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シュラフタ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
17世紀せいきのシュラフタ。

シュラフタシラフタシュリャーフタポーランドszlachta [ˈʂlaxta] ( 音声おんせいファイル)ルーシшляхта)は、ポーランド王国おうこく法的ほうてき特権とっけん参政さんせいけん社会しゃかい階級かいきゅう、ないしそこに所属しょぞくする「貴族きぞく」。のちにその資格しかくポーランド・リトアニア連合れんごうポーランド・リトアニア共和きょうわこくポーランド立憲りっけん王国おうこくポーランドリトアニアルーシウクライナベラルーシ)のかく地方ちほう拡大かくだいした。

伝統でんとうてきに、シュラフタ階級かいきゅうになれたもの地主じぬしであったとされ、19世紀せいきまつまで政治せいじてきそして法的ほうてき特権とっけん交渉こうしょうにより獲得かくとく維持いじしていた。かくシュラフタは貧富ひんぷ職業しょくぎょうじょう上下じょうげ関係かんけいはあるものの、平等びょうどう政治せいじてき権利けんりっていた。

ポーランド・リトアニア連合れんごうにおけるシュラフタは、古代こだいローマにおいて寡頭支配しはいおこなったローマ市民しみん類似るいじする。シュラフタは社会しゃかい階級かいきゅうではなく、どちらかといえばヒンドゥー社会しゃかいカースト制度せいどにおけるクシャトリヤのような世襲せしゅう身分みぶんだった[1]便宜べんぎてきに「ポーランド貴族きぞく」とばれることもある。

シュラフタは国会こっかい(セイム)と元老げんろういん(セナト)を構成こうせいし、国会こっかい議員ぎいんから選出せんしゅつ信任しんにんされ国王こくおうによって任命にんめいされる、首相しゅしょう相当そうとうするだい法官ほうかん、および大元帥だいげんすい相当そうとうする王冠おうかんりょうだいヘトマンだい法官ほうかん王冠おうかんりょうだいヘトマンはしばしば兼任けんにんされた)、そしてだい法官ほうかんひきいる、内閣ないかく相当そうとうする評議ひょうぎかい、および王冠おうかんりょうだいヘトマンがひきいる(軍備ぐんび大半たいはん常設じょうせつの)国会こっかいぐんもうけていた。この貴族きぞく共和きょうわせい議会ぎかい制度せいどによってシュラフタはときにポーランド国王こくおうけんリトアニア・ルーシ大公たいこうをもしのぐ権力けんりょくち、立憲りっけん君主くんしゅせい基礎きそとしてそれを改革かいかく改良かいりょう、あるいはとき改革かいかく改良かいりょう是非ぜひをめぐるはげしい政治せいじ闘争とうそう展開てんかいしながら中世ちゅうせいから近世きんせいにかけての東欧とうおう政治せいじ文化ぶんかいておおきな影響えいきょうりょくあたえた。1918ねんポーランドだい共和きょうわこく成立せいりつにシュラフタの制度せいど廃止はいしされた。

身分みぶん構成こうせい

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ポーランド王国おうこく国家こっか連合れんごうんでいたリトアニア大公たいこうこく貴族きぞく社会しゃかいでは、きリトアニアじん(リトアニア貴族きぞく)であることはきポーランドじん(シュラフタ)であることとまったく矛盾むじゅんしなかった。(また、これについては平民へいみん階級かいきゅうでもおなじことがえた)。世界中せかいじゅうほかのどのくににもられないこのシュラフタという特殊とくしゅ身分みぶんは、言語げんご一族いちぞく出身しゅっしん宗教しゅうきょう財産ざいさんによるちがいを超越ちょうえつしたひとつの巨大きょだい平等びょうどうコスモポリタン共同きょうどうたい構成こうせい資格しかくのことであり、それは現代げんだいの「国民こくみん」にってわるアイデンティティであった。そして、シュラフタの制度せいど存在そんざいした当時とうじかんがえでは、シュラフタであることはポーランド・リトアニア共和きょうわこく国民こくみんであることとおな意味いみだった[2]。その1791ねん成立せいりつしたポーランド憲法けんぽうはポーランドの住民じゅうみんすべてにシュラフタと同様どうよう社会しゃかいてき権利けんりあたえること(いわゆる「シュラフタ」)により国民こくみん国家こっか建設けんせつをその究極きゅうきょくてき目的もくてきのひとつとした。これはポーランドの改革かいかくから1世紀せいきほどおくれて日本にっぽんおこなわれた明治維新めいじいしんが、究極きゅうきょくてきには国民こくみん全体ぜんたい士族しぞく同様どうよう社会しゃかいてき権利けんり付与ふよすることによる近代きんだい国家こっか建設けんせつをもくろんだことと共通きょうつうする。

