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士族しぞく

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士族しぞく(しぞく)は、明治維新めいじいしん以降いこう江戸えど時代じだいきゅう武士ぶし階級かいきゅう地下ちか公家くげ寺院じいん使用人しようにんのうち、原則げんそくとしてろくり、華族かぞくとされなかったものあたえられた身分みぶん階級かいきゅう族称ぞくしょうである。法律ほうりつじょう平民へいみんしての特権とっけんはなかったが、戸籍こせき表示ひょうじされた[1]だい世界せかい大戦たいせんのち1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にち日本国にっぽんこく憲法けんぽう[2][3][4][5][6][7]施行しこうにより士族しぞく身分みぶんとともに廃止はいしされた。戸籍こせき記載きさい事項じこうとしての廃止はいしは、1947ねん12月22にち公布こうふ、1948ねん1がつ1にち施行しこう戸籍こせきほうによりおこなわれた。士農工商しのうこうしょうの「」である。

概要がいよう

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1869ねん明治めいじ2ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん直後ちょくご明治めいじ2ねん旧暦きゅうれき6がつ25にち西暦せいれき1869ねん8がつ2にち)、明治めいじ政府せいふきゅう武士ぶし階級かいきゅう藩士はんし兵卒へいそつ)のうち、一門いちもんからたいらまでを士族しぞくぶことをさだめた(明治めいじ2ねん行政ぎょうせいかんたちだいななろくななななななはちごう)。士族しぞく選定せんてい基準きじゅんはんによってことなるが、加賀かがはん場合ばあいでは、直参じきさん身分みぶんであった足軽あしがるそう一部いちぶ上級じょうきゅう士族しぞく家臣かしんである陪臣ばいしんそう士族しぞくとされていた[8]一方いっぽうで、中間ちゅうかんなどの武家ぶけ奉公人ほうこうにんそつぞく編入へんにゅうされた[9]政府せいふ方針ほうしんとしては旧来きゅうらい武士ぶし身分みぶん統一とういつはかるものであったが、おおくのはんでは独自どくじ上中かみなかなどの等級とうきゅうをつけ、旧来きゅうらい家格かかく制度せいど維持いじしようとした[10]

一門いちもん以下いかたいらいたりまでそう士族しぞくしょうごと

さらに明治めいじ2ねん旧暦きゅうれき12がつ2にち西暦せいれき1870ねん1がつ3にち)、かつての旗本はたもとしん政府せいふ帰順きじゅんあたえられていたなかした大夫たいふ上士じょうし以下いかしょう廃止はいしされ、華族かぞく編入へんにゅうされた一部いちぶ交代こうたい寄合よりあいのぞいて士族しぞく編入へんにゅうされた(明治めいじ2ねん太政官だじょうかんぬのだい1004ごう[11]

明治めいじ3ねん旧暦きゅうれき12がつ10日とおか西暦せいれき1871ねん1がつ30にち)には、華族かぞくとみなされなかったおおくの地下ちか公家くげつかえていた青侍あおざむらいなどの家臣かしんそう士卒しそつぞく統合とうごうされた。その寺社じしゃ寺侍てらざむらいなども段階だんかいてき士卒しそつぞく統合とうごうされた。その一方いっぽうで、給金きゅうきん財源ざいげん不足ふそくへの対策たいさくとして帰農きのうしょう推奨すいしょうされ、士卒しそつぞくから平民へいみんへの転籍てんせき推進すいしんされた。また蔵米くらまい等級とうきゅう変更へんこうにより、一部いちぶそつぞくから士族しぞくへのぞくせき変更へんこうおこなわれた。

1872ねん明治めいじ5ねん)にへんせいされた戸籍こせきみずのえさる戸籍こせき」においてはぞくせき項目こうもくもうけられた。当時とうじ全国ぜんこく集計しゅうけいによる士族しぞく人口じんこうは、ぜん国民こくみんの3.9%をめる25まん8952、128まん2167にんであった。また、そつぞく人口じんこうぜん国民こくみんの2.0%をめる16まん6873、65まん9074にんで、士族しぞくそつぞく[12]人口じんこうぜん国民こくみんやく6%をめた(くわしくはみずのえさる戸籍こせき項目こうもく参照さんしょう)。

明治めいじ5ねん旧暦きゅうれき1がつ29にち(1872ねん3がつ8にち)、そつぞくしょう廃止はいしされた。そつぞくのうち世襲せしゅうであったいえもの士族しぞく編入へんにゅうされることとなった一方いっぽう新規しんきいちだいかぎりでそつやとわれたもの平民へいみん復籍ふくせきすることとなった(明治めいじ5ねん太政官だじょうかんぬのだい29ごう)。

かく府県ふけんぬきぞくそつうち従前じゅうぜんばんだいふしだきがえしょうヲ以テ其倅とうろくだか給与きゅうよ自然しぜん世襲せしゅう姿すがた相成あいな居候いそうろうぶん自今じこん士族しぞく おおせづけこうじょう調書ちょうしょヲ以大蔵省おおくらしょう伺出ゆうろく従前じゅうぜんつうしょう心得こころえごと
ただし新規しんきいちだいげんだきやから平民へいみん復籍ふくせきセシメきゅうろく是迄これまでつうこと

明治めいじ5ねん初頭しょとう時点じてんそつぞくだったものの9わりちかくは、士族しぞく移行いこうしている。明治めいじ8ねんまでにはそつぞく完全かんぜん解体かいたいされ、世襲せしゅう郷士ごうし階級かいきゅう士族しぞく統合とうごうされた。明治めいじ9ねん時点じてんで、士族しぞくは40まん8861 189まん4784にんかぞえ、ぜん国民こくみんの5.5%めた。

