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宮本みやもと武蔵むさし

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宮本みやもと 武蔵むさし
宮本みやもと武蔵むさし肖像しょうぞう
島田しまだ美術館びじゅつかんぞう熊本くまもとけん指定してい文化財ぶんかざい[1]
時代じだい 江戸えど時代じだい
生誕せいたん 天正てんしょう12ねん1584ねん)?
死没しぼつ 正保まさやす2ねん5月19にち1645ねん6月13にち
改名かいめい 幼名ようみょうべんすけ(またはべんすけべんすけ
別名べつめい 藤原ふじわらげんしんじ新免しんめん武蔵むさしもり新免しんめんげんしんじ新免しんめん武蔵むさし宮本みやもと二天にてん宮本みやもと武蔵むさし
戒名かいみょう 二天にてん道楽どうらく居士こじ
墓所はかしょ 武蔵塚むさしづか熊本くまもとけん熊本くまもときた
主君しゅくん 黒田くろだ如水じょすい水野みずの勝成かつなり
父母ちちはは 新免しんめん無二むに
養子ようし三木みきすけ伊織いおり
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宮本みやもと 武蔵むさし(みやもと むさし)は、江戸えど時代じだい初期しょき剣術けんじゅつ大名だいみょういえつかえた兵法ひょうほう芸術げいじゅつがたなもちいる二天にてん一流いちりゅう兵法ひょうほう開祖かいそ京都きょうと兵法ひょうほう吉岡よしおか一門いちもんとのたたかいや巌流島がんりゅうじまでの佐々木ささき小次郎こじろうとの決闘けっとう有名ゆうめいである。

後世こうせいには、演劇えんげき小説しょうせつ漫画まんが映画えいがやアニメなど様々さまざま映像えいぞう作品さくひん題材だいざいになり、現代げんだいでは「剣豪けんごう」または「剣聖けんせい」としょうされている[2]とく吉川よしかわ英治えいじ小説しょうせつ宮本みやもと武蔵むさし有名ゆうめいであるが、史実しじつことなった創作そうさくおおい。 外国がいこくにも翻訳ほんやくされ出版しゅっぱんされている自著じちょ五輪ごりんしょ』にはじゅうさんさいからじゅうきゅうさいまでのろくじゅう勝負しょうぶ無敗むはい記載きさい[注釈ちゅうしゃく 1]がある。

絵画かいが武具ぶぐ馬具ばぐ制作せいさく頻繁ひんぱんにしていた過去かこがあり、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた『』『枯木かれきもず』『紅梅こうばいばと』をはじめ『正面しょうめん達磨だるま』『よう達磨だるま』『かり屏風びょうぶ』『』といった水墨すいぼくくら木刀ぼくとうなどの工芸こうげいひん各地かくち美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされている。

島田しまだ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうする有名ゆうめい肖像しょうぞう作者さくしゃしょう[1]だが、身体しんたいゆるめているようは『五輪ごりんしょ』が極意ごくい一致いっちしており、自画像じがぞうとするせつもある[2]

名前なまえ

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本姓ほんせい藤原ふじわら[注釈ちゅうしゃく 2]名字みょうじ宮本みやもと、または新免しんめん幼名ようみょうべんすけ[注釈ちゅうしゃく 3](べんのすけ)、通称つうしょう百官ひゃっかんめい)は武蔵むさしいみなげんしん(はるのぶ)である。ごう二天にてん、また二天にてん道楽どうらく著書ちょしょ五輪ごりんしょ』のなかでは新免しんめん武蔵むさしもり藤原ふじわらげんしん名乗なのっている。

熊本くまもと弓削ゆげ墓碑ぼひは「新免しんめん武蔵むさし居士こじ」、養子ようし宮本みやもと伊織いおり武蔵むさし死後しご9ねんうけたまわおう3ねん1654ねん)にてた「新免しんめん武蔵むさしげんしんじてん居士こじ」(以下いか小倉おぐら碑文ひぶん)には「播州ばんしゅう赤松あかまつ末流ばつりゅう新免しんめん武蔵むさしげんしんじてん居士こじ」とある。

武蔵むさし死後しご71ねんの『本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』(1716ねん)でせいめいなる紹介しょうかいされた。これを引用いんようした系図けいず伝記でんき武蔵むさし供養くようとうひろ紹介しょうかいされたことからいみなを「せいめい」とする武蔵むさし小説しょうせつ紹介しょうかいしょ多数たすうあるが、二天にてん一流いちりゅう門弟もんてい小倉おぐらみや本家ほんけ史料しりょうにこの「せいめい」はもちいられていない。ぎゃく史的してき信頼しんらいせい完全かんぜん否定ひていされた武蔵むさし系図けいずとう積極せっきょくてきもちいられている。

出生しゅっしょう

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生年せいねん

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五輪ごりんしょ』の冒頭ぼうとうにある記述きじゅつとしつもりてろくじゅう」にしたがえば、寛永かんえい20ねん1643ねん)にかぞどし60さいとなり、生年せいねん天正てんしょう12ねん1584ねん)となる。

江戸えど後期こうきにまとめられた『小倉おぐらみや本家ほんけ系図けいず[注釈ちゅうしゃく 4]ならびに武蔵むさし宮本みやもと歴代れきだい年譜ねんぷ筆頭ひっとうく『宮本みやもと正統せいとう』には天正てんしょう10ねん1582ねん)にまれ、正保しょうほう2ねん(1645ねん享年きょうねん64でぼっしたとしるされている。

出生しゅっしょう

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五輪ごりんしょ』に「生国しょうごく播磨はりま」の記載きさいがあり、養子ようし伊織いおり建立こんりゅうした『小倉こくら碑文ひぶん』、江戸えど中期ちゅうき地誌ちし播磨はりまあきら』やとまり神社じんじゃとうさつ兵庫ひょうごけん加古川かこがわ木村きむらとう記載きさいによる播磨はりま生誕せいたんせつ現在げんざい兵庫ひょうごけん高砂たかさご米田よねだまち)と、江戸えど時代じだい後期こうき地誌ちし東作ひがしさく』の美作みさくこく岡山おかやまけん東部とうぶ宮本みやもとむらまれたという記載きさいによる美作みさく生誕せいたんせつがある。

出自しゅつじ

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ちち[注釈ちゅうしゃく 5]赤松あかまつ支流しりゅう新免しんめん一族いちぞく新免しんめん無二むにとされているが異説いせつもある。

小倉おぐら宮本みやもと系図けいず』には武蔵むさし養子ようし伊織いおり祖父そふ別所べっしょ家臣かしん田原たはらさだ実父じっぷとし、武蔵むさしはその次男じなんであるとされているが、伊織いおり自身じしんによる『とまり神社じんじゃとうさつ』や『小倉こくら碑文ひぶん』にはそのことはしるされていない。また、武蔵むさし伊織いおりかんするおおくの記事きじせている江戸えど中期ちゅうき平野ひらのいさおおさむ作成さくせいした地誌ちし播磨はりまあきら』にも武蔵むさし田原たはらだしであるとはまったくれられていない[注釈ちゅうしゃく 6]

生涯しょうがい

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宮本みやもと武蔵むさし
はつ決闘けっとう記念きねんした石碑せきひ兵庫ひょうごけん佐用さようまち平福ひらふく

五輪ごりんしょ』には13さいはじめてしん当流とうりゅう有馬ありま喜兵衛きへえ決闘けっとう勝利しょうりし、16さい但馬たじまこく秋山あきやまという強力きょうりょく兵法ひょうほうしゃ勝利しょうりし、以来いらい29さいまでに60かい勝負しょうぶおこない、すべてに勝利しょうりしたと記述きじゅつされる。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかではちち新免しんめん無二むに関ヶ原せきがはらたたか以前いぜんひがしぐん黒田くろだ仕官しかんしていたことを証明しょうめいする黒田くろだ文書ぶんしょ[3]存在そんざいすることから、ちちとも当時とうじ豊前ぶぜんこくりょうしていた黒田くろだ如水じょすいしたがひがしぐんとして九州きゅうしゅうたたかった可能かのうせいたか[注釈ちゅうしゃく 7][注釈ちゅうしゃく 8][注釈ちゅうしゃく 9]

五輪ごりんしょ』には21さいころ[注釈ちゅうしゃく 10]京都きょうと天下てんか兵法ひょうほうしゃ吉岡よしおか一門いちもんかんがえられる) とすうたたかったがすべてに勝利しょうりしたむね記述きじゅつがある。この内容ないよう吉川よしかわ英治えいじ宮本みやもと武蔵むさし』をはじめおおくの著名ちょめい文芸ぶんげい作品さくひん題材だいざいとされている。

武蔵むさしおこなった勝負しょうぶなかもっとひろられているものは、ぞくに「巌流島がんりゅうじま決闘けっとう」といわれるものである。これは慶長けいちょう年間ねんかん豊前ぶぜん小倉こくらはんりょう現在げんざい山口やまぐちけん下関しものせき市域しいき)の舟島ふなじま巌流島がんりゅうじま)で、いわりゅうなる兵法ひょうほうしゃ[注釈ちゅうしゃく 11]たたかったとされるものである。この内容ないよう江戸えど時代じだいより現代げんだいいたるまで芝居しばい浄瑠璃じょうるり浮世絵うきよえ小説しょうせつ映像えいぞう作品さくひんなど様々さまざま大衆たいしゅう文芸ぶんげい作品さくひん題材だいざいとなっている。

大坂おおさかじんでは水野みずの勝成かつなり客将かくしょうとして徳川とくがわかたさんじんし、勝成かつなり嫡子ちゃくし勝重かつしげづけ活躍かつやくしたことが数々かずかず資料しりょうから裏付うらづけられている[注釈ちゅうしゃく 12]

