17世紀 せいき のシュラフタ。
シュラフタ 、シラフタ 、シュリャーフタ (ポーランド語 ご :szlachta [ˈʂlaxta] ( 音声 おんせい ファイル ) ;ルーシ語 ご :шляхта )は、ポーランド王国 おうこく で法的 ほうてき 特権 とっけん 参政 さんせい 権 けん を持 も つ社会 しゃかい 階級 かいきゅう 、ないしそこに所属 しょぞく する「貴族 きぞく 」。のちにその資格 しかく がポーランド・リトアニア連合 れんごう 、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 、ポーランド立憲 りっけん 王国 おうこく のポーランド 、リトアニア 、ルーシ (ウクライナ ・ベラルーシ )の各 かく 地方 ちほう に拡大 かくだい した。
伝統 でんとう 的 てき に、シュラフタ階級 かいきゅう になれた者 もの は地主 じぬし であったとされ、19世紀 せいき 末 まつ まで政治 せいじ 的 てき そして法的 ほうてき 特権 とっけん を交渉 こうしょう により獲得 かくとく し維持 いじ していた。各 かく シュラフタは貧富 ひんぷ の差 さ や職業 しょくぎょう 上 じょう の上下 じょうげ 関係 かんけい はあるものの、平等 びょうどう な政治 せいじ 的 てき 権利 けんり を持 も っていた。
ポーランド・リトアニア連合 れんごう におけるシュラフタは、古代 こだい ローマ において寡頭支配 しはい を行 おこな ったローマ市民 しみん と類似 るいじ する。シュラフタは社会 しゃかい 階級 かいきゅう ではなく、どちらかといえばヒンドゥー 社会 しゃかい のカースト 制度 せいど におけるクシャトリヤ のような世襲 せしゅう 身分 みぶん だった[ 1] 。便宜 べんぎ 的 てき に「ポーランド貴族 きぞく 」と呼 よ ばれることもある。
シュラフタは国会 こっかい (セイム)と元老 げんろう 院 いん (セナト)を構成 こうせい し、国会 こっかい 議員 ぎいん から選出 せんしゅつ ・信任 しんにん され国王 こくおう によって任命 にんめい される、首相 しゅしょう に相当 そうとう する大 だい 法官 ほうかん 、および大元帥 だいげんすい に相当 そうとう する王冠 おうかん 領 りょう 大 だい ヘトマン (大 だい 法官 ほうかん と王冠 おうかん 領 りょう 大 だい ヘトマンはしばしば兼任 けんにん された)、そして大 だい 法官 ほうかん が率 ひき いる、内閣 ないかく に相当 そうとう する評議 ひょうぎ 会 かい 、および王冠 おうかん 領 りょう 大 だい ヘトマンが率 ひき いる(軍備 ぐんび の大半 たいはん は非 ひ 常設 じょうせつ の)国会 こっかい 軍 ぐん を設 もう けていた。この貴族 きぞく 共和 きょうわ 政 せい の議会 ぎかい 制度 せいど によってシュラフタは時 とき にポーランド国王 こくおう 兼 けん リトアニア・ルーシ大公 たいこう をもしのぐ権力 けんりょく を持 も ち、立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を基礎 きそ としてそれを改革 かいかく 改良 かいりょう 、あるいは時 とき に改革 かいかく 改良 かいりょう の是非 ぜひ をめぐる激 はげ しい政治 せいじ 闘争 とうそう を展開 てんかい しながら中世 ちゅうせい から近世 きんせい にかけての東欧 とうおう の政治 せいじ ・文化 ぶんか に置 お いて大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を与 あた えた。1918年 ねん のポーランド第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく 成立 せいりつ 時 じ にシュラフタの制度 せいど は廃止 はいし された。
ポーランド王国 おうこく と国家 こっか 連合 れんごう を組 く んでいたリトアニア大公 たいこう 国 こく の貴族 きぞく の社会 しゃかい では、良 よ きリトアニア人 じん (リトアニア貴族 きぞく )であることは良 よ きポーランド人 じん (シュラフタ)であることとまったく矛盾 むじゅん しなかった。(また、これについては平民 へいみん 階級 かいきゅう でも同 おな じことが言 い えた)。世界中 せかいじゅう の他 ほか のどの国 くに にも見 み られないこのシュラフタという特殊 とくしゅ な身分 みぶん は、言語 げんご や一族 いちぞく の出身 しゅっしん 地 ち や宗教 しゅうきょう や財産 ざいさん による違 ちが いを超越 ちょうえつ した一 ひと つの巨大 きょだい で平等 びょうどう なコスモポリタン 共同 きょうどう 体 たい の構成 こうせい 資格 しかく のことであり、それは現代 げんだい の「国民 こくみん 」に取 と って代 か わるアイデンティティであった。そして、シュラフタの制度 せいど が存在 そんざい した当時 とうじ の考 かんが えでは、シュラフタであることはポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国民 こくみん であることと同 おな じ意味 いみ だった[ 2] 。その後 ご 1791年 ねん に成立 せいりつ したポーランド憲法 けんぽう はポーランドの住民 じゅうみん すべてにシュラフタと同様 どうよう の社会 しゃかい 的 てき 権利 けんり を与 あた えること(いわゆる「シュラフタ化 か 」)により国民 こくみん 国家 こっか 建設 けんせつ をその究極 きゅうきょく 的 てき な目的 もくてき のひとつとした。これはポーランドの改革 かいかく から1世紀 せいき ほど遅 おく れて日本 にっぽん で行 おこな われた明治維新 めいじいしん が、究極 きゅうきょく 的 てき には国民 こくみん 全体 ぜんたい に士族 しぞく と同様 どうよう の社会 しゃかい 的 てき 権利 けんり を付与 ふよ することによる近代 きんだい 国家 こっか 建設 けんせつ をもくろんだことと共通 きょうつう する。