士卒しそつぞく人口じんこう構成こうせい明治めいじ3~9ねん[13]
調査ちょうさ期日きじつ 士族しぞく人口じんこう そつぞく人口じんこう そう人口じんこう[14] 士族しぞく/そう人口じんこう(%) そつぞく/そう人口じんこう(%)
明治めいじ3ねんごろ[15] 1,094,890 830,707 30,088,335 3.64 2.76
明治めいじ5ねん旧暦きゅうれき1がつ29にち 1,282,167 659,074 33,110,796 3.87 1.99
明治めいじ6ねん1がつ1にち 1,548,568 343,881 33,300,644 4.65 1.03
明治めいじ7ねん1がつ1にち 1,883,265 7,246 33,625,646 5.60 0.02
明治めいじ8ねん1がつ1にち 1,896,371 4,306 33,997,415 5.58 0.01
明治めいじ9ねん1がつ1にち 1,894,784 34,338,367 5.52

なお、法的ほうてきには士卒しそつぞくとしてあつかわれなかった、陪臣ばいしん武家ぶけ奉公人ほうこうにんとうふくきゅう武士ぶし階級かいきゅうそう人口じんこうについては諸説しょせつあるものの、たとえば士族しぞく授産じゅさん対象たいしょうとなったきゅう武家ぶけ人口じんこうがほぼ士族しぞく人口じんこうばいであったことからそう人口じんこうの10.4%程度ていどであるとする試算しさん[16]や、『はんせい一覧いちらん掲載けいさい人口じんこう石高こくだかからやく336まんにんであるとする試算しさん[17]がある。きゅう武士ぶし出身しゅっしんしゃ平民へいみんせき取得しゅとく経路けいろとして、陪臣ばいしん武家ぶけ奉公人ほうこうにんれい以外いがいにも、たとえば以下いかのような事例じれいがあげられる。

  • 明治めいじ5ねんそつぞく廃止はいしともなうもの
  • 帰農きのうしょう推奨すいしょう明治めいじ3ねんから明治めいじ4ねんにかけて、明治めいじ政府せいふ帰農きのうしょう出願しゅつがんしゃ一時いちじ賜金しきん下府しもこうし、みんせき取得しゅとく推奨すいしょうした)
  • 刑罰けいばつとしての除籍じょせき
  • 脱藩だっぱん浪人ろうにん江戸えど時代じだい浪人ろうにんくわえ、戊辰戦争ぼしんせんそう戊辰戦争ぼしんせんそう幕府ばくふかた処分しょぶん改易かいえきにより発生はっせいしたもの)/
  • 手続てつづきの不備ふび

士族しぞくまれたものであっても、ぶんせきした場合ばあい平民へいみんとされた。大正たいしょう時代じだい平民へいみん宰相さいしょうはらたかし上級じょうきゅう武士ぶし家柄いえがらであったが、当時とうじ徴兵ちょうへい制度せいど戸主こしゅ兵役へいえき義務ぎむから免除めんじょされる規定きていけるため、20さいのときにぶんせきして戸主こしゅとなり「平民へいみん」に編入へんにゅうされた。

士族しぞく特権とっけん喪失そうしつ

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江戸えど時代じだいまでの武士ぶし階級かいきゅう戦闘せんとう参加さんかする義務ぎむ一方いっぽう主君しゅくんより世襲せしゅうの俸禄(いえろく)をけ、名字みょうじ帯刀たいとう殺人さつじんけん切捨きりすて御免ごめん)などの身分みぶんてき特権とっけんっていた。こうした旧来きゅうらい封建ほうけんせいてき社会しゃかい制度せいどは、明治めいじ政府せいふおこな四民しみん平等びょうどう徴兵ちょうへいせいなどの近代きんだい政策せいさくおこなうにあたり障害しょうがいとなった。1869ねん明治めいじ2ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんで、武士ぶし身分みぶん大半たいはん士族しぞくとして政府せいふぞくすることになるが、士族しぞくへの秩禄支給しきゅう政府せいふ財政ざいせい圧迫あっぱくし、国民こくみんぐん創設そうせつにおいても士族しぞくのこ特権とっけん意識いしき支障ししょうとなるため、士族しぞく身分みぶん解体かいたい政治せいじ課題かだいとなった。

士族しぞく特権とっけん段階だんかいてき剥奪はくだつされ、1873ねん明治めいじ6ねん)には徴兵ちょうへいせい施行しこうにより国民こくみん皆兵かいへいさだめ、1876ねん明治めいじ9ねん)には廃刀はいとうれい実施じっしされた。秩禄制度せいどは、1872ねん給付きゅうふ対象たいしょうしゃしぼぞくせき整理せいりおこなわれ、1873ねんには秩禄の返上へんじょうえに資金しきん提供ていきょう可能かのうとする秩禄公債こうさい発行はっこうおこなわれた。そして、1876ねんきむろく公債こうさい発行はっこうし、兌換だかんすべての受給じゅきゅうしゃ強制きょうせいする秩禄処分しょぶんおこなわれ制度せいど終了しゅうりょうした。また、名字みょうじ名乗なのりは1870ねん平民へいみんにも許可きょかされ、1875ねんには義務ぎむされた(国民こくみんみなせい)。このほかにも1871ねんにはことなる身分みぶん職業しょくぎょうあいだ結婚けっこんみとめられるようになった。一時いちじ士族しぞく華族かぞくべつての爵位しゃくい授与じゅよしようという議論ぎろん岩倉いわくら具視ともみらにより模索もさくされていた。1876ねん明治めいじ9ねん)の木戸きど孝允たかよしらのあんでは、華族かぞく公爵こうしゃく伯爵はくしゃく士族しぞく爵位しゃくいさづけることが構想こうそうされていたが、木戸きど士族しぞく反乱はんらんなどがかさなり、沙汰さたやみとなった。

