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キエフ大公たいこうこく

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キエフ大公たいこうこく
Kievan Rus'
Русь
東スラヴ人
ハザール
ルーシ・カガン国
882ねん - 1240ねん ハールィチ・ヴォルィーニ大公国
ウラジーミル・スーズダリ大公国
ノヴゴロド公国
モンゴル帝国
キエフ大公国の国旗 キエフ大公国の国章
(キエフ大公たいこうこくはたとされているもの) くにあきら
キエフ大公国の位置
公用こうよう ひがしスラヴ
首都しゅと キエフ
大公たいこう
882ねん - 924ねん オレグ
1239ねん - 1240ねんダヌィーロ
面積めんせき
1000ねん1,330,000km²
人口じんこう
1000ねん5,400,000にん
変遷へんせん
882ねん 建国けんこく
988ねんキリスト教きりすときょう導入どうにゅう
1037ねんせいソフィアだい聖堂せいどう建立こんりゅう
1132ねん戦国せんごく時代じだい
1240ねんモンゴル来襲らいしゅうキエフ陥落かんらく
通貨つうかグルィーヴナ

キエフ大公たいこうこく(キエフたいこうこく、ひがしスラヴ: Роусьルーシ)、えい: Kyivan Rus')[1][2]は、9世紀せいき後半こうはんから13世紀せいきなかばにかけて、ひがしヨーロッパおよびきたヨーロッパ存在そんざいした国家こっかひがしスラヴじんバルトじんおよびフィンランドじんふくみ、ヴァリャーグ王子おうじリューリクによって創設そうせつされたリューリクあさ治世ちせい複数ふくすう公国こうこくゆるやかに連合れんごうしていた[3][4][5]ベラルーシロシアウクライナ現代げんだい国家こっかはいずれもキエフ大公たいこうこく文化ぶんかてき祖先そせんとし[6]、ベラルーシとロシアはそれ(ルーシ)に由来ゆらいする名称めいしょうである(そのため、キエフは「ロシアの都市としはは」とされている[7])。リューリクあさ16世紀せいきロシア・ツァーリこくとなるまでだい公国こうこく一部いちぶ支配しはいつづけた[8]11世紀せいきなかばの最大さいだいには、きたしろうみからみなみ黒海こっかい西にしヴィスワがわ源流げんりゅうからひがしタマン半島はんとうまでひろがり、ひがしスラヴ民族みんぞく大半たいはんたばねた。

原初げんしょ年代ねんだいによれば、ひがしスラヴのしょ地域ちいき現在げんざいのキエフ大公たいこうこく統合とうごうはじめた最初さいしょ統治とうちしゃオレグ大公たいこう879ねん-912ねん)である。かれひがしからのハザールじん侵入しんにゅうから貿易ぼうえきまもるため、ノヴゴロドからドニエプルがわ流域りゅういき沿ってみなみ支配しはい地域ちいきひろ[3]首都しゅとをより戦略せんりゃくてきキエフうつした。スヴャトスラフ1せい972ねんぼつ)は、ハザールじん征服せいふく戦争せんそうおこない、キエフ大公たいこうこく領土りょうどはじめておおきく拡大かくだいした。ウラジーミル大帝たいてい980ねん-1015ねん)は、みずからの洗礼せんれいによってキリストきょう導入どうにゅうし、みことのりれいによってキエフとその周辺しゅうへんのすべての住民じゅうみんキリスト教きりすときょうひろめた(これが、ロシア正教会せいきょうかい起点きてんとされる[9])。キエフ大公たいこうこく賢者けんじゃヤロスラフ1せい1019ねん-1054ねん)の時代じだい最大さいだい規模きぼたっし、かれ息子むすこたちはかれ死後しごすぐに最初さいしょ成文法せいぶんほうである『ルースカヤプラウダ(「ルーシの正義せいぎ」)』を編纂へんさん発行はっこうした[10]

11世紀せいき後半こうはんから12世紀せいきにかけて衰退すいたいはじめ、様々さまざま地域ちいき勢力せいりょく分裂ぶんれつした[11]。さらにコンスタンティノープル衰退すいたい[12]によるひがしマ帝国まていこくとの商業しょうぎょう関係かんけい崩壊ほうかい、それにともな領土りょうどない通商つうしょう減少げんしょうなど、経済けいざいてき要因よういんによっても弱体じゃくたいした。1240年代ねんだいモンゴルの侵攻しんこうけ、ついに国家こっか崩壊ほうかいした。

国名こくめい

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中世ちゅうせい時代じだい史料しりょう確認かくにんできるルーシの正式せいしき国名こくめいは「ルーシ」のみである[ちゅう 1]。ルーシとは、『サンベルタン年代ねんだい』の839ねん記述きじゅつにおいてはヴァリャーグしていた[13]のちにその意味いみてんじ、狭義きょうぎにはキエフ地域ちいき(ただしドレヴリャーネぞくドレゴヴィチぞくのぞく)、チェルニゴフ-セヴェルスキー地域ちいき(ただしラヂミチぞくヴャチチぞくのぞく)と、ペレヤスラヴリ地域ちいきしていた(ルーシ (地名ちめい)参照さんしょう)。狭義きょうぎのルーシの用法ようほうは、13世紀せいき直前ちょくぜんまでもちいられており、たとえばノヴゴロド史料しりょうなどにおいてその使用しようれい確認かくにんできる[14]。しかし、近世きんせい時代じだい以後いごルーシの政治せいじてき文化ぶんかてき遺産いさんをめぐって東欧とうおう諸国しょこくあらそったことから、現在げんざい学術がくじゅつ文献ぶんけんではルーシの正式せいしき国号こくごうわりに以下いかのような人工じんこうてき学術がくじゅつ用語ようごもちいられることがおおい。

キエフ・ルーシ[ちゅう 2]
19世紀せいき初頭しょとうロシア帝国ていこく歴史れきし学者がくしゃニコライ・カラムジンが『ロシア国家こっか歴史れきし』においてはじめてもちいた概念がいねん[ちゅう 3]大公たいこうかれていた場所ばしょからこうばれる。近代きんだい現代げんだい学術がくじゅつ文献ぶんけんにおいてひろもちいられているが、中世ちゅうせい近世きんせい時代じだい史料しりょうではられない。
ウクライナ=ルーシ
20世紀せいき初頭しょとうのウクライナの歴史れきし学者がくしゃミハイロ・フルシェフスキーが『ウクライナ=ルーシの歴史れきし』Kievan Rus'においてはじめてもちいられた概念がいねん[16]ルーシのあった土地とちから命名めいめいした。ウクライナこそがルーシの後継こうけいしゃであるとする主張しゅちょうである。フルシェフスキーの系統けいとう学者がくしゃもちいる。
キエフ・ロシア
ロシアこそがルーシの後継こうけいしゃであると主張しゅちょうする、カラムジンの系統けいとう学者がくしゃもちいる概念がいねん
ルーシ大公たいこうこく(~たいこうこく)
近世きんせいポーランド王国おうこくリトアニア大公たいこうこくしょ年代ねんだいられる概念がいねん15世紀せいきのリトアニア大公たいこうこく内乱ないらんちゅうヴォルィーニ興亡こうぼうした大公たいこうこく、また17世紀せいきなかドニプロ・ウクライナ存在そんざいしたコサック国家こっか正式せいしき国号こくごう由来ゆらいする。
キエフ国家こっか(~こっか)
西欧せいおう日本にっぽん学術がくじゅつ文献ぶんけん使用しようされている名称めいしょう国民こくみん国家こっか史観しかん影響えいきょうによりしょうじた「ルーシ」と「ロシア」の用語ようご混合こんごう回避かいひするためにもちいる。

