(Translated by https://www.hiragana.jp/)
浪人 - Wikipedia コンテンツにスキップ

浪人ろうにん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮本みやもと武蔵むさし浪人ろうにん浮世絵うきよえ大型おおがた木版もくはん錦絵にしきえいさむさきがけさんじゅうろく合戦かっせん」(歌川うたがわ国芳くによし
大石おおいし良金よしかね浪人ろうにん赤穂あこう事件じけん大石おおいし主税ちから藤原ふじわら良金よしかね

浪人ろうにん(ろうにん)は、古代こだいにおいては、戸籍こせき登録とうろくされたはなれて他国たこく流浪るろうしているもののことを意味いみし、浮浪ふろうともばれた。身分みぶんにはとらわれず、すべての民衆みんしゅうがなりうる。江戸えど時代じだい中期ちゅうきごろよりろうじん浪人ろうにんぶようになった。したがってろうじん浪人ろうにん正確せいかくにはべつである。

江戸えど時代じだい以前いぜん[編集へんしゅう]

武士ぶし在地ざいち領主りょうしゅであった鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち時代ときよにおいては所領しょりょうしょくうしな浮浪ふろうするものたちをした。この時代じだい浪人ろうにんになっても各地かくち慢性まんせいてき小規模しょうきぼ戦乱せんらん頻発ひんぱつし、大名だいみょう戦闘せんとう要員よういん必要ひつようとしており、あらたな主家しゅか機会きかいすくなくなかった。また、治安ちあん状況じょうきょうわるかったために、浪人ろうにん徒党ととうんで割拠かっきょし、とうをしたり一揆いっきこすものたちもいた。このころ浪人ろうにん浮浪ふろう意味いみちかく、ろうじんものもいたがろうじんという身分みぶん定着ていちゃくするのは室町むろまち時代ときよ後期こうきである。

戦国せんごく時代じだいになると主従しゅうじゅう関係かんけい身分みぶん関係かんけいぜん時代じだいより明確めいかくになり、たとえ主家しゅかほろびてろうじんとなってもさい仕官しかんする機会きかいおおくあった。ただ、江戸えど時代じだいよりも主従しゅうじゅう関係かんけいゆるやかであり、待遇たいぐう不満ふまんがあれば主君しゅくん見限みかぎみずか致仕ちししてろうじんとなり、実力じつりょく次第しだいでよりよい待遇たいぐうもとめてべつ大名だいみょう仕官しかんするものたちもいた。 ろうじんたちはおのれ武功ぶこう証言しょうげんしてくれる証人しょうにん確保かくほさい仕官しかん口利くちききなどの目的もくてきから、所属しょぞくする主家しゅかえたゆるやかなよこのつながりを重視じゅうしした。大名だいみょうにとって有力ゆうりょくろうじん一人ひとりかかえることは、かれ個人こじん器量きりょう期待きたいできるのみならず、有事ゆうじさいかれ背後はいごひかえる数多すうたろうじんそく戦力せんりょくとして動員どういんできること意味いみしていた[1]。 この時代じだいは、ろうじんとなっていくつものだい名家めいかわたある武士ぶしおおく、なかには大名だいみょうにまで出世しゅっせするものもいた。藤堂とうどう高虎たかとらはその生涯しょうがいに10の主家しゅかつかえている。

豊臣とよとみ秀吉ひでよし天下てんか統一とういつして、戦乱せんらん時代じだい終息しゅうそくすると、ろうじんをとりまく状況じょうきょう変化へんかした。かく大名だいみょうおおくの家臣かしん召抱めしかかえる必要ひつようがなくなってきた。関ヶ原せきがはらたたかひがしぐん徳川とくがわ家康いえやす勝利しょうりすると、西にしぐんについた大名だいみょうおおくがつぶされるか、大幅おおはば領地りょうちげんふうけ、これによって大量たいりょうろうじんしょうじた。

とはいえ江戸えど時代じだい初期しょきまでのろうじんには、正規せいきさむらい身分みぶんというのはほとんどおらず、小者こもの中間ちゅうかん、あらしこ、下人げにんなどとばれた武家ぶけ奉公人ほうこうにんおおかった。戦国せんごくにおいて貧困ひんこん飢饉ききんめたり、あるいはひとおもになろうとした農民のうみんなどは、びるために大名だいみょうぐん積極せっきょくてき参加さんかしている。そのため、戦争せんそうわるとむらもどったり、大名だいみょう被官ひかんらすさいさきてられたのである。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

