(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ポロツク公国 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ポロツク公国こうこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポロツク公国こうこく
Полацкае княства
987ねん - 1392ねん リトアニア大公国
ポロツク公国の国章
くにあきら
ポロツク公国の位置
公用こうよう ひがしスラヴ
首都しゅと ポロツク
ポロツクこう
987 - 1397 ポロツクこう#ポロツクこう一覧いちらん参照さんしょう
変遷へんせん
成立せいりつ 987ねん
リトアニア大公たいこうこく行政ぎょうせい区画くかく1392ねん
ポロツク公国の位置
ポロツクとそのぶんりょう公国こうこく
P:ポロツク公国こうこく
V:ヴィテプスク公国こうこく L:ルコームリ公国こうこく
D:ドルツク公国こうこく O:ロゴジュスク公国こうこく
M:ミンスク公国こうこく IZ:イジャスラヴリ公国こうこく
G:ゲルツィケ公国こうこく K:クケイノス公国こうこく
周辺しゅうへんおも公国こうこく都市とし
S:スモレンスク公国こうこく KI:キエフ公国こうこく
N:ノヴゴロド公国こうこくT:トゥーロフ公国こうこく
R:リガ VI:ヴィリニュス
(ポイントは首都しゅと位置いちのみ。国境こっきょうせんは2014ねん現在げんざい

ポロツク公国こうこくベラルーシ: Полацкае княства)はキエフルーシ時代じだいに、げんベラルーシポロツク(ベラルーシではポーラツク)を首都しゅととして成立せいりつした国家こっかである。キエフ大公たいこうこくから最初さいしょ分離ぶんりした公国こうこくであり、しばらくのち事実じじつじょう独立どくりつたした。公国こうこく歴史れきし概括がいかつすると、前期ぜんきはキエフ大公たいこうこくなどのルーシ諸国しょこくと、中期ちゅうきにはリヴォニア帯剣たいけん騎士きしだんなどの十字軍じゅうじぐん勢力せいりょくあらそい、最終さいしゅうてきにはリトアニア大公たいこうこくまれた。

ポロツク公国こうこく歴史れきし

[編集へんしゅう]

公国こうこく形成けいせい

[編集へんしゅう]

ポロツクにかんするふる記録きろくには、5世紀せいきごろの「西にしドヴィナがわ流域りゅういきヴァイキングおおきな都市とし」としての記述きじゅつがある[1]。またサクソ・グラマティクスの『デンマークじん事績じせき』には、「フロド1せいのハディンガ[ちゅう 1]が、策謀さくぼうによってポロツクのおうヴェスパシをころした。都市とし強固きょうこさにより征服せいふくできなかったからである。ちゅうさんめいともロシア表記ひょうき日本語にほんごおんうつし」という主旨しゅし記述きじゅつがある[2]。ルーシの記述きじゅつでは、『原初げんしょ年代ねんだい』(ラヴレンチー写本しゃほん)における862ねん記述きじゅつ初出しょしゅつである[3]。なお『ニコン年代ねんだい』によれば、アスコルド872ねんにポロツクを占領せんりょうしている。

10世紀せいき後半こうはんには、ポロツクには独立どくりつした支配しはいしゃ・ログヴォロド(en)がいたが、980ねんノヴゴロドこうウラジーミル(キエフ大公たいこうウラジーミル1せい)はポロツクを破壊はかいし、ログヴォロドをころし、ログヴォロドのむすめログネダ強制きょうせいてきつまにしたうえにポロツクを併合へいごうした。987ねんごろ、ログネダはウラジーミル1せい暗殺あんさつしようとするが失敗しっぱいし、ウラジーミル1せい自分じぶんとログネダとのあいイジャスラフをポロツクにいた。(このイジャスラフは歴代れきだいポロツクこう祖先そせんとなる。)はじめのうちすうねんは、ウラジーミル1せい建設けんせつしたイジャスラヴリ(げんベラルーシ・ザスラーウエ)に首都しゅとがあったが、しばらくのちにイジャスラフがポロタがわ左岸さがん要害ようがいにポロツクを再建さいけんし、首都しゅと移転いてんした。なお、おそらく摂政せっしょうにログネダがいていたとかんがえられている。

