フメリニツキーの乱 らん (フメリニツキーのらん、ウクライナ語 ご : Хмельни́ччина 、フメリヌィーッチナ)は、1648年 ねん から1657年 ねん までの間 あいだ 、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の支配 しはい 下 か にあったウクライナ において、ウクライナ・コサック のヘーチマン(将軍 しょうぐん ) ボフダン・フメリニツキー が起 お こしたコサックの武装 ぶそう 蜂起 ほうき である。この蜂起 ほうき はウクライナ対 たい ポーランドの大 だい 規模 きぼ の戦争 せんそう に発展 はってん し、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の衰退 すいたい を引 ひ き起 お こす一方 いっぽう で、ウクライナ・コサックによるヘーチマン国家 こっか の創立 そうりつ と、戦争 せんそう に介入 かいにゅう した隣国 りんごく ロシア・ツァーリ国 こく の強化 きょうか という結果 けっか をもたらした。フメリニツキーの乱 らん は、東 ひがし ヨーロッパ の政治 せいじ 地図 ちず を大 おお きく切 き り替 か え、17世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう 当 とう 地域 ちいき に住 す む多数 たすう の民族 みんぞく の運命 うんめい を決 き めたので、東 ひがし ヨーロッパ史上 しじょう の最大 さいだい の軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ の一 ひと つだったと考 かんが えられている。
ウクライナ史学 しがく においてのフメリニツキーの乱 らん は、ウクライナ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦争 せんそう [1] 、コサック・ポーランド戦争 せんそう [2] 、あるいはコサックの革命 かくめい [3] とも呼 よ ばれる。日本 にっぽん における歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう では多 おお くの場合 ばあい 、ポーランド語 ご 風 ふう にフミェルニツキの乱 らん と書 か いたり、ロシア語 ご 風 ふう にフメリニツキーの乱 らん と称 しょう している。
16世紀 せいき 末 すえ から17世紀 せいき 前半 ぜんはん までの間 あいだ 、ウクライナは、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の支配 しはい 国 こく ポーランド王国 おうこく の支配 しはい 下 か に置 お かれていた。この地域 ちいき では、キエフ・ルーシ の時代 じだい 以来 いらい 、ポーランドの本土 ほんど と異 こと なる民族 みんぞく 、宗教 しゅうきょう 、言語 げんご が存在 そんざい していたため、ポーランド王国 おうこく にとっては統制 とうせい しづらいところであった。そこで、ポーランドは、同化 どうか 政策 せいさく を進 すす めて現地 げんち の貴族 きぞく を積極 せっきょく 的 てき にポーランド化 か し、ポーランドのカトリック教会 きょうかい とウクライナの正教会 せいきょうかい をブレスト合同 ごうどう で合併 がっぺい することによって東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい の一派 いっぱ であるウクライナ東方 とうほう カトリック教会 きょうかい を成立 せいりつ させて宗教 しゅうきょう 問題 もんだい を解決 かいけつ しようとした。こうしたポーランドの政策 せいさく に異 こと を唱 とな えたのはウクライナ・コサック であったが、1620年代 ねんだい - 1630年代 ねんだい における彼 かれ らの蜂起 ほうき はポーランド政府 せいふ 軍 ぐん と貴族 きぞく 軍 ぐん によって鎮圧 ちんあつ された。
1648年 ねん の時点 じてん で、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく はヨーロッパ における列強 れっきょう の一 ひと つだった。その隣国 りんごく である西 にし のドイツ (神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )と北 きた のスウェーデン は1618年 ねん から1648年 ねん の三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう に懸 か かり切 ぎ りとなり、東 ひがし のモスクワ国家 こっか (ロシア・ツァーリ国 こく )は動乱 どうらん 時代 じだい とスモレンスク戦争 せんそう から回復 かいふく しておらず、南 みなみ のオスマン帝国 ていこく はイェニチェリ の反乱 はんらん と経済 けいざい 問題 もんだい に悩 なや まされていた。それに対 たい してポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は、バルト海 ばるとかい から黒海 こっかい まで広 ひろ がる膨大 ぼうだい な領土 りょうど を有 ゆう していて、ロシア・ツァーリ国 こく とオスマン帝国 ていこく との戦 たたか いで連続 れんぞく 的 てき に勝利 しょうり をおさめ、経済 けいざい と文化 ぶんか が栄 さか え、17世紀 せいき 前半 ぜんはん は「ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の黄金 おうごん 時代 じだい 」と呼 よ ばれるほどの全盛 ぜんせい を極 きわ めていた。
しかし、表面 ひょうめん 的 てき には磐石 ばんじゃく に見 み えたポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく であったが、国家 こっか の内政 ないせい 制度 せいど は腐食 ふしょく していた。従来 じゅうらい からポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の王 おう の権威 けんい が低 ひく かった上 うえ に、17世紀 せいき 以降 いこう 、中央 ちゅうおう と地域 ちいき の行政 ぎょうせい 機関 きかん では汚職 おしょく が進 すす み、国家 こっか に対 たい する貴族 きぞく の義務 ぎむ 意識 いしき が薄 うす くなり、政府 せいふ と軍 ぐん では実力 じつりょく の有無 うむ に拘 かかわ らず縁故 えんこ 者 しゃ 登用 とうよう が行 おこな われた。さらに、法律 ほうりつ 上 じょう では、支配 しはい 階級 かいきゅう である貴族 きぞく と被 ひ 支配 しはい の非 ひ 貴族 きぞく の他者 たしゃ との間 あいだ に「ポーランドは貴族 きぞく にとって天国 てんごく であり、農民 のうみん にとって地獄 じごく である」と詠 うた われたほど著 いちじる しい権利 けんり の差 さ が存在 そんざい した。貴族 きぞく の領主 りょうしゅ たちは、経済 けいざい 発展 はってん のために農民 のうみん を農奴 のうど にして広大 こうだい な農園 のうえん 地 ち で働 はたら かせ、農園 のうえん 経営 けいえい を異国 いこく 人 じん のユダヤ人 じん 、アルメニア人 じん やドイツ人 じん などに任 まか せた。こうした諸 しょ 問題 もんだい は、ポーランド王国 おうこく の本土 ほんど から離 はな れたウクライナにおいてより一層 いっそう 深刻 しんこく 化 か し、民衆 みんしゅう の不満 ふまん が募 つの るようになった。それに加 くわ えて、軍人 ぐんじん 資格 しかく と自治 じち 権 けん を有 ゆう していた数 すう 万 まん 人 にん のウクライナ・コサック は、1638年 ねん の叛乱 はんらん の失敗 しっぱい 以降 いこう 、ポーランド王国 おうこく と現地 げんち の貴族 きぞく の政策 せいさく によって農奴 のうど 化 か されて権利 けんり が奪 うば われたので、ウクライナでは大 おお きな反乱 はんらん を爆発 ばくはつ させる要因 よういん が整 ととの っていた。
ヤン・マテイコ による17世紀 せいき 半 なか ばの東欧 とうおう 軍人 ぐんじん 。左 ひだり から右 みぎ へ: 銃 じゅう 士 し 、喇叭 らっぱ 手 しゅ 、軽 けい 騎兵 きへい 、重 じゅう 装 そう 騎兵 きへい 、ハイドゥーク 、歩兵 ほへい 長 ちょう 。
フメリニツキーの乱 らん のきっかけとなったのは、1647年 ねん の出来事 できごと であった。中部 ちゅうぶ ウクライナを支配 しはい していたポーランド系 けい の大 だい 貴族 きぞく コニェツポルスキ家 か の家人 かじん でチヒルィーン 町 まち の副 ふく 長官 ちょうかん のダニエル・チャプリンスキ は、ウクライナ・コサックの軍隊 ぐんたい 書記官 しょきかん であったボフダン・フメリニツキー の知行 ちぎょう 地 ち を襲 おそ った[4] 。副 ふく 長官 ちょうかん は、フメリニツキーの留守 るす を狙 ねら い、彼 かれ の屋敷 やしき を灰燼 かいじん に帰 かえ した上 うえ 、3男 なん を殴 なぐ り殺 ころ して恋人 こいびと のモトローナ も奪 うば った。フメリニツキーは、最高裁 さいこうさい 判 ばん 権 けん を有 ゆう していた国王 こくおう ヴワディスワフ4世 せい に提訴 ていそ したものの、従来 じゅうらい から王 おう の影響 えいきょう 力 りょく が弱 よわ かったため、敗訴 はいそ した。そこでフメリニツキーは反乱 はんらん の念 ねん を抱 いだ き始 はじ めたが、コニェツポルスキ家 か は彼 かれ を牢 ろう に閉 と じ込 こ めて処刑 しょけい を命 めい じた。しかし、牢 ろう の警備 けいび 長 ちょう はフメリニツキーに同情 どうじょう して脱獄 だつごく に協力 きょうりょく し、1647年 ねん 12月にフメリニツキーは仲間 なかま を連 つ れて、南部 なんぶ ウクライナにあったウクライナ・コサックの根拠地 こんきょち ザポロージャのシーチ へ逃 のが れることができた。当時 とうじ 、その根拠地 こんきょち で1638年 ねん 以後 いご コサックの蜂起 ほうき を防 ふせ ぐためにポーランド政府 せいふ の番人 ばんにん 衆 しゅ が置 お かれていたが、フメリニツキーは現地 げんち のコサックと合流 ごうりゅう して1648年 ねん 2月 がつ に番人 ばんにん 衆 しゅ を殺害 さつがい してシーチを確保 かくほ し、コサックによってヘーチマンとして選任 せんにん された。