歴史れきし

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建国けんこく

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8-9世紀せいきひがしスラヴじん

ルーシ最古さいこ年代ねんだいである『ルーシ原初げんしょ年代ねんだい』(『ぎし年月としつき物語ものがたり』)によれば、ノヴゴロド(ホルムガルド)にって最初さいしょルーシ国家こっかルーシ・カガンこく)を建設けんせつしたといわれるリューリクイーゴリようした一族いちぞくオレグが882ねんごろドニエプルがわ流域りゅういきのキエフを占領せんりょうして国家こっかてたのがはじまりであるとされている。なお、この国家こっか建設けんせつしたと年代ねんだいしるしている「うみこうのヴァリャーグ」がノルマンじんなのかそうでないのかには議論ぎろん余地よちがあるが、ノルマンじん関与かんよしていたことはほぼ間違まちがいないとされている[17]かれらの言語げんごノルドであったが、次第しだいひがしスラヴへと変遷へんせんしてったと推定すいていされている)。建国けんこく当初とうしょはまだキリスト教きりすときょうもしておらず、ペルーンなどの固有こゆうかみ々を信仰しんこうしていた。一方いっぽうソ連それん学者がくしゃM・チホミロフは、「ルーシ」という名前なまえは9世紀せいきからられており、キエフを中心ちゅうしんとしたひがしスラヴじんポリャーネぞくくに国号こくごうであったとろんじており、それがヴァリャーグによって征服せいふくされだい公国こうこくとして成立せいりつしたというせつもある。

建国けんこくより10世紀せいきまでの歴代れきだい支配しはいしゃ、すなわちオレグイーゴリ1せい、そしてその寡婦かふオリガ周囲しゅういひがしスラヴしょ民族みんぞく次々つぎつぎ支配しはいおさめて勢力せいりょく拡大かくだい。また、みなみ位置いちする大国たいこくひがしマ帝国まていこくともすうたたかい、帝国ていこく首都しゅとツァリグラード(ミクラガルド)を攻撃こうげきした(ルーシ・ビザンツ戦争せんそう)。いずれのたたかいも当時とうじマケドニア王朝おうちょう支配しはい国力こくりょく上昇じょうしょうさせていたひがしローマに撃退げきたいされているが、これらの接触せっしょくつうじて帝国ていこく首都しゅとコンスタンティノポリスとキエフのあいだには商人しょうにんし、次第しだいひがしローマの文化ぶんかキリスト教きりすときょうがルーシにながむようになっていく。オリガにいたってはひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノス7せいだいちちとしてキリスト教きりすときょう洗礼せんれいけたといわれている。

英雄えいゆうたち時代じだい

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スヴャトスラフのたたか

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オリガの息子むすこスヴャトスラフ1せい時代じだい、キエフ大公たいこうこくおおきく勢力せいりょくばす。965ねんにはハザール・カンこくだい打撃だげきあたえ、ハザールにみつげおさめしていたヴォルガがわうえ流域りゅういきのヴャチチぞく服属ふくぞくさせた。さらにスヴャトスラフは南西なんせい転戦てんせんして、968ねんにはブルガリア帝国ていこく侵攻しんこういち撤退てったいしたが、971ねん再度さいどブルガリアへ遠征えんせいしてこれを撃破げきは。そのままひがしマ帝国まていこくへいすすめ、帝国ていこくヨーロッパがわ領土りょうどあかりわたすように要求ようきゅうするまでにいたった。しかし、皇帝こうていヨハネス1せいツィミスケスひきいるじゅうそう騎兵きへい軍団ぐんだん秘密ひみつ兵器へいきギリシアの」を装備そうびしたひがしローマ艦隊かんたいやぶれ、遠征えんせい失敗しっぱいわった。スヴャトスラフは、二度にどバルカン半島ばるかんはんとうあらわれないという条件じょうけん和議わぎむすんで帰国きこくする途中とちゅう972ねんドニエプルがわ浅瀬あさせペチェネグじんおそわれ戦死せんしした。

ウラジーミルせいおおやけとヤロスラフけんこう

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黄金おうごんもん古代こだいキエフへのくち
ヤロスラフけんこうのコイン。三叉みつまたほこ意匠いしょう現在げんざいウクライナのくにあきらがれている。

スヴャトスラフの死後しご長男ちょうなんヤロポルク1せいいだが、980ねんおとうとウラジーミルわれ、ウラジーミルが支配しはいしゃ(ウラジーミル1せい)となった。ウラジーミルはスウェーデンヴァリャーグたちをしたがえだんとして雇用こようし、のちにヴァラングたいとしてひがしマ帝国まていこくおくった。ウラジーミルは領土りょうどおおきくひろげ、キエフ大公たいこうこくはその最盛さいせいむかえた。貴族きぞく反乱はんらんなやまされていたひがしローマ皇帝こうていバシレイオス2せい援軍えんぐん派遣はけんする見返みかえりとしてアンナむかえ、キリスト教きりすときょう国教こっきょうとして導入どうにゅうした。これによってルーシキリスト教きりすときょう世界せかい一員いちいんとなり、皇帝こうてい縁戚えんせき関係かんけいむすんだことによってキエフ大公たいこうこく国際こくさいてき地位ちい上昇じょうしょうした。それまでは北欧ほくおうとの関係かんけいふかく、ノルマンじん植民しょくみん奨励しょうれいなどしんスカンディナヴィア政策せいさくおこなっていたが、キリストきょう正教会せいきょうかい)を国教こっきょうとしたことでひがしスラヴにおけるヴァリャーグじん時代じだいおわり、キリストきょう時代じだいはじまったといえる。

なおこのとき、ひがしマ帝国まていこくからキリストきょう導入どうにゅうしたことにより、キエフ主教しゅきょうコンスタンティノープルそう主教しゅきょう影響えいきょうかれることとなった。ここで成立せいりつした教会きょうかいウクライナ正教会せいきょうかいロシア正教会せいきょうかい母体ぼたいになった。

1015ねんのウラジーミルの死後しご後継こうけいめぐってあらそいがきる。長男ちょうなんスヴャトポルク1せい機先きせんせいしてボリスとグレブらおとうとたち殺害さつがいし、ポーランドおうボレスワフ1せいこうたてとして一時いちじキエフ大公たいこうにつくが、ノヴゴロドにいたべつおとうと ヤロスラフが大軍たいぐんひきいてキエフを攻略こうりゃくし、スヴャトポルクを追放ついほうして大公たいこうとなった(ヤロスラフ1せい)。当初とうしょおとうとのムスチスラフの反乱はんらんなどになやまされたヤロスラフだが、やがておとうと和解わかいし、ペチェネグじんち、ポーランド王国おうこくからうばわれていたヴォルイニ地方ちほううばかえした。またスウェーデンやハンガリー王国おうこくなどと縁戚えんせき関係かんけいむすぶなど活発かっぱつ外交がいこう展開てんかいした。なお、1043ねんにはひがしマ帝国まていこく対立たいりつし、コンスタンティノポリス遠征えんせいおこなったが、これには失敗しっぱいしている。これがキエフ大公たいこうこく最後さいごたいひがしローマ遠征えんせいとなった。

内政ないせいめんでも、法典ほうてん整備せいびし、キエフのまち拡張かくちょうし、教会きょうかい建設けんせつするなど文化ぶんか振興しんこうにもくした。これにより、ヤロスラフは「けんこう」とばれている。

衰退すいたい国家こっか解体かいたい

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ヤロスラフ1せい1054ねんぼっした。さいしてヤロスラフは、子供こどもたちを重要じゅうよう都市としはいして国家こっか安定あんていさせようとはかったが、かえってあらそいが頻発ひんぱつした。また、ペチェネグじんわってポロヴェツぞくによってルーシがたびたび攻撃こうげきされた。こうしてキエフ大公たいこう権威けんい低下ていかし、諸公しょこう自立じりつ傾向けいこうつよめることになった。

この傾向けいこう1113ねん大公たいこうとなったウラジーミル2せいモノマフとそのムスチスラフ1せい時代じだいにいったんめられる。ウラジーミルはポロヴェツとのたたかいで戦果せんかげ、キエフ大公たいこうこく全体ぜんたい統一とういつ回復かいふくした。