その姫路ひめじはんおも本多ほんだ忠刻ただとき交流こうりゅうちながら活動かつどう明石あかしではまちわり都市とし計画けいかく)をおこない、姫路ひめじ明石あかしとうしろ寺院じいんさくにわほん松寺まつでらえんたまいんくもはれてら)をおこなっている。この時期じき神道しんとう夢想むそうりゅう開祖かいそ夢想むそうけんすけ明石あかし試合しあいおこなったことがつたえられている[注釈ちゅうしゃく 13]

元和がんわはじめのころ水野みずの家臣かしん中川なかがわ志摩しますけ三男さんなん三木みきすけ養子ようしとし、姫路ひめじ藩主はんしゅ本多ほんだ忠刻ただとき出仕しゅっしさせる。

寛永かんえい元年がんねん1624ねん)、尾張おわりこく現在げんざい愛知あいちけん西部せいぶ)にったさい円明えんめいりゅう指導しどうする。その尾張おわりはん家老がろう寺尾てらお直政なおまさ要請ようせい弟子でし竹村たけむら与右衛門ようえもん推薦すいせん尾張おわりはん円明えんめいりゅうつたえられる。以後いご尾張おわりはんおよび近隣きんりん美濃みの高須たかすはんには複数ふくすう円明えんめいりゅう興隆こうりゅうする。

寛永かんえい3ねん1626ねん播磨はりまさむらい田原たはら久光ひさみつ次男じなん伊織いおりあらたに養子ようしとし、宮本みやもと伊織いおり貞次ていじとして明石あかしはんおも小笠原おがさわら忠真ただざね出仕しゅっしさせる[注釈ちゅうしゃく 14]

寛永かんえい吉原よしはら遊廓ゆうかく[注釈ちゅうしゃく 15] 開祖かいそ庄司しょうじ甚右衛門えもんしるした『青楼せいろうねんれきこう』に、寛永かんえい15ねん1638ねん)の島原しまばららん武蔵むさし出陣しゅつじんするさい物語ものがたり[注釈ちゅうしゃく 16]かたられ、直前ちょくぜんまで江戸えど滞在たいざいしていたことがつたえられている。同様どうよう内容ないよう庄司しょうじみちじょとき勝富かつとみとおる5ねん1720ねん)にしるした『ほらぼうえん』にもあり、吉原よしはら名主なぬし並木なみきみなもと左衛門さえもん山田やまだ三之さんのすすむ宮本みやもと武蔵むさし弟子でしであったむねしるされている。これらの史料しりょうかれた内容ないようりゅう慶一郎けいいちろうなどの文芸ぶんげい作品さくひん題材だいざいとなっている。

島原しまばららんでは、小倉こくらはんおもとなっていた小笠原おがさわら忠真ただざねしたが伊織いおり出陣しゅつじん武蔵むさし忠真ただざねおいである中津なかつはんおも小笠原おがさわら長次ちょうじ後見こうけんとして出陣しゅつじんしている。らん延岡のべおかはんおも有馬ありま直純なおずみてた武蔵むさし書状しょじょう一揆いっきぐん投石とうせきによって負傷ふしょうしたことをつたえている。また、小倉おぐら滞在たいざいちゅう忠真ただざねいのち宝蔵ほうぞういんりゅう槍術そうじゅつ高田たかだ又兵衛またべえ試合しあいしたことがつたえられている。

武蔵塚むさしづか熊本くまもとけん熊本くまもときた

寛永かんえい17ねん(1640ねん)、熊本くまもとはんおも細川ほそかわ忠利ただとし客分きゃくぶんとしてまねかれ熊本くまもとうつる。7にん扶持ふち18いし合力ごうりょくまい300せき支給しきゅうされ、熊本くまもとじょう東部とうぶ隣接りんせつする千葉城ちばじょう屋敷やしきあたえられ、鷹狩たかが[注釈ちゅうしゃく 17]ゆるされるなど客分きゃくぶんとしては破格はかく待遇たいぐうむかえられる。おなじく客分きゃくぶん足利あしかが義輝よしてる遺児いじ足利あしかがみちかんとも忠利ただとししたが山鹿やまが温泉おんせんまねかれるなどおもんじられている。翌年よくねん忠利ただとし急死きゅうししたあとも2だい藩主はんしゅ細川ほそかわひかりなおによりこれまでとおなじように毎年まいとし300せき合力ごうりょくまい支給しきゅうされ賓客ひんきゃくとして処遇しょぐうされた。『たけこうでん』は武蔵むさし直弟子じきでしであったすい山本やまもと源五げんご左衛門さえもん)の直話じきわとして、藩士はんしがこぞって武蔵むさし門下もんかはいったことをつたえている。このころ余暇よか制作せいさくした工芸こうげいなどの作品さくひんいまつたえられている。

寛永かんえい20ねん1643ねん)、熊本くまもと近郊きんこう金峰山きんぷさんにある岩戸いわとれいいわおほらで『五輪ごりんしょ』の執筆しっぴつはじめる。また、くなる数日すうじつまえには「誓書せいしょ」ともしょうされる『独行どっこうどう』とともに『五輪ごりんしょ』を兵法ひょうほう弟子でし寺尾てらおまごまことあたえている。

大原おおはらまち美作みさくこく

正保まさやす2ねん5月19にち1645ねん6月13にち)、千葉城ちばじょう熊本くまもと)の屋敷やしきくなる。享年きょうねん62。はか熊本くまもとけん熊本くまもときた龍田たつたまち弓削ゆげ武蔵塚むさしづか公園こうえんないにある通称つうしょう武蔵塚むさしづか」。福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきた赤坂あかさか手向とうげさんには、養子ようし伊織いおりによる武蔵むさし関係かんけい最古さいこ記録きろくひとつである『新免しんめん武蔵むさしげんしんじてん居士こじ』(通称つうしょう小倉おぐら碑文ひぶん』)がある。

武蔵むさし兵法ひょうほうは、はじ円明えんめいりゅうしょうしたが、『五輪ごりんしょ』では、かたな一流いちりゅう、または二天にてん一流いちりゅうふたつの名称めいしょうもちいられ最終さいしゅうてきには二天にてん一流いちりゅうとなったものとおもわれる。後世こうせいでは武蔵むさしりゅうとう名称めいしょうもちいられている。熊本くまもと時代じだい弟子でし寺尾てらおまごまこともとめうますけ兄弟きょうだいがおり、熊本くまもとはん二天にてん一流いちりゅう兵法ひょうほう隆盛りゅうせいさせた。また、まごまこと弟子でし一人ひとりしばつとむさん左衛門さえもん福岡ふくおかはん黒田くろだ二天にてん一流いちりゅうつたえている。

決闘けっとう伝説でんせつかんする諸説しょせつ

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吉岡よしおかとのたたか

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宮本みやもと吉岡よしおか決闘けっとう石碑せきひほり正平しょうへい建立こんりゅう京都きょうと京都きょうと左京さきょう 一乗寺いちじょうじさがまつ

通説つうせつ

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五輪ごりんしょ』には「廿にじゅういちさいにして[注釈ちゅうしゃく 10]のぼり、天下てんか兵法ひょうほうしゃにあひ、すう勝負しょうぶをけつすといへども、勝利しょうりざるということなし」と記述きじゅつされる。この「天下てんか兵法ひょうほうしゃ」は、『小倉おぐら碑文ひぶん』にしるされた「扶桑ふそうだいいちこれへいじゅつ吉岡よしおか」すなわち吉岡よしおかかんがえられる。

決闘けっとう経緯けいいは『小倉こくら碑文ひぶん』の記録きろく要約ようやくすると以下いかとおりとなる。

武蔵むさしきょうのぼり「扶桑ふそうだいいちこれへいじゅつ」の吉岡よしおか一門いちもんたたかった。吉岡よしおか代々だいだい足利あしかが将軍家しょうぐんけ師範しはんで、「扶桑ふそうだいいちへいじゅつしゃ」のごうであった。足利あしかが義昭よしあきとき新免しんめん無二むにして吉岡よしおかへいじゅつ試合しあいをさせた。さん約束やくそくで、吉岡よしおかいち新免しんめん勝利しょうりした。それにより、新免しんめん無二むには「日下くさか無双むそう兵法ひょうほうじゅつしゃ」のごうたまわった。このこともあって、武蔵むさしきょう吉岡よしおかたたかったのである。

最初さいしょ吉岡よしおか当主とうしゅである吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう洛外らくがい蓮台れんだいたたかった。武蔵むさし木刀ぼくとういちげきせい十郎じゅうろうやぶった。いちげき勝負しょうぶけっする約束やくそくだったのでいのちうばわなかった。せい十郎じゅうろう弟子でしかれいたにのせてかえり、治療ちりょうのちせい十郎じゅうろう回復かいふくしたが、へいじゅつをやめ出家しゅっけした。

その吉岡よしおかでん七郎しちろう洛外らくがいたたかった。でん七郎しちろうしゃく木刀ぼくとうを、その武蔵むさしうばいそれでたおした。でん七郎しちろう死亡しぼうした。

そこで、吉岡よしおか門弟もんていひそかにはかり、へいじゅつでは武蔵むさしてないので、吉岡よしおかまた七郎しちろう洛外らくがい下松しもまつ勝負しょうぶをするということにして、門下生もんかせいすうひゃくにん弓矢ゆみやなどをたせ、武蔵むさし殺害さつがいしようとした。武蔵むさしはそのことをったが、弟子でしかたわらからているようにめいじたのち一人ひとりやぶった。

この一連いちれんたたかいにより、吉岡よしおかほろえた。
宮本みやもと伊織いおり武蔵むさし菩提ぼだいとむらうためにうけたまわおう3ねん(1654ねん)に豊前ぶぜんこく小倉こくらはんげん北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきた手向とうげさん山頂さんちょう建立こんりゅうした顕彰けんしょう碑文ひぶん