そもそもボフダン・フメリニツキーは、紅 べに ルーシ出身 しゅっしん のウクライナ系 けい の小 しょう 貴族 きぞく 、コニェツポルスキ家 か の家人 かじん であった。彼 かれ は1609年 ねん から数 すう 年 ねん をかけてイエズス会 かい のリヴィウ・カレッジ で人文 じんぶん 科学 かがく とラテン語 らてんご を勉強 べんきょう し、将官 しょうかん として登録 とうろく コサック というウクライナ・コサックから構成 こうせい される政府 せいふ 側 がわ の公式 こうしき なコサック軍 ぐん に入隊 にゅうたい した。1620年代 ねんだい から1630年代 ねんだい までの間 あいだ 、フメリニツキーはオスマン帝国 ていこく 、クリミア・ハン国 こく 、ロシア・ツァーリ国 こく との多数 たすう の戦 たたか いで過 す ごし、1646年 ねん にフランス 側 がわ の傭兵 ようへい コサックの司令 しれい 官 かん として三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう に参 さん 陣 じん した。フメリニツキーは、当時 とうじ の知識 ちしき 人 じん [5] であり優秀 ゆうしゅう な軍人 ぐんじん であったため、ウクライナ・コサックのあいだで尊敬 そんけい を集 あつ めていた。
1648年 ねん から1649年 ねん まで [ 編集 へんしゅう ]
ジョーウチ・ヴォーディの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
フメリニツキーがコサックを集 あつ めて反乱 はんらん の準備 じゅんび をしていると知 し ったポーランド王国 おうこく 政府 せいふ は、ウクライナに駐留 ちゅうりゅう するミコワイ・ポトツキ とマルチン・カリノフスキ が率 ひき いる官軍 かんぐん にコサックを鎮圧 ちんあつ すように命 めい じた。官軍 かんぐん が1648年 ねん の来春 らいしゅん まで進攻 しんこう できなかったので、フメリニツキーはその隙 すき に南方 なんぽう の隣国 りんごく であったクリミア・ハン国 こく と同盟 どうめい を結 むす び、クリミア・タタール人 じん はウクライナ・コサックに援軍 えんぐん を出 だ すことを約束 やくそく した。そのかわり、交渉 こうしょう 役 やく であったフメリニツキーの長男 ちょうなん ティーミシュ (ウクライナ語 ご 版 ばん ) は、人質 ひとじち としてタタールのもとへ留 と め置 お かれた[6] 。1648年 ねん 4月 がつ 、官軍 かんぐん の司令 しれい 官 かん たちは、貴族 きぞく の諸 しょ 部隊 ぶたい の到着 とうちゃく を待 ま つためにコールスニ 町 まち 辺 あた りで本陣 ほんじん を据 す え、ポトツキの子息 しそく が率 ひき いる1万 まん 人 にん 余 あま りの先陣 せんじん をフメリニツキーの根拠地 こんきょち へ派遣 はけん した。その先陣 せんじん は、4月 がつ 29日 にち にジョーウチ川 がわ (ドイツ語 ご 版 ばん ) [7] (ウクライナ語 ご : Жовті Води - 英 えい : Zhovti river [8] )の辺 あた りでフメリニツキー麾下 きか の8千 せん 人 にん のコサックとトハイ・ベイ 麾下 きか の1千 せん 5百 ひゃく 人 にん のタタール人 じん からなる同盟 どうめい 軍 ぐん と衝突 しょうとつ した。コサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん が優勢 ゆうせい であったため、官軍 かんぐん の先陣 せんじん は即席 そくせき で築 きず いた砦 とりで で立 た て籠 こ もり、和平 わへい 交渉 こうしょう を望 のぞ んだ。しかし、先陣 せんじん にいた政府 せいふ 側 がわ の1千 せん 人 にん 余 あま りの登録 とうろく コサックが交渉 こうしょう 中 ちゅう に指揮 しき 官 かん のイヴァン・バラバーシュ (ウクライナ語 ご 版 ばん ) らを殺害 さつがい してフメリニツキーのコサックへ寝返 ねがえ った[6] ため、交渉 こうしょう は決裂 けつれつ した。5月15日 にち の夜 よる 、先陣 せんじん はコサックの軍 ぐん の包囲 ほうい を突破 とっぱ によって脱出 だっしゅつ しようとしたが、クニャージ・バイラークィ でコサックの鉄砲 てっぽう 隊 たい と砲兵 ほうへい 隊 たい の射撃 しゃげき に遭 あ って破滅 はめつ した。捕虜 ほりょ となったウクライナ系 けい の貴族 きぞく はフメリニツキーに登用 とうよう され、その他 た の捕虜 ほりょ はタタール人 じん の獲物 えもの となった。
コサック(左 ひだり )とタタール(右 みぎ )の合流 ごうりゅう
コールスニの戦 たたか い
初 はつ 勝利 しょうり を収 おさ めたコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん は直 ただ ちに北上 ほくじょう し、5月25日 にち にコールスニ町 まち 辺 あた りの官軍 かんぐん の本陣 ほんじん を包囲 ほうい した。司令 しれい 官 かん であるポトツキとカリノフスキは包囲 ほうい 脱出 だっしゅつ を図 はか ったが、その計画 けいかく は現地 げんち のスパイによってコサックの陣地 じんち へ知 し らされ、コサックは官軍 かんぐん の脱出 だっしゅつ 経路 けいろ に罠 わな を仕掛 しか けた。翌日 よくじつ 、官軍 かんぐん はコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん の強 つよ い抵抗 ていこう を受 う けることなく脱出 だっしゅつ し、途中 とちゅう でのホリーホヴァ・ディブローヴァの峡谷 きょうこく に入 はい ると、真正面 ましょうめん と側面 そくめん からコサックの猛烈 もうれつ な射撃 しゃげき と、背面 はいめん からタタールの騎兵隊 きへいたい の打撃 だげき を受 う けて総崩 そうくず れとなった。官軍 かんぐん の8割 わり が戦死 せんし し、負傷 ふしょう した両人 りょうにん の司令 しれい 官 かん を初 はじ めとする軍人 ぐんじん はタタール人 じん の捕虜 ほりょ となってクリミア・ハン国 こく へ送 おく られた。
このコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん の大 だい 勝利 しょうり によってウクライナでは政府 せいふ の軍 ぐん が消滅 しょうめつ し、治安 ちあん が悪化 あっか した。それと同時 どうじ に、貴族 きぞく 、聖職 せいしょく 者 しゃ やユダヤ人 じん などの支配 しはい 者 しゃ 階級 かいきゅう から弾圧 だんあつ と軽蔑 けいべつ を受 う け続 つづ けたウクライナの農民 のうみん や町人 ちょうにん が蜂起 ほうき し、宮殿 きゅうでん や寺院 じいん を略奪 りゃくだつ して従来 じゅうらい の主君 しゅくん 、長官 ちょうかん や管理 かんり 者 しゃ などを殺害 さつがい しはじめた。庶民 しょみん 軍 ぐん を率 ひき いたのはフメリニツキーの部下 ぶか 、マクスィム・クルィヴォニース 連隊 れんたい 長 ちょう であった。こうした暴動 ぼうどう に、東 ひがし ウクライナの領主 りょうしゅ でウクライナ系 けい 貴族 きぞく のヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ 公 おおやけ が立 た ち向 む かった。彼 かれ は、反乱 はんらん を征 せい することに熱心 ねっしん に努 つと めたが、無 む 差別 さべつ に数 すう 多 おお くの町村 ちょうそん を焼 や き払 はら って無罪 むざい の住民 じゅうみん まで処刑 しょけい したので、政府 せいふ と支配 しはい 者 しゃ に歯向 はむ かう庶民 しょみん の数 かず を増加 ぞうか させていったばかりであった。
プィリャーウツィの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
コールスニの戦 たたか いが始 はじ まる直前 ちょくぜん 、1648年 ねん 5月 がつ 20日 はつか にポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国王 こくおう ヴワディスワフ4世 せい が崩御 ほうぎょ した。君主 くんしゅ と在 ざい ウクライナ官軍 かんぐん を失 うしな ったポーランド政府 せいふ はコサックと和平 わへい 交渉 こうしょう を開始 かいし する[9] 一方 いっぽう で、急 いそ いで全国 ぜんこく の貴族 きぞく の私兵 しへい 部隊 ぶたい を動員 どういん しはじめた。9月上旬 じょうじゅん に交渉 こうしょう が打 う ち切 き られ、新 あら たに集 あつ められた騎兵隊 きへいたい を中心 ちゅうしん とした4万 まん 人 にん の官軍 かんぐん と、銃 じゅう 兵隊 へいたい を中心 ちゅうしん とした6万 まん 人 にん のコサック軍 ぐん が再 ふたた び互 たが いに勝負 しょうぶ を挑 いど んだ。コサックを見下 みくだ している軍人 ぐんじん が多 おお かったことから、官軍 かんぐん 内 ない には楽観 らっかん 的 てき な雰囲気 ふんいき が漂 ただよ っていた。9月21日 にち に両 りょう 軍 ぐん はプィリャーウツィ村 むら [10] 辺 あた りで対陣 たいじん し、9月23日 にち に合戦 かっせん の火蓋 ひぶた が切 き られた。最初 さいしょ 、官軍 かんぐん の騎兵隊 きへいたい がコサックの陣地 じんち を襲 おそ ったが、鉄砲 てっぽう と砲兵 ほうへい の射撃 しゃげき の前 まえ で撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた。その隙 すき にコサックの歩兵 ほへい は防戦 ぼうせん から反撃 はんげき に転 てん じ、敵 てき の歩兵 ほへい を全滅 ぜんめつ させた後 のち 、官軍 かんぐん の本陣 ほんじん に近 ちか づいた。そんな中 なか 、官軍 かんぐん の司令 しれい 官 かん [11] と長官 ちょうかん たちが合議 ごうぎ した上 うえ で敗走 はいそう し、それを知 し った他 ほか の貴族 きぞく と従者 じゅうしゃ は恐怖 きょうふ に陥 おちい って、武器 ぶき ・軍旗 ぐんき ・兵糧 ひょうろう ・宝物 ほうもつ を捨 す てて逃 に げ去 さ った。コサックの手 て には800万 まん 枚 まい の金銭 きんせん に値 あたい する戦利 せんり 品 ひん が入 はい った[12] 。
プィリャーウツィの戦 たたか い。