シュラフタのかず西欧せいおう貴族きぞく比較ひかくするとおおいため、とき日本にっぽん武士ぶしとの対比たいひで「士族しぞく」とやくされることもある。14世紀せいきからつづいたポーランド・リトアニア連合れんごう発展はってんして16世紀せいき成立せいりつしたポーランド・リトアニア共和きょうわこくでは、ポーランド母語ぼごとするものじつに25%がシュラフタだったというが[2]同国どうこくはさまざまな言葉ことば民族みんぞく多言たげん国家こっかだったことを勘案かんあんすると、くに全体ぜんたいにおけるシュラフタの比率ひりつは10%ほどだったと推定すいていできる。また、西欧せいおう貴族きぞくおおくがみずからの荘園しょうえん労働ろうどうしゃやとだい地主じぬしだったのにたいし、シュラフタのおおくはみずか就労しゅうろうして俸禄をていたてんでも日本にっぽん武士ぶし姿すがたかさなるものがある。まただい貴族きぞく当主とうしゅたちの大半たいはんもセイム(国会こっかい)、セナト(元老げんろういん)、だい法官ほうかん内閣ないかく)、省庁しょうちょう宮廷きゅうていぐんなどで主要しゅようなポストをにない、文官ぶんかんあるいは武官ぶかんとして活躍かつやくしていた。

シュラフタの内部ないぶ構成こうせい非常ひじょう多様たようで、母語ぼご宗教しゅうきょうはさまざまであった。民族みんぞくてき背景はいけいにはポーランドじんルーシじん現代げんだいにおけるいわゆるベラルーシじんウクライナじん)、リトアニアじんタタールじん[3][4]もっとおおかったが、ハンガリーじんラトビアじん、モスクワじんロシアじん)、ドイツじんオランダじんチェコじんスウェーデンじんユダヤじん[5][6]などもいた。宗教しゅうきょうてき背景はいけいにはキリスト教徒きりすときょうと圧倒的あっとうてきにはおお[7]イスラム教徒きょうと[3]シャーマニスト[よう出典しゅってん]かみろんしゃもいた。しかし、シュラフタ身分みぶん取得しゅとく資格しかくのあるユダヤ教徒きょうとはシュラフタとして登録とうろくされるためにキリスト教きりすときょうへの改宗かいしゅう条件じょうけんとされた[5]。16世紀せいき成立せいりつしたブレスト合同ごうどうでカトリック教徒きょうと正教会せいきょうかい信者しんじゃとの制度せいどてき平等びょうどう確保かくほされてはいたが、シュラフタたちは時代じだいくだるにつれて言語げんご文化ぶんかもポーランドし、さらに17世紀せいき後半こうはんからはおおくがカトリック教徒きょうととなっていった。ポーランドやカトリックへの改宗かいしゅうが「制度せいどとして」強制きょうせいされたわけではなかった。ユダヤけい人々ひとびとはシュラフタ身分みぶん取得しゅとくするのにカトリック教会きょうかい選択せんたくした。17世紀せいきのコサック叛乱はんらんフメリニツキーのらん以後いごは、カトリックへ改宗かいしゅうしなければ不道徳ふどうとくであるとして周囲しゅういからひどく白眼しろめされるといったような社会しゃかいてき圧力あつりょく定着ていちゃくしていった。ただしポーランドについては、シュラフタ身分みぶん社会しゃかいてきたしなみとしてつねのぞましいことと認識にんしきされていた。

