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フメリニツキーの乱 - Wikipedia コンテンツにスキップ

フメリニツキーのらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フメリニツキーのらん
戦争せんそうウクライナ・ポーランド戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1648ねん - 1657ねん
場所ばしょウクライナ
結果けっかヘーチマン国家こっか誕生たんじょうポーランド・リトアニア共和きょうわこく衰退すいたいロシア・ツァーリこく強国きょうこく
交戦こうせん勢力せいりょく
ウクライナ・コサック
ウクライナ・コサック
ポーランド・リトアニア共和国
ポーランド・リトアニア共和きょうわこく
指導しどうしゃ指揮しきかん

フメリニツキーのらん(フメリニツキーのらん、ウクライナ: Хмельни́ччина、フメリヌィーッチナ)は、1648ねんから1657ねんまでのあいだポーランド・リトアニア共和きょうわこく支配しはいにあったウクライナにおいて、ウクライナ・コサックヘーチマン(将軍しょうぐんボフダン・フメリニツキーこしたコサックの武装ぶそう蜂起ほうきである。この蜂起ほうきはウクライナたいポーランドのだい規模きぼ戦争せんそう発展はってんし、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく衰退すいたいこす一方いっぽうで、ウクライナ・コサックによるヘーチマン国家こっか創立そうりつと、戦争せんそう介入かいにゅうした隣国りんごくロシア・ツァーリこく強化きょうかという結果けっかをもたらした。フメリニツキーのらんは、ひがしヨーロッパ政治せいじ地図ちずおおきくえ、17世紀せいきなか以降いこうとう地域ちいき多数たすう民族みんぞく運命うんめいめたので、ひがしヨーロッパ史上しじょう最大さいだい軍事ぐんじ衝突しょうとつひとつだったとかんがえられている。

ウクライナ史学しがくにおいてのフメリニツキーのらんは、ウクライナ民族みんぞく解放かいほう戦争せんそう[1]コサック・ポーランド戦争せんそう[2]、あるいはコサックの革命かくめい[3]ともばれる。日本にっぽんにおける歴史れきしがく研究けんきゅうではおおくの場合ばあいポーランドふうフミェルニツキのらんいたり、ロシアふうフメリニツキーのらんしょうしている。

原因げんいん[編集へんしゅう]

16世紀せいきすえから17世紀せいき前半ぜんはんまでのあいだ、ウクライナは、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく支配しはいこくポーランド王国おうこく支配しはいかれていた。この地域ちいきでは、キエフ・ルーシ時代じだい以来いらい、ポーランドの本土ほんどことなる民族みんぞく宗教しゅうきょう言語げんご存在そんざいしていたため、ポーランド王国おうこくにとっては統制とうせいしづらいところであった。そこで、ポーランドは、同化どうか政策せいさくすすめて現地げんち貴族きぞく積極せっきょくてきにポーランドし、ポーランドのカトリック教会きょうかいとウクライナの正教会せいきょうかいブレスト合同ごうどう合併がっぺいすることによって東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかい一派いっぱであるウクライナ東方とうほうカトリック教会きょうかい成立せいりつさせて宗教しゅうきょう問題もんだい解決かいけつしようとした。こうしたポーランドの政策せいさくこととなえたのはウクライナ・コサックであったが、1620年代ねんだい - 1630年代ねんだいにおけるかれらの蜂起ほうきはポーランド政府せいふぐん貴族きぞくぐんによって鎮圧ちんあつされた。

1648ねん時点じてんで、ポーランド・リトアニア共和きょうわこくヨーロッパにおける列強れっきょうひとつだった。その隣国りんごくである西にしドイツかみきよしマ帝国まていこく)ときたスウェーデン1618ねんから1648ねんさんじゅうねん戦争せんそうかりりとなり、ひがしモスクワ国家こっか(ロシア・ツァーリこく)は動乱どうらん時代じだいスモレンスク戦争せんそうから回復かいふくしておらず、みなみオスマン帝国ていこくイェニチェリ反乱はんらん経済けいざい問題もんだいなやまされていた。それにたいしてポーランド・リトアニア共和きょうわこくは、バルト海ばるとかいから黒海こっかいまでひろがる膨大ぼうだい領土りょうどゆうしていて、ロシア・ツァーリこくとオスマン帝国ていこくとのたたかいで連続れんぞくてき勝利しょうりをおさめ、経済けいざい文化ぶんかさかえ、17世紀せいき前半ぜんはんは「ポーランド・リトアニア共和きょうわこく黄金おうごん時代じだい」とばれるほどの全盛ぜんせいきわめていた。

しかし、表面ひょうめんてきには磐石ばんじゃくえたポーランド・リトアニア共和きょうわこくであったが、国家こっか内政ないせい制度せいど腐食ふしょくしていた。従来じゅうらいからポーランド・リトアニア共和きょうわこくおう権威けんいひくかったうえに、17世紀せいき以降いこう中央ちゅうおう地域ちいき行政ぎょうせい機関きかんでは汚職おしょくすすみ、国家こっかたいする貴族きぞく義務ぎむ意識いしきうすくなり、政府せいふぐんでは実力じつりょく有無うむかかわらず縁故えんこしゃ登用とうようおこなわれた。さらに、法律ほうりつじょうでは、支配しはい階級かいきゅうである貴族きぞく支配しはい貴族きぞく他者たしゃとのあいだに「ポーランドは貴族きぞくにとって天国てんごくであり、農民のうみんにとって地獄じごくである」とうたわれたほどいちじるしい権利けんり存在そんざいした。貴族きぞく領主りょうしゅたちは、経済けいざい発展はってんのために農民のうみん農奴のうどにして広大こうだい農園のうえんはたらかせ、農園のうえん経営けいえい異国いこくじんユダヤじんアルメニアじんドイツじんなどにまかせた。こうしたしょ問題もんだいは、ポーランド王国おうこく本土ほんどからはなれたウクライナにおいてより一層いっそう深刻しんこくし、民衆みんしゅう不満ふまんつのるようになった。それにくわえて、軍人ぐんじん資格しかく自治じちけんゆうしていたすうまんにんウクライナ・コサックは、1638ねん叛乱はんらん失敗しっぱい以降いこう、ポーランド王国おうこく現地げんち貴族きぞく政策せいさくによって農奴のうどされて権利けんりうばわれたので、ウクライナではおおきな反乱はんらん爆発ばくはつさせる要因よういんととのっていた。

ヤン・マテイコによる17世紀せいきなかばの東欧とうおう軍人ぐんじんひだりからみぎへ: じゅう喇叭らっぱしゅけい騎兵きへいじゅうそう騎兵きへいハイドゥーク歩兵ほへいちょう

フメリニツキーのらんのきっかけとなったのは、1647ねん出来事できごとであった。中部ちゅうぶウクライナを支配しはいしていたポーランドけいだい貴族きぞくコニェツポルスキ家人かじんチヒルィーンまちふく長官ちょうかんダニエル・チャプリンスキは、ウクライナ・コサックの軍隊ぐんたい書記官しょきかんであったボフダン・フメリニツキー知行ちぎょうおそった[4]ふく長官ちょうかんは、フメリニツキーの留守るすねらい、かれ屋敷やしき灰燼かいじんかえしたうえ、3なんなぐころして恋人こいびとモトローナうばった。フメリニツキーは、最高裁さいこうさいばんけんゆうしていた国王こくおうヴワディスワフ4せい提訴ていそしたものの、従来じゅうらいからおう影響えいきょうりょくよわかったため、敗訴はいそした。そこでフメリニツキーは反乱はんらんねんいだはじめたが、コニェツポルスキかれろうめて処刑しょけいめいじた。しかし、ろう警備けいびちょうはフメリニツキーに同情どうじょうして脱獄だつごく協力きょうりょくし、1647ねん12月にフメリニツキーは仲間なかまれて、南部なんぶウクライナにあったウクライナ・コサックの根拠地こんきょちザポロージャのシーチのがれることができた。当時とうじ、その根拠地こんきょちで1638ねん以後いごコサックの蜂起ほうきふせぐためにポーランド政府せいふ番人ばんにんしゅかれていたが、フメリニツキーは現地げんちのコサックと合流ごうりゅうして1648ねん2がつ番人ばんにんしゅ殺害さつがいしてシーチを確保かくほし、コサックによってヘーチマンとして選任せんにんされた。

そもそもボフダン・フメリニツキーは、べにルーシ出身しゅっしんのウクライナけいしょう貴族きぞく、コニェツポルスキ家人かじんであった。かれ1609ねんからすうねんをかけてイエズスかいリヴィウ・カレッジ人文じんぶん科学かがくラテン語らてんご勉強べんきょうし、将官しょうかんとして登録とうろくコサックというウクライナ・コサックから構成こうせいされる政府せいふがわ公式こうしきなコサックぐん入隊にゅうたいした。1620年代ねんだいから1630年代ねんだいまでのあいだ、フメリニツキーはオスマン帝国ていこくクリミア・ハンこく、ロシア・ツァーリこくとの多数たすうたたかいでごし、1646ねんフランスがわ傭兵ようへいコサックの司令しれいかんとしてさんじゅうねん戦争せんそうさんじんした。フメリニツキーは、当時とうじ知識ちしきじん[5]であり優秀ゆうしゅう軍人ぐんじんであったため、ウクライナ・コサックのあいだで尊敬そんけいあつめていた。

経緯けいい[編集へんしゅう]

1648ねんから1649ねんまで[編集へんしゅう]

ジョーウチ・ヴォーディのたたか[編集へんしゅう]