しかし、1132ねんのムスチスラフの死後しごふたた諸公しょこうあらそいが頻発ひんぱつし、キエフはリューリク諸公しょこうたち争奪そうだつせん場所ばしょとなって破壊はかいされた。十字軍じゅうじぐん遠征えんせいと、それによる地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき活発かっぱつでドニエプルがわ経由けいゆ交易こうえき衰退すいたいし、内乱ないらんやポロヴェツとの度重たびかさなる戦争せんそうでキエフのまちとキエフ地方ちほう荒廃こうはい人々ひとびと北東ほくとうのノヴゴロドやモスクワなどへ移住いじゅうしていった。

これによりルーシは完全かんぜん分裂ぶんれつし、北東ほくとうルーシのノヴゴロド公国こうこくウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこく南西なんせいルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこくなどが割拠かっきょする時代じだいはいることとなる。

モンゴルのルーシ侵攻しんこう後期こうきの1240ねんモンゴル帝国ていこくぐんみなみルーシを制圧せいあつし、キエフ大公たいこうこく事実じじつじょう崩壊ほうかいした。

政治せいじ社会しゃかい

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法律ほうりつ

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身分みぶん

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ほん小節しょうせつキリル文字もじ表記ひょうきウクライナによる。なお、リンクさきのページめいの、カタカナ表記ひょうき転写てんしゃもとはそのかぎりではない。)

  • 大公たいこうヴェリーキー・クニャージвеликий князь
  • おおやけクニャージкнязь
  • 聖職せいしょくしゃ(コンスタンチノープルそう主教しゅきょうぞくすキエフ主教しゅきょう
  • 軍人ぐんじん
      • したがえドルジーナдружина
        • ろうだいともたい[よう出典しゅってん]старша (велика) дружина
          • ろうじん良仁よしひと[よう出典しゅってん]貴族きぞくстаршие мужи, бояри, боляри):おおやけ評定ひょうじょうしゅ政務せいむ軍事ぐんじ担当たんとうしゃ大将たいしょう[よう出典しゅってん]ヴォエヴォダвоєвода)、代官だいかんポサードニクпосадник)、せんにんちょうトィシャツキーтисяцький)、ひゃくにんちょうсоцький)、じゅうにんちょうдесяцький)などの役職やくしょく任命にんめいされた。
        • わかしょうともたい[よう出典しゅってん]молодша (мала)дружина
  • 行政ぎょうせいかん
  • 平民へいみんПроста чадь
  • 隷属れいぞくみん - チェリャヂчелядь)、ホロープ(холопи)、ザークプзакупи)、リャドヴィチрядовичі):おおやけ貴族きぞく聖職せいしょくしゃぞくして雑務ざつむおこなう。自宅じたく家族かぞくつことがゆるされていた。
  • その特殊とくしゅ状況じょうきょうかれた人々ひとびと用語ようごイズゴイベルラドニキ

政治せいじ

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おおやけ

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キエフ大公たいこうこくは、その政権せいけんしたに、ひがしスラヴじんフィン・ウゴルじんバルトじんしょ部族ぶぞく広大こうだい地域ちいきんでいた。各地かくち都市としじくとするしょ公国こうこくちょうクニャージおおやけ)といい、ルーシの全域ぜんいき(キエフ大公たいこうこく)をべるキエフのおおやけは、ヴェリーキー・クニャージ大公たいこう[ちゅう 4]称号しょうごうびた。しかしこの称号しょうごうは、しばしば他者たしゃ僭称せんしょうされることがあった。また、大公たいこうおおやけ権力けんりょく相続そうぞくせいであったが、キエフ大公たいこうこく初期しょきには末子まっし相続そうぞく兄弟きょうだい相続そうぞく伝統でんとうてき相続そうぞくほうとして採用さいようされており、おおくの相続そうぞくあらそいをこした[21]ヤロスラフ1せい(キエフ大公たいこう在位ざいい1016ねん - 1054ねん)は長子ちょうし相続そうぞく採用さいよう提唱ていしょう[21]、またウラジーミル・モノマフらはリューベチ諸公しょこう会議かいぎ1097ねん)を開催かいさい[22]相続そうぞくはしはっするルーシ諸公しょこう内紛ないふんをとどめようとしたが、大局たいきょくてきには相続そうぞくあらそいがやむことはなかった。12世紀せいきなかばにはキエフ大公たいこうこく分裂ぶんれつむかえ、やく15の公国こうこく形成けいせいされた。なかにはさらに内部ないぶぶんりょう公国こうこくかかえる公国こうこくもあった。かく公国こうこくリューリクあさつらなるものおおやけにあった。このうちの有力ゆうりょく血統けっとうは、チェルニゴフ公国こうこくのオレグ一門いちもん(ru)始祖しそオレグ・スヴャトスラヴィチ)、スモレンスク公国こうこくのロスチスラフ一門いちもん始祖しそロスチスラフ・スヴャトスラヴィチ)、ヴォルィーニ公国こうこくのイジャスラフ一門いちもん始祖しそイジャスラフ・ムスチスラヴィチ)、スーズダリ公国こうこくのユーリー一門いちもん始祖しそユーリー・ドルゴルーキー)であった[ちゅう 5]

貴族きぞくみんかい

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プスコフのヴェーチェ
アポリナリー・ヴァスネツォフ1909ねん

支配しはい管理かんりには、おおやけ以外いがいにはボヤーレ貴族きぞく)とドルジーナしたがえだん親衛隊しんえいたい)が参加さんかした。ドルジーナはおおやけぞくおも軍事ぐんじ行為こうい従事じゅうじするものたちであるが、ポヤーレと雇用こよう関係かんけいむすぶドルジーナもいた。12世紀せいきのキエフ大公たいこうこく分裂ぶんれつには、政治せいじ権力けんりょくおおやけとドルジーナのうちの上位じょういそうから、ちからしてきていたボヤーレのわたった。ボヤーレは、その始祖しそはキエフ大公たいこうをはじめとするおおやけたちとおなリューリクあさ出身しゅっしんしゃであったが、この時期じきにはすで公家くげとはべつ家門かもんしていた。

また、市民しみんによって構成こうせいされるヴェーチェみんかい)がかく都市とし組織そしきされていた。945ねんイスコルテニドレヴリャーネぞくは、ダーニみつぎぜい)をもとめたおおやけのイーゴリを殺害さつがいするが、この殺害さつがいいたるまでの討議とうぎは『原初げんしょ年代ねんだい』に記述きじゅつされており、討議とうぎすでにヴェーチェが機能きのうしていたことをしめすものであるとみなすせつがある[23]。ヴェーチェは自由じゆうみん階級かいきゅう戸主こしゅである成人せいじん男子だんし参加さんかけんがある直接ちょくせつ民主みんしゅせいであり、事項じこう決定けってい全員ぜんいん一致いっち原則げんそくとしていた[24]開催かいさいかねらすことで住民じゅうみん周知しゅうちさせ、ときにはおおやけ貴族きぞくたいする蜂起ほうきをもこした[25]

しょ公国こうこく内情ないじょう

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おおやけ貴族きぞくみんかいは、キエフ大公たいこうこく構成こうせいするかく公国こうこくにおいて、それぞれことなる権力けんりょくバランスをつくげていた。以下いかはそのれいである。