シュラフタの数 かず は西欧 せいおう の貴族 きぞく と比較 ひかく すると多 おお いため、時 とき に日本 にっぽん の武士 ぶし との対比 たいひ で「士族 しぞく 」と訳 やく されることもある。14世紀 せいき から続 つづ いたポーランド・リトアニア連合 れんごう が発展 はってん して16世紀 せいき に成立 せいりつ したポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく では、ポーランド語 ご を母語 ぼご とする者 もの の実 じつ に25%がシュラフタだったというが[ 2] 、同国 どうこく はさまざまな言葉 ことば が飛 と び交 か う多 た 民族 みんぞく 多言 たげん 語 ご 国家 こっか だったことを勘案 かんあん すると、国 くに 全体 ぜんたい におけるシュラフタの比率 ひりつ は10%ほどだったと推定 すいてい できる。また、西欧 せいおう 貴族 きぞく の多 おお くが自 みずか らの荘園 しょうえん で労働 ろうどう 者 しゃ を雇 やと う大 だい 地主 じぬし だったのに対 たい し、シュラフタの多 おお くは自 みずか ら就労 しゅうろう して俸禄を得 え ていた点 てん でも日本 にっぽん の武士 ぶし の姿 すがた と重 かさ なるものがある。また大 だい 貴族 きぞく の当主 とうしゅ たちの大半 たいはん もセイム(国会 こっかい )、セナト(元老 げんろう 院 いん )、大 だい 法官 ほうかん (内閣 ないかく )、省庁 しょうちょう 、宮廷 きゅうてい 、軍 ぐん などで主要 しゅよう なポストを担 にな い、文官 ぶんかん あるいは武官 ぶかん として活躍 かつやく していた。
シュラフタの内部 ないぶ 構成 こうせい は非常 ひじょう に多様 たよう で、母語 ぼご や宗教 しゅうきょう はさまざまであった。民族 みんぞく 的 てき 背景 はいけい にはポーランド人 じん 、ルーシ人 じん (現代 げんだい におけるいわゆるベラルーシ人 じん とウクライナ人 じん )、リトアニア人 じん 、タタール人 じん [ 3] [ 4] が最 もっと も多 おお かったが、ハンガリー人 じん 、ラトビア人 じん 、モスクワ人 じん (ロシア人 じん )、ドイツ人 じん 、オランダ人 じん 、チェコ人 じん 、スウェーデン人 じん 、ユダヤ人 じん [ 5] [ 6] などもいた。宗教 しゅうきょう 的 てき 背景 はいけい にはキリスト教徒 きりすときょうと が圧倒的 あっとうてき には多 おお く[ 7] 、イスラム教徒 きょうと [ 3] 、シャーマニスト [要 よう 出典 しゅってん ] 、無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ もいた。しかし、シュラフタ身分 みぶん 取得 しゅとく の資格 しかく のあるユダヤ教徒 きょうと はシュラフタとして登録 とうろく されるためにキリスト教 きりすときょう への改宗 かいしゅう が条件 じょうけん とされた[ 5] 。16世紀 せいき に成立 せいりつ したブレスト合同 ごうどう でカトリック教徒 きょうと と正教会 せいきょうかい 信者 しんじゃ との制度 せいど 的 てき 平等 びょうどう が確保 かくほ されてはいたが、シュラフタたちは時代 じだい が下 くだ るにつれて言語 げんご も文化 ぶんか もポーランド化 か し、さらに17世紀 せいき 後半 こうはん からは多 おお くがカトリック教徒 きょうと となっていった。ポーランド化 か やカトリックへの改宗 かいしゅう が「制度 せいど として」強制 きょうせい されたわけではなかった。ユダヤ系 けい の人々 ひとびと はシュラフタ身分 みぶん を取得 しゅとく するのにカトリック教会 きょうかい を選択 せんたく した。17世紀 せいき のコサック叛乱 はんらん (フメリニツキーの乱 らん )以後 いご は、カトリックへ改宗 かいしゅう しなければ不道徳 ふどうとく であるとして周囲 しゅうい からひどく白眼 しろめ 視 し されるといったような社会 しゃかい 的 てき 圧力 あつりょく が定着 ていちゃく していった。ただしポーランド化 か については、シュラフタ身分 みぶん の社会 しゃかい 的 てき たしなみとして常 つね に望 のぞ ましいことと認識 にんしき されていた。
1506年 ねん 当時 とうじ のポーランド国王 こくおう と元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん 、そしてそれぞれの人物 じんぶつ の紋章 もんしょう (タルノフスキ家 か 収蔵 しゅうぞう )国王 こくおう (兼 けん リトアニア大公 たいこう )は同年 どうねん 死去 しきょ したアレクサンデル王 おう