歴史れきし

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1506ねん当時とうじポーランド国王こくおう元老げんろういん議員ぎいん、そしてそれぞれの人物じんぶつ紋章もんしょう
タルノフスキ収蔵しゅうぞう
国王こくおうけんリトアニア大公たいこう)は同年どうねん死去しきょしたアレクサンデルおう

シュラフタの起源きげんは、中世ちゅうせい西にしスラヴじんキリスト教きりすときょう受容じゅようするまえから存在そんざいしていたレフじん[8]戦士せんし階級かいきゅうともかんがえられる。シュラフタ(Szlachta)という言葉ことばは「高貴こうき家柄いえがら」を意味いみする中世ちゅうせいドイツSlahta現代げんだいドイツGeschlecht, Adelsgeschlecht相当そうとう)という単語たんごからの借用しゃくようわれるが、東方とうほう植民しょくみん北方ほっぽう十字軍じゅうじぐんエルベがわえて東方とうほうすすんできた中世ちゅうせいドイツじんあずまフランク王国おうこくあるいはそのかみきよしマ帝国まていこく)との接触せっしょく刺激しげきされたポーランドじんたちが自分じぶんたちの統一とういつ国家こっか成立せいりつさせる以前いぜん時代じだい、ポーランド(レフじん部族ぶぞく社会しゃかいでは固定こていした身分みぶん制度せいど明確めいかくな「貴族きぞく」の概念がいねんがなかった。

後期こうき、シュラフタの特徴とくちょうてき感性かんせい人種じんしゅ差別さべつてきになっていった[9]

11世紀せいき成立せいりつしたポーランド王国おうこくでは国内こくない分権ぶんけん傾向けいこうつよく、シュラフタそう国王こくおう対抗たいこうできる勢力せいりょく維持いじしていた。カジミェシュ3せい時代じだいに、輸不いれけん輸のけんおよび不入ふにゅうけん)にもとづく土地とち所有しょゆう紋章もんしょうという2つの要件ようけんたす騎士きしがシュラフタ身分みぶんぞくすると正式せいしきさだめられた。1386ねんリトアニア大公たいこうヨガイラがポーランドおうヴワディスワフ2せいとして即位そくいし、ヤギェウォあさポーランド・リトアニア合同ごうどう成立せいりつすると、大公たいこうこく貴族きぞくもシュラフタとなった。

この時代じだいまでのシュラフタは「クリムゾン・シュラフタ(Karmazynska Szlachta、真紅しんくのシュラフタ)」という特別とくべつばれかたをし、ポーランド社会しゃかいにおいてもっと高貴こうき由緒ゆいしょただしきシュラフタの家柄いえがらとされる[2]分家ぶんけ新規しんき登録とうろくなどにより、のちに貴族きぞく身分みぶん中小ちゅうしょうシュラフタの家柄いえがらは「ちゅうシュラフタ」や「しょうシュラフタ」とばれた。他国たこく貴族きぞくおなじように比較的ひかくてきおおきな不動産ふどうさんち、労働ろうどうには直接ちょくせつ従事じゅうじしないものもいれば、ほとんど不動産ふどうさんたずに官僚かんりょう御家人ごけにんなどとして労働ろうどうするものもいた。富裕ふゆうそうマグナートばれた。そのうちとく一子いっし相続そうぞくにより膨大ぼうだいとみつごく少数しょうすうの「ちょう富裕ふゆうそうオルディナトばれ、かれらはおも共和きょうわこくひがし南部なんぶ東北とうほく広大こうだい領地りょうちっていた。しかし、さきべた「クリムゾン・シュラフタ」の人々ひとびと大半たいはんはポーランド西部せいぶ南部なんぶ領地りょうちっていて、おおくの場合ばあいその資産しさんちゅう小規模しょうきぼであった。マグナートの家系かけいおおくは、中小ちゅうしょうシュラフタからはじまって世代せだいごとにとみたくわえていった比較的ひかくてき新興しんこう富裕ふゆうそう(なかにはかみきよしマ帝国まていこくって公爵こうしゃくれた、リトアニア大公たいこうこくもっと裕福ゆうふくなシュラフタであるラジヴィウ公爵こうしゃくのようなれいもあった)であったが、東方とうほうキエフ・ルーシおおやけ直系ちょっけい子孫しそんであるヴィシニョヴィエツキのように、外様とざまではあるものの由緒ゆいしょただしき家系かけいもあった。まったく不動産ふどうさんたず、一般いっぱん労働ろうどうしゃ階級かいきゅうおなじようならしをしているシュラフタは「はだかシュラフタ」とばれた。しかし制度せいどじょうでは、民族みんぞく出自しゅつじ家系かけい由緒ゆいしょ財産ざいさん多寡たかにかかわらず、どのシュラフタも政治せいじてき平等びょうどうであった。東部とうぶでは、ポーランドじんやカトリックでない農民のうみんけいシュラフタが主流しゅりゅうであった。なにじゅうねんにもわたる植民しょくみんウクライナ平和へいわ維持いじに、貴族きぞく、ユダヤじんコサックせい教徒きょうと)、ポーランドじんやルーシじん貴族きぞくあいだとく緊張きんちょうがあった。