1884ねん明治めいじ17ねん)の華族かぞくれいにより勲功くんこうしゃ華族かぞくとなるみちひらかれ、維新いしん功労こうろうしゃ功績こうせきげた政治せいじ軍人ぐんじん事業じぎょう成功せいこうした資産しさんなどが華族かぞくれっするようになった。この勲功くんこう華族かぞく制度せいど誕生たんじょう平民へいみん士族しぞく華族かぞくへのみちひらかれ、一部いちぶ華族かぞくになった[18]。しかし勲功くんこう華族かぞく昇格しょうかくできた士族しぞくはごく一部いちぶにとどまり、大半たいはん士族しぞくのままだった。士族しぞく平民へいみんして特権とっけん一切いっさいなく、たん戸籍こせきにおける族称ぞくしょうのみだけの存在そんざいである[19][20]。1914ねん戸籍こせきほう改正かいせいにより身分みぶん登記とうきせい廃止はいしされたとする事典じてん記載きさい[21]があるが、1914ねん3がつ31にち公布こうふされ、戸籍こせきほう大正たいしょう3ねん3がつ31にち法律ほうりつだい26ごう)は、それまでの戸籍こせきほう明治めいじ31ねん6がつ21にち法律ほうりつだい12ごう)が、戸籍こせき簿身分みぶん登記とうき簿のニ本立ほんたてであったものを、戸籍こせき簿一本いっぽんしたものであり、それまでの身分みぶん登記とうき事項じこう戸籍こせき事項じこうとなったのである。したがって、制度せいどとしての身分みぶん登記とうきせい廃止はいしは、そのとおりであるが、戸籍こせき記載きさい事項じこうとしては、戸籍こせきほう大正たいしょう3ねん3がつ31にち法律ほうりつだい26ごうだい18じょう戸籍こせき記載きさい事項じこう華族かぞくまた士族しぞく場合ばあい族称ぞくしょう記載きさいし、だい154じょうおよだい156じょう士族しぞくになった場合ばあいまた士族しぞくでなくなった場合ばあい手続てつづき規定きていしており、1914ねん変更へんこうされてはいない。

士族しぞく商法しょうほう

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四民しみん平等びょうどうへと移行いこうされる過程かていで、士族しぞく身分みぶん平民へいみんなんわらない存在そんざいとなっていき、生計せいけいてるため農業のうぎょう商業しょうぎょうはじめた。塚原渋柿園つかはらじゅうしえんによると、商業しょうぎょうもっとおおかったのは、汁粉しるこ団子だんごすみたきぎ古道具ふるどうぐなどであったという。とく屋敷やしき長屋ながやなどで先祖せんぞ代々だいだい家財道具かざいどうぐならべた安直あんちょく古道具ふるどうぐ供給きょうきゅうたいして需要じゅようすくなく、横柄おうへい堅苦かたくるしいきゃく応対おうたいもあり、庶民しょみん憐憫れんびん嘲笑ちょうしょうった。

このように、特権とっけんうしなった士族しぞくれない商売しょうばいして失敗しっぱいするれいおおく、「士族しぞく商法しょうほう」、「殿様とのさま商売しょうばい」と批難ひなんされ、性急せいきゅう不慣ふなれな商売しょうばいなどをはじめて失敗しっぱいすることのたとえともなった。落語らくごのネタにもなり、さんゆうていえんせいの『士族しぞく商法しょうほう』、はち代目だいめかつら文楽ぶんらくの『素人しろうとうなぎ』はとく有名ゆうめいである。また、歌舞伎かぶきでは『水天すいてんみや利生りしょう深川ふかがわ』、『霜夜しもよがねじゅうつじ』がきりぶつ代表だいひょうさくとなっている。

こうした状況じょうきょうたい政府せいふによる救済きゅうさい措置そちとして、困窮こんきゅうした士族しぞく救済きゅうさいする士族しぞく授産じゅさんなどがおこなわれたが、やはり失敗しっぱいするれいおおかった。西郷さいごう隆盛たかもりとなえたせいかんろんにも士族しぞく救済きゅうさいという側面そくめんがあったが、西郷さいごう政争せいそうやぶ実現じつげんしなかった。特権とっけんうばわれた士族しぞく一部いちぶしん政府せいふ政策せいさく不平ふへいとなえて(不平ふへい士族しぞく各地かくち反乱はんらん士族しぞく反乱はんらん)をこした。しかし、不平ふへい士族しぞく反乱はんらんはすぐに鎮圧ちんあつされ、おおくは没落ぼつらくして故郷こきょうかえるなどした。

このことも風刺ふうし対象たいしょうとなり士族しぞく商法しょうほうとかけて「有平糖あるへいとう」(不平ふへいとう)、「おいも頑固がんこ不平ふへいおこし」(薩摩さつま士族しぞく)などと皮肉ひにくられた[22]。なお、不平ふへい士族しぞくには政治せいじ運動うんどう士族しぞく民権みんけん」を展開てんかいするものもあり、のち豪農ごうのうむす自由じゆう民権みんけん運動うんどうへと移行いこうした。

ただし、士族しぞくなかでも知識ちしき人脈じんみゃく既得きとく権益けんえきかして実業じつぎょう転向てんこうするものられ[23]れいとして、日産にっさんコンツェルン創始そうししゃ鮎川あいかわ義介ぎすけ日本にっぽんはつ百貨店ひゃっかてん三越みつこし百貨店ひゃっかてん創立そうりつしゃ日比ひび翁助おうすけなどがげられる。また、士族しぞく銀行ぎんこう殿様とのさま銀行ぎんこうばれる士族しぞく資産しさんかした銀行ぎんこう国立こくりつ銀行ぎんこう)が設立せつりつされ、日本にっぽん殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく活性かっせいさせた。武芸ぶげい学問がくもんつうじたものは、軍人ぐんじん警察官けいさつかん教師きょうしなど官吏かんり転向てんこうしたり、かつての藩主はんしゅ藩士はんし縁故えんこ関係かんけいからけんぐん役所やくしょ採用さいようされたれいおおい。酪農らくのうのように、元来がんらい農民のうみんがこれを忌避きひしたがために、士族しぞくがこれをがけて成功せいこうしたれいもある。

琉球りゅうきゅうはん沖縄おきなわけん士族しぞく

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明治めいじ政府せいふにより琉球りゅうきゅう王国おうこく琉球りゅうきゅうはんとされたのち王子おうじ華族かぞく構成こうせいいんとし、位階いかい筑登以上いじょう階級かいきゅうのものが士族しぞくとされた[24]。筑登階級かいきゅう基本きほんてきろくであったが、王朝おうちょう時代じだい私有地しゆうち獲得かくとくしていたため、ろくけていた上級じょうきゅう士族しぞくよりかえってゆたかになることもあった[25]