キエフ公国こうこく
おおやけとう体制たいせいおこなわれるいくつかのケースがられたが、キエフ公国こうこくのボヤーレは内紛ないふん白熱はくねつふせぐための支援しえんおこない、公国こうこくからの干渉かんしょうたいしてまわった(キエフ大公たいこう食指しょくしをのばしたユーリー・ドルゴルーキーは、キエフのボヤーレによって毒殺どくさつされたという推測すいそくがある)。また、キエフのボヤーレ階級かいきゅうは、ムスチスラフ1せい子孫しそん好意こういいていたが[26]おおやけえらさいには、キエフのボヤーレらの見解けんかい外部がいぶからの圧力あつりょくこうしきれないことがあった。一方いっぽう、キエフのヴェーチェは12世紀せいきなかばに衰退すいたいした[27]
ノヴゴロド公国こうこく
キエフとは対照たいしょうてきにヴェーチェが12世紀せいきなかばに活動かつどう全盛期ぜんせいきむかえ、以降いこう長期ちょうきわたって機能きのうしていた[27]。ノヴゴロドのヴェーチェは民事みんじ軍事ぐんじかかわる事項じこう決定けっていや、おおやけ任免にんめん罷免ひめんをも決定けっていした。また、ヴェーチェによる共和きょうわせい施行しこうによって、ノヴゴロドではリューリクあさ出身しゅっしんしゃのヴォチナ(世襲せしゅう領地りょうち(ru)発展はってんすることはなかった。なお、ノヴゴロドだい主教しゅきょう候補者こうほしゃはヴェーチェによって建議けんぎされ、だい主教しゅきょう追放ついほうされたという出来事できごと記録きろくされている。
ウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこく
おおやけ権限けんげん強化きょうかしようとしたウラジーミル大公たいこうアンドレイ・ボゴリュブスキーによる独裁どくさい政治せいじと、それをのぞこうとするボヤーレのクチコ(ru)下位かいそうのドルジーナとが対立たいりつする事件じけんきた[28]。しかしアンドレイの1174ねん)ののち、ボヤーレがわ敗北はいぼくし、おおやけ個人こじん権力けんりょく大幅おおはば増大ぞうだいすることになった。とはいえ、その14世紀せいき直前ちょくぜんまで、ウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこくではヴェーチェにかんする言及げんきゅう見出みいだされることから、ヴェーチェは権力けんりょく闘争とうそうなかにおいておおきな役割やくわりになうことになったと推測すいそくされる[29]
ガーリチ公国こうこく
ボヤーレのなかからおおやけ選出せんしゅつするということがきた[30]

また、唯一ゆいいつの、ルーシ全体ぜんたい関与かんよする政治せいじ機構きこうとしては、諸公しょこう会議かいぎのこっていた。それはおもポロヴェツぞくとのたたかいにかんする事項じこうあつかった。なお、教会きょうかい主教しゅきょうちょうとして、比較的ひかくてき統一とういつせいたもっていた(地域ちいきてき聖人せいじんせい遺物いぶつ出現しゅつげんと、それにたいする礼拝れいはい行為こういのぞく)。

軍事ぐんじ

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年代ねんだい挿絵さしええがかれたルーシの軍隊ぐんたい(『ラジヴィウ年代ねんだい』)

9世紀せいきから10世紀せいきのキエフ大公たいこうこく軍隊ぐんたいは、ドルジーナ部隊ぶたいとオポリチェニエ(ru)民兵みんぺい部隊ぶたい主軸しゅじくとして構成こうせいされていた(さらに遊牧民ゆうぼくみん傭兵ようへい部隊ぶたいくわえて3種類しゅるいとみなす文献ぶんけんもある[19])。この時期じきのドルジーナはおおやけとの契約けいやくもとづく傭兵ようへいてき性格せいかくびており、主要しゅよう構成こうせいいんヴァリャーグ(たとえば、12-13世紀せいきのノヴゴロドにおいて傭兵ようへいとして雇用こようされていた[31])、またバルト海ばるとかい沿岸えんがんからの移住いじゅうしゃ地元民じもとみんなどであった。給与きゅうよぎんきむ毛皮けがわによって支払しはらわれていた。ドルジーナの雇用こようにかかる費用ひよう歴史れきしによって見解けんかいかれているが、通常つうじょう勇士ゆうしとしに8-9キエフ・グリヴナディルハム銀貨ぎんか200まい以上いじょう相当そうとう)をっていたのにたいし、11世紀せいきはじ以降いこう一般いっぱん兵卒へいそつ北部ほくぶグリヴナ1まいのみをていたとみなされている(地域ちいきによる貨幣かへい価値かちちがいについては(ru)#貨幣かへい参照さんしょう)。それにくわえて、ドルジーナはおおやけ負担ふたんによって扶養ふようされていた。それははじめはストロヴァニエ(食事しょくじ祝宴しゅくえん[32])のかたち出現しゅつげんしたが、のちにコルムレニエ(扶持ふちせい[33](ru)という、ポリュージエ巡回じゅんかいちょうみつぎ)による住民じゅうみんからの租税そぜいと、国際こくさい交易こうえきから資金しきんとから支払しはらかたち変化へんかした[ちゅう 6]。また、キエフ大公たいこう下位かいのドルジーナそうから構成こうせいされた400めい部隊ぶたい個人こじんてきかかえていた。

国家こっか経営けいえいかんする有事ゆうじさいヴォエヴォダ軍事ぐんじ司令しれいかん)は、しばしばボヤーレのなかから抜擢ばってき任命にんめいされ、おおやけ同行どうこうした。摂政せっしょうオリガスヴャトスラフ1せいヤロポルク1せいの3だいにわたってつかえたスヴェネリド(ru)ウラジーミル1せい揮下のドブルィニャ(ru)などである。

時代じだいくだり、かく公国こうこく貴族きぞく土地とち根付ねつ連隊れんたいへと、ドルジーナのぶんそうはじまると(ドルジーナ#社会しゃかいてき身分みぶんおおやけとの関係かんけい参照さんしょう)、軍隊ぐんたい封建ほうけんてきオポリチェニエ(民兵みんぺい)を基本きほんとするようになった。かれらは都市とし都市とし管区かんくスロボダ防衛ぼうえいのためにもちいられた。なお、ノヴゴロド公国こうこくのドルジーナは、事実じじつじょう公国こうこく政権せいけん雇用こようされた存在そんざいであった。またノヴゴロドには主教しゅきょう市民しみん組織そしきしたトィシャチ部隊ぶたいトィシャツキーせんにんちょう)をちょうとする民兵みんぺい部隊ぶたい)や、ボヤーレ所属しょぞく民兵みんぺい部隊ぶたい存在そんざいした。

通常つうじょう軍事ぐんじ遠征えんせいすうめいおおやけ軍勢ぐんぜいからなる連合れんごうぐんによっておこなわれた。年代ねんだい記述きじゅつによればその軍勢ぐんぜいは1まん-2まんにん、ルーシ全体ぜんたいでの兵力へいりょく総勢そうぜい2まん-4まんにんたっした。

経済けいざい産業さんぎょう

[編集へんしゅう]

都市とし

[編集へんしゅう]
13世紀せいき都市とし建築けんちくぶつ遺構いこう
ベラルーシブレスト

キエフ・ルーシにおける都市としゴロドロシア: Город)のかずは、年代ねんだい史料しりょうをもとに判断はんだんすると、確実かくじつ増加ぞうかしていたといえる[34]一般いっぱん都市とし城壁じょうへきかこまれており、南部なんぶステップ地帯ちたいちかくでは、さらに要塞ようさいほどこされた都市としおおかった[35]。9世紀せいきから10世紀せいきには25、11世紀せいきには64、12世紀せいきには135の都市としかんする言及げんきゅうがある。13世紀せいきにはさらに47の都市としがみられる。1230年代ねんだい後半こうはんモンゴル帝国ていこくバトゥ侵略しんりゃくけるまでに、かく公国こうこく平均へいきんして20から25の都市としがあり、総計そうけいでは300にのぼ都市としがあった[34][ちゅう 7]。また、それ以外いがいに、防衛ぼうえい設備せつび付加ふかされたのない集落しゅうらくが1,000以上いじょうあった。都市としとそのような集落しゅうらくは1:3から1:7だったと推測すいそくされる。年代ねんだいじょうは、これらの要塞ようさいされた集落しゅうらく都市としとみなされておらず、おそらくポゴストスロボダとみなされていた[34]当時とうじ西欧せいおうくらべ、ルーシにおける都市とし人口じんこう割合わりあいたかく、そう人口じんこうのうち13-15%が都市としんでいたと推測すいそくされている[36]