小倉こくら碑文ひぶん』などの記録きろくは、史料しりょうくらべて事実じじつ誤認ごにん武蔵むさし顕彰けんしょうため脚色きゃくしょくおおられる。吉岡よしおか記述きじゅつ限定げんていすれば、武蔵むさし完敗かんぱい引退いんたいしたせい十郎じゅうろう死亡しぼうしたでん七郎しちろう洛外らくがい下松しもまつ事件じけん記録きろく史料しりょうになく、創作そうさく可能かのうせいがある。また、兵仗ひょうじょう弓箭きゅうせんかたなやり薙刀なぎなたなどの武具ぶぐ弓矢ゆみや)で武装ぶそうしたすうひゃくにん武人ぶじん相手あいて一人ひとり勝利しょうりするなどの記述きじゅつ現実離げんじつばなれしている。同様どうよう新免しんめん無二むに吉岡よしおかとの足利あしかが義昭よしあき御前ごぜん試合しあいかんする逸話いつわ史料しりょうになく、因縁いんねん足利あしかが将軍家しょうぐんけからめてえがくことで物語ものがたりせいたかめるための創作そうさく可能かのうせいがある。

福岡ふくおかはん二天にてん一流いちりゅう師範しはん立花たちばなみねひとしとおる12ねん1727ねん)にあらわした武蔵むさし伝記でんき兵法ひょうほうだいたけしゅうげんしんこう伝来でんらい』にも、吉岡よしおかとの伝承でんしょうしるされている。これを要約ようやくすると以下いかとおり。

せい十郎じゅうろうとの試合しあい当日とうじつ武蔵むさしやまいになったとことわりをれたが、幾度いくど試合しあい要求ようきゅうた。たけ輿こしって試合しあいじょう到着とうちゃくした武蔵むさし出迎でむかえ、病気びょうき具合ぐあいためのぞんだせい十郎じゅうろう武蔵むさし木刀ぼくとうたおした。せい十郎じゅうろうのち回復かいふくしたが、へいじゅつてて出家しゅっけした。

でん七郎しちろう洛外らくがいしゃく木刀ぼくとうもちいて武蔵むさしかったが、木刀ぼくとううばわれ撲殺ぼくさつされた。

またななろうは、洛外らくがいさがまつのあたりに薙刀なぎなた弓矢ゆみや武装ぶそうしたもん人数にんずうひゃくにんあつめて出向でむいた。武蔵むさしがわにもじゅうすうにん門人もんじんがおり、若武者わかむしゃ一人ひとり武蔵むさしまえつが弓矢ゆみや負傷ふしょうした。これを武蔵むさし門人もんじんたちさき退却たいきゃくさせ、みずからが殿しんがりとなって、すうひゃくにんてき打払うちはらいつつ退却たいきゃくした。武蔵むさしてらみ、てらづたいに退却たいきゃくし、行方ゆくえをくらませた。与力よりき同心どうしんがそのけつけ、そのおさめた。

このことがきっかけで吉岡よしおか断絶だんぜつした。

この文書ぶんしょには『小倉こくら碑文ひぶん』の全文ぜんぶん転記てんきされており、碑文ひぶん内容ないようもと伝承でんしょう追記ついきし、内容ないよう発展はってんさせたものであるとかんがえられる。

細川ほそかわ筆頭ひっとう家老がろう松井まつい家臣かしん二天にてん一流いちりゅう師範しはん豊田とよだただしおさむたかられき5ねん1755ねん)に完成かんせいさせた『たけこうでん』には、せいおさむちち豊田とよだただしつよしあつめた武蔵むさし弟子でしたちかたった生前せいぜん武蔵むさしかんする伝聞でんぶん記載きさいされている。これには、道家みちやすみ左衛門さえもん生前せいぜん武蔵むさしから度々たびたびいたはなしとして、洛外らくがい下松しもまつでのくわしいたたかいの模様もようしるされている。これによると、

武蔵むさししたがいたいという弟子でしたいして、集団しゅうだん同士どうし戦闘せんとう公儀こうぎきんずるところであるとことわった。せい十郎じゅうろうでん七郎しちろうのときは、おくれたことで勝利しょうりしたので、今回こんかいぎゃくのことをやることにした。下松しもまつ途中とちゅう八幡やはたしゃまえとおったとき、普段ふだんはやらない勝利しょうり祈願きがんをしようとしたがめた。まだよるのうちに下松しもまつ松陰まつかげかくれていた。せい十郎じゅうろうであるまたななろう門弟もんていすうじゅうにんれてやってきた。「武蔵むさしまちとくタリ」とさけびながらあらわれ、またななろうころした。門弟もんていけ、また、半弓はんきゅうられ武蔵むさしそでさったが、すすんでおいくずしたため門弟もんてい狼狽ろうばい縦横じゅうおうはしさんし、勝利しょうりた。

この説話せつわは、武蔵むさし度々たびたびかたったものとして当時とうじ細川ほそかわはん二天にてん一流いちりゅう門弟もんていあいだつたえられていた伝聞でんぶん記録きろくしたものである。『たけこうでん』の内容ないようせいおさむ豊田とよだけいえいによって『二天にてん』にさい編集へんしゅうされ、明治めいじ42ねん(1909ねん)に熊本くまもと宮本みやもと武蔵むさし遺蹟いせき顕彰けんしょうかい編纂へんさんによる『宮本みやもと武蔵むさし』(通称つうしょう顕彰けんしょうかいほん」)で『二天にてん』がげん資料しりょうひとつとなりそのまま史実しじつとされ、さらに吉川よしかわ英治えいじ小説しょうせつ宮本みやもと武蔵むさし』で顕彰けんしょうかいほん内容ないようもちいたことから現代げんだいにもひろられるようになった。

異説いせつ

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福住ふくずみ道祐どうゆう伝記でんきぶつ宇喜多うきたつたえとう執筆しっぴつした伝記でんき作家さっかさだなが元年がんねん1684ねん)にあらわした『吉岡よしおかつたえ』に武蔵むさし吉岡よしおか対決たいけつ異説いせつしるされている。この文書ぶんしょには吉岡よしおかみなもと左衛門さえもんちょくつな吉岡よしおか又市またいちちょくじゅうという二人ふたり吉岡よしおかがわ人物じんぶつと、松平まつだいら忠直ただなお家臣かしん無敵むてきりゅうごうがたな名手めいしゅ北陸ほくりく奥羽おうう有名ゆうめいであるとの肩書かたがきの宮本みやもと武蔵むさし登場とうじょうする。洛外らくがい下松しもまつのくだりはしるされていない。また試合しあい内容ないよう碑文ひぶんまったことなるため、ちょくつなせい十郎じゅうろうちょくじゅうでん七郎しちろうであると単純たんじゅん対応たいおうづけすることはできない。要約ようやくすると以下いかとおり。

みなもと左衛門さえもんちょくつなとの試合しあい結果けっか武蔵むさしがくからだい出血しゅっけつし、ちょくつな勝利しょうり引分ひきわけの2つの意見いけんた。ちょくつなさい試合しあいのぞんだが武蔵むさしはこれを拒否きょひし、又市またいちちょくじゅうせん希望きぼうした。しかしちょくじゅうせんでは武蔵むさし逃亡とうぼうちょくじゅう不戦勝ふせんしょうとなった。」

これは宮本みやもと武蔵むさし吉岡よしおか試合しあいをしけたという内容ないよう最初さいしょ史料しりょうである。ただし、『吉岡よしおかつたえ』は朝山あさやま三徳みつのり鹿島かしまはやしひとしというはら史料しりょう不明ふめい武芸者ぶげいしゃ同列どうれつ宮本みやもと武蔵むさしかたられ、前述ぜんじゅつのようにその肩書かたがきはかたな使つかうことをのぞ現実げんじつから乖離かいりしており、創作そうさく可能かのうせいがある。この史料しりょう昭和しょうわになり司馬しばりょう太郎たろう小説しょうせつしんせつ宮本みやもと武蔵むさし』の題材だいざいにしたことから、武蔵むさしがわ記録きろくたいする吉岡よしおかがわ記録きろくとして紹介しょうかいされる機会きかいおおい。

また巷間こうかんには、武蔵むさし吉岡よしおかせんけとする逸話いつわ伝承でんしょうされている。

  • 日夏ひなつしげるだかとおる元年がんねん1716ねん)にあらわした『本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』には、巷間こうかんつたわる武芸者ぶげいしゃ逸話いつわ収録しゅうろくされているが、ここに武蔵むさし吉岡よしおかけたふたつのはなししるされている。
  • 柏崎かしわざきひさしが1740年代ねんだい編纂へんさんした『古老ころう茶話ちゃばなし』も巷間こうかん伝承でんしょう記録きろくしたものであるが、宮本みやもと武蔵むさし吉岡よしおか兼房かねふさ対戦たいせんしるされており、結果けっかはやはりけとしるされている。

また『たけこうでん』には道家みちやすみ左衛門さえもん説話せつわとして、うたいはつよるせきでの雑談ざつだんで、志水しみず伯耆ほうきから武蔵むさしさきせい十郎じゅうろうからたれたというはなしがあるが本当ほんとうか、と武蔵むさしたずねられ武蔵むさし否定ひていするはなし記述きじゅつされている。『たけこうでん』のはなししたがえば、晩年ばんねん武蔵むさし弟子でしとうさかんに吉岡よしおか勝利しょうりしたことをかたっていたが、武蔵むさし生前せいぜん巷間こうかんに「吉岡よしおか勝利しょうりした」という異説いせつがあったとかんがえることができる。

その吉岡よしおか

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小倉こくら碑文ひぶん』や『兵法ひょうほうだいたけしゅうげんしんこう伝来でんらい』『たけこうでん』には武蔵むさしとのたたかいで吉岡よしおかえたとあるが、吉岡よしおかがその存続そんぞくしたことは『駿河するが故事こじろくとう、いくつかの史料しりょうからも推測すいそくできる。それらの史料しりょうによると、慶長けいちょう19ねん1614ねん)に禁裏きんりでの一般いっぱんにも開放かいほうされた猿楽さるがく興行こうぎょうで、吉岡よしおか清次郎せいじろう重賢しげかたけんほう)なるもの警護けいごものいさかいをこしてころされるという事件じけんがあって、これによりへいじゅつ吉岡よしおかほろんだとあり、武蔵むさしせん以降いこう吉岡よしおか存続そんぞくしている。