シュラフタの起源 きげん は、中世 ちゅうせい の西 にし スラヴ人 じん がキリスト教 きりすときょう を受容 じゅよう する前 まえ から存在 そんざい していたレフ人 じん で[ 8] 、戦士 せんし 階級 かいきゅう とも考 かんが えられる。シュラフタ(Szlachta )という言葉 ことば は「高貴 こうき な家柄 いえがら 」を意味 いみ する中世 ちゅうせい ドイツ語 ご のSlahta (現代 げんだい ドイツ語 ご のGeschlecht , Adelsgeschlecht に相当 そうとう )という単語 たんご からの借用 しゃくよう と言 い われるが、東方 とうほう 植民 しょくみん と北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん でエルベ川 がわ を越 こ えて東方 とうほう に進 すす んできた中世 ちゅうせい ドイツ人 じん (東 あずま フランク王国 おうこく あるいはその後 ご の神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )との接触 せっしょく に刺激 しげき されたポーランド人 じん たちが自分 じぶん たちの統一 とういつ 国家 こっか を成立 せいりつ させる以前 いぜん の時代 じだい 、ポーランド(レフ人 じん )部族 ぶぞく 社会 しゃかい では固定 こてい した身分 みぶん 制度 せいど 、明確 めいかく な「貴族 きぞく 」の概念 がいねん がなかった。
後期 こうき 、シュラフタの特徴 とくちょう 的 てき な感性 かんせい は人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき になっていった[ 9] 。
11世紀 せいき に成立 せいりつ したポーランド王国 おうこく では国内 こくない の分権 ぶんけん 傾向 けいこう が強 つよ く、シュラフタ層 そう が国王 こくおう に対抗 たいこう できる勢力 せいりょく を維持 いじ していた。カジミェシュ3世 せい の時代 じだい に、不 ふ 輸不入 いれ 権 けん (不 ふ 輸の権 けん および不入 ふにゅう の権 けん )に基 もと づく土地 とち 所有 しょゆう と紋章 もんしょう という2つの要件 ようけん を満 み たす騎士 きし がシュラフタ身分 みぶん に属 ぞく すると正式 せいしき に定 さだ められた。1386年 ねん にリトアニア大公 たいこう ヨガイラがポーランド王 おう ヴワディスワフ2世 せい として即位 そくい し、ヤギェウォ朝 あさ のポーランド・リトアニア合同 ごうどう が成立 せいりつ すると、大公 たいこう 国 こく の貴族 きぞく もシュラフタとなった。
この時代 じだい までのシュラフタは「クリムゾン・シュラフタ(Karmazynska Szlachta、真紅 しんく のシュラフタ)」という特別 とくべつ な呼 よ ばれ方 かた をし、ポーランド社会 しゃかい において最 もっと も高貴 こうき で由緒 ゆいしょ 正 ただ しきシュラフタの家柄 いえがら とされる[ 2] 。分家 ぶんけ や新規 しんき 登録 とうろく などにより、のちに貴族 きぞく 身分 みぶん を得 え た中小 ちゅうしょう シュラフタの家柄 いえがら は「中 ちゅう シュラフタ」や「小 しょう シュラフタ」と呼 よ ばれた。他国 たこく の貴族 きぞく と同 おな じように比較的 ひかくてき 大 おお きな不動産 ふどうさん を持 も ち、労働 ろうどう には直接 ちょくせつ 従事 じゅうじ しない者 もの もいれば、ほとんど不動産 ふどうさん を持 も たずに官僚 かんりょう や御家人 ごけにん などとして労働 ろうどう する者 もの もいた。富裕 ふゆう 層 そう はマグナート と呼 よ ばれた。そのうち特 とく に一子 いっし 相続 そうぞく により膨大 ぼうだい な富 とみ を持 も つごく少数 しょうすう の「超 ちょう 」富裕 ふゆう 層 そう はオルディナト と呼 よ ばれ、彼 かれ らは主 おも に共和 きょうわ 国 こく の東 ひがし 南部 なんぶ や東北 とうほく 部 ぶ に広大 こうだい な領地 りょうち を持 も っていた。しかし、先 さき に述 の べた「クリムゾン・シュラフタ」の人々 ひとびと の大半 たいはん はポーランド西部 せいぶ や南部 なんぶ に領地 りょうち を持 も っていて、多 おお くの場合 ばあい その資産 しさん は中 ちゅう 小規模 しょうきぼ であった。マグナートの家系 かけい の多 おお くは、中小 ちゅうしょう シュラフタから始 はじ まって世代 せだい ごとに富 とみ を蓄 たくわ えていった比較的 ひかくてき 新興 しんこう の富裕 ふゆう 層 そう (なかには神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に取 と り入 い って公爵 こうしゃく の位 い を手 て に入 い れた、リトアニア大公 たいこう 国 こく で最 もっと も裕福 ゆうふく なシュラフタであるラジヴィウ公爵 こうしゃく 家 か のような例 れい もあった)であったが、東方 とうほう のキエフ・ルーシ 公 おおやけ の直系 ちょっけい 子孫 しそん であるヴィシニョヴィエツキ家 か のように、外様 とざま ではあるものの由緒 ゆいしょ 正 ただ しき家系 かけい もあった。まったく不動産 ふどうさん を持 も たず、一般 いっぱん の労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう と同 おな じような暮 く らしをしているシュラフタは「裸 はだか シュラフタ」と呼 よ ばれた。