士族しぞく実態じったい

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士族しぞく人口じんこう構成こうせい

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明治めいじ6ねん(1873ねん以降いこう年々ねんねん国民こくみんそう人口じんこうおよ士族しぞく人口じんこう増加ぞうか傾向けいこうをたどったが、そう人口じんこうめる士族しぞく割合わりあいは、士卒しそつ合併がっぺいがほぼ完了かんりょうした明治めいじ7ねん(1874ねん)の5.6%からほぼ単純たんじゅん減少げんしょうしめしている。平民へいみん自然しぜんぞうくわえ、士族しぞく世帯せたいから長男ちょうなん以外いがい男子だんしぶんせきして平民へいみん移行いこうすることも原因げんいんとしてげられる[26]

以下いか明治めいじ9ねん(1876ねん以降いこう士族しぞく人口じんこう変遷へんせんをまとめる。

士族しぞく人口じんこう変遷へんせん明治めいじ9~大正たいしょう7ねん[27]
調査ちょうさ期日きじつ 士族しぞく人口じんこう そう人口じんこう[14] 士族しぞく人口じんこう
増加ぞうか指数しすう[28]
そう人口じんこう
増加ぞうか指数しすう[28]
士族しぞく人口じんこう
割合わりあい(%)
明治めいじ9ねん1がつ1にち 1,894,784 34,338,367 100.00 100.00 5.52
明治めいじ12ねん1がつ1にち[29] 1,833,357 35,768,547 96.76 104.16 5.13
明治めいじ13ねん1がつ1にち[29] 1,838,486 35,929,023 97.03 104.63 5.12
明治めいじ14ねん1がつ1にち 1,933,888 36,358,955 102.06 105.88 5.32
明治めいじ15ねん1がつ1にち 1,931,824 36,700,079 101.95 106.88 5.26
明治めいじ16ねん1がつ1にち 1,930,112 37,017,262 101.86 107.80 5.21
明治めいじ17ねん1がつ1にち 1,945,638 37,451,727 102.68 109.07 5.20
明治めいじ18ねん1がつ1にち 1,938,204 37,868,949 102.29 110.28 5.12
明治めいじ19ねん1がつ1にち 1,948,283 38,151,217 102.82 111.10 5.11
明治めいじ19ねん12月31にち 1,940,271 38,507,177 102.40 112.14 5.04
明治めいじ20ねん12月31にち 1,954,669 39,069,691 103.16 113.78 5.00
明治めいじ21ねん12月31にち 1,976,480 39,607,234 104.31 115.34 4.99
明治めいじ22ねん12月31にち 1,993,637 40,072,020 105.22 116.70 4.98
明治めいじ23ねん12月31にち 2,008,641 40,453,461 106.01 117.81 4.97
明治めいじ24ねん12月31にち 2,009,396 40,718,677 106.05 118.58 4.93
明治めいじ25ねん12月31にち 2,014,306 41,089,940 106.31 119.66 4.90
明治めいじ26ねん12月31にち 2,024,317 41,388,313 106.84 120.53 4.89
明治めいじ27ねん12月31にち 2,039,591 41,813,215 107.64 121.77 4.88
明治めいじ28ねん12月31にち 2,050,144 42,270,620 108.20 123.10 4.85
明治めいじ29ねん12月31にち 2,067,997 42,708,264 109.14 124.37 4.84
明治めいじ30ねん12月31にち 2,089,134 43,228,863 110.26 125.89 4.83
明治めいじ31ねん12月31にち 2,105,698 43,758,415 111.13 127.43 4.81
明治めいじ36ねん12月31にち 2,168,058 46,732,138 114.42 136.09 4.64
明治めいじ41ねん12月31にち 2,218,623 49,587,531 117.09 144.41 4.47
大正たいしょう2ねん12月31にち 2,310,269 53,362,189 121.93 155.40 4.33
大正たいしょう7ねん12月31にち 2,298,719 56,667,328 121.32 165.03 4.06

母体ぼたいとしての士族しぞく士族しぞく官職かんしょく保有ほゆうりつゆうしゃすう

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階級かいきゅう」としての武士ぶし平準へいじゅんせまられた一方いっぽうで、江戸前えどまえまで支配しはいになってきた階級かいきゅうとして、あつかいにこまっていたが、明治めいじしん政府せいふ藩閥はんばつ制度せいどよりひきいられた政府せいふであり、役人やくにん当初とうしょかくはんからの「ちょう」「みつぎ」という人材じんざい供出きょうしゅつよりはじまったものであるため、版籍はんせき奉還ほうかん藩主はんしゅはん知事ちじきゅう藩士はんしたちははんとしてつとめ、府県ふけん移行いこうしたのち奉職ほうしょくしたものおおい。明治めいじ14ねん1881ねん段階だんかい中央ちゅうおう地方ちほうかんにおける士族しぞく官職かんしょく保有ほゆうりつ割合わりあいると、官員かんいん総数そうすうやく7まん8000にんのうち、士族しぞく任官にんかんしゃやく5まん2せんにん地方ちほうぐん町村ちょうそん吏においてもやく9まん2せんにんのうち士族しぞく割合わりあいは1まん5せんにんと、比較的ひかくてきたか割合わりあいめていた[30]したがえいちからしたがえはちまでのゆうしゃ割合わりあい明治めいじ17ねん1884ねん)から明治めいじ36ねんまで7わりから6わりあいだ推移すいいしていた(しかし授与じゅよされたゆうしゃ士族しぞく救済きゅうさいする役目やくめもあったため、割合わりあいおおめである)[31]。このことから、ぞくせきとしては特権とっけんうしな一方いっぽう明治めいじしん政府せいふ地方ちほう行政ぎょうせいなかでは既得きとく権益けんえき維持いじした士族しぞくもいたことがわかる。なお、官吏かんり募集ぼしゅう人数にんずうすくなかったため、すべての士族しぞくけたわけではなく、転向てんこうする羽目はめとなった士族しぞくおおい。のち下記かきとお選抜せんばつ実力じつりょくされると、割合わりあいとしては急激きゅうげき減少げんしょうしていき平民へいみんわっていった。