フメリニツキーがコサックをあつめて反乱はんらん準備じゅんびをしているとったポーランド王国おうこく政府せいふは、ウクライナに駐留ちゅうりゅうするミコワイ・ポトツキマルチン・カリノフスキひきいる官軍かんぐんにコサックを鎮圧ちんあつすようにめいじた。官軍かんぐん1648ねん来春らいしゅんまで進攻しんこうできなかったので、フメリニツキーはそのすき南方なんぽう隣国りんごくであったクリミア・ハンこく同盟どうめいむすび、クリミア・タタールじんはウクライナ・コサックに援軍えんぐんすことを約束やくそくした。そのかわり、交渉こうしょうやくであったフメリニツキーの長男ちょうなんティーミシュウクライナばんは、人質ひとじちとしてタタールのもとへかれた[6]。1648ねん4がつ官軍かんぐん司令しれいかんたちは、貴族きぞくしょ部隊ぶたい到着とうちゃくつためにコールスニまちあたりで本陣ほんじんえ、ポトツキの子息しそくひきいる1まんにんあまりの先陣せんじんをフメリニツキーの根拠地こんきょち派遣はけんした。その先陣せんじんは、4がつ29にちジョーウチがわドイツばん[7]ウクライナ: Жовті Води - えい: Zhovti river[8])のあたりでフメリニツキー麾下きかの8せんにんのコサックとトハイ・ベイ麾下きかの1せん5ひゃくにんのタタールじんからなる同盟どうめいぐん衝突しょうとつした。コサック・タタール同盟どうめいぐん優勢ゆうせいであったため、官軍かんぐん先陣せんじん即席そくせききずいたとりでもり、和平わへい交渉こうしょうのぞんだ。しかし、先陣せんじんにいた政府せいふがわの1せんにんあまりの登録とうろくコサックが交渉こうしょうちゅう指揮しきかんイヴァン・バラバーシュウクライナばんらを殺害さつがいしてフメリニツキーのコサックへ寝返ねがえった[6]ため、交渉こうしょう決裂けつれつした。5月15にちよる先陣せんじんはコサックのぐん包囲ほうい突破とっぱによって脱出だっしゅつしようとしたが、クニャージ・バイラークィでコサックの鉄砲てっぽうたい砲兵ほうへいたい射撃しゃげきって破滅はめつした。捕虜ほりょとなったウクライナけい貴族きぞくはフメリニツキーに登用とうようされ、その捕虜ほりょはタタールじん獲物えものとなった。

コールスニのたたか[編集へんしゅう]

コールスニのたたか

はつ勝利しょうりおさめたコサック・タタール同盟どうめいぐんただちに北上ほくじょうし、5月25にちにコールスニまちあたりの官軍かんぐん本陣ほんじん包囲ほういした。司令しれいかんであるポトツキとカリノフスキは包囲ほうい脱出だっしゅつはかったが、その計画けいかく現地げんちのスパイによってコサックの陣地じんちらされ、コサックは官軍かんぐん脱出だっしゅつ経路けいろわな仕掛しかけた。翌日よくじつ官軍かんぐんはコサック・タタール同盟どうめいぐんつよ抵抗ていこうけることなく脱出だっしゅつし、途中とちゅうでのホリーホヴァ・ディブローヴァの峡谷きょうこくはいると、真正面ましょうめん側面そくめんからコサックの猛烈もうれつ射撃しゃげきと、背面はいめんからタタールの騎兵隊きへいたい打撃だげきけて総崩そうくずれとなった。官軍かんぐんの8わり戦死せんしし、負傷ふしょうした両人りょうにん司令しれいかんはじめとする軍人ぐんじんはタタールじん捕虜ほりょとなってクリミア・ハンこくおくられた。

このコサック・タタール同盟どうめいぐんだい勝利しょうりによってウクライナでは政府せいふぐん消滅しょうめつし、治安ちあん悪化あっかした。それと同時どうじに、貴族きぞく聖職せいしょくしゃやユダヤじんなどの支配しはいしゃ階級かいきゅうから弾圧だんあつ軽蔑けいべつつづけたウクライナの農民のうみん町人ちょうにん蜂起ほうきし、宮殿きゅうでん寺院じいん略奪りゃくだつして従来じゅうらい主君しゅくん長官ちょうかん管理かんりしゃなどを殺害さつがいしはじめた。庶民しょみんぐんひきいたのはフメリニツキーの部下ぶかマクスィム・クルィヴォニース連隊れんたいちょうであった。こうした暴動ぼうどうに、ひがしウクライナの領主りょうしゅでウクライナけい貴族きぞくヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイおおやけかった。かれは、反乱はんらんせいすることに熱心ねっしんつとめたが、差別さべつすうおおくの町村ちょうそんはらって無罪むざい住民じゅうみんまで処刑しょけいしたので、政府せいふ支配しはいしゃ歯向はむかう庶民しょみんかず増加ぞうかさせていったばかりであった。

プィリャーウツィのたたか[編集へんしゅう]

コールスニのたたかいがはじまる直前ちょくぜん1648ねん5がつ20日はつかにポーランド・リトアニア共和きょうわこく国王こくおうヴワディスワフ4せい崩御ほうぎょした。君主くんしゅざいウクライナ官軍かんぐんうしなったポーランド政府せいふはコサックと和平わへい交渉こうしょう開始かいしする[9]一方いっぽうで、いそいで全国ぜんこく貴族きぞく私兵しへい部隊ぶたい動員どういんしはじめた。9月上旬じょうじゅん交渉こうしょうられ、あらたにあつめられた騎兵隊きへいたい中心ちゅうしんとした4まんにん官軍かんぐんと、じゅう兵隊へいたい中心ちゅうしんとした6まんにんのコサックぐんふたたたがいに勝負しょうぶいどんだ。コサックを見下みくだしている軍人ぐんじんおおかったことから、官軍かんぐんないには楽観らっかんてき雰囲気ふんいきただよっていた。9月21にちりょうぐんはプィリャーウツィむら[10]あたりで対陣たいじんし、9月23にち合戦かっせん火蓋ひぶたられた。最初さいしょ官軍かんぐん騎兵隊きへいたいがコサックの陣地じんちおそったが、鉄砲てっぽう砲兵ほうへい射撃しゃげきまえ撤退てったい余儀よぎなくされた。そのすきにコサックの歩兵ほへい防戦ぼうせんから反撃はんげきてんじ、てき歩兵ほへい全滅ぜんめつさせたのち官軍かんぐん本陣ほんじんちかづいた。そんななか官軍かんぐん司令しれいかん[11]長官ちょうかんたちが合議ごうぎしたうえ敗走はいそうし、それをったほか貴族きぞく従者じゅうしゃ恐怖きょうふおちいって、武器ぶき軍旗ぐんき兵糧ひょうろう宝物ほうもつててった。コサックのには800まんまい金銭きんせんあたいする戦利せんりひんはいった[12]

プィリャーウツィのたたかい。

さん連勝れんしょうしたコサックぐんはタタールの援軍えんぐんともなわれて1648ねん10がつ西にしウクライナのヴォルィーニガリツィア地方ちほう乱入らんにゅうし、最大さいだい都市としリヴィウを包囲ほういした。包囲ほういさん週間しゅうかんつづいたが、市民しみん代償だいしょうきんとして120まんまい金銭きんせんをコサックへ支払しはらった。その地域ちいきでは、コサックの軍事ぐんじ成功せいこう背景はいけい庶民しょみん蜂起ほうきし、宗教しゅうきょう民族みんぞくなどをわず貴族きぞく管理かんりしゃ虐殺ぎゃくさつしていた。

1648ねん11月にコサック・タタール連合れんごうぐんはポーランドの本土ほんどり、ザモシチいた。ポーランドの首都しゅとワルシャワ危険きけんさらされているなかヤン2せいあらたな国王こくおうとしてえらばれ、ザモシチが陥落かんらくする寸前すんぜん政府せいふはフメリニツキーとの和平わへい交渉こうしょう再開さいかいした。コサックぐんは、ポーランドに侵攻しんこうして優勢ゆうせいであったもののさむさ・疫病えきびょう糧食りょうしょく不足ふそくなどになやまされており、交渉こうしょうおうじた。フメリニツキーの要求ようきゅうは、反乱はんらんしゃ全員ぜんいん大赦たいしゃ登録とうろくコサックの人数にんずう増加ぞうか、ウクライナにおけるコサックの内政ないせい自治じちけん回復かいふく、コサック海賊かいぞく行動こうどう禁止きんしれいし、コサック領内りょうないでポーランド・リトアニア共和きょうわこく官軍かんぐん駐在ちゅうざい禁止きんしなどであった[13]11月23にち、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく政府せいふ一時いちじてきにフメリニツキーの要求ようきゅうおうじて休戦きゅうせん協定きょうていむすんだので、フメリニツキーはコサック・タタール連合れんごうぐんれてウクライナへ帰陣きじんした。

ズバーラジュじょう包囲ほうい・ズボーリウのたたか[編集へんしゅう]

1649ねん1がつ2にち、フメリニツキーはコサックの長官ちょうかんたちにともなわれてキエフへ凱旋がいせんした。かれむかえたのはキエフ主教しゅきょうスィリヴェーストル・コーシウエルサレムそう主教しゅきょうパイーシイをはじめとする正教会せいきょうかいおもだった聖職せいしょくしゃキエフ・アカデミー教員きょういん学生がくせい、ならびにおびただしい群集ぐんしゅうであった。聖職せいしょくしゃ筋書すじがきに沿ってフメリニツキーは現存げんそんしたキエフ・ルーシ時代じだい最大さいだい建造けんぞうぶつである黄金おうごんもんとおり、むかしキエフ大公たいこう、また「ポーランドじん奴隷どれいからルーシのみんすくったモーゼス」のように歓迎かんげいされた[14]。エルサレムそう主教しゅきょうは、フメリニツキーの現在げんざい未来みらいつみゆるし、そくこんであったかれ恋人こいびと結婚けっこんさせ、「ポーランドじんとのたたかい」について祝福しゅくふくした。