本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』にも猿楽さるがく興行こうぎょう異説いせつがあり、事件じけんこしたのは吉岡よしおかまた三郎さぶろう兼房かねふさであり、京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら勝重かつしげ事件じけん現場げんば吉岡よしおか一族いちぞくものおおたが、さわぎたてず加勢かせいしなかったため吉岡よしおか一族いちぞく不問ふもんにしたとある。このせつるならば武蔵むさしせん猿楽さるがく興行こうぎょう事件じけん以降いこう吉岡よしおか存続そんぞくしている。

吉岡よしおかつたえ』にも同様どうよう記録きろくがあり、吉岡よしおか清次郎せいじろうじゅうけん事件じけんこし、徳川とくがわ家康いえやすいのちによりへいじゅつ指南しなん禁止きんしされたが吉岡よしおか一族いちぞく断絶だんぜつまぬかれたとある。さら翌年よくねんだいさかじん吉岡よしおかみなもと左衛門さえもんちょくつな吉岡よしおか又市またいちちょくじゅう兄弟きょうだい豊臣とよとみがわにつき大坂おおさかじょう篭城ろうじょう落城らくじょうとともに京都きょうと西洞院にしのとういんもど染物そめもの家業かぎょうとすることになったとあり[注釈ちゅうしゃく 18]、このせつでも武蔵むさしせん猿楽さるがく興行こうぎょう事件じけん以降いこう吉岡よしおか存続そんぞくしている。

かく文書ぶんしょ比較ひかく

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文書ぶんしょめい 執筆しっぴつねん 執筆しっぴつ編者へんしゃ だいいちせん だいせん だいさんせん 吉岡よしおか
対戦たいせんしゃ 結果けっか 対戦たいせんしゃ 結果けっか 対戦たいせんしゃ 結果けっか
小倉おぐら碑文ひぶん うけたまわおう3ねん
(1654ねん
宮本みやもと伊織いおり 吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう 吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう 引退いんたい
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
吉岡よしおかでん七郎しちろう 吉岡よしおか伝七でんしちろう 死亡しぼう
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
吉岡よしおかまた七郎しちろう[注釈ちゅうしゃく 19] 宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり 断絶だんぜつ
吉岡よしおかつたえ さだなが元年がんねん
(1684ねん
福住ふくずみ道祐どうゆう 吉岡よしおかただしつな 宮本みやもと武蔵むさし 出血しゅっけつ
吉岡よしおかただしつな 勝利しょうり
引分ひきわけ両論りょうろん
吉岡よしおかただしじゅう 宮本みやもと武蔵むさし 逃亡とうぼう
吉岡よしおかただしじゅう 不戦勝ふせんしょう
なし 存続そんぞく
本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん
せつ
正徳しょうとく4ねん
(1714ねん)
日夏ひなつしげるだか 吉岡よしおか 引分ひきわけ なし 存続そんぞく
兵法ひょうほうだい
たけしゅうげんしん
おおやけ伝来でんらい
とおる12ねん
(1727ねん
二天にてん一流いちりゅう師範しはん
黒田くろだ藩士はんし
丹治たんじみねひとし
吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう 吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう 引退いんたい
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
吉岡よしおかでん七郎しちろう 吉岡よしおか伝七でんしちろう 死亡しぼう
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
吉岡よしおかまた七郎しちろう[注釈ちゅうしゃく 19] 宮本みやもと武蔵むさし門人もんじん
退却たいきゃく成功せいこう
断絶だんぜつ
古老ころう茶話ちゃばなし 1740年代ねんだい 柏崎かしわざきひさし 吉岡よしおか兼房かねふさ 引分ひきわけ なし
たけこうでん たかられき5ねん
(1755ねん
二天にてん一流いちりゅう師範しはん
松井まつい家臣かしん
豊田とよだただしおさむ
吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう 吉岡よしおかきよし十郎じゅうろう 引退いんたい
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
吉岡よしおかでん七郎しちろう 吉岡よしおか伝七でんしちろう 死亡しぼう
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
吉岡よしおかまた七郎しちろう[注釈ちゅうしゃく 19] 吉岡よしおかまた七郎しちろう 死亡しぼう
宮本みやもと武蔵むさし 勝利しょうり
断絶だんぜつ

巖流島がんりゅうじま

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巌流島がんりゅうじま船島ふなじま近辺きんぺん古地こち伊能いのう抜粋ばっすい)1821
巖流島がんりゅうじま決闘けっとう

武蔵むさしおこなった試合しあいなかもっとひろられているものは、ぞくに「巖流島がんりゅうじま決闘けっとう」といわれるものである。これは慶長けいちょう年間ねんかん当時とうじ豊前ぶぜん小倉こくらはんりょうであった舟島ふなじまで、いわりゅう[注釈ちゅうしゃく 11]なる兵法ひょうほうしゃたたかったとされるものである。

試合しあいおこなわれた時期じきについては諸説しょせつあり、さだかではない。

  • とおる12ねん(1727ねん)に丹治たんじみねひとしによってしるされた、黒田くろだはん二天にてん一流いちりゅうつたわる伝記でんき丹治たんじみねひとし筆記ひっき』では「べんじょじゅうきゅうさい」と記述きじゅつしており、ここから計算けいさんすると慶長けいちょう7ねん(1602ねん)となる。
  • 天明てんめい2ねん(1782ねん)に丹羽にわ信英のぶひでによってしるされた、おなじく二天にてん一流いちりゅうつたわる伝記でんき兵法ひょうほう先師せんし伝記でんき』では「慶長けいちょうろくねん先師せんしじゅうはちさい」と記述きじゅつしており、慶長けいちょう6ねん(1601ねん)となる。

これらのせつでは武蔵むさしきょうのぼ吉岡よしおか道場どうじょう試合しあいをするまえじゅうだいころ巖流島がんりゅうじま試合しあいおこなわれたこととなる。

一方いっぽう熊本くまもとはん二天にてん一流いちりゅうつたわる武蔵むさし伝記でんき、『たけこうでん』では試合しあい慶長けいちょう17ねん(1612ねん)とされる。同様どうよう熊本くまもとはん二天にてん一流いちりゅうつたわる武蔵むさし伝記でんき、『二天にてん』では慶長けいちょう17ねん(1612ねん)4がつとされる。これらのせつでは武蔵むさしきょうのぼったのち巖流島がんりゅうじま試合しあいおこなわれたことになる。また『二天にてんない試合しあい前日ぜんじつしるされた武蔵むさし書状しょじょうとされる文章ぶんしょうに4がつ12にちしるされており、ここから一般いっぱん認知にんちされ記念きねんともなっている慶長けいちょう17ねん4がつ13にちせつとなったが、せつして信頼しんらいせいたかいという根拠こんきょはない。

この試合しあいしるしたもっとふる史料しりょうである『小倉おぐら碑文ひぶん』の内容ないよう要約ようやくすると、

いわりゅう名乗なのへいじゅつ達人たつじん武蔵むさし真剣しんけん勝負しょうぶもうんだ。武蔵むさしは、貴方あなた真剣しんけん使用しようしてかまわないが自分じぶん木刀ぼくとう使用しようするとい、かた勝負しょうぶ約束やくそくわした。 長門ながと豊前ぶぜん国境こっきょう海上かいじょうふねしまというしまがあり、両者りょうしゃ対峙たいじした。いわりゅうさんしゃく真剣しんけん使つか生命せいめい技術ぎじゅつくしたが、武蔵むさし電光でんこうよりはや木刀ぼくとういちげき相手あいてころした。以降いこうぞくふねしまいわりゅうしましょうするようになった。

とある。

小倉こくら碑文ひぶん』のつぎふる記録きろく試合しあい当時とうじ門司もじじょうだいであった沼田ぬまたのべもと寛永かんえい元年がんねん(1624ねんぼつ)の子孫しそん寛文ひろふみ12ねん1672ねん)に編集へんしゅうし、近年きんねんさい発見はっけんされた『沼田ぬまた』がある。内容ないよう現代げんだい要約ようやくすると以下いかとおり。

宮本みやもと武蔵むさしげんしん豊前ぶぜんこくかたな兵法ひょうほうになった。このころ、すでに小次郎こじろうというものいわりゅう兵法ひょうほうをしていた。門人もんじん同士どうしいさかいによって武蔵むさし小次郎こじろう試合しあいをすることになり、双方そうほう弟子でしれてこないとさだめた。

試合しあい結果けっか小次郎こじろうやぶれた。小次郎こじろう弟子でし約束やくそくまもいちにんていなかったが、武蔵むさし弟子でししまていてかくれていた。勝負しょうぶやぶ気絶きぜつしたのち蘇生そせいした小次郎こじろう武蔵むさし弟子でしたちみなころした。

それをつたいた小次郎こじろう弟子でしたちしまわた武蔵むさし復讐ふくしゅうしようとした。武蔵むさし門司もじまで遁走とんそう城代じょうだい沼田ぬまたのべもとたよった。のべもと武蔵むさし門司もじじょう保護ほごし、その鉄砲てっぽうたいにより警護けいご豊後ぶんごこく武蔵むさしおやである無二むにところまで無事ぶじおくとどけた。