明治めいじ14ねん官職かんしょく保有ほゆう士族しぞく戸数こすう比率ひりつ[32]
官員かんいん中央ちゅうおう府県ふけんどうぶん武官ぶかん司法官しほうかん監獄かんごくかん技術ぎじゅつかん総数そうすう7まん8328にん(うち士族しぞく5まん2032にん
こおり町村ちょうそん吏 総数そうすう9まん266にん(うち士族しぞく1まん5524にん
士族しぞく そう戸数こすう 425658
ゆうしゃしたがえいちしたがえはちぞくせきべつ構成こうせい[33]
としぞくせきべつ構成こうせい ぞくせきべつ構成こうせいひと 占有せんゆうりつ(%) 人口じんこういちまんにんあたりの輩出はいしゅつりつ
華族かぞく 士族しぞく 平民へいみん 合計ごうけい 華族かぞく 士族しぞく 平民へいみん 士族しぞく 平民へいみん
明治めいじ17ねん(1884ねん

19
29
36

693

683
949
1,121

4,832

6,053
10,496
21,324

692

1,059
5,247
10,589

6,217

7,795
16,692
33,034

11.1

8.8
5.7
3.4

77.7

77.7
62.9
64.6

11.1

13.6
31.4
32.1

24.8

31.2
50.8
98.4

0.2

0.3
1.3
2.4

士族しぞく教育きょういく水準すいじゅん職業しょくぎょう選択せんたく輩出はいしゅつ母体ぼたいとしての士族しぞく

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明治維新めいじいしん以降いこうも、士族しぞく比較的ひかくてき教育きょういく水準すいじゅんっていたとされる。明治めいじには、帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく)を頂点ちょうてんとする高等こうとう教育きょういく機関きかん整備せいびすすめられたが、当時とうじの『文部省もんぶしょう年報ねんぽう』をると、帝国ていこく大学だいがくである高等こうとう中学校ちゅうがっこう旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう生徒せいとめる士族しぞく割合わりあいは、明治めいじ前期ぜんきにあたる明治めいじ19ねん1886ねん)から25ねん1892ねん)までの統計とうけいでおおむね半数はんすうちかく、ひく年度ねんどでも3わりきょうめた。明治めいじ43ねん統計とうけいでは士族しぞく割合わりあい低下ていかするものの、それでも高等こうとう学校がっこう生徒せいとめる士族しぞく割合わりあいは3わりちかくを維持いじしていた[34]

高等こうとう中学校ちゅうがっこう生徒せいとぞくせき分布ぶんぷ[35]
   華族かぞく 士族しぞく 平民へいみん 総数そうすう
明治めいじ19ねんいちだかちゅう

明治めいじ20ねんいちだかちゅう
明治めいじ20ねん三高さんこうちゅう
明治めいじ21ねんだかちゅう
明治めいじ23ねん全高ぜんこうなか
明治めいじ24ねん全高ぜんこうなか
明治めいじ25ねん全高ぜんこうなか

0.2%

0.3
0.3
0.0
0.2
0.1
0.2

60.9%

60.0
37.3
77.3
51.5
51.4
51.6

38.9%

39.7
62.4
22.7
48.4
48.5
48.2

1,188

1,048
319
260
3,982
4,442
4,443

明治めいじ43ねん高等こうとう学校がっこう生徒せいとぞくせき分布ぶんぷ外国がいこくじんのぞく)[36]
   華族かぞく 士族しぞく 平民へいみん 合計ごうけい
いちだか*

だか
三高さんこう
だか
ろくだか
ななだか

1.1%

0.3
0.2
0.0
0.0
0.3

27.1%

25.0
25.4
40.8
24.1
33.7

71.8%

74.7
74.3
59.2
75.9
66.0

273

739
869
868
601
726

一連いちれん教育きょういく制度せいどととのい、ぞくせきかかわらず進学しんがくみちひらかれる一方いっぽうで、官吏かんり登用とうようめんでも国民こくみんひろ任用にんよう機会きかいひらかれた。明治めいじ20ねん1887ねん)、文官ぶんかん試験しけん試補しほ見習みならい規則きそくととのい、能力のうりょく試験しけんもとづく官吏かんり任用にんようはじまったが、士族しぞく子弟してい任用にんようひくくても2わりから3わりめた(以下いかおもて 文官ぶんかん高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい合格ごうかくしゃぞくせきべつ構成こうせい参照さんしょう)。地方ちほう吏員りいん任用にんようも、戸長こちょう以外いがいぐんちょう書記しょきなどの公職こうしょくにもられ、士族しぞく転向てんこうふくめてかく職業しょくぎょう母体ぼたいとして存在そんざいしていたことがわかる。

文官ぶんかん高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい合格ごうかくしゃぞくせきべつ構成こうせい[37]
としだかぶん合格ごうかくしゃ構成こうせい ぞくせきべつ構成こうせいひと 占有せんゆうりつ(%)
華族かぞく 士族しぞく 平民へいみん 合計ごうけい 士族しぞく(%) 平民へいみん(%)
明治めいじ27ねん(1894ねん

28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
大正たいしょう1ねん(1912ねん
2
3
4
5
6

0

0
0
0
0
0
1
0
0
0
3
2
0
0
2
0
1
2
1
5
1
1
1
0

2

16
26
24
24
12
21
17
18
21
15
26
24
24
33
48
46
42
44
56
49
38
22
42

4

21
24
30
17
19
36
25
23
32
36
36
39
53
71
82
83
95
103
119
123
97
92
82

6

37
50
54
41
31
58
42
41
53
54
64
63
77
106
130
130
139
148
180
173
136
115
124

33.3

43.2
52.0
44.0
58.5
38.7
36.2
40.5
43.9
39.6
27.8
40.6
38.1
31.2
31.1
36.9
35.4
30.2
29.7
31.1
28.3
27.9
19.1
33.9

66.7

56.8
48.0
55.0
41.5
61.3
62.1
59.5
56.1
60.4
66.4
56.3
61.9
68.8
67.0
63.1
63.8
69.1
69.6
66.1
71.1
71.3
80.0
66.1