三 さん 連勝 れんしょう したコサック軍 ぐん はタタールの援軍 えんぐん に伴 ともな われて1648年 ねん 10月 がつ に西 にし ウクライナのヴォルィーニ とガリツィア 地方 ちほう へ乱入 らんにゅう し、最大 さいだい の都市 とし リヴィウを包囲 ほうい した。包囲 ほうい は三 さん 週間 しゅうかん 続 つづ いたが、市民 しみん は代償 だいしょう 金 きん として120万 まん 枚 まい の金銭 きんせん をコサックへ支払 しはら った。その他 た の地域 ちいき では、コサックの軍事 ぐんじ 成功 せいこう を背景 はいけい に庶民 しょみん が蜂起 ほうき し、宗教 しゅうきょう や民族 みんぞく などを問 と わず貴族 きぞく や管理 かんり 者 しゃ を虐殺 ぎゃくさつ していた。
1648年 ねん 11月にコサック・タタール連合 れんごう 軍 ぐん はポーランドの本土 ほんど に攻 せ め入 い り、ザモシチ 市 し を取 と り巻 ま いた。ポーランドの首都 しゅと 、ワルシャワ が危険 きけん に晒 さら されている中 なか 、ヤン2世 せい が新 あら たな国王 こくおう として選 えら ばれ、ザモシチが陥落 かんらく する寸前 すんぜん に政府 せいふ はフメリニツキーとの和平 わへい 交渉 こうしょう を再開 さいかい した。コサック軍 ぐん は、ポーランドに侵攻 しんこう して優勢 ゆうせい であったものの寒 さむ さ・疫病 えきびょう ・糧食 りょうしょく 不足 ふそく などに悩 なや まされており、交渉 こうしょう に応 おう じた。フメリニツキーの要求 ようきゅう は、反乱 はんらん 者 しゃ 全員 ぜんいん の大赦 たいしゃ 、登録 とうろく コサックの人数 にんずう の増加 ぞうか 、ウクライナにおけるコサックの内政 ないせい 自治 じち 権 けん の回復 かいふく 、コサック海賊 かいぞく 行動 こうどう 禁止 きんし 令 れい の取 と り消 け し、コサック領内 りょうない でポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の官軍 かんぐん の駐在 ちゅうざい 禁止 きんし などであった[13] 。11月23日 にち 、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の政府 せいふ が一時 いちじ 的 てき にフメリニツキーの要求 ようきゅう に応 おう じて休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を結 むす んだので、フメリニツキーはコサック・タタール連合 れんごう 軍 ぐん を引 ひ き連 つ れてウクライナへ帰陣 きじん した。
ズバーラジュ城 じょう の包囲 ほうい ・ズボーリウの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
1649年 ねん 1月 がつ 2日 にち 、フメリニツキーはコサックの長官 ちょうかん たちに伴 ともな われてキエフへ凱旋 がいせん した。彼 かれ を迎 むか えたのはキエフ府 ふ 主教 しゅきょう スィリヴェーストル・コーシウ とエルサレム総 そう 主教 しゅきょう パイーシイ をはじめとする正教会 せいきょうかい の主 おも だった聖職 せいしょく 者 しゃ 、キエフ・アカデミー の教員 きょういん と学生 がくせい 、ならびに夥 おびただ しい群集 ぐんしゅう であった。聖職 せいしょく 者 しゃ の筋書 すじが きに沿 そ ってフメリニツキーは現存 げんそん したキエフ・ルーシ 時代 じだい の最大 さいだい の建造 けんぞう 物 ぶつ である黄金 おうごん の門 もん を通 とお り、昔 むかし のキエフ大公 たいこう 、また「ポーランド人 じん の奴隷 どれい からルーシの民 みん を救 すく ったモーゼス 」のように歓迎 かんげい された[14] 。エルサレム総 そう 主教 しゅきょう は、フメリニツキーの現在 げんざい と未来 みらい の罪 つみ を許 ゆる し、即 そく 婚 こん であった彼 かれ の恋人 こいびと と結婚 けっこん させ、「ポーランド人 じん との戦 たたか い」について祝福 しゅくふく した。
1649年 ねん 2月 がつ 、去年 きょねん 末 まつ にザモシチで始 はじ まった和平 わへい 交渉 こうしょう に引 ひ き続 つづ いて、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の政府 せいふ より和平 わへい 条約 じょうやく を結 むす ぶための使節 しせつ 団 だん がキエフに到着 とうちゃく した。しかし、そこでフメリニツキーは、ザモシチでのコサックの棟梁 とうりょう としてコサックの自治 じち 権 けん と軍人 ぐんじん 権 けん の公認 こうにん を求 もと めたのではなく、「神様 かみさま の御 ご 加護 かご とサーベルで勝 か ち取 と ったルーシ」の君主 くんしゅ という立場 たちば から、ウクライナ人 じん (ルーシ人 じん )が住 す む地域 ちいき [15] をポーランドの支配 しはい から解放 かいほう するようにと使者 ししゃ に請求 せいきゅう したのであった。使者 ししゃ は戸惑 とまど いながらも為 な す術 じゅつ もなかったので、首都 しゅと へ帰 かえ った。
1649年 ねん 3月 がつ にポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 側 がわ のヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ が率 ひき いる1万 まん 5千 せん 人 にん の貴族 きぞく 軍 ぐん は休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を破 やぶ り、コサックの支配 しはい 地 ち の西境 にしさかい で軍事 ぐんじ 活動 かつどう を再開 さいかい した。これに対 たい してフメリニツキーは、動員 どういん の触 ふ れを出 だ し、30連隊 れんたい からなる10万 まん 人 にん の新 あら たな軍勢 ぐんぜい を集 あつ めた[16] 。5月中旬 ちゅうじゅん に、イスリャム3世 せい ゲライ (クリミア・タタール語 ご 版 ばん ) が率 ひき いるクリミア・ハン国 こく の4万 まん 人 にん のタタール軍 ぐん はコサックの援軍 えんぐん として参 さん 陣 じん した。6月 がつ 末 まつ にコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん は、貴族 きぞく 軍 ぐん を攻 せ めてズバーラジュ城 じょう [17] へ撤退 てったい させたが、城 しろ を攻 せ め取 と ることが出来 でき なかったため、7月 がつ 20日 はつか にこれを包囲 ほうい して兵糧 ひょうろう 攻 ぜ めをすることにした。その包囲 ほうい を知 し ったポーランドの国王 こくおう は、直 ただ ちに3万 まん 人 にん の軍勢 ぐんぜい を呼 よ び集 あつ めて8月 がつ 始 はじ めに貴族 きぞく 軍 ぐん を救 すく うために出陣 しゅつじん したが、8月 がつ 15日 にち ズボーリウ町 まち [18] の周辺 しゅうへん でコサックとタタールの予期 よき せぬ突撃 とつげき に遭 あ い、7千 せん 人 にん の死者 ししゃ を出 だ して本陣 ほんじん に立 た て籠 こ もった。
ズボーリウ条約 じょうやく によるコサックの自治 じち 領域 りょういき 。
そのような状況 じょうきょう の中 なか で、8月 がつ 17日 にち 、フメリニツキーを除 のぞ いてポーランド王 おう とクリミアのハーン の間 あいだ では秘密 ひみつ な平和 へいわ 交渉 こうしょう が始 はじ まった。国王 こくおう は「チンギス・カン の子孫 しそん の朝廷 ちょうてい 」であるハーンに朝貢 ちょうこう すること、ならびに包囲 ほうい 解除 かいじょ の代償 だいしょう 金 きん として40万 まん 銀 ぎん 銭 ぜに を支払 しはら うことを約束 やくそく した。クリミア・ハン国 こく は伝統 でんとう 的 てき にウクライナを奴隷 どれい 狩 か りの地域 ちいき にしていたため、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の弱化 じゃっか によるウクライナ・コサックの強化 きょうか を望 のぞ んでいなかった。そのため、それまで同盟 どうめい 関係 かんけい であったフメリニツキーを裏切 うらぎ ってポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の提議 ていぎ を受 う け容 い れて平和 へいわ 条約 じょうやく を締結 ていけつ した。フメリニツキーはタタールの行動 こうどう を知 し ると、やむなく国王 こくおう に使者 ししゃ を遣 つか わして、和平 わへい 条約 じょうやく を結 むす ぶためのコサックの要求 ようきゅう を伝 つた えた。その要求 ようきゅう では、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国内 こくない のコサックによる自治 じち 領域 りょういき は中央 ちゅうおう ・北東 ほくとう ウクライナのキエフ県 けん ・チェルニーヒウ県 けん ・ブーラツラウ県 けん ならびに東 ひがし ヴォルィーニ地方 ちほう と東 ひがし ポジーリャ地方 ちほう までに拡大 かくだい すること、コサックの自治 じち 領域 りょういき での行政 ぎょうせい はウクライナ系 けい の貴族 きぞく にのみ任命 にんめい すること、在 ざい ウクライナのユダヤ人 じん とイエズス会 かい の会員 かいいん 全員 ぜんいん を追放 ついほう すること、国軍 こくぐん としてコサックの4万 まん 人 にん を公認 こうにん すること、戦争 せんそう で参加 さんか したコサックと町人 ちょうにん ・農民 のうみん の反乱 はんらん 者 しゃ を大赦 たいしゃ することであった。8月 がつ 19日 にち にコサックの要求 ようきゅう に基 もと づいて国王 こくおう とフメリニツキーはズボーリウ条約 じょうやく を締結 ていけつ し[19] 、8月 がつ 23日 にち にズバーラジュ城 じょう の包囲 ほうい が解 と かれた。数日 すうじつ 後 ご 、国王 こくおう はワルシャワへ、フメリニツキーはキエフへ帰陣 きじん した。タタールはクリミアへ戻 もど りながら、ウクライナの町村 ちょうそん を荒 あ らして奴隷 どれい 狩 か りを行 おこな った。
1650年 ねん から1651年 ねん まで [ 編集 へんしゅう ]
ベレステーチコの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