1649ねん2がつ去年きょねんまつにザモシチではじまった和平わへい交渉こうしょうつづいて、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく政府せいふより和平わへい条約じょうやくむすぶための使節しせつだんがキエフに到着とうちゃくした。しかし、そこでフメリニツキーは、ザモシチでのコサックの棟梁とうりょうとしてコサックの自治じちけん軍人ぐんじんけん公認こうにんもとめたのではなく、「神様かみさま加護かごとサーベルでったルーシ」の君主くんしゅという立場たちばから、ウクライナじん(ルーシじん)が地域ちいき[15]をポーランドの支配しはいから解放かいほうするようにと使者ししゃ請求せいきゅうしたのであった。使者ししゃ戸惑とまどいながらもじゅつもなかったので、首都しゅとかえった。

1649ねん3がつにポーランド・リトアニア共和きょうわこくがわヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイひきいる1まん5せんにん貴族きぞくぐん休戦きゅうせん協定きょうていやぶり、コサックの支配しはい西境にしさかい軍事ぐんじ活動かつどう再開さいかいした。これにたいしてフメリニツキーは、動員どういんれをし、30連隊れんたいからなる10まんにんあらたな軍勢ぐんぜいあつめた[16]。5月中旬ちゅうじゅんに、イスリャム3せいゲライクリミア・タタールばんひきいるクリミア・ハンこくの4まんにんのタタールぐんはコサックの援軍えんぐんとしてさんじんした。6がつまつにコサック・タタール同盟どうめいぐんは、貴族きぞくぐんめてズバーラジュじょう[17]撤退てったいさせたが、しろることが出来できなかったため、7がつ20日はつかにこれを包囲ほういして兵糧ひょうろうめをすることにした。その包囲ほういったポーランドの国王こくおうは、ただちに3まんにん軍勢ぐんぜいあつめて8がつはじめに貴族きぞくぐんすくうために出陣しゅつじんしたが、8がつ15にちズボーリウまち[18]周辺しゅうへんでコサックとタタールの予期よきせぬ突撃とつげきい、7せんにん死者ししゃして本陣ほんじんもった。

ズボーリウ条約じょうやく[編集へんしゅう]

ズボーリウ条約じょうやくによるコサックの自治じち領域りょういき

そのような状況じょうきょうなかで、8がつ17にち、フメリニツキーをのぞいてポーランドおうとクリミアのハーンあいだでは秘密ひみつ平和へいわ交渉こうしょうはじまった。国王こくおうは「チンギス・カン子孫しそん朝廷ちょうてい」であるハーンに朝貢ちょうこうすること、ならびに包囲ほうい解除かいじょ代償だいしょうきんとして40まんぎんぜに支払しはらうことを約束やくそくした。クリミア・ハンこく伝統でんとうてきにウクライナを奴隷どれいりの地域ちいきにしていたため、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく弱化じゃっかによるウクライナ・コサックの強化きょうかのぞんでいなかった。そのため、それまで同盟どうめい関係かんけいであったフメリニツキーを裏切うらぎってポーランド・リトアニア共和きょうわこく提議ていぎれて平和へいわ条約じょうやく締結ていけつした。フメリニツキーはタタールの行動こうどうると、やむなく国王こくおう使者ししゃつかわして、和平わへい条約じょうやくむすぶためのコサックの要求ようきゅうつたえた。その要求ようきゅうでは、ポーランド・リトアニア共和きょうわ国内こくないのコサックによる自治じち領域りょういき中央ちゅうおう北東ほくとうウクライナのキエフけん・チェルニーヒウけん・ブーラツラウけんならびにひがしヴォルィーニ地方ちほうひがしポジーリャ地方ちほうまでに拡大かくだいすること、コサックの自治じち領域りょういきでの行政ぎょうせいはウクライナけい貴族きぞくにのみ任命にんめいすること、ざいウクライナのユダヤじんイエズスかい会員かいいん全員ぜんいん追放ついほうすること、国軍こくぐんとしてコサックの4まんにん公認こうにんすること、戦争せんそう参加さんかしたコサックと町人ちょうにん農民のうみん反乱はんらんしゃ大赦たいしゃすることであった。8がつ19にちにコサックの要求ようきゅうもとづいて国王こくおうとフメリニツキーはズボーリウ条約じょうやく締結ていけつ[19]8がつ23にちにズバーラジュじょう包囲ほういかれた。数日すうじつ国王こくおうはワルシャワへ、フメリニツキーはキエフへ帰陣きじんした。タタールはクリミアへもどりながら、ウクライナの町村ちょうそんらして奴隷どれいりをおこなった。

1650ねんから1651ねんまで[編集へんしゅう]

ベレステーチコのたたか[編集へんしゅう]

国王こくおうとフメリニツキーのあいだでズボーリウ条約じょうやくむすばれたにもかかわらず、1650ねん前半ぜんはんはポーランド・リトアニア共和きょうわこく国会こっかい条約じょうやく認可にんかをめぐって穏健おんけん武断ぶだん対立たいりつしていた。同年どうねんなつ、タタールの捕虜ほりょから1648ねんのコールスニのたたかいでけたミコワイ・ポトツキ司令しれいかんもどって影響えいきょうりょく回復かいふくし、武断ぶだん加担かたんして「コサックのあかくなるまで」のあらたな戦争せんそう必要ひつようせい強調きょうちょうするようになった[20]結局けっきょく、1650ねんまつには武断ぶだん勝利しょうりおさめて条約じょうやく認可にんかせず、ポーランド・リトアニア共和きょうわこくもコサックのウクライナもつぎ軍事ぐんじ衝突しょうとつのために軍勢ぐんぜい動員どういんはじめた。前者ぜんしゃ1651ねん4がつまでに4まんにん国軍こくぐんと、8まんにんだいしょう貴族きぞく部隊ぶたいあつめ、後者こうしゃ同年どうねん5がつまでに4まんにんからなるプロのコサックのしょ連隊れんたいと、6まんにん町人ちょうにん農民のうみんからなる志願しがんへい呼集こしゅうした。それに、コサックの援軍えんぐんとしてイスリャム3せいゲライがみずか引率いんそつした3まんにんのタタール騎兵隊きへいたいくわわった。りょうぐん人数にんずうは20まんにんえ、今後こんご合戦かっせんはヨーロッパ戦争せんそう史上しじょう最大さいだい合戦かっせんひとつになると見込みこまれた。

1651ねん6がつ中旬ちゅうじゅん国王こくおうぐんとコサック・タタール同盟どうめいぐん西にしウクライナのヴォルィーニ地方ちほうで、ベレステーチコまちあたりの低地ていち対陣たいじんした。陣地じんちは7km から8kmまでひろがっていて両側りょうがわから湿地しっち森林しんりんかこまれていた。6月28にち合戦かっせん火蓋ひぶたられ、りょうぐん小隊しょうたいによる小競こぜいがおこなわれた。翌日よくじつ、タタールの騎兵きへい周辺しゅうへん高地こうち占領せんりょうした一方いっぽう、コサックの歩兵ほへいよこがわから国王こくおう軍勢ぐんぜいけ、やく7せんにんてきへいった。コサック・タタール同盟どうめいぐん優勢ゆうせいえたが、6月30にち戦況せんきょう一変いっぺんした。国王こくおう歩兵ほへいがヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイの騎兵きへいとともにコサックの歩兵ほへいをコサックの本陣ほんじんまで撤退てったいさせ、国王こくおう砲兵ほうへい高地こうち位置いちするタタールの本陣ほんじん発砲はっぽう開始かいしした。そんななか、タタールの指導しどうしゃイスリャム3せいゲライはあしきずい、カルハウクライナばんクルム・ゲライやトハイ・ベイらすうにんのタタールの重臣じゅうしん砲弾ほうだんに斃れた。砲撃ほうげきによって多数たすう死者ししゃしたタタールは、戦場せんじょうから急速きゅうそく後退こうたいしてコサックの陣地じんち左側ひだりがわはだかにした。フメリニツキーはタタールをめようとイスリャム3せいゲライのところかったが、タタールは戦闘せんとう続行ぞっこうってフメリニツキーをとりこにした[21]

のこされたコサックぐんは、タタールの行動こうどうによって同盟どうめいしゃそう司令しれいかんうしなって窮地きゅうちおちいり、本陣ほんじん湿地しっち諸川もろかわ合流ごうりゅう地帯ちたい移動いどうさせ、それを要塞ようさいして篭城ろうじょうすることをめた。それにたいして国王こくおうぐんはコサックの本陣ほんじんいて、じゅう日間にちかん連続れんぞくでそこへ発砲はっぽうつづけた。7がつ10日とおかよる、フメリニツキーの不在ふざいでコサックはイヴァン・ボフーン臨時りんじ棟梁とうりょう任命にんめいし、湿地しっちとおって本陣ほんじんからひそかに脱出だっしゅつはじめた。2まんにんのコサック騎兵隊きへいたい砲兵ほうへいたい一部いちぶ脱出だっしゅつ成功せいこうしたものの、町人ちょうにん農民のうみん中心ちゅうしんとした志願しがんへいはコサックにてられるとおそれてパニックになり、湿地しっちない脱出だっしゅつよう道路どうろこわされて多数たすう志願しがんへい沈没ちんぼつした。それを察知さっちした国王こくおうぐんは、敵本てきほんじんそう攻撃こうげき開始かいししたが、300にんえらべれたコサックの殿軍でんぐんめられ、数時間すうじかんをかけてそれを全滅ぜんめつさせたにもかかわらず、コサックぐん致命ちめいてき打撃だげきあたえることは出来できなかった。こうして、合戦かっせんはポーランド・リトアニア共和きょうわこくだい勝利しょうりわり、国王こくおうぐんは3まんまいぎんぜに軍事ぐんじきん、20のコサック軍旗ぐんきぐんしるし、フメリニツキーの棟梁とうりょうのしるしであるせん入手にゅうしゅした。