地方ちほう吏員りいんぐん吏)ぞくせきべつ構成こうせい明治めいじ15~21ねん)(ひと[38]
ぐん区長くちょう 書記しょき 戸長こちょう 合計ごうけい
士族しぞく 平民へいみん 士族しぞく 平民へいみん 士族しぞく 平民へいみん 士族しぞく 平民へいみん 全体ぜんたい華族かぞくふくむ)
明治めいじ15ねん(1882ねん

16
17
18
19
20
21

380

369
380
399
378
399
397

151

160
156
146
125
128
122

4,289

4,449
4,911
4,959
2,886
3,022
2,866

2,331

2,436
2,812
2,972
1,695
1,793
1,664

3,833

3,303
3,166
3,423
3,531
3,521
3,485

29,924

25,831
10,603
8,013
7,644
7,489
7,525

8,502

8,121
8,457
8,781
6,795
6,795
6,942

32,406

28,427
13,571
11,131
9,464
9,410
9,311

40,913

36,548
22,028
19,912
16,259
16,352
16,059

官吏かんり以外いがいでは、教員きょういんしょく重要じゅうよう職業しょくぎょう選択せんたくみちであった。中学校ちゅうがっこう高校こうこう師範しはん学校がっこう校長こうちょう教員きょういん書記しょき占有せんゆうりつ明治めいじ15ねん1882ねん)でおおくをめ、小学校しょうがっこうでも、半数はんすう程度ていど占有せんゆうりつゆうし、事務じむいんいたってはほぼ士族しぞくであった(以下いかおもて ぜん国公立こっこうりつ学校がっこう職員しょくいんぞくせきべつ構成こうせい参照さんしょう)。なおデータは明治めいじ初期しょきのものであるため、こちらについてものち平民へいみんわることとなっていく。

全国ぜんこく国公立こっこうりつ学校がっこう職員しょくいんぞくせきべつ構成こうせい明治めいじ15ねん12がつ調ちょう[39]
ぞくせきべつ構成こうせいひと 占有せんゆうりつ(%) 人口じんこういちまんにんあたりの輩出はいしゅつりつ
華族かぞく 士族しぞく 平民へいみん 合計ごうけい 士族しぞく(%) 平民へいみん(%) 士族しぞく 平民へいみん
地方ちほうぜい支弁しべん学校がっこう


中学校ちゅうがっこう師範しはん学校がっこうなど)

校長こうちょう

教員きょういん
書記しょきなど


61

962
252

17

260
70

78

1,222
322

78.2

78.7
78.3

21.8

21.3
21.7

小計しょうけい (a) 1,275 347 1,622 78.6 21.4
協議きょうぎ支弁しべん学校がっこう


小学校しょうがっこうなど)

校長こうちょう

教員きょういん
書記しょきなど

2

259

29,507
12

167

41,440

426

70,949
12

60.8

41.6
100.0

39.2

58.4

小計しょうけい (b) 2 29,778 41,607 71,387 41.7 58.3
けい (a+b) 2 31,053 41,954 73,009 42.5 57.5 160.7 12.1
中学校ちゅうがっこう師範しはん学校がっこう給仕きゅうじ小使こづかい (c)

小学校しょうがっこうとう給仕きゅうじ小使こづかい (d)

157

857

396

11,368

553

12,225

28.4

7.0

71.6

93.0

けい (c+d) 1,014 11,764 12,778 7.9 92.1

士族しぞく意義いぎ

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以上いじょうのように、士族しぞく社会しゃかいてき優位ゆういせい特権とっけんなど制度せいどてき恩典おんてん喪失そうしつしつつ、明治めいじ中期ちゅうきまでは日本にっぽんである一定いってい水準すいじゅんなどといった社会しゃかいてき地位ちい一端いったんになってきた。

これら士族しぞくなにらか恩恵おんけいがあるとすれば、わずかにだい世界せかい大戦たいせんまえまで履歴りれきしょや『紳士録しんしろく』のるい士族しぞくという記載きさいのこり(「○○けん士族しぞく」)、学校がっこう卒業生そつぎょうせいには卒業そつぎょう証書しょうしょに、大学だいがく学位がくい授与じゅよされたもの学位がくいに、士族しぞく族称ぞくしょう併記へいきされた。そうしたわずかな慣習かんしゅういくふん名誉めいよてき意味いみち、家柄いえがらほこ気分きぶん士族しぞくあたえた。

このような記載きさいも、1915ねんから1920ねんにかけて消滅しょうめつすすんでいる。だい世界せかい大戦たいせんまえまでは官立かんりつ大学だいがく専門せんもん学校がっこう入学にゅうがくしゃ卒業生そつぎょうせい官報かんぽう彙報いほう掲載けいさいされたが、1920ねん以降いこう族称ぞくしょう記載きさいられない。

士族しぞく家庭かてい墓石はかいしには「○○けん士族しぞく 何某なにぼうはか」とったれいられる。新潟にいがたいずみせいてらにある皇后こうごう雅子まさこ祖父そふ小和田こわだ金吉かねきちちちとされる小和田こわだただし明治めいじ7ねん1874ねん)7がつ28にちぼつ)の墓碑ぼひには「新潟にいがたけんぬきぞく 士族しぞく村上むらかみじゅう 小和田こわだただし」ときざまれている[40]

のう商務省しょうむしょう時代じだいきし信介しんすけ大正たいしょう12ねん(1923ねん))
ひだりからつまきし良子りょうこ長男ちょうなんきし信和のぶかず実弟じってい佐藤さとう栄作えいさくきし信介しんすけ従弟じゅうてい吉田よしだひろし

戦後せんご内閣ないかく総理そうり大臣だいじんつとめたきし信介しんすけ自伝じでんなかで、生家せいか佐藤さとうについて「佐藤さとう貧乏びんぼうでこそあれ家柄いえがらとしては断然だんぜんはなれた旧藩きゅうはん時代じだいからの士族しぞくで、ことに祖父そふ信寛のぶひろ威光いこうがまだかがやいていた。また、叔父おじ叔母おばあにあねなど、いずれも中学校ちゅうがっこう女学校じょがっこうなどに入学にゅうがくし、いわゆる学問がくもんをするほとんど唯一ゆいいつ家柄いえがらだったのである」とべている[41]佐藤さとう家運かうんかたむ貧乏びんぼうになったときも「ウチは県令けんれい士族しぞく家柄いえがらですからね!」とがんとしてくじけず、対外たいがいてき意地いじとおしたという[42]