国王 こくおう とフメリニツキーの間 あいだ でズボーリウ条約 じょうやく が結 むす ばれたにもかかわらず、1650年 ねん の前半 ぜんはん はポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国会 こっかい で条約 じょうやく 認可 にんか をめぐって穏健 おんけん 派 は と武断 ぶだん 派 は が対立 たいりつ していた。同年 どうねん の夏 なつ 、タタールの捕虜 ほりょ から1648年 ねん のコールスニの戦 たたか いで負 ま けたミコワイ・ポトツキ司令 しれい 官 かん が戻 もど って影響 えいきょう 力 りょく を回復 かいふく し、武断 ぶだん 派 は に加担 かたん して「コサックの血 ち で土 ど が赤 あか くなるまで」の新 あら たな戦争 せんそう の必要 ひつよう 性 せい を強調 きょうちょう するようになった[20] 。結局 けっきょく 、1650年 ねん 末 まつ には武断 ぶだん 派 は が勝利 しょうり を収 おさ めて条約 じょうやく を認可 にんか せず、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく もコサックのウクライナも次 つぎ の軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ のために軍勢 ぐんぜい を動員 どういん し始 はじ めた。前者 ぜんしゃ は1651年 ねん 4月 がつ までに4万 まん 人 にん の国軍 こくぐん と、8万 まん 人 にん の大 だい ・小 しょう 貴族 きぞく 部隊 ぶたい を集 あつ め、後者 こうしゃ は同年 どうねん 5月 がつ までに4万 まん 人 にん からなるプロのコサックの諸 しょ 連隊 れんたい と、6万 まん 人 にん の町人 ちょうにん ・農民 のうみん からなる志願 しがん 兵 へい を呼集 こしゅう した。それに、コサックの援軍 えんぐん としてイスリャム3世 せい ゲライが自 みずか ら引率 いんそつ した3万 まん 人 にん のタタール騎兵隊 きへいたい も加 くわ わった。両 りょう 軍 ぐん の人数 にんずう は20万 まん 人 にん を超 こ え、今後 こんご の合戦 かっせん はヨーロッパ戦争 せんそう 史上 しじょう で最大 さいだい の合戦 かっせん の一 ひと つになると見込 みこ まれた。
国王 こくおう の騎兵 きへい によるコサック銃 じゅう 士 し への攻撃 こうげき
1651年 ねん 6月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に国王 こくおう 軍 ぐん とコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん は西 にし ウクライナのヴォルィーニ地方 ちほう で、ベレステーチコ 町 まち の辺 あた りの低地 ていち で対陣 たいじん した。陣地 じんち は7km から8kmまで広 ひろ がっていて両側 りょうがわ から湿地 しっち と森林 しんりん で囲 かこ まれていた。6月28日 にち に合戦 かっせん の火蓋 ひぶた が切 き られ、両 りょう 軍 ぐん の小隊 しょうたい による小競 こぜ り合 あ いが行 おこな われた。翌日 よくじつ 、タタールの騎兵 きへい が周辺 しゅうへん の高地 こうち を占領 せんりょう した一方 いっぽう 、コサックの歩兵 ほへい は横 よこ 側 がわ から国王 こくおう の軍勢 ぐんぜい を押 お し付 つ け、約 やく 7千 せん 人 にん の敵 てき 兵 へい を討 う ち取 と った。コサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん は優勢 ゆうせい に見 み えたが、6月30日 にち に戦況 せんきょう が一変 いっぺん した。国王 こくおう の歩兵 ほへい がヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイの騎兵 きへい とともにコサックの歩兵 ほへい をコサックの本陣 ほんじん まで撤退 てったい させ、国王 こくおう の砲兵 ほうへい は高地 こうち に位置 いち するタタールの本陣 ほんじん へ発砲 はっぽう を開始 かいし した。そんな中 なか 、タタールの指導 しどう 者 しゃ イスリャム3世 せい ゲライは足 あし 傷 きず を負 お い、カルハ (ウクライナ語 ご 版 ばん ) のクルム・ゲライ やトハイ・ベイら数 すう 人 にん のタタールの重臣 じゅうしん が砲弾 ほうだん に斃れた。砲撃 ほうげき によって多数 たすう の死者 ししゃ を出 だ したタタールは、戦場 せんじょう から急速 きゅうそく に後退 こうたい してコサックの陣地 じんち の左側 ひだりがわ を裸 はだか にした。フメリニツキーはタタールを引 ひ き止 と めようとイスリャム3世 せい ゲライの所 ところ へ向 む かったが、タタールは戦闘 せんとう の続行 ぞっこう を断 た ってフメリニツキーを虜 とりこ にした[21] 。
残 のこ されたコサック軍 ぐん は、タタールの行動 こうどう によって同盟 どうめい 者 しゃ と総 そう 司令 しれい 官 かん を失 うしな って窮地 きゅうち に陥 おちい り、本陣 ほんじん を湿地 しっち と諸川 もろかわ の合流 ごうりゅう 地帯 ちたい へ移動 いどう させ、それを要塞 ようさい 化 か して篭城 ろうじょう することを決 き めた。それに対 たい して国王 こくおう 軍 ぐん はコサックの本陣 ほんじん を取 と り巻 ま いて、十 じゅう 日間 にちかん 連続 れんぞく でそこへ発砲 はっぽう し続 つづ けた。7月 がつ 10日 とおか の夜 よる 、フメリニツキーの不在 ふざい でコサックはイヴァン・ボフーン を臨時 りんじ の棟梁 とうりょう に任命 にんめい し、湿地 しっち を通 とお って本陣 ほんじん から密 ひそ かに脱出 だっしゅつ し始 はじ めた。2万 まん 人 にん のコサック騎兵隊 きへいたい と砲兵 ほうへい 隊 たい の一部 いちぶ が脱出 だっしゅつ に成功 せいこう したものの、町人 ちょうにん ・農民 のうみん を中心 ちゅうしん とした志願 しがん 兵 へい はコサックに捨 す てられると恐 おそ れてパニックになり、湿地 しっち 内 ない で脱出 だっしゅつ 用 よう の道路 どうろ が壊 こわ されて多数 たすう の志願 しがん 兵 へい が沈没 ちんぼつ した。それを察知 さっち した国王 こくおう 軍 ぐん は、敵本 てきほん 陣 じん に総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし したが、300人 にん の選 えらべ れたコサックの殿軍 でんぐん で食 く い止 と められ、数時間 すうじかん をかけてそれを全滅 ぜんめつ させたにもかかわらず、コサック軍 ぐん に致命 ちめい 的 てき な打撃 だげき を与 あた えることは出来 でき なかった。こうして、合戦 かっせん はポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の大 だい 勝利 しょうり で終 お わり、国王 こくおう 軍 ぐん は3万 まん 枚 まい の銀 ぎん 銭 ぜに の軍事 ぐんじ 金 きん 、20のコサック軍旗 ぐんき と軍 ぐん 印 しるし 、フメリニツキーの棟梁 とうりょう のしるしである戦 せん 棍 を入手 にゅうしゅ した。
ベレステーチコの戦 たたか い。
ビーラ・ツェールクヴァ条約 じょうやく [ 編集 へんしゅう ]
ビーラ・ツェールクヴァ条約 じょうやく によるコサックの自治 じち 領域 りょういき 。
ベレステーチコの戦 たたか い後 ご 、国王 こくおう は首都 しゅと に帰 かえ り、中部 ちゅうぶ ウクライナの鎮圧 ちんあつ を武断 ぶだん 派 は のミコワイ・ポトツキ とヤヌシュ・ラジヴィウ に任 まか せた。しかし、両人 りょうにん の軍勢 ぐんぜい は、南下 なんか すればするほど、食料 しょくりょう 不足 ふそく と疫病 えきびょう 、さらにウクライナの住人 じゅうにん の抵抗 ていこう と庶民 しょみん からなる遊 ゆう 撃 げき 隊 たい に悩 なや まされていた。ベレステーチコの戦 たたか いで多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ したウクライナ人 じん は官軍 かんぐん を怨 うら み、戦争 せんそう は社会 しゃかい 階級 かいきゅう の対立 たいりつ から始 はじ まったポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の内戦 ないせん から次第 しだい に民族 みんぞく 対立 たいりつ を中心 ちゅうしん としたポーランド対 たい ウクライナ戦争 せんそう に変更 へんこう していった[14] 。
そんな中 なか 、7月 がつ 17日 にち にフメリニツキーは、タタールに解放 かいほう されてビーラ・ツェールクヴァ 町 まち に到着 とうちゃく し、8月 がつ 中旬 ちゅうじゅん まで町 まち の辺 あた りで堅固 けんご な砦 とりで を築城 ちくじょう して2万 まん 5千 せん 人 にん のコサックと6千 せん 人 にん のタタールを集 あつ めた。ポーランド勢 ぜい は、砦 とりで の攻撃 こうげき に失敗 しっぱい したことと、現地 げんち 民 みん によって補給 ほきゅう が断 た たれたことによって危殆 きたい に瀕 ひん し、9月 がつ 10日 とおか に和平 わへい 交渉 こうしょう をコサックに提案 ていあん して9月28日 にち にビーラ・ツェールクヴァ条約 じょうやく を締結 ていけつ した。その条約 じょうやく は、前 まえ のズボーリウ条約 じょうやく で公認 こうにん されたコサックの自治 じち 領域 りょういき を中部 ちゅうぶ ウクライナのキエフ県 けん まで限定 げんてい し、コサック軍 ぐん の縮小 しゅくしょう とクリミア・ハン国 こく との同盟 どうめい の撤回 てっかい を求 もと め、フメリニツキーが外交 がいこう を行 おこな うことを禁 きん じていた。また、ポーランド系 けい 貴族 きぞく ・ユダヤ人 じん ・イエズス会 かい 会員 かいいん がウクライナに戻 もど ることが許 ゆる され、彼 かれ らが戦前 せんぜん まで有 ゆう していた土地 とち ・財産 ざいさん の返却 へんきゃく が義務 ぎむ づけられた。
1652年 ねん から1653年 ねん まで [ 編集 へんしゅう ]
