートル四方 しほう の大 おお きさである。もっとも原始 げんし 的 てき な住居 じゅうきょ は、地面 じめん を1メートルほど掘 ほ り、その上 うえ に、簡素 かんそ な屋根 やね を直接 ちょくせつ かぶせたものである。屋根 やね は木 き の枝 えだ や葉 は 、葦 あし や粘土 ねんど で作 つく られた。半 はん 放浪 ほうろう 的 てき な生活 せいかつ を送 おく っていた初期 しょき スラヴ人 じん に適 てき した形式 けいしき であった。
一方 いっぽう 、10世紀 せいき ごろのキエフやベロゴロド の遺跡 いせき には、竈 かまど (かまど)や2階 かい などのある発達 はったつ した住居 じゅうきょ が含 ふく まれている。これらは支配 しはい 者 しゃ 層 そう である戦士 せんし 階級 かいきゅう のものと思 おも われる。スラヴ人 じん の住居 じゅうきょ の最初 さいしょ の形態 けいたい は、暖炉 だんろ を兼 か ねた竈 かまど と、その竈 かまど を置 お いた部屋 へや という簡単 かんたん なものであったと推測 すいそく される。竈 かまど や炉 ろ は全 ぜん スラヴでペーチ、ペシト、ペチカ などと呼 よ ばれている。次 つぎ の段階 だんかい では、竈 かまど のある部屋 へや を寒 さむ さや雪 ゆき から守 まも るためにもう一 ひと つの部屋 へや が作 つく られた。こうしたスタイルの住居 じゅうきょ は、10世紀 せいき ごろの東西 とうざい スラヴ人 じん の住居 じゅうきょ に既 すで に見 み られ、現在 げんざい の民家 みんか にも残 のこ っている。このもう一 ひと つの部屋 へや は、「日陰 ひかげ 」を意味 いみ するスラヴ語 ご に由来 ゆらい し、ロシア語 ご でセーニ、ウクライナ語 ご 、チェコ語 ご でシーニと呼 よ ばれる。これらの語 かたり は10世紀 せいき 以降 いこう の文献 ぶんけん に現 あらわ れている。
^ Роусь 、Русь など、発音 はつおん は同 おな じと推測 すいそく される単純 たんじゅん な表記 ひょうき 揺 ゆ れは存在 そんざい する。
^ ウクライナ語 ご :Київська Русь ;ベラルーシ語 ご :Кіеўская Русь ;ロシア語 ご :Киевская Русь 。
^ カラムジンによると、ロシア帝国 ていこく はルーシの直接 ちょくせつ な後継 こうけい 者 しゃ であり、「ルーシ」そのものはロシアの古称 こしょう にすぎない。なぜなら、ルーシは1240年 ねん に滅 ほろ んだわけではなく、ルーシの政治 せいじ 的 てき 中心 ちゅうしん がキエフからモスクワへ移 うつ っただけだからであるという。彼 かれ は、ルーシ(ロシア)の歴史 れきし は「キエフ・ルーシ」、「モスクワ・ルーシ」、「帝国 ていこく のルーシ」という区分 くぶん に分 わ かれると主張 しゅちょう した[15] 。
^ 「ヴェリーキー・クニャージ」はロシア語 ご : Великий князь からの転写 てんしゃ による。ベラルーシ語 ご : Вялікі князь :ビャリーキ・クニャージ、ウクライナ語 ご : Великий князь :ウェリークィー・クニャージ。
^ 当 とう 文中 ぶんちゅう の「一門 いちもん 」は便宜 べんぎ 的 てき に用 もち いた名称 めいしょう であることに留意 りゅうい されたし。また、「ロスチスラフ一門 いちもん 」・「イジャスラフ一門 いちもん 」・「ユーリー一門 いちもん 」は、「モノマフ一門 いちもん 」(始祖 しそ :ウラジーミル・モノマフ )の流 なが れをくむ血統 けっとう でもある。詳 くわ しくはru:Мономаховичи 参照 さんしょう 。
^ 「ストロヴァニエ」はロシア語 ご : столованье からの転写 てんしゃ による。
^ 日本語 にほんご 文献 ぶんけん では、10世紀 せいき に25、1100年 ねん に100、1200年 ねん に225の都市 とし があったと指摘 してき するものがある[35] 。
^ 「ドゥム」はロシア語 ご : дым からの転写 てんしゃ による。
^ 「ポヴォズ」はロシア語 ご : повоз からの転写 てんしゃ による。
^ 60種 しゅ 以上 いじょう という数 かず は数 かず は説 せつ の1つであり、研究 けんきゅう 者 しゃ によって諸説 しょせつ ある。詳 くわ しくはキエフ・ルーシ期 き の都市 とし #産業 さんぎょう を参照 さんしょう 。
^ ミールは「元 もと ルスカヤ・プラウダ」(11世紀 せいき 前半 ぜんはん 編纂 へんさん )に、ヴェルヴィはウラジーミル・モノマフ の制定 せいてい した法 ほう などを加 くわ えた「拡張 かくちょう 版 ばん ルスカヤ・プラウダ」(現存 げんそん する写本 しゃほん の大 だい 部分 ぶぶん は15-17世紀 せいき のもの[53] )にその名 な がみられる[54] 。
^ 「トリズナ」はロシア語 ご : Тризна の転写 てんしゃ による。トリズナは古代 こだい スラヴ人 じん の追悼 ついとう ・追善 ついぜん の儀式 ぎしき の最後 さいご に行 おこな う行事 ぎょうじ のことであり、武芸 ぶげい や宴会 えんかい を行 おこな った[61] 。
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『ロシア史 し 1 -9世紀 せいき ~17世紀 せいき -』、田中 たなか 陽 よう 兒 じ ・倉持 くらもち 俊一 しゅんいち ・和田 わだ 春樹 はるき 編 へん 、山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1995.(世界 せかい 歴史 れきし 大系 たいけい )
『[新版 しんぱん ] ロシアを知 し る辞典 じてん 』/ 川端 かわばた 香 かおり 男里 おのさと ・佐藤 さとう 経 けい 明 あきら 他 た 監修 かんしゅう 平凡社 へいぼんしゃ 、2004.
『物語 ものがたり ウクライナの歴史 れきし 』/ 黒川 くろかわ 祐次 ゆうじ 、中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2002.
『新版 しんぱん ロシア文学 ぶんがく 案内 あんない 』/ 藤沼 ふじぬま 貴 たか 、小野 おの 理子 さとこ 、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1999.
『はじめて学 まな ぶ ロシア文学 ぶんがく 史 し 』/ 藤沼 ふじぬま 貴 たか 、水野 みずの 忠夫 ただお 、井桁 いげた 貞義 さだよし 、ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 、2003.
『ロシア中世 ちゅうせい 物語 ものがたり 集 しゅう 』/ 中村 なかむら 喜和 きわ 、筑摩書房 ちくましょぼう 、1985.
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原 はら 始 はじめ ・古代 こだい (紀元前 きげんぜん 300年 ねん 以前 いぜん )中世 ちゅうせい 前期 ぜんき (300年 ねん - 1240年 ねん )中世 ちゅうせい 後期 こうき (1240年 ねん - 1569年 ねん )近世 きんせい (1569年 ねん - 1775年 ねん )近代 きんだい (1775年 ねん - 1917年 ねん )現代 げんだい (1917年 ねん - 1991年 ねん )現在 げんざい (1991年 ねん 以降 いこう )
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