しかし制度 せいど 上 じょう では、民族 みんぞく 出自 しゅつじ や家系 かけい の由緒 ゆいしょ や財産 ざいさん の多寡 たか にかかわらず、どのシュラフタも政治 せいじ 的 てき に平等 びょうどう であった。東部 とうぶ では、ポーランド人 じん やカトリックでない農民 のうみん 系 けい シュラフタが主流 しゅりゅう であった。何 なに 十 じゅう 年 ねん にもわたる植民 しょくみん 地 ち ウクライナ の平和 へいわ 維持 いじ に、貴族 きぞく 、ユダヤ人 じん 、コサック (正 せい 教徒 きょうと )、ポーランド人 じん やルーシ人 じん 貴族 きぞく の間 あいだ は特 とく に緊張 きんちょう があった。
ポーランド語 ご にはこのほかに「騎士 きし の家柄 いえがら 」という意味 いみ のリツェシュ(Rycerz )や「紋章 もんしょう を持 も つ家柄 いえがら 」という意味 いみ のヘルプ(Herb 、原義 げんぎ は「遺産 いさん 」)という言葉 ことば があるが、これらもそれぞれ当時 とうじ のドイツ語 ご のRitter (騎士 きし )とErbe (遺産 いさん )からの借用 しゃくよう であるが、上 うえ の時代 じだい までのポーランドではシュラフタ、リツェシュ、ヘルプに明確 めいかく な違 ちが いはなく、その場 ば その場 ば に応 おう じて使 つか い分 わ けていた。
その後 ご 、国内 こくない の権力 けんりょく 基盤 きばん が弱 よわ い国王 こくおう に対 たい して貴族 きぞく 勢力 せいりょく が多 おお くの要求 ようきゅう を呑 の ませ、シュラフタの影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ まった。リトアニアから招 まね かれた外国 がいこく 人 じん の王 おう ヴワディスワフ2世 せい とその子孫 しそん が好 この まれた理由 りゆう の一 ひと つは、外様 とざま であるヤギェウォ朝 あさ の国内 こくない 権力 けんりょく 基盤 きばん が弱 よわ いことが、国内 こくない で強大 きょうだい な外戚 がいせき 閨 ねや 閥 ばつ を抱 かか えるピャスト朝 あさ よりも好 この まれたためであった。新 あら たな課税 かぜい や立法 りっぽう の際 さい には上院 じょういん と下院 かいん の同意 どうい に基 もと づくことを1505年 ねん の「ニヒル・ノヴィ 」憲法 けんぽう が制度 せいど 的 てき に保障 ほしょう することとなり、その影響 えいきょう 力 りょく はさらに強化 きょうか された。1572年 ねん にヤギェウォ朝 あさ が断絶 だんぜつ して選挙 せんきょ 王制 おうせい へ移行 いこう すると、シュラフタは王 おう の選出 せんしゅつ 権 けん を持 も つ二院 にいん 制 せい のセイム(国会 こっかい 、Sejm )やセナト(元老 げんろう 院 いん 、Senat)を権力 けんりょく 基盤 きばん として自 みずか らへの幅広 はばひろ い権利 けんり を認 みと めさせた。そして国内 こくない の権力 けんりょく 基盤 きばん の薄 うす い王 おう を外国 がいこく から招 まね く傾向 けいこう が強 つよ まった。これにより、1569年 ねん から制度 せいど 的 てき に合邦 がっぽう したリトアニア大公 たいこう 国 こく とポーランド王国 おうこく はポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく (ジェチュポスポリタ 、「共和 きょうわ 国 こく 」)と称 しょう し、「シュラフタ民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」と呼 よ ばれる体制 たいせい が完成 かんせい した。成人 せいじん 男性 だんせい の約 やく 10%、100万 まん 人 にん に当 あ たるシュラフタが「共和 きょうわ 国 こく 市民 しみん 」としてほとんど全 すべ ての権利 けんり を享受 きょうじゅ する制限 せいげん 民主 みんしゅ 政 せい であった。これは古代 こだい の共和 きょうわ 政 せい ローマ に酷似 こくじ した形態 けいたい であった。古代 こだい 共和 きょうわ 政 せい ローマの市民 しみん とシュラフタはほぼ同 おな じものであった。多数 たすう を占 し める農民 のうみん 層 そう の政治 せいじ への直接 ちょくせつ 参加 さんか は抑 おさ えられたが、成人 せいじん 男性 だんせい に占 し める参政 さんせい 権 けん をもつ人々 ひとびと の割合 わりあい である約 やく 10%は同 どう 時代 じだい のヨーロッパの主要 しゅよう 国 こく のうちで共和 きょうわ 国 こく が最 もっと も大 おお きく、これは古代 こだい 共和 きょうわ 政 せい ローマとほぼ同 おな じ状況 じょうきょう であり、この状況 じょうきょう は共和 きょうわ 国 こく が消滅 しょうめつ した後 のち の19世紀 せいき まで続 つづ いた。(例 たと えば、近代 きんだい で最 もっと も民主 みんしゅ 主義 しゅぎ が進 すす んでいたとされる1867年 ねん のイギリス においても参政 さんせい 権 けん 保有 ほゆう 者 しゃ は全 ぜん 国民 こくみん のほんの3%にすぎなかった)。すなわちポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく では全 ぜん 世帯 せたい の半分 はんぶん 程度 ていど (またポーランド王国 おうこく では大半 たいはん の世帯 せたい )が「ポーランド貴族 きぞく 」すなわち古代 こだい ローマ市民 しみん と酷似 こくじ した「市民 しみん 階級 かいきゅう 」であったと考 かんが えられる。このように、シュラフタ民主 みんしゅ 主義 しゅぎ は制限 せいげん 民主 みんしゅ 政 せい でありながら、かならずしも「少数 しょうすう 者 しゃ による支配 しはい 」というわけではなかった。中央 ちゅうおう 政府 せいふ ではセイムの力 ちから が強 つよ く、元首 げんしゅ である王 おう の権力 けんりょく は弱 よわ かった。ただしセイムでは全会 ぜんかい 一致 いっち 原則 げんそく が採用 さいよう されていたために、実際 じっさい は中央 ちゅうおう 政府 せいふ よりも、各地 かくち の有力 ゆうりょく 者 しゃ を中心 ちゅうしん とする地方 ちほう 政府 せいふ の権力 けんりょく が強 つよ まっていった。すなわち議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と地方 ちほう 分権 ぶんけん の組 く み合 あ わせであった。
やがて、シュラフタの中 なか でも大 おお きな領土 りょうど を持 も つ30から40の家系 かけい がマグナート として国政 こくせい を主導 しゅどう し、中小 ちゅうしょう のシュラフタはその影響 えいきょう 下 か に入 はい る寡頭政 せい の傾向 けいこう が進 すす んだ。政党 せいとう の結成 けっせい は法律 ほうりつ により禁止 きんし されていたものの、政治 せいじ 的 てき イデオロギーにより主 おも に4つの大 だい 派閥 はばつ に分 わ かれているのが常 つね であった。まず、自由 じゆう 放任 ほうにん 主義 しゅぎ の拡大 かくだい に異議 いぎ を唱 とな え、国会 こっかい (セイム)主導 しゅどう による中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権限 けんげん 拡大 かくだい と国民 こくみん 的 てき 責務 せきむ の明文化 めいぶんか (議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん の組 く み合 あ わせ)を図 はか る改革 かいかく 派 は 、自由 じゆう 放任 ほうにん 主義 しゅぎ の拡大 かくだい を標榜 ひょうぼう し、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権限 けんげん 縮小 しゅくしょう および地方 ちほう 分権 ぶんけん と個人 こじん の自由 じゆう の拡大 かくだい (議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と地方 ちほう 分権 ぶんけん の組 く み合 あ わせ)を目指 めざ す守旧 しゅきゅう 派 は の2つに分 わ かれていた。改革 かいかく 派 は 、守旧 しゅきゅう 派 は はそれぞれ穏健 おんけん 派 は と急進 きゅうしん 派 は に分 わ かれていた。そのうち、18世紀 せいき になり最 もっと も力 ちから をつけたのが穏健 おんけん 改革 かいかく 派 は と急進 きゅうしん 守旧 しゅきゅう 派 は の2つであり、18世紀 せいき 後半 こうはん になると、前者 ぜんしゃ はミハウ・フリデリク・チャルトリスキ やアウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキ を中心 ちゅうしん に「ファミリア 」(Familia)、後者 こうしゃ は帝政 ていせい ロシア の将軍 しょうぐん ニコライ・レプニン の協力 きょうりょく を得 え たカロル・スタニスワフ・"親愛 しんあい なる旦那 だんな 様 さま "・ラジヴィウ を中心 ちゅうしん に「ラドム連盟 れんめい 」(Konfederacja radomska)という疑似 ぎじ 政党 せいとう を結成 けっせい し、互 たが いに激 はげ しく対立 たいりつ した。5月3日 にち 憲法 けんぽう の時代 じだい になると両者 りょうしゃ の流 なが れはそれぞれ「愛国 あいこく 党 とう 」、「タルゴヴィツァ連盟 れんめい 」へと変貌 へんぼう していく。
17世紀 せいき 以降 いこう に激化 げきか した外国 がいこく 勢力 せいりょく の進入 しんにゅう は、18世紀 せいき 後半 こうはん になってポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の生存 せいぞん を脅 おびや かすようになった。