992ねん、ポロツクに正教せいきょう主教しゅきょうかれた[4]アイスランドサガによれば、ポロツクは1000ねんごろにアイスランドのヴァイキングキリスト教徒きりすときょうとトルヴァリドから洗礼せんれいけた。サガによれば、トルヴァリドはひがしローマ皇帝こうていバシレイオス2せいから「ひがしバルトのルーシの都市とし」にたいする全権ぜんけん大使たいしにんずるむね勅書ちょくしょあたえられ、ルーシのたとされている[2]

公国こうこく独立どくりつ

[編集へんしゅう]

キエフ大公たいこうこくからのポロツク公国こうこく分離ぶんりと、独立どくりつした公国こうこくへの変化へんかは、イジャスラフの治世ちせいからすではじまっていた。このときポロツク公国こうこくは、ルーシ北西ほくせいにあたる西にしドヴィナ川中かわなか流域りゅういきベレジナがわネマンがわうえ流域りゅういきに、十分じゅうぶんひろ領土りょうどめていた。西にしドヴィナがわ、そしてドニエプルがわ上流じょうりゅう近接きんせつしていることで、バルト海ばるとかいから黒海こっかいまでの輸送ゆそう容易よういなものとなり、ポロツク公国こうこくおおきな利益りえきをもたらしていた。農業のうぎょう狩猟しゅりょう漁撈ぎょろうと、支配しはい領域りょういきないぬまみずうみから産出さんしゅつする鉱石こうせき原料げんりょうにしたてつ生産せいさんが、ポロツク公国こうこく繁栄はんえい促進そくしんした。

イジャスラフのブリャチスラフは、ポロツク公国こうこく領土りょうどに、西にしドヴィナがわジスナがわあいだ都市とし・ブリャチスラヴリ(げんベラルーシ・ブラスラウ)をくわえた。1020ねん、ブリャチスラフはノヴゴロドを攻撃こうげきしたが、帰路きろにおいてスドマがわでノヴゴロドこうけんキエフ大公たいこうヤロスラフ1せいぐんいつかれ、捕虜ほりょ戦利せんりひんてて逃走とうそうした。しかしつぎとしには和平わへい条約じょうやく締結ていけつによって、ヴィテプスクウスヴャートィ獲得かくとくした(スドマがわたたか)。この和平わへい条約じょうやくにもかかわらず、おじ・おいの関係かんけいにあるブリャチスラフとヤロスラフ1せいとのあいだ軍事ぐんじ行動こうどうまなかった。「すべてのいのちして」と年代ねんだいかたられるほどに、ブリャチスラフはたたかいをつづけた。

フセスラフの統治とうち

[編集へんしゅう]

ポロツク公国こうこく最盛さいせいは、ブリャチスラフのフセスラフ時代じだい1044ねん - 1101ねん)に到来とうらいした。フセスラフははじめはキエフ大公たいこうこくのヤロスラフ一門いちもん連合れんごうしてトルクぞくへの遠征えんせいおこなったが(1060ねん)、のち先代せんだい政策せいさく方針ほうしん継承けいしょうし、覇権はけん主義しゅぎのもとキエフ大公たいこうこくとの積極せっきょくてき闘争とうそうひろげた。1065ねんには突如とつじょプスコフ急襲きゅうしゅうし、翌年よくねん(もしくはさい翌年よくねん)にはノヴゴロドを攻撃こうげきした。しかしノヴゴロドから帰還きかんしたのちミンスク近郊きんこうのニャミーハがわ(en)でのたたかいでキエフ大公たいこうイジャスラフ1せいらの連合れんごうぐんやぶれた。イジャスラフ1せいらはフセスラフに和平わへい条約じょうやく提案ていあんし、十字架じゅうじか和平わへい宣誓せんせいした。イジャスラフは2人ふたり息子むすことも和平わへい交渉こうしょうのためにヴォルシャかったが、宣誓せんせいやぶったイジャスラフ1せいらに捕縛ほばくされ、キエフへ護送ごそうされて幽閉ゆうへいされた[5]