ビーラ・ツェールクヴァ条約 じょうやく の締結 ていけつ によってポーランド側 がわ もコサック側 がわ も必要 ひつよう としていた短 みじか い休戦 きゅうせん になったが、双方 そうほう ともその条約 じょうやく に従 したが うつもりはなかった。1652年 ねん 春 はる に召集 しょうしゅう されたポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国会 こっかい が条約 じょうやく の認可 にんか を却下 きゃっか したことを名目 めいもく に、フメリニツキーは4月 がつ にコサックの長官 ちょうかん たちに新 あら たな戦争 せんそう のために準備 じゅんび をするようにと命令 めいれい した。その戦争 せんそう のきっかけになったのは、コサックによるモルドバ公国 こうこく への出兵 しゅっぺい であった。条約 じょうやく 上 じょう フメリニツキーは独自 どくじ の外交 がいこう を行 おこな わないとされていたため、他国 たこく への出兵 しゅっぺい を条約 じょうやく 違反 いはん とみなしたポーランド側 がわ は、コサック軍 ぐん を止 と めるべくマルチン・カリノフスキが率 ひき いる1万 まん 2千 せん の騎兵 きへい と8千 せん 人 にん の歩兵 ほへい を派遣 はけん した。騎兵 きへい の半分 はんぶん は「羽 はね のユサール 」と呼 よ ばれるポーランドの選良 せんりょう の重 じゅう 騎兵 きへい と、歩兵 ほへい の半分 はんぶん はエリートのドイツ 傭兵 ようへい 隊 たい から編制 へんせい されていた。ポーランド軍 ぐん は南下 なんか してバティーフ山 さん の麓 ふもと とラディージン町 まち [22] の間 あいだ に陣 じん を取 と ったが、敵 てき 軍 ぐん の到来 とうらい を予期 よき していなかったため、陣地 じんち の防備 ぼうび を怠 おこた った。しかし、6月1日 にち 、コサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん は突然 とつぜん に現 あらわ れ、油断 ゆだん していたポーランド軍 ぐん を攻撃 こうげき して本陣 ほんじん まで撤退 てったい させた。翌朝 よくあさ 、コサックとタタールは駕 が の中 なか の鳥 とり となったポーランド軍 ぐん に総 そう 攻撃 こうげき を懸 か け、カリノフスキを初 はじ めとする多 おお くの司令 しれい 官 かん を討 う ち取 と り、1万 まん 余 あま りの敵 てき 兵 へい を殺害 さつがい した。そのなかでドイツ傭兵 ようへい 隊 たい も「羽 はね のユサール」もほぼ全滅 ぜんめつ した。3千 せん 人 にん のポーランドの兵士 へいし は捕 と らえられ、ベレステーチコの敗戦 はいせん の復讐 ふくしゅう として斬首 ざんしゅ された。
ジュヴァーネツィの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
ステファン・チャルニェツキ(左 ひだり )対 たい イヴァン・ボフーン(右 みぎ )。
バティーフの戦 たたか いで勝利 しょうり したフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ にズボーリウ条約 じょうやく の条々 じょうじょう に基 もと づいて和平 わへい を申 もう し入 い れた。しかし、惨敗 ざんぱい を喫 きっ したポーランドの政治 せいじ 家 か と軍人 ぐんじん は、冷静 れいせい になるどころか熱狂 ねっきょう して申 もう し入 い れを感情 かんじょう 的 てき に断 ことわ り、新 あら たに4万 まん 人 にん の兵士 へいし を動員 どういん した。1653年 ねん 3月 がつ 、ステファン・チャルニェツキ が率 ひき いるポーランド軍 ぐん の先陣 せんじん は「生殖 せいしょく できぬほどウクライナ人 じん を一人 ひとり も残 のこ すな」という標語 ひょうご のもと[14] コサック支配 しはい 下 か のブーラツラウ県 けん へ乱入 らんにゅう し、7月 がつ 上旬 じょうじゅん にポーランド国王 こくおう が指揮 しき する軍勢 ぐんぜい が西 にし ウクライナのリヴィウ 町 まち の周辺 しゅうへん に集結 しゅうけつ した。それに対 たい してフメリニツキーは、イヴァン・ボフーンの連隊 れんたい を派遣 はけん して敵 てき 軍 ぐん の先陣 せんじん を撃破 げきは し、クリミアのイスリャム3世 せい ゲライと結 むす んで約 やく 4万 まん 人 にん の兵力 へいりょく を呼集 こしゅう した。
10月 がつ 上旬 じょうじゅん 、4万 まん からなる国王 こくおう 軍 ぐん はドニステル川 がわ の中流 ちゅうりゅう に位置 いち するジュヴァーネツィ 町 まち [23] 近郊 きんこう に陣取 じんど った。国王 こくおう は、モルドバ公国 こうこく ・ワラキア公国 こうこく ・トランシルヴァニア公国 こうこく からの援軍 えんぐん を待 ま っていたが、コサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん はその援軍 えんぐん を途中 とちゅう で蹴 け 散 ち らし、10月 がつ 末 まつ に国王 こくおう 軍 ぐん の本陣 ほんじん を包囲 ほうい した。その折 おり に寒気 さむけ が始 はじ まったため、両 りょう 軍 ぐん は寒 さむ さと食料 しょくりょう 不足 ふそく で苦悩 くのう し、決戦 けっせん を挑 いど む力 ちから がなかった。そこで、12月5日 にち にクリミアのハンは、1649年 ねん と同様 どうよう にズボーリウ条約 じょうやく の復帰 ふっき を国王 こくおう に求 もと め、国王 こくおう はそれを受 う け入 い れた。しかし、今回 こんかい の平和 へいわ 条約 じょうやく は、両国 りょうこく の君主 くんしゅ が互 たが いに面会 めんかい しなかったことと、代理人 だいりにん を通 とお して成文 せいぶん ではなく口頭 こうとう 協定 きょうてい を交 か わしたことがために、単 たん なる休戦 きゅうせん 用 よう の虚実 きょじつ の宣言 せんげん にすぎなかった。それにもかかわらず、参戦 さんせん 者 しゃ は皆 みな 納得 なっとく していた。なぜなら、ポーランド側 がわ は国際 こくさい 法律 ほうりつ 上 じょう でズボーリウ条約 じょうやく の復帰 ふっき はなかったものと判断 はんだん し、タタール側 がわ はコサックとポーランドの勢力 せいりょく 的 てき バランスを管理 かんり して後者 こうしゃ を朝貢 ちょうこう 国 こく にし、コサック側 がわ は経済 けいざい 力 りょく ・軍 ぐん 力 りょく の回復 かいふく と同盟 どうめい 者 しゃ の変更 へんこう [24] のための時間 じかん を得 え たからであった。
ペレヤースラウ条約 じょうやく [ 編集 へんしゅう ]
対 たい オスマン帝国 ていこく の外交 がいこう 策 さく [ 編集 へんしゅう ]
フメリニツキーの乱 らん が始 はじ まった1648年 ねん 以来 いらい 、ウクライナ・コサックはポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく と対等 たいとう に戦 たたか うために隣国 りんごく の中 なか から頼 たよ れる同盟 どうめい 者 しゃ を求 もと めていた。最初 さいしょ の段階 だんかい でフメリニツキーは、生活 せいかつ 様式 ようしき でコサックにもっとも近 ちか い存在 そんざい であったクリミア・ハン国 こく のタタールと同盟 どうめい を結 むす び[25] 、1648年 ねん から1653年 ねん にかけて諸 もろ 戦 せん において勝利 しょうり したが、タタールは自 みずか らの国益 こくえき を追求 ついきゅう してポーランドを弱 よわ めながら、コサックのウクライナが強固 きょうこ にならないことに努 つと めた。クリミアのタタールは、1649年 ねん のズボーリウと1651年 ねん のベレステーチコの決戦 けっせん 場 じょう でコサックを裏切 うらぎ ったことがあり、さらにコサックの領内 りょうない で奴隷 どれい 狩 か りを行 おこな ってコサックの経済 けいざい と支持 しじ 層 そう を損壊 そんかい しつつあった。そのためフメリニツキーは別 べつ の同盟 どうめい 者 しゃ を捜 さが し求 もと め、1648年 ねん 末 まつ からオスマン帝国 ていこく に目 め を向 む けた。1650年 ねん の夏 なつ にコサックとオスマン帝国 ていこく は互 たが いに公式 こうしき な使節 しせつ 団 だん を派遣 はけん し、コサックのウクライナは当時 とうじ オスマン帝国 ていこく が支配 しはい していたクリミア・モルドバ・ワラキア・トランシルヴァニアの隣国 りんごく と同様 どうよう な形 かたち でオスマン帝国 ていこく の保護 ほご 国 こく になることが思案 しあん された。それにフメリニツキーは、オスマン帝国 ていこく に接近 せっきん するために、1652年 ねん の春 はる にモルドバ公国 こうこく のヴァシーレ・ルプ 主君 しゅくん の息女 そくじょ ルクサンドラ と自分 じぶん の息子 むすこ ティモフィーイ を結婚 けっこん させ、コサックの棟梁 とうりょう をオスマン帝国 ていこく の支配 しはい 下 か にいた諸 しょ 君主 くんしゅ の範囲 はんい に入 い れようとした[26] 。1651年 ねん 初 はじ めにオスマン帝国 ていこく のメフメト4世 せい [27] は、フメリニツキー宛 あ てにウクライナを保護 ほご 国 こく にする約束 やくそく 状 じょう を送 おく り、さらに、1653年 ねん 5月 がつ 下旬 げじゅん にフメリニツキーのために保護 ほご 国 こく の統治 とうち 者 しゃ の標 しめぎ 章 あきら を遣 つか わしたが、ウクライナの正教会 せいきょうかい の聖職 せいしょく 者 しゃ がオスマンの保護 ほご を受 う けることに強 つよ く反対 はんたい し、その上 うえ 、フメリニツキーの子息 しそく がモルドバの内戦 ないせん で反 はん オスマンの勢力 せいりょく を支持 しじ して無断 むだん でオスマン帝国 ていこく の保護 ほご 国 こく のワラキアに攻 せ め入 はい った[28] ため、フメリニツキーによるオスマンとの外交 がいこう 政策 せいさく は失敗 しっぱい に終 お わり、ウクライナがオスマン帝国 ていこく の保護 ほご 下 か に置 お かれることはなかった。
メフメド4世 せい (オスマン帝国 ていこく の皇帝 こうてい )
対 たい ロシア・ツァーリ国 こく の外交 がいこう 策 さく [ 編集 へんしゅう ]