1772年 ねん の第 だい 1次 じ ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 分割 ぶんかつ 後 ご 、シュラフタ(マグナート)達 たち は国王 こくおう スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ への権限 けんげん 強化 きょうか を認 みと め、1791年 ねん には信教 しんきょう の自由 じゆう (キリスト教 きょう の棄教は違法 いほう とされたが、一方 いっぽう で異教 いきょう からキリスト教 きょう への改宗 かいしゅう も強制 きょうせい をしてはならない、個人 こじん がどの宗教 しゅうきょう や宗派 しゅうは に属 ぞく しているかは国民 こくみん の条件 じょうけん とは無関係 むかんけい 、というもの)も含 ふく めて、シュラフタも平民 へいみん も含 ふく めた全 ぜん 国民 こくみん の基本 きほん 的 てき 人権 じんけん (農民 のうみん の選挙 せんきょ 権 けん 付与 ふよ だけは棚上 たなあ げし、世界 せかい 初 はつ の教育 きょういく 省 しょう を作 つく って当面 とうめん は国民 こくみん の基礎 きそ 教育 きょういく を優先 ゆうせん )を幅広 はばひろ く認 みと めた成文 せいぶん 憲法 けんぽう である5月3日 にち 憲法 けんぽう を成立 せいりつ させた。フランス革命 かくめい と前後 ぜんご して行 おこな われ、ジャン・ジャック・ルソー 、エドマンド・バーク 、トマス・ペイン なども絶賛 ぜっさん したポーランドの近代 きんだい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 改革 かいかく は、君主 くんしゅ と貴族 きぞく と一般 いっぱん 国民 こくみん の全 ぜん 階層 かいそう が一体 いったい になって立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい の成文法 せいぶんほう による確立 かくりつ を目指 めざ した漸進 ぜんしん 的 てき な国民 こくみん 改革 かいかく であり、それ自体 じたい には特定 とくてい の階層 かいそう を社会 しゃかい から排除 はいじょ したり国内外 こくないがい の債務 さいむ を踏 ふ み倒 たお したりといった、いわゆる革命 かくめい の要素 ようそ は一切 いっさい なかった。しかし、ロシア ・プロイセン ・オーストリア などの周辺 しゅうへん 各国 かっこく においては、ポーランドの大改革 だいかいかく の事例 じれい はそれぞれの国内 こくない の政府 せいふ に対 たい する国民 こくみん の不満 ふまん を煽 あお ることになり、権力 けんりょく 者 しゃ の側 がわ に革命 かくめい に対 たい する恐怖 きょうふ 感 かん を植 う え付 つ けることとなった。ロシアやプロイセンはポーランドの民主 みんしゅ 改革 かいかく を「革命 かくめい 」であると決 き めつけた。自分 じぶん たちの既得 きとく 権 けん や命 いのち を失 うしな うことを恐 おそ れたこのロシア・オーストリア・プロイセンの支配 しはい 階層 かいそう は、1795年 ねん の第 だい 3次 じ ポーランド分割 ぶんかつ を行 おこな った。これによりポーランド王国 おうこく とポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は滅亡 めつぼう した。
その後 ご のナポレオン戦争 せんそう でワルシャワ公国 こうこく が復活 ふっかつ し、セイムも再開 さいかい されたが短命 たんめい に終 お わり、旧 きゅう ポーランド領 りょう の多 おお くは1815年 ねん 成立 せいりつ のポーランド立憲 りっけん 王国 おうこく を通 つう じてロシア帝国 ていこく の支配 しはい 下 か に入 はい った。ロシアはポーランドの自治 じち 権 けん を限定 げんてい 的 てき にしか認 みと めず、1830年 ねん に発生 はっせい したシュラフタの大 だい 蜂起 ほうき を鎮圧 ちんあつ すると、セイムも廃止 はいし した。シュラフタは政治 せいじ 的 てき 権力 けんりょく をほとんど失 うしな い、多 おお くがシベリアへ流刑 りゅうけい になるか、アメリカへ大挙 たいきょ して亡命 ぼうめい した。この時代 じだい のアメリカ亡命 ぼうめい をとくに「大 だい 亡命 ぼうめい 」と呼 よ ぶ。一部 いちぶ の現実 げんじつ 主義 しゅぎ 者 しゃ は立憲 りっけん 王国 おうこく や帝国 ていこく の官僚 かんりょう として支配 しはい 体制 たいせい に参加 さんか し、あるいは農民 のうみん や小 しょう 農園 のうえん の領主 りょうしゅ としてロシア支配 しはい に服属 ふくぞく した。1848年 ねん にも蜂起 ほうき が発生 はっせい し、さらに1863年 ねん には旧 きゅう ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 全域 ぜんいき で現実 げんじつ 主義 しゅぎ 者 しゃ も含 ふく めたほとんどのシュラフタが参加 さんか した大 だい 蜂起 ほうき が発生 はっせい したが、これを鎮圧 ちんあつ したロシアは、より多 おお くのシュラフタを排除 はいじょ して苛烈 かれつ な専制 せんせい 支配 しはい を行 おこ なった。以後 いご 、シュラフタたちの間 あいだ ではロシアに直接 ちょくせつ 抗 こう する政治 せいじ 活動 かつどう よりも、今 いま は経済 けいざい 発展 はってん に力 ちから を入 い れるべきだという社会 しゃかい 運動 うんどう 「有機 ゆうき 的 てき 労働 ろうどう 」が有力 ゆうりょく となり、彼 かれ らの多 おお くは経済 けいざい 人 じん として近代 きんだい 工業 こうぎょう 化 か を行 おこ なった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1918年 ねん 、ポーランドが共和 きょうわ 国 こく (第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく ) として独立 どくりつ を回復 かいふく すると、新 しん 政府 せいふ は憲法 けんぽう でシュラフタなどの身分 みぶん 制 せい を廃止 はいし し、法的 ほうてき にはこれでシュラフタの存在 そんざい が解消 かいしょう された。