ポーランドにはこのほかに「騎士きし家柄いえがら」という意味いみのリツェシュ(Rycerz)や「紋章もんしょう家柄いえがら」という意味いみのヘルプ(Herb原義げんぎは「遺産いさん」)という言葉ことばがあるが、これらもそれぞれ当時とうじのドイツRitter騎士きし)とErbe遺産いさん)からの借用しゃくようであるが、うえ時代じだいまでのポーランドではシュラフタ、リツェシュ、ヘルプに明確めいかくちがいはなく、そのそのおうじて使つかけていた。

その国内こくない権力けんりょく基盤きばんよわ国王こくおうたいして貴族きぞく勢力せいりょくおおくの要求ようきゅうませ、シュラフタの影響えいきょうりょくつよまった。リトアニアからまねかれた外国がいこくじんおうヴワディスワフ2せいとその子孫しそんこのまれた理由りゆうひとつは、外様とざまであるヤギェウォあさ国内こくない権力けんりょく基盤きばんよわいことが、国内こくない強大きょうだい外戚がいせきねやばつかかえるピャストあさよりもこのまれたためであった。あらたな課税かぜい立法りっぽうさいには上院じょういん下院かいん同意どういもとづくことを1505ねんの「ニヒル・ノヴィ憲法けんぽう制度せいどてき保障ほしょうすることとなり、その影響えいきょうりょくはさらに強化きょうかされた。1572ねんにヤギェウォあさ断絶だんぜつして選挙せんきょ王制おうせい移行いこうすると、シュラフタはおう選出せんしゅつけん二院にいんせいのセイム(国会こっかいSejm)やセナト(元老げんろういん、Senat)を権力けんりょく基盤きばんとしてみずからへの幅広はばひろ権利けんりみとめさせた。そして国内こくない権力けんりょく基盤きばんうすおう外国がいこくからまね傾向けいこうつよまった。これにより、1569ねんから制度せいどてき合邦がっぽうしたリトアニア大公たいこうこくとポーランド王国おうこくポーランド・リトアニア共和きょうわこくジェチュポスポリタ、「共和きょうわこく」)としょうし、「シュラフタ民主みんしゅ主義しゅぎ」とばれる体制たいせい完成かんせいした。成人せいじん男性だんせいやく10%、100まんにんたるシュラフタが「共和きょうわこく市民しみん」としてほとんどすべての権利けんり享受きょうじゅする制限せいげん民主みんしゅせいであった。これは古代こだい共和きょうわせいローマ酷似こくじした形態けいたいであった。古代こだい共和きょうわせいローマの市民しみんとシュラフタはほぼおなじものであった。多数たすうめる農民のうみんそう政治せいじへの直接ちょくせつ参加さんかおさえられたが、成人せいじん男性だんせいめる参政さんせいけんをもつ人々ひとびと割合わりあいであるやく10%はどう時代じだいのヨーロッパの主要しゅようこくのうちで共和きょうわこくもっとおおきく、これは古代こだい共和きょうわせいローマとほぼおな状況じょうきょうであり、この状況じょうきょう共和きょうわこく消滅しょうめつしたのちの19世紀せいきまでつづいた。(たとえば、近代きんだいもっと民主みんしゅ主義しゅぎすすんでいたとされる1867ねんイギリスにおいても参政さんせいけん保有ほゆうしゃぜん国民こくみんのほんの3%にすぎなかった)。すなわちポーランド・リトアニア共和きょうわこくではぜん世帯せたい半分はんぶん程度ていど(またポーランド王国おうこくでは大半たいはん世帯せたい)が「ポーランド貴族きぞく」すなわち古代こだいローマ市民しみん酷似こくじした「市民しみん階級かいきゅう」であったとかんがえられる。このように、シュラフタ民主みんしゅ主義しゅぎ制限せいげん民主みんしゅせいでありながら、かならずしも「少数しょうすうしゃによる支配しはい」というわけではなかった。中央ちゅうおう政府せいふではセイムのちからつよく、元首げんしゅであるおう権力けんりょくよわかった。ただしセイムでは全会ぜんかい一致いっち原則げんそく採用さいようされていたために、実際じっさい中央ちゅうおう政府せいふよりも、各地かくち有力ゆうりょくしゃ中心ちゅうしんとする地方ちほう政府せいふ権力けんりょくつよまっていった。すなわち議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ地方ちほう分権ぶんけんわせであった。