浪人ろうにん赤穂あこう事件じけん1835ねん1839ねん

さら徳川とくがわ幕府ばくふきゅう豊臣とよとみけい大名だいみょう外様とざま大名だいみょう中心ちゅうしん大名だいみょう廃絶はいぜつ政策せいさくり、おおくの大名だいみょう世嗣せいし断絶だんぜつまくほう違反いはんなどの理由りゆうによってつぶされ、これによっても大量たいりょうろうじんしょうじたとされてきたが、それを否定ひていする新説しんせつもある[2]江戸えど時代じだいはいると大名だいみょうでは家臣かしんかず過剰かじょうになり、新規しんきかかえをあまりおこなわなくなった。また、儒教じゅきょう影響えいきょう主従しゅうじゅう関係かんけい固定こていされ、家臣かしん主君しゅくん見限みかぎって出奔しゅっぽんした場合ばあいは、大名だいみょうに「奉公ほうこう」をまわしてさい仕官しかんみちざすこともおこなわれた。黒田くろだ出奔しゅっぽんした後藤ごとう基次もとつぐは「奉公ほうこう構」をされてさい仕官しかんみちたれ、結局けっきょく大坂おおさかふゆじん豊臣とよとみかた参加さんかしている。さい仕官しかんできないろうじん激増げきぞうし、大坂おおさかじんきたときには、豊臣とよとみかたに10まんろうじんあつまっている。

大坂おおさかふゆじんなつじん多数たすうろうじんころされたが、その幕府ばくふ大名だいみょう廃絶はいぜつ政策せいさくによってろうじんつづけ、さんだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ晩年ばんねんにはそのかずは50まんにんにもたっしたとされる。平和へいわ時代じだいとなり、さい仕官しかんみちかぎられるようになった。新田にった開発かいはつ城下町じょうかまち建設けんせつなどのために、各地かくち労働ろうどうりょく不足ふそくしていたことを背景はいけいに、武士ぶし身分みぶんてて町人ちょうにん百姓ひゃくしょうになるもの、または山田やまだ長政ながまさらのように朱印船しゅいんせん東南とうなんアジアて、東南とうなんアジア諸国しょこく東南とうなんアジアに進出しんしゅつしていたヨーロッパ諸国しょこく傭兵ようへいになるものもいたが、だい部分ぶぶんろうじんのまま困窮こんきゅうなからしていた。

当初とうしょ幕府ばくふは、大坂おおさかじん島原しまばららん大量たいりょうろうじんくわわっていたことを理由りゆうに、ろうじん危険きけんして、市中しちゅうから追放ついほう居住きょじゅう制限せいげんさい仕官しかん禁止きんしなどきびしい政策せいさくをとった(ただし、伊予いよ松山まつやまはん蒲生がもう記録きろくでは熊本くまもとはん加藤かとう改易かいえきさいには、幕府ばくふ要請ようせい縁戚えんせきである蒲生がもう家臣かしん一部いちぶり、すうねん蒲生がもう改易かいえきされたときには幕府ばくふさい仕官しかん斡旋あっせんおこなったとする[3])。また、幕府ばくふは、東南とうなんアジア地域ちいきにおける紛争ふんそう回避かいひし、幕府ばくふ武威ぶいまも観点かんてんから、東南とうなんアジア地域ちいき傭兵ようへいとなったろうじん国際こくさい紛争ふんそう火種ひだねとして警戒けいかいした。その結果けっか徳川とくがわ秀忠ひでただおよ徳川とくがわ家光いえみつは、いわゆる鎖国さこく政策せいさく確立かくりつつうじて、朱印船しゅいんせん貿易ぼうえき廃止はいしし、ろうじん東南とうなんアジアへの渡航とこうおよ東南とうなんアジアに永住えいじゅうするろうじん帰国きこくきんじた。そのような結果けっかとして、ろうじんたちはますますめられ、由井ゆい正雪しょうせつらの幕府ばくふ転覆てんぷく計画けいかく慶安けいあんへん)をこすにいたる。このころより流浪るろうするろうじん仕官しかんろうじん浪人ろうにんぶようになる。

これらによって幕府ばくふ従来じゅうらい政策せいさく見直みなおし、世嗣せいし断絶だんぜつ原因げんいんとなっていた末期まっき養子ようしきんゆるめ、大名だいみょう改易かいえきらし、ろうじん居住きょじゅう制限せいげん緩和かんわし、さい仕官しかん斡旋あっせんするようになった。しかし、これ以後いごもさまざまな理由りゆう主家しゅかはなちとなりろうじんとなるものたなかった。

江戸えど時代じだいろうじんせき武士ぶしとしての身分みぶん)はうしなっていたが、苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされており、武士ぶしとしては認知にんちされていた。その日常にちじょう生活せいかつ町人ちょうにんおなじく町奉行まちぶぎょう支配しはいかれていた。ろうじんおおくは貧困ひんこん借家しゃくやまい・そのらしの生活せいかつ余儀よぎなくされており、こまかい手作業てさぎょうてたり、自暴自棄じぼうじきになって強盗ごうとうなどの犯罪はんざいはしったものもいた。