オスマン帝国 ていこく との外交 がいこう と並行 へいこう してフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の宿敵 しゅくてき 、東北 とうほく のロシア・ツァーリ国 こく とやり取 と りを行 おこな っていた。1648年 ねん 5月 がつ にコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん がジョーウチ・ヴォーディの戦 たたか いで勝利 しょうり したことによってウクライナで庶民 しょみん による反乱 はんらん が勃発 ぼっぱつ したので、ロシア側 がわ はタタールと反乱 はんらん 者 しゃ の来襲 らいしゅう を警戒 けいかい して軍 ぐん を動員 どういん しはじめた。その軍 ぐん はコサック・タタール同盟 どうめい 軍 ぐん の背後 はいご を突 つ く可能 かのう 性 せい があったため、フメリニツキーは6月 がつ 18日 にち にツァーリ・アレクセイ 宛 あて に書状 しょじょう を出 だ し、同盟 どうめい 軍 ぐん がロシア・ツァーリ国 こく に侵入 しんにゅう しないことを約束 やくそく してポーランドと戦 たたか うための援軍 えんぐん を頼 たの んだ。書状 しょじょう を受 う けたツァーリは軍 ぐん の動員 どういん を中止 ちゅうし したものの、スモレンスク戦争 せんそう でポーランドのために失 うしな った西方 せいほう の領土 りょうど を取 と り戻 もど す十分 じゅうぶん な力 ちから がなかったのでコサックへの援軍 えんぐん を出 だ さなかった。1649年 ねん 1月 がつ 以降 いこう 、コサック側 がわ は頻繁 ひんぱん にロシア・ツァーリ国 こく に援軍 えんぐん を依頼 いらい したが、ロシア側 がわ はその依頼 いらい をつねに却下 きゃっか した。それがために、1649年 ねん 4月 がつ よりモスクワへのフメリニツキーの書状 しょじょう では、ロシア・ツァーリ国 こく の参戦 さんせん を促 うなが すため、コサック軍 ぐん の軍事 ぐんじ 的 てき 支援 しえん の請願 せいがん が次第 しだい にコサックの自治 じち 領域 りょういき をツァーリ の保護 ほご 下 か に置 お くよう求 もと めるという政治 せいじ 的 てき 支援 しえん の請願 せいがん に転化 てんか していった[29] 。1650年 ねん 末 まつ 以降 いこう 、ロシア側 がわ は自力 じりき ではポーランドからの領土 りょうど 復帰 ふっき を得 え られないと考 かんが えるようになり、1651年 ねん 2月 がつ にモスクワの全国 ぜんこく 議会 ぎかい はポーランドとの平和 へいわ 条約 じょうやく 遮断 しゃだん を議決 ぎけつ し、1652年 ねん 3月 がつ よりコサックとの同盟 どうめい を結 むす ぶ方向 ほうこう へゆっくりと動 うご き始 はじ めた。1653年 ねん 6月30日 にち に、オスマン帝国 ていこく がコサックの国家 こっか を自分 じぶん の保護 ほご 国 こく にすることを承諾 しょうだく したとの通知 つうち がモスクワに届 とど くと、ツァーリは、ウクライナが反 はん ロシア勢力 せいりょく になることを恐 おそ れて、大急 おおいそ ぎで7月 がつ 2日 にち にフメリニツキー宛 あて の書状 しょじょう を出 だ し、ウクライナをロシア・ツァーリ国 こく の保護 ほご 国 こく として受 う け入 い れることを約束 やくそく した。さらに、ツァーリの書状 しょじょう を確証 かくしょう するかのように、1653年 ねん 10月11日 にち にロシア・ツァーリ国 こく の全国 ぜんこく 議会 ぎかい は同 おな じ内容 ないよう の宣告 せんこく 書 しょ を可決 かけつ した[30] 。その後 ご 、10月13日 にち にヴァシーリイ・ブトゥルリーン が大使 たいし を勤 つと めるロシア・ツァーリ国 こく の使節 しせつ が編成 へんせい されてウクライナへ派遣 はけん され、11月上旬 じょうじゅん にウクライナのプティーウリ という国境 こっきょう の町 まち に到着 とうちゃく した。使節 しせつ はそこで1654年 ねん 初 はじ めまで滞在 たいざい し、ツァーリの保護 ほご について会議 かいぎ を行 おこな うコサックの長官 ちょうかん はペレヤースラウ 町 まち で集会 しゅうかい の日 ひ を待 ま っていた[31] 。1月 がつ 9日 にち に使節 しせつ はやっとペレヤースラウに招待 しょうたい され、1月 がつ 16日 にち に帰着 きちゃく したばかりのフメリニツキーと会見 かいけん した。
ペレヤースラウ条約 じょうやく の締結 ていけつ [ 編集 へんしゅう ]
1654年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、日曜日 にちようび の朝 あさ 、フメリニツキーは、12人 にん のコサック連隊 れんたい 長 ちょう を中心 ちゅうしん とした代表 だいひょう 団 だん とロシア・ツァーリ国 こく と保護 ほご についての非公開 ひこうかい の会議 かいぎ を行 おこな い、保護 ほご 条約 じょうやく の締結 ていけつ に関 かん して全員 ぜんいん の合意 ごうい を得 え た。午後 ごご 2時 じ より、200人 にん のコサック長官 ちょうかん と平 たいら 士 し がコサック軍 ぐん の総合 そうごう 会議 かいぎ に呼集 こしゅう され、ペレヤースラウ条約 じょうやく を結 むす ぶ儀式 ぎしき が始 はじ まった。フメリニツキーは、集 あつ まったコサックに向 む かってツァーリの保護 ほご を受 う けることに賛成 さんせい かを訊 たず ね、コサック全員 ぜんいん は賛成 さんせい であると承認 しょうにん した。会議 かいぎ は稀 まれ に見 み る調和 ちょうわ の雰囲気 ふんいき で行 おこな われたが、ペレヤースラウ大 だい 聖堂 せいどう でツァーリへの誓約 せいやく をめぐって問題 もんだい が生 しょう じた。ロシア・ツァーリ国 こく から派遣 はけん された聖職 せいしょく 者 しゃ はコサックがアレクセイ・ツァーリに忠節 ちゅうせつ を誓 ちか うように請求 せいきゅう すると、フメリニツキーは驚 おどろ き、先 さき にロシア・ツァーリ国 こく の使者 ししゃ がロシア・ツァーリ国 こく に代 か わって「コサックの棟梁 とうりょう とザポロージャのコサック軍 ぐん の全員 ぜんいん をポーランド側 がわ に出 だ さないことと、コサックの自治 じち 権 けん などを侵 おか さないこと」[14] を約束 やくそく するように求 もと めた。それに対 たい してブトゥルリーン大使 たいし は、ロシア・ツァーリ国 こく において君主 くんしゅ は部下 ぶか に誓約 せいやく を立 た てないと反発 はんぱつ し、コサック側 がわ はロシア・ツァーリ国 こく の援助 えんじょ が必要 ひつよう しているので、疑 うたが いなくツァーリを信用 しんよう して誓 ちか うべきだと主張 しゅちょう した[32] 。フメリニツキーとコサックの長官 ちょうかん は急 きゅう に大 だい 聖堂 せいどう を出 で て、長 なが い会議 かいぎ を行 おこな ったが、巧 たく みに事 こと を進 すす める良策 りょうさく がなかったので、大 だい 聖堂 せいどう に戻 もど って一方 いっぽう 的 てき にツァーリへの忠節 ちゅうせつ と、「町 まち 々と領土 りょうど と共 とも に、ツァーリの御 ご 手下 てした に永久 えいきゅう にあるよう」と誓約 せいやく を立 た てた[33] 。
ペレヤースラウでの保護 ほご 儀式 ぎしき の後 のち 、ロシア・ツァーリ国 こく の使者 ししゃ はコサックの17の連隊 れんたい 区 く とウクライナの町 まち 々へ出発 しゅっぱつ し、1654年 ねん 1月 がつ から2月 がつ にかけて12万 まん 7千 せん 人 にん をツァーリへの忠節 ちゅうせつ を誓約 せいやく させた[34] 。誓約 せいやく を立 た てるのを否定 ひてい したのは、ウクライナ正教会 せいきょうかい の最高 さいこう 聖職 せいしょく 者 しゃ 、ペレヤースラウ・キエフ・チョルノーブィリ の町人 ちょうにん の一部 いちぶ 、ウーマニ 連隊 れんたい 区 く 、ブラーツラウ連隊 れんたい 区 く 、ポルタヴァ 連隊 れんたい 区 く とクロプィーウニャ 連隊 れんたい 区 く であった。さらに、ザポロージャのシーチも長 なが い間 あいだ 誓約 せいやく を避 さ けていた。しかし、全体 ぜんたい としてウクライナの住民 じゅうみん は、ペレヤースラウ条約 じょうやく の締結 ていけつ が戦争 せんそう を拡大 かくだい するための用法 ようほう であることを忘 わす れて、ロシア・ツァーリ国 こく の保護 ほご 国 こく になることによって平和 へいわ な時代 じだい が来 く ると期待 きたい され、挙 こぞ って誓約 せいやく を立 た てた。
コサックのウクライナを背景 はいけい にしたボフダン・フメリニツキーの肖像 しょうぞう (18世紀 せいき 初頭 しょとう )。右 みぎ 上 じょう の隅 すみ にコサック国家 こっか の国 くに 章 あきら たる「ザポロージャの銃 じゅう 士 し 」と、フメリニツキーの足元 あしもと にコサック国家 こっか の簡単 かんたん な地図 ちず が描 えが かれている。コサックの諸 しょ 連隊 れんたい は幾 いく つかの戦 せん 棍 で表現 ひょうげん されている。
ペレヤースラウ条約 じょうやく は、1648年 ねん から1653年 ねん にかけて創立 そうりつ したコサック国家 こっか の存在 そんざい を法律 ほうりつ 上 じょう で承認 しょうにん した。この国家 こっか は、戦時 せんじ 中 ちゅう に誕生 たんじょう したこと、軍人 ぐんじん であるコサックによって統治 とうち されたこと、また「ザポロージャのコサック軍 ぐん 」という正式 せいしき な国号 こくごう を有 ゆう していたことから、軍事 ぐんじ 国家 こっか であったと考 かんが えられている[14] 。国家 こっか の元首 げんしゅ は、コサックによって終身 しゅうしん 選任 せんにん されて国内 こくない の最高 さいこう 立法 りっぽう 権 けん ・行政 ぎょうせい 権 けん ・裁判 さいばん 権 けん を有 ゆう するヘーチマン であった。そのため、「ザポロージャのコサック軍 ぐん 」はヘーチマン国家 こっか とも呼称 こしょう されていた。その領土 りょうど は、ドニプロー川 がわ を軸 じく にして現在 げんざい の中部 ちゅうぶ ウクライナから南 みなみ ベラルーシ まで拡大 かくだい していた。面積 めんせき はおよそ20万 まん km²の面積 めんせき で、人口 じんこう は約 やく 300万 まん 人 にん であったという[14] 。1660年代 ねんだい までの国家 こっか の首都 しゅと はフメリニツキーの故郷 こきょう 、チヒルィーン の城 しろ に置 お かれていた。
社会 しゃかい は、コサック・貴族 きぞく ・聖職 せいしょく 者 しゃ ・町人 ちょうにん ・農民 のうみん という階級 かいきゅう に分 わ かれており、国権 こっけん はコサックのみによって発動 はつどう されていた。コサック以外 いがい の階級 かいきゅう は国政 こくせい 運営 うんえい から切 き り放 はな されていたが、貴族 きぞく と聖職 せいしょく 者 しゃ は身分 みぶん 権 けん ・領地 りょうち 自治 じち 権 けん が保障 ほしょう されており、町人 ちょうにん はドイツ法 ほう に基 もと づく自治 じち 権 けん を有 ゆう していた。また多 おお く農民 のうみん は、フメリニツキーの乱 らん によって農奴 のうど から開放 かいほう され、自由 じゆう な所有 しょゆう 者 しゃ となり、税金 ぜいきん と引換 ひきか えに土地 とち を所有 しょゆう することが許 ゆる された。フメリニツキー統治 とうち 下 か のコサック国家 こっか では階級 かいきゅう の境界 きょうかい は柔軟 じゅうなん で、貴族 きぞく と町人 ちょうにん がコサックになることも少 すく なくなかった[35] 。