ベレステーチコのたたかい。

ビーラ・ツェールクヴァ条約じょうやく[編集へんしゅう]

  ビーラ・ツェールクヴァ条約じょうやくによるコサックの自治じち領域りょういき

ベレステーチコのたたか国王こくおう首都しゅとかえり、中部ちゅうぶウクライナの鎮圧ちんあつ武断ぶだんミコワイ・ポトツキヤヌシュ・ラジヴィウまかせた。しかし、両人りょうにん軍勢ぐんぜいは、南下なんかすればするほど、食料しょくりょう不足ふそく疫病えきびょう、さらにウクライナの住人じゅうにん抵抗ていこう庶民しょみんからなるゆうげきたいなやまされていた。ベレステーチコのたたかいでおおくの犠牲ぎせいしゃしたウクライナじん官軍かんぐんうらみ、戦争せんそう社会しゃかい階級かいきゅう対立たいりつからはじまったポーランド・リトアニア共和きょうわこく内戦ないせんから次第しだい民族みんぞく対立たいりつ中心ちゅうしんとしたポーランドたいウクライナ戦争せんそう変更へんこうしていった[14]

そんななか7がつ17にちにフメリニツキーは、タタールに解放かいほうされてビーラ・ツェールクヴァまち到着とうちゃくし、8がつ中旬ちゅうじゅんまでまちあたりで堅固けんごとりで築城ちくじょうして2まん5せんにんのコサックと6せんにんのタタールをあつめた。ポーランドぜいは、とりで攻撃こうげき失敗しっぱいしたことと、現地げんちみんによって補給ほきゅうたれたことによって危殆きたいひんし、9がつ10日とおか和平わへい交渉こうしょうをコサックに提案ていあんして9月28にちにビーラ・ツェールクヴァ条約じょうやく締結ていけつした。その条約じょうやくは、まえのズボーリウ条約じょうやく公認こうにんされたコサックの自治じち領域りょういき中部ちゅうぶウクライナのキエフけんまで限定げんていし、コサックぐん縮小しゅくしょうとクリミア・ハンこくとの同盟どうめい撤回てっかいもとめ、フメリニツキーが外交がいこうおこなうことをきんじていた。また、ポーランドけい貴族きぞく・ユダヤじん・イエズスかい会員かいいんがウクライナにもどることがゆるされ、かれらが戦前せんぜんまでゆうしていた土地とち財産ざいさん返却へんきゃく義務ぎむづけられた。

1652ねんから1653ねんまで[編集へんしゅう]

バティーフのたたか[編集へんしゅう]

ビーラ・ツェールクヴァ条約じょうやく締結ていけつによってポーランドがわもコサックがわ必要ひつようとしていたみじか休戦きゅうせんになったが、双方そうほうともその条約じょうやくしたがうつもりはなかった。1652ねんはる召集しょうしゅうされたポーランド・リトアニア共和きょうわこく国会こっかい条約じょうやく認可にんか却下きゃっかしたことを名目めいもくに、フメリニツキーは4がつにコサックの長官ちょうかんたちにあらたな戦争せんそうのために準備じゅんびをするようにと命令めいれいした。その戦争せんそうのきっかけになったのは、コサックによるモルドバ公国こうこくへの出兵しゅっぺいであった。条約じょうやくじょうフメリニツキーは独自どくじ外交がいこうおこなわないとされていたため、他国たこくへの出兵しゅっぺい条約じょうやく違反いはんとみなしたポーランドがわは、コサックぐんめるべくマルチン・カリノフスキがひきいる1まん2せん騎兵きへいと8せんにん歩兵ほへい派遣はけんした。騎兵きへい半分はんぶんは「はねユサール」とばれるポーランドの選良せんりょうじゅう騎兵きへいと、歩兵ほへい半分はんぶんはエリートのドイツ傭兵ようへいたいから編制へんせいされていた。ポーランドぐん南下なんかしてバティーフさんふもととラディージンまち[22]あいだじんったが、てきぐん到来とうらい予期よきしていなかったため、陣地じんち防備ぼうびおこたった。しかし、6月1にち、コサック・タタール同盟どうめいぐん突然とつぜんあらわれ、油断ゆだんしていたポーランドぐん攻撃こうげきして本陣ほんじんまで撤退てったいさせた。翌朝よくあさ、コサックとタタールはなかとりとなったポーランドぐんそう攻撃こうげきけ、カリノフスキをはじめとするおおくの司令しれいかんり、1まんあまりのてきへい殺害さつがいした。そのなかでドイツ傭兵ようへいたいも「はねのユサール」もほぼ全滅ぜんめつした。3せんにんのポーランドの兵士へいしらえられ、ベレステーチコの敗戦はいせん復讐ふくしゅうとして斬首ざんしゅされた。

ジュヴァーネツィのたたか[編集へんしゅう]

ステファン・チャルニェツキ(ひだりたいイヴァン・ボフーン(みぎ)。

バティーフのたたかいで勝利しょうりしたフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく政府せいふにズボーリウ条約じょうやく条々じょうじょうもとづいて和平わへいもうれた。しかし、惨敗ざんぱいきっしたポーランドの政治せいじ軍人ぐんじんは、冷静れいせいになるどころか熱狂ねっきょうしてもうれを感情かんじょうてきことわり、あらたに4まんにん兵士へいし動員どういんした。1653ねん3がつステファン・チャルニェツキひきいるポーランドぐん先陣せんじんは「生殖せいしょくできぬほどウクライナじん一人ひとりのこすな」という標語ひょうごのもと[14]コサック支配しはいのブーラツラウけん乱入らんにゅうし、7がつ上旬じょうじゅんにポーランド国王こくおう指揮しきする軍勢ぐんぜい西にしウクライナのリヴィウまち周辺しゅうへん集結しゅうけつした。それにたいしてフメリニツキーは、イヴァン・ボフーンの連隊れんたい派遣はけんしててきぐん先陣せんじん撃破げきはし、クリミアのイスリャム3せいゲライとむすんでやく4まんにん兵力へいりょく呼集こしゅうした。

10がつ上旬じょうじゅん、4まんからなる国王こくおうぐんドニステルがわ中流ちゅうりゅう位置いちするジュヴァーネツィまち[23]近郊きんこう陣取じんどった。国王こくおうは、モルドバ公国こうこくワラキア公国こうこくトランシルヴァニア公国こうこくからの援軍えんぐんっていたが、コサック・タタール同盟どうめいぐんはその援軍えんぐん途中とちゅうらし、10がつまつ国王こくおうぐん本陣ほんじん包囲ほういした。そのおり寒気さむけはじまったため、りょうぐんさむさと食料しょくりょう不足ふそく苦悩くのうし、決戦けっせんいどちからがなかった。そこで、12月5にちにクリミアのハンは、1649ねん同様どうようにズボーリウ条約じょうやく復帰ふっき国王こくおうもとめ、国王こくおうはそれをれた。しかし、今回こんかい平和へいわ条約じょうやくは、両国りょうこく君主くんしゅたがいに面会めんかいしなかったことと、代理人だいりにんとおして成文せいぶんではなく口頭こうとう協定きょうていわしたことがために、たんなる休戦きゅうせんよう虚実きょじつ宣言せんげんにすぎなかった。それにもかかわらず、参戦さんせんしゃみな納得なっとくしていた。なぜなら、ポーランドがわ国際こくさい法律ほうりつじょうでズボーリウ条約じょうやく復帰ふっきはなかったものと判断はんだんし、タタールがわはコサックとポーランドの勢力せいりょくてきバランスを管理かんりして後者こうしゃ朝貢ちょうこうこくにし、コサックがわ経済けいざいりょくぐんりょく回復かいふく同盟どうめいしゃ変更へんこう[24]のための時間じかんたからであった。

1654ねん[編集へんしゅう]

ペレヤースラウ条約じょうやく[編集へんしゅう]

たいオスマン帝国ていこく外交がいこうさく[編集へんしゅう]