やがて、シュラフタのなかでもおおきな領土りょうどつ30から40の家系かけいマグナートとして国政こくせい主導しゅどうし、中小ちゅうしょうのシュラフタはその影響えいきょうはい寡頭せい傾向けいこうすすんだ。政党せいとう結成けっせい法律ほうりつにより禁止きんしされていたものの、政治せいじてきイデオロギーによりおもに4つのだい派閥はばつかれているのがつねであった。まず、自由じゆう放任ほうにん主義しゅぎ拡大かくだい異議いぎとなえ、国会こっかい(セイム)主導しゅどうによる中央ちゅうおう政府せいふ権限けんげん拡大かくだい国民こくみんてき責務せきむ明文化めいぶんか議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ中央ちゅうおう集権しゅうけんわせ)をはか改革かいかく自由じゆう放任ほうにん主義しゅぎ拡大かくだい標榜ひょうぼうし、中央ちゅうおう政府せいふ権限けんげん縮小しゅくしょうおよび地方ちほう分権ぶんけん個人こじん自由じゆう拡大かくだい議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ地方ちほう分権ぶんけんわせ)を目指めざ守旧しゅきゅうの2つにかれていた。改革かいかく守旧しゅきゅうはそれぞれ穏健おんけん急進きゅうしんかれていた。そのうち、18世紀せいきになりもっとちからをつけたのが穏健おんけん改革かいかく急進きゅうしん守旧しゅきゅうの2つであり、18世紀せいき後半こうはんになると、前者ぜんしゃミハウ・フリデリク・チャルトリスキアウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキ中心ちゅうしんに「ファミリア」(Familia)、後者こうしゃ帝政ていせいロシア将軍しょうぐんニコライ・レプニン協力きょうりょくカロル・スタニスワフ・"親愛しんあいなる旦那だんなさま"・ラジヴィウ中心ちゅうしんに「ラドム連盟れんめい」(Konfederacja radomska)という疑似ぎじ政党せいとう結成けっせいし、たがいにはげしく対立たいりつした。5月3にち憲法けんぽう時代じだいになると両者りょうしゃながれはそれぞれ「愛国あいこくとう」、「タルゴヴィツァ連盟れんめい」へと変貌へんぼうしていく。