1068ねんシャルカンちょうとするポロヴェツぞく襲撃しゅうげきさい、イジャスラフ1せいやぶれて逃走とうそうしたため、キエフを庇護ひごするものはいなくなった。キエフの人々ひとびとはフセスラフを解放かいほうしてキエフ大公たいこうとした[6]1069ねん4がつにイジャスラフ1せいがポーランドじん援助えんじょけてもどってくると、フセスラフはポロツクへ逃走とうそうした[7]。イジャスラフ1せいはキエフを占領せんりょうし、さらにフセスラフをポロツクから追放ついほうして、自分じぶんムスチスラフをポロツクこうとした[7](そのすぐ死亡しぼうしたため、スヴャトスラフ2せいわりにてられることになる)。フセスラフは(おそらく)ヴォテスぞく(en)のもとにげ、へいつのって同年どうねん10がつにノヴゴロドにあらわれたが敗北はいぼくした。

1071ねん、フセスラフはポロツクを占領せんりょう[8]、ゴロティチェスクのたたかいにやぶれたのちもポロツクにみとどまった。1073ねんフセスラフとイジャスラフ1せい和解わかいした。そのポロツク公国こうこくは、1083ねんにはウラジーミル2せいモノマフ遠征えんせいによりおおきな被害ひがいけた。

公国こうこく分裂ぶんれつ

[編集へんしゅう]

フセスラフの存命ぞんめいちゅうからすでに、所領しょりょうめぐ闘争とうそう発生はっせいあやぶまれていた。元来がんらい公国こうこくはフセスラフの長子ちょうしダヴィド子孫しそんぐものだったが、やむをず、フセスラフのたちのあいだぶんりょう公国こうこく[ちゅう 2]分割ぶんかつし、ポロツク公国こうこく改編かいへんはじめた。これは必然ひつぜんてき統一とういつされた強力きょうりょく公国こうこく断片だんぺんにつながった。はじめは6つに[10]、そのさらに複数ふくすうぶんりょう公国こうこくかれた。ポロツク公国こうこくりょう派生はせいしたおも公国こうこくにはミンスク公国こうこくヴィテプスク公国こうこくイジャスラヴリ公国こうこくロゴジュスク公国こうこくドルツク公国こうこくストレジェフ公国こうこくひとしがある[ちゅう 3]

1121ねん、キエフ大公たいこうムスチスラフ1せいは、ポロツクの領土りょうどだい規模きぼぐん派遣はけんし、荒廃こうはいさせ、服従ふくじゅういた。さらに1129ねんにはすべてのポロツクのおおやけたちをビザンツ帝国ていこく追放ついほうし、ポロツクこうには自分じぶんイジャスラフ2せいえた。 しかしムスチスラフ1せいたちのポロツク統治とうちは3年間ねんかんつづいたのみだった。1132ねんには、ポロツクこう家系かけい代表だいひょうするヴァシリコ(ポロツク公国こうこくイジャスラフのらいまごであり、フセスラフのまごにあたる。)があらわれた。

ポロツクこうおおやけはフセスラフの子孫しそんもともどったが、今度こんどはヴァシリコにたいし、フセスラフの子孫しそんのうち有力ゆうりょくな3つの家系かけいヴィテプスクこういえミンスクこういえ・ドルツク公家くげ。ヴァシリコはヴィテプスク公家くげぞくする。)のあいだで、ポロツク公国こうこくをめぐる闘争とうそうはじまった。なお、このあらそいの時代じだいつづくが、1186ねん以降いこうのポロツクの支配しはいしゃかんする資料しりょうはほとんど消失しょうしつしている。国家こっか枠組わくぐみとしては、この時期じきにはポロツク公国こうこく次第しだい弱体じゃくたいし、さらに細分さいぶんしていった。また、スモレンスク公国こうこく影響えいきょうりょく増大ぞうだいしたらしく、一時期いちじき、ポロツク公国こうこく都市とし一部いちぶがスモレンスクのわたっている。