武蔵むさしおくとどけられたのが豊後ぶんごこくのどこであったのかには以下いかせつげられる。

  • 豊後ぶんごこく杵築きつき細川ほそかわ領地りょうち慶長けいちょう年間ねんかんきね築城ちくじょうだい松井まつい康之やすゆき松井まついきょうちょうにんじられていた。宮本みやもとじょ藤原ふじわら一真かずまさ原文げんぶん宮本みやもとじょ藤原ふじわら一真かずまさ)が慶長けいちょう12ねん1607ねん)、細川ほそかわ家臣かしん友岡ともおかかんじゅうろうさづけたとうりゅう免許めんきょじょう現存げんそんする。これを沼田ぬまたの「武蔵むさししん無二むにさるしゃ」とするならば、武蔵むさし杵築きつきもとおくられたことになる。
  • 当時とうじ日出にっしゅつはんおもであり、細川ほそかわ忠興ただおき義弟ぎていであった木下きのしたのべしゅん[注釈ちゅうしゃく 20]慶長けいちょう18ねん(1613ねん)の日記にっきのべしゅんつかえていたなる人物じんぶつのことがしるされている。これを沼田ぬまたの「武蔵むさししん無二むにさるしゃ」とするならば、試合しあい当時とうじ豊後ぶんご日出にっしゅつ在住ざいじゅうしていたした武蔵むさしおくられたことになる。

様々さまざま武芸者ぶげいしゃ逸話いつわ収集しゅうしゅうした『本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』(1716ねん)にも巖流島がんりゅうじま決闘けっとう伝説でんせつしるされており、松平まつだいらただしさかえ家臣かしん中村なかむらまもる十郎じゅうろうみぎ衛門えもんいわくとしょうして、『沼田ぬまた』の記述きじゅつ同様どうよう単独たんどく渡島ととう巖流がんりゅうたい武蔵むさしがわおおくの仲間なかまとも舟島ふなしまわたっている様子ようすかたられている。

武将ぶしょう感状かんじょう』(1716ねん熊沢くまさわあわあんちょ)では、武蔵むさし細川ほそかわ忠利ただとしつかきょうから小倉こくらおもむ途中とちゅう佐々木ささききしりゅうから挑戦ちょうせんけたので、舟島ふなじまでの試合しあいやくし、武蔵むさしかいけずったしゃくすんいちしゃくはちすんほん木刀ぼくとうで、きしりゅうさんしゃくあまりの太刀たちたたかって武蔵むさしったとしている。

江戸えど時代じだい地理ちり学者がくしゃ古川ふるかわ古松こまつのきが『二天にてん』とほぼどう時代じだい天明てんめい3ねん1783ねん)に『西遊せいゆう雑記ざっき』という九州きゅうしゅう紀行きこうぶんしるした。ここに当時とうじ下関しものせきいたという巖流島がんりゅうじま決闘けっとうかんする民間みんかん伝承でんしょう記録きろくされている。あくまでも試合しあいから100ねん以上いじょうった時代じだい民間みんかん伝承でんしょう記録きろくであり、史料しりょうとしての信頼しんらいせいひくいが、近年きんねんさい発見はっけんされた『沼田ぬまた』の記述きじゅつ類似るいじしている。内容ないよう現代げんだいやくすると以下いかとおりである。

いわ龍島たつじまむかし舟島ふなじまばれていたが、宮本みやもと武蔵むさしというかたなじゅつしゃ佐々木ささきいわりゅう武芸ぶげい論争ろんそうをし、このしまかたなじゅつ試合しあいをし、いわりゅう宮本みやもところされた。えんのあるものが、いわりゅうはかつくり、地元じもと人間にんげんいわ龍島りゅうしまぶようになったという。

赤間あかませき下関しものせき)で地元じもと伝承でんしょういたが、おおくの書物しょもつ記述きじゅつとはちがった内容ないようであった。いわりゅう武蔵むさし約束やくそくをし、伊崎いざきより舟島ふなじまわたろうとしたところ、うらしゃが「武蔵むさし弟子でし大勢おおぜいれてさきほど舟島ふなじまわたりました、多勢たぜい無勢ぶぜい一人ひとりではとてもてきいません、おかえりください」といわりゅうめた。

しかしいわりゅうは「武士ぶし二言にごんはない、かた約束やくそくした以上いじょう今日きょうわたらないのは武士ぶしはじ、もし多勢たぜいにてわたしつならじるべきは武蔵むさし」とって強引ごういん舟島ふなしまわたった。

うらじんったとおり、武蔵むさし弟子でしよんにん加勢かせいをして、ついにいわりゅうたれた。しかしいわりゅうめたうらじんたちがいわりゅう義心ぎしんかんはかきずいて、いまのようにいわ龍島りゅうしまぶようになった。

真偽しんぎほどはわからないが、地元じもと伝承でんしょうをそのまましるし、後世こうせい参考さんこうとする。あるもの宮本みやもと子孫しそんいま小倉おぐら家中いえじゅうにあり、武蔵むさしはかいわ龍島りゅうしま方向ほうこういているという。

たけこうでん』には、巖流島がんりゅうじまでの勝負しょうぶ詳述しょうじゅつされている。これによると

巖流がんりゅう小次郎こじろう富田とみたぜいげん家人かじんで、つねいきおいげん太刀たちつとさんしゃく太刀たちあつかえるようになり、18さい自流じりゅう巖流がんりゅうごうした。その小倉おぐら城主じょうしゅ細川ほそかわ忠興ただおきられ小倉おぐらとどまった。

慶長けいちょう17ねんきょうより武蔵むさしちちえん細川ほそかわ家老がろう松井まついきょうちょうたず小次郎こじろうとの勝負しょうぶねがた。きょうちょう武蔵むさし屋敷やしきめ、御家おいえ老中ろうじゅう寄合よりあい忠興ただこうこうつたわり、向島むこうじま舟島ふなしま)で勝負しょうぶをすることになった。勝負しょうぶしまちかづくことはかたきんじられた。

勝負しょうぶ前日ぜんじつきょうちょうから武蔵むさしに、勝負しょうぶ許可きょかと、明日あした小次郎こじろう細川ほそかわふね武蔵むさし松井まついふねしまわたるようにつたえられた。武蔵むさしよろこんだが、すぐに小倉おぐらった。みな滞在たいざいちゅういわおりゅうすごさをった武蔵むさしげたのだとうわさした。武蔵むさし下関しものせき問屋とんや小林こばやし太郎たろうみぎ衛門えもんもとうつっていた。きょうちょうには、きょうちょうへの迷惑めいわく理由りゆう小倉おぐらったとつたえた。

試合しあい当日とうじつ勝負しょうぶ時刻じこくらせる飛脚ひきゃく小倉おぐらから度々たびたびおとずれても武蔵むさしおそくまでていた。やっときて、朝食ちょうしょくったのち武蔵むさしは、太郎たろうみぎ衛門えもんからとももらけず木刀ぼくとうつくった。その太郎たろうみぎ衛門えもんいえやつむら勘八かんぱちろう)をしゅとしてふねしまかった。

たされた小次郎こじろう武蔵むさし姿すがたると憤然ふんぜんとして「なんじレタリ(るのがおそい!)」とった。木刀ぼくとうって武蔵むさしなぎさよりると小次郎こじろうさんしゃくかたなさや水中すいちゅうてた。武蔵むさしは「小次郎こじろうタリしょうなんゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎こじろうやぶれたり。つつもりならば大事だいじさやてはしないはずだ。)」とかたった。小次郎こじろうおこって武蔵むさし眉間みけんち、武蔵むさし鉢巻はちまきれた。同時どうじ武蔵むさし木刀ぼくとう小次郎こじろうあたまにぶつけた。たおれた小次郎こじろうちかづいた武蔵むさし小次郎こじろうりかかり、武蔵むさしひざじょうあわせころもすそった。武蔵むさし木刀ぼくとう小次郎こじろうわきほねれた小次郎こじろう気絶きぜつした。

武蔵むさし小次郎こじろうくちはなぶたって死活しかつうかがったのち検使けんし一礼いちれいし、ふねって帰路きろ半弓はんきゅうかけられたがつかまらなかった。

このはなしは、武蔵むさし養子ようし伊織いおり出自しゅつじ泥鰌どじょうりのわらわであったというはなしともに、たたかいのとき武蔵むさししまわたるときのふねしゅであったとする小倉こくら商人しょうにんむら勘八かんぱちろうなる人物じんぶつが、正徳しょうとく2ねん(1712ねん)にかたったものとしるされている。『たけこうでん』で慶長けいちょう17ねん(1612ねん)におこなわれたとされる巌流がんりゅうとのたたかいでしゅだったものが100ねんせいおさむ祖父そふ豊田とよだただしつよしかたったはなしとされている。かりに、この勝負しょうぶ内容ないようが、事実じじつであれば、細川ほそかわでこれだけの事件じけんこったにもかかわらず、それについての記述きじゅつが『たけこうでん』の編集へんしゅう当時とうじに、細川ほそかわ家中かちゅうせいつよしせいおさむつかえる松井まつい家中かちゅうになく、はんがいあやしげな人物じんぶつからの伝聞でんぶんしかなかったことになる。また、前述ぜんじゅつの『沼田ぬまた』の内容ないようともおおきくことなっている。

たけこうでん』では武蔵むさし弟子でしたちがかたったとされる晩年ばんねん武蔵むさし逸話いつわおお記載きさいされているが、いわりゅうとの勝負しょうぶについては、むら勘八かんぱちろうはなし以外いがい弟子でしからの逸話いつわはなく、松井まつい家臣かしん田中たなかひだり太夫たゆう幼少ようしょうころ記憶きおくとして、松井まついきょうちょう小次郎こじろうとの試合しあいねが武蔵むさしが、御家おいえ老中ろうじゅう寄合よりあいでの決定けっていらず下関しものせきわたり、勝負しょうぶのちきょうちょうしょたてまつったというみじかはなしのみ記載きさいされているのみである。これは、晩年ばんねん武蔵むさし度々たびたび吉岡よしおかとの勝負しょうぶかたっていたという逸話いつわ対照たいしょうてきであり、『五輪ごりんしょ』にいわりゅうとの勝負しょうぶについての記述きじゅつまったくない事実じじつかんがえると晩年ばんねん武蔵むさし舟島ふなじまでのいわりゅうとの勝負しょうぶについてみずかかたることがほとんどなかったと推測すいそくすることができる。