しかしなかには、武士ぶし身分みぶんてて商人しょうにんとして出世しゅっせしたものもいた。新井あらい白石はくせきろうじん時代じだい婿入むこいりによってその機会きかいがありながらも、固辞こじしたという逸話いつわがある。近松ちかまつ門左衛門もんざえもんのように文芸ぶんげい世界せかい成功せいこうしたものや、町道場まちどうじょうひら武芸ぶげい指南しなんてるもの寺子屋てらこや師匠ししょうとなり庶民しょみん教育きょういく貢献こうけんするものたちもいた。有名ゆうめいろうじん宮本みやもと武蔵むさしがおり、文芸ぶんげい作品さくひんでは仕官しかんみちかなわなかった不遇ふぐう武芸者ぶげいしゃのようにかたられており、それは間違まちがいとはいえないが、実態じったいとしては多数たすう弟子でしかかえた道場どうじょうおもであり、後世こうせい書画しょがのこすほどの生活せいかつ余裕よゆうがあった。特異とくいれいとしては、れっきとした幕府ばくふ役目やくめ立場たちばでありながらろうじん身分みぶんであった、山田やまだあさみぎ衛門えもんがいる。

幕末ばくまつになると浪人ろうにんたちは政治せいじ運動うんどう積極せっきょくてき参加さんかした。また、土佐とさはん坂本さかもと龍馬りょうまなど制約せいやくおおはんからみずか脱藩だっぱんして浪人ろうにんになり、自由じゆう立場たちば活躍かつやくするものたちもおおた。一方いっぽうで、町人ちょうにん百姓ひゃくしょうなど武士ぶし身分みぶん出身しゅっしんでありながら勝手かって苗字みょうじ帯刀たいとうをして浪人ろうにん名乗なのものあらわれた。浪人ろうにん集団しゅうだんわれる新選しんせんぐみはその構成こうせいいんおおくが町人ちょうにん百姓ひゃくしょうなどの出身しゅっしんしゃである。

明治維新めいじいしん四民しみん平等びょうどう政策せいさくられ、浪人ろうにんという身分みぶん消滅しょうめつした。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじ中頃なかごろから後期こうき大正たいしょう初期しょきまで一部いちぶ士族しぞくまんしゅう朝鮮半島ちょうせんはんとう朝鮮ちょうせん末期まっきから日本にっぽん統治とうち時代じだい)にうつんだ。これらの士族しぞくのことも浪人ろうにんう(その一部いちぶ大陸たいりく浪人ろうにんともかさなる)。

比喩ひゆてき用法ようほう[編集へんしゅう]

現代げんだいにおいては、どこにも所属しょぞくしていないという意味いみで、学校がっこう入試にゅうしにおける過年度かねんどせい浪人ろうにんせいといったり、その行為こうい浪人ろうにんということがある。また、学校がっこう卒業そつぎょうするまでに就職しゅうしょくさきまらず、卒業そつぎょう就職しゅうしょく活動かつどうつづけるひとやその行為こうい就職しゅうしょく浪人ろうにんということもある[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 氏家うじいえ幹人みきひと『かたきち』 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ <中公新書ちゅうこうしんしょ> 2007ねん ISBN 9784121018830 pp.137-141.
  2. ^ 福田ふくだ千鶴ちづる新選しんせん 御家おいえ騒動そうどうした〉』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ2007ねんISBN 978-4404035189
  3. ^ 宇都宮うつのみやただし蒲生がもう分限ぶげんちょうしょほん基礎きそてき考察こうさつ」(初出しょしゅつ:『伊予いよ史談しだんさんろくなな、2012ねん/所収しょしゅう:たに徹也てつや 編著へんちょ『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいきゅうかん 蒲生がもうきょう』(戒光さち出版しゅっぱん、2021ねんISBN 978-4-86403-369-5) 2021ねん、P326-329.
  4. ^ 雇用こよう せばまる門戸もんこ手探てさぐ就活しゅうかつ 【ウィズコロナ 変化へんかなかで】<だい需要じゅよう蒸発じょうはつ(2) | 中国ちゅうごく新聞しんぶんデジタル”. 雇用こよう せばまる門戸もんこ手探てさぐ就活しゅうかつ 【ウィズコロナ 変化へんかなかで】<だい需要じゅよう蒸発じょうはつ(2) | 中国ちゅうごく新聞しんぶんデジタル (2021ねん1がつ19にち). 2023ねん5がつ23にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]