中世ちゅうせい初期しょきひがしバルト地域ちいきは、かつてはポロツク公国こうこく政治せいじてき影響えいきょうおよ範囲はんいにあった。ラトビアにおけるロシアを言葉ことばの「krievi」、またラトガリアの「krīvi」には、この土地とち人々ひとびとクリヴィチぞく(ラテン文字もじ転写てんしゃ:krivichi)[ちゅう 4]との緊密きんみつ関係かんけい記憶きおく保持ほじされている。カトリックの宣教師せんきょうしマインハルト・フォン・ゼーゲベルク(en)は、ポロツク公国こうこく金銭きんせん支払しはらって改宗かいしゅう許可きょかリーヴぞく土地とち説教せっきょうおこなった[12]。また、ポロツクこう同意どういしたでイクスキュル(ラトビア:イクシュチレ[ちゅう 5]司教しきょう設立せつりつした。その、マインハルトは教会きょうかい、さらに城砦じょうさい建設けんせつした。1186ねんにはリヴォニア教区きょうく創立そうりつ主宰しゅさいした。しかし、リーヴぞくじゅうぶんいちぜい支払しはらいを拒否きょひしたことが、西にしドヴィナがわ河口かこう十字軍じゅうじぐんあらわれる原因げんいんとなった。1201ねん、アルベルト・フォン・ブクソエーフェン(en)のちにリガ司教しきょう)によって、西にしドヴィナがわ河口かこうリガ建設けんせつされ、1202ねんにはリヴォニア帯剣たいけん騎士きしだん結成けっせいされた[13]

1187ねんまでには、リトアニアじんによって西にしドヴィナがわなか流域りゅういきうばわれており[14]、さらに十字軍じゅうじぐん出現しゅつげんによって、西にしドヴィナがわ水運すいうん依存いぞんしていたポロツク公国こうこく交易こうえき危機ききおちいった。また、西にしドヴィナ川下かわしも流域りゅういきからの税収ぜいしゅう減少げんしょうした。1203ねん、ポロツクこうウラジーミルは、騎士きしだんりょうへの最初さいしょ遠征えんせいおこない、Ikšķile(en)とゴリム(げんSalaspils(en)(どちらもラトビア中部ちゅうぶ都市とし表記ひょうきはラトビア包囲ほういし、同年どうねんなつにはポロツクこう家臣かしんおおやけ・ヴャチコ(en)がリガにせまったが、戦果せんか家畜かちくうばうのみにとどまった。

1206ねん、リガ司教しきょうアルベルトは、ポロツクこうウラジーミルと友好ゆうこう関係かんけいきずくべく使者ししゃ派遣はけんしたが、この交渉こうしょう決裂けつれつした。ウラジーミルがリガ司教しきょうがわ先行せんこうして、自分じぶんたちの土地とちから十字軍じゅうじぐん追放ついほうのぞむリーヴぞく族長ぞくちょううったえに同意どういしていたことが理由りゆうである[15]。なお、リーヴぞくことなり、ラトガレぞく(en)はポロツク公国こうこくがわくことを拒否きょひした[15]。リーヴぞく戦争せんそうはじめ、ゴリムを占領せんりょうした[15]。しかし武装ぶそうした150にんのリヴォニア帯剣たいけん騎士きしだんにより、じゅう装備そうびをもたないリーヴぐん数日すうじつ敗北はいぼく族長ぞくちょうアコ戦死せんしした[15]騎士きしだんしろかえし、さらにしろでもリーヴぞく捕縛ほばくはじめた。リーヴぞくがポロツクこう援助えんじょもとめたため、ポロツクぐんはゴリムを包囲ほういした[16]。しかしポロツクぐんバリスタかんする技術ぎじゅつ修得しゅうとくであり、城内きうちからの射撃しゃげきによっておおきな被害ひがいけた[16]。その海路かいろより援軍えんぐんがリガに接近せっきんしていることをきつけると、ポロツクとリーヴのぐん包囲ほういいた[17]。なお、このたたかいののち、リーヴぞくおおくがカトリックに改宗かいしゅうした[13]