旧 きゅう シュラフタ層 そう の農地 のうち 支配 しはい は継続 けいぞく したが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でナチス・ドイツ がポーランド全土 ぜんど を占領 せんりょう して強圧 きょうあつ 的 てき な統治 とうち を強行 きょうこう し、さらに戦後 せんご 成立 せいりつ したポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく (ポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう による社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん )が農地 のうち 改革 かいかく を実施 じっし した結果 けっか 、社会 しゃかい 階層 かいそう としてもシュラフタは消滅 しょうめつ した。ソビエト連邦 れんぽう がカティンの森 もり で虐殺 ぎゃくさつ したポーランド軍 ぐん 将校 しょうこう たちはその大半 たいはん が元 もと シュラフタの家 いえ の出身 しゅっしん 者 しゃ で、共産 きょうさん 主義 しゅぎ の最大 さいだい の敵 てき とみなされていた。ドイツ人 じん もロシア人 じん も、立憲 りっけん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 思想 しそう の源泉 げんせん であったシュラフタ文化 ぶんか を地上 ちじょう から根 ね こそぎ抹殺 まっさつ することを長年 ながねん の目的 もくてき としていた。しかし、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を経 へ てポーランドが共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい に組 く み込 こ まれた後 のち でも、その貴族 きぞく 的 てき 文化 ぶんか はポーランド社会 しゃかい に影響 えいきょう を及 およ ぼしているという指摘 してき がある[ 10] 。シュラフタのインテリ意識 いしき は、人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい にはアネクドート を用 もち いて(粗野 そや な労働 ろうどう 者 しゃ や農民 のうみん の階級 かいきゅう 出身 しゅっしん の人々 ひとびと が多 おお かった)統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう 幹部 かんぶ の無 む 教養 きょうよう を痛烈 つうれつ に皮肉 ひにく った。周囲 しゅうい の国々 くにぐに と異 こと なり警察 けいさつ 国家 こっか としての色彩 しきさい が弱 よわ かった人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく は、その後 ご 期 き になるとテクノクラート 上層 じょうそう 部 ぶ では教養 きょうよう あるシュラフタの家系 かけい の出身 しゅっしん 者 しゃ が多 おお く見 み られるようになる。人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 最後 さいご の指導 しどう 者 しゃ であり1989年 ねん の東欧 とうおう 革命 かくめい で資本 しほん 主義 しゅぎ 体制 たいせい とともに旧称 きゅうしょう が復活 ふっかつ した新生 しんせい ポーランド共和 きょうわ 国 こく 初 はつ の大統領 だいとうりょう となったヴォイチェフ・ヤルゼルスキ もまた、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん までポーランド東部 とうぶ の小 しょう 地主 じぬし であった旧 きゅう シュラフタの家 いえ の出身 しゅっしん で、民主 みんしゅ 化 か 初 はつ の首相 しゅしょう に就任 しゅうにん したタデウシュ・マゾヴィエツキ はマゾフシェ公 こう を祖 そ とする非常 ひじょう に高貴 こうき な家 いえ の出 だし である。前 ぜん 大統領 だいとうりょう のレフ・カチンスキ は北部 ほくぶ の小 しょう シュラフタの家 いえ の出 だし で、現 げん 大統領 だいとうりょう のブロニスワフ・コモロフスキ は数 すう 世紀 せいき 前 まえ にリトアニアからポーランドへ移 うつり 封 ふう により移 うつ ってきた中規模 ちゅうきぼ シュラフタの伯爵 はくしゃく 家 か の出身 しゅっしん であり、外相 がいしょう のラドスワフ・シコルスキはポーランドからロシアにかけて多数 たすう の分家 ぶんけ が広 ひろ がるシュラフタの家系 かけい (ロシアではシコルスキーと発音 はつおん )出身 しゅっしん である。現 げん 首相 しゅしょう のドナルド・トゥスク は北部 ほくぶ の職人 しょくにん の家系 かけい の出 だし であり、シュラフタではない。