見解けんかいのひとつによれば、モンゴルのルーシ侵攻しんこう以前いぜん都市とし発展はってん段階だんかいは、3つの時期じき分類ぶんるいされている。すなわち、だい1:10世紀せいきなかば - 11世紀せいき前半ぜんはんだい2:11世紀せいき後半こうはん - 12世紀せいき前半ぜんはんだい3:12世紀せいき後半こうはん - モンゴルの侵攻しんこう(1237ねん - 1240ねん)である。だい1にはドニエプルがわヴォルホフがわ沿って多数たすう都市としつくられた。だい2はルーシがしょ公国こうこく分裂ぶんれつし、また封建ほうけんすすんだ時期じきであるため、地方ちほう位置いちする小規模しょうきぼ都市とし役割やくわり増加ぞうかした。だい3かく都市とし文化ぶんか最大限さいだいげん発展はってんした時期じきである[37]

大都市だいとしんだ防御ぼうぎょ設備せつびゆうしていた。都市とし中心ちゅうしんデティネツによって保護ほごされていた。また重要じゅうよう地域ちいき防壁ぼうへきおおわれており、有事ゆうじさいには都市としみんのみならず、近郊きんこう人々ひとびとをもまもることができた[37][38]。このような都市としおおやけ屋敷やしきねた居城きょじょうとなっていた。また、キエフノヴゴロドリャザンスモレンスクなどの都市としには一般いっぱん市民しみん屋敷やしきもあった[39]だい部分ぶぶん都市とし都市とし計画けいかくもとづき建設けんせつされており、原則げんそくてきに、かわ沿いに1-2ほん街路がいろ配置はいちされ、小路こうじがそれに交差こうさしていた。また、11-13世紀せいきのルーシの都市とし特徴とくちょうとして、教会きょうかい寺院じいん都市とし必須ひっす建築けんちくぶつであったということがあげられる。かく都市としには2-3からかずダース教会きょうかいがあった。修道院しゅうどういん都市としそとてられていた[38]

モンゴルの侵攻しんこう直前ちょくぜんのキエフの人口じんこうは35,000-50,000にん推定すいていされており[36]中世ちゅうせい有数ゆうすう大都市だいとしであった。しかし、モンゴルぐん攻撃こうげきけて壊滅かいめつし、キエフや、おなじくキエフ・ルーシ中心ちゅうしんてき都市としであったチェルニゴフペレヤスラヴリといった都市とし衰退すいたいした[40]

貨幣かへい

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ルーシ北部ほくぶグリヴナレニングラードしゅうコポリエむら(ru)出土しゅつど

ひがしスラヴ民族みんぞくでの貨幣かへいは、きたひがしヨーロッパと、イスラム諸国しょこくとの交易こうえき開始かいしされた8世紀せいき- 9世紀せいき境目さかいめ流通りゅうつうしはじめた。貨幣かへいのための鉱石こうせき埋蔵まいぞうりょうとぼしかったため、積極せっきょくてき銀貨ぎんか輸入ゆにゅうおこなわれた。830年代ねんだいから、カフカス・中央ちゅうおうアジアへの交易こうえきかいして、イスラム諸国しょこく鋳造ちゅうぞうされたディルハム貨幣かへい流入りゅうにゅうした[41]。9世紀せいき最初さいしょの3ぶんの1には、キエフ大公たいこう国内こくない貨幣かへい普及ふきゅうしていた。

10世紀せいき後半こうはんには、南北なんぼくことなる国際こくさい市場いちば背景はいけいとする2つの貨幣かへい制度せいど発生はっせいした。キエフチェルニゴフスモレンスクなどのルーシ南部なんぶにおいては、ディルハム貨幣かへいからられた1.63gの貨幣かへい流通りゅうつうしていた。これはひがしマ帝国まていこくのリトラ(en)の200ぶんの1に相当そうとうした。一方いっぽうルーシ北部ほくぶではたような切抜きりぬ貨幣かへい使用しようされたが、おもさは1.04gで、グリヴナの200ぶんの1に相当そうとうした。また、ルーシ北部ほくぶ銀貨ぎんかおもさを測定そくていするために使つかわれた、ばかり球状きゅうじょう分銅ふんどう出土しゅつどしている。

イスラム諸国しょこく弱体じゃくたいにより、10世紀せいきまつ東方とうほうからの貨幣かへい流入りゅうにゅうおとろえると[42]上記じょうき貨幣かへい物品ぶっぴん貨幣かへいってわられた。この時期じき相当そうとうするウラジーミル1せいスヴャトポルク1せい治世ちせいには、固有こゆう貨幣かへい鋳造ちゅうぞう企画きかくされたが、原材料げんざいりょう不足ふそくによってまもなく中止ちゅうしされた[41]

ルーシ北部ほくぶではディルハムのだい用品ようひんとして、ドイツイギリススカンジナビアからデナリウスまれ、12世紀せいき初頭しょとうまで流通りゅうつうしていた[41]

交易こうえき

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8-11世紀せいき交易こうえきあおヴァリャーグからギリシアへのみちあかヴォルガ交易こうえき英語えいごばん

交易こうえき公国こうこく経済けいざい活動かつどう主要しゅよう要素ようそであり、対外たいがい交易こうえき非常ひじょう発達はったつしていた。ドニエプルがわじくとした水路すいろは、ルーシとひがしローマをつないでいた。さらに商人しょうにんたちはキエフからモラヴィアボヘミアポーランド、ドイツ南部なんぶへ、ノヴゴロドポロツクからはバルト海ばるとかいてスカンジナビアやポメレリア、その西にしへとかけていた[43]

主要しゅよう交易こうえきには以下いかのものがあった。

ルーシからは、毛皮けがわろう蜂蜜はちみつ樹脂じゅしあさリネン銀製ぎんせいひんスレートせい自動じどう紡車武器ぶき彫刻ちょうこくしたほねなどを輸出ゆしゅつした。一方いっぽう奢侈しゃしひん果物くだもの香辛料こうしんりょう塗料とりょうなどが輸入ゆにゅうされた[43]

おおやけはルーシの商人しょうにん利益りえき保護ほごのため、外国がいこく特別とくべつ条約じょうやくむすぼうとした。ひがしローマとの条約じょうやくとき顕著けんちょなものは、12世紀せいきまつ - 13世紀せいき初頭しょとうの『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシ法典ほうてん)である。この法典ほうてんには、戦争せんそうそのによる損害そんがいからルーシの商人しょうにん財産ざいさんまもるためのいくつかの指針ししんしるされている[43]

何人なんにんかの歴史れきしは、キエフ大公たいこうこく初期しょきにおける交易こうえきは、ヴァリャーグとギリシャじんあいだ交易こうえき副次的ふくじてき要素ようそぎないとみなしている[44]一方いっぽう、キエフ大公たいこうこく成立せいりつ初期しょきにあたる9世紀せいき - 10世紀せいき交易こうえき交易こうえきかんする法律ほうりつ劇的げきてき発展はってんしており、8世紀せいき - 10世紀せいき東欧とうおうにおいて、ルーシより東方とうほうからの銀貨ぎんか流入りゅうにゅうおおきな影響えいきょうあたえていたとみなすせつもある[45][46][47]

租税そぜい

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ポリュージエ。945ねん、ドレヴャーネぞくから徴収ちょうしゅうするイーゴリ1せい
クラヴディー・レベデフ(ru)

初期しょき租税そぜいは、部族ぶぞくしょう政権せいけん支払しはら貢物みつぎもの形式けいしき出現しゅつげんした。このようなぜいダーニみつぎぜい)とばれた。課税かぜい単位たんいはドゥムとばれ、大抵たいてい場合ばあい家族かぞくもしくはかまど課税かぜい対象たいしょうの1単位たんいとした。なお、たとえばヴャチチぞくなどにたいしてはすき1つにつきぜい徴収ちょうしゅうした記録きろくもある。慣例かんれいてきぜいがくは、1ドゥムにつき毛皮けがわ1まいであった。収税しゅうぜい形式けいしきポリュージエばれる形式けいしきであり、こうドルジーナとともに、11月から4がつあいだ国民こくみん訪問ほうもんしてぜい徴収ちょうしゅうする、というものであった[ちゅう 8]