本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』(1716ねん)、『兵法ひょうほうだいたけしゅうげんしんこう伝来でんらい』(1727ねん)、『たけこうでん』(1755ねん完成かんせいとうによって成長せいちょうしていったいわりゅう出自しゅつじ試合しあい内容ないようは、『たけこうでん』をさい編集へんしゅうした『二天にてん』(1776ねん)によって、いわりゅうくわしい出自しゅつじ氏名しめい佐々木ささき小次郎こじろうとしたこと、武蔵むさし手紙てがみ慶長けいちょう17ねん4がつ13にち試合しあいおこなわれたこと、御前ごぜん試合しあいとしての詳細しょうさい試合しあい内容ないようなど、おおくの史的してき価値かちうたがわしい内容ないようによって詳述しょうじゅつされた。『二天にてん』が詳述しょうじゅつしたいわりゅうとの試合しあい内容ないようは、明治めいじ42ねん(1909ねん熊本くまもと宮本みやもと武蔵むさし遺蹟いせき顕彰けんしょうかい編纂へんさんによる『宮本みやもと武蔵むさし』ではら資料しりょうひとつとなりそのまま史実しじつとされ、さらに吉川よしかわ英治えいじ小説しょうせつ宮本みやもと武蔵むさし』でその内容ないようもちいたことからひろられるようになった。

また、様々さまざま文書ぶんしょいわりゅう佐々木ささき呼称こしょうするようになるのは、もとぶん2ねん(1737ねん巖流島がんりゅうじま決闘けっとう伝説でんせつをベースとした藤川ふじかわ文三郎ぶんざぶろうさく歌舞伎かぶき敵討かたきうち巖流島がんりゅうじま』が大阪おおさか上演じょうえんされて以降いこうである。この作品さくひんではそれぞれに「月本つきもとたけ蔵之助くらのすけ」「佐々木ささき巖流がんりゅう」という役名やくめいがつけられ、おやころされたたけ蔵之助くらのすけいわおりゅう復讐ふくしゅうするという筋立すじだてがつけられている。

史料しりょう比較ひかくすると記述きじゅつ以下いかのような差異さいみとめられる。

文書ぶんしょめい 執筆しっぴつねん 執筆しっぴつしゃ編者へんしゃ 宮本みやもと武蔵むさし 巖流がんりゅう
年齢ねんれい 加勢かせい 名称めいしょう 年齢ねんれい 出自しゅつじ
小倉おぐら碑文ひぶん うけたまわおう3ねん
(1654ねん
宮本みやもと伊織いおり 不明ふめい 武蔵むさしいちにん いわりゅう 不明ふめい へいじゅつ達人たつじん
沼田ぬまた 寛文ひろふみ12ねん
(1672ねん
熊本くまもと藩士はんし沼田ぬまた家人かじん[注釈ちゅうしゃく 21] 不明ふめい 武蔵むさし弟子でしたちかくれてていた 小次郎こじろう 不明ふめい 豊前ぶぜん兵法ひょうほう師範しはん
こう海風かいふうそう 宝永ほうえい元年がんねん
(1704ねん
吉田よしだ重昌しげまさ じゅうはちさい 武蔵むさしいちにん 上田うえだはじめいれ 不明ふめい 武蔵むさし批判ひはんし、無二むに因縁いんねんがある長門ながと兵法ひょうほう師範しはん
本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん 正徳しょうとく4ねん
(1714ねん)
日夏ひなつしげるだか 不明ふめい 武蔵むさし一人ひとり(小倉こくら碑文ひぶん転記てんき)」「仲間なかまれてきていた」の両論りょうろん併記へいき 巖流がんりゅう 不明ふめい 兵法ひょうほうづか
兵法ひょうほうだいたけしゅうげんしんこう伝来でんらい とおる12ねん
(1727ねん
丹治たんじみねひとし じゅうきゅうさい 武蔵むさしいちにん 津田つだ小次郎こじろう 不明ふめい 無二むにおそれた長門ながと兵法ひょうほう師範しはん
たけこうでん たかられき5ねん
(1755ねん
豊田とよだただしおさむ じゅうきゅうさい 武蔵むさしいちにん 巖流がんりゅう小次郎こじろう 不明ふめい 富田とみたぜいげん弟子でし細川ほそかわ忠興ただおき登用とうようした豊前ぶぜん兵法ひょうほう師範しはん
二天にてん 安永やすなが5ねん
(1776ねん
豊田とよだけいえい じゅうきゅうさい 武蔵むさしいちにん 巖流がんりゅう小次郎こじろう
佐々木ささき小次郎こじろう
じゅうはちさい 富田とみたぜいげん弟子でし細川ほそかわ忠興ただおき登用とうようした豊前ぶぜん兵法ひょうほう師範しはん
兵法ひょうほう先師せんし伝記でんき 天明てんめい2ねん
(1782ねん
丹羽にわ信英のぶひで じゅうはちさい 武蔵むさしいちにん 津田つだ小次郎こじろう 不明ふめい 無二むに幾度いくどたたか決着けっちゃくしなかった豊前ぶぜん兵法ひょうほうしゃ
西遊せいゆう雑記ざっき 天明てんめい3ねん
(1783ねん
古川ふるかわ古松こまつのき 不明ふめい 門人もんじんよんにん與力よりき 佐々木ささきいわりゅう 不明ふめい 伊崎いざきから渡島ととうした(長門ながとがわの)武芸者ぶげいしゃ

人物じんぶつ

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民間みんかん伝承でんしょう

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武蔵むさしにゆかりのある土地とち武道ぶどうなどでかたられることがあるが、明確めいかく根拠こんきょ史実しじつしるしたとされる史料しりょうもとづくものではない。

  • 人並ひとなはずれた剛力ごうりきぬし片手かたて刀剣とうけん使つかいこなすことができた。これがのち二刀流にとうりゅう技術ぎじゅつすにいたった。
  • まつりで太鼓たいこほんばち(ばち)をもちいてたたかれているのをて、これを剣術けんじゅつもちいるという天啓てんけい二刀流にとうりゅう発案はつあんした。
  • 自身じしん剣術けんじゅつ極致きょくちたっしていたころ修練しゅうれんのために真剣しんけんわりに竹刀しないってみると、一度いちどっただけで竹刀しないこわれてしまった。そのため木剣ぼっけん使つかはじめたという。
  • 立会たちあいをかえすうちに次第しだい木剣ぼっけん使用しようするようになり、武芸者ぶげいしゃ勝負しょうぶしなくなる29さい直前ちょくぜんころには、もっぱら巖流島がんりゅうじまたたかいでもちいたかい木刀ぼくとう自分じぶん復元ふくげん[注釈ちゅうしゃく 22]剣術けんじゅつもちいていた。
  • 吉岡よしおか断絶だんぜつは、武蔵むさし当時とうじにおける、武者むしゃ修行しゅぎょう礼儀れいぎ無視むししたかたち勝負しょうぶいどんだため、さながら小規模しょうきぼ合戦かっせんにまで勝負しょうぶ規模きぼ拡大かくだいし、吉岡よしおかがそれにやぶれてしまったためである。

芸術げいじゅつとしての武蔵むさし

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枯木かれきもず

武蔵むさし没後ぼつご21ねん寛文ひろふみ6ねん1666ねん)にかれた『海上かいじょう物語ものがたり』に武蔵むさしえがはなしすでしるされている。また『たけこうでん』には、「たけ公平こうへいきょ閑静かんせいして(中略ちゅうりゃく連歌れんがあるい書画しょが小細工こざいくとう日月じつげつりょうす、ゆえたけこうさくくら楊弓ようきゅう木刀ぼくとう連歌れんが書画しょが数多すうたあり」とかれている。

現在げんざいのこ作品さくひんだい部分ぶぶん晩年ばんねんさくかんがえられ、熊本くまもとでの作品さくひんは、細川ほそかわ家老がろうはちだいじょうおもであった松井まつい晩年ばんねん武蔵むさし世話せわをした寺尾てらおもとむ助信すけのぶゆき寺尾てらお中心ちゅうしんのこされたものが所有しょゆうしゃえながら現在げんざいまでつたえられている。

水墨すいぼくについては「二天にてん」のごうもちいたものがおおい。筆致ひっち画風がふうしるし署名しょめいとう真贋しんがんたいする研究けんきゅうもなされているが明確めいかく結論けつろんされていない。

主要しゅようとして、『』『正面しょうめん達磨だるま』『面壁めんぺき達磨だるま』『捫腹布袋ほてい』『あしかり』(以上いじょうは「えいあお文庫ぶんこくら)、『あし達磨だるま』『』(以上いじょう松井まつい文庫ぶんこぞう)、『枯木かれきもず』(和泉いずみ久保くぼそう記念きねん美術館びじゅつかんくら)、『しゅうしげる叔図』『ゆうかも』『布袋ほてい』(以上いじょう岡山おかやま県立けんりつ美術館びじゅつかんくら)、『布袋ほていかん闘鶏とうけい』(福岡ふくおか美術館びじゅつかんくら)などがある。

しょとしては、『長岡ながおかきょうちょうあて書状しょじょう』(はちだい市立しりつ博物館はくぶつかんくら)、『有馬ありま直純なおずみあて書状しょじょう』(吉川よしかわ英治えいじ記念きねんかんくら)、『独行どっこうどう』(熊本くまもと県立けんりつ美術館びじゅつかんくら)、『せん』(松井まつい文庫ぶんこぞう)がしんさくみとめられている。

伝来でんらいたしかな武蔵むさしさく工芸こうげいひんとしては、くろうるしぬりの「くら」、舟島ふなじまでのたたかいにもちいた木刀ぼくとうしたとされる「木刀ぼくとういち二天にてん一流いちりゅう稽古けいこよう大小だいしょういちくみの「木刀ぼくとう」が松井まついのこされている。また、武蔵むさしさくとされる海鼠なまことおる(つば)が島田しまだ美術館びじゅつかんひとしにいくつかのこされているが、武蔵むさし佩刀はかせ伯耆ほうきやすつな」にけられていたとされる、寺尾てらお伝来でんらいしていたどうせいの「海鼠なまことおる鐔」(個人こじんぞう)が熊本くまもとけん文化財ぶんかざい指定していされている。