1212ねん、ポロツクこうウラジーミルと、リガ司教しきょうアルベルトは会談かいだんおこなった。リーヴぞくとラトガレぞく族長ぞくちょう参加さんかした。かれらはポロツク公国こうこく賦課ふかから解放かいほうされることをのぞんでいた(十字軍じゅうじぐんぜいはらうことものぞまなかった。)。会談かいだんのち、ポロツク公国こうこくはリヴォニアにおける支配しはいりょく放棄ほうき余儀よぎなくされた。このようにして、西にしドヴィナ川下かわしも流域りゅういきにおけるポロツクの支配しはいりょくは、十字軍じゅうじぐんってわられた。ポロツクこうウラジーミルは、1216ねん十字軍じゅうじぐんたいするルーシ諸公しょこう合同ごうどう遠征えんせいぐん準備じゅんびちゅう死去しきょした。

スモレンスクこう干渉かんしょう

[編集へんしゅう]

13世紀せいき前半ぜんはんには、ポロツク公国こうこく一時いちじスモレンスク公国こうこく従属じゅうぞくした[10]。ポーランドのMaciej Stryjkowski(en)ちゅう:ポーランド表記ひょうき年代ねんだいでは、ラトビアにおける支配しはいりょく喪失そうしつが、ポロツク内部ないぶ暴動ぼうどうこしたとしている(ただし、年代ねんだい記述きじゅつ資料しりょう研究けんきゅう不十分ふじゅうぶんであったと推測すいそくされてもいる)。いずれにせよ、紛糾ふんきゅうするポロツクの状況じょうきょうスモレンスクこう利用りようした。1222ねん1がつ17にち、スモレンスクこうムスチスラフはポロツクを占領せんりょうし、おいスヴャトスラフえた。1232ねんごろにふたたびポロツク公家くげつらなる、ヴィテプスク公家くげブリャチスラフがポロツクこうとなるが、かれ最後さいごのポロツク公家くげ出身しゅっしんしゃのポロツクこうとなった。また、リューリクあさ出身しゅっしんしゃとしても最後さいごとなった。なお、ルーシの年代ねんだいには、1239ねんかれむすめのヴァシリサ(洗礼せんれいめいアレクサンドラ)が、ウラジーミルだい公国こうこくアレクサンドル・ネフスキー結婚けっこんした、という記述きじゅつがある。

リトアニア大公たいこうこくへの編入へんにゅう

[編集へんしゅう]

リトアニアの『Bychovco年代ねんだい(en)ちゅう:リトアニア表記ひょうきでは、1190ねんに「リトアニアのおおやけミンガイロがポロツクを征服せいふくし、正教せいきょうによってボリスというあたえられた[18][19][20]息子むすこのギンヴィルにまちまかせた」という記述きじゅつがあるが、この伝説でんせつ歴史れきしてき根拠こんきょはない。しかし1240年代ねんだいはじめから、ポロツクのおおやけにはリトアニア起源きげん名前なまえおおやけいている。1248ねんごろ、リトアニア大公たいこうミンダウガスはポロツクこうとしてタウトヴィラス承認しょうにんしたが、すぐにかれおおやけ権力けんりょく剥奪はくだつした。1253ねん、ミンダウガスとの和解わかいのち、タウトヴィラスはポロツクこうもどり、ノヴゴロドプスコフぐんともにユーリエフ(げんエストニアタルトゥ)への遠征えんせい参加さんかした。ミンダウガスが暗殺あんさつされ、リトアニア大公たいこうこく内乱ないらん勃発ぼっぱつすると、1263ねんにタウトヴィラスはトレニオタ殺害さつがいされた。ポロツクこうにはナリシャこうGerdenis(lt)ちゅう:リトアニア表記ひょうきいていたことがみとめられるが、1267ねん死亡しぼうした。