フメリニツキー統治 とうち 下 か のコサック国家 こっか の行政 ぎょうせい 区分 くぶん はコサック軍 ぐん の組織 そしき を真似 まね し、国家 こっか は連隊 れんたい ・百 ひゃく 人 にん 隊 たい ・十 じゅう 人 にん 隊 たい という、コサックを迅速 じんそく に動員 どういん できる行政 ぎょうせい 単位 たんい に分 わ かれていた。軍事 ぐんじ 行政 ぎょうせい 区分 くぶん の傍 かたわ らに市町村 しちょうそん という民間 みんかん 区分 くぶん も存在 そんざい した。十 じゅう 人 にん 隊 たい は特定 とくてい の町 まち か村 むら に置 お かれ、コサックによって選任 せんにん された十 じゅう 人 にん 隊長 たいちょう に運営 うんえい されていた。現地 げんち の民間 みんかん 行政 ぎょうせい と十 じゅう 人 にん 隊 たい の維持 いじ は町 まち か村 むら の長 なが に任 まか されていた。いくつかの十 じゅう 人 にん 隊 たい で百 ひゃく 人 にん 隊 たい を構成 こうせい し、百 ひゃく 人 にん 隊 たい はコサックの連隊 れんたい 長 ちょう から任命 にんめい された百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう が司 つかさど った。百 ひゃく 人 にん 隊 たい の行政 ぎょうせい 所在地 しょざいち は大 おお きな町 まち ないし市 し に置 お かれ、軍事 ぐんじ 行政 ぎょうせい は百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう の他 ほか に百 ひゃく 人 にん 隊 たい の弾正 だんじょう 官 かん ・書記官 しょきかん ・旗手 きしゅ 官 かん に任 まか されていた。民間 みんかん の行政 ぎょうせい は市町 しちょう の役所 やくしょ と連携 れんけい して町 まち のコサック長官 ちょうかん が担当 たんとう した。11ないし22の百 ひゃく 人 にん 隊 たい は連隊 れんたい を構成 こうせい し、特定 とくてい の市 し に置 お かれる連隊 れんたい 行政 ぎょうせい 所在地 しょざいち に属 ぞく していた。連隊 れんたい はヘーチマンが任命 にんめい する連隊 れんたい 長 ちょう と連隊 れんたい の長官 ちょうかん と呼 よ ばれる連隊 れんたい の弾正 だんじょう 官 かん ・郵送 ゆうそう 官 かん ・裁判官 さいばんかん ・書記官 しょきかん ・旗手 きしゅ 官 かん によって運営 うんえい された。連隊 れんたい 長 ちょう は、大 おお きな裁判 さいばん 権 けん と財政 ざいせい 権 けん を有 ゆう し、連隊 れんたい の区域 くいき でヘーチマンの名代 なだい の機能 きのう を果 は たしていた。百 ひゃく 人 にん 隊 たい と同様 どうよう に、連隊 れんたい が置 お かれる市 し の民間 みんかん の行政 ぎょうせい は、町 まち のコサック長官 ちょうかん と市 し の自治 じち 政権 せいけん が司 つかさど った。全体 ぜんたい として国内 こくない の連隊 れんたい の数 かず は常 つね に16を超 こ えていた[36] 。連隊 れんたい 制 せい とは別 べつ に、コサック国家 こっか 内 ない で自治 じち 制 せい を保 たも つウクライナ・コサックの根拠地 こんきょち ザポロージャのシーチ が存在 そんざい し、それはヘーチマンの直轄 ちょっかつ 地 ち とされ、ヘーチマンに任命 にんめい された連隊 れんたい 長 ちょう と違 ちが って、シーチのコサックが選 えら ぶコサック大 だい 長官 ちょうかん によって治 おさ められた。
従来 じゅうらい のコサックの習 なら わしによれば、国政 こくせい はヘーチマンとコサック全員 ぜんいん との大 だい 議会 ぎかい で行 おこな うはずであったが、フメリニツキー時代 じだい のコサック国家 こっか の大 だい 議会 ぎかい はほとんど開催 かいさい されることなく、国政 こくせい に関 かん するすべての判断 はんだん はヘーチマンの独断 どくだん か軍 ぐん の長老 ちょうろう 衆 しゅ と呼 よ ばれるコサックの最高 さいこう 長官 ちょうかん との相談 そうだん によって決 き められていた。軍 ぐん の長老 ちょうろう 衆 しゅ には、外交 がいこう を司 つかさど る軍 ぐん の書記官 しょきかん 、物資 ぶっし 輸送 ゆそう と砲兵 ほうへい を担当 たんとう する軍 ぐん の輸送 ゆそう 官 かん 、最高裁 さいこうさい 判 ばん を司 つかさど る軍 ぐん の裁判官 さいばんかん と、副官 ふっかん 的 てき 業務 ぎょうむ を行 おこな わせる軍 ぐん の弾正 だんじょう 官 かん ・旗手 きしゅ 官 かん ・馬印 うまじるし 手 しゅ 官 かん が入 はい っていた。国 くに の財政 ざいせい を握 にぎ ったのはヘーチマンのみであり、国家 こっか 予算 よさん の内容 ないよう は戦利 せんり 品 ひん と徴税 ちょうぜい からなっていた[37] 。
1655年 ねん から1657年 ねん まで [ 編集 へんしゅう ]
ロシア・ツァーリ国 こく とスウェーデン王国 おうこく の参戦 さんせん [ 編集 へんしゅう ]
スウェーデンの国王 こくおう 、カール10世 せい 。
1654年 ねん の春 はる 、コサックのウクライナを保護 ほご 国 こく にしロシア・ツァーリ国 こく がウクライナ・ポーランド戦争 せんそう に介入 かいにゅう し、ロシア・ポーランド戦争 せんそう が始 はじ まった。4万 まん 人 にん のロシア・ツァーリ国軍 こくぐん は、任命 にんめい ヘーチマン、イヴァン・ゾロタレンコ 率 ひき いる1万 まん 8千 せん 人 にん のコサック軍 ぐん と連携 れんけい して、ロシア・ツァーリ国 こく とポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国境 こっきょう にあったリトアニアのベラルーシ 地方 ちほう に攻 せ め入 い り、ポロツク 、ヴィテブスク 、スモレンスク を占領 せんりょう した。また、1654年 ねん 7月 がつ までにコサック軍 ぐん は自力 じりき で南 みなみ ベラルーシを征服 せいふく し、コサック国家 こっか の連隊 れんたい 行政 ぎょうせい 制 せい を当地 とうち に設置 せっち した。ロシア側 がわ はベラルーシ地方 ちほう への進攻 しんこう と同時 どうじ にポーランドのヴォルィーニ 地方 ちほう への出兵 しゅっぺい を準備 じゅんび していたが、フメリニツキーが南方 みなかた ウクライナを荒 あ らしたポーランド軍 ぐん と戦闘 せんとう 中 ちゅう だったので、その出兵 しゅっぺい は停止 ていし された。そんな中 なか 、コサックとロシア・ツァーリ国 こく の両 りょう 軍 ぐん の動 うご きに対 たい してクリミア・ハン国 こく はコサックとの同盟 どうめい を廃棄 はいき し、1654年 ねん 6月 がつ にポーランド側 がわ と「永遠 えいえん 同盟 どうめい 」を結 むす んだ。10月に両国 りょうこく の6万 まん 人 にん のポーランド・クリミア同盟 どうめい 軍 ぐん は、ブラーツラウ地方 ちほう へ侵入 しんにゅう し、当 とう 地方 ちほう を占領 せんりょう した[38] 。
1655年 ねん 1月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、ヴァシーリイ・シェレメーチェフ 率 ひき いるロシア・ツァーリ国 こく の2万 まん 人 にん の援軍 えんぐん にフメリニツキーのもとへ遅 おく れて到着 とうちゃく し、1月 がつ 下旬 げじゅん に6万 まん 人 にん のコサック軍 ぐん とともにオフマーチウ 村 むら [39] の当 あ たりでポーランド・クリミア同盟 どうめい 軍 ぐん と対陣 たいじん した。1月 がつ 29日 にち から31日 にち にかけて決戦 けっせん が行 おこな われ、両側 りょうがわ は戦闘 せんとう や厳寒 げんかん によって3万 まん 人 にん の死者 ししゃ を出 だ したが、勝負 しょうぶ はつかなかった。しかし、ポーランド・クリミア同盟 どうめい 軍 ぐん の進攻 しんこう は阻止 そし され、両側 りょうがわ の間 あいだ に同年 どうねん の秋 あき まで大 だい 規模 きぼ な戦闘 せんとう はなかった。
1655年 ねん の夏 なつ 、ロシア・ツァーリ国 こく がポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に攻 せ め入 はい ったことをきっかけに、かねてよりバルト海 ばるとかい に面 めん するプロイセン とリヴォニア をめぐってポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく と対立 たいりつ していたスウェーデン王国 おうこく は、対立 たいりつ 相手 あいて に宣戦 せんせん した。スウェーデン王 おう 国王 こくおう カール10世 せい は、ポーランドの敵 てき であったブランデンブルク のフリードリヒ・ヴィルヘルム 、トランシルヴァニアのラーコーツィ・ジェルジ2世 せい 、ならびにウクライナのフメリニツキーと共同 きょうどう 作戦 さくせん の約束 やくそく を交 か わし、同年 どうねん 7月 がつ にポーランドへ乱入 らんにゅう した。ポーランド・スウェーデン戦争 せんそう が始 はじ まってから半年 はんとし で、ポズナン とクラクフ をはじめとする大 おお きな都市 とし はスウェーデン軍 ぐん に占領 せんりょう され、多 おお くのポーランド軍人 ぐんじん が降伏 ごうぶく した。
スウェーデン側 がわ と連携 れんけい を取 と りながら、フメリニツキーのコサック軍 ぐん と彼 かれ に従属 じゅうぞく していたロシア援軍 えんぐん はガリツィア 地方 ちほう に進攻 しんこう し、9月 がつ 下旬 げじゅん にホロドーク 町 まち [40] の周辺 しゅうへん でポーランド軍 ぐん を蹴 け 散 ち らして 、9月29日 にち にリヴィウ市 し を包囲 ほうい した。しかしフメリニツキーは、クリミア・タタール軍 ぐん が南 みなみ ウクライナに侵入 しんにゅう したの注進 ちゅうしん を受 う けると、リヴィウ市民 しみん から代償 だいしょう 金 きん をもらって包囲 ほうい を解除 かいじょ し、南方 なんぽう へ向 む かった。そこでコサック軍 ぐん が諸 しょ 戦 せん においてタタール勢 ぜい を破 やぶ ったため、フメリニツキーとクリミアのイスリャム3世 せい は互 たが いに誓願 せいがん を立 た ててコサック・タタール同盟 どうめい を復活 ふっかつ させた。