芦雁図 芦雁図
あしかり

その

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たけ

兵法ひょうほうだいたけしゅうげんしんこう伝来でんらい』は、武蔵むさしたけを5.94しゃく換算かんさん曲尺かねじゃくやく180センチメートル相当そうとう)であったとしるしている。

風体ふうたいなど

武将ぶしょう渡辺わたなべみゆきあん[注釈ちゅうしゃく 23]対話たいわしゅう渡辺わたなべみゆきあん対話たいわ』の宝永ほうえい6ねん9がつ10日とおかグレゴリオれき換算かんさん1709ねん10月12にち)の対話たいわによると、武蔵むさしとは以下いかのようなものであったという。

竹村たけむら武藏むさし[注釈ちゅうしゃく 24]といふものあり。自己じこつるぎじゅつけんじゆつ練磨れんまれんまして名人めいじんめいじんなり但馬たじまたじまくらへこうさふらひにてうんいふは井目せいもくせいもく武藏むさしつよつよし。」「しかしかるにだいいちきずきずあり。洗足せんそくせんそく行水ぎょうずいぎやうずいいやひて、一生いっしょういつしやう沐浴もくよくもくよくすることなし。そとはたしにてよこれこうさふらへはこれこれぬぐえのごおけおくなりおっとゆえそれゆゑ衣類いるいよこれさるまをすゆゑその色目いろめいろめかくためためてん鵡織てんむおり兩面りょうめんりやうめん衣服いふくおっとゆえそれゆゑ歴々れきれきうとうとして近付ちかづきちかづけず。」 — 『渡辺わたなべみゆきあん対話たいわ宝永ほうえいろくねんきゅうがつじゅうにちじょう
武蔵むさしぞう一乗寺いちじょうじさがまつ古木ふるきはちだい神社じんじゃ境内けいだい京都きょうと左京さきょう一乗寺松原いちじょうじまつはらまち)に所在しょざい
巌流島がんりゅうじま設置せっちされている宮本みやもと武蔵むさし佐々木ささき小次郎こじろう銅像どうぞうみぎ武蔵むさしぞうひだり小次郎こじろうぞう

これによれば、剣術けんじゅつ名人めいじんであるが、欠点けってんが1つある。あしあらうことや行水ぎょうずいきらいで、ましてや沐浴もくよくをすることなどありない。裸足はだしそと出歩であるき、からだなどのよごれはぬのなにかでぬぐってませている。よごれをかくすためにてん鵡織で両面りょうめん仕立したての衣服いふくているが、かくしおおせるわけもなく、それゆええら方々かたがたとお近付ちかづきになれない、という。武蔵むさし生涯しょうがい風呂ふろはいらなかったといわれているのは、この史料しりょうもとづいたはなしである[注釈ちゅうしゃく 25]。もっとも、『渡辺わたなべみゆきあん対話たいわ』の記述きじゅつにはおおくの史料しりょうによってられている当時とうじ世相せそう相容あいいれない矛盾むじゅんてんおおく、かか武蔵むさしひととなりにかんしても、実際じっさいこうあんかたったものかどうか、疑問ぎもんする研究けんきゅうしゃもある(※詳細しょうさいは「渡辺わたなべみゆきあん参照さんしょうのこと)。

試合しあい真偽しんぎ

二天にてん』は、大和やまとこく現在げんざい奈良ならけんじん宝蔵ほうぞういんりゅう槍術そうじゅつ使つかであるおくぞういん日栄にちえい伊賀いがこく現在げんざい三重みえけん西部せいぶじん鎖鎌くさりがま使つかである宍戸ししどぼう江戸えどひと柳生やぎゅうしんかげりゅう大瀬戸おおせと隼人はやとつじふうひだりすけらとの試合しあいしるしているが、『二天にてん』のげん史料しりょうである『たけこうでん』に記載きさいく、また、にそれを裏付うらづける史料しりょういことから、史実しじつではないとかんがえられている。

木刀ぼくとう

細川ほそかわ家老がろうのちはちだいじょうおもになった松井まついよせ依頼いらいにより、巌流島がんりゅうじま試合しあい使用しようした木刀ぼくとうしたとつたえられる武蔵むさし自作じさく木刀ぼくとう現在げんざいのこっている。1984ねん昭和しょうわ59ねん)には、熊本くまもとけんNHK総合そうごうテレビ時代じだいげき宮本みやもと武蔵むさし』の放送ほうそう記念きねんしてこの木刀ぼくとう複製ふくせい販売はんばいした。

円明えんめいりゅう時代じだい高弟こうてい

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  • 青木あおきじょうみぎ衛門えもん
  • 石川いしかわ左京さきょう
  • 竹村たけむら与右衛門ようえもん

創作そうさくへの影響えいきょう

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巌流島がんりゅうじまたたかいなど、武蔵むさしかかわる物語ものがたり江戸えど時代じだいから脚色きゃくしょくされて歌舞伎かぶき浄瑠璃じょうるり講談こうだんなどの題材だいざいにされ、吉川よしかわ英治えいじ1930年代ねんだい朝日新聞あさひしんぶん連載れんさいした小説しょうせつ宮本みやもと武蔵むさし』によって最強さいきょう青年せいねん剣士けんし武蔵むさしのイメージが一般いっぱんひろ定着ていちゃくした。

宮本みやもと武蔵むさし主題しゅだいとした作品さくひん

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小説しょうせつ

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映画えいが

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タイトル 公開こうかいねん 配給はいきゅう 監督かんとく 武蔵むさしやく
宮本みやもと武蔵むさし まき 1936ねん 新興しんこう 滝澤たきざわ英輔えいすけ あらしひろし寿郎としお
宮本みやもと武蔵むさし まき 1937ねん 日活にっかつ 稲垣いながきひろし 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし ふうまき 1937ねん 東宝とうほう 石田いしだ民三たみぞう 黒川くろかわ弥太郎やたろう
宮本みやもと武蔵むさし 草分くさわけの人々ひとびと 1940ねん 日活にっかつ 稲垣いながきひろし 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし 栄達えいたつもん 1940ねん 日活にっかつ 稲垣いながきひろし 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし けんこころ一路いちろ 1940ねん 日活にっかつ 稲垣いながきひろし 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし 一乗寺いちじょうじ決闘けっとう 1942ねん 日活にっかつ 稲垣いながきひろし 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし 決戦けっせん般若はんにゃざか 1942ねん だい 佐伯さえき幸三こうぞう 近衛このえじゅうよんろう
宮本みやもと武蔵むさし 二刀流にとうりゅう開眼かいがん 1943ねん 大映だいえい 伊藤いとう大輔だいすけ 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし 決闘けっとう般若はんにゃざか 1943ねん 大映だいえい 伊藤いとう大輔だいすけ 片岡かたおか千恵ちえぞう
宮本みやもと武蔵むさし 1954ねん 東宝とうほう 稲垣いながきひろし 三船みふね敏郎としお
ぞく宮本みやもと武蔵むさし 一乗寺いちじょうじけつ 1955ねん 東宝とうほう 稲垣いながきひろし 三船みふね敏郎としお
宮本みやもと武蔵むさし 完結かんけつへん 決闘けっとう巌流島がんりゅうじま 1956ねん 東宝とうほう 稲垣いながきひろし 三船みふね敏郎としお
宮本みやもと武蔵むさし[4] 1961ねん 東映とうえい 内田吐夢うちだとむ 中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ
宮本みやもと武蔵むさし 般若はんにゃざかけつ[4] 1962ねん 東映とうえい 内田吐夢うちだとむ 中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ
宮本みやもと武蔵むさし 二刀流にとうりゅう開眼かいがん[4] 1963ねん 東映とうえい 内田吐夢うちだとむ 中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ
宮本みやもと武蔵むさし 一乗寺いちじょうじけつ[4] 1964ねん 東映とうえい 内田吐夢うちだとむ 中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ
宮本みやもと武蔵むさし 巌流島がんりゅうじまけつ[4] 1965ねん 東映とうえい 内田吐夢うちだとむ 中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ
宮本みやもと武蔵むさし 1973ねん 松竹しょうちく 加藤かとうやすし 高橋たかはし英樹ひでき
タイトル 放映ほうえいねん 放送ほうそうきょく 武蔵むさしやく
宮本みやもと武蔵むさし 1970ねん NET 高橋たかはし幸治こうじ
宮本みやもと武蔵むさし 1975ねん フジテレビ[7] 市川いちかわ海老蔵えびぞう(10代目だいめ)
宮本みやもと武蔵むさし 1984ねん NHK 役所広司やくしょこうじ NHKしん大型おおがた時代じだいげき
宮本みやもと武蔵むさし 1990ねん テレビ東京てれびとうきょう 北大路きたおおじ欣也きんや 12あいだちょうワイドドラマ[6]
宮本みやもと武蔵むさし 2001ねん テレビ東京てれびとうきょう 上川かみかわ隆也たかや しん世紀せいきワイド時代じだいげき[6]
武蔵むさし MUSASHI 2003ねん NHK 市川いちかわ新之助しんのすけ (7代目だいめ) NHK大河たいがドラマ
宮本みやもと武蔵むさし 2014ねん テレビ朝日てれびあさひ 木村きむら拓哉たくや テレビ朝日てれびあさひ開局かいきょく55周年しゅうねん記念きねんドラマスペシャル