タウトヴィラスの死後しご、しばらくポロツクこうについて不明ふめいてんおおくなる。1265ねんごろのみことのりれいひとつのなかで、ヴィーツェプスクこうのイジャスラフというものが、ポロツクこうとして言及げんきゅうされている。また、マ法王まほうおうクレメンス5せい文書ぶんしょによると、1270ねんから1280ねんごろにはコンスタンチンというものがポロツクこうになっている。ポロツク公国こうこくは14世紀せいきはじめに、自治じちけん保持ほじしつつリトアニア大公たいこうこくくわわった[21]。 

1377ねん、リトアニア大公たいこうヨガイラいた。ヨガイラはポロツクをおとうとスキルガイラあたえた。1386ねん、スキルガイラはポーランドおうとなったヨガイラ(ポーランドおうとしてはヴワディスワフ2せい)から、リトアニアの代官だいかん任命にんめいされ、ポロツクこうにはスキルガイラの前任ぜんにんしゃだったアンドリュス再任さいにんした。しかしクレヴォの合同ごうどう反対はんたいしていたアンドリュスはリヴォニア騎士きしだん、スモレンスク公国こうこく同盟どうめい抵抗ていこうしたが敗北はいぼくし、捕虜ほりょとなった。

ふたたびスキルガイラがポロツクこうとなったが、これが最後さいごおおやけとなった。1392ねん、ポロツク公国こうこくはリトアニア大公たいこうこく行政ぎょうせい区画くかくひとつとなり、ナメストニクによって管理かんりされた。1504ねんにポロツク公国こうこくはいされポロスカスけんとなった。なお、首都しゅとのポロツクは14世紀せいき - 18世紀せいきにはリトアニア大公たいこうこく主要しゅよう都市としの1つであった。現在げんざいはベラルーシ・ヴィテプスクしゅう中心ちゅうしん地区ちくになっている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
ベラルーシ歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。
ベラルーシの先史せんし時代じだいベラルーシばん
ひがしスラヴじん
キエフ大公たいこうこく
ポロツク公国こうこく / トゥーロフ公国こうこく
リトアニア大公たいこうこく
ポーランド・リトアニア共和きょうわこく
ロシア帝国ていこく北西ほくせい地域ちいき) 
ベラルーシ人民じんみん共和きょうわこく
はくロシア社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこく (1919ねん)
リトアニア=はくロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
はくロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
 ベラルーシ共和きょうわこく