また、終戦しゅうせん直前ちょくぜん内務ないむ大臣だいじんつとめた安倍あべみなもとはじめは『おも』のなかに「わたし裕福ゆうふくならずと雖も士族しぞくいえまれ、寒村かんそんなりと雖も故郷こきょうをもったことはまこと幸福こうふくであった。…安倍あべ士族しぞくであったことと、故郷こきょうをもっていたことはつねわたし鞭撻べんたつし、しんかつれてれた。…士族しぞく華族かぞくことなりなんとう政治せいじてき特権とっけんをもっているわけではなく、ただ武士ぶし家柄いえがらたいして、明治維新めいじいしんあたえられた族称ぞくしょうぎなかったが、士族しぞく家柄いえがら一般いっぱんから尊敬そんけいけたものである…」としるしている[43]

士族しぞく廃止はいし

[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんの1947ねん戸籍こせきほう改正かいせいによって、士族しぞく族称ぞくしょう廃止はいしとなった[3]以降いこう戸籍こせき族称ぞくしょう表記ひょうきしないことになったが、原本げんぽんにはのこっていたため、1975ねん昭和しょうわ50ねん)ごろまではきゅう戸籍こせき謄本とうほん取得しゅとくした場合ばあいには「士族しぞく」と明記めいきされていたため、わずかに出自しゅつじとして士族しぞくであるかかをるすべがのこることとなった。

しかし、その戸籍こせきじょう記載きさい昭和しょうわ43ねん1968ねん)、族称ぞくしょう記載きさいされた近代きんだいでは最古さいこ戸籍こせきであるみずのえさる戸籍こせき結婚けっこん就職しゅうしょくさいし、かつての差別さべつ階級かいきゅう特定とくていのために悪用あくようされている経緯けいいあきらかとなったことから、法務大臣ほうむだいじんいのちにより閲覧えつらん禁止きんし措置そちがとられ、以降いこう明治めいじ19ねんしき戸籍こせきにおいても族称ぞくしょう記載きさいがある部分ぶぶんぬりあわされ、族称ぞくしょう閲覧えつらんすることが完全かんぜんにできない状態じょうたいとなり、士族しぞく法的ほうてき意味合いみあいは完全かんぜん消滅しょうめつしたといえる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん士族しぞく』 - コトバンク
  2. ^ 日本国にっぽんこく憲法けんぽう - e-Gov法令ほうれい検索けんさく
  3. ^ a b 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『士族しぞく』 - コトバンク
  4. ^ 日本国にっぽんこく憲法けんぽう だい14じょう 山梨やまなしけん
  5. ^ 日本国にっぽんこく憲法けんぽう だい14じょう 水戸みと
  6. ^ 日本国にっぽんこく憲法けんぽう だい14じょう 武蔵野むさしの
    どもと おとなの 日本国にっぽんこく憲法けんぽう
  7. ^ 日本国にっぽんこく憲法けんぽう だい14じょう 逐条ちくじょう解説かいせつ
  8. ^ 井上いのうえよしみじん 2003, pp. 7–8.
  9. ^ 井上いのうえよしみじん 2003, pp. 9–10.
  10. ^ 落合おちあい弘樹ひろき 1999, pp. 37.
  11. ^ 落合おちあい弘樹ひろき 1999, pp. 41–43.
  12. ^ 高松たかまつはん郷士ごうし階級かいきゅうあたえられた固有こゆう族称ぞくしょうで、『はんせい一覧いちらん』では士族しぞくあつかいとなっている。明治めいじ5ねんに646、3316にん(0.01%)。
  13. ^ 明治めいじ5ねんから明治めいじ9ねんまでの統計とうけいは『国勢調査こくせいちょうさ以前いぜん日本人にっぽんじんこう統計とうけい集成しゅうせい収録しゅうろくの『内務省ないむしょう戸籍こせききょく年報ねんぽう』による。
  14. ^ a b 皇族こうぞく人員じんいんのぞ本籍ほんせき人口じんこう
  15. ^ (a) ぶんさとし, 「はんけん所轄しょかつなみ石高こくだか」, 『統計とうけいしゅう』5ごう, pp. 9–22 (1882). (b) ぶんさとし, 1882,「人員じんいんひょう」『統計とうけいしゅう』8ごう, pp. 96–107 (1882). はんけんさんせいしたかくはんけんから上申じょうしんされた数字すうじ集計しゅうけいしたもので、期日きじつ統一とういつされていない、調査ちょうされが多分たぶんにあるなど色々いろいろ統計とうけいじょう問題もんだいがあるが、そつぞく解体かいたい直前ちょくぜん人口じんこう目安めやすとして掲載けいさいする。
  16. ^ 我妻あづまひがしさく, 『明治めいじ社会しゃかい政策せいさく』, 三笠みかさ書房しょぼう, 1940ねん.
  17. ^ 安田やすだ三郎さぶろう, 『社会しゃかい移動いどう研究けんきゅう』, 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい, 1971ねん.
  18. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 30-134.
  19. ^ 羽生はぶみちえいちょ伊藤いとう博文ひろぶみ 近代きんだい国家こっかつくげた宰相さいしょう』(PHP研究所けんきゅうじょ2004ねん) 113ぺーじ参照さんしょう
  20. ^ 浅見あさみ雅男まさおちょ華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ対面たいめん明治めいじ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1999ねん) 72ぺーじ参照さんしょう
  21. ^ 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん士族しぞく』 - コトバンク
  22. ^ 永島ながしま辰五郎たつごろう士族しぞく商法しょうほう』(国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんくら
  23. ^ 早稲田大学わせだだいがくさんけんシリーズ18[1]
  24. ^ 王子おうじ華族かぞく家族かぞく筑登以上いじょう士族しぞくじゅん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A01000035700 「はん人身じんしんぶん法律ほうりつじょう処分しょぶん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A01000035800 
  25. ^ 玉城たまき あつし近世きんせい琉球りゅうきゅうにおけるろく士族しぞく私有地しゆうち獲得かくとく
  26. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつしちょ士族しぞく歴史れきし社会しゃかいがくてき研究けんきゅう武士ぶし近代きんだい-』(名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい1985ねん)55ぺーじ参照さんしょう
  27. ^ 日本にっぽん帝国ていこく統計とうけい年鑑ねんかん』および『日本にっぽん帝国ていこく静態せいたい統計とうけい記載きさい本籍ほんせき人口じんこうによる。
  28. ^ a b 明治めいじ9ねん1がつ1にちづけ人口じんこうを100とする。
  29. ^ a b 比較的ひかくてき士族しぞく割合わりあいたかいとされる鹿児島かごしまけん大隅おおすみこく熊毛くまげぐん馭謨ぐん大島おおしまぐんさんぐん中心ちゅうしんに、ぞくせきしょうもの明治めいじ12ねん1がつ1にち調ちょうで48まん4841にん明治めいじ13ねん1がつ1にち調ちょうで32まん1695にんいるため、実際じっさいよりも士族しぞく人口じんこう割合わりあいひく算出さんしゅつされる。
  30. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)23ぺーじ参照さんしょう
  31. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)98ぺーじ参照さんしょう
  32. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)23ぺーじより転載てんさい。ただしおもて枠組わくぐみ一部いちぶ改編かいへん
  33. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)98ぺーじより転載てんさい。ただしおもて枠組わくぐみ一部いちぶ改編かいへん。なお、資料しりょうは『日本にっぽん帝国ていこく統計とうけい年鑑ねんかん』をした作成さくせいされている。
  34. ^ 竹内たけうちひろしちょ学歴がくれき貴族きぞく栄光えいこう挫折ざせつ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1999ねん) 171ぺーじ参照さんしょう
  35. ^ 竹内たけうちひろし前掲ぜんけいしょ(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1999ねん) 173ぺーじより転載てんさい数値すうちは『文部省もんぶしょう年報ねんぽう』より集計しゅうけいされ、だかちゅうのみ『だかじゅうねん』(1939ねん巻末かんまつ資料しりょう付録ふろく参照さんしょう作成さくせいされたものである。
  36. ^ 竹内たけうちひろし前掲ぜんけいしょ(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1999ねん) 173ぺーじより転載てんさい数値すうちかく学校がっこう一覧いちらん参照さんしょう作成さくせいされたものである。
  37. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)86ぺーじより転載てんさい。ただしおもて枠組わくぐみ一部いちぶ改編かいへん。なお、一連いちれん資料しりょうはたいく彦著『戦前せんぜん日本にっぽん官僚かんりょうせい制度せいど組織そしき人事じんじ』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1981ねん)参照さんしょうしも作成さくせいされている。
  38. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)87ぺーじより転載てんさい。ただしおもて枠組わくぐみ一部いちぶ改編かいへん。なお、一連いちれん資料しりょうはたいく彦著『戦前せんぜん日本にっぽん官僚かんりょうせい制度せいど組織そしき人事じんじ』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1981ねん)参照さんしょうのもと作成さくせいされている。
  39. ^ 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし前掲ぜんけいしょ名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、1985ねん)90ぺーじより転載てんさい。ただしおもて枠組わくぐみ一部いちぶ改編かいへん。なお、一連いちれん資料しりょうは『日本にっぽん帝国ていこく統計とうけい年鑑ねんかん参照さんしょうのもと作成さくせいされている。
  40. ^ 川口かわぐち素生すじょう小和田こわだ歴史れきし 雅子まさこ殿下でんかのご実家じっか』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ2001ねんISBN 4-404-02951-9 p37~p40)
  41. ^ きし信介しんすけでん』 27ぺーじ
  42. ^ きし信介しんすけでん』25、26ぺーじ
  43. ^ 歴史れきしながれのなか最後さいご内務ないむ大臣だいじん安倍あべみなもとはじめじょう 102-103ぺーじ