また、欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)の欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 議長 ぎちょう で元 もと 首相 しゅしょう のイェジ・ブゼク もシュラフタではなく、ポーランド南部 なんぶ で代々 だいだい 著名 ちょめい な学者 がくしゃ や政治 せいじ 家 か を輩出 はいしゅつ している平民 へいみん の家系 かけい の出 だし である。元 もと 大統領 だいとうりょう のレフ・ヴァウェンサ (レフ・ワレサ)も平民 へいみん 階級 かいきゅう の家系 かけい の出 だし である。ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく でもポーランド共和 きょうわ 国 こく でも国会 こっかい (下院 かいん )に、シュラフタ時代 じだい の国会 こっかい 同様 どうよう の「セイム(議会 ぎかい )」の名称 めいしょう が使用 しよう されている。また、1989年 ねん に復活 ふっかつ した国会 こっかい 上院 じょういん にはシュラフタ時代 じだい の元老 げんろう 院 いん 同様 どうよう の「セナト(元老 げんろう 院 いん )」の名称 めいしょう が復活 ふっかつ した。
ここでは、ポーランドおよび世界 せかい の現代 げんだい 史 し に登場 とうじょう する、旧 きゅう シュラフタの家柄 いえがら の人々 ひとびと を挙 あ げる。
^ Topór-Jakubowski, Theodore (2002). Sulima-Suligowski, Leonard Joseph, ed. "Claiming Inherited Noble Status" (PDF). WHITE EAGLE: JOURNAL OF THE POLISH NOBILITY ASSOCIATION FOUNDATION (Villa Anneslie, Towson, Baltimore, Baltimore county, MARYLAND, U.S.A.: Polish Nobility Association Foundation) 2002 (Spring/Summer): 5. "the Polish-Lithuanian Commonwealth of Two Nations (from 1385 until the Third Partition of 1795) paralleled the Roman Empire in that -- whether we like it or not -- full rights of citizenship were limited to the governing elite, called szlachta in Polish ... It is not truly correct to consider the szlachta a class; they actually were more like a caste, the military caste, as in Hindu society."
^ a b c http://pnaf.us/commonwealth.htm
^ a b Dan D. Y. Shapira. Turkism, Polish Sarmatism and ‘Jewish szlachta’: Some Reflections on a Cultural Context of the PolishLithuanian Karaites // Journal of Black Sea Studies (Karadeniz Araştırmaları) , issue: 20 / 2009
^ Selim Mirza-Juszeński Chazbijewicz, "Szlachta tatarska w Rzeczypospolitej" (Tartar Nobility in the Polish-Lithuanian Commonwealth), Verbum Nobile no 2 (1993), Sopot, Poland
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^ Mieses, Mateusz (1938). Polacy–Chrześcijanie pochodzenia żydowskiego. Warsaw: Wydawn.
^ キリスト教徒 きりすときょうと の中 なか ではカトリック 、正教 せいきょう 、プロテスタント 諸派 しょは などといった、あらゆる宗派 しゅうは が存在 そんざい した。
^ Niesiecki S.J., Kasper; Bobrowicz, Jan Nepomucen (1846). Herbarz Polski (PDF) (in Polish) I.. Leipzig, Saxony, GERMANY: Breitkopf & Härtel. Retrieved 13 Oct 2014.
^ Davies, Norman (1982). God's Playground: A History of Poland, Volume I - The Origins to 1795. Columbia University Press. ISBN 0-231-05351-7 .
^ 岡山大学 おかやまだいがく 教授 きょうじゅ の田口 たぐち 雅弘 まさひろ が日本 にっぽん ・ポーランド協会 きょうかい で行 おこな った講演 こうえん の原稿 げんこう