フメリニツキーのらんはじまった1648ねん以来いらい、ウクライナ・コサックはポーランド・リトアニア共和きょうわこく対等たいとうたたかうために隣国りんごくなかからたよれる同盟どうめいしゃもとめていた。最初さいしょ段階だんかいでフメリニツキーは、生活せいかつ様式ようしきでコサックにもっともちか存在そんざいであったクリミア・ハンこくのタタールと同盟どうめいむす[25]、1648ねんから1653ねんにかけてもろせんにおいて勝利しょうりしたが、タタールはみずからの国益こくえき追求ついきゅうしてポーランドをよわめながら、コサックのウクライナが強固きょうこにならないことにつとめた。クリミアのタタールは、1649ねんのズボーリウと1651ねんのベレステーチコの決戦けっせんじょうでコサックを裏切うらぎったことがあり、さらにコサックの領内りょうない奴隷どれいりをおこなってコサックの経済けいざい支持しじそう損壊そんかいしつつあった。そのためフメリニツキーはべつ同盟どうめいしゃさがもとめ、1648ねんまつからオスマン帝国ていこくけた。1650ねんなつにコサックとオスマン帝国ていこくたがいに公式こうしき使節しせつだん派遣はけんし、コサックのウクライナは当時とうじオスマン帝国ていこく支配しはいしていたクリミア・モルドバ・ワラキア・トランシルヴァニアの隣国りんごく同様どうようかたちでオスマン帝国ていこく保護ほごこくになることが思案しあんされた。それにフメリニツキーは、オスマン帝国ていこく接近せっきんするために、1652ねんはるにモルドバ公国こうこくヴァシーレ・ルプ主君しゅくん息女そくじょルクサンドラ自分じぶん息子むすこティモフィーイ結婚けっこんさせ、コサックの棟梁とうりょうをオスマン帝国ていこく支配しはいにいたしょ君主くんしゅ範囲はんいれようとした[26]。1651ねんはじめにオスマン帝国ていこくメフメト4せい[27]は、フメリニツキーてにウクライナを保護ほごこくにする約束やくそくじょうおくり、さらに、1653ねん5がつ下旬げじゅんにフメリニツキーのために保護ほごこく統治とうちしゃしめぎあきらつかわしたが、ウクライナの正教会せいきょうかい聖職せいしょくしゃがオスマンの保護ほごけることにつよ反対はんたいし、そのうえ、フメリニツキーの子息しそくがモルドバの内戦ないせんはんオスマンの勢力せいりょく支持しじして無断むだんでオスマン帝国ていこく保護ほごこくのワラキアにはいった[28]ため、フメリニツキーによるオスマンとの外交がいこう政策せいさく失敗しっぱいわり、ウクライナがオスマン帝国ていこく保護ほごかれることはなかった。

たいロシア・ツァーリこく外交がいこうさく[編集へんしゅう]

オスマン帝国ていこくとの外交がいこう並行へいこうしてフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく宿敵しゅくてき東北とうほくロシア・ツァーリこくとやりりをおこなっていた。1648ねん5がつにコサック・タタール同盟どうめいぐんがジョーウチ・ヴォーディのたたかいで勝利しょうりしたことによってウクライナで庶民しょみんによる反乱はんらん勃発ぼっぱつしたので、ロシアがわはタタールと反乱はんらんしゃ来襲らいしゅう警戒けいかいしてぐん動員どういんしはじめた。そのぐんはコサック・タタール同盟どうめいぐん背後はいご可能かのうせいがあったため、フメリニツキーは6がつ18にちにツァーリ・アレクセイあて書状しょじょうし、同盟どうめいぐんがロシア・ツァーリこく侵入しんにゅうしないことを約束やくそくしてポーランドとたたかうための援軍えんぐんたのんだ。書状しょじょうけたツァーリはぐん動員どういん中止ちゅうししたものの、スモレンスク戦争せんそうでポーランドのためにうしなった西方せいほう領土りょうどもど十分じゅうぶんちからがなかったのでコサックへの援軍えんぐんさなかった。1649ねん1がつ以降いこう、コサックがわ頻繁ひんぱんにロシア・ツァーリこく援軍えんぐん依頼いらいしたが、ロシアがわはその依頼いらいをつねに却下きゃっかした。それがために、1649ねん4がつよりモスクワへのフメリニツキーの書状しょじょうでは、ロシア・ツァーリこく参戦さんせんうながすため、コサックぐん軍事ぐんじてき支援しえん請願せいがん次第しだいにコサックの自治じち領域りょういきツァーリ保護ほごくようもとめるという政治せいじてき支援しえん請願せいがん転化てんかしていった[29]。1650ねんまつ以降いこう、ロシアがわ自力じりきではポーランドからの領土りょうど復帰ふっきられないとかんがえるようになり、1651ねん2がつにモスクワの全国ぜんこく議会ぎかいはポーランドとの平和へいわ条約じょうやく遮断しゃだん議決ぎけつし、1652ねん3がつよりコサックとの同盟どうめいむす方向ほうこうへゆっくりとうごはじめた。1653ねん6月30にちに、オスマン帝国ていこくがコサックの国家こっか自分じぶん保護ほごこくにすることを承諾しょうだくしたとの通知つうちがモスクワにとどくと、ツァーリは、ウクライナがはんロシア勢力せいりょくになることをおそれて、大急おおいそぎで7がつ2にちにフメリニツキーあて書状しょじょうし、ウクライナをロシア・ツァーリこく保護ほごこくとしてれることを約束やくそくした。さらに、ツァーリの書状しょじょう確証かくしょうするかのように、1653ねん10月11にちにロシア・ツァーリこく全国ぜんこく議会ぎかいおな内容ないよう宣告せんこくしょ可決かけつした[30]。その、10月13にちヴァシーリイ・ブトゥルリーン大使たいしつとめるロシア・ツァーリこく使節しせつ編成へんせいされてウクライナへ派遣はけんされ、11月上旬じょうじゅんにウクライナのプティーウリという国境こっきょうまち到着とうちゃくした。使節しせつはそこで1654ねんはじめまで滞在たいざいし、ツァーリの保護ほごについて会議かいぎおこなうコサックの長官ちょうかんペレヤースラウまち集会しゅうかいっていた[31]1がつ9にち使節しせつはやっとペレヤースラウに招待しょうたいされ、1がつ16にち帰着きちゃくしたばかりのフメリニツキーと会見かいけんした。

ペレヤースラウ条約じょうやく締結ていけつ[編集へんしゅう]

1654ねん1がつ18にち日曜日にちようびあさ、フメリニツキーは、12にんのコサック連隊れんたいちょう中心ちゅうしんとした代表だいひょうだんとロシア・ツァーリこく保護ほごについての非公開ひこうかい会議かいぎおこない、保護ほご条約じょうやく締結ていけつかんして全員ぜんいん合意ごういた。午後ごご2より、200にんのコサック長官ちょうかんたいらがコサックぐん総合そうごう会議かいぎ呼集こしゅうされ、ペレヤースラウ条約じょうやくむす儀式ぎしきはじまった。フメリニツキーは、あつまったコサックにかってツァーリの保護ほごけることに賛成さんせいかをたずね、コサック全員ぜんいん賛成さんせいであると承認しょうにんした。会議かいぎまれ調和ちょうわ雰囲気ふんいきおこなわれたが、ペレヤースラウだい聖堂せいどうでツァーリへの誓約せいやくをめぐって問題もんだいしょうじた。ロシア・ツァーリこくから派遣はけんされた聖職せいしょくしゃはコサックがアレクセイ・ツァーリに忠節ちゅうせつちかうように請求せいきゅうすると、フメリニツキーはおどろき、さきにロシア・ツァーリこく使者ししゃがロシア・ツァーリこくわって「コサックの棟梁とうりょうとザポロージャのコサックぐん全員ぜんいんをポーランドがわさないことと、コサックの自治じちけんなどをおかさないこと」[14]約束やくそくするようにもとめた。それにたいしてブトゥルリーン大使たいしは、ロシア・ツァーリこくにおいて君主くんしゅ部下ぶか誓約せいやくてないと反発はんぱつし、コサックがわはロシア・ツァーリこく援助えんじょ必要ひつようしているので、うたがいなくツァーリを信用しんようしてちかうべきだと主張しゅちょうした[32]。フメリニツキーとコサックの長官ちょうかんきゅうだい聖堂せいどうて、なが会議かいぎおこなったが、たくみにことすすめる良策りょうさくがなかったので、だい聖堂せいどうもどって一方いっぽうてきにツァーリへの忠節ちゅうせつと、「まち々と領土りょうどともに、ツァーリの手下てした永久えいきゅうにあるよう」と誓約せいやくてた[33]

ペレヤースラウでの保護ほご儀式ぎしきのち、ロシア・ツァーリこく使者ししゃはコサックの17の連隊れんたいとウクライナのまち々へ出発しゅっぱつし、1654ねん1がつから2がつにかけて12まん7せんにんをツァーリへの忠節ちゅうせつ誓約せいやくさせた[34]誓約せいやくてるのを否定ひていしたのは、ウクライナ正教会せいきょうかい最高さいこう聖職せいしょくしゃ、ペレヤースラウ・キエフ・チョルノーブィリ町人ちょうにん一部いちぶウーマニ連隊れんたい、ブラーツラウ連隊れんたいポルタヴァ連隊れんたいクロプィーウニャ連隊れんたいであった。さらに、ザポロージャのシーチもながあいだ誓約せいやくけていた。しかし、全体ぜんたいとしてウクライナの住民じゅうみんは、ペレヤースラウ条約じょうやく締結ていけつ戦争せんそう拡大かくだいするための用法ようほうであることをわすれて、ロシア・ツァーリこく保護ほごこくになることによって平和へいわ時代じだいると期待きたいされ、こぞって誓約せいやくてた。

コサックの国家こっか[編集へんしゅう]

コサックのウクライナを背景はいけいにしたボフダン・フメリニツキーの肖像しょうぞう(18世紀せいき初頭しょとう)。みぎじょうすみにコサック国家こっかくにあきらたる「ザポロージャのじゅう」と、フメリニツキーの足元あしもとにコサック国家こっか簡単かんたん地図ちずえがかれている。コサックのしょ連隊れんたいいくつかのせん表現ひょうげんされている。