いくつかの課税かぜい管区かんくがあり、たとえばキエフの管区かんく範囲はんいは、ドレヴリャーネぞくドレゴヴィチぞくクリヴィチぞくラヂミチぞくセヴェリャーネぞくひろがっていた。ノヴゴロド管区かんくではやく3,000グリヴナがあつめられていた。支配しはいしゃ階級かいきゅうにあるのは、ルーシぞくばれる、年収ねんしゅうの10ぶんの1をおおやけ支払しはらっていた民族みんぞくてきグループであった。

946ねん、ドレヴリャーネぞく蜂起ほうき鎮圧ちんあつしたのちに、大公たいこうオリガぜい徴収ちょうしゅうについて整理せいりし、税制ぜいせい改革かいかくおこなった。オリガはウロクさだめ、ポリュージエの拠点きょてんじょうポゴスト設置せっちした。ポゴストには管理人かんりにんみ、ぜいあつめてはこ役目やくめになった。納税のうぜいえた人々ひとびとは、おおやけ印章いんしょうされた粘土ねんどせいあかしった。このような課税かぜい形式けいしき課税かぜい自体じたいはポヴォズとばれた[ちゅう 9]。オリガの改革かいかくは、大公たいこう政権せいけんへの中央ちゅうおう集権しゅうけんと、部族ぶぞくちょう弱体じゃくたい作用さようした。

工業こうぎょう

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きむ宝石ほうせきなどをもちいた首飾くびかざ
(12世紀せいき-13世紀せいき初頭しょとう

封建ほうけんせい発達はったつとともに、職人しょくにん団体だんたい一部いちぶ農村のうそんはなれ、領主りょうしゅ従属じゅうぞくした。かれらは都市とし要塞ようさいうつり、ポサード形成けいせいした[48]。12世紀せいきまでに、およそ60しゅ以上いじょう専門せんもんしょく登場とうじょうしたと見積みつもられている[ちゅう 10]

職人しょくにん一部いちぶ金属きんぞく加工かこうぎょうかんする手工業しゅこうぎょういとなんでおり、溶接ようせつ鋳造ちゅうぞう鍛造たんぞうきたえせっ技術ぎじゅつ応用おうようした生産せいさんひんが、その技術ぎじゅつ水準すいじゅんたかさを証明しょうめいしている。職人しょくにんたちは150しゅ以上いじょうてつどう製品せいひん生産せいさんした。これらの生産せいさんひんは、都市とし農村のうそんとのあいだ物流ぶつりゅう促進そくしんさせるじょうで、おおきな役割やくわりえんじた。また、宝石ほうせきこう非鉄ひてつ金属きんぞく貨幣かへい鋳造ちゅうぞう技術ぎじゅつゆうしていた。人々ひとびと職人しょくにんとおして、農具のうぐ工具こうぐるいすきおのなど)、武具ぶぐるいたてくさりかたびら、やりかぶとけんなど)、生活せいかつ用品ようひんかぎなど)、装飾そうしょくひんきむぎん青銅せいどうどうなどでつくられた)などを用立ようだてた[48]

都市とし職人しょくにん注文ちゅうもんおうじるかたちでも、市場いちば販売はんばいするかたちでも商品しょうひん生産せいさんおこなった。ボリス・ルィバコフ(ru)は、都市とし農村のうそんでの産業さんぎょう分類ぶんるいした。すなわち都市としではてつ工業こうぎょうしょう鍛冶たんやごう兵器へいき産業さんぎょう鍛造たんぞう鋳造ちゅうぞうぎょうしんせん針金はりがね)・宝石ほうせき細工ざいく陶器とうき琺瑯ほうろう・ガラス製品せいひん産業さんぎょうなどが発達はったつした。一方いっぽう農村のうそんでは、鍛冶たんや宝石ほうせき細工ざいく陶器とうき木材もくざい加工かこう皮革ひかく加工かこう織物おりものぎょうなどの産業さんぎょう発達はったつしたとべている[49]種々しゅじゅ製品せいひんによって、ルーシの当時とうじのヨーロッパでひろられるところとなっていた。たとえば、12世紀せいき以前いぜんのフランスにおいては、絹織物きぬおりものを「ルーシぶつ」とんでいた[50]

その産業さんぎょう発達はったつ段階だんかい以下いか段階だんかいんでいる。だい1の段階だんかいは10世紀せいきから12世紀せいきの20-30年代ねんだいごろまでの2世紀せいき以上いじょうわたる。この時期じき産出さんしゅつする製品せいひんかずかぎられ、製品せいひん非常ひじょう高価こうかであった。注文ちゅうもんおうじるかたちでの生産せいさん拡大かくだいしたが、市場いちば自由じゆう販売はんばいすることはいま限定げんていてきであった。しかしこの時期じきに、あたらしい生産せいさん基礎きそてき技術ぎじゅつ蓄積ちくせきされていった。考古学こうこがくてき発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかは、職人しょくにんたちの進歩しんぽが、キエフ大公たいこうこく産業さんぎょう技術ぎじゅつ当時とうじ西欧せいおう東欧とうおうおな水準すいじゅんまでげたことを結論けつろんけている[51]

12世紀せいきぜんだい1さん半期はんき)の末期まっきに、発達はったつだい2段階だんかいおとずれた。生産せいさん工程こうてい簡略かんりゃくによって、いちじるしく生産せいさん合理ごうりすすみ、生産せいさん品数しなかず急激きゅうげき拡大かくだいした。織物おりもの生産せいさんにおいては水平すいへい織機しょっき織機しょっき参照さんしょう)が出現しゅつげんし、生産せいさん能力のうりょくたかまった。金属きんぞく加工かこうぎょうにおいては多層たそうはがねわりに、きたえせっされたさき均質きんしつてきあらわれた。同様どうようかく産業さんぎょう部門ぶもん製品せいひん量産りょうさん成功せいこうした。とく金属きんぞく加工かこう木材もくざい加工かこう宝石ほうせき細工ざいく製靴せいかなどの分野ぶんやにおいて量産りょうさん画一かくいつてき製品せいひんあらわれた[51]。また、この時期じきにはおおくの分野ぶんや専門せんもん職人しょくにん登場とうじょうした。12世紀せいきまつのいくつかの都市としでは、専門せんもん職人しょくにんかずは100にんえていた。製品せいひん都市としでの販売はんばいだけでなく、農村のうそんへも流通りゅうつうしていった[52]

農業のうぎょう

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農民のうみんたちは血縁けつえんてきちか世帯せたいあつまり農村のうそんでの共同きょうどうたい(ヴェルヴィ(ru)もしくはミール[ちゅう 11])を形成けいせいし、自分じぶんたちの土地とち家畜かちく生活せいかつしていた。共同きょうどうたいでは牧草ぼくそう狩猟しゅりょうけんなどを共有きょうゆうし、納税のうぜいやその公共こうきょう義務ぎむかんしても負担ふたんしあっていた。キエフ時代じだいにはもりのある地域ちいきおも耕作こうさくされた。なぜなら農業のうぎょうにはみずかせず、これら森林地帯しんりんちたいには河川かせん存在そんざいしたからである。ただ、その土壌どじょうゆたかとはいえず、肥沃ひよく黒土こくどはキエフの南西なんせいにのみ存在そんざいした。ルーシの領土りょうどはほとんどが北緯ほくい50以北いほく位置いち植物しょくぶつ生育せいいくにはいていない[55]

このような環境かんきょうのため焼畑やきばた農業のうぎょう一般いっぱんてきであった。耕作こうさくのために樹皮じゅひふかきず枯死こしさせ森林しんりんはらった。のこったはい土壌どじょう改善かいぜんすう年間ねんかんゆたかな土壌どじょうとなった。土壌どじょうがまたせてくるとべつ場所ばしょ移動いどうした。こうおこりにはソハ(ru)ロシア: Соха)とばれるプラウがよく使つかわれた。収穫しゅうかくにはかま使つかい、干草ほしくさるのに大鎌おおがまやマトックを使つかった[56]