吹奏楽すいそうがく

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漫画まんが

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音楽おんがく

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その作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし60せんすべての詳細しょうさい経緯けいい戦績せんせき記録きろくのこっておらず2せん簡易かんい記載きさいまる。
  2. ^ 新免しんめんには藤原ふじわらみのるこうとするせつ(『徳大寺とくだいじ家系かけい』)、赤松あかまつ家臣かしん衣笠きぬがさ平田ひらた支流しりゅうせつ(『中興ちゅうこう系図けいず』)もある。
  3. ^ べんすけべんすけとも。
  4. ^ ひろし3ねん1846ねん以前いぜん養子ようし伊織いおり子孫しそん作成さくせい
  5. ^ 実父じっぷせつ養父ようふせつがある。
  6. ^ 東作ひがしさくとうで、武蔵むさし父親ちちおやを「平田ひらた武仁たけひと」とするせつがあるが武蔵むさし誕生たんじょう天正てんしょう8ねん(1580ねん))以前いぜんんでいる。また、それらの史料しりょうでは、武蔵むさし関係かんけい記述きじゅつ史料しりょうとの整合せいごうせいまったく、武蔵むさしかんしての史料しりょう価値かちはほとんど否定ひていされている。
  7. ^ 如水にょすい息子むすこ長政ながまさしたが関ヶ原せきがはら本戦ほんせんじょう黒田くろだぜい一員いちいんとしてたたかっていたとするせつもある。
  8. ^ 新免しんめん宇喜多うきた秀家ひでいえ配下はいかであったことから、それにしたがって西にしぐん参加さんかしたとのせつがあった。
  9. ^ 黒田くろだ家臣かしん立花たちばなみねひとし執筆しっぴつの『兵法ひょうほうだいたけしゅうげんしんこう伝来でんらい』(『丹治たんじみねひとし筆記ひっき』『たけしゅう伝来でんらい』ともばれる)では、黒田くろだ如水じょすいぐんぞくして豊後ぶんごこく石垣原いしがきはら現在げんざい大分おおいたけん別府べっぷ)で西にしぐん大友おおとも義統よしむねぐんとの合戦かっせん出陣しゅつじんし、出陣しゅつじんまえ逸話いつわとみらいしろめでの奮戦ふんせんりの物語ものがたりかたられている。
  10. ^ a b 天正てんしょう12ねん(1584ねん)に武蔵むさしまれたとかんがえると慶長けいちょう9ねん1604ねん)のことになる。
  11. ^ a b いわりゅうにはぞく佐々木ささき小次郎こじろう呼称こしょうがあるが後年こうねん芝居しばいづけられ定着ていちゃくしたもので根拠こんきょがない。また巖流がんりゅういわりゅう異字いじ表現ひょうげんで、史料しりょうによってはきしりゅうきしやなぎいわりゅうという呼称こしょうがある。
  12. ^ 従来じゅうらい豊臣とよとみかたとして参戦さんせんしたと通説つうせつごとかたられるが、根拠こんきょのない俗説ぞくせつである。
  13. ^ この試合しあいは『海上かいじょう物語ものがたり』では明石あかしで、『二天にてん』では江戸えどおこなわれたとつたえられる。ただし『二天にてん』のげん史料しりょうである『たけこうでん』にはこの内容ないよう記載きさいされていない。
  14. ^ 伊織いおり寛永かんえい8ねん1631ねん)20さい小笠原おがさわら家老がろうとなっている。
  15. ^ 当時とうじ日本橋にほんばし人形にんぎょうまち近辺きんぺんもと吉原よしわらとも。
  16. ^ 新町しんまち置屋おきやにいる遊女ゆうじょ雲井くもい馴染なじみで島原しまばららん直前ちょくぜん雲居くもい指物さしものふくろ依頼いらいしこれを騎馬きば出陣しゅつじんしたとある。
  17. ^ 一般いっぱんには家老がろう以上いじょう身分みぶんでなければ許可きょかされなかった。
  18. ^ 染物そめもの業者ぎょうしゃとなった吉岡よしおか一族いちぞく商業しょうぎょうてき成功せいこうし、現代げんだいにもその染色せんしょく業者ぎょうしゃのこる。ちょくつなひろめたとつたえられる憲法けんぽうしみ江戸えど時代じだいつうじて著名ちょめいとなり「憲法けんぽうしみ掻取かいどり」が公家くげ正装せいそうとしてもあつかわれるようになった。
  19. ^ a b c 正確せいかくには吉岡よしおかまたななろうのほか、武装ぶそうしたもん人数にんずうひゃくめいくわわっていたことになっている。
  20. ^ たかられき元年がんねん1751ねん日出ひのではん家老がろう菅沼すがぬままさしつね記録きろくしたひらせい杉原すぎはら系図けいず附言ふげん木下きのしたのべしゅんこうにも「剣術けんじゅつ宮本みやもととき流派りゅうはでんたまふ」と記載きさいされている。
  21. ^ 細川ほそかわ家老がろうだった沼田ぬまたのべもと記録きろく編集へんしゅう
  22. ^ 現物げんぶつ巖流島がんりゅうじま決闘けっとうのち紛失ふんしつした。
  23. ^ 実名じつめい渡辺わたなべしげる通称つうしょう久三郎きゅうさぶろう天正てんしょう10ねん1582ねん摂津せっつこく現在げんざい大阪おおさかきた中部ちゅうぶとうまれ。とう天竺てんじく巡礼じゅんれいしたとしょうし、宝永ほうえい8ねん1711ねん)に130さい死去しきょしたという。
  24. ^ 武蔵むさし円明えんめいりゅう弟子でし竹村たけむら与右衛門ようえもんとのせい混同こんどうしたというせつと、一時いちじ竹村たけむらせい名乗なのり、与右衛門ようえもん養子ようしであったというせつがある。
  25. ^ 沐浴もくよく宗教しゅうきょうてき行為こういである。また、「入浴にゅうよくこうにあるとおり、庶民しょみん風呂ふろはいるようになるのは江戸えど時代じだいになってからである。
  26. ^ 敵役かたきやくである荒神こうじん加藤かとう雅也まさや)が宮本みやもと武蔵むさし名乗なのる。

出典しゅってん

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  1. ^ a b いま鑑賞かんしょうできる宮本みやもと武蔵むさし 島田しまだ美術館びじゅつかん(2021ねん4がつ21にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶん』よみほっと(日曜にちよう別刷べつづり)2021ねん4がつ18にち1めん【ニッポンものがたり】「宮本みやもと武蔵むさし肖像しょうぞう剣聖けんせい脱力だつりょくとゆる体操たいそう
  3. ^ 慶長けいちょう7ねんどう9ねん黒田くろだはん分限ぶげんじょう
  4. ^ a b c d e 内田吐夢うちだとむ監督かんとく中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ主演しゅえんぜんさく
  5. ^ "宮本みやもと武蔵むさし". 日本にっぽん剣客けんかくでん. Episode 1. 1968ねん4がつ3にち. NET. 放送ほうそうきょく. 2024ねん5がつ14にち閲覧えつらんテレビドラマデータベース日本にっぽん剣客けんかくでんだい1宮本みやもと武蔵むさし
  6. ^ a b c d どうわくでは1980ねんおな原作げんさく中村なかむら錦之助きんのすけ萬屋よろずや錦之介きんのすけ主演しゅえん映画えいが作品さくひん放送ほうそうしている。
  7. ^ 歌舞伎座かぶきざテレビ映画えいが関西かんさいテレビ製作せいさく
  8. ^ 馬場ばばのぼる 宮本みやもと武蔵むさし おもしろブック付録ふろく カバーなし 昭和しょうわ28ねん 集英社しゅうえいしゃ | トムズボックス powered by BASE”. トムズボックス. 2024ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  9. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかいへん放送ほうそうじゅうねん 昭和しょうわとともに』』「暗転あんてんする戦局せんきょく」、p.330「年表ねんぴょう 昭和しょうわ18ねん(1943)」、日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、1977ねん、99-100ぺーじ 

研究けんきゅうしょ

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  • 池辺いけべ義象よしたか へん宮本みやもと武蔵むさし遺蹟いせき顕彰けんしょうかい編纂へんさん宮本みやもと武蔵むさし金港きんこうどう、1909ねん
  • 福原ふくはらきよしいずみ宮本みやもと武蔵むさし研究けんきゅう武蔵むさし顕彰けんしょう五輪ごりんかい、1964ねん
  • 冨永とみなが賢吾けんご史実しじつ宮本みやもと武蔵むさしひゃくいずみ書房しょぼう 1969ねん
  • 丸岡まるおか宗男むねお へん宮本みやもと武蔵むさし名品めいひん集成しゅうせい講談社こうだんしゃ、1977ねん
  • 岡田おかだ一男かずお加藤かとうひろし へん宮本みやもと武蔵むさしのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1983ねん
  • 原田はらだゆめはてしんせつ宮本みやもと武蔵むさしあし書房しょぼう、1984ねん
  • 谷口たにぐち覓『新免しんめん武蔵むさし藤原ふじわらげんしんじ 正伝せいでん私家版しかばん、1991ねん
  • 谷口たにぐち覓『史料しりょう考證こうしょう勧進かんじん宮本みやもと武蔵むさしげんしん私家版しかばん、1995ねん
  • 松延まつのぶへん校本こうほん五輪ごりんしょ私家版しかばん、2000ねん
  • 魚住うおずみたかしいたり宮本みやもと武蔵むさし日本人にっぽんじんみちぺりかんしゃ、2002ねん
  • 福田ふくだただししゅう宮本みやもと武蔵むさし研究けんきゅうろん文集ぶんしゅうれきとげ、2003ねん
  • 魚住うおずみたかしいたり定本ていほん五輪ごりんしょ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねん
  • 福田ふくだただししゅう宮本みやもと武蔵むさし研究けんきゅうだい2しゅうたけしゅう傳来でんらい』ブイツーソリューション、2005ねん
  • 魚住うおずみたかしいたり宮本みやもと武蔵むさし―「兵法ひょうほうみち」をきる』岩波書店いわなみしょてん、2008ねん
  • 長尾ながおつよし 宮本みやもと武蔵むさしかたる「五輪ごりんしょ」』PHP研究所けんきゅうじょ、2008ねん
  • 大森おおもり曹玄けんぜんよんしょう動静どうせい一致いっち-柳生やぎゅうてん武蔵むさしいわお p.48

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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