ペレヤースラウ条約じょうやくは、1648ねんから1653ねんにかけて創立そうりつしたコサック国家こっか存在そんざい法律ほうりつじょう承認しょうにんした。この国家こっかは、戦時せんじちゅう誕生たんじょうしたこと、軍人ぐんじんであるコサックによって統治とうちされたこと、また「ザポロージャのコサックぐん」という正式せいしき国号こくごうゆうしていたことから、軍事ぐんじ国家こっかであったとかんがえられている[14]国家こっか元首げんしゅは、コサックによって終身しゅうしん選任せんにんされて国内こくない最高さいこう立法りっぽうけん行政ぎょうせいけん裁判さいばんけんゆうするヘーチマンであった。そのため、「ザポロージャのコサックぐん」はヘーチマン国家こっかとも呼称こしょうされていた。その領土りょうどは、ドニプローがわじくにして現在げんざい中部ちゅうぶウクライナからみなみベラルーシまで拡大かくだいしていた。面積めんせきはおよそ20まんkm²の面積めんせきで、人口じんこうやく300まんにんであったという[14]。1660年代ねんだいまでの国家こっか首都しゅとはフメリニツキーの故郷こきょうチヒルィーンしろかれていた。

社会しゃかいは、コサック・貴族きぞく聖職せいしょくしゃ町人ちょうにん農民のうみんという階級かいきゅうかれており、国権こっけんはコサックのみによって発動はつどうされていた。コサック以外いがい階級かいきゅう国政こくせい運営うんえいからはなされていたが、貴族きぞく聖職せいしょくしゃ身分みぶんけん領地りょうち自治じちけん保障ほしょうされており、町人ちょうにんドイツほうもとづく自治じちけんゆうしていた。またおお農民のうみんは、フメリニツキーのらんによって農奴のうどから開放かいほうされ、自由じゆう所有しょゆうしゃとなり、税金ぜいきん引換ひきかえに土地とち所有しょゆうすることがゆるされた。フメリニツキー統治とうちのコサック国家こっかでは階級かいきゅう境界きょうかい柔軟じゅうなんで、貴族きぞく町人ちょうにんがコサックになることもすくなくなかった[35]

フメリニツキー統治とうちのコサック国家こっか行政ぎょうせい区分くぶんはコサックぐん組織そしき真似まねし、国家こっか連隊れんたいひゃくにんたいじゅうにんたいという、コサックを迅速じんそく動員どういんできる行政ぎょうせい単位たんいかれていた。軍事ぐんじ行政ぎょうせい区分くぶんかたわらに市町村しちょうそんという民間みんかん区分くぶん存在そんざいした。じゅうにんたい特定とくていまちむらかれ、コサックによって選任せんにんされたじゅうにん隊長たいちょう運営うんえいされていた。現地げんち民間みんかん行政ぎょうせいじゅうにんたい維持いじまちむらながまかされていた。いくつかのじゅうにんたいひゃくにんたい構成こうせいし、ひゃくにんたいはコサックの連隊れんたいちょうから任命にんめいされたひゃくにん隊長たいちょうつかさどった。ひゃくにんたい行政ぎょうせい所在地しょざいちおおきなまちないしかれ、軍事ぐんじ行政ぎょうせいひゃくにん隊長たいちょうほかひゃくにんたい弾正だんじょうかん書記官しょきかん旗手きしゅかんまかされていた。民間みんかん行政ぎょうせい市町しちょう役所やくしょ連携れんけいしてまちのコサック長官ちょうかん担当たんとうした。11ないし22のひゃくにんたい連隊れんたい構成こうせいし、特定とくていかれる連隊れんたい行政ぎょうせい所在地しょざいちぞくしていた。連隊れんたいはヘーチマンが任命にんめいする連隊れんたいちょう連隊れんたい長官ちょうかんばれる連隊れんたい弾正だんじょうかん郵送ゆうそうかん裁判官さいばんかん書記官しょきかん旗手きしゅかんによって運営うんえいされた。連隊れんたいちょうは、おおきな裁判さいばんけん財政ざいせいけんゆうし、連隊れんたい区域くいきでヘーチマンの名代なだい機能きのうたしていた。ひゃくにんたい同様どうように、連隊れんたいかれる民間みんかん行政ぎょうせいは、まちのコサック長官ちょうかん自治じち政権せいけんつかさどった。全体ぜんたいとして国内こくない連隊れんたいかずつねに16をえていた[36]連隊れんたいせいとはべつに、コサック国家こっかない自治じちせいたもつウクライナ・コサックの根拠地こんきょちザポロージャのシーチ存在そんざいし、それはヘーチマンの直轄ちょっかつとされ、ヘーチマンに任命にんめいされた連隊れんたいちょうちがって、シーチのコサックがえらコサックだい長官ちょうかんによっておさめられた。

従来じゅうらいのコサックのならわしによれば、国政こくせいはヘーチマンとコサック全員ぜんいんとのだい議会ぎかいおこなうはずであったが、フメリニツキー時代じだいのコサック国家こっかだい議会ぎかいはほとんど開催かいさいされることなく、国政こくせいかんするすべての判断はんだんはヘーチマンの独断どくだんぐん長老ちょうろうしゅばれるコサックの最高さいこう長官ちょうかんとの相談そうだんによってめられていた。ぐん長老ちょうろうしゅには、外交がいこうつかさどぐん書記官しょきかん物資ぶっし輸送ゆそう砲兵ほうへい担当たんとうするぐん輸送ゆそうかん最高裁さいこうさいばんつかさどぐん裁判官さいばんかんと、副官ふっかんてき業務ぎょうむおこなわせるぐん弾正だんじょうかん旗手きしゅかん馬印うまじるししゅかんはいっていた。くに財政ざいせいにぎったのはヘーチマンのみであり、国家こっか予算よさん内容ないよう戦利せんりひん徴税ちょうぜいからなっていた[37]

1655ねんから1657ねんまで[編集へんしゅう]

ロシア・ツァーリこくとスウェーデン王国おうこく参戦さんせん[編集へんしゅう]

スウェーデンの国王こくおう、カール10せい

1654ねんはる、コサックのウクライナを保護ほごこくにしロシア・ツァーリこくがウクライナ・ポーランド戦争せんそう介入かいにゅうし、ロシア・ポーランド戦争せんそうはじまった。4まんにんのロシア・ツァーリ国軍こくぐんは、任命にんめいヘーチマン、イヴァン・ゾロタレンコひきいる1まん8せんにんのコサックぐん連携れんけいして、ロシア・ツァーリこくとポーランド・リトアニア共和きょうわこく国境こっきょうにあったリトアニアのベラルーシ地方ちほうり、ポロツクヴィテブスクスモレンスク占領せんりょうした。また、1654ねん7がつまでにコサックぐん自力じりきみなみベラルーシを征服せいふくし、コサック国家こっか連隊れんたい行政ぎょうせいせい当地とうち設置せっちした。ロシアがわはベラルーシ地方ちほうへの進攻しんこう同時どうじにポーランドのヴォルィーニ地方ちほうへの出兵しゅっぺい準備じゅんびしていたが、フメリニツキーが南方みなかたウクライナをらしたポーランドぐん戦闘せんとうちゅうだったので、その出兵しゅっぺい停止ていしされた。そんななか、コサックとロシア・ツァーリこくりょうぐんうごきにたいしてクリミア・ハンこくはコサックとの同盟どうめい廃棄はいきし、1654ねん6がつにポーランドがわと「永遠えいえん同盟どうめい」をむすんだ。10月に両国りょうこくの6まんにんのポーランド・クリミア同盟どうめいぐんは、ブラーツラウ地方ちほう侵入しんにゅうし、とう地方ちほう占領せんりょうした[38]

1655ねん1がつ中旬ちゅうじゅんヴァシーリイ・シェレメーチェフひきいるロシア・ツァーリこくの2まんにん援軍えんぐんにフメリニツキーのもとへおくれて到着とうちゃくし、1がつ下旬げじゅんに6まんにんのコサックぐんとともにオフマーチウむら[39]たりでポーランド・クリミア同盟どうめいぐん対陣たいじんした。1がつ29にちから31にちにかけて決戦けっせんおこなわれ、両側りょうがわ戦闘せんとう厳寒げんかんによって3まんにん死者ししゃしたが、勝負しょうぶはつかなかった。しかし、ポーランド・クリミア同盟どうめいぐん進攻しんこう阻止そしされ、両側りょうがわあいだ同年どうねんあきまでだい規模きぼ戦闘せんとうはなかった。

1655ねんなつ、ロシア・ツァーリこくがポーランド・リトアニア共和きょうわこくはいったことをきっかけに、かねてよりバルト海ばるとかいめんするプロイセンリヴォニアをめぐってポーランド・リトアニア共和きょうわこく対立たいりつしていたスウェーデン王国おうこくは、対立たいりつ相手あいて宣戦せんせんした。スウェーデンおう国王こくおうカール10せいは、ポーランドのてきであったブランデンブルクフリードリヒ・ヴィルヘルム、トランシルヴァニアのラーコーツィ・ジェルジ2せい、ならびにウクライナのフメリニツキーと共同きょうどう作戦さくせん約束やくそくわし、同年どうねん7がつにポーランドへ乱入らんにゅうした。ポーランド・スウェーデン戦争せんそうはじまってから半年はんとしで、ポズナンクラクフをはじめとするおおきな都市としはスウェーデンぐん占領せんりょうされ、おおくのポーランド軍人ぐんじん降伏ごうぶくした。

スウェーデンがわ連携れんけいりながら、フメリニツキーのコサックぐんかれ従属じゅうぞくしていたロシア援軍えんぐんガリツィア地方ちほう進攻しんこうし、9がつ下旬げじゅんホロドークまち[40]周辺しゅうへんポーランドぐんらして9月29にちにリヴィウ包囲ほういした。しかしフメリニツキーは、クリミア・タタールぐんみなみウクライナに侵入しんにゅうしたの注進ちゅうしんけると、リヴィウ市民しみんから代償だいしょうきんをもらって包囲ほうい解除かいじょし、南方なんぽうかった。そこでコサックぐんしょせんにおいてタタールぜいやぶったため、フメリニツキーとクリミアのイスリャム3せいたがいに誓願せいがんててコサック・タタール同盟どうめい復活ふっかつさせた。