通常つうじょう穀類こくるい森林しんりんひらいた耕作こうさく栽培さいばいされ、北方ほっぽうではライ麦らいむぎみなみでは雑穀ざっこく、さらに小麦こむぎソバえんばく大麦おおむぎなども補助ほじょてき栽培さいばいされた。ほかにもエンドウレンズマメアマあさ栽培さいばいした。家畜かちくはウマやウシ、ブタ、ヤギ、ヒツジ、家禽かきん一般いっぱんてきなものであった。農村のうそん付近ふきん森林しんりんではベリー果実かじつナッツるいキノコれた。かわみずうみ渓流けいりゅう漁業ぎょぎょうおこない、にく毛皮けがわもとめて狩猟しゅりょうおこなった。ろう蜂蜜はちみつるために養蜂ようほうばこもあった[57]

宗教しゅうきょう文化ぶんか

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スラヴ神話しんわヴェレスしん絵画かいが(1990ねん)。

宗教しゅうきょう

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980ねんウラジーミル1せい[58]、スラヴ民族みんぞく様々さまざま信仰しんこう祭祀さいし祭礼さいれい文化ぶんか体系たいけいすることで、キエフ大公たいこうこくスラヴじん全体ぜんたい代表だいひょうするくに発展はってんさせようとこころみた。様々さまざま民間みんかん信仰しんこうかみ列聖れっせいされ、キエフの周辺しゅうへんおかにその神殿しんでん建設けんせつされた[59] 。しかし、987ねんにはかく宗教しゅうきょう調査ちょうささせたうえキリスト教きりすときょう導入どうにゅうすることになり、988ねんには本人ほんにん洗礼せんれいけた。

伝承でんしょう

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のこされた史料しりょうによって、キエフ・ルーシ伝承でんしょう豊富ほうふさと多様たようせい証明しょうめいされている[60]。そのだい部分ぶぶん年中ねんじゅう行事ぎょうじ儀式ぎしきのための韻文いんぶんである。すなわち、農業のうぎょうかんするいのりにかすことのできない呪術じゅじゅつ祈祷きとううたである。には婚礼こんれいうた葬儀そうぎ哀歌あいか労働ろうどううた酒宴しゅえんうたトリズナうた[ちゅう 12]などもふくまれる。

勇士ゆうし行動こうどうをうたう、ルーシの口承こうしょう英雄えいゆう叙事詩じょじしブィリーナという。その出現しゅつげん時期じきには諸説しょせつがあるものの、キエフ・ルーシにはすで登場とうじょうしていたとかんがえられる[62]。また、英雄えいゆう叙事詩じょじし物語ものがたることや、曲芸きょくげい演奏えんそうなどもおこな旅芸人たびげいにんスコモローフというが、やはりキエフ・ルーシにはすで出現しゅつげんしており、そのもの貴族きぞくたちをたのしませていた[63]西欧せいおう騎士きし年代ねんだいが、洗礼せんれい異教徒いきょうと討伐とうばつ主眼しゅがんとしているのにたいし、ルーシの英雄えいゆう叙事詩じょじし昔話むかしばなし勇士ゆうしたちの行動こうどうは、みずからの領土りょうどまもること、外敵がいてきから解放かいほうすることを主眼しゅがんとしているという特徴とくちょうがあった。つまり、多分たぶん愛国あいこく主義しゅぎてき要素ようそをモチーフとしていた[64]

宗教しゅうきょうてき伝承でんしょうとしては、古代こだいルーシの観念かんねん反映はんえいした神話しんわ広範囲こうはんいひろまっていた。キリストきょう導入どうにゅう(「ルーシの洗礼せんれい(ru)」)されると、教会きょうかい長年ながねんわたって、教会きょうかいからみて異教いきょう残滓ざんしであるいまわしい慣習かんしゅう悪鬼あっきのような娯楽ごらく冒涜ぼうとくあたいするものを排除はいじょしようとした。しかしこのたね伝承でんしょう人々ひとびと風俗ふうぞくあいだ保持ほじされた。それは初期しょき宗教しゅうきょうてき意味合いみあいをうしな[60]儀式ぎしき娯楽ごらくへと変質へんしつした[43]、19-20世紀せいき直前ちょくぜんまでのこされていた。

宗教しゅうきょうてき意味合いみあいをたない伝承でんしょうとしては、ことわざ慣用かんよう、なぞなぞなどがあった[60]文学ぶんがく作品さくひん著者ちょしゃは、自分じぶん著作ちょさくなかにこれらを使用しようした。また、おおくの口碑こうひ伝説でんせつが、記述きじゅつ文学ぶんがく作品さくひんなか保持ほじされている。すなわち、先祖せんぞ部族ぶぞくおおやけ王朝おうちょうかんするもの、都市とし創設そうせつしゃかんするもの、異邦いほうじんとのたたかいにかんするものなどである。たとえば『イーゴリ軍記ぐんき』には、2-5世紀せいき出来事できごとについての説話せつわ影響えいきょうあたえている[60]文字もじ普及ふきゅうし、記述きじゅつ文学ぶんがく作品さくひん普及ふきゅうしたのち伝承でんしょう発展はってんをつづけ、キエフ・ルーシ文化ぶんか重要じゅうよう要素ようそとしてのこった。伝承でんしょう文学ぶんがくながのこったのは、文章ぶんしょうとしての言語げんご古代こだい教会きょうかいスラヴ)と、はな言葉ことばとしての言語げんご並存へいそんしてもちいられたためである。古代こだい教会きょうかいスラヴは、スラヴぞくするルーシの人々ひとびとにとって理解りかい容易ようい言語げんごであり、元々もともと母語ぼごと、場面ばめんによって使つかけられていた[65]。それは文学ぶんがく世界せかいでも同様どうようであり、記述きじゅつ文学ぶんがくと、口語こうご伝承でんしょう文学ぶんがくにおいて使つかけられ、両者りょうしゃ並立へいりつして存続そんぞくする下地したじとなった[66]。さらに、キエフ・ルーシ以降いこうおおくの作家さっか詩人しじんが、口承こうしょう文学ぶんがくテーマプロット蓄積ちくせきされた修辞しゅうじ技法ぎほう活用かつようした[60]。たとえばミハイル・ロモノーソフプーシキンエセーニンなどの著名ちょめい詩人しじんかんしても、伝承でんしょうによる歌謡かようが、その詩情しじょう源泉げんせんながれているという指摘してきがある[67]

識字しきじ

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ノヴゴロド出土しゅつど白樺しらかんば文書ぶんしょ

キリスト教きりすときょう導入どうにゅうによって、識字しきじちから幅広はばひろそうへの普及ふきゅう記述きじゅつ文化ぶんか急激きゅうげき発達はったつ促進そくしんされた。カトリック宗教しゅうきょうてき場面ばめんもちいる言語げんご限定げんていしたのにたい[68]、ルーシのでの正教会せいきょうかいは、キエフ大公たいこうこく人々ひとびと母語ぼご非常ひじょうちか古代こだい教会きょうかいスラヴでの礼拝れいはい許容きょようした[65]からである。このことは母語ぼごきするちから発達はったつのためにこのましい環境かんきょうつくげた[60]

また、識字しきじ教育きょういく教会きょうかいから発展はってんした。教会きょうかい修道院しゅうどういんには学校がっこう併設へいせつされた[64]。しかし、教会きょうかい識字しきじ教育きょういく分野ぶんや独占どくせんするにはいたらなかった。識字しきじりょく国民こくみんへの浸透しんとうかんしては、ノヴゴロドなどの都市としから出土しゅつどした白樺しらかんば文書ぶんしょ証明しょうめいしている。白樺しらかんば文書ぶんしょは、手紙てがみおぼきや、練習れんしゅうそのものなどにもちいられており、文字もじ国家こっかてき文章ぶんしょう法律ほうりつ関係かんけい文章ぶんしょう、あるいは書物しょもつ作成さくせいのためだけではなく、日常にちじょう生活せいかつなかでも使用しようされていたことをしめしている。また、めいはいった工芸こうげいひん頻繁ひんぱんられる。キエフ・ノヴゴロド・スモレンスク・ウラジーミルなどのしょ都市とし教会きょうかいかべには、一般いっぱん市民しみんきした文字もじのこっている[60]