参照さんしょう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 浅見あさみ雅男まさお華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ体面たいめん明治めいじ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1999ねん) ISBN 4-1220-3542-2
  • 落合おちあい弘樹ひろき明治めいじ国家こっか士族しぞく』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001ねんISBN 4-642-03736-5
  • 落合おちあい弘樹ひろき『秩禄処分しょぶん明治維新めいじいしん武士ぶしのリストラ』(中公新書ちゅうこうしんしょ1999ねんISBN 4-12-101511-8
  • 川口かわぐち素生すじょう小和田こわだ歴史れきし 雅子まさこ殿下でんかのご実家じっか』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ2001ねんISBN 4-404-02951-9
  • 園田そのだ英弘ひでひろ広田ひろた照幸てるゆき浜名はまなあつし士族しぞく歴史れきし社会しゃかいがくてき研究けんきゅう 武士ぶし近代きんだい』(名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい1985ねんISBN 4-8158-0250-5
  • 竹内たけうちひろしちょ学歴がくれき貴族きぞく栄光えいこう挫折ざせつ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1999ねん) ISBN 4-1249-0112-7
  • 羽生はぶみちえいちょ伊藤いとう博文ひろぶみ 近代きんだい国家こっかつくげた宰相さいしょう』(PHP研究所けんきゅうじょ、2004ねん) ISBN 456966122X
  • 井上いのうえよしみじん金沢かなざわいちちゅう卒業生そつぎょうせいからみたきゅう加賀かが藩士はんしぞく社会しゃかい移動いどう」『教育きょういく社会しゃかいがく研究けんきゅうだい73かん日本にっぽん教育きょういく社会しゃかい学会がっかい、2003ねん、5-24ぺーじNAID 110001889037 
  • 小田部おたべ雄次ゆうじ華族かぞく 近代きんだい日本にっぽん貴族きぞく虚像きょぞう実像じつぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ1836〉、2006ねん平成へいせい18ねん)。ISBN 978-4121018366 

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