フメリニツキーの[編集へんしゅう]

「ボフダン・フメリニツキーの」。タラス・シェフチェンコ

たいポーランド・リトアニア共和きょうわこく戦争せんそう成功せいこうすればするほど、同盟どうめいしゃであったコサック国家こっか、スウェーデン王国おうこくとロシア・ツァーリこくとのあいだに対立たいりつこりはじめた。フメリニツキーはウクライナじん居住きょじゅうするぜん地域ちいきをコサック国家こっか支配しはいこうとしたが、スウェーデンがわ西にしウクライナのガリツィア地方ちほう自国じこくりょうにするつもりであったため、コサックの要求ようきゅう却下きゃっかした。また、みなみベラルーシには実際じっさいにコサックの連隊れんたい行政ぎょうせいせい設置せっちされていたにもかかわらず、ロシアがわとう地方ちほうがロシア・ツァーリこくのものであると主張しゅちょうした。

同盟どうめいしゃとの対立たいりつはげしくなっていくなか、ロシア・ツァーリこくはスウェーデンの強化きょうか警戒けいかいして1656ねん5がつにスウェーデンへ戦争せんそう宣告せんこくした。そして、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく和平わへい提案ていあんし、8がつ22にちヴィリニュス和平わへい交渉こうしょう開始かいしした。その交渉こうしょうにはロシアがわとポーランド・リトアニアがわ使節しせつだん参加さんかしたが、派遣はけんされたコサックの使節しせつだん参加さんかはロシアがわ要望ようぼうによって拒絶きょぜつされた。それをったフメリニツキーはロシア・ツァーリこく保護ほごからはなれる決意けついをし、11月に一方いっぽうてきにトランシルヴァニア、ワラキア、モルドバ、オーストリア、クリミア、ポーランド、オスマン帝国ていこく外交がいこう関係かんけい復活ふっかつさせ、スウェーデンぐんアンチーン・ジュダノーヴィチひきいる2まんにんのコサックぐん援軍えんぐんとしてつかわした[14]

しかし、ロシア・ツァーリこくとの国交こっこうつには時勢じせい不利ふりであった。フメリニツキーはおもやまいにかかり、1657ねんはじめにかれ跡継あとつぎに決定けっていされた子息しそくユーリイは16さいばかりの未熟みじゅく青年せいねんであった。コサック内部ないぶにはしんロシアしんポーランドおやオスマンなどの派閥はばつができ、ウクライナ国内こくない十分じゅうぶん統一とういつされていなかった。こうして、ウクライナが敵意てきいいだ勢力せいりょくかこまれていくなか同年どうねん8がつ6にちにフメリニツキーがのう梗塞こうそくたおれて死去しきょした[14]かれ権威けんいによっておさえられていたコサック長老ちょうろうたちの不和ふわ顕在けんざいし、隣国りんごくあやつれておたがいにせんをしはじめた。フメリニツキーのらんわり、そのらんなかきずかれたコサック国家こっかは「荒廃こうはい」とよばれる衰退すいたいはいった。

結果けっか[編集へんしゅう]

フメリニツキーの「菩提寺ぼだいじ」。スボーチウのせいイッリャ教会きょうかい

フメリニツキーのらん東欧とうおうおおきな転換期てんかんきであった。17世紀せいき前半ぜんはんのヨーロッパの列強れっきょういちこくだったポーランド・リトアニア共和きょうわこく衰退すいたいしはじめ、「ザポロージャ・コサックぐん」というウクライナじん近世きんせい国家こっか誕生たんじょうした。その国家こっかがロシア・ツァーリこく保護ほごはいったことにより、ロシア・ツァーリこく東欧とうおうでの支配しはい範囲はんい拡大かくだい成功せいこうしてロシア帝国ていこく変身へんしんするためのおおきないちした。フメリニツキーの死後しご、ロシア・ツァーリこくは、ウクライナ国内こくないはんロシア勢力せいりょく壊滅かいめつさせ、17世紀せいき後半こうはんから18世紀せいきにかけてウクライナをあしかかに、スウェーデン王国おうこくバルト帝国ていこく)とオスマン帝国ていこくやぶってクリミア・ハンこくとポーランド・リトアニア共和きょうわこくほろぼした。

16世紀せいきから17世紀せいき前半ぜんはんのポーランド・リトアニア共和きょうわこくではコサックの反乱はんらんがしばしばこっていたが、フメリニツキーのらんほどのものはなかった。1648ねんのコサックの騒乱そうらんはじめてウクライナの民衆みんしゅう幅広はばひろ支持しじ、ポーランド・リトアニア共和きょうわこくは1ねんらずのうちに国土こくどの3ぶんの1をうしなった。そして、ウクライナに存在そんざいした中世ちゅうせい時代じだい社会しゃかい秩序ちつじょくずち、近世きんせいてき社会しゃかい構造こうぞう交替こうたいした。命拾いのちびろいをした貴族きぞくやく5わりから8わりのウクライナの町人ちょうにんはコサックとなり、農奴のうどであったウクライナの農民のうみん自由じゆう生産せいさんしゃ土地とち所有しょゆうしゃとなった[14]社会しゃかい軍事ぐんじてき体制たいせいにシフトし、遊楽ゆうらくらしをしている裕福ゆうふく貴族きぞくわりに自由じゆうるコサックの戦士せんしという国民こくみんてき理想りそう人物じんぶつぞうつくげられた。ウクライナじんは、キエフ大公たいこうこくほろんでからすうひゃくねんぶりにみずからのくにつことができた。