17世紀せいき以降いこう激化げきかした外国がいこく勢力せいりょく進入しんにゅうは、18世紀せいき後半こうはんになってポーランド・リトアニア共和きょうわこく生存せいぞんおびやかすようになった。1772ねんだい1ポーランド・リトアニア共和きょうわこく分割ぶんかつ、シュラフタ(マグナート)たち国王こくおうスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキへの権限けんげん強化きょうかみとめ、1791ねんには信教しんきょう自由じゆう(キリストきょうの棄教は違法いほうとされたが、一方いっぽう異教いきょうからキリストきょうへの改宗かいしゅう強制きょうせいをしてはならない、個人こじんがどの宗教しゅうきょう宗派しゅうはぞくしているかは国民こくみん条件じょうけんとは無関係むかんけい、というもの)もふくめて、シュラフタも平民へいみんふくめたぜん国民こくみん基本きほんてき人権じんけん農民のうみん選挙せんきょけん付与ふよだけは棚上たなあげし、世界せかいはつ教育きょういくしょうつくって当面とうめん国民こくみん基礎きそ教育きょういく優先ゆうせん)を幅広はばひろみとめた成文せいぶん憲法けんぽうである5月3にち憲法けんぽう成立せいりつさせた。フランス革命かくめい前後ぜんごしておこなわれ、ジャン・ジャック・ルソーエドマンド・バークトマス・ペインなども絶賛ぜっさんしたポーランドの近代きんだい民主みんしゅ主義しゅぎ改革かいかくは、君主くんしゅ貴族きぞく一般いっぱん国民こくみんぜん階層かいそう一体いったいになって立憲りっけん君主くんしゅせい成文法せいぶんほうによる確立かくりつ目指めざした漸進ぜんしんてき国民こくみん改革かいかくであり、それ自体じたいには特定とくてい階層かいそう社会しゃかいから排除はいじょしたり国内外こくないがい債務さいむたおしたりといった、いわゆる革命かくめい要素ようそ一切いっさいなかった。しかし、ロシアプロイセンオーストリアなどの周辺しゅうへん各国かっこくにおいては、ポーランドの大改革だいかいかく事例じれいはそれぞれの国内こくない政府せいふたいする国民こくみん不満ふまんあおることになり、権力けんりょくしゃがわ革命かくめいたいする恐怖きょうふかんけることとなった。ロシアやプロイセンはポーランドの民主みんしゅ改革かいかくを「革命かくめい」であるとめつけた。自分じぶんたちの既得きとくけんいのちうしなうことをおそれたこのロシア・オーストリア・プロイセンの支配しはい階層かいそうは、1795ねんだい3ポーランド分割ぶんかつおこなった。これによりポーランド王国おうこくとポーランド・リトアニア共和きょうわこく滅亡めつぼうした。

そのナポレオン戦争せんそうワルシャワ公国こうこく復活ふっかつし、セイムも再開さいかいされたが短命たんめいわり、きゅうポーランドりょうおおくは1815ねん成立せいりつポーランド立憲りっけん王国おうこくつうじてロシア帝国ていこく支配しはいはいった。ロシアはポーランドの自治じちけん限定げんていてきにしかみとめず、1830ねん発生はっせいしたシュラフタのだい蜂起ほうき鎮圧ちんあつすると、セイムも廃止はいしした。シュラフタは政治せいじてき権力けんりょくをほとんどうしない、おおくがシベリアへ流刑りゅうけいになるか、アメリカへ大挙たいきょして亡命ぼうめいした。この時代じだいのアメリカ亡命ぼうめいをとくに「だい亡命ぼうめい」とぶ。一部いちぶ現実げんじつ主義しゅぎしゃ立憲りっけん王国おうこく帝国ていこく官僚かんりょうとして支配しはい体制たいせい参加さんかし、あるいは農民のうみんしょう農園のうえん領主りょうしゅとしてロシア支配しはい服属ふくぞくした。1848ねんにも蜂起ほうき発生はっせいし、さらに1863ねんにはきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく全域ぜんいき現実げんじつ主義しゅぎしゃふくめたほとんどのシュラフタが参加さんかしただい蜂起ほうき発生はっせいしたが、これを鎮圧ちんあつしたロシアは、よりおおくのシュラフタを排除はいじょして苛烈かれつ専制せんせい支配しはいおこなった。以後いご、シュラフタたちのあいだではロシアに直接ちょくせつこうする政治せいじ活動かつどうよりも、いま経済けいざい発展はってんちかられるべきだという社会しゃかい運動うんどう有機ゆうきてき労働ろうどう」が有力ゆうりょくとなり、かれらのおおくは経済けいざいじんとして近代きんだい工業こうぎょうおこなった。