「ボフダン・フメリニツキーの死 し 」。タラス・シェフチェンコ の画 が 。
対 たい ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の戦争 せんそう が成功 せいこう すればするほど、同盟 どうめい 者 しゃ であったコサック国家 こっか 、スウェーデン王国 おうこく とロシア・ツァーリ国 こく とのあいだに対立 たいりつ が起 お こり始 はじ めた。フメリニツキーはウクライナ人 じん が居住 きょじゅう する全 ぜん 地域 ちいき をコサック国家 こっか の支配 しはい 下 か に置 お こうとしたが、スウェーデン側 がわ は西 にし ウクライナのガリツィア地方 ちほう を自国 じこく 領 りょう にするつもりであったため、コサックの要求 ようきゅう を却下 きゃっか した。また、南 みなみ ベラルーシには実際 じっさい にコサックの連隊 れんたい 行政 ぎょうせい 制 せい が設置 せっち されていたにも拘 かかわ らず、ロシア側 がわ は当 とう 地方 ちほう がロシア・ツァーリ国 こく のものであると主張 しゅちょう した。
同盟 どうめい 者 しゃ との対立 たいりつ が激 はげ しくなっていく中 なか 、ロシア・ツァーリ国 こく はスウェーデンの強化 きょうか を警戒 けいかい して1656年 ねん 5月 がつ にスウェーデンへ戦争 せんそう 宣告 せんこく した。そして、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に和平 わへい を提案 ていあん し、8月 がつ 22日 にち にヴィリニュス で和平 わへい 交渉 こうしょう を開始 かいし した。その交渉 こうしょう にはロシア側 がわ とポーランド・リトアニア側 がわ の使節 しせつ 団 だん が参加 さんか したが、派遣 はけん されたコサックの使節 しせつ 団 だん の参加 さんか はロシア側 がわ の要望 ようぼう によって拒絶 きょぜつ された。それを知 し ったフメリニツキーはロシア・ツァーリ国 こく の保護 ほご から離 はな れる決意 けつい をし、11月に一方 いっぽう 的 てき にトランシルヴァニア、ワラキア、モルドバ、オーストリア、クリミア、ポーランド、オスマン帝国 ていこく と外交 がいこう 関係 かんけい を復活 ふっかつ させ、スウェーデン軍 ぐん へアンチーン・ジュダノーヴィチ が率 ひき いる2万 まん 人 にん のコサック軍 ぐん を援軍 えんぐん として遣 つか わした[14] 。
しかし、ロシア・ツァーリ国 こく との国交 こっこう を絶 た つには時勢 じせい が不利 ふり であった。フメリニツキーは重 おも い病 やまい にかかり、1657年 ねん の初 はじ めに彼 かれ の跡継 あとつ ぎに決定 けってい された子息 しそく ユーリイ は16歳 さい ばかりの未熟 みじゅく な青年 せいねん であった。コサック内部 ないぶ には親 しん ロシア派 は 、親 しん ポーランド派 は 、親 おや オスマン派 は などの派閥 はばつ ができ、ウクライナ国内 こくない は十分 じゅうぶん に統一 とういつ されていなかった。こうして、ウクライナが敵意 てきい を抱 いだ く勢力 せいりょく に囲 かこ まれていく中 なか 、同年 どうねん 8月 がつ 6日 にち にフメリニツキーが脳 のう 梗塞 こうそく で倒 たお れて死去 しきょ した[14] 。彼 かれ の権威 けんい によっておさえられていたコサック長老 ちょうろう たちの不和 ふわ が顕在 けんざい 化 か し、隣国 りんごく に操 あやつ れてお互 たが いに戦 せん をし始 はじ めた。フメリニツキーの乱 らん が終 お わり、その乱 らん の中 なか で築 きず かれたコサック国家 こっか は「荒廃 こうはい 」とよばれる衰退 すいたい 期 き に入 はい った。
フメリニツキーの「菩提寺 ぼだいじ 」。スボーチウの聖 せい イッリャ教会 きょうかい 。
フメリニツキーの乱 らん は東欧 とうおう 史 し の大 おお きな転換期 てんかんき であった。17世紀 せいき 前半 ぜんはん のヨーロッパの列強 れっきょう の一 いち 国 こく だったポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく が衰退 すいたい しはじめ、「ザポロージャ・コサック軍 ぐん 」というウクライナ人 じん の近世 きんせい 国家 こっか が誕生 たんじょう した。その国家 こっか がロシア・ツァーリ国 こく の保護 ほご 下 か に入 はい ったことにより、ロシア・ツァーリ国 こく は東欧 とうおう での支配 しはい 範囲 はんい の拡大 かくだい に成功 せいこう してロシア帝国 ていこく に変身 へんしん するための大 おお きな一 いち 歩 ほ を踏 ふ み出 だ した。フメリニツキーの死後 しご 、ロシア・ツァーリ国 こく は、ウクライナ国内 こくない の反 はん ロシア勢力 せいりょく を壊滅 かいめつ させ、17世紀 せいき 後半 こうはん から18世紀 せいき にかけてウクライナを足 あし 懸 かか に、スウェーデン王国 おうこく (バルト帝国 ていこく )とオスマン帝国 ていこく を破 やぶ ってクリミア・ハン国 こく とポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく を亡 ほろぼ した。
16世紀 せいき から17世紀 せいき 前半 ぜんはん のポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく ではコサックの反乱 はんらん がしばしば起 お こっていたが、フメリニツキーの乱 らん ほどのものはなかった。1648年 ねん のコサックの騒乱 そうらん は初 はじ めてウクライナの民衆 みんしゅう の幅広 はばひろ い支持 しじ を得 え 、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は1年 ねん 足 た らずのうちに国土 こくど の3分 ぶん の1を失 うしな った。そして、ウクライナに存在 そんざい した中世 ちゅうせい 時代 じだい の社会 しゃかい 秩序 ちつじょ は崩 くず れ落 お ち、近世 きんせい 的 てき な社会 しゃかい 構造 こうぞう に交替 こうたい した。命拾 いのちびろ いをした貴族 きぞく と約 やく 5割 わり から8割 わり のウクライナの町人 ちょうにん はコサックとなり、農奴 のうど であったウクライナの農民 のうみん は自由 じゆう な生産 せいさん 者 しゃ と土地 とち の所有 しょゆう 者 しゃ となった[14] 。社会 しゃかい は軍事 ぐんじ 的 てき な体制 たいせい にシフトし、遊楽 ゆうらく の暮 く らしをしている裕福 ゆうふく な貴族 きぞく の代 か わりに自由 じゆう を勝 か ち取 と るコサックの戦士 せんし という国民 こくみん 的 てき 理想 りそう 人物 じんぶつ 像 ぞう が作 つく り上 あ げられた。ウクライナ人 じん は、キエフ大公 たいこう 国 こく が滅 ほろ んでから数 すう 百 ひゃく 年 ねん ぶりに自 みずか らの国 くに を持 も つことができた。
しかし、政治 せいじ 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 変化 へんか と同時 どうじ に、フメリニツキーの乱 らん はウクライナとその周 まわ りの諸国 しょこく に住 す んでいた人々 ひとびと に大 おお きな被害 ひがい をもたらした。コサックとウクライナの庶民 しょみん は、反乱 はんらん が彼 かれ らを弾圧 だんあつ してきた支配 しはい 者 しゃ 階級 かいきゅう ・異教徒 いきょうと ・異国 いこく 人 じん への報復 ほうふく 戦 せん であると信 しん じ、ポーランド人 じん とウクライナ人 じん の貴族 きぞく ・カトリック の聖職 せいしょく 者 しゃ ・ユダヤ人 じん の収税 しゅうぜい 吏 り と官吏 かんり などを無慈悲 むじひ に殺害 さつがい していったが[41] 、反乱 はんらん 軍 ぐん に加 くわ わらない、あるいは反乱 はんらん を支援 しえん しない者 もの も身分 みぶん ・宗教 しゅうきょう ・民族 みんぞく を問 と わずに惨殺 ざんさつ した。また、一時期 いちじき コサックの同盟 どうめい 者 しゃ であったタタールはウクライナの町村 ちょうそん でほしいままに奴隷 どれい 狩 か りを行 おこな った[42] 。その結果 けっか 、ウクライナの人口 じんこう は著 いちじる しく減少 げんしょう し、農産 のうさん 業 ぎょう が衰退 すいたい して飢饉 ききん と疫病 えきびょう が蔓延 まんえん した。多 おお くのウクライナの難民 なんみん はモルドバやロシア・ツァーリ国領 こくりょう 内 ない に逃亡 とうぼう し、そこで新 あら たな集落 しゅうらく を建立 こんりゅう した[43] 。
伊東 いとう 孝之 たかゆき 、井内 いうち 敏夫 としお 、中井 なかい 和夫 かずお 編 へん 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 し 』山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、東京 とうきょう 〈世界 せかい 各国 かっこく 史 し ; 20〉、1998年 ねん 。ISBN 4-634-41500-3 。NDLBibID : 000002751344 。
黒川 くろかわ 祐次 ゆうじ 『物語 ものがたり ウクライナの歴史 れきし : ヨーロッパ最後 さいご の大国 たいこく 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、東京 とうきょう 〈中公新書 ちゅうこうしんしょ ; 1655〉、2002年 ねん 。ISBN 4-121-01655-6 。NDLBibID : 000003673751 。
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フメリニツキーの乱 らん をテーマとする芸術 げいじゅつ 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
原 はら 始 はじめ ・古代 こだい (紀元前 きげんぜん 300年 ねん 以前 いぜん )中世 ちゅうせい 前期 ぜんき (300年 ねん - 1240年 ねん )中世 ちゅうせい 後期 こうき (1240年 ねん - 1569年 ねん )近世 きんせい (1569年 ねん - 1775年 ねん )近代 きんだい (1775年 ねん - 1917年 ねん )現代 げんだい (1917年 ねん - 1991年 ねん )現在 げんざい (1991年 ねん 以降 いこう )
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