しかし、政治せいじてき社会しゃかいてき変化へんか同時どうじに、フメリニツキーのらんはウクライナとそのまわりの諸国しょこくんでいた人々ひとびとおおきな被害ひがいをもたらした。コサックとウクライナの庶民しょみんは、反乱はんらんかれらを弾圧だんあつしてきた支配しはいしゃ階級かいきゅう異教徒いきょうと異国いこくじんへの報復ほうふくせんであるとしんじ、ポーランドじんとウクライナじん貴族きぞくカトリック聖職せいしょくしゃユダヤじん収税しゅうぜい官吏かんりなどを無慈悲むじひ殺害さつがいしていったが[41]反乱はんらんぐんくわわらない、あるいは反乱はんらん支援しえんしないもの身分みぶん宗教しゅうきょう民族みんぞくわずに惨殺ざんさつした。また、一時期いちじきコサックの同盟どうめいしゃであったタタールはウクライナの町村ちょうそんでほしいままに奴隷どれいりをおこなった[42]。その結果けっか、ウクライナの人口じんこういちじるしく減少げんしょうし、農産のうさんぎょう衰退すいたいして飢饉ききん疫病えきびょう蔓延まんえんした。おおくのウクライナの難民なんみんはモルドバやロシア・ツァーリ国領こくりょうない逃亡とうぼうし、そこであらたな集落しゅうらく建立こんりゅうした[43]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ウクライナ: Національно-визвольна війна українського народу『ウクライナ事典じてん』、1993ねん
  2. ^ ウクライナ: Козацько-польска війнаコサック・ポーランド戦争せんそう(ウクライナ百科辞典ひゃっかじてん)
  3. ^ ウクライナ: Козацька РеволюціяN.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  4. ^ 知行ちぎょう位置いちは、キエフけん・チヒルィーンまち・スボーチウむらであった。現在げんざいのウクライナ・チェルカースィしゅうチヒルィーン地区ちくスボーチウむらたる。
  5. ^ フメリニツキーは、ウクライナとポーランドのみならず、トルコオスマン)、クリミア・タタールフランス語ふらんすごはなせたといわれる。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  6. ^ a b “Глава III. "Ад кромешной злобы"”, [[#Yakovenko1894 |Яковенко, В. И. (1894)]].
  7. ^ 現在げんざいのウクライナ・ドニプロペトロウシクしゅうジョーウチ・ヴォーディたる。
  8. ^ 英語えいごえい: Zhovti Vody場合ばあいかわ名前なまえではなく地名ちめいほうすというように使つかけている。
  9. ^ 当時とうじ、ポーランド・リトアニア共和きょうわこく国権こっけんにぎっていたのは宰相さいしょうイェジ・オッソリンスキであったが、かれはウクライナけい貴族きぞくアダム・クィシーリというキエフ県知事けんちじにコサックとの交渉こうしょうまかせた。コサックは政府せいふたいしてウクライナにおけるコサックの内政ないせい自治じちけん貴族きぞく同様どうよう軍人ぐんじんけん市民しみんけん国軍こくぐんでのコサックの人数にんずう増加ぞうかなどを要求ようきゅうしていた。
  10. ^ 現在げんざいのウクライナ・フメリニツキーしゅう・プィリャーヴァむらたる。
  11. ^ 当時とうじ官軍かんぐん司令しれいかんは、ヴワディスワフ・ドミニク・ザスワフスキミコワイ・オストロルクアレクサンデル・コニェツポルスキであった。いずれも戦争せんそう経験けいけんあさかった。のちさんにんは「あまえんぼうまなびんぼうようぼう」とばれた。
  12. ^ プィリャーウツィのたたかいは、ポーランド史上しじょうではもっとおおきな戦敗せんぱいひとつとされる。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  13. ^ こうした要求ようきゅうは、16世紀せいき前半ぜんはんられるコサック・貴族きぞく同権どうけんろん中心ちゅうしんとしたコサックの伝統でんとうてき思想しそうもとづいていたもので、フメリニツキーのらん初期しょき段階だんかいは、民族みんぞく紛争ふんそうより社会しゃかい問題もんだい背景はいけいにした内乱ないらんであったことを示唆しさしている。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  14. ^ a b c d e f g h i N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  15. ^ 当時とうじのポーランド・リトアニア共和きょうわこくのキエフけんチェルニーヒウけんブラーツラウけんポジーリャけんルーシけん、ヴォルィーニけんである。現在げんざい西にし中央ちゅうおう北東ほくとうウクライナにたる地域ちいき。なお、当時とうじのウクライナじんはルーシじんばれていた。
  16. ^ そのうち、3まんから4まんにんはプロのコサックで、その市民しみん農民のうみんから構成こうせいされる志願しがんへいであった。
  17. ^ 現在げんざいのウクライナ・テルノーピリしゅうズバーラジュにあるしろ
  18. ^ 現在げんざいのウクライナ・テルノーピリしゅうズボーリウたる。
  19. ^ ズボーリウ条約じょうやく原文げんぶん(ウクライナ
  20. ^ ポトツキは、フメリニツキーのらん以前いぜんにもコサックの廃止はいし主張しゅちょうしていた人物じんぶつであった。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  21. ^ タタールの撤退てったい理由りゆう不明ふめいである。タタールがポーランドの発砲はっぽうおそれたとも、たたかいが戦争せんそうむべきイスラムの犠牲ぎせいさい時期じきおこなわれていたことに起因きいんするとも、イスリャム3せいゲライとポーランド国王こくおうとのあいだに秘密ひみつ条約じょうやくがあったともいわれる。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  22. ^ 現在げんざいのウクライナ・ヴィーンヌィツャしゅうラディージンたる。
  23. ^ 現在げんざいのウクライナ、フメリニツキーしゅう、ジュヴァーネツィむらたる。
  24. ^ ジュヴァーネツィのたたか最中さいちゅう、フメリニツキーの本陣ほんじんに、10月11にちけでロシア・ツァーリこく全国ぜんこく会議かいぎはウクライナ・コサックとその領土りょうど保護ほごすることで合意ごういしたというらせがとどいた。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  25. ^ ウクライナ・コサックとクリミア・タタールの同盟どうめい平等びょうどう立場たちば締結ていけつされたらしい。当時とうじ外交がいこう史料しりょうではフメリニツキーとクリミアのイスリャム3せいはおたがいを「友人ゆうじん」とんでいた。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  26. ^ 1650ねん、フメリニツキーはタタールの援軍えんぐんりてモルドバのヤシ陥落かんらくさせて、ヴァシーレ・ルプにウクライナとモルドバをむす結婚けっこん請求せいきゅうした。1652ねん、ティモフィーイ・フメリニツキーがひきいる6せんにんのコサックぐんはモルドバに出兵しゅっぺいし、ヤシで結婚式けっこんしきをあげてウクライナにもどった。
  27. ^ メフメト4せいははは、クリミア・タタールよってらえられ、クリミアの奴隷どれい市場いちばられたウクライナじん(ルーシじん)の女性じょせいであった。トルコふうにすると名前なまえはトゥルハン。フメリニツキーとの外交がいこうにおいてオスマン帝国ていこく政府せいふしんポーランドおやコサック分裂ぶんれつしていたが、トゥルハンは後者こうしゃ支持しじしていたらしい。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  28. ^ 1653ねんはるにモルドバ公国こうこくではクーデターこり、宰相さいしょうゲオルゲ・ステファンがヴァシーレ・ルプ君主くんしゅうばった。前者ぜんしゃはオスマン帝国ていこくほかにワラキアのマテイ・バサラブとトランシルヴァニアのラーコーツィ・ジェルジ2せいささえられたが、後者こうしゃはウクライナ・コサックにたよった。同年どうねん、ヴァシーレ・ルプの婿むこ、ティモフィーイ・フメリニツキーは、モルドバの首都しゅとスチャヴァ占領せんりょうしてしゅうと政権せいけんもどしたが、ちち命令めいれいとコサックの長官ちょうかんの諫言を無視むししてワラキアにり、だい完敗かんぱいきっしてスチャヴァまで撤退てったいした。1653ねん9月15にち、ゲオルゲ・ステファンがワラキアとトランシルヴァニアの援軍えんぐんとともにスチャヴァを包囲ほういしているなかに、ティモフィーイ・フメリニツキーは砲弾ほうだんに斃れた。9月19にちにコサックはゲオルゲ・ステファンと平和へいわ条約じょうやくむすび、10月30にちにティモフィーイ・フメリニツキーの遺体いたいとともにウクライナに帰陣きじんした。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  29. ^ このような請願せいがんは、オスマン帝国ていこく保護ほごたいするだいりうるみちであった。オスマン帝国ていこくからの保護ほごさくがコサックの長官ちょうかんによってすすめられたのにたいして、ロシア・ツァーリこくからの保護ほごさくは、ロシア・ツァーリこくもコサックのウクライナも正教会せいきょうかいぞくする地域ちいきであるという共通きょうつう意識いしきもとづいて正教会せいきょうかい聖職せいしょくしゃによって推進すいしんされた。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  30. ^ 宣告せんこくしょには「ザポロージャのコサックぐんと、そのまち々と領土りょうどともに、ツァーリの手下てしたれることを承諾しょうだくつかまつる…そのぐん領土りょうどが、トルコのスルタン、あるいはクリミアのハーンの保護ほごけないようにするためである。」といてある。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  31. ^ ロシアがわは、ルーシ古代こだい、ウクライナのキエフ盛大せいだい会議かいぎとコサック国家こっか保護ほご儀式ぎしきおこないたかったが、フメリニツキーはそれをって普通ふつう地方ちほう都市としペレヤースラウでそれを実行じっこうした。フメリニツキーは、なぜキエフではなくペレヤースラウでロシア・ツァーリこく保護ほごけるようになったのか不明ふめいであるが、ふたつの都市とし象徴しょうちょうてき意味いみかんがえるとコサックがわにとって今回こんかい儀式ぎしきは「永久えいきゅう保護ほご」よりは「一時いちじてき同盟どうめい」であったと推測すいそくされる。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  32. ^ ポーランド・リトアニア共和きょうわこくなどをふく当時とうじのヨーロッパの風習ふうしゅうでは、主従しゅうじゅう関係かんけいたがいの誓約せいやくっていた。しかし、ロシア・ツァーリこくにおいては主従しゅうじゅう関係かんけいのありかたがことなっていたので、コサックの誓約せいやくかんする問題もんだいしょうじた。
  33. ^ しかし、誓約せいやく一方いっぽうてきであったため、コサックのからは正当せいとうせいいていた。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  34. ^ そのうちには、6まん4せんにんのコサックがいた。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  35. ^ 18世紀せいき初頭しょとうよりコサック国家こっか次第しだいロシア帝国ていこく社会しゃかい秩序ちつじょ影響えいきょうけ、コサック長官ちょうかん貴族きぞく農民のうみんさい農奴のうどはじまり、コサック国家こっか身分みぶんせい硬直こうちょくしていった。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  36. ^ なお、軍事ぐんじてき単位たんいとしてのじゅうにんたいは20 - 50にんひゃくにんたいは200 - 300にん連隊れんたいは2せん - 4せんにんのコサックから編成へんせいされていた。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  37. ^ 1649ねんと1652ねんに、戦争せんそう悪化あっかしたウクライナの経済けいざい活発かっぱつさせるため、フメリニツキーは独自どくじ貨幣かへい造幣ぞうへいしはじめた。現物げんぶつ発見はっけんされていないが、当時とうじのロシア・ツァーリこくのクナコフ大使たいし報告ほうこくしょと、ポーランド・リトアニア共和きょうわこくがわのポジーリャ県知事けんちじポトツキの書状しょじょうでは、フメリニツキーの銀貨ぎんかひょうにはかたなうらにはフメリニツキーのきざまれていたという。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  38. ^ その支配しはい承諾しょうだくしなかったおおくのウクライナじんは、きたウクライナあるいはモルドバへ逃亡とうぼうしたという。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん
  39. ^ 現在げんざいのウクライナ・チェルカースィしゅう・オフマーチウむらたる。
  40. ^ 現在げんざいのウクライナ・リヴィウしゅう・ホロドクたる。
  41. ^ ユダヤじん研究けんきゅうにおいてフメリニツキーのらんは、ユダヤじん迫害はくがいなか最悪さいあく事件じけんひとつであるとされる。ユダヤじん死者ししゃすうは2まんにんから10まんにん程度ていどであったと推測すいそくされているが、当時とうじざいウクライナのユダヤじん人口じんこうは5まん1せんであったため、死者ししゃすう推測すいそく過多かたになっている。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねんJerome A. Chanesちょ『Antisemitism』赤尾あかお光春みつはるちょ「ウマン巡礼じゅんれい歴史れきし―ウクライナにおけるユダヤじん聖地せいちとその変遷へんせん―」『スラヴ研究けんきゅうだい50ごう
  42. ^ Яковенко Наталяウクライナばん. Паралельний світ. Дослідження з історії уявлень та ідей в Україні XVI-XVII ст. — Київ: Критика, 2002. ISBN 966-7679-23-3
  43. ^ そのとき、ウクライナの難民なんみん一部いちぶは、ロシア・ツァーリこくみなみ国境こっきょうき、スロボダのウクライナというコサックの組織そしき創立そうりつした。N.ヤコヴェーンコちょ『ウクライナ概説がいせつ』、1997ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

フメリニツキーのらんをテーマとする芸術げいじゅつ作品さくひん[編集へんしゅう]

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]