だいいち世界せかい大戦たいせん1918ねん、ポーランドが共和きょうわこくだい共和きょうわこくとして独立どくりつ回復かいふくすると、しん政府せいふ憲法けんぽうでシュラフタなどの身分みぶんせい廃止はいしし、法的ほうてきにはこれでシュラフタの存在そんざい解消かいしょうされた。きゅうシュラフタそう農地のうち支配しはい継続けいぞくしたが、だい世界せかい大戦たいせんナチス・ドイツがポーランド全土ぜんど占領せんりょうして強圧きょうあつてき統治とうち強行きょうこうし、さらに戦後せんご成立せいりつしたポーランド人民じんみん共和きょうわこくポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうによる社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん)が農地のうち改革かいかく実施じっしした結果けっか社会しゃかい階層かいそうとしてもシュラフタは消滅しょうめつした。ソビエト連邦れんぽうカティンのもり虐殺ぎゃくさつしたポーランドぐん将校しょうこうたちはその大半たいはんもとシュラフタのいえ出身しゅっしんしゃで、共産きょうさん主義しゅぎ最大さいだいてきとみなされていた。ドイツじんもロシアじんも、立憲りっけん民主みんしゅ主義しゅぎ思想しそう源泉げんせんであったシュラフタ文化ぶんか地上ちじょうからこそぎ抹殺まっさつすることを長年ながねん目的もくてきとしていた。しかし、だい世界せかい大戦たいせんてポーランドが共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえいまれたのちでも、その貴族きぞくてき文化ぶんかはポーランド社会しゃかい影響えいきょうおよぼしているという指摘してきがある[10]。シュラフタのインテリ意識いしきは、人民じんみん共和きょうわこく時代じだいにはアネクドートもちいて(粗野そや労働ろうどうしゃ農民のうみん階級かいきゅう出身しゅっしん人々ひとびとおおかった)統一とういつ労働ろうどうしゃとう幹部かんぶ教養きょうよう痛烈つうれつ皮肉ひにくった。周囲しゅうい国々くにぐにことなり警察けいさつ国家こっかとしての色彩しきさいよわかった人民じんみん共和きょうわこくは、そのになるとテクノクラート上層じょうそうでは教養きょうようあるシュラフタの家系かけい出身しゅっしんしゃおおられるようになる。人民じんみん共和きょうわこく最後さいご指導しどうしゃであり1989ねん東欧とうおう革命かくめい資本しほん主義しゅぎ体制たいせいとともに旧称きゅうしょう復活ふっかつした新生しんせいポーランド共和きょうわこくはつ大統領だいとうりょうとなったヴォイチェフ・ヤルゼルスキもまた、だい世界せかい大戦たいせんまでポーランド東部とうぶしょう地主じぬしであったきゅうシュラフタのいえ出身しゅっしんで、民主みんしゅはつ首相しゅしょう就任しゅうにんしたタデウシュ・マゾヴィエツキはマゾフシェこうとする非常ひじょう高貴こうきいえだしである。ぜん大統領だいとうりょうレフ・カチンスキ北部ほくぶしょうシュラフタのいえだしで、げん大統領だいとうりょうブロニスワフ・コモロフスキすう世紀せいきまえにリトアニアからポーランドへうつりふうによりうつってきた中規模ちゅうきぼシュラフタの伯爵はくしゃく出身しゅっしんであり、外相がいしょうのラドスワフ・シコルスキはポーランドからロシアにかけて多数たすう分家ぶんけひろがるシュラフタの家系かけい(ロシアではシコルスキーと発音はつおん出身しゅっしんである。げん首相しゅしょうドナルド・トゥスク北部ほくぶ職人しょくにん家系かけいだしであり、シュラフタではない。また、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)の欧州おうしゅう議会ぎかい議長ぎちょうもと首相しゅしょうイェジ・ブゼクもシュラフタではなく、ポーランド南部なんぶ代々だいだい著名ちょめい学者がくしゃ政治せいじ輩出はいしゅつしている平民へいみん家系かけいだしである。もと大統領だいとうりょうレフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)も平民へいみん階級かいきゅう家系かけいだしである。ポーランド人民じんみん共和きょうわこくでもポーランド共和きょうわこくでも国会こっかい下院かいん)に、シュラフタ時代じだい国会こっかい同様どうようの「セイム(議会ぎかい)」の名称めいしょう使用しようされている。また、1989ねん復活ふっかつした国会こっかい上院じょういんにはシュラフタ時代じだい元老げんろういん同様どうようの「セナト(元老げんろういん)」の名称めいしょう復活ふっかつした。