ベラルーシ ポータル

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ フロド1せいについてはen:Frotho I、ハディンガについてはen:Hadingus参照さんしょう
  2. ^ かく公国こうこくおおやけ自分じぶん分配ぶんぱいした土地とち外交がいこう戦争せんそうは「公国こうこくだい公国こうこく」の方針ほうしんしたが義務ぎむがあるが、土地とち管理かんりけんは「ぶんりょう公国こうこく」のおもにある。[9]
  3. ^ かく公国こうこく首都しゅとについてはミンスクヴィテプスクイジャスラフラホイスクドルツクストレジェフ現在地げんざいちしょう)を参照さんしょうされたし。
  4. ^ 古代こだいひがしスラヴじんなかいちグループ。クリヴィチぞくドレゴヴィチぞくラヂミチぞく連合れんごうし、現在げんざいのベラルーシじん直接ちょくせつ先祖せんぞとなったとかんがえられている[11]
  5. ^ ラトビアおんうつしは『物語ものがたり バルトさんこく歴史れきし』28ぺーじによる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ Орлов, В. А.Саганович, Г.,Десять веков белорусской истории (862-1818): События. Даты, Иллюстрации. — Вильня: Наша Будучыня, 2001.
  2. ^ a b Джаксон Т. Н,Austr í görðum. Древнерусские топонимы в древнескандинавских источниках.— М.: Языки славянской культуры, 2001.
  3. ^ Лаврентьевский список
  4. ^ 歴史れきし狭間はざまのベラルーシ』9ぺーじ
  5. ^ 『ロシア原初げんしょ年代ねんだい』190-191ぺーじ
  6. ^ 『ロシア原初げんしょ年代ねんだい』196ぺーじ
  7. ^ a b 『ロシア原初げんしょ年代ねんだい』197ぺーじ
  8. ^ 『ロシア原初げんしょ年代ねんだい』199ぺーじ
  9. ^ 『ロシアの歴史れきしうえ古代こだいから19世紀せいき前半ぜんはんまで』150ぺーじ
  10. ^ a b 『ポーランド・ウクライナ・バルト』73ぺーじ
  11. ^ 歴史れきし狭間はざまのベラルーシ』6ぺーじ
  12. ^ きた十字軍じゅうじぐん』108ぺーじ
  13. ^ a b きた十字軍じゅうじぐん』102ぺーじ
  14. ^ 『ポーランド・ウクライナ・バルト』74ぺーじ
  15. ^ a b c d きた十字軍じゅうじぐん』117ぺーじ
  16. ^ a b きた十字軍じゅうじぐん』118ぺーじ
  17. ^ きた十字軍じゅうじぐん』119ぺーじ
  18. ^ Л. Войтович Княжеские династии Восточной Европы
  19. ^ Евреиновская летопись
  20. ^ Александров Д. Н., Володихин Д. М., Борьба за Полоцк между Литвой и Русью в XII—XVI веках
  21. ^ 歴史れきし狭間はざまのベラルーシ』10ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Александров, Д. Н., Володихин, Д. М. Борьба за Полоцк между Литвой и Русью в XII—XVI веках— Москва, 1994. — 133 с.
  • Алексеев, Л. В. Полоцкая земля (очерки истории северной Белоруссии) в IX—XIII вв.— Москва, 1966. — 295 с.
  • Алексеев, Л. В. Полоцкая земля // Древнерусские княжества X—XIII вв.— М., 1975. — С. 202—239.
  • Беляев, И. Д. История Полоцка или Северо-Западной Руси от древнейших времён до Люблинской унии— М., 1872. — 455 с.
  • Войтович Леонтій.Рюриковичі. Ізяславичі полоцькі//Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження.— Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000. — 649 с.
  • Данилевич, В. Е. Очерк истории Полоцкой земли до конца XIV столетия— Киев, 1896. — 731 с.
  • Довнар-Запольский, М. В. Очерк истории Кривичской и Дреговичской земель до конца XII столетия— Киев, 1891. — 170 с.
  • Дук, Д. У. Полацк і палачане (IX—XVIII стст.)— Наваполацк : ПДУ, 2010. — 180 с.
  • Кузьмин, А. В. Кузьмин, А. В. Опыт комментария к актам Полоцкой земли второй половины XIII — начала XV в.//Древняя Русь. Вопросы медиевистики,2007. — № 2 (28). — С. 33—42.
  • Рукавишников, А. В. Почему полоцкие князья были сосланы в Византию: свидетельства источников''//Древняя Русь. Вопросы медиевистики— 2003. — № 2(12). С. 99—111.
  • Рыжов К.Все монархи мира. Россия— М.: Вече, 1998. — 640 с.
  • Богуславский, В. В. Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т.— М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001.
  • Штыхов, Г. В. Древний Полоцк IX—XIII стст. — Минск, 1975. — 134 с.
  • 服部はっとりりんたく歴史れきし狭間はざまのベラルーシ』 東洋とうよう書店しょてん、2004ねん
  • 國本くにもと哲男てつおやく 『ロシア原初げんしょ年代ねんだい名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1987ねん
  • アレクサンドル・ダニロフ 『ロシアの歴史れきしうえ) 古代こだいから19世紀せいき前半ぜんはんまで』 寒河江さがえ光徳みつのりやく明石書店あかししょてん、2011ねん
  • 伊東いとう孝之たかゆきへん 『ポーランド・ウクライナ・バルト』 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1998ねん
  • 志摩しま園子そのこ 『物語ものがたり バルトさんこく歴史れきし』 中公新書ちゅうこうしんしょ、2004ねん
  • 山内やまうちすすむきた十字軍じゅうじぐん 「ヨーロッパ」の北方ほっぽう拡大かくだい講談社こうだんしゃ、1997ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]