文学ぶんがく

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ラジヴィウ年代ねんだい』のなかの1ページ

ルーシの記述きじゅつ文学ぶんがく形成けいせい文学ぶんがく作品さくひんにおける芸術げいじゅつてき表現ひょうげん技法ぎほうや、思想しそう主題しゅだい傾向けいこうには、伝承でんしょう口承こうしょうおおきな影響えいきょうあたえた。また、キリストきょう採用さいようとともに、おおくの翻訳ほんやく作品さくひんとおして、正教会せいきょうかい高度こうど伝統でんとう文化ぶんか姿すがたがルーシにもたらされた。それはルーシ独自どくじ伝統でんとう文学ぶんがく形成けいせいのための基礎きそとなった。なお、文明開化ぶんめいかいか日本にっぽんするならば、すで文字もじ文化ぶんかゆうしていた日本にっぽんにおける翻訳ほんやく文学ぶんがく割合わりあいは(比較的ひかくてきちいさかったが、それまで文字もじ文化ぶんかたなかったルーシにおいては、翻訳ほんやく文学ぶんがくはじめてせっした文字もじ文化ぶんかであり、文学ぶんがく史上しじょうあたえた影響えいきょうはよりおおきかったはずである、という指摘してきがある[69]

くわえて識字しきじりょく発達はったつが、キリストきょう関連かんれんする文学ぶんがく発生はっせいする下地したじつくった。この時期じき文学ぶんがく作品さくひん特徴とくちょうは、説教せっきょうしゅうせい人伝ひとづてボリスとグレブかんする作品さくひんなど)、合戦かっせんたん(『イーゴリ軍記ぐんき』など)といったジャンルにある。同時どうじに、ルーシ最初さいしょ年代ねんだいレートピシ)である『原初げんしょ年代ねんだい』が編纂へんさんされている[70]。12世紀せいき以降いこうかく公国こうこく乱立らんりつする時代じだいとなると、それぞれの公国こうこくで、自国じこく正当せいとうせいや、地元じもと出来事できごとつたえる独自どくじ年代ねんだい編纂へんさんされた[71]。また、あらたな文学ぶんがくジャンルである、かたしめきょう訓話くんわ(『モノマフこう庭訓ていきん(ru)など)が登場とうじょうし、人々ひとびとこのまれた。さらにはおおやけ権力けんりょくのありかたや、社会しゃかい作品さくひん(『ダニール・ザトーチニクの祈願きがん(ru)など)もあらわれた[71]

キエフ・ルーシ著者ちょしゃたちは、著者ちょしゃ公表こうひょうしないことをこのんでいた[72]そうじて11-12世紀せいきには80以上いじょう宗教しゅうきょうてき世俗せぞくてき書物しょもつ編集へんしゅうされた。

建築けんちく

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絵画かいが

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生活せいかつ

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住居じゅうきょ

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古代こだいスラヴじん住居じゅうきょは、社会しゃかい階層かいそうによってことなる様式ようしきっていたとかんがえられる。インド・ヨーロッパ語族ごぞく社会しゃかいには、支配しはい階級かいきゅうとなる戦士せんしそうと、農耕のうこう牧畜ぼくちくおこな生産せいさんしゃそうのあいだに歴然れきぜんとした階層かいそうがあり、それが住居じゅうきょにもあらわれていた。

同様どうよう古代こだいスラブじんにもあった。8-10世紀せいきごろのスラヴじん遺跡いせきには、半地はんじしき住居じゅうきょ多数たすう発見はっけんされている。おおくは、1.5メートルから4メートル四方しほうおおきさである。もっとも原始げんしてき住居じゅうきょは、地面じめんを1メートルほどり、そのうえに、簡素かんそ屋根やね直接ちょくせつかぶせたものである。屋根やねえだあし粘土ねんどつくられた。はん放浪ほうろうてき生活せいかつおくっていた初期しょきスラヴじんてきした形式けいしきであった。

一方いっぽう、10世紀せいきごろのキエフやベロゴロド遺跡いせきには、かまど(かまど)や2かいなどのある発達はったつした住居じゅうきょふくまれている。これらは支配しはいしゃそうである戦士せんし階級かいきゅうのものとおもわれる。スラヴじん住居じゅうきょ最初さいしょ形態けいたいは、暖炉だんろねたかまどと、そのかまどいた部屋へやという簡単かんたんなものであったと推測すいそくされる。かまどぜんスラヴでペーチ、ペシト、ペチカなどとばれている。つぎ段階だんかいでは、かまどのある部屋へやさむさやゆきからまもるためにもうひとつの部屋へやつくられた。こうしたスタイルの住居じゅうきょは、10世紀せいきごろの東西とうざいスラヴじん住居じゅうきょすでられ、現在げんざい民家みんかにものこっている。このもうひとつの部屋へやは、「日陰ひかげ」を意味いみするスラヴ由来ゆらいし、ロシアでセーニ、ウクライナ、チェコでシーニとばれる。これらのかたりは10世紀せいき以降いこう文献ぶんけんあらわれている[73]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ РоусьРусьなど、発音はつおんおなじと推測すいそくされる単純たんじゅん表記ひょうきれは存在そんざいする。
  2. ^ ウクライナ:Київська Русьベラルーシ:Кіеўская Русьロシア:Киевская Русь
  3. ^ カラムジンによると、ロシア帝国ていこくはルーシの直接ちょくせつ後継こうけいしゃであり、「ルーシ」そのものはロシアの古称こしょうにすぎない。なぜなら、ルーシは1240ねんほろんだわけではなく、ルーシの政治せいじてき中心ちゅうしんがキエフからモスクワへうつっただけだからであるという。かれは、ルーシ(ロシア)の歴史れきしは「キエフ・ルーシ」、「モスクワ・ルーシ」、「帝国ていこくのルーシ」という区分くぶんかれると主張しゅちょうした[15]
  4. ^ 「ヴェリーキー・クニャージ」はロシア: Великий князьからの転写てんしゃによる。ベラルーシ: Вялікі князь:ビャリーキ・クニャージ、ウクライナ: Великий князь:ウェリークィー・クニャージ。
  5. ^ とう文中ぶんちゅうの「一門いちもん」は便宜べんぎてきもちいた名称めいしょうであることに留意りゅういされたし。また、「ロスチスラフ一門いちもん」・「イジャスラフ一門いちもん」・「ユーリー一門いちもん」は、「モノマフ一門いちもん」(始祖しそウラジーミル・モノマフ)のながれをくむ血統けっとうでもある。くわしくはru:Мономаховичи参照さんしょう
  6. ^ 「ストロヴァニエ」はロシア: столованьеからの転写てんしゃによる。
  7. ^ 日本語にほんご文献ぶんけんでは、10世紀せいきに25、1100ねんに100、1200ねんに225の都市としがあったと指摘してきするものがある[35]
  8. ^ 「ドゥム」はロシア: дымからの転写てんしゃによる。
  9. ^ 「ポヴォズ」はロシア: повозからの転写てんしゃによる。
  10. ^ 60しゅ以上いじょうというかずかずせつの1つであり、研究けんきゅうしゃによって諸説しょせつある。くわしくはキエフ・ルーシ都市とし#産業さんぎょう参照さんしょう
  11. ^ ミールは「もとルスカヤ・プラウダ」(11世紀せいき前半ぜんはん編纂へんさん)に、ヴェルヴィはウラジーミル・モノマフ制定せいていしたほうなどをくわえた「拡張かくちょうばんルスカヤ・プラウダ」(現存げんそんする写本しゃほんだい部分ぶぶんは15-17世紀せいきのもの[53])にそのがみられる[54]
  12. ^ 「トリズナ」はロシア: Тризна転写てんしゃによる。トリズナは古代こだいスラヴじん追悼ついとう追善ついぜん儀式ぎしき最後さいごおこな行事ぎょうじのことであり、武芸ぶげい宴会えんかいおこなった[61]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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