シュラフタの家柄いえがら人々ひとびと

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ここでは、ポーランドおよび世界せかい現代げんだい登場とうじょうする、きゅうシュラフタの家柄いえがら人々ひとびとげる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Topór-Jakubowski, Theodore (2002). Sulima-Suligowski, Leonard Joseph, ed. "Claiming Inherited Noble Status" (PDF). WHITE EAGLE: JOURNAL OF THE POLISH NOBILITY ASSOCIATION FOUNDATION (Villa Anneslie, Towson, Baltimore, Baltimore county, MARYLAND, U.S.A.: Polish Nobility Association Foundation) 2002 (Spring/Summer): 5. "the Polish-Lithuanian Commonwealth of Two Nations (from 1385 until the Third Partition of 1795) paralleled the Roman Empire in that -- whether we like it or not -- full rights of citizenship were limited to the governing elite, called szlachta in Polish ... It is not truly correct to consider the szlachta a class; they actually were more like a caste, the military caste, as in Hindu society."
  2. ^ a b c http://pnaf.us/commonwealth.htm
  3. ^ a b Dan D. Y. Shapira. Turkism, Polish Sarmatism and ‘Jewish szlachta’: Some Reflections on a Cultural Context of the PolishLithuanian Karaites // Journal of Black Sea Studies (Karadeniz Araştırmaları), issue: 20 / 2009
  4. ^ Selim Mirza-Juszeński Chazbijewicz, "Szlachta tatarska w Rzeczypospolitej" (Tartar Nobility in the Polish-Lithuanian Commonwealth), Verbum Nobile no 2 (1993), Sopot, Poland
  5. ^ a b http://pnaf.us/commonwealth.htm
  6. ^ Mieses, Mateusz (1938). Polacy–Chrześcijanie pochodzenia żydowskiego. Warsaw: Wydawn.
  7. ^ キリスト教徒きりすときょうとなかではカトリック正教せいきょうプロテスタント諸派しょはなどといった、あらゆる宗派しゅうは存在そんざいした。
  8. ^ Niesiecki S.J., Kasper; Bobrowicz, Jan Nepomucen (1846). Herbarz Polski (PDF) (in Polish) I.. Leipzig, Saxony, GERMANY: Breitkopf & Härtel. Retrieved 13 Oct 2014.
  9. ^ Davies, Norman (1982). God's Playground: A History of Poland, Volume I - The Origins to 1795. Columbia University Press. ISBN 0-231-05351-7.
  10. ^ 岡山大学おかやまだいがく教授きょうじゅ田口たぐち雅弘まさひろ日本にっぽん・ポーランド協会きょうかいおこなった講演こうえん原稿げんこう

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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